欲しいものがある。
 いや、欲しい人がいる。
 けれどその人は平凡な――下手をすると並以下の――黒子テツヤと比較してあまりにも特別な人間だった。だから手を伸ばしても届かない。影は影らしく決して手に入らない太陽を眩しげに見つめるしかできないのだ。


 高校三年生の冬。三回目のウインターカップが終わり、黒子達はバスケ部を引退した。
 次に待ちかまえているのは大学受験である。火神はアメリカの大学に通いながらバスケの本場で更に腕を磨く予定なのだと言う。対して黒子は日本の大学を受験する予定だ。競技バスケは高校で終わりにし、大学にはバスケのためではなく保育士の資格を取るために通う。
 三年間一緒に走り続けた道が分かたれる。物理的な距離と時差、目指すもの。どれも黒子と火神を分けるものにしかならない。それを酷く悲しいと感じるのは三年間育んできた感情の所為なのだと黒子は十分すぎるほど理解していた。
 いつからなのか、黒子本人にも正確なところは分からない。出会ってすぐなのか、火神を利用しようとしていたことを告白して許された時か、全てのキセキ達に勝利した時か。けれどもとにかく、いつの間にか黒子は火神を欲しいと思うようになっていた。
 それと同時に自分には決して届かないものなのだとも自覚した。同性だから、というのは勿論ある。しかしそれ以前に火神大我という人間は黒子にとってあまりにも特別で、それ故に手を出せない存在だったのだ。
 高校の三年間という時間を相棒として過ごせたことがすでに僥倖。それ以上は望めない。
(だから、寂しいですけどこれでおしまいですね)
 きっと火神はこれからもっともっと輝いていく。黒子の手の届かない先へ。それでもいい。構わない。目が潰れそうな強い光の傍に三年もいることができた。それだけでもう十分だ。
 言い聞かせるように己の中で繰り返す。
 しかし、
(……ちがう。本当はちがう。十分なんかじゃない)
 ぐしゃり、と参考書のページを歪めて黒子は一人、高校の図書室で俯いた。
 欲しい。欲しい。あの人が欲しい。もっと隣にいたい。影として、友として、相棒として、それ以上だって。
 しかしその想いは叶わず、黒子はぐっと唇を噛みしめる。
 冬の一番寒い時期を迎えて三年生は自由登校になっており、そして現在一・二年生は授業中。ゆえに図書室には司書が一人と勉強中の三年生数人しかいない。その誰もが影の薄い黒子の存在を認識できておらず、またそっと図書室を出て行ったことにも気付かなかった。
 暖房が利いた図書室を出ると一気に冷たい廊下の空気が迫ってきた。思わず両腕を抱えて身震いする。こんな悶々とした気持ちでは勉強に集中できない。これくらい冷たい空気に触れて頭を一度リセットさせた方が良いだろう。
 図書室以外にも自習に使える部屋はいくつか用意されているので、そこまでゆっくり移動するのも手だ。しかし開放されている部屋の一つ――自分達の教室には足が向かなかった。火神とは三年間クラスが一緒だったため、あそこには思い出が多すぎるのだ。
(なさけない)
 思い出があるから行きたくない、なんて女々しいにも程がある。黒子は天を仰いで小さく白い息を吐き出した。
 火神本人とはもう一週間会っていない。会えばきっと苦しくなるのでこちらから連絡することはないし、また火神の方も受験勉強中の黒子を気遣って積極的に連絡を取ろうとはしていないようだった。それがありがたく、けれども同時に切なく思ったりする自分に黒子は苦笑を漏らす。
 そんな黒子の携帯電話が久々に着信を告げたのはそれから数分後のことだった。







