赤司征十郎は親の愛を知らない。
 生まれた瞬間から彼は「赤司家の後継者」であり、「赤司夫婦の子供」ではなかったから。
 加えて母親が赤司を身籠った頃の父親の行動も悪かった。父は妻の妊娠が発覚するかしないかの頃、別の女性と関係を持っていたのだ。そのため赤司の母にとって赤司征十郎という子供は自分達夫婦の慈しむべき子供ではなく、単なる赤司家の道具と成り下がってしまったのである。
 そんな家庭の中で生まれた赤司は両親からの愛情を知らずに、けれども赤司家の後継者に相応しくあまりにも優秀な人間として成長していった。
孤独を孤独とも思わない。己の身の内にぽっかりと空いた穴の存在に気付かぬまま、常に他者が期待する通りの、もしくはそれ以上の結果を生み出す日々。何事にも何物にも揺るがされず、ただ一人、勝者と言う椅子に座り続けた。
 空虚で、単調で、しかしそれしか知らないからこそ赤司は己の現状を当然だと思って息をする。
 中学からは強豪と名高いバスケットボール部に入り、これまで通りあっと言う間に主将の地位を得た。メンバーを揃え、強豪校を更なる高みへと押し上げた。
 そんな最中に彼は見つけてしまったのだ。部のエースがここ最近よく構っている三軍のメンバー。シュートもドリブルもできない、体格も全く恵まれていない、おちこぼれ選手。けれどエースの青峰が興味を持ったことを発端とし、赤司はその人物の隠れた能力に気付き、そして己が駒とする前に念のためと思って周辺の情報を集めた。
 結果。
「黒子テツヤ……お前は」
 赤司は歓喜に震えた。
 エースが構うおちこぼれ――黒子テツヤは赤司より一ヶ月程遅く生まれた同級生である。そして赤司と同じ血≠引いていた。黒子の母は赤司の母が身籠っていた時に赤司の父が関係を持った女性だったのだ。
 普通ならば己の両親の関係に亀裂を入れる存在など嫌悪すべきだったのだろう。しかし生まれた時からすでに亀裂が入っており、愛情を受け取らないままそれが普通だと思って育った赤司にとって、「両親の不仲の原因だ」と負の感情を抱くよりも、新たに現れた血縁者はむしろ希望の光に見えた。穴が開いていた赤司の心に期待が流れ込む。孤独を孤独と自覚していなかった分、その衝撃は大き過ぎる程に大きかった。
 黒子に一軍へと上がる才能が備わっていたこと、それに気付いたことも赤司を助長させた。きっと黒子テツヤは赤司征十郎の隣にいるために才能を持ち、バスケ部に所属し、そしてこの目に映ったのだと。自分と黒子は出会うべくして出会ったのだと。赤司はそう確信したのである。
 赤司はすぐに黒子をバスケットボール部レギュラーの座に――己の隣に引っ張り上げた。文句を言う者は全て潰した。幸いにもレギュラー達は黒子の特殊な才能に気付いて受け入れたため、貴重な駒を潰さずに済んだというのは赤司の胸の内だけに秘されている。


「赤司君」
 先程まで青峰と共にコートの中を走り回っていた黒子がそっと赤司の横に立つ。
 黒子が一軍に上がってしばらく経つが、まだまだ彼の影の薄さに慣れない者が多く、赤司の反対側にいた上級生の一人がビクリと肩を震わせた。しかし赤司がそれと同じ反応をするはずもない。むしろその意識は常に黒子へと向けられていると言っても過言ではなく、今もまた彼がこちらを見ていない時からずっとその姿を追っていた。
「どうした」
 一軍のメンバーによる三対三を眺めるポーズから視線を直に黒子へと向け、赤司は淡く微笑む。あまりチーム内でのあからさまな贔屓は良くないので気を付けてはいるのだが、やはり黒子を前にすると表情筋が若干緩んでしまうのだ。僅かな変化であり気付く者はほとんどいないが、洞察力の鋭い黒子には十分に伝わってしまうらしく、おかげで黒子から赤司への当たりも他と比べて柔らかいように思う。ゆえに止められない。
