「田中君、こんばんは」
 陽も沈み、ネオンが輝く時間帯。取立て業の合間に公園で休憩を取っていた静雄とトムに近付いてくる影があった。
 街灯に照らされたその姿は静雄と同じかそれより少し下ぐらいの年齢に見える。スーツ姿のその青年は先刻の挨拶に見合った柔和な笑みを浮かべ、ベンチで休んでいた静雄達の前で足を止めた。暗がりで若干判り辛いが、黒の中に青を混ぜた瞳が静雄を一瞥したのちトムへと向けられる。
「……竜ヶ峰、さん?」
「うん。久しぶりだね」
 静雄より年下に見える、つまりトムよりもおそらく年下であろうはずの竜ヶ峰とやらは、しかしトムに対して同い年か年上のような口調で話す。対してトムの方が丁寧な話し方になっており、静雄は小さく「え……?」と声を上げた。
 二人分の視線が静雄に向けられる。
 青みを帯びた双眸が優しげに細まって、その人は口を開いた。
「君は田中君の仕事の後輩……かな? 初めまして。竜ヶ峰帝人と言います」
 そして帝人は静雄に手を差し出しながら続けた。
「間違ってたら申し訳ないんだけど、ひょっとして君は平和島静雄君?」
「え、あ……はい。平和島っす」
 静雄を『平和島静雄』と知って躊躇いなく華奢な手を差し出す青年の様子に驚きを覚えながら、静雄はなんとかそう答える。すると帝人は更に目を細めながら静雄と握手を交わした後、トムに向き直って「可愛い後輩がついて良かったね」と微笑んだではないか。
「か、かわ……っ!?」
「静雄ですら竜ヶ峰さんにとっては“可愛い”で済んじまうんですね」
「え? だってとても素直そうな子じゃない」
 当然の事を言ったまでという風情で帝人はトムにそう返す。
 一体竜ヶ峰帝人とは何者なのだろうか。静雄が世話になっている上司に敬語を使わせ、けれど静雄より若そうに見える彼は。ただの年功序列が適応されない立場の人間なのか。
 そんな静雄の疑問に気付いたのか、それとも帝人と静雄が居合わせた時点で紹介するつもりがトムにあったのか、そこは分からないが、ともかく。トムが帝人の言葉に苦笑を浮かべながら説明のために口を開いた。
「静雄、この人は俺が昔世話になった人でな。この仕事を紹介してくれたのも竜ヶ峰さんなんだべ」
「へえ……って、昔? 紹介?」
 静雄は帝人とトムを交互に見やる。
 繰り返すが、帝人はトムより年下にしか見えない。そんな人間がトムの世話をしたとはどういう事だ。逆なら静雄がそうであるためすぐに理解できるが……。
「おう。って、ああそうか。見た目だけなら竜ヶ峰さんはそりゃもう若く見られっからなぁ」
「って言う事はつまり」
 まさかとは思いつつ静雄が言えば、トムは首を縦に振って帝人を手で示した。
「竜ヶ峰さんは俺らよりずっと年上だ」
「こう見えてもう三十も後半なんだよ」
 にこりと笑いながら帝人が付け足す。
「いやー。この年になると少しずつ仕事をするのが辛くなってくるね。まあデキた部下がついたんで楽と言えば楽になった部分もあるんだけど」
「その見た目で何言ってんすか」
「いやいや、若いのは見た目だけだから。田中君も僕くらいの年になれば解るよ。今の仕事なら特にね。今日もまだ回らなきゃいけない所があるんだろう?」
「ええ、まあ」
「そっか。やっぱりこんな時間帯でもバリバリ就業中っていうのは大変だよなぁ。……あ、田中君が望むなら別の仕事を斡旋してあげてもいいんだけど。僕の部下がやってる画廊とか。九時五時で結構高給だよ?」
 破格の待遇をぽろりと零しながら帝人は「どう?」と問いかける。田中君は優秀だから是非とも欲しいんだよね、と。
「それに平和島君も一緒だっていいし」
「いや、やめときますよ」
 だがトムは苦笑を浮かべながら首を横に振った。
「まだ“そっち”に足突っ込む予定はないんで」
「それは残念」
 言いながら帝人が浮かべたのは残念に思っているのかどうか判らない笑みだ。