『オレんち来ないか』
 久々に鳴った電話から聞こえた一週間ぶりの声に胸が詰まった。それをひた隠しにし、黒子は頷く。決して手に入らない人と会えば自分が苦しくなるのは目に見えている。だがあの声に呼ばれて頷かないわけにはいかないのだ。
 火神からの突然の呼び出しに用件も聞かず了承し、黒子は早速帰り支度を始めた。友達に誘われてお宅にお邪魔するのだから何も変なところはない。唯一気にすべきは了承する時に声が上ずっていなかったかどうかであるのだが、火神の『じゃあ待ってるからな』と普段通りの様子から察するに殊更おかしなところはなかったはず。
 バスケ部所属の時に使っていたエナメルバッグよりずっと小さな鞄を肩に引っ掛けて黒子は学校を出る。制服姿だったため一度家に帰って着替えようかとも思ったが、その時間すら勿体無く感じて、結局、足は火神の家に向いていた。
 思考はぐちゃぐちゃなのにやっていることは単純だ。いや、思考の方も本当は単純なのかもしれない。火神といたい、というのが黒子の様々な感情の根本に居座っているのだから。
 火神が住んでいるマンションに辿り着くと、インターフォンを鳴らす前に内側から扉が開いた。
「よ、黒子。早かったな……って、制服?」
「お久しぶりです、火神君。学校で自習させてもらってたんですよ」
「勉強中に悪かった」
「いえ、ボクもちょうど気分転換がしたい時だったので」
 ありがたかったです、と嘘の言葉を並べれば、火神が嬉しそうに笑う。それだけで嘘も胸の痛みも報われるような気がした。
 中に入れてもらってリビングに通される。相変わらず熱い性格に似合わずあっさりとした部屋だ。
「適当に座っといてくれ。あ、オマエ何飲む?」
「お気になさらず」
「気にするっての。呼び出したのオレだし」
 ニヤリと口元を吊り上げて火神の姿がキッチンへと消える。結局黒子が何を飲むのか答えることはなかったが、こちらが好きそうなものをチョイスして出してくることだろう。さすがにバニラシェイクは無いだろうが。
(でも確か家でもそれっぽいものは作れるんでしたっけ)
 あまりにも黒子がファストフード店でバニラシェイクばかり頼むものだから、いつだったか火神が家で作ってやろうかと言ったことがあった。その時には珍しく表情に出るくらい驚いたものだ。まさかあの至高の品が家で作れるなんて!と。
(そして驚いた揚句、その顔を指摘されて思い切り笑われたんですよね……。まったく、失礼な)
 とは胸中で呟くものの、頬の筋肉が僅かに緩む。そんなエピソードも今となってはキラキラ輝くいい思い出だ。
「なに笑ってやがんだ?」
「何でもないですよ」
「ふーん? ほい、カフェオレ。砂糖多めにしといたから」
「ありがとうございます」
 マグカップを受け取り、早速口をつける。冷えた指先には熱いくらいだったが、その熱がじんわりと内から外から黒子の体を温め始めると、こわばりが解けてほっと一息つくことができた。寒い道を歩いてきたのもあるだろうが、やはり火神に会うということ自体にかなり緊張していたのだろう。
 ローテーブルの前のソファに腰掛けていた黒子はそのまま背凭れに体重を預けて温かなそれを飲む。二口目を飲み込んだところですっと影が頭の上を通り、座っているソファが揺れた。ソファの右側に座っていた黒子の左側が沈み込んだかと思うと、隣には火神の姿。友人であるならば決しておかしくない距離であっても心臓が大きく跳ねた。
「ん?」
「いえ……あれ。火神君はブラックですか」
「おう。インスタントだけど」
 黒子と同じくマグカップを持っている火神だったが、その中身はほぼ白いこちらと違い、ミルクが一切入っていない黒。コーヒーはサイフォンで入れることもある火神だが、今日は寒空の下歩いて来て冷え切った黒子を温めることを優先したのだろう。レンジで牛乳を温めてインスタントコーヒーと砂糖を投入。自分の分は簡略化してコップ一杯分の水を薬缶で温め、黒子のために使ったインスタントコーヒーの余りを溶いただけ。
(嬉しい、なんて思っちゃ駄目なんですよね。きっと火神君なら誰であっても同じ対応をしてくれるはずだから)
 黒子テツヤは特別ではない。特別なのは火神大我だ。
 うぬぼれるな。望むな。そうしなければ辛くなるのは自分だと、濁った水面を見つめながら黒子は何度も胸の内で繰り返す。
 その間、隣に座った火神は無言でコーヒーを啜っていた。そう言えば彼は一体何のために黒子を家へ呼んだのだろう。バスケの試合を録画したDVDを見るでもなく、雑誌を広げるでもなく、火神は何かを考えているかのようにずっと黙している。
 沈黙が続いた所為で折角カフェオレによりほぐれていた緊張がまた復活してきた。一体火神は何を言おうと、また何をしようとしているのだろう。
 まさかとは思うが黒子の気持ちがバレてしまったのだろうか。そして気持ち悪いからもう関わらないでくれと言われてしまうのだろうか。火神は優しいから黒子に対してはっきり言ってよいものか迷っているのかもしれない。――そんな風に悪い考えばかりがぐるぐると頭の中を巡る。マグカップを持つ手には指が白くなるほど力が籠もっていた。
 その緊張が頂点に達したのは火神が自身のカップをローテーブルに置いた瞬間。カツ、とガラスと陶器がぶつかる音がして黒子の肩がほんの僅かに跳ねる。
「黒子」
 名前を呼ばれ、黒子は顔を上げる。
 そして、
(あれ……?)
 苦しげな表情の火神にぱちくりと瞬きを繰り返した。
 どうして火神がそんな顔をしているのか。苦しいのは火神を欲しながらも決して手に入れられないと解っている黒子の方なのに。
「かが、み、くん?」
 バスケットボールをしっかりと掴む大きな手が黒子の両肩に置かれた。拘束と言うには強くなく、けれどもただ置いただけと言うには力が籠もったその両手。相手が「逃げよう」と思えばきちんと外すことができる力加減はまるで黒子の意思に何らかの決定をゆだねているかのようだった。
「くろこ」
「はい」
「オレ達はこれから違う道に進む」
「はい」
「三年間一緒にやって来たけど、すっげぇ楽しかったけど、ここで別れることになる」
「そうですね」
 改めて言われると胸の痛みは更に増した。じくじくと苛み続ける痛みがズキリとしたものに変わる。辛い。とても辛い。でも火神の声を聞き逃したくない。
「それって結局、オレとオマエが違うからなんだろうな」
「ええ、ボクらは違う人間です」
「違う人間、か……」
 火神は黒子の肩を掴んだまま少しだけ俯いて笑う。
「オレ達はきっと全然違う人生を歩む。オマエは日本の大学行って、保育士になって、なんか良い感じの女の人と出会って結婚して、子供ができて結構いいパパになったりして、そんで子供とか孫とかに見守られながら幸せに死んでいくんだろうな」
「……高校生が考えるにしては随分と先の長い話ですね。大往生できるのは良いことですけど」
 それに火神の言い方はなんだか彼自身がそれには当てはまらないようなイメージを受ける。
 キミだってアメリカに行ってバスケの世界で活躍して、素敵な奥さんをもらって子供ができて、子供や孫にバスケを教えたりして、そして笑って楽しそうに最期を迎えるんじゃないんですか、と。そう言い返そうとした黒子だったが、俯く火神のギリギリ見えた表情に口を噤んだ。
 なんて顔をしているのか。本をたくさん読む黒子だが、その時ばかりは火神の表情をどう形容すればいいのか分からなかった。嬉しいのか悲しいのか笑っているのか泣いているのか。怒っているのかもしれないし、憎んでいるのかもしれないし、幸福すぎて困っているのかもしれない。迷子の子供のような、けれども子どもを見守る親のような。全ての感情が混ざってぐちゃぐちゃになって、どうすればいいのか分からないような顔だった。
「かがみくん」
「黒子、オレ達は全然違う道を進むだろう。でもさ、オマエが幸せな人生を送って、そんで最期を迎えたら……」
「かがみくん?」
 顔を上げた火神は僅かに微笑んでいた。それでも黒子には彼が泣きそうだと感じる。その直感の理由に至る前に火神はコツリと、黒子と額を合わせた。