「青峰達とやって疲れたか? やはり黒子の課題は基礎体力だな……」
「外周は勘弁してください。今から行って来いなんて言われたら死んでしまいます」
「ははっ、冗談だよ。それに黒子の場合、体力をつけて試合にフルで出場しても、逆にミスディレクションの効果が失われてしまう。まぁ体力をつけるに越したことはないんだけどね。それよりもまずは今の技を磨く方が先だろうな」
「心のメモ帳にしっかり書いておきます」
「いい心がけだ」
 実のところあまり意味のない、いつもやっている軽口の応酬であるのだが、こんなひと時こそが赤司にとって非常に言いようのないものになる。幸せだと思うし、もっと欲しいとも思うのだ。
(あと、できるならテツヤと呼びたいんだが)
 赤司にとって黒子は「黒子家のテツヤ」ではなく「自分と同じ血を持つテツヤ」である。けれども黒子を見つけるまでバスケ部のメンバーを姓の方で呼んできたため、今でも赤司は黒子テツヤを「黒子」と呼んでいる。心の中ではいくらでも下の名前で呼ぶことができるけれども、己の立場や黒子の立場その他諸々のことを考慮すれば、理性が容易くストップをかけてきた。
「黒子」
「はい」
「で、本題は何だ? 自分は一軍(ここ)に相応しくない、なんて腰が引けてはいないだろうな?」
「それは大丈夫です。ボクは赤司君に自信を貰いましたから」
 少し前まで黒子は自分の実力や赤司の目を信じられず、――言葉にはしなかったが――己が一軍にいることに躊躇いを持っていた。しかし今はもう違うらしい。
 黒子の心情の変化は彼の練習風景を見ていれば判ることであり、赤司が口にしたのは冗談半分だ。けれどもやはり本人の口から直接それはもう望まないと聞くことができるのは気分が良かった。しかも赤司に自信を貰ったから、という理由つきで。
 無論、もし黒子がまだ本気で三軍に戻りたいと願っていたとしても、赤司がそれを叶えるはずなど無いのだが。
(テツヤはこれからもずっとオレと一緒なんだから)
 赤司はふっと口元に弧を描き、「なら安心したよ」と会話を続ける。
「我がチームの大切なシックスマンを失いたくはないからな」
「大げさですよ……。でも、ありがとうございます」
 本当に僅かだが、黒子が微笑んだ。存在感の薄さを更に強める無表情は黒子のデフォルトだ。しかし今だけは恥ずかしそうに、嬉しそうに、誇らしげに、小さな花が開くような笑みを浮かべている。
 それを間近で見てしまった赤司はぎゅっと心臓が掴まれるような心地に陥った。
 赤司が何を言っても何をやってもどれだけ結果を残しても、赤司の父や母は笑ってなどくれなかった。そんなものは赤司家の人間として当然だという空気があった。けれど同じ血を引く人間でも黒子は違う。黒子は赤司の言葉に一喜一憂し、赤司を信じ、赤司に微笑んでくれる。
 黒子は赤司の特別なのだ。
「えっと、実は話と言うかご相談がありまして」
 赤司が頭の中で何を考えているのか全く知らないであろう黒子は、ようよう本題を口にするらしい。
 少しだけ恥ずかしげに、もしくは申し訳なさそうにおずおずと告げる。
「ん? オレにできることなら何でも聞くよ」
「わあ、太っ腹ですね。頼もしいです」
 ほんの小さな微笑はすぐにいつもの無表情に戻ってしまったが、赤司は気にしない。視線で先を促せば、黒子は少し逡巡してから再度口を開いた。
「赤司君が色々と忙しいのは分かっているつもりなんですが……勉強を教えていただきたいんです」

* * *

 黒子の頼みを赤司が断るはずもない。部員の勉強面でのサポートも主将の役目だなどとうそぶきながら、内心、諸手を挙げて歓迎した。
