《黒子テツヤ 1》


 不要だと、お前のバスケでは勝てないと言われた。
 この手がボールをスティールする前に彼らは自分で敵チームからボールを奪ってくる。
 この手がパスを出さずとも、彼らは自分でコートを縦横無尽に走り抜くことができる。
 彼らは強い。強いから、パスの能力だけを磨いてやっとコートに立てるような人間など、もう要らなくなってしまった。
 チームプレイをしないチームはこの手を、この身体を、この心を必要としない。卓越した能力を持つ個人が好きなように振る舞うだけでいい。
「ボクは……」
 中学生活最後の全中決勝戦が終わり、勝利の余韻に浸るでもなく淡々とベンチへ戻っていくチームメイト達から全く意識を向けられることなく、黒子テツヤは体育館の天井を仰いだ。
 影としてコートに立ち続けてきた黒子は上から降り注ぐ強烈な照明の光の下で水色の双眸を細める。
 あまりにも抱えた虚無が大きすぎて、目は痛いくらいに乾き、涙の一滴さえ流れなかった。

* * *

(退部届も出しましたし、受験勉強をしなくてはいけませんね)
 徒歩で帰宅しながら黒子テツヤは独りごちた。
 強豪と名高い帝光中学校バスケットボール部の一軍レギュラーならば、スポーツ推薦で学力テストなしのまま高校にも行けただろう。しかし黒子はカラフルな頭の仲間達――いや、元£間達とは違い、目立つような選手ではなかった。そして更にはつい先日、引退を待たず全中直後に退部届を出してしまっている。ゆえにスポーツ推薦などあるはずもない。
 この時代に中卒と言うのも気が進まず、黒子は他の多くの生徒達と同じく高校進学のために受験勉強を始めなければならなかった。部活で体力を根こそぎ奪われる日々であったが、幸いにも成績は中くらいをキープしている。変な高望みさえしなければ無事に高校入学の切符を手に入れられるだろう。
 高校に入ったら何をしようか。一年前の自分なら一も二もなくバスケ部で青春を謳歌することに決めたと思う。だがチームプレイのないチームで最後を迎えた黒子はもう、ボールの感触やバッシュのスキール音、ネットが揺れる音……そういったものが、嫌で嫌でたまらなかった。あんなに好きだったバスケを嫌いになってしまっていた。
 全ての手触りが、全ての音が、バスケに関わる全ての光景が、「お前は要らない」と黒子を嘲るようで。
「……っ」
 思い出しただけでも痛みが胸を支配する。
 黒子は合わされなくなって久しい拳を反対の手のひらでぎゅっと包み込んだ。
 と、そんな時だった。ちょうど横を通りかかっていた公園の木々の向こうからガシャンと何かが大きく揺れる音とボールが地面を打つあの力強い音が聞こえてきたのは。
「――、」
 知らず黒子は息を詰めていた。
 嫌で嫌でたまらないあの音。それなのに気になって仕方がない。
 それは、おそらくダンクシュートによって奏でられたであろう音の直後に子供達の「おっさんすげー!」「すげー!」と興奮した声が聞こえてきたからかもしれないし、そんな彼らの賞賛の後で「おいコラおっさんじゃねーよ!」と成熟した男性の怒りながらも楽しそうな声が聞こえてきたからかもしれない。
 気が付くと、黒子の足はその公園の方へと向かっていた。ここは決して大きな公園ではないが、ストバスのコートを併設している。黒子も幾度となく足を運んだ場所だ。
 まるで糸で引っ張られているかのように、意識とは裏腹に身体が歩を進める。帝光ではここ最近全く耳にしなくなった楽しそうにバスケをする音≠フ方へ。
 そして木々の間を通り抜け、黒子は見た。
 炎のような赤銅色の髪と目を持つ男性が子供達と一緒に、そして誰よりも楽しそうにバスケをしている姿を。
 長い手足を持つ高身長の男はまるで翼でも生えているかのように高く飛び、力強いシュートを決める。肉体も技術も最高ランクだというのは一瞬で見て取れた。だが独り善がりなプレイではなく、周囲の子供達にパスをして、またパスをもらい、シュートが上手く決まればハイタッチをする。
 いいな、と。ふと思った。
 そんな自分の心境に黒子は驚き、だが更にもう一段上の驚きに襲われることとなる。
 心の中で呟いただけの言葉が聞こえるはずもないのに、次の瞬間、コートの中を駆けていた赤銅色が黒子をひたと見据えたのだ。
「ッ!」
 影が薄くこちらから話しかけないと気付かない人間がほとんどの黒子に、赤銅色の男は気付いた。それどころかゲームを中断して手招きをしてくる。
「そこの中学生ーっ、オマエもこっち来いよ!」
「? おっさん誰に言ってんの?」
「あ? 見えねーか? ほらそこの……」
「えっ! ……あ、水色の髪のにーちゃんがいる!」
 男性だけが気付いていた黒子の存在に他の子供達も気付き始め、珍しい髪色である黒子を示して隣のまだ見つけられていない友人に教えたり、男性に倣って黒子を手招いたりする。
 そのうち何人かが立ち竦んでいる黒子に痺れを切らしたのか、コートの中から駆け寄ってきて腕を引っ張った。
「にーちゃんも一緒にやろうぜ! あのおっさんすっげー強いんだ! にーちゃんは助っ人な!」
「へ? え? ボクは……!」
 ぐいぐいと引っ張られるまま黒子はコートの中へ。
 バスケはやっていたがもう嫌いになってしまったのだとか、パスならまだしもシュートやドリブルはからっきしダメで助っ人にはなれないのだとか、そういったことは一切言わせてもらえない。
 あれよあれよと言う間にチームが再編成され、ポジションがあるんだか無いんだか判らない状態でゲームがスタートした。
 嫌いになったとは言っても身体はつい先日まで毎日バスケットボールに触れていたものだ。パスもスティールも呼吸するようにできる。そのたびに上がる子供達の驚きの声。特に件の赤銅色の男性から何とかスティールした時にはゲームが中断するんじゃないかと思えるくらい敵味方共に盛り上がった。
 帝光バスケ部と比べて、このメンバーの技術はあまりにも拙い。それでも、いや、だからこそと言うべきか。そこにはしっかりとしたチームプレイがあった。黒子が繋いだパスをまた誰かが別の仲間に繋ぎ、ゴールへと運ぶ。相手チームも同じく。
「ははっ」
 大きく息を吐き出すのに合わせて小さな笑い声が漏れた。
 認めるしかない。
 こんなにも簡単なことで。まだ部活を辞めてからたった数日なのに。そんな思いはあるものの、感じてしまったものを無かったことにはできなかった。
(楽しい)
 黒子を入れた即席メンバーであるはずなのに、チーム一丸となってコートを駆けるこの感覚。やっぱり自分はバスケが好きなのだと思い知らされる。
 結局ゲームは黒子がいるチームの負けとなってしまったが、淡々と勝つ試合の何倍も何十倍も達成感や喜びがあった。
「おつかれ。帝光中の少年」
 地面に座り込んで大きく息を吐いていると、隣に赤銅色の男性が腰を下ろした。学校名を言い当てられたのは十中八九、制服の所為だろう。「ほい」と渡されたのはペットボトルに入ったスポーツ飲料だ。
「あ、ありがとうございます」
「どーいたしまして。オレ火神大我っつーんだけど、オマエは?」
「ボクは黒子テツヤと言います」
「バスケ……ってかパス上手いな。バスケ部?」
「ええ。もう辞めてしまいましたけど」
「ふーん。この季節なら三年の引退ってとこか?」
「いえ。引退前に退部したんです。……色々あって」
「色々か。ま、初対面の人間が聞くような話じゃないなら聞かねーから無理すんな」
「はい。ありがとうございます、火神さん」
「……」
「火神さん?」
 身体も大きく若干強面だが人の良さそうな火神は、急に黙り込んで微妙な顔つきになる。
 どうかしたかと黒子が問えば、彼は言いにくそうに「あー……」と意味のない母音を出してから続けた。
「いやーなんか、さん付けで呼ばれるって慣れてなくてさ。くすぐってーな、と」
「? 職場とか、大人の方がさん付けで呼ばれる場面って多いんじゃないんですか?」
 目の前の男性が何をしている人間か知らないが、大人の社会ではそのようなものではないかと黒子は漠然と思っている。違うのだろうかと問えば、火神は僅かに苦笑してみせた。
「この前までアメリカにいたんだ。あっちじゃファーストネームで呼び合うのが普通だし、そもそも日本語使わねーから、他人行儀に呼ばれてもミスター・カガミになっちまう」
「アメリカにいらっしゃったんですか! こちらへはお仕事で?」
「ん。そんなとこ」
 火神はニカリと笑って頷いた。どんなお仕事をされているんですか、と続けて聞こうと思ったのだが、黒子がそれを口にする前にコート内ではしゃぐ子供達からお声がかかって結局、聞けないままゲームの続きをすることとなった。
 休憩を挟んだ後のゲームも相変わらず楽しい。
 今度は火神の希望で黒子が同じチームに入った。当然のように子供達からは戦力が偏りすぎると大ブーイングだ。しかし火神が大人のくせに子供のような笑顔で「ちょっとだけ! な!」と手を合わせて願うものだから、何人かのませた少年達が「しょーがねーなー」と許可をくれたのである。
 火神との連係プレーは驚くほどスムーズに運んだ。自他共に相棒であると認めていた――残念ながら過去形だ――青峰よりも、ひょっとすると息が合っているかもしれない。
 いや、合わせてもらっている≠セろうかと黒子はパスをしながら思う。火神はまるで黒子の動きを熟知しているかのように、こちらに合わせて最適の位置にいてくれるのだ。
(なんだか不思議な人です)
 けれど決して嫌な感じはしない。むしろ逆。初対面であるはずなのに、火神と過ごす時間、火神と共有する空間は、黒子にとってとても居心地の良いものだった。
 そんな居心地の良い時間はあっと言う間に過ぎ去り、子供達の門限に合わせて解散となる。黒子も地面に放っていたバッグを肩にかけて「ボクもこれで」と別れの挨拶を告げた。
「ああ。気を付けてな。しばらくはこの辺にいるから、またバスケやろうぜ」
「ええ、是非」
 心からそう答え、黒子は火神と別れた。
 ここへ足を踏み入れるまで持っていたバスケへの嫌悪感は最早欠片も残っていない。なんて自分は単純なんだろうとも思ったが、好きなものを嫌わなくて済むということの方がずっと大切だった。
 きっと火神はただ偶然見かけただけの黒子を誘ったに過ぎないのだが、自分は彼のその気まぐれによって今こんなにも救われている。これなら大丈夫。また高校でもバスケをしよう。チームプレイを重んじるような、部員がバスケを楽しんでいるようなチームがある高校を探そう。そう思いながら、数時間前とは比較にならない軽い足取りで黒子は帰路についた。