「なぁ黒子。オマエが死んだらオレがオマエをもらってもいいか」

 声音から火神が今日ここに黒子を呼んで言いたかったのはきっとこの台詞だと直感した。しかしどういう意味なのか分からない。死んだらもらう? 死体を? そんなまさか。
 混乱する黒子だったが、間近にある火神の表情にそんな疑問も困惑も全て吹き飛んだ。
 特別な火神がこうして願い事を口にしているのだ。頷かない理由がどこにある。
「わかりました。ボクが死んだらボクをもらってください」
 それに死んでからでも火神が欲してくれるのならそれだけでも幸せだと思っていいんじゃないだろうか。どうせ手に入らない存在なのだから、逆に欠片でも一時でも欲してくれるなら。
 黒子がゆっくりと首を縦に動かすと火神の瞳が大きく見開かれ、やがて幸せそうに細められる。
 もう、その表情を見ることができただけで黒子にとっては十分だった。
「ありがとな、黒子」
「火神君……」
 黒子も滅多に使わない表情筋を動かして笑みを返そうとする。
 だがその前に火神が僅かに身じろぎして、
「ごめん」
 謝罪と共に、黒子に深く口づける。
 驚いて開きっぱなしになっていた唇の隙間から熱い舌が侵入してきた。だがそれは熱いだけでなく鉄の香りと塩の味を伴っている。血だ、と気付く前に肩の上にあったはずの手で頭を強く固定され、唾液混じりの血を強制的に呑み込まされた。
「ん、ンン! ふっ、ぅ……」
 己の舌を噛み切っていたらしい火神の口づけは混乱と息ができない苦しさと鉄の匂いでできていた。酸欠のためか、次第に頭がぼうっとしてくる。ここで意識を失ってはいけないと思うものの、身体からは力が抜けて手の中からマグカップが落ちた。
 中身がまだ残っていたはずなのでフローリングはまだしもソファは悲惨なことになっているかもしれない。けれどそうやって心配する余裕すら奪われかけている。
「か、が……く」
「黒子……っ」
 もう一度「ごめん」と、それから「約束だからな」。
 意識を失う寸前、黒子の耳に届いたのはその二つの言葉だった。