 事情を尋ねると、来週の頭に数学の小テストがあって、対策に不安があるらしい。黒子は決して普段から赤点を取るようなラインにはいないのだが、それでも得意科目の国語以外はいまいちぱっとしない。しかも今回のテストの範囲は特に黒子が苦手としている部分とのことだった。
 よって、迷った末に知り合いの中で最も頭が良くきっと教え方も上手いであろう赤司に助力を乞うことにしたそうだ。同じレギュラーの中では緑間も勉強が得意な方であるが、学力だけではなく相性も踏まえて赤司と緑間を比べた時に黒子が選ぶのは前者だった。
「ボクとしても初っ端から『普段から人事を尽くしていないからこういう時に焦るのだよ』としかめっ面をされるのを解っていて頼みに行くのはちょっと……」
「緑間には悪いが、確かにそうだ」
 黒子の言葉に赤司は苦笑する。
 現在、赤司達がいるのは皆が帰った後の部室。黒子と二人で居残り、部室の隅に追いやっていた机を引っ張り出して数学の教科書とノートを広げる。
 赤司から見た黒子のノートは綺麗だが、やはり取り方が甘い。理解してからの板書ではなく、とりあえず黒板に書かれた文字を写しているという形だ。しかし努力している形跡は至る所に見受けられるし、基礎は備わっているようなので、教えるのはそれほど苦労しないだろうというのが赤司の感想だった。
「とりあえず教科書の応用問題を解くところから始めよう。あの教師の出題パターンは大体わかってるから」
「さすが赤司君です。よろしくお願いします」


「ああ、もうこんな時間か」
 ふと壁にかかった時計を見上げて赤司は呟く。部活が終わってから勉強を開始したため、もうすぐ中学生だけで出歩いてはいけない時刻になろうとしていた。いくら黒子が男であると言ってもそろそろ帰宅させなくてはマズい。
 赤司の声でノートから顔を上げた黒子に「そのくらいで良いんじゃないか」と帰る準備を促す。
「家の人も心配しているだろう?」
 それは何とはなしに続けた定型句のようなものだった。黒子の家に父親がいないことは知っているが、それを知っていることを知らせてはいなかったので、当たり障りのない「家の人」という表現にしたものの、それ以外特に何か気にしてなどいなかった。
 だが赤司がそう告げた瞬間、常から表情の乏しい黒子が完全な無表情になった。
「くろこ?」
 驚いて息を呑む。
 黒子は全くの無表情のままじっと赤司を見つめている。先程まで問題が難しいと言って苦しんでいたのも、それが解けたことで浮かべた笑みも、何もかもが幻だったかのように。その異常事態に赤司ははっとして、黒子の肩を強く掴んだ。
「おいっ、黒子! どうした!」
「ッ! ……あ、赤司君」
 はっとしたように肩を揺らし、黒子が瞬いた。完全な無表情≠ナはなく、ようやくいつもの黒子が戻ってくる。
 黒子は自分がどんな状態だったのか理解しているらしく「すみません」と眉を下げて謝罪を口にした。
「いや、謝ってもらうようなことはしていない。だがどうした」
「大したことではないんです」
 困ったような顔で黒子は首を横に振る。しかしそれで諦めてやれるほど赤司は黒子のことをどうでもいい存在などとは思っていない。心配の種があるのなら取り除いてやりたいし、もし黒子が今のような表情を過去に何度もしてきたのなら、赤司の前ではもう二度とさせたくないと思う。
「どんなことでもいい。オレに言ってくれ。吐き出すだけでも楽になることは沢山あるし、オレにできることがあるなら力になりたい」
「赤司君……。ありがとう、ございます」
