「帝人君……?」
 特別な子供によく似た背中を見つけ、四木は疑問の言葉を呟く。
 すると前を歩いていた小柄な人影が振り返り、
「あれ? 四木さん?」
「やはり帝人君でしたか。こんな時間にこんな所をうろついていては補導されて―――……どうしたんですか、その怪我は」
 ネオン輝く夜の街で中学生にも見える私服姿の帝人は警官に見つかれば十中八九声をかけられるだろう。そう心配した四木は、しかし振り返った帝人の頬に大きなガーゼが貼られているのを見て目を瞠った。
 驚く四木に帝人は曖昧な笑みを浮かべて「ちょっと……」と言葉を濁す。
「『ちょっと』ではないでしょう。その怪我は」
 しかも帝人の怪我はきちんと病院で治療したものではないらしく、それに気付いた四木は僅かに顔を顰めた。
 一体この子に何があったのか。帝人がやっている事は四木も立場上把握しているが、いつどこで起きているかまではよく知らない。そんな己に腹が立つ。また勿論、理由を言わない所からしてただ転んだだけという事ではないだろう。自分の所為だけで怪我をしたならば、帝人はそれを素直に告げるはずだ。という事は、やはりこの怪我は他人によって負ったもの。
(気に入らねえな)
 他人が己の大事な子供に怪我を負わせた事、それを知らなかった自分、そして勝手に怪我を負った子供自身に対し、四木は内心で舌打ちした。
 怪我を負うなら私のためだけにしてください、などと馬鹿な台詞を吐くつもりなど毛頭ないが、今、目の前にある事実に対してもまた気に入る所など一切片もない。……いや、四木の機嫌を回復させる要素となったものが一つだけ。
 それは、
「……ひとまず私の所に来ませんか。もう少しマシな治療をしてあげますよ」
 そう言って腕を引いた四木に帝人が素直についてきた事だった。


