繚乱 07
-D part-






(折原臨也)

 ごそごそとすぐ傍で何かが動く気配を感じ、眠っていた俺の意識は半分だけ覚醒した。
「な、に……」
「ああ、すみません。起こしちゃいましたか」
 控え目な声で答えが返ってくる。誰だろう? あ、帝人君か。
 にしても帝人君、こんな時間に――と言っても正確な時間なんて判らないし、部屋が暗いからそう表現するだけなんだが――起き上がって一体どうしたんだい。
「これからちょっと出掛けてきますね」
「でかけ、る……?」
 頭どころか身体の方もまだまだ眠りを欲していて、上手く舌が回らない。視線だけで暗がりにぼんやりと見えるシルエットを窺うと、帝人君がくすりと笑みを漏らしたのが判った。
「ええ。夜には帰って来ますから、折原君は自由にしていてください」
「ん……」
 頭をゆっくりと撫でられ、気持ち良さに目を細める。
 だがその感触と温度はすぐに離れ、俺は一抹の寂しさを感じていた。―――いつの間にか意識は再び闇に呑まれ、感じた寂しさすら判らなくなってしまったけれど。


「…………あ、れ?」
 目が覚める。
 空には朝日が輝き、部屋の中も周囲を視認するには充分な光量で満ちていた。が、傍らにいるはずのものが無くて寝起き早々に俺は首を傾げた。
「みかど、くん……」
 どこに行ったのだろう。
 すっかり体温が消えてしまったシーツの感触を確かめながら、ぼんやりとした頭で思案する。しかし、直後。本日未明――だろう、おそらく――の出来事を思い出して一気に目が覚めた。
「ぅ、わ……あ、…………そう、だった」
 帝人君が出掛けたのを思い出したからじゃない。
 彼が出掛けると言った際に俺自身がやった行動、感じた事を思い出したからだ。誰かが見ている訳でもないが、思わず両手で顔を隠して俯いた。
 えええ。何やってんの。ホント何やってんの俺。寝る前のあれやこれやは半分ふざけてやってたけど、帝人君が出掛けると言った時のあれは100%寝ぼけてた。つまりある意味では素のまま。
「あー」
 駄目だ。恥ずかし過ぎる。帝人君が戻って来る前にいっそ死んでしまいたい。
「…………。」
 指の隙間から窺う独りきりの部屋。隣室からも他人の気配は感じられず、俺は虚しくなって顔を覆う両手を脇に垂らした。そしてぽっかりと空間を空けたベッドに再び視線を移す。途端、羞恥とは別の感情が湧き上がってきて俺は眉根を寄せた。
「寂しい、のか?」
 口に出して言ってみるも、それが本当に正しいのかどうか判らない。寂しいのかもしれないし、やっぱり恥ずかしくてそれ故に怒りに似た心の動きをしているのかもしれないし、もっと別の感情が働いているのかもしれない。
 ただ一つ確かなのは、その日、帝人君が帰宅するまで俺はずっとその感情に囚われていたという事だ。