 くしゃりと表情を歪めて黒子は頭を下げた。それから時計を見上げ、「時間は大丈夫ですか?」と問う。それは黒子が赤司に話をしてくれる気になったという証拠であり、また今なら時間を理由に退くこともできるという意味だった。それを解っているからこそ、赤司は退けない。退きたいとは思わない。
「大丈夫だ」
 少しでも黒子の中の躊躇いを取り除けるように赤司は力強く頷いた。
 黒子は少しばかり悩んだようだったが、やがてもう一度「ありがとうございます」と告げてそっと目を伏せた。そのまま机に視線を落とした状態で黒子は話し始める。
「まず赤司君にはボクが母子家庭の子供であることから説明しなくてはいけませんね」
「父親がいないのか」
 知っていることだが、あえて知らないふりをする。
 黒子は「はい」と小さく首を動かした。
「ボクの母は未婚のままボクを産みました。遺伝上の父はすでに奥さんがいる方で、母はその浮気相手だったんです」
「それは……黒子のお母様がお前に教えたのか?」
「そうですよ」
「いつ頃」
「さあ。昔過ぎてよく分かりません。気付いた時には知っていましたし、母は何度も何度もボクに言い聞かせるように繰り返していましたから」
 さらりと告げられた言葉は一瞬そのまま聞き流してしまいそうになる。だが赤司は黒子の母が持つ異常性に気付いてぞっとした。
この話が本当ならば、彼の母親は幼い黒子にずっと呪詛のような言葉を吐き続けてきたことになる。まだ事実を知らなくてもいい、柔らかな綿に包んで心ごと守ってやらなければいけない時期に容赦なく残酷な事実へと晒してきたことに。
 赤司が気付いたことに気付いたのだろう。黒子は机から視線を上げると弱々しい笑みを浮かべた。
「悲しいですが、ボクは母に愛されていません。ただ義務として育ててもらっているだけです。だから、でしょうか。ボクも気付いた時にはあの人をなるべく煩わせないよう、存在を消すことに心血を注いでいました。おかげで今は意識しなくても人に認識されにくくなっている。一応、ボクだって生まれつきここまで極端に影が薄かったわけじゃないんですよ?」
「黒子」
「ご飯は作ってもらえるんです。ちゃんと、あの人が自分の分を作る時に、二人分。だけどボクはこの頃、あの人と一緒に食卓に着いた記憶が全くない」
「くろこ」
「勉強を頑張っても褒めてもらえません。でも悪い成績を取ってしまえばあの人に迷惑がかかる。だからボクはそれなりに勉強をしています」
「くろ、こ」
「帰宅が遅くなっても全く問題ありません。むしろ一日家を空けた程度では怒られもしません。ボクが気にしなくちゃいけないのは、遅い時間に出歩いていて補導されないこと。補導されてしまえば、あの人に迷惑がかかる。まぁこの影の薄さのおかげで、きっと交番の前を通っても気付かれないんでしょうけど」
「黒子ッ!」
「……赤司君。だから、そんな顔しないでください。ボクは遅くなっても平気だってだけなんですから」
 笑う黒子。その笑みを見ながら赤司は理解した。
 黒子は赤司と同じだ。同じ男の血を引き、愛を知らずに育った。個を捨て、その環境に求められる姿へと。きっと生まれる家が違えば、赤司は黒子に、黒子は赤司になっていただろう。
 同じ。同じなのだ。自分達は全く同じイキモノ。
(だからなのか)
 黒子の悲しみが理解できる。
ゆえに赤司は今、
(とても、うれしい)
 黒子の存在を知った時以上に、歓喜に胸が震えた。もはや狂喜と言ってもいい。それくらい赤司は己の目の前に現れた同胞の存在が嬉しくてたまらなかった。
 黒子は赤司に与えられた唯一の影(ヒカリ)であり、兄弟であり、そして自分自身だ。ただ血が繋がっているだけの親などとは比べようもない程に大切な存在。それを確かに感じて涙が出そうなほど嬉しかった。