 きょろきょろと部屋を見渡す帝人。どこか小動物を連想させる様子に少し微笑ましく思いながら四木はリビングの中央に置かれたソファに座るよう勧めた。
「ここ、四木さんのご自宅なんですか?」
「ええ。そう言えば君を招待したのは初めてでしたね」
 池袋駅からも程近い高層マンションの最上階部分は全て四木のものだ。しかしその無駄に広い自宅に他人を招く事は滅多にない。むしろ職業柄、自宅の場所を教える事すら稀なのだから当然と言えば当然である。
(この子はダラーズのリーダーで、ひょっとしたら粟楠会が潰すかもしれねえってのによ)
 にも拘わらず四木は帝人を招く事に一片の躊躇いも感じなかった。どうにも自覚する前から自分の中の優先事項は大きく変動していたらしい。
「……四木さん?」
 救急セットを取り出した四木がソファに座る帝人の前に膝をつくと、その四木の顔を見て子供はこてんと小首を傾げる。何かおかしな事でもありましたか? と。どうやら本人も気付かぬうちに四木の顔には苦笑が浮かんでいたらしい。
「なんでもありませんよ。……ほら、横を向いてください」
 適当に貼られていたガーゼを慎重に剥がすと、その下から隠れていた打撲痕と擦り傷が合わさった怪我が顔を見せる。
 どうしてこんな事に? とは訊かない。
 帝人が誰と何をしているのか四木も知らない訳ではないからだ。だから犯人は判らずとも原因は判る。その犯人を突き止めるつもりで帝人に問いかけても、おそらく子供は困ったように笑うだけで答えないだろうけども。
 四木はテキパキと消毒を施し、新しいガーゼを頬に宛がう。そして顔の治療を終えると、
「………………」
「あの、四木さん?」
 無言で帝人を見つめていると子供が戸惑いながら名前を呼ぶ。だが四木はそれに答える事なく代わりの言葉を口にした。
「服を脱ぎなさい」
「……え」
 きょとんとした顔で数回瞬きを繰り返す帝人。その後、徐々に顔の赤味を増していく。
「え、ちょ、四木さん!? 僕、そんなつもりでここに来た訳じゃ」
 子供の反応に四木は気分を上向かせながら、けれども今の言葉の意味は相手が想像しているのとは違うものなので、首を横に振ってきちんと否定する。
「君が想像している通りでもいいんですけどね、まずは服の下の怪我も見せてください」
「あ。……どうして判ったんですか」
「こっちはそういう事にも経験豊富な大人ですよ? ちょっとした仕草を見ていれば気付きます」
 腕を引いていた間、帝人の動きは僅かにおかしかったのだ。それでも殆どいつも通りであるため大したダメージではないと思う。しかし、やはり気になるものは気になるので。
 帝人は自分の勘違いにか、それとも四木の揶揄にか、顔を更に赤くさせる。
「脱がせますよ?」
「じ、自分でできますからっ!」
 四木の一言で帝人が慌てて首元までしっかり閉められていたファスナーを下ろす。そう言えば自分が初めてこの子供に手を出そうとした時もこの服だったな、とぼんやり思う四木だが、あの時から夏の暑さは更に勢いを増し、ファスナーを下ろした後に見えたのはTシャツではなく少年の日に焼けていない真っ白な素肌だった。
 ただしその白さに四木が欲を覚えるよりも早く、白を侵す紫色が見た者の顔を顰めさせる。
「……随分と無茶をしているようですね」
 荒事には全く向いていないくせに、帝人はダラーズの粛清活動でちょくちょく現場に姿を見せているらしい。勿論後方から指令を送るだけの時もあるが、なるべく手足たるブルースクウェアのメンバーと共にいようとしている。―――以前己の子飼いの人間がそういう内容の報告を上げてきたのを思い出し、四木は小さく溜息を吐き出した。
「しき、さ」
「でもやめる気は無いのでしょう?」
「……」
 しばらく逡巡した後、帝人はこくりと頷く。
「だったら、なるべく怪我はしないように。私は君のやっている事に手出しできませんから」
 ダラーズ内部の事に外側の人間である四木は干渉できない。いや、やろうと思えばやれるのかもしれないが、粟楠会として動くにはまだダラーズはクリーンであるし、それに四木自身としても帝人と接触を持ったのはダラーズと全く関係のないところだったので、彼らの問題に係わろうとしてもきっと帝人は良く思わないだろう。それが解っているから四木は動かない。
(いや、やっぱり『動かない』じゃなく『動けない』だな。俺はこの子供に嫌われたくない一心で今の状況に甘んじている)
 内心で自嘲し、四木はするりと真新しい紫色の痣を撫でた。
「……っひ」
「すみません。痛かったですか」
「大丈夫、です。痛いんじゃなくて指輪が」
「ああ……。こっちですか」
 四木の右の人差し指に輝くのは金色の貴金属。帝人の右手を見ればそれと同じデザインの銀色が照明の灯りを鈍く反射している。人の体温よりも低い温度の金属に触れられ、帝人は少し驚いてしまったようだ。四木がもう一度「すみません」と告げれば、子供ははにかむようにして首を横に振った。
「なら良かった。ここにはシップを貼っておきましょうか」
「は、い。色々とすみません」