* * *



 夜。
 ガチャリと玄関扉の鍵が開く音を聞き、俺は椅子から立ち上がった。足は勝手に玄関へと赴き、この部屋の主を迎え入れる準備をする。
「……おかえり、帝人先生」
 半日以上ぶりに見る帝人君は俺の出迎えが予想外の物だったらしく、玄関に突っ立ったままキョトンと目を丸くした。が、すぐに口元を緩ませて笑みを形作る。
「ただいま戻りました」
「うん、おかえり」
 それが嬉しくてもう一度同じ事を口にする。
 なんだろうね。今の俺、すごくほっとしてる。帝人君がいない昼間はずっとモヤモヤして、苛々して、自分で何がどうなってどうしたいのか全く解らなかったっていうのにさ。こうして帝人君の姿を見て声を聞いていると全てが消え去ってしまうんだ。
 連れ立って部屋に移動した俺達は、その後、俺が作った夕食を摂りながらゆっくりとした時間を過ごした。
 帝人君はパソコンからネットに繋ぐ事も携帯電話の着信を確かめる事もなく、昨夜と同じように「美味しいです」と言って食べてくれる。その合間に挟むのは取留めのない会話。話題を振るのはほとんど俺からで、朝の間に見たニュースでこんな事を言っていたとか、暇つぶしに読んだ本の内容がどうだったとか、そんな事ばかり。
 そして話の流れで学校の事に移った時、俺はふと頭に浮かんだ疑問を口に出していた。
「ところで俺もそうなんだけどさ、先生もこの二日間学校休んだ事になるんだよね?」
「ええ。ですが明日からはちゃんと出勤しますよ」
「……って事は」
「全て片付きました」
「そういうのはまず最初に言おうよ、先生」
「すみません。折原君が作ってくれた料理を見たら、食べた後でもいいかなぁと思ってしまって」
「それって褒められてるんだよね?」
「勿論」
 優先順位が『俺の料理>俺の後始末』って事なんだろうけど……素直に喜ぶべき所なのか、ここは。確かに我ながら料理の腕はなかなかの物だと思うけどさ。
「ともかく、今日で全て終了です」
 そう言いながら、帝人君はポケットから何かを取り出した。
「終わりの証明として、折原君にはこれを」
「何、これ」
「御覧の通り、マンションの部屋の鍵ですよ」
 帝人君がにこりと笑う。君が明日から暮らす新しいマンションの、と付け加えて。
「今まで住んでいた所はちょっと使えなくなってしまったので。……ああ、でも安心してください。別に何処かの誰かが折原君の住所や学校を調べて今も狙っていると言う訳ではありませんから。後片付けのちょっとした余波と言いましょうか。すみません、そこまで手が回らなくて」
 苦笑しつつも申し訳ないと感じているのがよく判った。
 でも、ああ、でも。帝人君の言葉にも受け取った銀色の鍵にもプラスの感情を抱く事が出来ない。
「代わりと言ってはなんですが、荷物の移動は全て終えていますから。明日の朝か、もしくは学校帰りに直接“帰って”いただけます。この二日間、お疲れ様でした」
「……っ」
 この帝人君のマンションではなく、新しく用意されたと言う俺の部屋に“帰る”という表現。当然のはずなのに、帝人君の口からそれを聞いた瞬間、胸を掻き毟りたくなるような痛みが走った。
 そんな自分の変化を表に出さないよう苦心している間に、帝人君は更にひどい言葉を続けてくれる。
「きつい事を言うようですが、今後はもっと自分の限界をわきまえて保身を怠らないようにする事ですね。でなきゃそう遠くないうちに消されてしまいますよ」
 ああもう、本当に怖い事を言うなぁ。けれどそれは俺のための言葉でもあるんだろう。いつまでも、何回も、帝人君が俺の尻拭いをしてくれる訳じゃない。次からは自分で自分を危険に晒さないように気をつけなくてはいけないのだと。
 でもその気遣いの言葉が今はとてつもなく痛かった。
 この二日間のように傍にいるのはこれ切りだ、と言われたような気がして。……いや、実際そういう意味なんだ。
 手の中にある新品の鍵が凍えるように冷たく感じる。このまま凍傷になるほど冷たければ勢いよく投げ捨てる事だって出来ただろうに。けれどそんな冷たさなんて俺の妄想でしかなく、現実は体温でぬるくなった金属がそこに在るだけだ。
 全身を苛む幻想の痛みに耐えるかの如く俺は貰った鍵をぐっと握り締めた。せめて現実の痛みが幻を凌駕してくれまいかと。
「……う、ん。解ってるよ。これからは気をつける。それから鍵、ありがとう」
 自分の本心に気付きながら口は全く逆の事を言う。俺は鍵をポケットに突っ込んで笑みを浮かべた。
 残っていた料理を口に運ぶが、何の味もしない。まるで砂を噛んでいるようだよ。
 嗚呼、痛い。
 痛い痛い痛い痛い痛い痛い、いたい。――――――居たい。
 もっとずっと一緒に居たかった。むしろここに居られるならどんなに俺自身が危ない状況に陥っていても構わないとすら思う。でもそんな馬鹿げた夢が叶うはずもなく。
「先生、もっと食べなよ」
 と笑い、俺はただ「いたい」と無音で呟きながら最後の夜を過ごす事に決めた。








臨也編、終了です。

(2010.05.26up)