切り裂き魔の一件で入院している杏里を見舞った帝人は、正臣と共に夕陽に染まる病院の廊下を歩いていた。
 言葉は無い。杏里の前では普段どおり明るく振舞っていたが、やはり特別仲の良い友人が(しかも女の子が)あのような怪我を負った事実は二人の心を押し潰すに充分な要素となり得たのだから。
 カツカツともペタペタとも取れる足音だけを響かせて静かにリノリウムの廊下を歩む。もうすぐ面会時間が終わる所為で周囲に人気は無く、その音すらどこか遠かった。
 何か言うべきなのだろうか。軽口でも叩いてこの場を和ませた方が良いのだろうか。
 軽口ならば正臣の役目だ。しかし明るい冗談が決して得意ではない帝人でさえそう考えてしまう程、二人の空気は沈んでいる。
 しかも――帝人自身は言われるまで気付かなかったのだが――杏里によると正臣には今回の件以外にも何か心配事があるらしいのだ。
(よし……)
 非日常を求める一方で、杏里と正臣の三人で作ってきた温かな空気を大切にしたいとも思う帝人は、それを少しでも回復させようと意を決して口を開いた。
「ねえ、まさ―――」
 RRRRR……。
 しかし帝人の声に被さるタイミングで正臣の携帯電話が着信を告げる。親友に名前を呼ばれかけて視線をそちらに向けた正臣は「悪ィ」と短く断ってから携帯電話を耳に押し当てた。
「はいもしもしー俺だけど」
 言いながら、正臣の視線が逸らされる。特に何かあると言う訳ではないが、窓の外へ向けられたそれを追って帝人も首を巡らせ―――
「帝人っ!?」
 ―――ようとして、そこで帝人の意識はぷつりと途切れた。



□■□



 帝人が倒れた。
 原因は不明。倒れたのが病院内だった事が幸いして、対応は迅速に行われた。しかし外傷は無く、どんな検査をしても理由が解らない。医者は揃って首を傾げ、帝人の身体はひとまず病室へと移されたが――ちなみに倒れた原因が解らないため、何かあった時に備えて個室だ――、その意識は翌日になっても全く戻る気配を見せなかった。
「帝人……」
 倒れる親友を支える事すらできなかった正臣がベッドのすぐ傍の椅子に座ってその名を呼ぶ。
 この事はまだ杏里に告げていない。同じ病院の中であるためいずれは知られる可能性が高かったが、まだ怪我の治っていない彼女に余計な心配をさせたくなかったのだ。
「……ッ」
 大事な友人を襲った切り裂き魔の事、大きく動き出しつつある黄巾賊の事、そしてここに来て平穏の象徴であるはずの幼馴染が原因不明で倒れた事。―――正臣の精神は限界に近付きつつあった。
(だからってなんでこんな時に沙樹の顔が浮かぶんだよ)
 視線の先で眠っている親友の姿を侵食するかのように、正臣の脳裏に三ヶ島沙樹の固定化した微笑が甦る。
 会いたいとでも言うつもりか。紀田正臣という人間に再びの平穏を齎してくれた親友を放って、終わったはずの少女の元へ行くのか。
 きつく、きつく両目を閉じる。
 自分自身を責めながら、けれど正臣は己が生み出す責めの言葉に否定を返す事ができなかった。


「正臣は、戻ってくるよ」
 ―――臨也さんが、そう言ってたもん。
 続く言葉を聞きたくなくて、正臣は少女の病室を出る。
 眠ったままの親友から離れた後、結局、正臣は“元”がつくであろう恋人の所へ足を向けていた。しかしそこでも生きたまま『過去』になった少女が彼女の中の真実を容赦なく突きつけてくる。今の、そして二年前からの正臣にはそれと対決するだけの意地も目的も無い。
 まさに少女の元から“逃げ出した”正臣は、ドアを閉めて廊下を歩き出し―――
「……っと」
「わっ、すみませ、」
 黒い何かとぶつかった。
 反射的に謝罪を口にする正臣だったが、ぶつかった相手が黒いコートの人間である事に気付き、思わず言葉が途中で止まる。
 なんてタイミングの悪い。確かに自分以外にもこの少女の元を訪れる人間がもう一人いる事、それが“あの人”である事は知っていたが、こんな所で鉢合わせしなくても良いではないか。
 脳裡に秀麗な顔を浮かべながら正臣は一瞬でそう毒づいた。と同時に、そんな相手に対して謝罪の言葉を切ってしまった事に、今更ながらに後悔する。
 一体何を言われるか。顔を上げるのも厭わしい。
 だが俯いて眉根を寄せる正臣の耳に届いたのは予想外の言葉だった。
「君、大丈夫……?」
(え―――?)