「いえいえ、私が好きでしている事ですから。むしろ君の時間を拘束している分、いつものように料金を払わなくてはいけないと思っているくらいですしね」
「えっ、僕そこまでがめつくないですよ!?」
 ぎょっと目を剥く帝人に四木はくすくすと笑い声を零しながら紫色の痣を白いシップで覆い隠していく。「冗談です」と告げれば――実を言うと四木としてはあながち冗談でもなかったのだが――ほっとしたような気配が伝わってきた。カラーギャングのリーダーなんてものをしているくせに、この子供はいつまでたっても可愛いままだ。
 勿論、赤林との関係を知る前から、またこの子供がダラーズの創始者である事を知る少し前から、帝人の雰囲気がどこか変化したのには気付いたが。それでも子供を形成するものは変わっていないと四木は思う。グループ内で粛清という過激な動きを見せている事から目的達成のための方法は変えたようだが、その目的もしくは目的を抱くようになった根本は同じままであると。
「ところで、今日はなぜあんな所に?」
 治療を終えて帝人が服を元通りに整えたの確認し、四木はそう問いかけた。
 街でフラフラ歩く姿はどう見ても「これから家に帰ります」といった様子ではなかった。帰る場所がないとまではいかないが、まるで今夜限りの宿を探しているかのように。ボロいがきちんと家があるにも拘わらず、帝人は漫画喫茶かインターネットカフェで夜を明かすつもりだったのだろうか。
「……言いたくないなら言わなくても結構ですが」
 黙ったままの帝人に四木はそう付け加える。
 だがその台詞の後、帝人は口を小さく数度開閉させてから「えっとですね」と語り出した。
「友達から逃げてるんです」
「はい?」
「だから、その、親友から逃げてるんです」
「喧嘩でもしたんですか?」
「そうじゃないんですけど……。なんて言うか、今、正臣の顔を見ちゃったら決心が鈍ると言うか」
 帝人がダラーズで行っている事柄は知っていても何故帝人がそれをやっているかまでは知らない四木は、まさか『正臣』とやらがその理由の根本にいる事など思いもせず――帝人の粛清行動を止めようとしている友人、くらいに思う程度で――、ただ単に子供の口から出て来た知らない人間の名前を頭の片隅に留めて「そうですか」と返すしかできない。その事実に、嗚呼俺はこの子の事を本当に何も知らないんだな、と思い知らされる。
 だが落ち込んですぐ、自宅に帰れないから別の寝場所を探していたと言う帝人に四木は一つ提案してみる事にした。
「でしたらここで寝泊りしますか?」
「え……?」
「そのご友人が君を捜していたとして、まさか私のような人間の自宅にいるとは考えないでしょう。家に居ないと判っても精々帝人君が最初考えていたように、周辺の漫画喫茶かインターネットカフェに泊まると予想するくらいで」
「でもそれじゃあ四木さんのご迷惑に」
 遠慮する帝人に微笑を浮かべて四木は答える。
「なりませんよ。そもそも私がここにいる時間はあまり長くないんです。寝るために帰る、といったところでしょうか。ですからどうぞ好きに使ってください。君なら信用もできますしね」
 言って、ポケットの鍵を帝人に差し出した。
 帝人はそれを受け取らずにじっと見つめ、どうするべきか迷っている。黒く大きな目が「本当に迷惑じゃないんだろうか」と語っているのがハッキリと解って、四木は微笑ましく感じると共に、
(もう少しこちらを頼ってくれりゃあいいのに)
 と寂しく思ってしまう。
 そうしてしばらく待ってみたが受け取ってもらえる気配はなく、四木は帝人の右手を取ってその手のひらに鍵を押しつけた。
「四木さん」
「受け取ってください。嫌になったらいつでも出ていってくださって構いませんから」
「……ありがとうございます」
 押しつけられた鍵に目を見開いて、それから嬉しそうにはにかんだ幼顔に一瞬だけ四木の呼吸が止まる。
(嗚呼)
 この子が欲しくて欲しくてたまらない。
 大事に囲って絶対に怪我など負わせないようにして、誰の目からも遠ざけて。笑顔も空気も声も温度も、全て自分だけのものにしたいと思った。
(本当に)
 男としての凶暴な感情と子を見守る親の如くやわらかな想いが四木の中で渦巻く。
(狂ってる)
 四木は激しい感情が漏れ出ないよう慎重に腕を伸ばし、帝人をその中に捕らえた。そして膝立ち状態のままシャツ越しに伝わる子供の温度に愛しさを募らせながら、相手の傷に障らない程度の力を込める。
(君に狂っているんです)
 穏やかな抱擁に帝人の方も力を抜いて四木に身を任せてくる。
 最初は確かにただの気まぐれで戯れにすぎなかったはずなのだ。しかしいつの間にか四木の心の中にはこの子供が住み着いていて、今やもう手放せなくなってしまった。だが帝人の方はきっと四木ではない何かが中心に居座っており、それがこの子供の行動を決定しているのだろう。
 悔しい。しかし今はそれを甘受する。
 帝人の中心に居座るものが何であろうと、誰であろうと、今この瞬間、帝人の温度を感じられるのは四木一人だけなのだから。