* * *

 二年生に進級してしばらく経った頃、バスケ部の一軍に新たな人物が加わった。
 中学生にしてすでにモデルの仕事をしているという黄瀬涼太。彼は青峰のプレイに惹かれ、未経験者としてバスケットボール部に入り、そして二週間と言うあまりにも短い期間で三軍から一軍へと上がってきた類稀なる才能の持ち主だった。
 バスケの才能は十分。しかし運動部という組織に入ってまだ二週間しか経っていなかったため、黄瀬にはバスケのルール自体の他に部内のルール等もあまり身についていなかった。これを何とかするため、黄瀬の教育係に任命されたのが黒子。任命者は勿論、部を司る立場である赤司だ。
 一年の時に黒子の家庭の事情を知って以降、赤司が黒子に感じるシンパシーは殊更大きくなっており、依存と称してもおかしくない程だった。
 赤司にとって黒子は自分の隣にいるのが当たり前の存在であり、他者が赤司のポジションに取って代わるなどあり得ないこと。「光と影」として黒子が最も長く共に時間を過ごすのは青峰だったが、黒子と青峰をセットで扱うのはバスケに関する時のみだ。それに一緒にいる時間が長いことと真に黒子の隣に在るというのは、赤司の中ではイコールにならない。黒子本人にすら明かしていないが血と言う絶対的なアドバンテージがあったため、他者が自分達の間に割って入ることなどできるはずもないと考えていたのである。
 よって黄瀬の件に関しても赤司は主将として適切な人選をしたつもりであるし、また黄瀬が犬のように黒子に纏わりついたとしても動揺することは全くなかった。むしろ一軍に上がり黒子を教育係につけたばかりの頃、彼の実力も理解せずに軽視していた時の黄瀬の態度の方が赤司の癇に障ったくらいだ。
 どんなことも、誰であっても、赤司と黒子の繋がりを絶つことはできない。
 赤司にとってそれは事実であり確定事項であり真実であり、そして願いであった。


「相変わらず他人のものばかり欲しがるんだな」
 放課後、バスケ部へと向かう道すがら。職員室に用があって教室から部室まで普段と違うルートを通っていると、途中で見知った姿を見つけたので赤司は声をかけた。
「……赤司?」
 同じく一年にしてバスケ部のレギュラー、灰崎祥吾。
 振り返った彼の唇はグロスで光っており、赤司が声をかける少し前までいた女子生徒と何をしていたのかが一目で判る。なお、そもそも赤司は灰崎と女子生徒が口づけを交わした後、二人が気軽な様子で別れるまで声をかけずにいたので、たとえ灰崎の相手がグロスを塗るようなタイプでなくとも何をしていたかは理解できるのだが。
 部の主将に見られていたと気付いた灰崎は、しかし、軽く肩を竦めただけでやましいことなど何もしていないという態度を取る。
 たとえ先程の女子生徒が数日前まで黄瀬の取り巻きの一人であったとしても。
「他人のものはそんなに美味いか?」
「んー? まぁな。つっても、すぐ飽きちまうんだけど」
「お前の性質はバスケといい普段の生活といい、本当に迷惑なものだな」
 灰崎のプレイスタイル――真似る≠フではなく相手から奪う=\―を指して赤司は苦笑を漏らした。
 チームを勝利へと導くキャプテンとして、チームメイトが対戦相手の技を無効化し、それを使用できるようになるというのは非常に好ましいことである。しかし『奪われる相手』が同じチームの人間であったり、バスケに関係のない――そのくせ問題が起こればバスケに響いてくる可能性がある――私生活方面であったりする場合もゼロではないどころかかなりの頻度であるため、赤司としては自制してもらいたいところだった。
 加えて灰崎はいささか暴力的でもあり、一軍に上がってきた黄瀬とは将来的にポジションを入れ替える可能性もあると考えていた。
