まず最初、『それ』に気付いたのは三人の中で唯一の女性、ヴァローナだった。
先刻までスイーツの話を楽しそうに(ただし表面上は普段と変わりなく)していた後輩がピリピリとした空気を纏い始めたため、静雄とトムも足を止めて彼女を見る。 「どうしたべ?」 トムが問いを発するもそれに答える事なく、ヴァローナは突然すぐ傍の角を曲がって路地裏へと入っていった。 「あ、おい」 「とりあえず言ってみっか」 「っす」 疑問に思うも然程間を置かず、残された二人が彼女の後を追う。 すると角を曲がって数歩歩いた程度の位置で金髪のロシア人は足を止めていた。その後姿は一目で判るほど硬くなっており、極度に緊張している事が窺える。何事かと思って静雄がヴァローナの肩越しに奥を覗き込むと――― 「……あ?」 鮮やかな青のブレザーが見えた。 きっちりと着込まれた来良学園の制服。黒髪は一度も染められた事なく、短く切られた前髪はその少年の童顔を強調すると共に人柄の良さも表している。 それ程多く言葉を交わした訳ではないが知らぬ仲でもない―――静雄が覗き込んだ先に立っていたのは今年四月に岸谷新羅宅で鍋を囲んだメンバーの一人であり、またゴールデンウィークの一件で静雄がダラーズ脱退を告げた相手、竜ヶ峰帝人だった。 「竜ヶ峰?」 名を呼ぶと少年が静雄に視線を寄越した。「あれっ静雄さん?」と小首を傾げる仕草はどこか小動物に似て見る者の庇護欲を掻き立てる。しかしそれ故に少年がこの場にいるのはひどく不釣合いに思えた。こんなビルとビルの間にできた薄暗い空間に純朴そうな少年は似合わない。 「お前、こんな所でなにして……」 「そこの少年、ただの人間である貴方が何故このような場所でその男と共にいるのですか。回答を要求します」 静雄の台詞を遮ってヴァローナの視線がひたと帝人を射る。静雄は言葉を遮られた事に怒りを覚えるよりもまず仕事の後輩と高校の後輩が知り合いらしい事にサングラスの下で瞠目し、しかし静雄がそんな反応をする一方で帝人は見知らぬ金髪美人にいきなり質問されて目を白黒させていた。 今年のゴールデンウィークの一件でヴァローナは帝人を見知っていたが、帝人が閃光にやられた目で見た彼女は(静雄と同様に)フルフェイスのヘルメットを被った姿であり、それがイコールで眼前の美人に結びつくはずもない。奇妙な日本語と『ただの人間』という表現には引っかかりを覚えるものの、その違和感が無意識から意識上に登る前に“彼”がヘラリと笑った。 「あれぇ? 竜ヶ峰君は平和島静雄どころかロシアのお嬢ちゃんとも知り合いだったのかい?」 「静雄さんとは一応知り合いですが……そこの女性とは今日初めてお会いしたと思いますよ。それより、赤林さんの方こそ彼女とお知り合いみたいですけど」 「んー、ちょっとオシゴトの方でねぇ」 「そうですか」 淡々と答える帝人。 少年が会話をした事で、その傍らに色眼鏡、右目の傷、派手な柄シャツ、凝った意趣の杖という“いかにも”な男がいた事に静雄はようやく気が付いた。どうやら明るい陽の光が似合う知人が薄暗い場所にいるという違和感にばかり気を取られ、そのすぐ隣にいるもう一人にまで意識が行っていなかったらしい。そして同時にヴァローナの緊張の原因は帝人ではなく赤林と呼ばれたその男であると理解する。 だが何故ヴァローナはこんなにも緊張し、また彼女とは対照的に帝人は落ち着いているのだろうか。三人の関係を全く知らない静雄が疑問に思っていると、「なあ静雄」と背後からトムに呼びかけられた。 「あの高校生、お前の後輩だっけか」 「え? あ、はい」 問われ、静雄は上司の声が妙に強張っているのを感じ取って内心首を傾げつつこくりと頷いた。 