 しかし――。

「な、んで……」
 翌日。教師に頼まれた用事があり、第一体育館の前を通った黒子は、開け放たれた扉からちらりとバスケをしている部員達の姿を視界の端に捉えた。あまりにも強すぎてバスケの練習をサボりがちになっている青峰はやはり今日も姿が見えない。しかし赤司を筆頭とする他のメンバーは全中後であってもきちんと出てきていた。そんな彼らがゲームをしている。とても、とてもつまらなさそうに。独り善がりのゲームを。
 黒子は気持ち悪くなってその場にうずくまった。力強いドリブルの音を、バッシュが奏でるスキール音を、今すぐに遮断してしまいたい。昨日のストバスで平気になった、それどころかもう一度好きになったはずなのに。キセキ達の練習風景を見ただけで黒子はきっちり二十四時間前の己に戻ってしまっていた。
「……っ」
 教師への届け物を抱えて黒子は走り出す。これを届けてさっさと帰ろう。今日もあのストバスのコートに寄るつもりだったが無理そうだ。バスケに関する事象は全て頭の中から追い出して、家に帰ったら布団を被って目を瞑って夢まで見ないくらい深く眠る。そうすれば嫌なものは過ぎ去ってくれるのだから。
 一度平気になったと思ったものがやはり駄目だったのだと判明した衝撃はあまりにも大きかった。黒子は届け物を強く抱き込み、眉根を寄せる。
「嫌いになんか、なりたくないのに」


