竜ヶ峰帝人は粟楠会の組長・粟楠道元の血を引いているが、彼女が粟楠の後継に収まる事はない。それは彼女が妾の子であり、道元の血を引いているというのを組内でもごく一部の者しか知らないからでもあったが、何よりも大きな理由は帝人自身が後継者になる事を望んでいないからだった。
 そもそも粟楠会は世襲制ではない。ゆえに実力を持つ者が望めば、また周囲がそれを認めれば、その人物が次の組長となる。男だとか女だとか、そういった事も関係ない。男性社会である極道では同じ力量でも女より男の方が優先されてしまうだろうが、もし女の方が圧倒的な力を見せれば、男女の壁を壊す事も無理ではなかった。また肩書きが「組長」でなくとも、女性ならば「姐さん」として組織の実質的なトップに立つという方法もあるだろう。
 しかし帝人はそれら選択肢の全てを蹴った。
「こちらの仕事には興味がありますからお手伝いはします。けれど“僕”が継ぐ事はありませんよ。それは幹彌兄さんの役目です」
 瞳の中に青を煌めかせ、まだ高校生でしかない少女は実父たる道元を前にそう言って微笑んだ。



* * *



「社長、例の資料こちらに纏めておきました」
 祖父と孫娘ほど年の離れた老父に帝人はA4の冊子を手渡す。学校帰りに制服姿のまま“会社”に寄ったので、その姿は教師にレポートを提出しているようにも見えただろう。しかしこの部屋は職員室や各教科の準備室ではなくいかにも極道と言った空間であったし、また資料を渡した相手も教師にしては眼孔に秘めた光が鋭すぎる。そして帝人が鞄から取り出したその冊子の中身もまた学生生活に相応しくないとある裏企業の調査結果だった。
 帝人から資料を受け取った男―――粟楠道元はその場でページをめくって軽く目を通し、必要な情報が記されている事を確認すると「ご苦労」と頷いた。
「相変わらず仕事が速いな。期限は来週までだっただろう?」
「“僕”、夏休みの宿題なんかは早めに終わらせておく方なんですよ」
「宿題、か」
 帝人の喩えに道元は苦笑を零す。
「この調査結果もお前にとっては学校の宿題とそう変わりねえって事か」
 呆れているのではなく満足そうに告げて、道元は帝人を見遣った。
 帝人はそれに特定の答えは返さず、曖昧な笑みを浮かべる。
 ともあれ、これで本日の仕事(用件)は終了だ。帝人は斜めにかけていた通学鞄の紐を両手で握りしめると、この部屋に自分達以外がいない事を再度確認してから口を開いた。
「それで、父さん。今日は“私”と一緒に夕食を取ってくださるとの事でしたが、大丈夫そうですか?」
「大丈夫だ。むしろ予定が入ってきてもお前との食事より優先させるものなどないよ」
「ふふ、ありがとうございます。父さん」
 ヤクザの組長の顔から一転。道元が浮かべた表情はデレデレに頬の筋肉が緩んだもので、妾に産ませた子供が可愛くて仕方がないのだと語っている。帝人はそんな父に微笑み返しながら、彼がこのような顔になるから自分は腹違いの兄である幹彌に嫌われているのだろうかと頭の片隅で考えた。
