百花繚乱 02
(平和島静雄)
「いらっしゃい。凄い音でしたね」 ガラッと遠慮も躊躇もなく保健室の引き戸を開けると、養護教諭の席に見知らぬ男が座っていた。 「……あ?」 「? どうかしましたか?」 「……、ああ。新しい保健の」 「あ、はい。はじめまして。竜ヶ峰帝人と言います」 童顔をくしゃりと笑みの形に変えて、新しい養護教諭はそう名乗った。臨也との喧嘩で頭に血が上っていた所為ですっかり忘れてちまっていたが、今年からこの部屋の主が新しくなったんだよな、そう言えば。 俺が来たってのに逃げてねえって事は、まだ誰もこいつに俺の事を話していないのだろうか。だからまだこいつは俺を前にして笑っていられるのだろうか。 「さあ、そんな所で立ち止まっていないで。ここに座ってください。傷の具合は……う、鋭利な切り傷で」 言葉に従って指定された椅子に腰掛けると、ノミ蟲のナイフで切り裂かれた傷を見て竜ヶ峰がなんとも言えない顔をする。だが動作が止まったのはその一瞬だけで、竜ヶ峰はすぐに慣れた様子で俺の怪我を治療し始めた。 沁みますけど我慢してくださいねー、なんて一体俺を何歳だと思ってんだ。けれど相手に悪気が無いのは解るから怒るに怒れない。つーか下手に何かしたら、こんなひょろっちい奴が相手だと意図せずとんでもない大怪我を負わせちまいそうで、なんだか恐怖すら抱いてしまう。 体中が妙な緊張感に包まれるのを自覚しながら、手持ち無沙汰な俺は改めて竜ヶ峰を眺めた。 まず抱く印象は「幼い」だろうか。俺より年上ってのは判るが、それでも大学生くらいに見える。とても社会人とは思えねえ。しかし俺に触れる手つきは優しくて、まるで小さい頃に親が頭を撫でてくれた時のような感覚に陥る。ああ、こいつは俺よりずっと年上なんだって。俺を怖がって目を合わせようともしない教師共よりも竜ヶ峰の方がずっと大人である気すらしてくるのだ。 でも、と思う。 今はこうして“保健室の先生”と“生徒”としてやっていられるが、そう遅くない内にこいつも俺には触れなくなってしまうのだろう。俺の化け物染みた力を知って、キレやすい性格を知って、俺がどんなに危険人物かを知って、そして恐怖に染まった顔で俺を一瞥したら、それ以降は目も合わせなくなる。 ズキリ、と心臓の辺りが痛みを訴えた。 ああもう、なんだこれ。ナイフで裂かれた訳でもないのに、なんでこんなに痛ェんだよ。 空いている方の手で胸の辺りを掴み、制服に不恰好な皺をつける。「どうかしましたか?」なんて訊かれても答えられるはずがない。自分にだってよく解ってねえんだから。 「平和島君?」 「なんでも…………、」 ない、と続けようとしたが、竜ヶ峰の台詞に引っ掛かりを覚えて俺はまじまじと相手を見つめた。 今こいつ、俺の名前を呼んだのか? つまり、それは―――。 「竜ヶ峰、先生、は、俺のこと知ってるんすか」 「知ってますよ? だって君達は有名じゃないですか」 僕が前にいた学校でも名前くらいなら聞こえてきましたし、と竜ヶ峰は笑う。 そんな相手の態度が俺には信じられなかった。だって俺の名前(あとおそらく“達”が付いたから臨也の名前も)を知っているなら、当然普通の人間ならば近寄りたくないと思ってしまう方の話まで耳に届いているはずだ。にも拘わらず、こいつはそれが何でもない事であるかのように振舞う。俺を恐れていない。 それとも竜ヶ峰は俺にまつわる話を嘘だと思っているのだろうか。いや、待て。最初だ。俺がこの部屋に入って来た時の事を思い出せ。その時こいつは何と言った? “凄い音でしたね”? つまり俺と臨也の喧嘩がその音の発生源だと理解していたはずなんだ。なのに何故。ああワケわかんねぇ…! 「平和島くーん。とりあえず片方終わったからそっちの手ぇだしてくれます?」 「…………。」 こっちが結構真剣に頭悩ませてんのに、そうやって暢気な声を出されると気が削がれるんだが。 「平和島くん、右手ですよ。右手」 「お、う……」 「よろしい」 消毒液が染み込んだ脱脂綿をピンセットで摘まみながら作業を続行する竜ヶ峰。なんだこの光景は。頭の中ではさっきから疑問しか浮かんでこない。しかもどれ一つとして解決してねえ。 「先生は、さ」 気付けば、胸の中でわだかまる思いを吐き出すように口を開いていた。 竜ヶ峰は視線を俺の傷口に落とした状態でこちらの声に答える。 「なんでしょう?」 「先生は……俺の事、怖くねえの?」 「おかしな事を訊きますね」 腕に包帯巻きつけながら竜ヶ峰がほんの少し口角を上げる。嫌味なんてちっとも含んじゃいない、穏やかさそのものを表すような微笑だった。 「怖がる理由が無いじゃないですか。君が理由も無く他人を傷つけたと言う噂は一度だって聞いた事がありませんし、現に僕は君に危害を加えられていない。それどころか僕を赴任してきたばかりの若造だからって嘲る事なく、こちらの言葉にはきちんと従ってくれますしね」 「……先生、よく“変わってる”って言われるだろ」 「否定はしません」 包帯を巻き終え、竜ヶ峰が顔を上げた。 改めてこいつの目を見ながら、そこに嘘が含まれていない事を感じ取ってほっとする俺がいる。本当にこの竜ヶ峰帝人という人間は平和島静雄を恐れていないし、嫌悪もしていないのだ。俺はその事がただ純粋に嬉しかった。 「なぁ先生」 「処置は終わったんで教室に戻りましょうねー……って、はいはい。何でしょう?」 「また来てもいいか」 捲り上げていた長袖を元に戻して包帯が巻かれた腕を隠す。そして椅子から立ち上がりながら問い掛けると、竜ヶ峰は一瞬キョトンと呆けて、それからすぐに両目を細めて穏やかな表情を浮かべた。 「体調不良や怪我をした場合なら、勿論。と言うか当然来ていただかないと。それから遊びで来るというのなら、きちんと休憩時間中にしてくださいね? 僕もこの学校の先生なんですから」 「ん、わかった」 「じゃあもう行きなさい。まだ授業が始まったばかりですし、今ならほんの少しの遅刻で済むでしょう」 その台詞に背中を押され、保健室を出る。 一礼して扉を閉めながら俺は“それ”に気付いた。痛みを訴えていたはずの胸が全く苦しくないのだ。それどころか今は暖かいもので包まれているように感じる。 「また来て、いいんだよな」 自分の問い掛けとそれに対する竜ヶ峰の返答が信じられなくて、それが事実なのだと己の裡に刻むように頭の中でやり取りを繰り返す。竜ヶ峰の手も声も表情も、どれもが優しかった。嬉しかった。家族以外にもこんな人間っているんだな。(新羅はちょっと他人とは違う考え方の持ち主なので除く。) もうとっくに授業開始のチャイムは鳴っており、保健室前の廊下には生徒の影など一つも無い。 遠くからどこかのクラスで教師が授業をしている音が聞こえてくる。その音を聞き、無人の廊下を歩きながら、俺はノミ蟲と喧嘩をした後だと言うのに己がとても上機嫌で足取りが軽い事を自覚して、思わず咳払いをしてしまった。浮かれすぎだろ、俺。 (2010.05.02up) |