《黒子テツヤ 2》


 公園から聞こえてくる楽しそうなバスケの音すら耳に入れたくなくて、黒子はその日、大きく遠回りをして帰路についた。しかも頭の中を埋めるバスケへの嫌悪感を紛らわせようと家から離れた大型書店に寄り、本を選ぶ作業に没頭したため、家に着いたのは陽が落ちてからだ。
 のろのろと身体的な疲れではないものに支配されたまま玄関扉の前に辿り着き、ドアノブを握る。ゆっくりとした動作でそれを引こうとした瞬間――
「あれ? くろ、こ……?」
「!」
 昨日聞いた声に呼ばれて黒子は肩を震わせた。驚いて後ろを振り返ると、バスケットボールを手にした火神が黒子宅の三軒隣のマンションの前に突っ立っている。ボールがあるということは、昨日の言葉通り今日も彼は公園でバスケをしていたのだろう。しかしその彼がどうしてこんな所にいるのか解らない。また火神自身も黒子とこのような所で顔を合わせるとは思ってもみなかったらしく、驚きを露わにしている。
 ちなみに火神が立っているマンションにはつい先日、新しい住人が入ったばかりだ。生憎引っ越しは平日の日中に行われたため、黒子はまだその住人の顔を知らなかったのだが。
「えっと、こんばんは。ひょっとして火神さんってこの間、引っ越してきた方ですか……?」
「お、おう。もしかして黒子んちってそこ?」
「はい。偶然にも」
「すげーな。ご近所さんとちゃんとした挨拶する前に会っちまってるとか」
 事情が判れば火神は昨日と同じ太陽のように明るい笑みを見せる。だが黒子の方は彼と同じ気持ちになることなどできない。
 バスケをもう一度楽しいと思わせてくれたのは彼だったが、今はまた彼が持っているオレンジ色のボールを見るだけで気分が悪くなってきているのだから。
 幸いにも無表情が標準装備の黒子がその内面の変化を出会って二日目の男に悟られることは有り得ない。新しいご近所さんに心配させるような事態にはならなさそうだと内心ほっとする。
「その袋、駅前の本屋だよな。黒子は本をよく読むのか?」
 こちらの持ち物に目ざとく気付いて火神が尋ねる。隠すことでもないので素直に「はい」と頷けば、アメリカを活動拠点にしてきたらしい火神は尊敬のまなざしで黒子を見た。
「すげーな。オレほんと日本語下手でさー。英語ならまだしも日本語の小説なんてほとんど読まねーわ」
「ボクからしてみれば英語で書かれた本を読めることの方がすごいって思ってしまいますけどね」
「いや、でもたぶん読んでる文字の量は黒子がびっくりするくらい少ないと思う。本自体あんま触らないから」
「そうですね。火神さんは屋内で本を読むより外で身体を動かす方が似合っています」
 しっかりした体つきの火神を見て黒子はそう返した。
 身体を動かす際の具体的なスポーツ名を口にすることは憚られた。と言うより、たぶん今バスケと言う単語を口にすれば、己の不調が顔に出る。
 今はまだ上手く隠せているが、このまま会話を続けて万が一にも火神が「今日はコートに来なかったよな」とでも言おうものなら、それがたとえ欠片も責めるようなニュアンスを含んでいなくとも、黒子はボロを出すだろう。ゆえに黒子は早々に彼との会話を切り上げ、家に入ろうと決めた。
 しかし――
「なぁ黒子」
「……はい」
 ちょいちょいと大きな手で招かれれば、家のドアノブから手を離さざるを得ない。黒子はあくまでも彼を無視して不快にさせたいのではなく、彼に己の不調を悟られて心配されるのが申し訳ないと思っているのだから。
 アスファルトの道の上に立って火神と向かい合えば、街灯に照らされて鈍く光る赤銅色の双眸がすっと細められた。
「火神さん?」
「つらかったら吐き出しちまえ」
「え……」
「昨日会ったばっかのヤツが何を言うんだって思うだろうけど、あんまり知らねーヤツだからこそ言えることもあるんじゃねえか? オレじゃ頼りねえかもしんないけど、話を聞くくらいならできっからさ。昨日はオマエに話す気が無いなら聞かないっつったけど、今のオマエを見てると何とかしてやりたくなる」
「そん、な、こと……」
 上手く隠せているはずの不調を火神に感じ取られていたと知って黒子はあからさまに動揺した。それが余計に火神の確信を深めたのだろう。宥めるように低く耳に優しい声で「くろこ」と呼ばれる。
 まるでその声で魔法にでもかかったかのように、名前を呼ばれた黒子は赤銅色の瞳から目を逸らせなくなってしまった。
「かが、み、さ」
「なんだったらさ、うち、そこだから。来るか」
 そっと黒子の水色の頭に触れながら火神は目元を和らげる。
「これも何かの縁だと思って。赤の他人に思い切りぶちまけてみろよ。そしたら少しくらいはすっきりすんじゃねーの」
「……いいんですか」
 断るつもりだったのに、断らなければいけないのに、口から出たのは伺いの言葉だった。
 それを発した黒子本人が驚いている間に火神は更に双眸を優しげに細めて「ああ」と頷く。
「先に親御さんに一言言っとけよ。心配させちまったら悪ぃし。つかオレが悪い大人認定されちまうのか」
 とぼけたように後半そう言うものだから、黒子は思わず口元に手を当ててふっと小さな笑い声を漏らした。それから「そうですね、先に言っておきます」と告げ、再び自宅玄関のドアノブに手をかける。ドアを開いても靴を脱ぐことはない。「母さん」と夕食の準備をしている母を呼び、簡単に事情を説明してすぐに火神の元へ戻った。
 隣に並んで歩き出せば、軽く叩くようにして頭を撫でられる。優しい手つきに何故か心臓の動きが速くなった。不快では、ない。そう自覚すると同時に黒子ははっと気付く。
 火神はバスケットボールを持っていたはずだ。それを目にした黒子は不快感を覚えていた。しかし今はその不快感が無い。何故なら視界にボールのオレンジ色が入って来ないからだ。
(ひょっとしてこの人、わざとボクがボールを見なくて済むようにしている……?)
 そんなまさかと思ったが、事実、黒子の視界にあの鮮やかな色は入り込まない。火神の身体が盾になっているらしい。
 黒子の不調に気付いたこともあるし、ひょっとして火神はとんでもなく聡い人間なのではないだろうか。驚きと尊敬のまなざしで隣の男を見上げると、火神は「ん?」と気さくな表情で小首を傾げた。どうかしたか、と。
「いいえ。何でもありません」
「そっか。なんか気になることがあったらすぐ言えよ」
「ありがとうございます」
 礼を言いながら火神に促されてエレベータに乗り込む。火神の部屋は最上階にあるとのこと。
 住宅地に建てられた五階建てのマンションはワンフロアにつき契約者は二人まで。火神がいる最上階はまだ他に住人がいないらしく、フロアの半分を火神が使っていて、もう半分は空室だった。
 エレベータを降りて歩き、火神が奥の方の扉を開く。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
 促されて入室すれば、ほとんど物が無いリビングの片隅に段ボール箱が申し訳程度に二つ置かれていた。
「越してきたばっかで荷物片付けきれてねーんだけど、一応客に茶を出せるくらいにはなってっから」
 ちょっと待ってな、と言って火神はカウンター式のキッチンへ向かう。リビング以外にもいくつか部屋があり、その広さからここはファミリータイプであることが判った。火神は誰かと一緒に住んでいるのだろうか。
 しかもちょうどタイミングよく戻ってきた火神の手にはどう見てもペアだと判る色違いのマグカップが握られている。
「ほい」
「ありがとうございます。……あの、火神さん」
「ん?」
「火神さんってご結婚されてるんですか」
「ぶはっ! ごほっ、ごほっ……は? え? げほっ、なんで?」
 盛大にむせながら火神が尋ねた。そんなに驚かれると思っていなかった黒子は火神の反応に逆に驚かされ、「なんでって……」と部屋の広さや食器について自分が感じたことを話す。
「あーそう言うことか。部屋がファミリータイプなのはちょうどいい場所にある部屋がそれしかなかったからだ。単身者用ってこの辺には少ねーのな」
「まぁそうですね。ワンルームマンションなんかはもう少し東の方へ行けばあるみたいです」
 なるほど場所重視か、と黒子は納得した。次は食器だ。
「そんで、このカップは貰い物なんだ。しばらく日本に行ってくるって同僚に教えたら、なんでか遠距離恋愛してる彼女に会いに行くんだと思われてさ。でも相手いねーからどうしようかと思ってたら、ちょうど黒子を招くことになって。まぁこれ幸いと」
「奥さんいないんですか?」
「奥さんどころか彼女すらいねーよ」
 気恥ずかしさを誤魔化すように火神はぱたぱたと手を振って苦笑を零した。
「気軽かつ若干寂しい独り暮らし。だから実は黒子に来てもらえてちょっと嬉しいんだぜ」
「火神さんは口が上手いですね」
「いやいや本心だから」
 冗談でも火神にそう言ってもらえるのは嬉しい。黒子のために招いてくれたのに、火神はこちらが感じる遠慮を少しでも軽くしようとそう言ってくれているのだと思った。
「火神さんは優しいです」
「えー……オレかなり我侭だぞ?」
「この状態で言われても信じられませんってば」
 心からそう言えば、また火神は照れたように笑って頭を掻いた。立派な体格の持ち主なのにそんな仕草が可愛らしいと思えてしまうのはこれ如何に。
 しかも作ってくれたココアが絶妙な美味しさで密かに驚く。これまで黒子は市販の粉を湯で溶くタイプしか飲んだことがなかったのだが、これは火神が砂糖の量を調節しているらしい。甘さが黒子の好みにぴったりだと言えば、火神は「良かった」とほっとして見せた。
 しばらくはそうやって他愛のない会話をしていたが、何のためにこの部屋へ足を踏み入れたのか黒子も忘れたわけではない。マグカップの中身が半分ほどになった頃、ことり、とテーブルにカップを置いてやや深めに息を吐いた。向かいに座っていた火神も黒子の様子から決心できたのを察して同じくカップをテーブルに置く。
「火神さん、昨日はバスケに誘って頂いてありがとうございました。とても楽しかったです」
「オレもだよ。あんなにすげーパスはオマエが初めてだ」
「一応これでも帝光中学バスケ部の一軍レギュラー……でした、から」
 レギュラーですから、と言いそうになって訂正する。最早それは過去形だ。
「ボクはバスケが大好きでした。でもシュートもドリブルもてんでダメで、入部してから何度昇格試験を受けてもずっと三軍だったんです。そんなボクでしたが『キセキの世代』と呼ばれる天才達と出会って、パスに特化した選手としてコートに立たせてもらえるようになりました。本当に嬉しかった」
 火神は無言で黒子の話に耳を傾けている。
「二年の夏までは順調だったんです。キセキの世代とは言われていてもボクと同い年の彼らは周りより少しバスケが上手いくらいで、そんなに大きな差があるわけでもなかった。接戦できる相手がいる方が楽しいって言うんでしょうか。でも二年生の夏の大会でボクを相棒と呼んでくれた人が才能を開花させてしまった。誰も敵わず戦うことを諦めてしまうくらいに強くなったんです。その彼に続いてキセキのみんなは次々と才能を開花させ、それまで保たれてきたチームプレイが行われなくなりました。だってみんな一人で試合ができるんですよ。誰かが敵からスティールするのを待たなくてもいいんです。自分で取りに行けばいい。パスも必要ありません。彼らにとって進行方向に立つ敵はパスで切り抜けるのではなく、自分自身で突破するものでしたから」
 パスは必要なくなったんです、と黒子は繰り返した。惨めさを噛み締めるように。
「試合中全くボールに触れなくなったってことはないんですが、信頼されなくなったと言うか……重要な場面では絶対ボクにボールは回ってきません。彼らが自分で決めます」
 情けない話だが、おそらく自分はそんな扱いを受ける中で徐々にバスケが嫌いになっていったのだろう。必要とされなくなるというのはとても惨めでつらいことだ。
 しかも黒子を蔑ろにしながらもキセキ達が楽しそうにバスケをする姿を見られるならまだ救いはあったと言うのに、
「加えてキセキの彼らは楽しそうにバスケをしなくなりました。ただ試合を淡々と消化するだけなんです。敵との差があまりにも大きすぎて手ごたえが無いから、自分達の中で得点ノルマなんて作って刺激を得ようとしたり。そんな彼らを見ていたらふと思ってしまったんです。ボクがやってきたバスケは一体何だったんだろうって」
 繋ぐことに特化した黒子テツヤのバスケはキセキの世代にとって一体何だったのだろう。
 彼らに出会うことで見出された黒子のバスケは彼ら自身の手によって無為に帰した。そう自覚した瞬間、黒子にとってボールの手触りやバッシュのスキール音すら嫌悪の対象に成り果てたのだ。
 目頭が熱くなり、表情を見られないよう顔を伏せる。
「バスケが本当に好きでした。でも嫌いになってしまった。火神さんと昨日バスケをしてもう一度楽しいと思えたのに、今日キセキ達の姿を見てやっぱりダメだったんです。その場から逃げることしかできなかった。つらいです。胸が苦しい。嫌いになんてなりたくなかったのに……!」
 ぐっと唇を噛んで、漏れそうになる嗚咽をこらえる。
 改めて口にした事実に胸が張り裂けそうだった。好きなものを嫌いになるのは本当につらくて苦しい。
 涙が零れないよう強く両目を瞑っていると、テーブルの向こうで火神の動く気配がした。
 椅子から立ち上がった火神はテーブルを回り込んでゆっくりと黒子に近付く。顔を見られるのは嫌だと思っていると、そのまま俯いていることを許すようにそっと頭の上に大きな手が乗せられた。
「かが……」
「黒子、我慢すんな。嫌だったらオレは何も見なかったし聞かなかったことにするから、だから泣けよ。思いっきり泣いちまえ」
「……ッ!」
 やさしく降ってきたその声音が黒子に最後の一線を越えさせる。
 すぐ横に立っていた火神にしがみつく格好で黒子は声を出して泣いた。大きくて温かな手が頭を撫で、背中を撫で、「大変だったな、よく頑張ったな」と慰めてくれる。
「いらない……いらないって、言われたん、です! ボクのパスはもう、いらない、って! 彼、が。あおみねくんが、こぶしを、合わせてくれなくなった! ボクは、どうすれば良かったんです、か。わか、わからないんです。ボクは、ボクは捨てられてしまった!」
「キセキの奴らが大切だったんだな」
 穏やかな声にそう言われて大きく頷く。黒子は彼らが大切だった。大好きだった。
「でも捨てられちまったんだな」
 淡々と確認される事実に心臓が止まりそうだった。
「じゃあさ」
 頭や背中を撫でていた手がそこを離れ、代わりに黒子の両頬を包むようにして顔を上げさせる。ぐしゃぐしゃになった黒子の泣き顔を見た火神は眉尻を下げて、
「オレがオマエを拾ったら、またオマエはバスケを好きになれんのかな」
「かがみ、さん?」
 黒子は涙で滲んだ視界のまま火神を見上げて名を呼んだ。
 火神の苦笑したような気配がする。
「だって大好きなバスケを嫌いになったままなんて悲しいだろ。オレが拾う。拾わせてくれ。そんでもう一回バスケが楽しいって思えるようになろうぜ。現に昨日はオレとやって楽しかったんだろ? じゃあもっともっと楽しいって経験を重ねて、そしたらいつかキセキ達のバスケを目にしても平気でいられるようにだってなれるはずだ」
 数度瞬きを繰り返すとようよう火神の表情がはっきりと見て取れるようになる。彼は微笑んでいた。赤銅色の双眸で大切なものを見るように黒子を見て、愛しい者に語りかけるように黒子へと言葉を落として。
「かが、」
「オレの隣に来い、黒子」