 あの人の、折原臨也の声ではない。
 心からの気遣いが感じられる声に釣られて正臣は顔を上げた。
(誰、だ?)
 困惑する。しかしその理由は相手が見知らぬ人だったからではない。どこかで見たはずの、紀田正臣なら絶対知っているはずの人間だと頭の中で煩いくらい声がするのに、目の前の相手が誰であるのか全く判らなかったからだ。
 身長はあの情報屋よりも低く、正臣と同じくらい。齢は二十代前半に見える。全く染めた事が無いような黒髪と、真っ黒な瞳。体格は少し痩せすぎであるように思えたが、臨也とよく似た黒色のファーつきコートの所為で正確には判断できなかった。
「大丈夫?」
 正臣が答えないままでいたため、黒コートの青年は再度窺う視線を向けてくる。慌てて首を縦に動かせば、青年は「そう。良かった」と薄く笑って正臣の横をすり抜け、そして。
「沙樹さん、入ってもいい?」
 正臣が出てきたばかりの病室のドアをノックした。
 その光景に「なっ……!?」と言葉を失う正臣だったが、彼は更に己が目だけでなく耳も疑う破目になる。閉じられたドアの向こうから少女の声が―――三ヶ島沙樹のこれ以上無いくらい明るく弾んだ声が聞こえたのだ。
「ミカドさん!? 入って! 入ってください!!」
 しかも正臣のよく知る名前を紡いで。
 驚愕する正臣を置いて、青年がドアノブに手を掛ける。
「お邪魔しまーす」
(……な、んで。なんだ、これ)
 ゆっくりと開かれる扉。
(誰なんだ、こいつは)
 その向こうに見えた、嬉しそうな沙樹の表情。
(帝人のはずがない。でも“ミカド”って……)
 沙樹の病室に青年が足を踏み入れる。
(一体何なんだよ―――)
「いらっしゃい、ミカドさん!」
「こんにちは、沙「ちょっと待った」
 ぱしん、と青年の腕を掴む。ちょうど部屋と廊下の中間にいる格好で青年の動きが止まり、その黒い瞳が正臣を捉えた。
「なにかな?」
 引き止めた正臣の意図を解っているのかいないのか。青年はいまいち感情の読めない――けれど決して相手に不快感を与えない――表情で小さく首を傾げる。
「僕がこの部屋に入るのは嫌? それとも僕に何か話があって腕を掴んでる?」
「……あんたに訊きたい事がある。んで、答えによっちゃこの部屋に入って欲しくなくなる、かも」
「そう。……って事だから、しばらくこの子と外で話してくるね、沙樹さん」
 最初の一言は正臣に、後は部屋の中の少女に向けて青年がそう告げる。だがすぐさまベッドの上から沙樹の不満そうな声が返された。
「そんなぁ。私、ミカドさんとお話したいよ。あ、って言うか正臣とミカドさんがこの部屋で話せばいいじゃない。うん、そうそう。それがいい」
「ちょ、沙樹!?」
 ぽんぽんと話を進める少女に正臣が慌てる。しかし沙樹は微笑んだまま「別にいいでしょ」と正臣の非難を切って捨てた。
「どうせ正臣は私とミカドさんの関係を知りたいんじゃないの? 正臣と臨也さん以外で私と会話する人なんてほとんどいなかったし。だったら当然、ミカドさんだけより私も同席した方が良いに決まってるよ」
 反論はある? そう問われて、正臣は言葉に詰まった。代わりに未だ腕を掴まれたままの青年が口を開く。
「じゃあ、とりあえず沙樹さんの部屋で話して、その結果、ええっと……正臣君、と呼んでも?」
「ええ」
「ありがとう。―――その結果、正臣君が僕に出て行って欲しいって思ったら、僕は素直に出て行くよ。それでいいかな?」
「……はい」
「まぁしょうがないね」
 正臣と沙樹がそれぞれ答え、やっと青年が部屋に入った。その腕を離した正臣も後に続く。