* * *



 ―――と思っていたのは事実なのだが、二日後、ガーゼと湿布の交換をしていた四木は帝人の身体に打ち身とは違う痣を見つけて眉間に深い皺を刻んだ。
 子供が昼間、家主が自宅を空けている時間にどこで何をしているのか四木は知らない。それに四木はそこまで帝人を束縛する気もない。本当は囲ってしまいたいが、無理を言えば帝人が離れてしまうと知っているからだ。
 けれどもやはり『これ』には耐えられない。
 白い肌に散った鬱血痕に唇を寄せ、上書きするようにきつく吸いつく。
「……ッあ!」
 ビクリと肩を震わせて反応する帝人に四木は「また赤林ですか」と問いかけた。その声は常よりも低く、怒りが滲み出ている。帝人の身体が今度は怯えで震えるのが判った。
(しまった)
 四木は内心で舌打ちする。怯えさせてどうする、と。
 帝人が赤林と関係を持っている事に対して四木はなんの強制力もないというのに、ここで帝人を責めるのはお門違いなのだ。本能が怒り狂っても理性がそれを押し留めなければならない。そうしなければ帝人は四木を見限るだろう。所詮、金銭で結ばれた契約というのが二人の間に横たわる事実なのだから。
 四木はすぐに怒りの気配を静めると、帝人から少し離れて両目を伏せた。
「すみません。怖がらせてしまいましたね」
「あ……いえ、僕も、その」
「いいんですよ。今のは私が悪い」
 帝人と視線を合わせた四木は苦い笑みを浮かべ、治療を再開させる。
 だがそうすると散りばめられた所有印が再び目に付く訳で。
「………………」
 溢れ出そうになる怒りを身の内に押し留め、四木はなんとか治療を完了させた。
 とは言ってもこの家に連れてきた時から帝人は一度も新たな怪我を負っておらず、当初の傷も随分治ってきている。
 これが完全に治ってしまったら、もう四木がこうして帝人に治療を施す事もなくなるだろう。そして帝人の身体にはまた四木が知らないうちに誰かの証が刻まれる。
 そう思うと居ても立ってもいられず、四木は黙したままスッと立ち上がった。
「どうかしたんですか?」
 見上げてくる視線に四木は「少し待っていてください」とだけ告げ、奥の部屋へと向かう。
(係わりたいならその理由を作っちまえばいい)



□■□



 四木が奥の部屋に姿を消して数分。その間に帝人は服を整え、手持無沙汰ながらもソファから動こうとしなかった。ただ、四木さんどうしたんだろう? と考えを巡らせて暇を潰す。
 そうしているうちにこのマンションの家主が再び姿を見せた。消える時には何も持っていなかったのだが、今はその手に長方形の紙の束のようなものが―――
(ってあれ諭吉さんじゃないか!)
 ただの学生ではそう容易く目にできないであろう福沢諭吉達の束が四木の手に握られている。一体何事だと驚く帝人。だが更に驚くべき事に、四木はその札束をひょいと帝人の目の前に差し出した。
「……え?」
 訳が解らない。
 全身でそう表現する帝人を正面にして四木は苦笑を浮かべる。
「三日分です。先日から現時点までの」
「へ? ……あっ、僕、そんなつもりでここにいた訳じゃありません……!」
 四木の言わんとしている事に気付いて帝人は何度も首を横に振る。
 帝人の時給は一万円。それはこれまで二人の間で決められ守られてきた事だが、今の状態は当てはまらないだろう。むしろ怪我の治療と宿の分、帝人が支払わなくてはならない。
 そう告げると、四木は「わかっていますよ」と答えて札束の上に何かを追加した。
「こ、れ」
 手のひらサイズで黒い長方形のカード。札束と同じくただの学生がお目にかかれるとは思えないそれはジャンボジェット機すら買えるという―――
「ブラックカードなんて初めて見ました」
 わあ、と帝人は感嘆の吐息を零す。
 しかしそのカードが自分の眼前に差し出されているという状況の意味を考えてカチリと固まった。
「し、四木さん……あの」
「現金はただの手付金です。そして私はこのカードで―――」
 するり、と金の指輪がはまった方の手が帝人の頬を撫でる。