「オレなら絶対オマエを離したりしねーから」

* * *

 火神の誘いに答える前に黒子はその日、泣き疲れて眠ってしまった。
 目が覚めると知らない天井で焦ったが、すぐに火神が顔を出して事情を説明してくれた。
 黒子が眠っていたのは火神の寝室で、黒子の両親には彼が直接家に出向いて一晩泊めることを話したらしい。無論、黒子が大泣きしたことは伏せて。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「オレの方こそいきなりあんなこと言って悪かったな。びっくりしただろ」
「ええ、まあ」
 拾うとか隣に来いとか。確かに驚いた。でも、
(嬉しかった、なんて)
 キセキの世代という仲間達から不要と断じられて捨てられた黒子に火神は手を差し伸べてくれた。もう一度心からバスケを好きだと思えるようになるために。
「どうしてボクにあんな言葉をかけてくれたんですか」
 嬉しさを押し殺して問いかけると、火神は少し考えるような仕草を見せた後、「オレ頭わりーからちゃんと言えねえかもしんねーけど」と前置きをしてから答えた。
「オマエとバスケしてすっげー楽しかったから。オマエさ、表情判りにくいけどバスケやってて楽しいんだろうなってのは見て解ったんだ。オレはそんな黒子の顔がもう一度……いや、もっとたくさん見たい。見たいって思っちまった。だから、かな。楽しそうなオマエと一緒にバスケしてえなーって思うよ」
 無茶苦茶でごめん、と火神が頭を下げた。綺麗なつむじを眺めながら黒子は自分の口元が緩むのを感じる。
「ボクは火神さんに求められているんですか」
「ああ、そうだ」
 顔を上げた火神が赤銅色の瞳に黒子を映した。彼の瞳の中で黒子は淡い微笑を浮かべている。――きっとそれが答えなのだろう。
「また一緒にバスケをしてくれますか」
「何十回だって何百回だって、何千回だって一緒にやろうぜ」
 もう一度バスケを心から好きだと言えるようになるため。
 差し出された手に今度こそ黒子は応えた。互いの温度を感じながら火神の笑みが深まる。
 黒子の選択を歓迎するように。