 幹彌が帝人を嫌っている事を、帝人本人はとっくの昔に気付いていた。幹彌はそれを表に出さないようにしているらしいが、彼が帝人に対して複雑な感情を抱いているのは目を見ただけで判る。その感情の詳細な理由まではまだ判らないが、おそらくは帝人が道元と愛人の間に生まれ、しかもこうして道元が帝人を猫可愛がりしている事が原因だろう。
 純粋に父親の愛人の子供という存在に嫌悪感が湧く。また同じく道元の血を引いている者が自分の目指している地位(組長のポジション)を横から掻っ攫うのではないかという警戒心もあるはず。
(ま、僕にそんなつもりはないって父さんには既に言ってあるんだけどね)
 そう発言する機会があったとはつまり、道元から後継に関する話が――幹彌の存在を差し置いて――帝人になされたという事なのだが、もう蹴ってしまった話なので関係ない。
「じゃあ時間通りに。ドレスコードに関しては以前父さんから頂いた服を着ればいいんですよね」
「ああ。楽しみにしているよ」
「私もです」
 青みを帯びた双眸を細め、帝人は笑みを形作る。だが次の瞬間、この部屋と外を繋ぐ扉からノックの音が聞こえたため、帝人はその表情をすっと消し去った。
「誰だ」
 娘に甘い父親ではなく粟楠会の組長の顔で道元が扉の向こうに誰何する。
「社長、私です」
「幹彌か。……入れ」
「失礼します」
 カチャリとドアノブに手がかかる音。そうして入室してきたのは二人の男―――粟楠幹彌とその部下である鋭い目つきの粟楠会幹部・四木だった。
 二名は先に部屋にいた帝人の姿を視認するとそれぞれ異なった反応を見せる。幹彌は一瞥したのち短く「仕事か」と問い、四木は目を伏せて軽く一礼。
 帝人は兄の好意的ではない視線を見つめ返しながら「はい、依頼されていた調査結果のご報告に」とあくまで彼より下の立場の者として答えた。勿論、微笑を添えて。幹彌が自分に向ける感情に気付いた素振りは見せない。どう思われているのか帝人が知っている事を知られれば、幹彌との今後の付き合いが難しくなるからだ。
 次いで四木には「お久しぶりです、四木さん」と話しかけておく。四木は帝人の血筋について知っている人間の一人であるため、彼は同僚や部下ではなくどちらかと言うと茜に対するかのように丁寧な口調で「ご無沙汰しております」と返してきた。
 幹彌は帝人の事をあまり快く思っていないようだが、彼の部下である四木はそれほどでもないらしい。こうして帝人と偶然出くわしても嫌な顔一つしないし――単にポーカーフェイスが上手いだけかもしれないが――、また“社内”で帝人が一人でいるのを見かけたりすると話し相手になってくれる事もある。特に帝人が上京して粟楠に関わり始めたばかりの頃、まだ幹彌の態度に慣れていなかったため気分が沈んでいた時などはわざわざ自販機からホットコーヒーを買ってきて帝人に手渡し、「血というのも大変ですね」と慰めてくれた事もあった。こんな小娘相手にまで丁寧に接してくれるとは、まさに紳士である。
 過去回想に浸りつつ帝人は四木と幹彌、そして道元に微笑みかけると「では」と言って頭を下げた。
「私の方はこれで。お先に失礼します」