* * *

 黒子が目を覚ますとその身は自室のベッドの上に横たえられていた。
「あ、れ?」
 起き上がると、くらり、と少しだけ眩暈がする。まさか火神を想い過ぎてあんな夢を見てしまったのだろうか。
 あまりにも恥ずかしくて情けなくて、かぁと顔面に熱が集まる。
 だが乾いた唇を舐めた瞬間、舌の上に広がった血の味に動きを止める。
「え」
 唾液で濡れた唇を指で拭うと僅かに赤色がついていた。
「え?」
 混乱は増すばかり。
 しかし黒子が答えを得ることはなく。
 思い切って火神の携帯電話をコールしたのだが、機械的な女性の声がそれは現在使われていない番号だと無情にも告げる。そして翌日、火神宅を訪ねてみたが、モデルルームのようにあまり物が無かった部屋からは全ての私物が無くなっていた。勿論そこの住人もいない。
 訳の分からない約束をして、血の味の口づけをして、そうして火神大我は黒子テツヤの前から姿を消した。







 まるで火神の言葉が予言であったかのように、黒子は高校卒業後、無事志望大学に合格して保育士になった。大学時代にある女性と出会って交際を始め、保育士として働きだしてから三年目に結婚。子供はその二年後に男の子を一人、その更に二年後に女の子を一人授かった。
 共働きであるため家事はできる方がすると決めて、負担は同じくらいに。いつも仲睦まじく、ご近所さんからも「理想の夫婦」――子供が生まれてからは「理想の家族」――だと羨ましがられる程だった。
 子供達はすくすくと育ち、兄の方は一時的な反抗期も迎えていたがそのレベルは普通の子供と同じ程度であり、また期間も短くあっという間に終わって、あとは親にとっては少々申し訳ないくらい良い子だった。妹は反抗期すら迎えた様子を見せず、父親と全く同じ喋り方で、少し猪突猛進傾向のある兄のよいストッパー役になっていた。
 ただ一つ親として心配事を挙げるなら、妹の方が口調だけでなく表情筋の使い方まで父親に似てしまったことだろう。つまりほとんど表情の変化が分からない。家族や近しい人間であれば分かるものの、初対面では絶対に彼女の機微を悟ることはできないだろう。
(まぁもう一つ心配事を挙げるとすれば、少々シスコン・ブラコンの気が強かったことですが……最終的にはどちらも良い相手に恵まれて孫の顔まで見せてくれたのでほっと一息といったところですか)
 ベッドに横たわったまま黒子はぼんやりとした意識の中で過去を回想する。なんだかひどく眠かった。
 周囲には半世紀以上連れ添ってきた妻がおり、皺や白髪が目立ち始めた息子・娘がおり、そして彼らのパートナーや子供達までもがいる。
 黒子の血を引いている者達の半数は水色の髪や瞳を持っていた。そしてもう半分は赤みがかった髪や瞳を持っていた。この色は妻の家系からのものだ。
 黒子が伴侶とした女性は寒色系の黒子とは正反対の赤みがかった髪と瞳を持っている。年が年なので髪はもう真っ白になってしまったが、瞳は若い頃と全く変わっていない。
 その深い赤を帯びた瞳が優しく黒子を見つめている。おそらく次に眠りに落ちれば、自分はもう二度とこの瞳を見ることはできないのだろう。また子供の顔も孫の顔も。自分は今、永遠の眠りに誘われている。
(ねえ、貴女はボクと一緒になって幸せでしたか?)
 妻の顔を見つめながら胸中で問いかける。
 彼女とは実に穏やかな人生を送ることができた。激しい、胸を焦がすような恋はしなかった。それどころか正直に言うと、自分は彼女にある人を重ねて見ていた。なんて酷い夫だろうか。しかし彼女は黒子の裏切りとも取れるそれを知っていたし、また黒子も彼女の裏切りを知っていた。
(ボクは貴女の大切な人の代わりになれていたでしょうか)
 黒子の妻は黒子に恋をしていない。今も昔も。
 彼女の心の中にあるのはたった一人の少女であるという。黒子はその少女の顔も名前も知らないが、一度だけ色が似ていると妻から聞いたことがあった。こちらと同じだ。黒子もまた妻が持つ色彩に彼≠重ねていた。
 謂わば自分達は当時から恋人ではなく共犯者であったのだ。互いに胸に秘めた人がいて、けれども結ばれないからその悲しみを抱え込んで、しかし何の因果か代替品と出会ってしまった。そうして二人は互いの手を取り、あまりにも静かで穏やかで幸福で少し悲しい人生を共に歩んだ。
 こればかりは火神もきっと予想外であっただろう。
 愛が無かったわけではない。ただその愛の種類が世間一般の恋人や夫婦が抱くものとは違っていただけ。
 それでも黒子にとってこの人生は悪いものではなかった。火神大我という存在がこの手から零れ落ちても穏やかでいられたのは彼女に出会ったからだ。彼女もまたそう思っていてくれたなら、共犯者としてこれ以上嬉しいことはない。
 黒子の水色の瞳が妻を見上げていると彼女はこちらの考えを悟ったのか、最期を看取る者としてはあまりにも優しげな微笑を浮かべた。
 そして徐々に黒子の意識が遠のく中で聞こえたのは、
「テツヤさん、私は貴方に出会えて幸せでした。だから」

