四木が粟楠会に入ったばかりの頃、組には既にその人物がいた。
 竜ヶ峰帝人という厳つい名前に似合わず穏和な笑みを浮かべて子供のような容姿のその男が実は四木よりもいくつか年上であると聞いて、まさかこれは組に入って早々の冗談かと思った程だ。しかし事実、帝人は粟楠の一員として己の役割を全うしており、将来的に粟楠道元の跡を継ぐであろう粟楠幹彌を補佐する立場としてその腕を揮っていた。
 だが帝人は決して幹彌の前に出る事はなかった。いつもいつも彼は幹彌を立てて、その力の全てを今の組長と次の組長候補のために使っていた。
 どうしてなのか。当時、帝人の傍で彼の仕事を見る機会があった四木は、実力があるなら示せばいいと単純に思った。粟楠は確かに現在の会長の家名から来ているが、それでも原則として世襲制ではなく、周囲から認められた者が組を継ぐ仕組みになっている。そして四木の目には、帝人がその気になれば簡単に幹彌など追い越せるように見えたのだった。
 いつでも帝人は幹彌より下にいる。その理由に気付いたのは四木が粟楠に入ってから何年も経った後、容姿だけならば自分よりずっと若く見える帝人の下で仕事のいろはをほぼ全て習い終えてからの事だった。
 四木に粟楠傘下の画廊の一つを任せ、それが軌道に乗ったのを確かめた帝人は書類から顔を上げ、
「これでもう誰の下についても大丈夫だね」
 まるで四木を帝人の下から引き離すかのように告げた。
 否、“ように”ではない。帝人は本気で四木を自分以外の人間の補佐に付けようとしていたのである。
 直属の上司にそう言われた四木は鋭い目を僅かに見開き、「私は帝人さんの元で働く事を苦に思った事などありませんが」と平静を装って告げた。
「それとも今の私ではやはり帝人さんの下で働かせていただくだけの実力がなかったと?」
「まさか」
 帝人は軽く苦笑して四木の言を否定する。
「ねえ、四木。君は本当によく成長したね。だからこそ僕は君が誰の下でもやっていけると判断したんだ。これからは自分の力をより活かせる人の所で働くといい。僕はそう言ってるだけだよ?」
「では貴方の元を選ぶ事もできるのでは?」
 四木の返答に帝人はきょとんと小首を傾げた。それから徐々に口元を引き上げ、歪な笑みを形作ると、彼は「そういや四木には言ってなかったか」とぽつりと言った。
「何を、ですか?」
「僕がどうして粟楠にいるのかって話」
 今ここで何故そのような話を持ち出すのか、四木は理解できず眉間に薄く皺を刻む。それを認めた帝人は苦笑しながらも「大事なことなんだよ?」と目を眇めた。
「あのね、僕がここにいるのは僕が粟楠の血に連なる者だからだ」
「初耳ですが……それが不都合だと? むしろ会長の息子だからという理由で跡継ぎの第一候補とされている幹彌さんの事を考えれば、有利になっても不利にはならないでしょう?」
「それが正当な血筋ならね」
「…………」
 帝人のその一言で彼が言いたい事を察した四木はハッとして口を噤む。
 四木の様子に帝人はデキのいい生徒を見守る教師のような表情で頷いた。
「そう。僕は粟楠道元の子供だけど、幹彌さんとは違って正妻の子じゃない。妾との間に生まれた非嫡出子ってやつなんだよ」
 だから一生、幹彌の前に出る事はできない。粟楠の中にいる限り、それは帝人にとって絶対の掟だった。
「だからね、四木。僕の下についていても未来はないよ。君が今後台頭していくためには僕じゃなく……それこそ幹彌さんの補佐になるべきだ」
 紹介ぐらいならいくらでもしてあげる。そう言って帝人は締めくくった。
 四木は沈黙を保つ。これまでずっと疑問に思っていた、何故帝人が幹彌を追い越そうとしなかったのか――― その疑問が解消されたというのに、気分は全く晴れなかった。
 上司の言うとおり、このまま帝人の元にいても四木は自分の実力を出し切る事はできないかもしれない。頭ではその事をよく理解している。ここは素直に帝人から幹彌へ紹介してもらった方が得策だ。……だと言うのに。
「……四木?」
 青みを帯びた瞳で四木の瞳を見返していた帝人はふっと苦笑を引っ込めてまだ一応部下である男の名を呼ぶ。その声に四木は密やかな笑みを浮かべ無音のままそれを己の回答とした。
 帝人がパチパチと瞬きを繰り返す。そうして彼は呆れたように溜息を一つ吐き出して、
「本当は幹彌さんの下にいる方が出世できるんだけどねぇ」
 ほんの少しばかり嬉しそうな顔でそう言ってのけた。
 何せ粟楠幹彌は次の組長の座がほぼ確定している。どこまで頑張っても一生No.2までしか登れない帝人の下にいるより、粟楠道元の嫡子であり帝人の腹違いの兄である幹彌に侍っていた方が得策なのは火を見るよりも明らかだ。しかし四木はこの男の下で働きたいと思った。現組長の道元でもなく、次期組長と目される幹彌でもなく。
「貴方の傍にいたいんです」
「まるで愛の告白みたいだ」
 くすりと笑みを漏らす帝人に四木も口元に弧を描いて応える。
 ひょっとするとその瞬間こそが、四木がようやく竜ヶ峰帝人の“仕事を教える対象”ではなく本当の部下として認められた瞬間かもしれなかった。