『しずおさん……だいすき、です』
 腕の中でそう言ってくれた時の、お前の顔が忘れられない。






















 泥の中から這い上がるような不快感と共に静雄は目を覚ました。
 瞼を押し上げると、見覚えのある天井。そして全身からじくじくと伝わる痛みを自覚して、己のいる場所が自宅ではなく、同窓の男で闇医者を営む岸谷新羅のマンションだと気付く。
 しかし、一体どうして自分はこんな所にいるのだろう。
 天井をぼんやりと見上げたまま静雄は疑問に思った。
 全身の痛みからそれなりの大怪我を負った事は推測できるのだが、そうなった原因が判らない。
 自分は何を忘れているのだろうか。
 思い出そうとし、静雄は眉間に皺を寄せて―――



* * *



「ちょ、静雄さん!? 待って! 待ってください!!」
 平和島静雄と竜ヶ峰帝人は俗に言う恋人同士である。どちらも奥手の二人が想いを伝え合うまでそれなりの紆余曲折があったのだが、今は割愛する。
 とにかく、二人は互いを大事に思い合う恋人同士であった。驚異的な膂力を誇り、そのキレやすさと合わさって『池袋の自動喧嘩人形』と称される静雄も、自身の怪力で平均よりも小柄な帝人を壊さないよう細心の注意を払って大切に大切に接していた。
 そんな優しかった静雄が急に態度を変え、乱暴に帝人の腕を引いて道を歩いている。帝人の戸惑いはもっともだ。ひょっとしたら声には表さないだけで恐怖を抱いているのかもしれない。
 だが静雄は自宅のアパートに向かう足を止める事ができなかった。
(くそっ!)
 思い出すのは先刻の光景。
 静雄が大切にしてきた帝人。そして彼の肩を抱きながら楽しげに何かを喋っていた折原臨也の姿が。
 それを見た瞬間、静雄の中を普段臨也を見かけた時とは異なる感情が走った。
 煮え滾るマグマのようなそれではない。頭の芯まで凍りつく、絶対零度の感覚。
 ―――盗られる。
 思うと同時に静雄は折原臨也を殺すためではなく、あの男から帝人を引き剥がすために力を振るっていた。
 恋人の腕を掴んで歩き出した後の事は知らない。今重要なのは帝人の事だけで、あの憎い男ではないのだから。
「し、ず―――ッ!」
 アパートに着き、扉を開けて、静雄は部屋の中に帝人を押し込んだ。バランスを取り損ねた華奢な体躯がフローリングの上に倒れ伏す。
「痛ッ……」
「帝人」
 ガチャン、と扉の鍵を内側から掛け静雄は恋人の名を呼んだ。
 視線の先でビクリと肩が揺れる。
「ノミ蟲と何話してやがった?」
「……臨也さんと、ですか?」
 恐る恐る振り返った黒い瞳が静雄を見上げた。
「特に、何も……。いつも通りあの人が訳の解らない事を勝手に喋ってるだけで」
「いつも?」
「あ、」
 静雄の眉が吊り上がったのを目にし、帝人が「しまった」という顔をする。自分が嫌っている人間と大切にしている恋人がちょくちょく顔を合わせていると知って喜ぶ人間は普通いないだろう。帝人もそれを充分承知しているはずだ。
「帝人はそんなにあのノミ蟲とよく会ってたのか」
「や、あの、会ってたって言うより待ち伏せされてたって言うか。静雄さんが臨也さんを嫌ってるのは知ってるんですけど、僕だけじゃ何ができるって訳でもなくて、あの、その……」
 言い訳でしかない言葉を紡ぐたびに不機嫌さを増していく静雄。帝人もそれを解っているので口を噤むしかない。だが無言のままでもまた、相手の怒りを静める事はできない。
 そんな帝人の心情を静雄も察していない訳ではなかった。しかし、である。「頭では理解していても、心は―――」という表現があるように、今の静雄はまさにその通りの状態だった。
 帝人に怒りをぶつける理由は無いのに。
 彼を優しく扱ってやらねばならないのに。
 冷静にならなくてはいけないのに。
(無理だ)
 ギシギシと怒りで全身の骨が軋む。
 帝人を誰にも、自分以外の誰にも触れさせたくなかった。帝人の笑顔を向けられるのは自分だけであって欲しかった。その黒く大きな瞳が映すのは―――……
 だからこの部屋に連れて来たのに、怒りで、嫉妬で、最愛の人間に酷い事ばかりしてしまいそうになる。
 ままならない感情に大きく舌打ちして――そしてまた帝人の薄い肩が震えたのを見て、心臓が痛くなって――、静雄は部屋の奥へと進む。
 何も言わずに少年の横をすり抜けたその態度に、帝人の声が慌てて追い縋った。
「静雄さん!?」
 だが静雄は足を止めない。
 ギシギシと耳の奥で骨の悲鳴が木霊する。まるであと一息吹き込めば破裂してしまう風船のように、静雄の心身は限界に達していた。
 この時、もし帝人が静雄の怒りを受ける立場ではなかったら、帝人は恋人の状態を正確に見極めて対処していただろう。しかし不幸な事に、静雄の怒りは恋人へと向けられ、その所為で帝人もまた冷静ではいられなかった。帝人を拒絶する背中に不安が膨れ上がる。
「待って! 待ってください!!」
 置いて行かないで、と縋るように、帝人の手が静雄の腕に触れた。瞬間。
「さわるなっ!!」
 ヒュン、と風が呻った。
 その直後に鈍く大きな打撃音と、小さな呻き声。
 帝人に触れられた方の腕を大きく振り切った姿のまま、静雄はサングラスの下で目を瞠る。
「あ……」
 限界だった風船に針で穴が空けられたように。
 急速に血の気が引いていくのを感じながら、静雄の双眸が捉えたのは―――
 強い衝撃を受けてへこんだ壁と、そこから下へと向けて伝う真っ赤な液体と、
「みか、ど……?」
 頭から血を流し、床の上でぐったりとしている帝人の姿だった。
「帝人!?」
 静雄は慌てて駆け寄り、力の入っていない身体を抱き起こす。短い黒髪はべっとりと血に濡れ、薄く開いた双眸からはほとんど意識が感じられない。
「帝人! おい帝人っ!」
 本来ならば頭部を強打した人間を無闇に動かすべきではない。しかし恋人が血を流している様を目にし、それが自分の所為であることに気が動転していた静雄の頭にはその考えが全く浮かんでこなかった。救急車を呼ぶ事も、知り合いの闇医者を呼ぶ事も同じく。
 大切なものを自分の手で壊してしまった恐怖と後悔に思考の全てを奪われている。
 帝人、帝人、と。それしか知らないかの如く腕の中の恋人を呼び続ける静雄。極度の緊張で氷のように冷たくなった指先が真っ赤な血に染まっていた。
「帝人……帝人、みか」
「―――ッ……ぅ」
「帝人!!」
 黒い双眸にほんの少しだけ意識が戻る。
 静雄は血に触れた指を白い頬に這わせ、その感触を追うように帝人の瞳がゆっくりと動いたのを見て、くしゃりと顔を歪めた。
「みかっ……みかど、帝人。ごめん。帝人、ごめん。俺、お前が好きだから、お前を愛してるから。ごめん。ごめん、帝人。お前をこんな目に合わすつもりじゃ……」
 帝人の視線が静雄を捉える。意識が朦朧としているはずなのだが、静雄に嫌われていなかった事を聞いて安堵するかのように、泣きそうになっている目の前の男を慰めるかのように、帝人は淡い笑みを浮かべた。
「……ッ! 帝人、お前が好きだ! だから他人に盗られたくなかった。あのノミ蟲にも、お前の同級生にも、俺以外の誰かがお前の傍にいるのが耐えられねえんだ……! でも、我慢するから。お前が誰といても、誰と笑ってても、誰を大切に思ってても、我慢するから! だから頼む、死なないで―――」
 くれよ、と続く言葉を遮るように、帝人の指が弱々しく静雄の袖を掴む。
「……、…………す」
「みかど?」
「しずお、さん」
「何だ、帝人」
「しずおさん……だいすき、です」
 ふにゃり、と帝人が頬を緩める。
 だがその直後に続いた言葉は―――
「ごめんなさ、い」
「え……?」
 小さな、本当に小さな声で謝罪の言葉を呟いた後、帝人は薄く開かれていた瞼を完全に閉じた。
「みかど……?」
 静雄は首を傾げる。帝人がどうして目を瞑っているのか解らないとでも言うように。しかしその声は震えていた。己の腕の中にいる存在がどうなってしまったのか、どうしようもなく理解している証として。
「あ……」
 黒い瞳は瞼の奥に隠されたまま。
「あ、あ……」
 薄い胸はもう動きを止めて。
「あ、あ、あ……」
 最後の名残として閉じられた目尻から透明な雫が一滴、頬を伝って流れ落ちた。
「あ、あ、あ、あ、あああぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああ!!!!」
 帝人の亡骸を腕に抱いて静雄は絶叫する。
 信じられなかった。信じたくなかった。嘘だと思った。嘘であってくれと心から願った。
 しかしこれは現実。静雄は大切な恋人を、竜ヶ峰帝人を殺したのだ。