 ――どうかこれからはあの人≠ニお幸せに。







 目を開ける。まず最初に認識したのは知らない天井だった。
 身を預けているのはスプリングが効いたベッドで、清潔さを感じさせる真っ白なシーツが敷かれている。
「あれ?」
 黒子テツヤは声を上げた。少し掠れたそれは寝起きの時に出すものとよく似ている。しかし掠れているといっても喉からすっと出ていった声は、黒子の記憶にあるものよりずっと若々しかった。
 思わず喉に手をやれば、しわくちゃだったはずなのにつるりとした皮膚があった。黒子はベッドに横たわったまま目を見開き、次いで恐る恐る己の手を持ち上げて視界に入れる。
「……うそだ」
 シワとシミだらけだった老人の手ではなく、少年から青年への過渡期に見られる少しだけ骨ばった美しい手だった。こんなことはあり得ない。信じられない。何故なら黒子はもう高校生ではなく、大学へ行って就職して妻や子供ができて孫まで得て、そして彼らに看取られながら――
「死んだはず、なのに」
 それなのに今、黒子はこうして動き、声を出している。しかも高校時代の姿で。
 ベッドから起き上がるのも容易にできた。年老いた体では介助なしに身を起こすのすら一苦労だったというのに。
 何だこの状況は、と混乱する黒子。しかしその困惑はしばらくして部屋に入ってきた人物の姿を見て思考が停止するレベルにまで至った。
「よ、久しぶり」
「かがみ、くん……?」
 火神大我がそこにいた。最後に目にした時と全く同じ姿で。あの高校三年生の冬、行方不明になったはずの相棒が。
 なんで。どうして。思考は回らず、また口を開閉するだけで声は出ず、黒子はただひたすら火神を見つめる。
 火神は黒子の混乱がよく分かるのか、「驚かせて悪い」と苦笑しながら近づいてきた。そして黒子のいるベッドに腰掛けると、水色の髪にそっと触れて囁く。