《火神大我 0》


 自分のものだと思っていたものが実は他人のものになっていたと知った時ほど絶望することはない。と、火神大我は今この瞬間思った。
「ボクの妻になる人、です」
 目の前では高校時代にバスケの相棒として共に戦った黒子テツヤが微笑んでいる。あの無表情がデフォルトの黒子が、である。そして彼の隣には同じ職場で働いているという女性が驚きの表情で火神を見上げていた。
 女は今年で二十四歳になるのだと言う。火神達より四つ年下だ。そして彼女は二十五歳の誕生日を迎える前に黒子姓となる。
 紹介したい人がいるんです、と言われた時から嫌な予感はしていた。しかし黒子の願いとあらば断るわけにもいかない。二つ返事で迎えた今日、心にもない祝福の言葉はするすると口から零れ落ちる。おめでとう。式はいつなんだ? オレもちゃんと呼んでくれよ。
 もうすぐ自分の旦那となる男の友人≠ェNBAで活躍中の日本人バスケットボールプレイヤー・火神大我と知った女がぱちくりと大きな目を瞬かせた。
 可愛い女性だとは思う。穏やかな空気を纏って、黒子の隣に並んでもお似合いだと十人中九人は言うだろう。だが火神は十人の中の残りの一人だった。
「テツヤさんが高校でバスケをされていたのは聞いていましたが……まさか火神選手と一緒のチームだったなんて」
「チームっつーか相棒だよ。アンタの旦那、スゲー選手だったんだぜ」
「ええ!? でも、テツヤさん、その、あんまり……」
「ま、シュートとかドリブルは素人に毛が生えた程度だけどな。それでもオレの大事な相棒なんだ」
 黒子のバスケのことを知らなかった人間にそれを自慢するのは気持ちが良い。黒子は火神にとって最も特別な人間だから。しかしその気持ち良さはほんの一瞬だけのもの。何故なら火神の大事な黒子テツヤを最終的に手に入れるのはこの女なのだと黒子本人にたった今、告げられたのだから。
 十代の頃からは想像もできないほど分厚くなった面の皮は目の前の初対面の女どころか人間観察を趣味とする相棒まで欺いてしまえるらしく、火神の心情を黒子が悟ることはない。少し照れくさそうに、けれども嬉しそうに将来を誓った女と並んでいる。
 オマエの隣はオレのものじゃなかったのか? 肩を強く掴んで身体を揺すってそう叫んでやりたかった。だができない。黒子テツヤの中の火神大我はそんなことをしない。そう思っているからこそ、そして火神を一番の友人で相棒≠セと思っているからこそ、黒子は誰よりも先に火神の元へ来て未来の妻を紹介したのだろう。
 火神は黒子のその期待にしっかりと応えながら腹の奥底で黒くどろりとしたものが渦巻いているのを感じた。
 キセキの世代と共に中学生活を送り、捨てられ、好きだったバスケを一度は嫌いになり、高校で火神を新たな光とし、正面からぶつかってキセキ達を振り向かせた。彼らに黒子のバスケを認めさせた。黒子の全てを賭けていたと言っても過言ではない時の流れの中で火神と黒子はまさに唯一無二の相棒となったはずだ。
 ゆえに、だろうか。言葉にせずとも、どこかで黒子は自分のもので、自分は黒子のものだと思っていた。しかしそう感じていたのは火神だけだったのだろうか。
 残念ながら答えは眼前に示されている。黒子にとって火神は人生を共に歩む唯一無二の存在にはなり得なかった。大切な人間の一人であるのは確かだろう。しかし最も近いところにいる人間としては選ばれなかったのだ。
(こうなるって知ってたなら、最初から全部奪っときゃ良かったんだ)
 自分のものだと誤解していたから他人のものになってしまった。隙を作ってしまった。まだ自分の手の中にないのだと最初から自覚しておけば必死に掴み取ろうとしたはずなのに。
 完全に油断していた自分のミスだ。
 後から悔いるから後悔と書くのだという日本語はまさに正しい。その通りだと思う。やり直しのきかない人生にこれほどピッタリな言葉はないだろう。
(あーもー死にてー)
 これから一生、黒子の隣に自分ではない存在が居座り続ける姿を見なければならないなんて。
 黒子の傍から離れる選択肢は最初から無かったので、火神は笑みの仮面を張り付けたまま何十年と続く人生に想いを馳せて死にそうになった。実際に死んでしまっては黒子が悲しむだろうから死なないけれど。


 そして黒子が結婚してからきっちり一年後、火神もまた適当な女性を見繕って結婚した。黒子が「そろそろ火神君も結婚しないんですか?」という一言を放ったのが原因だ。
 彼以外の誰かを隣に置くなど想像すらしなかったのだが、黒子が言うなら仕方ない。幸いにも火神は女性に好かれる要素をいくつも持っていたし、また黒子テツヤ以外ならば誰だろうとどんな人間だろうと全て同じだったので、黒子が火神大我に相応しい≠ニ思うだろう女性を選んで傍に置いた。
 結果は成功と言って良かっただろう。黒子はあの時と同じく表情筋に仕事をさせて微笑んでくれた。おめでとうございます、と。彼からもらった祝いの言葉に火神はまた死にたいと思いながら礼を言う。
 しかし実際に火神が死亡したのはそれから何十年も後のことだった。


《火神大我 1》


 気が付くと、火神大我はバスケットボールプレイヤーとして最盛期だった頃の姿で立っていた。
 場所はその頃自分が住んでいたロサンゼルス某所のアパートメント。しかし記憶にあるものと自分の持ち物が微妙に異なる。例えば最新式のスマートフォンを持ち歩いていたはずなのに、少し厚みのある折り畳み式携帯電話だったり。
 頭上に大量の疑問符を浮かべながらひとまずテレビをつけると、ちょうど放送されていたニュースの中でとある数字が目に入った。昨年起こった事件の犯人がようやく逮捕されたとかいうもので、その西暦が表示されていたのだが――
「この時まだオレって学生だったじゃねーか」
 西暦と自身の肉体年齢が一致していない。夢かと思って頬をつねってみると大層痛かったので、夢ではないらしいと判断する。
 火神はテレビの電源を落とした後、部屋にかかっていたカレンダーがニュースに表示されていた西暦と一致していることを確認した。その後、父親の携帯電話に連絡を入れる。何気なさを装って色々確認してみたところ、ニュースの内容とカレンダーと父親の記憶にも差異は無かった。また「次の試合も楽しみにしているぞ」という台詞で会話が終わったことから、この年齢の自分はやはりバスケットボールプレイヤーとして金をもらっているのだと推測できた。
 他にも家の中を探れば、自身が所属しているチームやチームメイトのこと、各種予定等々、情報が集まってくる。あらかたそれをやり終えると完全に日が沈んでいた。
 現状を把握した火神は部屋の中央に立って腕を組み、
「今度こそ黒子を手に入れねーとな」
 静かに、確かに。そして何よりも強く決意した。

* * *

 ――他人の心を手に入れるには。
 それを考えた時、おそらく最も簡単な方法は弱っているところにつけ込む≠アとだろう。そして火神は黒子テツヤが最も弱っていた時期がいつだったのか、本人の口から聞いて知っている。
 自分の現状を理解した後で更に色々と調べてみたところ、火神が大人になっていること以外は全て記憶にある通りだった。つまり黒子もキセキの世代も中学生として存在しており、また手に入れた帝光中学校の試合風景の映像データでは時を経るごとに黒子の元気が無くなっていったのだ。
 黒子テツヤが最も弱っているのは三年生の全中直後。退部届を出した後である。
「接触するならその時か……」
 ぽつりと呟く火神。そして計画は実行に移された。