 あっさりと引き下がった彼は某ブランド物の腕時計を確認して「あらら」と少しばかり残念そうな声を上げた。よく見れば帝人が着ているスーツもフルオーダーのブランド物ではないか。どんだけ金持ちなんだと思いながら静雄は黙って上司達の会話を見守る。とりあえずまだ帝人の態度は静雄の一般より随分低く設定された沸点に到達しないレベルだったので。
 帝人は人の良さそうな、むしろ庇護欲すら誘いそうな微笑みを浮かべて言った。
「ごめん。ちょっと時間を取らせすぎちゃったね。田中君、時間は大丈夫?」
「まだ平気っすよ」
 トムもまた時間を確認しながら答える。
「俺らの仕事は就業時間なんてあってないようなもんですし。次の取立て相手の家に押し掛けるのはもうちょいあとですから」
「そう言ってもらえるとこちらとしてもありがたいな。でもやっぱり話し込んじゃってその時間が過ぎちゃ悪いからね、今日はこの辺で」
「あ、はい。じゃあ、また」
「うん。何かあったらいつでも連絡してね。ちゃんと“会社”の方は抜きで力になるから」
「ありがとうございます」
 トムがベンチから立ち上がりぺこりと腰を折ると、帝人は軽く手を挙げて去って行った。そのあまり大きくない背が完全に見えなくなるとトムはようやくベンチに座り直す。そんな態度の一つ一つから、上司にとって帝人は特別な人間なのだと静雄にも理解できた。
「いいひとっぽいっすよね、竜ヶ峰さんって」
「まあ確かに良い人ではあるだろうな」
 静雄に答えながらトムは頭を掻く。
「だからって悪い人じゃないって訳でもないんだが」
「……は?」
 キョトンとする静雄にトムはなんとも言えない奇妙な顔で一枚の名刺を取り出した。随分古そうなそれは、聞けば帝人とトムが出会ったばかりの頃に貰ったものだそうだ。そこには持ち主の帝人の名前と一つの社名が書かれていた。その名前に見覚えがある静雄はぎょっと目を剥く。
「これって……」
「そ。竜ヶ峰さんは粟楠会の人間だ」
 名刺に書かれていた会社は、ほんの少し裏に詳しい人間ならば知っている者も多かろう、そこそこ有名な所だった。目出井組系粟楠会―――ここ池袋を縄張りに持つヤクザが経営する会社の一つなのだから。
「ああ、安心しろよ。俺らんとこは粟楠と関係ねえべ。ソッチ系の会社は勘弁してくれって俺が竜ヶ峰さんに言って紹介してもらった所だからな」
 苦笑し、トムは名刺を仕舞う。
「なんだかねぇ。本当、あの人は良い人なのか悪い人なのか、俺も未だにわかんねえ人でよ」
「……付き合いは結構長いんすか?」
「ん? ああ、まあな」
 名刺の古さからそう判断した静雄が問いかけると、トムは「俺が高校入った時からだからなぁ」と呟く。どうやら十年以上の付き合いらしい。とは言っても、そう頻繁に会っている様子も無いが。
「あの人、年を経るにつれて老けなくなってくっつーか。気付けば俺の方が年上みてえに見えるし。でも粟楠内じゃ結構エラい人らしくてな、あんま怒らせない方が身のためだぞ。つっても早々怒るような人間でもないんだが」
「なんか……」
 帝人について語る上司の横顔を眺めながら静雄はポツリと零した。
「楽しそうっすね、トムさん」
「へ?」
「竜ヶ峰さんの話をしてるトムさんは、なんかちょっと嬉しそうって言うか。トムさんにそんな顔させるって事はたぶん竜ヶ峰さんもいい人なんですよ、きっと」
「そ、そう……か?」
「っす。そう見えます」
「…………」
 静雄の言葉にトムはしばらく黙り込み、やがてポリポリと頬を掻くと静雄から顔を背けて立ち上がった。「トムさん?」と名を呼べば、トムはそっぽを向いたまま「そろそろ行くか」と歩き出す。
「ちょ、トムさん? まだちょっと早くないっすか」
「いーからいーから。ホラ、さっさと行ってちゃっちゃと終わらせっぞ」
「……了解っす」
 この上司が照れているところなんて初めて見たかもしれない。
 静雄は笑いを噛み殺しながらトムの後ろに続く。おそらく気恥ずかしげに顰められていると思われる顔を見ないよう、横に並ぶのは避けて。
(なんか、マジで珍しいモン見た)
 その機会を与えてくれた竜ヶ峰帝人に少しだけ感謝しつつ、静雄はほんの少しだけ口角を上げた。
(今度会ったらお礼言っとこう)