(……まぁそれまでは有効的に使わせてもらうが)
 まだまだ黄瀬の実力が灰崎に追いついていないというのもあるので。
 ともあれ、赤司にとって特別なのは黒子テツヤのみ。それ以外はただの駒だ。こちらに都合よく働くならば使うし、不都合になるなら躊躇いなく捨てる。
 愛を知らずに育った子供は他人を上手く愛することなど知らない。ゆえに目の前に現れたたった一人の同胞へ傾ける愛情とも執着ともつかぬ感情は、本来複数に振り分けられる分をその一人に集約させてしまう。
(灰崎への忠告も必要だが、早くテツヤに会いたいな)
 正面に立つ灰崎には「ほどほどにしろよ」と言い残し、赤司はその場から去ろうとする。だが一歩踏み出したところで、
「なあ、赤司」
 ニヤニヤと性質の悪そうな笑みを浮かべた灰崎に名前を呼ばれる。
「なんだ。これから部活だぞ。お前もさっさと――」
「アイツってお前にとって何なわけ?」
「誰のことだ」
「ハハッ、反応早ェ」
 ケタケタと笑いながら灰崎は続ける。
「なぁ赤司ィ。オレって他人の持ってるもんがすっげー欲しくなるんだよ」
「知っている」
「そのおかげっつーか、そうなるキッカケなのかもしんねーけど。オレさ、他人が大事にしてるもんとかよく気付くんだよな。本人は上手く隠してるつもりでも、ちょっと見てりゃあ判る」
「……」
「ま、オレもさすがにテメーの大事なもんについては最近まで全く判んなかったんだけどよ」
 挑発的な灰崎の視線に赤司は戦慄――――――しなかった。
 こんな男に赤司の大切なものを奪えるはずがない。赤司と黒子の繋がりは特別なのだ。その辺の友人やら恋人やらと比べられては困る。
 赤司は、くっと喉の奥で笑い、常勝の覇者として灰崎の挑戦を受けて立つ。
「お前がオレの何に気付いたか答え合わせをしてやるつもりはないが、奪えるものなら奪ってみればいい。どうせお前にはできないよ。アレはオレの『特別』だぞ? 灰崎、お前ごときの手に入るもんじゃない」
「はっ、言ってくれるじゃねーか」
 ぎらぎらと射抜くような視線で灰崎は赤司を睨み付けた。
「上等だよ。そのイラつく顔、あっという間に引っぺがしてやる」
 その捨て台詞と共に灰崎は赤司に背を向けた。部室とは違う方向に足を向けたということは、本日は部活に参加しないつもりなのだろう。遠ざかる背に「そんなんじゃ黄瀬に抜かれるぞ」と冗談交じりに声をかけてみたが、未だ抜かれるつもりのない彼には立ち止まる価値もない戯言だったようだ。
 赤司は肩を竦め、灰崎とは反対方向――部室へと足を向ける。
 この時間ならもう黒子は来ているかもしれない。愛しい者の顔を脳裏に描いて赤司は薄い笑みを浮かべた。

* * *

 灰崎が自分の欲しいものを手に入れる時、『奪う』と表現されるように奪われる側からすれば望んで差し出しているわけではない。だがその一方で、奪われる対象――つまり『もの』自体にとっては、灰崎の手元に移ることが決してイコール不本意なことというわけではなかった。
 バスケの技や『物』に関しては意思など無いので除外するが、奪われる対象が『者』である場合、それらは灰崎に自ら進んで奪われるのが普通だった。
先日赤司が目撃した一件からも窺える。『者』――多くの場合『彼女』となる――は灰崎のアプローチに応えて望んでその唇を、身体を、心を差し出すのだ。
 と言うより、もし無理やりだったなら犯罪である。暴行罪、傷害罪、強姦罪、脅迫罪、エトセトラエトセトラ。もし無理やり他人を得ようとするならば、そういう名前の罪を受けることになる。それはあまりにもリスクが高すぎるし、また灰崎の容姿や運動能力、話術と言ったものはそのリスクを冒す必要もなく彼が望む『者』を手に入れるのに十分な基準を満たしていた。