「言っただろ。オマエが死んだらオレがオマエをもらってもいいかって」

 ――だからこうしてもらいにきた。
 こめかみに触れた柔らかなものは火神の唇だ。それを理解した瞬間、かぁっと黒子の体温が一気に上昇する。なにせ彼は黒子が生涯でただ一人胸を焦がした相手だ。そんな存在からキスを受け、「もらいにきた」という言葉をもらい、高揚しないわけがない。
(都合のいい方にばかり考えてしまう)
 火神の優しい声と接触はまるで彼が黒子を愛しているかのように感じられた。本当にそんなことがあっていいのか。だって彼は特別な存在で、自分は正反対の平凡極まりない一般人だと言うのに。
 火神を求めるのは黒子だが、火神が黒子と同じ気持ちを抱くはずがない。と、そう思っていた。何十年もそう思い続けてきた。
 けれど。
「なぁ黒子。ちゃんと一生を終えたんだから、もうオレのものになってくれるよな?」
 最早その言い方は火神が黒子を求めているようにしか聞こえない。うぬぼれるな、と自制しようとしても上手くいかず、火神の手が頬を包むように添えられて上向かされれば、黒子は紅潮した目元と潤み始めた瞳でじっと相手を見つめる羽目になった。
「かがみくん」
「ん?」
「ボクのこと、本当にもらってくれるんですか?」
「オマエが良いって今でも言ってくれるなら。……やっぱダメとか言うのか?」
「そんなこと……そんなこと、あるはずないですよ」
 震える声で答えれば、火神の顔が嬉しそうな笑みを形作った。
「よかった。やっとオマエが手に入るんだな。つっても、実はダメだって言われても元には戻してやれねーんだけど」
「元、に?」
 火神が何を言っているのか分からず、黒子は首を傾げた。すると火神は少しばかり苦く笑って「ごめん」と、あの時と合わせて三度目の謝罪を口にする。
「黒子、オマエはもう気付いてるよな。自分が一度死んだってこと」
「っ! そ、そうです。ボクは死んだ。でもどうして? 高校の時の体でボクはこうしてキミと話しています」
「オレの所為なんだ。オレがオマエをオレと同じ化物にした」
 自分を貶めるように火神は『化物』という単語を口にする。
「化物、ですか?」
「そう、化物だ。オレの血を飲ませて普通の人間だったオマエを不老不死にした。……ただ本当の不老不死になるには一度死ななきゃなんねーから、オマエは一度人間としての生を終える必要があったんだけど」
 ちなみに一度死んでから目覚めた後は不老不死の因子(血)を体に取り込んだ時点での肉体年齢で固定されるらしい。つまり今の黒子は火神の血を飲まされたあの時≠フ体で固定されたということである。
(ボクはもうあの時に火神君のものになっていた。でも大きな病気もしなかったし事故にも遭わなかったから何十年も普通の人として生きていた)
 だったら。
(ボクを殺しにきてくれれば良かったのに)
 とは思っても口にしない方がいいのだろう。火神がどれだけ強い気持ちで黒子を求めてくれていたのか察することができないし、こちらの方がずっと強く相手を想っていたという自負もあるが、きっと火神は黒子が大事だからこそ『普通の人間の一生』を奪わずにいたのだろうから。
 自身を化物と嘲弄した様子からそう察することができた。黒子とは逆で、火神の中では自分よりも黒子の方が尊いのだろう。
(キミの方がもっとずっと特別で尊い存在なのに)
 火神が人間でなかったと知っても黒子のその思いは変わらない。黒子テツヤにとって火神大我は特別中の特別。そんな相手が伸ばした手を黒子が振り払うはずがない。
 人間じゃなくなった? 不老不死の化物? それが何だ。むしろ火神に選ばれ火神と同じ存在になれたなら願ったり叶ったりではないか。それはつまりこれからずっと火神の隣にいる権利を得たということなのだから。
「火神君」
 頬を紅潮させたまま黒子は大切な名前を呼ぶ。
 死に際の妻の言葉がよみがえった。――どうかこれからはあの人≠ニお幸せに。
 彼女が火神の存在や黒子すら知らなかった変化を知っていたかは分からない。けれど黒子は思う。その言葉、確かに受け取りましたよ、と。
「化物だろうが何だろうが構いません。ボクはキミとこうして再び出会えたことが何よりも嬉しい。そしてどうかお願いします。この手を離さないでください」
 頬に添えられた火神の手に自分のそれをふわりと重ねる。目の前の深紅の瞳が大きく見開かれた。そして満面に喜色が広がる。
「当たり前だろ。永遠に離してなんかやらねーよ」
 不死の化物が誓う。その宣誓に黒子はしっかりと頷いた。






凡人の・化物の







火神編(火神視点)の書き下ろし分と合わせてオフ本化致します。火神編はバニラシェイクの話とか、黒子嫁と火神の話とか。ご興味を持っていただけましたら、offページをご覧くださいませ。