 帝光中学校と黒子の実家の間にある公園に併設されたストバスのコートで子供達と一緒にバスケに興じる。全体の動きに目を配りながら皆が楽しいと思えるように。
 その音に誘われて木々の向こうから現れた人影に火神は内心でほくそ笑んだ。
(ようこそ、オレの影)
 水色の髪をした中学生はその存在感の薄さでもって火神以外の誰にも気付かれていない。
 火神はしばらく楽しげにバスケをする姿をその中学生に見せた後、たった今気付きましたと言わんばかりにコートの中から声をかけた。
「そこの中学生ーっ、オマエもこっち来いよ!」
 びくりと水色の髪の中学生――黒子テツヤの肩が揺れる。まさか他人が自分の存在に気付いているとは思っていなかったのだろう。
 驚きに丸く見開かれる目すら愛しいと思いつつ、火神は小さく口の端を持ち上げた。
「? おっさん誰に言ってんの?」
 一緒にコートの中を走り回っていた子供が首を傾げる。
「あ? 見えねーか? ほらそこの……」
「えっ! ……あ、水色の髪のにーちゃんがいる!」
 火神が教えてやれば程なくして子供達が黒子の存在に気付き始めた。そして何人かが火神の思惑通り突っ立っている黒子を仲間に引き入れようと駆け寄っていく。
「にーちゃんも一緒にやろうぜ! あのおっさんすっげー強いんだ! にーちゃんは助っ人な!」
「へ? え? ボクは……!」
 今の時期の黒子はバスケが嫌いであるはずだ。しかし積極的な年下の子供にはノーと言うに言えない模様。子供達にぐいぐいと引っ張られるままコートの中へ――火神の傍へやって来る。
 リーダー格の少年がテキパキとチームを再編成し、火神と黒子は別チームに分けられた。そしてさっそく試合開始。黒子は戸惑いながらも身体が動きを覚えているようで、的確にパスを出していく。
 火神が若干指導していたこともあり、子供達は独り善がりなゲームをするのではなく、仲間と団結してプレイするようになっている。その中で黒子の技は冴えわたり、心の方も徐々に身体に追いついてきたようだった。ついには黒子が火神からボールをスティールし、敵チームどころか味方チームまでゲーム中断寸前まで盛り上がる。
 いつの間にか黒子の無表情の中にかつて試合中に火神がよく目にしていた真剣かつ楽しそうな気配が表れ始めていた。そして本当に小さく、息を吐き出すのに合わせて笑い声が聞こえた。
 ボールを操りながら火神は心の中でガッツポーズをする。
 黒子が火神とのバスケを楽しいと感じてくれた。これが第一歩だ。
 同年代ならば高校で築けたはずの絆を得られない分、火神は他の方法で黒子と良好な関係を作らなければならない。無論、ただの(年が離れた)仲の良い友人で終わらせるつもりもない。策略の糸を張り巡らせて、哀れな影を絡め取って、そしてもう二度と離さないように。
 今、黒子はバスケをもう一度楽しいと思えるようになっている。でもまだ黒子の中で『キセキの世代』という存在はとても大きく、そしてそのキセキに関する問題は全く解決していない。キセキの代わりとなる心の拠り所もなく、気持ちの整理もついていない。黒子はすぐそれに気付いて再びバスケに嫌悪を感じるようになるだろう。
(そこをオレが……)
 試合が終わり、コートを出て火神は内心を欠片も悟らせず黒子へとペットボトルを差し出した。
「おつかれ。帝光中の少年」
「あ、ありがとうございます」
「どーいたしまして。オレ火神大我っつーんだけど、オマエは?」
 まずは名前を知ってもらうところから。
「ボクは黒子テツヤと言います」
「バスケ……ってかパス上手いな。バスケ部?」
「ええ。もう辞めてしまいましたけど」
「ふーん。この季節なら三年の引退ってとこか?」
「いえ。引退前に退部したんです。……色々あって」
「色々か。ま、初対面の人間が聞くような話じゃないなら聞かねーから無理すんな」
「はい。ありがとうございます、火神さん」
「……」
「火神さん?」
 軽い会話をしていると黒子に「さん」付けで呼ばれた。
 黒子は中学生であり、火神はどう見ても成人した男性である。ゆえに彼が火神をそう呼ぶのは不思議でも何でもない。が、黒子の声で「火神君」ではなく「火神さん」と呼ばれるのは予想以上にむず痒かった。
「あー……いやーなんか、さん付けで呼ばれるって慣れてなくてさ。くすぐってーな、と」
 不思議そうな顔をする黒子に嘘ではないが真実でもない言葉を返す。さすがに「オマエの声でそう呼ばれるのが新鮮だったから」とは言い返せない。
「? 職場とか、大人の方がさん付けで呼ばれる場面って多いんじゃないんですか?」
「この前までアメリカにいたんだ。あっちじゃファーストネームで呼び合うのが普通だし、そもそも日本語使わねーから、他人行儀に呼ばれてもミスター・カガミになっちまう」
「アメリカにいらっしゃったんですか! こちらへはお仕事で?」
「ん。そんなとこ」
 今はオフシーズンで、謂わば練習期間。火神は己が所属するチームの面々に日本で特訓してくると言って来日している。なので仕事と言えば仕事だし、休暇と言えば休暇である。
 このままの会話の流れなら火神の職業について黒子が尋ねてくるだろうと思った。あの水色の瞳で見上げられながら問われればもちろん答えるつもりだが、実は少し恥ずかしい。
 記憶の中の自分はなかなかの有名選手だったのだが、自分の今の立場を調べたところ、あまり芳しい成績を残せていないのだ。ゆえにきっとアメリカでプロのバスケットボールプレイヤーだと答えたとしても、黒子は聞いたことが無い名前だと思ってしまう。バスケ好きの黒子が火神の名前を聞いて無反応だったのもその未来を予感させる理由の一つだ。
 そうやって若干心配になった火神だったが、黒子が火神に次の問いを発するよりも早く子供達から声がかかった。もう一試合するとのことだ。
「じゃあもういっかいチーム分けなー」
 子供の一人が声を上げる。火神は傍らに立つ黒子を見下ろし、そしてまだ彼のパスを一度も受けていない己の手のひらを見つめて、
「なぁ、今度は黒子と……この水色のにーちゃんとオレを同じチームにしてくんねーか?」
「ええー! オッサンもにーちゃんも強いのに!」
「ずりーぞ!」
「そんなこと言わずに! 一回だけ! オレもこのにーちゃんのパス受けてみてーんだよ。ちょっとだけ! な!」
 大ブーイングの嵐の中、火神は粘る。すると幾人かがしょうがないという雰囲気を纏い出し、最終的には折れてくれた。
 子供に折れてもらった火神を見上げる水色の瞳が驚きつつもどこか嬉しそうにしているように思えるのは、火神の願いが見せた幻想だろうか。そうじゃなきゃいいな、と胸中で呟きながら第二試合が開始された。
 黒子のパスはやはり気持ちが良い。彼の中では火神との初プレーであるため記憶の中にあるものよりぎこちないが、それでも火神が黒子に合わせることで魔法のようにパスが通り、シュートが決まる。
 そうして楽しい時間はあっと言う間に過ぎ去り、子供達が家に帰る時刻となった。黒子も子供達に合わせて帰宅の用意をする。脱いでいたブレザーをきちんと着てバッグを肩にかけてから、「ボクもこれで」と別れの挨拶を口にした。
「ああ。気を付けてな。しばらくはこの辺にいるから、またバスケやろうぜ」
「ええ、是非」
 相変わらずの無表情だが、この答えは彼の本心からのものだ。
 でも黒子がまだバスケを本当にもう一度好きになれたわけではないと気付いてしまえば、来てくれなくなる。早ければ明日にでも。
 しかしそれは予想の範囲内。火神はすでに黒子が公園に現れずとも大丈夫なよう手を打ってある。


