花と神父と狂った男
綺礼参戦。 「あれには絶対に触れないでおくれ」 言峰綺礼が初めて遠坂時臣の工房に足を踏み入れた時、何よりもまず最初に言われたのがその一言だった。 時臣が示した場所には立派な作りの棚があり、そこにはまるで菓子職人が果物をシロップでコーティングするかのように透明度の高い宝石で一つずつ花を包んだ物が所狭しと並べられていた。 「これは一体……」 「花だよ」 綺礼の問いかけに時臣はあっさりと答える。しかし声の調子に比べ、花が並んだ棚を見つめる碧眼は異様なほどの熱を帯びていた。 「私の大事な花だ」 そのことが妙に気になりつつも、未だ己の本質を知らない綺礼は師の言葉に首を縦に振る。 「……わかりました。気をつけます」 綺礼の返答に時臣は満足気な顔で頷き、新しい弟子に対して工房内の案内を再開した。 師とそんな会話を交わしたのも随分前のような気がする。 ともあれ当時はそれで終わってしまった話だったが、今この瞬間において、花の主を知った綺礼は己がまた違う感慨を抱いていることに気付いた。 目の前では遠坂から間桐へと養子に行った娘・桜と共に遠坂邸を訪れた客人・間桐雁夜がソファで背を丸めている。桜は実妹の訪問に機嫌を良くした凛に連れられて中庭へと繰り出していた。母親の葵もそんな少女達と共にこの場を辞しているため、客間にいるのは当主たる遠坂時臣と客人である間桐雁夜、そして時臣の弟子として紹介された言峰綺礼だけだ。 気に掛けるべき女性陣がいなくなったからか、それともそういうタイミングだったからなのか。雁夜は口を手で覆ったかと思うと、一言断ってから激しく咳き込み始めた。 一瞬、雁夜の事情を知らされていなかった綺礼は何事かと思ったものだったが、師の落ち着いた態度と、それに何より雁夜が嘔吐くのに合わせて彼の手の隙間から色とりどりの花が零れ落ちたのを目撃したことで僅かばかりの驚愕は得心へと変化した。 間桐雁夜―――この花吐き病発症者こそが時臣の工房に飾られていた花を生み出した者なのだ。あの時臣に異様な執着を抱かせる花の。 (……いや、時臣師が執着しているのは花ではなく本人の方か) 己が魔術の師を横目で眺め、綺礼は独りごちる。 今の時臣の双眸は穏やかなように見え、そのくせ実はギラギラと獲物を狙う蛇のよう。花に触れるなと忠告した時も大概だとは思ったが、優雅であることを己に義務付けている師にしてはあまりにも人間的且つ原始的な色の目だった。 (花吐き病の魔術師は確かに珍しい。しかしそれ程までに執着するようなものではないと思うのだが) あの棚に飾られていた花が花吐き病患者から出たものだと言うならば、魔術師≠ナある時臣が大事に保管しているのも何ら不思議ではない。何せあの花から自分達魔術師は魔力を得ることができるのだから。今後、聖杯戦争という大きな戦いを控えている身としては決しておかしなことではないだろう。 しかし時臣は明らかに違う=B あの目は魔力を求める魔術師の目ではない。花やそれを生み出す人物を己の魔力を補強するための道具として見ているならば、ここまで狂気染みた目などしないはずだ。特に師のような魔力的に逼迫していない魔術師ならば。にも拘わらず、綺礼の師はその碧眼で『間桐雁夜』を捉えていた。 何がそこまで遠坂時臣を狂わせているのだろう。 頭の片隅で他者の真意の奥底を探ろうとするのは、しかもそれに悦楽を感じるなど聖職者として褒められたことではないと声がするのだが、綺礼の思考は止まらない。 と、その時。雁夜が更に激しく咳き込んだことで綺礼の視線が師から間桐の次期当主へと移った。ぽとりと絨毯の上に落ちたのは雁夜の髪と同じく真っ白な色をした椿。 それを最後にして、雁夜の咳(嘔吐)は一段落したようだ。彼は懐紙で口元を軽く拭うと、「見苦しいものをお見せしたね」と綺礼に苦笑してみせた。時臣に対して何も言わないのは相手が既に自分の事情を知っているからだろう。 「いえ。