□■□



 幹彌の後について社長への報告を済ませた四木だったが、社長室を出る前に自分だけ道元に引き留められた。幹彌が訝しげな目を向けてきたが四木にもその理由は解らない。ただ上司命令であるため従うだけだ。
 そうして道元と二人きりになると、相手はおもむろに口を開いた。
「四木……。お前、帝人をどう思う」
「帝人お嬢の事ですか。……そうですね、大変ご立派だと思います」
 特にあの年齢であの情報収集・分析能力には驚きを通り越して戦慄すると言ってもいい。
 一年前には幹彌の冷たい態度に泣きべそをかいていた――ただし実際に涙を流した訳ではないと帝人の名誉のために言っておく――とは思えない。どうやらインターネット上に情報を収集する基盤は元々所持していたらしいが、それを考慮したとしても一年で粟楠会組長直属で動く立場にまで実力で上り詰めたのには四木も舌を巻いた。
 しかし、
「そういう事じゃねえんだよ」
 苦笑を滲ませる道元が問いたいのはどうやらそういった事ではないらしい。
 ならば一体どういう事だ?
 四木は黙し、僅かに逡巡する。
(あとは……そりゃまあ帝人お嬢もこの一年で“何かと”成長されたようだし)
 先程の来良学園の制服に包まれた帝人の姿態を思い出し、四木は慌ててかぶりを振った。
(何考えてやがる俺! 確かにお嬢はますます綺麗な女に成長しているが……ッ!)
 特に仕事モードから休憩モードに入る時の表情の変化などはたまらない。青く冷めた瞳がふっと緩み、こちらを見つめて笑みを形作る瞬間はいつ遭遇しても鼓動が跳ねてしまう。しかも成長期である今は会う度に女らしさが増していて、四木は「今は仕事中だろうが」と自分をわざわざ戒めなくてはいけない程だった。
 そこまでしなくてはいけないのは何も帝人の成長だけが原因ではなく、四木自身の感情の変化も関係しているのだが。ともあれ、それを馬鹿正直に道元に告げる事などできようはずもない。
 と、思ったのだが。
「帝人の奴、ますます可愛くなっただろう」
「は……?」
 ニヤリと口角を上げて告げられた言葉に四木は目を点にした。
「なんだ、てめぇはそう思わねえってか?」
「い、いえ。そんな事は。仰るとおり、帝人お嬢はお会いする度に魅力的に成長なさっているように思います」
「だろう?」
 娘自慢をする道元は実に満足そうだ。やはり男親というのは娘が可愛くて仕方がない生き物なのだろう。
 帝人と道元の血の繋がりを知る者はこの組にもそれほど存在せず、また幹彌を筆頭として事実を知る者の一部は帝人を快く思っていない。そんな中、四木のように帝人に好意的な人間は道元にとって心おきなく娘自慢ができる他人となる。
 四木は表情筋を緩める道元を親馬鹿だと思う一方で、組のトップに対して言葉を選ぶ必要はあるものの自分の感情の一部を出せる機会は嫌いではないとも思った。
 ただし親馬鹿はやはり親馬鹿。娘に好意的な人間がいる事を喜びつつも同時にそれが男であるこの場において、道元は四木に釘を刺す事を忘れていなかった。
「今の立場が惜しければ帝人に手ぇ出そうなんて思うんじゃねえぞ」
「…………心得ています」
 四木がそう返すと道元は重々しく一度だけ頷く。数瞬の戸惑いは見逃してくれるらしい。
「ならいい。引き留めて悪かったな、仕事に戻ってくれ」
「はい。それでは失礼いたします」
 道元に一礼し、四木はそう言って社長室を出た。
 重厚な扉を閉じてそれに背を向けたまま四木は溜息を一つ吐き出す。
(……心得て、いるとも)
 帝人に好意を寄せる事が、彼女に手を出す事が、どういう風に捉えられるのか。四木はよく理解していた。
 多くの者にはまだ彼女の血筋に関して伏せられているが、それでもやはり竜ヶ峰帝人は粟楠道元の娘であり、また周囲の者達が認識しているように有能な少女なのである。そんな女性とそれ相応の関係を持ってしまった場合、次期組長候補の人間にとって四木はどんな存在に見えるのか―――。こちらの思惑がどうであれ、トップを狙っている訳ではない四木にとってあまり良い事ではない。現時点での己の立場を大変な危険に晒す事になるだろう。
 余程の馬鹿でない限り、それは容易に理解できる。そして四木は馬鹿ではなかった。
 けれど。
「……」
 無言で己の手を見つめる。握っては開いてを繰り返し、五本の指の動きを順に目で追った。
「手を、伸ばしそうになるんだよな」
 たとえば黒髪が風に吹かれて舞った時。たとえば実年齢よりも幼い容貌に淡い笑みが浮かんだ時。たとえば甘やかな声で「四木さん」と名を呼ばれた時。
 四木はその手を伸ばして帝人に触れたいと思ってしまう。
 今はまだ自制が効いているが、それもいつまで保つものか。一生かもしれないし、明日にでも我慢できなくなってしまうかもしれない。
 己の手から視線を外し、四木は頭上で灯る蛍光灯を仰ぎ見た。
「嗚呼、本当に……現実ってやつはままならねぇ」






そのに触れてはならぬ。







街の裏側に絡んでいる時の帝人ちゃんは一人称が「僕」になっております。