 翌日。火神が予期していた通り、黒子は公園に来なかった。しかし火神は同日中に彼と再会を果たす。何故なら黒子宅に最も近いマンションに火神が居を構えているからだ。
 偶然を装って随分遅くに帰宅した黒子を呼び止め、火神は彼を己の家に招き入れた。


《火神大我 2》


「いらっしゃい」
「お邪魔します」
 五階建てマンションの最上階。ワンフロアにつき二世帯。その一方は火神が使っており、もう一方は現在住人がいない。この計画のためだけに用意した部屋に黒子を招き入れ、火神は静かに玄関の鍵をかける。
「越してきたばっかで荷物片付けきれてねーんだけど、一応客に茶を出せるくらいにはなってっから。……ちょっと待ってな」
 黒子の視線がリビングの片隅に放置されていた段ボール箱に向いたので、火神はキッチンの方へ移動しながら告げた。
 実はこの部屋、単身者用ではなくファミリータイプなので無駄に広い。食器棚から取り出した色違いのマグカップ――来日する前にチームメイトの一人からもらった物だ――が収まるにはちょうど良いかもしれないが。
 ミルクパンで牛乳を温め、別の鍋でココアを練る。砂糖は黒子が一番好む量に。火神はココアよりもコーヒー派なのだが、黒子と一緒に飲む時は前者が格段に多かった。その所為なのか、ココアは味ではなくそれが演出するシチュエーション的な意味で火神の好きなものになっている。
 久々に作るココアにも手は迷いなく動く。どんだけ黒子に作ってやってんだろ、と胸中で独りごちながら、出来上がったものをリビングの黒子の元へ持っていった。
「ほい」
「ありがとうございます。……あの、火神さん」
「ん?」
 色違いのマグカップの片方を受け取った黒子が無表情ながらも微妙そうな雰囲気を纏って火神に問う。
「火神さんってご結婚されてるんですか」
「ぶはっ! ごほっ、ごほっ……は? え? げほっ、なんで?」
 火神は思わず噴き出した。なんでそうなる。確かに火神はかつて結婚していたが、それは黒子に心配させないためであり、またこの時代のこの身体は綺麗なまま(たぶん)だ。左手の薬指には火神を縛る金属の輪など嵌っていないし、この先も火神を拘束する権利を持つのは目の前のただ一人だけである。
「なんでって……」
 火神の反応に驚いた黒子がたどたどしくマンションの広さとマグカップからそう推測したのだと答えた。なるほど、と火神は頷く。だが、勘違いされたままなのは困る。
「あーそう言うことか。部屋がファミリータイプなのはちょうどいい場所にある部屋がそれしかなかったからだ。単身者用ってこの辺には少ねーのな」
「まぁそうですね。ワンルームマンションなんかはもう少し東の方へ行けばあるみたいです」
 それは知っていたが、ここでなくてはいけないので最初から火神の選択肢には含まれない。
「そんで、このカップは貰い物なんだ。しばらく日本に行ってくるって同僚に教えたら、なんでか遠距離恋愛してる彼女に会いに行くんだと思われてさ。でも相手いねーからどうしようかと思ってたら、ちょうど黒子を招くことになって。まぁこれ幸いと」
「奥さんいないんですか?」
「奥さんどころか彼女すらいねーよ」
 共にいたいと願うのは一人だけ。目の前の黒子テツヤだけだ。
 溢れ出るような熱を皮膚一枚下に抑えつけて、火神は軽く見えるようぱたぱたと手を振った。
「気軽かつ若干寂しい独り暮らし。だから実は黒子に来てもらえてちょっと嬉しいんだぜ」
「火神さんは口が上手いですね」
「いやいや本心だから」
「火神さんは優しいです」
「えー……オレかなり我侭だぞ?」
「この状態で言われても信じられませんってば」
 黒子が火神を優しいと感じるのは火神が黒子にだけ優しくしているからだ。他の人間などどうでもいい。昔の――こうして再び黒子と巡り合うチャンスを得る前の自分なら、まだ愚かにも黒子の手を握っているのは自分だけだと勘違いしていた頃の自分なら、他者にも優しく接していただろう。所謂余裕の表れ≠ニいうやつかもしれない。しかし今は違う。火神は黒子が欲しい。だからそのためだけに行動する。
 そんな火神の心情など知らない黒子はカップに口を付けて目を丸くした。ココアの甘さがちょうど良いことに驚いたらしい。それは火神にとって想定内のことだったが、やはり美味しそうにココアを飲む黒子の姿は嬉しいものだった。
 それからしばらく他愛のない話をしながら黒子の心の緊張をゆっくりと解いていく。火神にとって黒子は色々なことを知っている相棒だが、黒子にとってはそうではない。彼にとって火神は初対面にも等しい大人である。
 やがてココアが半分ほどになった頃、黒子がマグカップをテーブルに置いた。本題を話す準備ができたのだろう。合わせて火神もカップをテーブルに置いて聞く態勢に入った。
「火神さん、昨日はバスケに誘って頂いてありがとうございました。とても楽しかったです」
「オレもだよ。あんなにすげーパスはオマエが初めてだ」
「一応これでも帝光中学バスケ部の一軍レギュラー……でした、から」
 過去形で語る黒子はとても寂しそうだった。そりゃそうだろうと思う一方、黒子の心がキセキに囚われたままであることの証明でもあるので、火神の中には苛立ちも存在している。
「ボクはバスケが大好きでした。でもシュートもドリブルもてんでダメで、入部してから何度昇格試験を受けてもずっと三軍だったんです。そんなボクでしたが『キセキの世代』と呼ばれる天才達と出会って、パスに特化した選手としてコートに立たせてもらえるようになりました。本当に嬉しかった」
「……」
「二年の夏までは順調だったんです。キセキの世代とは言われていてもボクと同い年の彼らは周りより少しバスケが上手いくらいで、そんなに大きな差があるわけでもなかった。接戦できる相手がいる方が楽しいって言うんでしょうか。でも二年生の夏の大会でボクを相棒と呼んでくれた人が才能を開花させてしまった。誰も敵わず戦うことを諦めてしまうくらいに強くなったんです。その彼に続いてキセキのみんなは次々と才能を開花させ、それまで保たれてきたチームプレイが行われなくなりました。だってみんな一人で試合ができるんですよ。誰かが敵からスティールするのを待たなくてもいいんです。自分で取りに行けばいい。パスも必要ありません。彼らにとって進行方向に立つ敵はパスで切り抜けるのではなく、自分自身で突破するものでしたから」
 パスは必要なくなったんです、と黒子は繰り返した。惨めさを噛み締めるように苦しげな表情を浮かべる。
 火神はその細い身体を思わず抱きしめそうになりながら、まだその時ではないと黒子の話に無言で耳を傾け続ける。
「試合中全くボールに触れなくなったってことはないんですが、信頼されなくなったと言うか……重要な場面では絶対ボクにボールは回ってきません。彼らが自分で決めます。加えてキセキの彼らは楽しそうにバスケをしなくなりました。ただ試合を淡々と消化するだけなんです。敵との差があまりにも大きすぎて手ごたえが無いから、自分達の中で得点ノルマなんて作って刺激を得ようとしたり。そんな彼らを見ていたらふと思ってしまったんです。ボクがやってきたバスケは一体何だったんだろうって」
 黒子のバスケは繋ぐバスケだ。しかしそれはキセキ達にとって不要なものとなってしまった。
 その時の黒子の苦しみは如何ほどのものだっただろうか。黒子が味わった苦しみを考えれば火神もキセキに良くない感情を抱いてしまう。が、今はそれだけではなかった。
 情けない表情を見られないよう黒子が顔を伏せる。
「バスケが本当に好きでした。でも嫌いになってしまった。火神さんと昨日バスケをしてもう一度楽しいと思えたのに、今日キセキ達の姿を見てやっぱりダメだったんです。その場から逃げることしかできなかった。つらいです。胸が苦しい。嫌いになんてなりたくなかったのに……!」
 今にも嗚咽を漏らしそうな黒子の傍に歩み寄り、火神はそっと口の端を持ち上げる。
 キセキ達の容赦ない振る舞いのおかげで黒子は今、火神に縋るしかないのだ。火神は彼らが作った黒子の弱みにつけ込み、彼を手に入れるチャンスを得ることができた。許しはしないが感謝もある。ありがとな、とここにはいない少年達に向けて呟きながら、火神は黒子の頭にそっと手を乗せた。
「かが……」
「黒子、我慢すんな。嫌だったらオレは何も見なかったし聞かなかったことにするから、だから泣けよ。思いっきり泣いちまえ」
「……ッ!」
 一線を越えてしまった黒子が火神にしがみつき、大声を上げて泣き始める。火神はその背中を、頭を撫でて、「大変だったな、よく頑張ったな」と優しく語りかけた。
「いらない……いらないって、言われたん、です! ボクのパスはもう、いらない、って! 彼、が。あおみねくんが、こぶしを、合わせてくれなくなった! ボクは、どうすれば良かったんです、か。わか、わからないんです。ボクは、ボクは捨てられてしまった!」
「キセキの奴らが大切だったんだな」
 黒子が頷く。
 でもその心はこれから火神のものになるのだ。ゆっくり、時間をかけて。今度こそ黒子の手を握り締めてもう二度と離さない。
「でも捨てられちまったんだな」
 キセキの世代の彼らとて本気で黒子を捨てたわけではない。彼らも彼らで突然周囲から突出した己に戸惑っている部分はある。他者に気を遣えないのは中学生ならしょうがないことだ。しかしその部分はあえて言わず、火神は動きを止めた黒子の頬を両手で包んで顔を上げさせて「じゃあさ」と優しく語りかけた。
「オレがオマエを拾ったら、またオマエはバスケを好きになれんのかな」
「かがみ、さん?」
 涙に濡れた綺麗な水色が火神を見上げている。その涙を吸い取って綺麗な瞳に口づけたい。そんな衝動を抑えながら火神は小さく苦笑し、用意していた言葉を贈る。
「だって大好きなバスケを嫌いになったままなんて悲しいだろ。オレが拾う。拾わせてくれ。そんでもう一回バスケが楽しいって思えるようになろうぜ。現に昨日はオレとやって楽しかったんだろ? じゃあもっともっと楽しいって経験を重ねて、そしたらいつかキセキ達のバスケを目にしても平気でいられるようにだってなれるはずだ」
 薄い瞼が何度も瞬きを繰り返して水色の上から涙を払ってゆく。まるで雨に濡れた空が晴れ渡ってゆくように。
「かが、」
「オレの隣に来い、黒子」
 これは希望で欲望で願いで、そして誓いだ。
 絶対に違えぬ、火神大我の誓い。
「オレなら絶対オマエを離したりしねーから」