花吐き病の方とお会いするのは初めてですが」 「まったくもって奇病≠セよね。ああ、すまない。こんなに汚してしまって……」 雁夜は片方しかない視線を綺礼から絨毯へと移し、己が吐き出した花々を視界に捉える。そしてそのまま花に手を伸ばしたため、綺礼はこの場で一番立場が低い己――雁夜は客、時臣は師であるから――が代わりに拾うべきだと判断し、雁夜の傍で膝を曲げた。 だが綺礼の手が花に触れるよりも早く、 「綺礼」 落ち着いた声がした。 否、込められた感情が激しすぎて逆に凪いでいるかのように思わせる声が綺礼の名を呼んだ。 「それに触るなと言ったはずだろう?」 「……時臣師」 綺礼は手を引っ込めると振り返って己の師を見る。時臣は緩やかに両目を細めて微笑を浮かべていた。 「言ったはずだね?」 「はい」 今ここで吐き出された花に対して時臣が「触れるな」と言ったことはない。それは綺礼も理解している。 だが時臣はかつて綺礼に工房内で大事に飾られている花に対して「触れるな」と厳命していた。そしてあれらの花はきっと間桐雁夜が過去に吐き出したものだ。つまり時臣にとって雁夜が吐き出す花は過去のものでも今のものでも等しく他人に触れて欲しくないものなのだろう。 なんて嫉妬深く、大きな独占欲か。 間桐雁夜は遠坂時臣の所有物ではないというのに。 師の中にある矛盾が面白く、綺礼は己の口角が上がるのを意識して抑える必要があった。微々たる努力でそれは成功し、綺礼は無表情のまま「申し訳ありません」と謝罪して一歩下がる。 綺礼が離れる代わりに時臣がソファから腰を上げる。どうやら自ら花の回収を行うようだ。 しかし綺礼は知らなかった。 かつて雁夜は己が吐き出した花をあまり深く考えずに時臣へと譲渡していた。所詮不要なものだとして。ただしそれは昔の話だ。時臣が禅城葵と結婚してからこちら、雁夜は時臣に手ずから花を渡したことはない。気に喰わない相手が欲しいと思っているものを容易く与えることに抵抗を感じていたからだ。しかも時臣は魔力的に逼迫している訳でもなく、また花を与えることで雁夜が何か特別な対価を受け取っていた訳でもない。 よって、綺礼は雁夜が時臣に対して放った台詞に少しばかり驚愕で心を揺らした。 「お前こそ触るな。遠坂時臣」 「雁夜……」 憮然とした声に時臣が悲しそうな顔をする。その表情はさながら「どうしてそんな意地悪を言うんだい?」と言ったところか。 「その花はお前のものじゃない」 「だが以前は私にくれただろう?」 「昔は昔だ。花はこちらで処分する」 「処分だなんて勿体無い。これは君の魔力の結晶で―――」 「お前にやるよりマシだ」 きっぱりと告げると、雁夜は「それに」と続けながら室内に入ってもつけっぱなしにしていた皮の手袋≠ゥら手を引き抜いた。相手に見せるため外向きにされた右の手の甲に浮かぶのは、赤い鉤爪のような模様が三つ描かれた不思議な紋様。 その意味を時臣も綺礼も知っていた。形は違えど、自分達の手の甲にも現れているそれは『令呪』―――どんな願いをも叶える願望機『聖杯』をめぐって行われる魔術師達の戦い『聖杯戦争』の参加者たる証である。 「雁夜、君もマスターに選ばれたのか」 「これでも一応、間桐の人間だからな。つまりお前とは敵同士って訳だ」 「だから私に花は譲れない、と?」 「敵に無償で魔力を与える奴がどこにいる」 ソファの肘掛に頬杖をついて雁夜が鼻を鳴らした。 そんな相手の態度に時臣は眉尻を下げる。 「かりや」 「そんな顔するなよ。別にお前と戦おうってつもりはない。俺は聖杯なんて欲しくないからな」 「?」 聖杯戦争の参加者らしからぬ物言いに時臣が首を傾げた。 「うちの爺は違うようだが、あっちは俺だけで抑えられる。そして俺自身に叶えたい望みは無い。ま、令呪が出た以上はサーヴァントを呼び出すつもりでいるし、その辺は適当にするさ。お前は根源に至るとかどうとか言う悲願があるんだろ? だったら好きなようにすればいい。