繚乱 06






(平和島静雄)

「紀田、先生と仲いいんすか」
 思わず呼び捨てになりかけ、慌てて“先生”と付け加える。普段なら、他の人間相手なら、たとえ教師だろうと平気で呼び捨てに出来るのに、こいつ相手だと何故かいつも通りにいかねえ。萎縮なんてしてるはずがないから、きっと俺は竜ヶ峰に悪く思われたくないんだろう。
 しかし、だ。何だったんだ今のは。
 今日は先日の礼として――放課後にクッキーをご馳走になったから――昼は外食や市販の弁当類が多いという竜ヶ峰のために、家で弁当を二つ作ってもらって来た。それを持って保健室に向かえば、いたのは勿論この部屋の主である竜ヶ峰―――だけではなく、俺がこの高校に入学した当初から教師をしていた紀田正臣の姿まで。同僚だし、何か話す事もあるとは思う。けれど二人の間に流れる空気はただの同僚じゃ説明のつかない雰囲気が漂っていた。気安さと言うか、竜ヶ峰が俺と相対する時とは別種の穏やかさと言うか。しかも(こっちを気遣ってあからさまな態度にはなってなかったけど)竜ヶ峰と紀田は短く内緒話までしてやがった。
 そして、そして―――
「同性の額にキスする大人とか、初めて見ました」
「あははっ……変なところをお見せしてすみません。彼、昔からやたらとテンションが高くって」
 時々おかしな行動を起こすので今の事は気にしないでください。そう続けて竜ヶ峰は苦笑を浮かべる。
 っつか“昔”って事は……。
「以前からの知り合い、とかですか?」
「ええ、まあ。幼馴染なんですよ」
「あー……だから先生の口調、俺と喋ってる時と違って砕けてたんすね」
 まあ、幼馴染だからって去り際にデコちゅーするのは非常におかしいが。あれには驚いた。俺が保健室の扉の一部を破壊しちまったのも、たぶん二人の(正確には紀田だけか?)行動に吃驚したからだな。
 先刻の自分が起こした無意識の行動にそう理由をつけ、少し落ち着いたところで竜ヶ峰に視線を合わせる。すると彼は俺の質問に対してキョトンとその大きな目を見開くと、
「僕、そんなに砕けた言葉で喋ってました……?」
「ついでに紀田先生の事を下の名前で呼び捨てにしてましたよ」
「ええっ!? う、わ……」
 自分の口から漏れていた言葉に気付けなかったのか、竜ヶ峰は頭を抱えてまさに大混乱といった風情だ。童顔教師の纏っている雰囲気が年相応ではなく“姿相応”になっている。
 俺は手に持っていた二人分の弁当を適当な台の上に置き、怪我の治療の際にいつも座っている椅子を引っ張って来てそこに腰を下ろした。今はどこにも怪我なんて負っちゃいないが、竜ヶ峰の正面となる位置で。
「先生、」
「ただでさえこんな童顔なのに喋り方まで学生時代のままだとかホント笑えない……!」
「竜ヶ峰先生」
「えっ、あ、はい! ああもう、本当に見苦しいところをお見せしてしまって―――」
 ぶつぶつと先刻の己の所業に後悔の真っ只中らしい竜ヶ峰の名前を呼び、ようやく大混乱の嵐からこちらに意識を向けてきた相手に俺は殊更ゆっくりと言った。
「大丈夫ですよ」
「え……?」
「俺は良いと思います、先生のその喋り方。……や。なんとなく、なんすけど」
「そうですか……? あ、いや。そう、かな?」
 どうやら普段の丁寧な喋り方より砕けたそれの方が竜ヶ峰にとっても馴染み深く、使い易いようだ。言い直した言葉に違和感が感じられなくて俺はふとそう思う。
 それにまあ、何て言うか。誰に対してもデフォルトで丁寧語なら別にどうって事ないのだが、実際に竜ヶ峰が特定の相手に対して砕けた口調で話しているところを見ちまうと、俺にだってそんな親しげな話し方をして欲しいと思ってしまったりする訳であって。
 そうかな? と僅かに首を傾げた竜ヶ峰を真正面に見据え、俺の口は無意識に告げていた。
「ん。そっちの方が好きだ」
 …………。って何言ってんだ俺ー!!
 前言撤回しようにも、それはそれで問題だろうそうに決まってる! それにほら、丁寧な方と砕けた方のどちらが親しげかと言えばそりゃ勿論後者で、そして俺はこいつの事が嫌いじゃなくてむしろ好きと言うか―――ってホントマジ俺ってば何考えてんだよ!!
 俺は羞恥のあまり手近な物を掴んで砕くなり捻じ曲げるなりしそうな勢いだった、のだが。
「せん、せい……?」
 正面に座る人間の異変に気付いて呼びかけた。
 竜ヶ峰はこちらを見ている。俺も竜ヶ峰を見ている訳で、所謂目が合っていると言う状況だ。そんな中で、黙り込んでいた竜ヶ峰の顔、が……。
「先生。顔、真っ赤っすね」
「う…………あ、……だ、だって」
 茹蛸のように真っ赤に染まっていた。
 頬も目尻も耳も、首筋までも。どこもかしこも真っ赤なまま竜ヶ峰が視線を逸らす。
「あの、えっと。じゃ、じゃあこれからは平和島君と話す時って、こっちの口調の方がいいのかな?」
「あ。ついでに俺、名前が静雄なんで―――」
 そう呼んでくださいよ、と。竜ヶ峰が紀田の事を“正臣”と呼んでいた情景が脳裏を過ぎり、俺の口はまたしても主人である俺を裏切って音を吐き出していた。だが今度はこちらが動揺する暇もなく、おそらく向こうもまともな状態ではないだろう竜ヶ峰が再び視線を合わせてくる。
「し、静雄君!!」
「はっ、はい!!」
 いきなり名前を呼ばれて(そりゃ俺の口が言っちまったんだけどさ!)反射的に背筋を伸ばす。ああ、今絶対、俺の顔も目の前の人と同じ事になってる。確実だ。なにせ顔面も耳も熱くて堪らないんだからな。
 そんな俺の顔を真正面から見る事になった竜ヶ峰はこちらの赤面に釣られたとでも言うのか、更に赤味を増して「わ、あ……」と意味の無い音を吐き出していたが―――。
「あ、あは……。なんか照れるねー。でもこうしてると一気に仲良くなれた気がするよ」
「えっと。俺も、そう思います」
「それじゃ、改めてよろしく。静雄君」
「お願いします。竜ヶ峰先生」
「うん。あ、でも他の生徒や先生達がいる所だと恥ずかしいって言うか……ほら、この顔と相俟って本当に年相応に見てもらえなくなっちゃうから、今まで通りでいてくれると嬉しいんだけど」
「先生がそう言うなら……」
「ありがとう」
「……っ」
 うわ、あ。なんだこれ。さっきまで紀田の事にちょっとイラついてたりしてたのに。(あれ? 驚いてたんだっけか? あれ……? まあ良いや。)とにかく今はなんだか全然嫌な感じがしねえ。
 理由とか俺自身の頭の中身とか、そんなものは全くもって不明。ブラックボックスもいいところだろう。でも竜ヶ峰を前にして俺が抱いているのは決して嫌なものじゃない。
 だからさ、今はただ確実に言えるのは、
「じゃあお昼にしよっか?」
「っす」
 今日の昼飯はいつもより絶対ぇ美味いに違いないって事だ。








(2010.05.15up)