 青年が出入口に近いベッドの横で椅子に腰を下ろし、正臣はその反対側―――部屋の奥の窓に近寄って壁に背を預けた。そのまま腕を組み、油断無く青年を見据える。
「……なんだか尋問されそうな雰囲気だね」
「そりゃそうだよ。だってミカドさん、正臣から見たら自分の彼女と知らない間に仲良くなってた男、なんだから」
「あ、そっか。それはマズイねえ」
「マズイよぉ」
 ちっともそう思っていない風情で沙樹と青年が笑った。
 二人の様子に正臣は一つ溜息を吐き、「えーっと、まぁ沙樹が俺の彼女がどうかはもう言わねえけど……」と口火を切る。
「ミカドさん、で良いのか? あんたの名前」
「うん」
「じゃあミカドさん。あんたいつから沙樹の知り合いに?」
「昨日から」
「へえ、昨日から……って、はぁ!?」
 そりゃいくらなんでも短すぎるだろ、と正臣がツッコミを入れると、沙樹もベッドの上から同意した。
「それは私自身も思ったんだけどね。どうしてだろ? ミカドさんって凄く付き合いやすいって言うか……。あ、もしかしてミカドさんってば人の心とか操っちゃうエスパー?」
「だったら人付き合いも楽で良いんだろうけどね、残念ながら僕は特殊能力も何も無いごくごく一般的な人間だよ」
 沙樹の台詞に帝人は苦笑を浮かべる。
「ただ仕事上、他人とすぐに打ち解けられた方が良いから、それ用の話し方とかはちょっと勉強してるけど」
「仕事?」
 大学生のような外見の人間がすでに立派な社会人だったと知って正臣は片方の眉を上げた。
「どんな仕事してんの」
「どんな、かぁ。一言で表すとしたら……人材派遣、かな。人の労力を商品にしてる。あ、あと情報もうちの大事な商品の一つだね。人が動けば情報が生まれ、情報は人に運ばせてるから」
 情報を商品しているという所でまたもや脳裏にある人間の姿が浮かび、正臣はほんの一瞬だけ顔を顰める。だがその後すぐに青年―――ミカドの言い方が気になって問い返した。
「“うち”? それに“運ばせてる”って……。もしかしてあんた、そこの社長だったりすんのか?」
「組織を作って運営の基礎を整えただけで後は他人に任せっぱなしだけどね」
「うわ、その齢で本当に社長かよ」
「その齢ってのがいくつくらいに見られてるのか判らないけど、少なくとも君達より十年は上だと思うけどなぁ?」
 クスクスと笑いながらミカドは続けた。
「だって僕、もうすぐ二十八だし」
「うそ……」
「ええ!? ミカドさんそれ本当!?」
 正臣だけでなく、沙樹まで驚愕を露わにする。
 そんな二人の様子にミカドはまた苦笑を浮かべた。
「本当だよ。さあ、次の質問は何かな」
「ええっと、じゃあ、どうやって沙樹と知り合ったんだ?」
「偶然としか言い様がないなぁ。あ、僕が知ってる人も昨日ここに入院してね。それで……時刻は面会時間の少し前くらいでね、廊下を歩いてたらちょうど沙樹さんの病室のドアが開いて―――検診だったのかな。とにかくそれで、沙樹さんが僕を見かけて言ったんだ」
「臨也さん? って。だって本当に臨也さんに見えたんだもん」
 そう言って沙樹はじっとミカドの顔を見た。
「……こんなに違うのにどうして間違えちゃったのかな」
(黒髪と黒いコート、見た目の年齢、もしくは雰囲気……は、違うか)
 首を傾げる沙樹、そして「僕ってそんなに、その臨也さんって人に似てるの? あれ、でも沙樹さんの言い方だと全然似てないのかな?」と同じく首を傾げるミカドを視界に収めながら、正臣は胸中でそう呟く。