ただし俺はお前を邪魔しない代わりにお前を助けたりもしない。この花もその一環だ」 「私としては魔力供給以前にその美しさに心惹かれるものがあるのだけどね」 「美しい、ねぇ。お前、昔からそう言うよな」 「おかしいかい?」 「おかしい」 雁夜は苦笑を浮かべ、そう答える。 だが花の譲渡に関して話を終わらせるつもりはなかったらしく、頬杖をやめて己が吐き出した椿を手に取ると、それをくるりと回してみせた。 「だがまあ、そうだな……」 対価があれば話は別か、と雁夜は呟く。 「対価?」 「ああ、対価だ」 オウム返しに問う時臣へそう答え、雁夜は偽悪的に口元を歪めて微笑んだ。手の中で白い椿がくるりと踊る。正常な右目と濁った左目を同じように細くして間桐家の次期当主は告げた。 「この花が欲しいなら、そこで跪いて乞うてみせろ」 その言葉は次期当主が己の家と近しい地位にいる他家の当代の当主に向けていいようなものではない。綺礼も、これではいくら雁夜を特別視している時臣でも『遠坂家当主』として受け入れるはずがないだろうと思った。それに雁夜本人もこの無茶な取引が成立しないことを半ば予想して告げているはずだ。まさしくちょっとした悪戯£度だろう。 ただしこのお遊び≠ノ興じる雁夜の姿は、遠坂邸を訪れた時に桜へと向けていた優しげな雰囲気と全く異なっており、なかなかに興味をそそられる。通常の『美しいもの』に心惹かれない綺礼であるが、アルビノのような身体の色彩や片方だけ濁った瞳など、そんな常人とかけ離れた容姿と相俟って、今の雁夜は何か琴線に触れるものがあった。……今後も眺めていたいと思えるほどのインパクトはまだ無かったが。 「言っておくが、金なんか要らないからな。そもそも遠坂より間桐の方が資産家だ。さあ時臣、どうする? 優雅が家訓のお前は特に必要でも無い花のために見っとも無く頭を下げられるのか」 問い掛けを発し、雁夜は椿の花弁を指で摘まんだ。ぷちりと一枚引っこ抜き、見せつけるように床へと落とす。 ひらひらと音も無く舞い落ちる花弁は時臣と雁夜のちょうど中間辺りに着地した。するとダークレッドの絨毯に映える白い花弁を時臣の指が無言で摘まみ上げた。 「? とき―――」 「間桐雁夜。貴方の花をどうかこのわたしくめに恵んで頂きたい」 膝を折り、片手を胸に当て。始まりの御三家≠フ一つ遠坂家の当主ともあろう男はたった一つの花のためにいとも容易く跪く。あの優雅であることを己に義務付け、遠坂の者として常に高貴であるべき時臣が。 間桐雁夜の花とは、間桐雁夜と言う人間とは、それほど特別な存在なのか。この遠坂時臣をここまで曲げられてしまうほどに。 (これは……) 二人の様子を眺めていた綺礼は思わず己の口を手で覆った。厚い手のひらの下では口元が緩やかに弧を描いている。 奇妙な容姿といい、病といい、言動といい。それなりに興味をそそられる要因を持つ人物ではあるが、この特異性は格別だ。時臣の答えに一瞬だけ片眉を撥ね上げ、それから「変人」と嫌そうに悪態をつく表情ですら今やかなりクルものがある。 本人の中身はあくまで常識の範囲内であるはずなのに、その周囲の人間には異常な行動を取らせる。雁夜のそんな特異性に気付いた綺礼はこれまでで一番魂が震えるのを感じた。 この感情を何と呼ぶのか綺礼は知らない。状況を鑑みるに神の下僕が持っていいようなものではないと頭の片隅で警告音が鳴ったが、消えないものは消えないのだ。 (人を狂わせる『花』か。……面白い) 手のひらの下で口元がもっと醜悪につり上がる。 無自覚のまま笑みを浮かべ、言峰綺礼は師に花を与える青年を見据えた。 (面白いぞ。間桐雁夜) 花と蟲 雁夜と臓硯。過去のお話。 弱者と強者の立場が逆転したのは雁夜が中学を卒業する直前の頃だった。 それまで間桐家における『強者』とは間桐臓硯を指し、それ以外の雁夜や兄の鶴野は完全なる『弱者』だった。間桐とは臓硯という化け物を生き長らえさせるための餌籠で、間桐の人間は餌にしかすぎない。