「おやおやおや。これはどういう事だろうねぇ」
 スーツの中に派手な柄シャツ、色つき眼鏡と、足が悪い訳でもないのに杖を携えた男は薄暗い路地で足を止め、更に暗くなっている一角を覗き込んでそう言った。視線の先にいたのは黒ずんだ壁に背を預けた格好のまま気絶している少年が一人。鮮やかな色の制服は来良学園の生徒である証だ。
 しかし男―――赤林は少年が真面目そうなナリをしている、つまりこんな場所で至る所を擦り剥き、ぐったりしている状況が全く似合わない事を驚くのではなく、その本人の顔を確認した上で、こうして自分と偶然巡り合ったという事態に幾許かの驚きと奇妙な興奮に包まれていた。
 少年の手には――仲間に助けを求めようとしたのか――携帯電話が握られていたが、連絡を取る前に意識を失ってしまったらしい。それでも長時間音信不通になっていれば、お仲間の方が自発的に捜索を始めるかもしれないが、今はまだそうなっていないようである。
 赤林は暫らく黙って少年を眺めていたが、やがてスッと腰を折ると、杖を脇に抱えて少年を抱き上げた。あまり身長が高い方ではない事は見た目から判っていたが、それでも予想以上に少年の身は軽く、赤林は色硝子の奥で少しだけ目を見開く。
「こりゃあもうちょっと食べた方がいいんじゃないかねぇ」
 苦笑し、赤林は片手で少年を抱え、もう片方の手で自身の携帯電話を取り出した。この路地を抜けた所に車を手配し、ゆっくりと歩き出す。
「こんなに軽くちゃ喧嘩するどころか、下手すりゃ道端で倒れちまう」
 間近にある少年の顔を覗き込んで赤林はひっそりと笑った。
「そうは思わないかい? なあ、竜ヶ峰帝人君」