 上から下まで黒系のコーディネートである所は確かに臨也と共通していた。だが身長も違えば顔の作りも全く違う。こういう言い方はミカドに悪いかもしれないが、折原臨也の方がずっと美形であり、反してミカドは至って“普通”だ。年齢を考慮すると童顔という属性を追加する必要はあるようだが。そして雰囲気。臨也が爽やかながらもどこか不安を煽るような空気を纏っているのに対し、正臣がミカドから受ける印象は穏やかさと温かさ。まるで幼馴染を思い出させるような―――
(でも、希薄だ)
 似ているが、そこがミカドと帝人の決定的な違いだと正臣は思った。
 ミカドが纏っている空気は確かに穏やかで温かいが、それそのものが希薄であり、青年から現実味を奪っている。まるでこの『日常』からズレた場所で生きているかのように―――非日常に生きているかのように。
 そんな馬鹿な、と正臣は自分の考えを否定した。しかし一度そう考えてしまうとなかなか消え去ってくれない。
 彼の(他人には無い)非現実感と温かさが合わさる事で沙樹の心を容易く融かしたのだろうか。そう考察する一方で、ミカドの希薄な空気に言い知れぬ不安感を覚え始める。だが臨也に対して抱くそれとは異なり、ミカドに対して抱く不安感の明確な正体を正臣は掴む事ができない。ただただ不安で、まだ起こしてすらいない行動に対して後悔しているような、酷くおかしな感覚だけがあった。
 言葉を交わすうちにミカドへの警戒心を薄れさせつつも、新たにそんな感情を抱くようになって正臣は視線を病室内から外へと移す。きっと今、自分の顔は感情のまま眉間に皺が寄っている事だろう。そんな表情を沙樹にもミカドにも見られたくなかった。
(ワケわかんねえ……)
 不明確な不安を払拭するように毒づく。
 耳に届くのは二人の声。どうやら度々会話に登場した折原臨也についてミカドが訊ね、沙樹が答えているらしい。
(……。)
 そう言えば、ミカドも情報を商品としているのに、情報屋の折原臨也を知らないとはどういう事だろう。臨也はなかなかに儲かっている、つまり客がついているはずなのだが、同業他社とも取れるあの男の名前を聞いた事がないなら、それはモグリではないだろうか。
 などと正臣が思ったからではないが、まるで狙い済ましたかのようなタイミングでミカドの若干大きくなった声が届いた。
「ああ、『臨也さん』って情報屋の折原さんの事か。沙樹さん達って珍しい人と知り合いなんだね」
「ミカドさんは臨也さんの事知ってるんだ?」
「まあ一応は」
「……ミカドさんも商品として情報を扱ってるし、商売敵の事なら知ってて当たり前じゃねえの」
 視線を室内に戻して正臣が口を挟む。
 するとミカドはパチリと不思議そうな顔で瞬きをし、けれどすぐさま何かに気付いた顔をして「いやいや」と首を横に振った。
「今の僕とあの人じゃ勝負にならないよ」
 言葉の意味をそのまま取るなら、情報を商品とした場合にミカドの会社は臨也に遠く及ばないと事実か謙遜を言っている事になる。だが正臣はそんな当たり前であるはずの考えに妙な違和感を感じた。何の根拠も無いが、まるでミカドが臨也を見上げるどころか見下しているように思えたのだ。
(まさか、な)
 かぶりを振って正臣は苦笑した。いくらなんでもこれは考えすぎだろう。
「正臣君? どうかした?」
「いや、なんも。それよりミカドさん、最初のアレだけどさ、変に引き止めてすみませんでした」
 この部屋に入る際、ミカドに対して敵意を見せた事を謝罪する。ミカドも「ああ、そういえば」といった感じで思い出し、気にしていないのだと笑みを浮かべた。
「沙樹がこんなに楽しそうなのも久しぶりだったんで、ミカドさんさえ良ければこれからも来て欲しい。……って、俺が偉そうに言える事じゃねえんだけど」