最期は臓硯の飼う蟲達に食われて終わるというのが間桐に生まれた人間の宿命だった。 それは己の肉体ではなく花という形で魔力を蟲に与え育ててきた雁夜も例外ではない。―――例外ではない、はず、だった。 「そう言えば自然界でも花は蟲に貪られるんじゃなくて、蟲を利用して繁殖してるんだっけか」 目の前の光景に学ラン姿の少年はぽつりと独りごちる。 黒い服とは対象的に髪は完全に色が抜け、肌も陽の光など知らぬような白色だった。左目は白濁し、決して光を映すことはない。そんな風貌の少年の足元には暗い空間が広がっており、闇からはギチギチと気味の悪い音が幾重にも重なるようにして響いていた。 暗く湿ったこの場所こそが、少年―――間桐雁夜の一族の源とも言える『蟲蔵』である。 この空間と蟲達に嫌悪感を覚える時期はとうの昔に過ぎ去ってしまった。しかも今や蟲蔵でひしめき合っている蟲達の殆どは雁夜の魔力によって育ち、そして増えてきた個体である。純粋な雁夜の魔力だけで育った彼らは間桐一族の当主にして始まりの魔術師マキリ・ゾォルケン(間桐臓硯)の配下から離れ、完全に雁夜だけの使役対象だった。 加えて、足元の蟲蔵でひしめき合っている蟲達の殆どが雁夜のものだと先述したが、この殆ど≠フ割合が現在進行形で変化し始めていた。雁夜の膨大な魔力を受けて育った蟲が、己達とは別の命令系統を持つ蟲―――つまるところ『敵』を排除しにかかっているのである。 蟲の見分けがつかない者からすれば単なる共食いだが、蟲達にとってこの薄暗い空間での争いは完全なる生存競争だった。自分達を生かす『花』に勝利を捧げるため、『花』が何者にも侵されないようにするため、雁夜に育てられた蟲は自発的に『敵』を食い殺す。キィキィとか細い断末魔を上げるのは悉く臓硯の蟲達だった。 その様をぼんやりと眺める雁夜の背後で錆び付いた扉が音を立ててゆっくりと開いた。姿を現したのは間桐家の当主・臓硯だったが、今の彼を見て雁夜とどちらが当主らしいか、問われて老人の方だと答える者は決して多くなかっただろう。それほどまでに蟲蔵を見下ろす臓硯の顔は憔悴しきっていた。 「かり、や……」 「残念だったな、爺さん。あんたが望んだ上等な魔術回路はあんたの毒にしかならなかったようだ」 淡々と告げて雁夜はコホリと小さな咳をする。空咳と共にその薄い唇から零れ落ちたのは毒々しい赤色を纏った彼岸花だった。雁夜はそれを拾い上げるでもなく、足で蹴って己の戸籍上の父親の目の前に押しやる。 「小さい頃、俺はあんたが恐ろしくて仕方なかった。いつか本当の父親や母親みたいに俺もこの蟲蔵に捨てられて蟲達に食い殺されるんだと思ってた」 でもさ、と呟く雁夜の視線の先には真っ赤な彼岸花に手を伸ばす小さな老人の姿があった。 正常に働く右目を眇めて少年は何者よりも恐ろしかったはずの一族の長を見据える。 「……父さん。あんたも所詮は『蟲』だったんだな」 己が出した花を必死に貪り食う老人の背を見つめ、雁夜は寂しげにそう呟いた。 そう。花は蟲に食われ枯れ果てる存在ではない。 望むと望まざるとに拘わらず、花こそが蟲を利用し、己の勢力を拡大する生き物なのだ。 2012.01.03 pixivにて初出 キレイキレイ参戦。綺礼に一番最初のYU☆E☆TSUを与えるのはやっぱり我等が雁夜おじさんですよね! あと、うぃき先生によると遠坂さん家より間桐さん家の方が経済的に安定しているとのこと。すごいよおじさん!(実際に凄いのは冬木以外の霊地も押さえて他の魔術師に貸したり株式投資が得意だったりするおじいちゃんです) 過去編では雁おじがチート。だって雁おじは『花』で臓硯さんは『蟲』なんだもの。ぶっちゃけ蟲って花に良い様に使われてるよなーとか思った産物がこれ。それに自分達の『花』を守るために他の蟲達を排除する『蟲』って本当にいますしねv(うきうき) これって蟲雁? 臓雁? ともあれこれで桜ちゃん間桐入り後も身の安全は保障されるってことで。 |