* * *

 泣き疲れた黒子は火神の願いに応える前に眠ってしまった。少し残念だが黒子を抱き上げて己のベッドまで運べたのは役得でもある。
 黒子を寝室に運び温かいタオルで涙に濡れた顔をそっと拭った後、火神は黒子宅へと出向いた。いきなりやってきた大柄の男に黒子の母親は驚いたようだったが、火神が自分と黒子との出会いや相談に乗ったことなどを話せば「息子をよろしくお願いします」と頭を下げられた。黒子は家族に何も話していなかったようだが、さすがに母親は息子の不調に気付いていたらしい。自分では聞いてやれない悩みを火神が受け止めたことで少し安堵した様子だった。
 そして夜が明け、黒子が目を覚ました。
 突然知らない部屋で起きた彼に事情を説明し、ひとまず落ち着かせる。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「オレの方こそいきなりあんなこと言って悪かったな。びっくりしただろ」
「ええ、まあ」
 否定はしない黒子だったがその表情がどことなく嬉しそうであることに火神は目ざとく気付いた。そうでなくてはならない。キセキ達の手から離れた今、黒子が縋れるのはこの火神の手だけなのだから。
「どうしてボクにあんな言葉をかけてくれたんですか」
 冷静を装って問う黒子。火神が楽しそうにバスケをやっているオマエの顔をもっとたくさん見たいからだと言えば、その無表情がゆっくりと崩れていく。
「ボクは火神さんに求められているんですか」
「ああ、そうだ」
 そう答えれば、黒子が淡くともしっかりした笑みを浮かべた。
 そのまま縋ればいい。火神の手を握り返せばいい。
「また一緒にバスケをしてくれますか」
「何十回だって何百回だって、何千回だって一緒にやろうぜ」
 火神大我は決して黒子テツヤを離さない。裏切らない。捨てたりなんて絶対にしない。
 たった一つだけ求めて伸ばした手がついに握り返される。応えた白い手に火神は笑みを深め、黒子の選択を心からの底から歓迎した。


《黒子テツヤ 0》


「ボクの妻になる人、です」
 職場で出会い、二年の交際を経て結婚を決めた女性を初めて火神に引き合わせた。
 高校時代、バスケを通して唯一無二の相棒となった存在に。
 火神は驚いた表情をしたものの、すぐに祝福の言葉をくれた。おめでとう。式はいつなんだ? オレもちゃんと呼んでくれよ。自分のことのように喜んでくれる火神に黒子は精一杯表情筋を動かして微笑を作り――……
(――こんなものでしたか)
 絶望した。
 黒子テツヤにとって火神大我は特別な人間だった。いや、それは現在進行形だ。そして特別すぎて自分達の距離を測り損ねていたのだと思う。
 明確な言葉で関係を表したことはなかったが、自分は彼のものであり、彼は自分のものであるように思っていた。けれど違っていた。
 火神にとって自分は他者から奪うほどの価値など無いものだったのだ。
 だが黒子は絶望しながらも自分は最良の選択をしたのだと確信した。これでもう自分は火神との距離を測り間違えない。バスケで出会った大事な相棒≠ニして、これからは各人の家庭――特別な女性――を持ちつつ近付いたり離れたりして人生を歩むのだと。決して同じ一本道を歩むことはないのだと。
 黒子が間違えなければ変な気持ちを押し付けたりして火神に迷惑をかけることもない。火神がこうして笑ってくれるなら、罪もない女性を今まで二年間も欺き、そして更にこれから一生欺いていくことに後悔など感じない。
 旦那となる男の友人がプロの有名バスケットボールプレイヤーだと知って驚く女と火神を眺めながら黒子はすっと双眸を細めた。笑みの形に。
(嗚呼、死にそうだ)
 火神が笑ってくれる限り死にはしないけれど。
 相手の気持ちもその彼が何十年後かに変える過去も知らずに、黒子は胸中で呟いた。






Give me you.

(その心が欲しいんだ。)







上記の2〜3倍くらいのボリュームでオフ化します。
大人火神×中学黒子(後半は高校黒子)。オフ収録部分にはキセキ→黒要素あり(特に青黒と黄黒)。キセキ黒は友情かも? 黒子(と自分)の幸せだけを考える腹黒火神が生息しております。誠凛は火黒を見守り隊。
ご興味を持っていただけましたら、offページをご覧くださいませ。