確かに一般人ではなさそうな男が帝人の近くにいる事には違和感と(彼と知り合いである静雄からすれば)若干の危機感を覚えるが、仕事柄多少の事ではびくともしない精神の持ち主であるトムまでもが硬い声を出すとは一体どうしたのか。 そう思いつつも静雄は補足で帝人に関する説明を付け加える。 「竜ヶ峰は大人しい良い奴っすよ。セルティとも知り合いで、あいつは友達だって言ってました」 すると静雄の言葉にトムは一瞬だけ迷うような気配を漂わせた後、「気を悪くすんなよ?」と前置きした上でぽつりと告げた。 「普通の“大人しい良い奴”は粟楠会の『赤鬼』とこんな所で会話しねーべ」 「……は?」 今、この上司は何と言った? 竜ヶ峰帝人が粟楠会の……ヤクザの幹部と? 驚きのまま帝人の傍らに立つ赤林へ視線を向けると、目が合った男はヘラリと笑みを零して「おいちゃんも有名になったもんだねぇ」とトムの言葉を肯定する。続いて帝人を見遣れば、彼は別段驚いた様子もなく、赤林という男の正体を知った上で会話をしていたのだと態度で示していた。 訳が解らない。 ヴァローナとトムが緊張しているのは相手がヤクザの幹部だから。トムは色々と情報通であるし、ヴァローナも博識であるため赤林の顔を事前に知っていたのだろうと静雄は思う。ヴァローナに関して言うならば事実は若干異なるのだが、そこまで静雄の関知するところではない。そして平和島静雄という人間にとって今一番考慮すべき事は別にあった。 即ち、何故竜ヶ峰帝人がこんな所でこんな男とこんな表情で一緒に居られるのか、である。 視線を帝人に固定したまま、静雄はヴァローナを押し退けて彼女より前に出る。 「竜ヶ峰……?」 「はい? どうかしましたか、静雄さん」 竜ヶ峰帝人は普通の高校生で、きっちり着込まれた制服や染められた事などないだろう黒髪、真っ直ぐに相手を見る眸は静雄に好感を抱かせるに足り得る要素だ。そして平凡からは程遠い人生を歩む静雄にとってある種の憧れを体現している人間でもある。 なのに今のこの状況は静雄が求める『普通』の範囲を逸脱していた。 「なんでヤクザなんかとつるんでんだ」 これでもし帝人が相手に怯える素振りや不安そうな表情を見せてくれたら、自分はきっと後の事など考えず少年を助けようとしただろう。かつて殺人の濡れ衣を着せられ粟楠会に追われながらもヤクザを敵に回した後のことを考え決して手は出すまいと自制していた静雄だが、それは確実だと思う。……思っているのに、現実は何だ。 帝人は赤林を怖がるどころか静雄の発言に不快そうな顔をして「やめてください」と非難した。 「一緒にされちゃ困ります。赤林さんは粟楠会である前に僕の、ダラーズの人間なんですから」 「……その男もダラーズなのか?」 「ええ。ダラーズは誰でも受け入れる。だったら赤林さんのような人がメンバーなのも不思議じゃありません。それに赤林さんは貴方が嫌ってダラーズを抜けた原因であるような腐った人間とも違います。何も問題はないと思いますよ。それに……」 まさかあのやわらかな空気が似合う少年の言葉とは思えないキツい単語を混ぜながら帝人はきっぱりと言う。そして一呼吸置いて告げられた台詞は静雄が呼吸を忘れるぐらい衝撃的だった。 「ダラーズを抜けた静雄さんには関係ないでしょう?」 「……ッ!!」 どうしてこんなにも苦しいのか、静雄には解らない。けれど苦しいものは苦しいのだ。痛いものは痛いのだ。 拳を握り締めて苦しみに耐える静雄に、帝人は更に追い討ちをかけてくる。 「ダラーズは自由です。そう、たとえ女の人を攫って悪巧みしようともね。