「そう? じゃあ機会があればまた寄らせてもらってもいいかな」
「ええ」
「勿論!」
 自分の後に沙樹の答えが続くのを聞きながら、正臣は「そういえば」とミカドが言っていた事を思い出した。
「ミカドさんも誰か知ってる人が入院してるんだっけ」
「うん。だから“彼”が目を覚ましたら僕ももうここに来る理由は無くなっちゃうだろうね」
 仕事もあるし、と続く言葉に、なんとなくミカドの見舞う相手は彼にとって余程重要な人間だというのが推測できる。それをミカド本人に言うと、彼は曖昧に笑って答えをはぐらかした。
 だがそれに対して正臣が何か言う前に青年は椅子から立ち上がる。
「ごめん。そろそろ本命さんの様子を見に行かなくちゃ」
「ええ、もうそんな時間なの?」
「本当にごめんね。また機会があったら寄らせてもらうから」
「絶対だよ!」
 沙樹の言葉にミカドはまた笑みだけを返し、次いで正臣を見た。
「正臣君も、それじゃあね」
「ん」
 だいぶ年上の人間に対して終ぞ敬語は使わなかったな、と思いつつ、正臣は黒いコートに包まれた背中を見送る。
 ドアが閉まり、足音が聞こえなくなるまで待って、更に十秒ほど数えた。
「……じゃ、俺も行くわ」
「うん、バイバイ」
 ミカドと話していた時とは別の、正臣が知っている三ヶ島沙樹らしい微笑を浮かべて少女はベッドの上から手を振った。それを一瞥し、正臣もまた部屋を出る。
 足が向かうのは病院の出入口―――ではない。ミカドと話した所為なのかどうかは判らないが、無性に幼馴染の顔を見たくなったのだ。


 形式だけのノックをして返事を待たずに――どうせ返って来ないのだから――ドアを開ける。
「帝人ぉ、また来てやったぜー」
 なるべく軽い口調を意識して入室。だが、正臣はすぐ先客が居た事に気付いて目を瞠った。
「え……ミカド、さん?」
「あれ、正臣君? さっきぶり」
 竜ヶ峰帝人の病室に居たのは、先刻別れたばかりのミカドだった。
 思わぬ再会、しかもこの状況から察するにミカドの見舞い対象は正臣の親友という事になる。
「あんた、帝人と知り合いだったのか」
 沙樹の病室の時とほぼ同じ位置に椅子を置いて座っていたミカドへ問い掛ける。
 正臣が入室した際に背後のドアを振り返っていた青年は視線をベッドの上の少年へと戻し、「“知り合い”かぁ……」と呟きながら苦笑を漏らした。
「ちょっと違うね。僕はこの子を知ってるけど、この子は“まだ”僕を知らない」
「何を言って、」
「正臣君」
 相手の言っている意味が解らず問い直そうとするも、ミカドの言葉によって遮られる。その事に多少ムッとしたが、ひとまず苛立ちを裡に抑え込んで相手が言うに任せた。
「少し、話を聞いてくれるかい」
「話?」
「そう。君達よりほんの少し『過去』と『この先の“可能性”』を知っている者として、ちょっとだけね」
 正臣に背中を向けたまま青年は語り始める。
 一つ目、と背後の正臣からも見える位置で人差し指を立てた。
「『赤色』は五年くらい前からずっと赤色のまま」
 二本目の指が立つ。
「『黄色』は三年前から黄色になっていて、二年くらい前に黄色を一時辞めた。でも最近また黄色に染まり始めてる」
 そして三本目。
「『青色』はまだ青くない。『無色』の状態。でも『黄色』が離れたらきっとすぐに青く染まる。『赤色』と『黄色』の場所を守るにはそれしかないと思って……いや、これは偽善か。『黄色』に置いて行かれて、よすがを他に求めたのかもしれないね」
 立てていた三本の指を下ろし、他者を嘲笑すると言うよりもまるで己を嗤うかのように青年は緩く首を横に振った。