* * *



 赤林が適当に取ったホテルの一室で怪我の治療を終えた頃、少年はようよう目を覚ました。もう少し待っても目覚めないようなら医者に診せるつもりだったのだが、その手間は省けた模様だ。しかし念のため、と赤林はぼんやりと開かれている少年の眼前で軽く手を振った。
「兄ちゃん、ちゃんと目ぇ見えてるかい? おいちゃんの言ってる事、解る?」
「…………あ、はい。見えてます」
 目覚めた直後であったためか、少々間延びした答えが返される。一応、大事には至っていないようで、赤林はほっと一息ついた。
「あの……」
「ん?」
「助けて、いただいたんですよね? ありがとうございました」
「いやいや、おいちゃんは偶々あそこを通りかかって、倒れてる兄ちゃんを見つけただけだから。どうしてあんな所にいたのか言いたくないなら聞かないけど、兄ちゃんみたいな子が近付くと危ない場所だよ」
「はい、すみません」
「おいちゃんに謝ってどうするんだい」
 赤林はそう言って苦笑を浮かべた。
 この短い会話から推測するに、この少年―――竜ヶ峰帝人は基本的に礼儀正しく素直な人間らしい。が、何のためにあのような場所にいたのか言わない辺り、ただのカツアゲで連れ込まれた訳ではないようだ。ひょっとしたら彼が率先して行っているというダラーズ内部での粛清活動に関係があるのかもしれない。
 と、そこまで考えた所で、赤林はふと“自分の容姿”を思い出した。
 初恋の女性の娘であり色々と世話をしてきた園原杏里という少女は、付き合いが長い赤林の一般人とは少し違う姿に対し特別なリアクションをとる事はない。だがそれは杏里だからであって、他の赤林を知らぬ人間ならばまずは一歩引くか警戒するか、そんな反応を見せるはず。にも拘わらず、赤林が相対している少年はどちらかと言うと杏里寄りの態度ではないだろうか。
(そりゃあ同じ学校で仲も良いって聞いちゃいたけどねぇ)
 いくら仲が良いと言っても、この状況でこの反応をするとは思えない。ごくごく普通の少年にしか見えないが、やはり中身は異なっているという事か。
「あ、あの!」
「なんだい、兄ちゃん」
「えっと、僕、何か……」
 しましたか? と続く言葉に、赤林は首を横に振った。どうやら思考のための沈黙が、少年にとっては相手が怒っているものだと取れたらしい。否定してやれば、ほっとしたように薄い両肩から力が抜ける。
「ただね、兄ちゃんがおいちゃんのこの格好を見て怖がってる様子がないから不思議だなぁと思ってたんだよねぇ」
「ああ、そうだったんですか」
 少年は淡い笑みを見せた。
「実はちょっと知り合いに似ていたので」
「おや、兄ちゃんは見かけによらず、おいちゃんみたいな人と知り合いなのかい?」
「あ、いえ、姿形じゃなくて……空気、でもないかな。なんだろう。とにかくその知り合いっていうのは同じ学校の女の子なので、見た目が似ている訳じゃないんです」
「あはは、女の子とはまた……その子に失礼じゃなきゃいいんだけどねぇ」
 そう答えながら赤林の脳裏にはある少女の姿がよぎり、すぐさま打ち消す。少年の方も知らない人間にわざわざ同じ学校の少女の事を詳しく話すつもりは無いようで、それ以上何かを言う素振りは見られなかった。
「まぁ何はともあれ、兄ちゃんの調子は悪くなさそうだ。拾ったついでに家まで送り届けてもいいけど、どうしたい?」
「助けていただいたのにこれ以上のご迷惑は……!」
 初対面で長々と引き止める訳にも行かず、ひとまず今日はこのくらいでいいか、と少年を解放する方向に話を持って行くと、少年はそういって恐縮してしまう。こういった態度は見た目通りだと赤林は思った。もし少年が裏も表もなく、このままの人間だったなら、自分も多少は杏里とこの少年の仲を不安に感じたりはしなかっただろう。しかしながら現実として、少年はダラーズの創始者であり、ブルースクウェアの気配が濃厚な粛清グループのリーダーなのだ。
(人は見た目によらないって言うが……怖い世の中だねぇ)
「えっと、ここ、池袋ですよね? だったら一人で帰れますから……」
「そうかい? 兄ちゃんがそう言うなら無理強いはしないけど」
「本当に助けていただいてありがとうございました。このお礼は―――」
「いいの、いいの。今日は変なおいちゃんが偶然一人の兄ちゃんとほんのちょっと関わっただけだから」
 こちらの情報を明かすつもりは最初から無かったので、赤林はへらへらとした笑みを浮かべながらドアの方へと歩いて行った。そのまま廊下へと続くドアを開け、緩やかかつ明確に退室を促す。
「え、あの……」
「なんならロビーまで送ろうかい?」
「いえ、ここで充分です。ありがとうございました」
 少年はベッドから降り、ペコリと頭を下げた後、すぐ傍に置かれていた己の鞄を肩に掛けて赤林が開けているドアへとやって来る。そのまま一歩外へ出て再度お辞儀。淡い微笑みを見せた後、背を向けて去って行った。
 赤林はその少年を見送り、姿が見えなくなると眼鏡の奥で左目を眇めた。
「それじゃあまた、どこかで。……会えない方がいいんだろうけどねぇ。私らの“リーダー”にとっては」



□■□



「帝人先輩! 一体どこにいたんですか!?」
 連絡を取り慌ててやって来た後輩に帝人は穏やかな笑みを向けた。
「ごめんね。ちょっと知ってる人・・・・・と話しててさ。しかもその間にケータイの電池が無くなっちゃってたみたいで」
 だから後輩―――青葉が掛けてくれた電話にも送ってくれたメールにも気付けなかった、と。そう答える帝人の携帯電話は、しかし、彼が路地裏で気を失ってから今に至るまで電池切れにはなっていなかった。なにせ昨日充電したばかりなのだから。
 そして帝人が青葉と連絡を取り合うまでにした事と言えば、“いつの間にか落とされていた携帯電話の電源を再びONにする事”だった。
(こういう事をしておいて普通に会話するんだから……怖い人だなぁ。僕の事、何か知ってるのかも。一度ちゃんと調べた方がいいよね)
 クスリと吐息を漏らす。
 傍らで青葉が不思議そうな顔をしたが、帝人は淡く笑うのみ。ただ心の中でだけ呟いた。
(ああ、本当に怖い人だ。赤林さんって)
 名乗ってもらっていないはずの人物の名を。






ア カ と ア オ






 さて、ここからはまた別の話になるが。
 かつて『文車妖妃』というインターネット上の百科事典に粟楠会の情報が掲載され、しかもまだ当の粟楠会からのチェックと特定情報の削除依頼が出されていなかった頃。ある少年がその記事を閲覧した事があった。
 記事には粟楠会の幹部の顔写真も添えられており―――
「赤鬼の赤林さんかぁ……。あはは、すごい渾名」
 それを見た少年がぽつりと呟いたとか、呟かなかったとか。






・赤帝にしたかったのに、ならなかったorz
・帝人(8巻)は赤林さんを“知らないフリ”してただけ。