そしてそんな人間を軽蔑したりダラーズからいなくなって欲しいと願うのもダラーズの人間ならば自由です。けれど静雄さんは違いますよね? 貴方はダラーズを抜けると言った。そして僕はちゃんと貴方がダラーズを抜ける手続きをした。だからもう貴方が“ダラーズである”僕や赤林さんに関してどうこう言う権利なんて無いんですよ」 それは滅茶苦茶な理論だった。知り合いの高校生がよろしくない職業の大人とつるんでいれば、良識ある人間ならばやめさせようとするのが普通だ。しかし帝人はそれを「貴方は自分と同じ組織の人間ではないから」と言って切り捨てる。 「なんで……」 何故切り捨てられる? 何故聞き入れてもらえない? 静雄は帝人を心配しているだけなのに、何故その心配すらする権利が無いと言われなければならないのだ。 「なんでだよ、竜ヶ峰」 静雄の呟きを聞きとがめ、帝人はぴくりと片眉を上げた。 そして、 「僕から離れていったのは静雄さんじゃないですか」 「え……?」 帝人にとってのダラーズが、ダラーズにとっての帝人が『何』であるかを知らない静雄はその呟きに返す言葉が見つからない。 どういう事だ、と静雄の視線は問いかけていたが、帝人はそれに答える事なく声に微かな苦笑を含ませながら目を伏せた。 「自分から離れておいて今更心配とか……笑えない冗談です。どうせ心配してくれるなら、僕の事を気にしてくれるなら、もう一度ダラーズに戻っ―――」 「なるほどねぇ。それで竜ヶ峰君はおいちゃんも離れてしまうんじゃないかって心配した訳だね?」 帝人が言い切る前に赤林が言葉を被せる。まるで帝人にその台詞を言わせまいとするように。平和島静雄なんて今更いいじゃないか、君には俺がいるだろう? とでも言うように。 帝人がそんな赤林の意図に気付いたかどうか定かではないが、言葉の最後に混じり始めていた痛切さは完全に姿をくらませ、冷めた瞳で傍らの男を睥睨した。 「自惚れないでください赤林さん。あれは貴方が僕に近付いた理由が理由だったからです。他意はありません」 「……ま、そういう事にしといてあげるよ」 くすり、と男は笑う。 「ああ、あと。わざわざ『ダラーズの』って言い直さなくても良かったんだけどねぇ」 「あーはいはい。そうですね。赤林さんは『僕の』赤林さんでしたね」 「そうそう」 その返答に赤林は上機嫌で頷いた。そして帝人の台詞を聞いて固まったままの静雄を一瞥し、 「残念だったな、クソガキ」 静雄が気付いていない部分を見透かして、色眼鏡の奥から勝ち誇った笑みを向けた。 「ほら、そろそろ行かないとあの子らが待ってるんだろう?」 「そうでした。赤林さん、車で送ってください」 「お安い御用だ」 「話の続きは車内で済ませましょう」 「了解」 赤林が答え、二人は静雄達に背を向ける。帝人が先に進み、赤林は少年に付き従うように。 そんな二人の歩みを止められる人間は、残念ながらこの場にはいなかった。
STRAY DOG は帰れない
元御主人様の隣には既に別の番犬の姿。 そいつはこちらを見て嗤う。 もう『ココ』はお前の居場所じゃないのだと。 実は過去に『竜ヶ峰帝人から離れていった人間』がいるから今度も離れていくのではないかと恐れている、という帝人の心情に赤林さんが気付きました。(勿論、静雄さんの気持ちにも)(でもきっと静雄さんの前に正臣の件があった事は知らない) あれ? これって赤林×帝人→←静雄? でもまぁとにかく、正臣の失踪と静雄さんのダラーズ脱退は帝人にかなりの影響を齎しているのは確実だと思います。 ちなみに帝人と赤林さんは路地裏で秘密の会議中(笑)で、『あの子ら』=『ブルスクの彼ら』でした。へびのあし。 |