「竜ヶ峰帝人の一生を買いたい」

「え……?」
「365日×24時間=8760時間、つまり君の一年を買うには8760万円必要だ。一生分を一度に払う程の甲斐性はありませんが、一年分ずつ払う事ならできそうですよ」
「えっ、え? ええ!?」
 混乱が帝人の頭を支配する。
 一体この男は何を言っているのか。何のつもりでこんな事を言うのか。それにこんな申し出を帝人が受けると思っているのだろうか。帝人には大事な人達の居場所を作るという目的があり、それは誰にも邪魔されたくないものだ。勿論、それなりに長い付き合いになってきている四木も同じ。帝人の意志を妨げると言うなら―――
「僕は、」
「別に君の自由を奪おうって訳じゃないんですがね」
「?」
 きっぱり断ろうとした帝人の台詞を遮って四木が薄く微笑みながら告げた。帝人は頭上に疑問符を浮かべ、自身の予想とは違うらしい四木の次の言葉を待つ。
「私は君を買いたい。しかしそれで君の行動全てを制限するつもりはありません。今まで通り自分が作ったカラーギャングの世話をする事にも干渉しないと誓いましょう。……私はただ一つだけ、竜ヶ峰帝人という人間にお願いをしたいんです。願いを告げるだけの権利が欲しい」
「ねが、い?」
「ええ、そうです。君の一生の中で一つだけ、どうしても聞き届けて欲しい願いです」
 そう告げる四木は眉尻を下げた情けない表情で帝人の顔を見つめている。
 かつてこの男は帝人に嫌われたくないのだと言った。大の大人がたかが小僧一人に本気なはずがないと、帝人は内心そう思っていたのだが、どうにもその考えは違っていたらしい。少なくとも大枚をはたいて何かを願うくらいには。
「一体どんな願いなんですか……?」
 帝人の声はかすかに震えていた。
 どきどきと心臓がいつもより速く収縮を繰り返している。帝人自身はその理由を“自分にとって特別な世界にいる人間が竜ヶ峰帝人を特別視しているという事実に興奮しているからだ”としたが―――
「もう二度と他人に抱かれたりしないでください。君が他人と触れ合っている事を考えるだけで腸が煮えくり返りそうなんです」
 四木のその言葉に帝人はハッと目を見開く。
 これではまるで四木が帝人に惚れているようではないか。
「君の一生の雇用主として認めてもらえるなら、どうかお願いします。今後一切、他人と“そういう”関係にならないで欲しい。無論、男も女もですよ」
「本気、ですか」
「でなければ流石の私もカードまで差し出したりはしません」
「たかが子供一人にそんな……」
「私にとっては大切な、どうしても手に入れたい人間ですから」
 間近でそう言って微笑まれ、帝人はどうしていいか分からなくなってしまった。
 他人とそういう接触を持たないと約束するだけで年間8760万円。確かに“ぼろい”商売だが、そもそも普通に働けば暮らしていけるのにそこまで大金を稼ぐ必要があるだろうか? そして何より重いのが『一生』という言葉だ。どうせ年齢差や職業から四木の方が帝人よりも早く死ぬ、つまり本当の意味で帝人が己の一生を四木に買われるという事にはならないだろうが、やはりそれなりに長い期間には違いない。
(ま、長いって言ってもそれは四木さんが僕に抱いてる感情を一生持ち続けたらの話だけどね)
 一週間後、一ヶ月後、一年後、四木の気持ちが冷めてしまっている可能性も充分有り得る。そうすれば雇用契約も終了だ。
 と、そこまで考えて帝人ははたと気付いた。
(あれ? 僕、四木さんの提案を受ける気でいるのかな)
 己の今の思考の流れは完全に四木との契約を結んだ後のものではなかっただろうか。
 帝人は四木の顔を見つめる。
 どうやら自分はこの非日常を纏う男も――あの二人ほどではないにしろ――大切に思っているらしい。でなければこんな提案はすぐに切って捨ててしまう。
 ならば、と帝人は口を開いた。
「四木さんは僕の事が好きなんですよね?」
「好き、ですよ」
 もう愛だの恋だの口にする年ではないと思っているのか、四木はごく僅かに羞恥を滲ませて答える。
 そうやって相手の気持ちを確かめた帝人はすっと一呼吸おいて四木に告げた。
「貴方の一生分の『好き』を僕にください」
 ―――そうすれば竜ヶ峰帝人は四木さんに仮初めの『一生』を差し出しましょう。
 帝人の回答に四木は大きく目を見開く。「本当ですか?」と問いかけられ、帝人はしっかりと頷いた。
「四木さんにとっては高い買い物だと思いますけどね」
「君が手に入るなら安いものです」
「だったら良いんですけど」
 帝人は微笑み、四木の右手に己の左手を重ねる。
「これからもよろしくお願いします、四木さん」
「こちらこそ」






CHEAP COLLAR

だって所詮は『仮初め』の永久契約だから!