 その背後で正臣は首を傾げる。
 青年が告げた三つの色はおそらく人を指しているのだろう。そういうニュアンスだった。しかしそれぞれの色が誰を指しているかまでは判らない。『黄色』や『青色』に関しては思い当たる“組織”があるけれども、加えて『黄色』が自分のよく知る―――知り過ぎている人間のように感じたけれども、まさか想像どおりだとは思えなかったし、思いたくもなかった。
 しかし正臣の“願い”を押し潰すように、青年は再びこちらへと振り返る。
 その黒い瞳がしっかりと正臣を捉えて何かを耐えるように歪められた。
「ね。だから、傍にいてあげて。離れないで」
「な……にが、ワケ、わかんね」
 絞り出した声は情けないくらい掠れていた。
「解ってるはずだよ。『赤色』に関して君ははまだ知らないだろうけど、そう遠くない内に知る事になる。どうして僕が『青色』はまだ『無色』だって表現したのかも、たぶんそのうちに、ね」
「…………、」
「今の僕が語れるのはほんの少しの過去とこの先にある可能性の一つ、そして僕の自分勝手な“願い”だけ。君が僕の話を聞いてどうするかまでは、僕に決定権なんてない。むしろ君が動いた結果を知る事すら僕にはできないだろう。僕が君に可能性の幅を広げさせるような話をするというのは、つまりそういう事だから」
 そこで一度言葉を切り、青年は正臣のよく知る人間と全く同じ微笑を浮かべる。

正臣・・

「っ!」
 特定の人物からの聞き慣れた声音、聞き慣れたアクセントの呼称を耳にして正臣はハッと目を瞠った。
 視線の先で青年が苦笑する。
「僕は“ミカド”。もう気付いてるだろう? 今から十二年後、僕は僕になっているかもしれない。その岐路の一つに君が居る。ただ僕は願いを口にしたけど、それでどうするかは正臣次第だ。君が何をしたって僕の『今』は変わりようが無いしね。変化を促した僕が存在し続けなければその変化も生まれなかった事になってしまうから」
 青年は諦めにも似た表情でそう言うと、両目を伏せて苦笑した。
 彼の言っている事が理解できないのか、理解したくないのか、今の正臣には判らない。しかし理解しなければいけない部分だけはどうしようもないくらい直感が働いていた。ゆえに正臣は声を失い、否定の気持ちで首を横に振る。
 しかしそんな正臣の姿を見て青年は、
「ごめん。ちょっと言い逃げをさせて貰うよ。正直、君が次に何を言うのか聞くのが怖いんだ」
 言いながら、ミカドはスッと手を伸ばす。
「だから沙樹さんには悪いけど、もう来られないやって伝えといて。……じゃあね」
「なっ!? ちょっと待―――」
 引き止める間も無く、ミカドが帝人の額に触れた瞬間、正臣の目の前でふわり、と。まさしくそう表現するしかないような軽さで一人の人間が消えた。まるで最初からそこには誰も居なかったかのように、ほんの瞬き一回分の間に黒いコートの青年はこの世界から姿を消した。
「………………、」
 ミカドの消失と合わせるかのように眠っていた帝人の瞼がふるりと震える。覚醒が近い。
 やっと訪れたその時に、本来ならば諸手を挙げて喜んでいいはず。しかし正臣は幼馴染の白い顔を見つめながら震える声で虚空に言葉を放った。
「そんな訳ねえ、よな……?」
 ―――ミカドは帝人。
 ―――紀田正臣の行動によって未来に存在する可能性の一つ。
 ―――正臣が望む『平穏の象徴たる竜ヶ峰帝人』から乖離した存在。
「なあ帝人……みかど。そんな訳ねえよな?」
 正臣の呟きは無意味に、無情に、病室の中へと霧散した。







主よ、我を憐れみたまえ!


けれど、応える声はない。