 数時間後、静雄は一人でとあるビルの屋上に立っていた。服や手についた帝人の血はすっかり乾いて茶色っぽくなっている。
 指に付着していたそれをぺろりと舌で舐めとって、屋上の縁まで近付いた静雄は吹き上げる風に金色の髪をなぶらせながら、一歩前へ。
(帝人、今そっちに行くからな)



* * *



「……………………………………………………、」
 長い、長い沈黙が続いた。
 静雄はベッドで仰向けになったまま天井をぼんやりと見つめる。
 サングラスが取り去られた両の目は乾いており、涙の気配など微塵も感じられない。
(新羅の部屋って何階だったっけか)
 このマンションの最上階というのは覚えていたのだが、正確な階数は忘れてしまっていた。しかしとりあえず、ここに来る前に立っていたあのビルよりは高かったはず。
 それだけ思い出せれば充分であり、静雄は痛む身体をゆっくりと起こした。首を横に回せば大きな窓ガラスがうっすらとベッドの上の静雄を映し出している。
(今度こそ)



□■□



「静雄、そろそろ目が覚めたかい? ……静雄? 入るよ?」
 カチャ、と扉を開けてこの部屋の主たる闇医者の青年が姿を表す。
 だが彼が視線を向けた先―――大怪我を負った同窓生が寝ているはずのベッドは空で、閉じていたはずの窓が開いている。
 青年はバサバサと風に煽られているカーテンを眺めると、

「……一体どれだけ繰り返すつもりだい・・・・・・・・・・・・・・・、君は」

 ほんの少しだけ悲しげに眉根を寄せ、もう何度目かになる作業を行うために部屋を後にした。







神様、
どうかあの子と一緒にいさせてください。


(それとも、俺にはその権利すらありませんか?)