 そんなわけで、赤司から黒子を奪うと灰崎が宣言した後も赤司は黒子の身の安全を疑ってはいなかった。灰崎がいくら黒子を手に入れようと思っても、それはまず黒子の心を手に入れるところから始まる。そして黒子の心が灰崎に傾いた後、彼はようようその身体に手を出す。
 しかしながらそもそも黒子が灰崎に心を傾けるわけなどないと赤司は思っている。黒子の心は赤司のものだ。
 現に赤司に宣戦布告して以降、灰崎が黒子を構う頻度は高くなっている。それこそ青峰や黄瀬が警戒を示すほどに。けれども黒子に変化はなく、相変わらずチームメイトとしてしか接していない。灰崎にとってはこれまで接してきた少女達と違い、さぞ攻略しにくい相手だろう。
 黒子にちょっかいを出してはつれなくあしらわれる灰崎の様子を赤司は時折苦笑すら浮かべて余裕の表情で眺めていた。
 赤司の大切なものがその手から零れ落ちることなどあるはずがない。手中の珠は大事に守られ、ずっとその場所にあるものだと――。

(――そう思っていたんだが、どうやらオレは灰崎祥吾という人間を見誤っていたらしい)

 その日、部活が始まる時間になっても黒子と灰崎の両名は体育館に現れなかった。灰崎が遅刻したり欠席したりすることはままあるので気にする程ではなかったが、黒子が無断で部活を休むなど考えられない。
 第一体育館で赤司は不審に思いながら一軍のメンバーに指示を出して練習を開始する。一度連絡してみた方がいいかもしれない。そう思い、携帯電話を取りに赤司は部室へと足を向けたのだが――。
「そう言えば灰崎のヤツ、まだ来てねぇんだって?」
「おう。つか俺さっき灰崎が第四体育館の裏手に行くの見たけど」
「あー……じゃあひょっとして逢引ってやつか」
「ちょ、おま! イマドキ逢引とか言うか?」
「うるせぇよ!」
 数名の男子生徒達がストレッチ中にそんな会話をしているのが耳に入った。
 黒子は普段から影が薄いので部活に参加していようがいまいが認識できる者は少ない。反して灰崎はレギュラーであり人並み以上の存在感を持ち合わせているため、欠席していればそれなりに何かを思う者達も出てくる。赤司が会話を耳にした男子生徒達はまさにそれだったのだろう。
(第四体育館か)
 滅多に使われておらず人気がないことから、秘め事がある時に利用されることもままある場所の一つだ。そこに灰崎がいるらしい。
「……」
 赤司は一瞬だけ考えを巡らせた後、部室へと向かってあるもの≠手にしてから第四体育館へ向かった。携帯電話には触っていない。手に入れた物をポケットに隠して早足で第四体育館の裏手に回る。
 そして赤司はその光景≠目にし、自分が灰崎祥吾と言う人間を見誤っていたことを認めた。


「お前ってそんな顔してるくせにホント強情だよな」
「そんな顔ってどんな顔ですか。ひょろそうって意味ならぶっ飛ばしますよ」
「はっ。できるもんならやってみろよ」
 第四体育館の裏で、灰崎が黒子をコンクリートの壁に押し付けていた。黒子の両腕を拘束するように左手一本で頭上でまとめ上げ、右手は顎を掴んで無理やり視線を合わせている。未だ制服に包まれている足は黒子の股に差し込まれ、完全に相手の動きを封じていた。
 腕力で劣る黒子が灰崎の拘束から逃れるのはそう容易いことではない。水色の双眸がキッと強い視線で相手を睨みつけているが、それは逆に灰崎の嗜虐心を煽る結果にしかならなかった。
 灰崎は獲物を狩る肉食獣のようにぺろりと唇を舐め上げて右手を黒子の制服に伸ばす。しゅるりとネクタイが外されたことで黒子は己が何をされかかっているのか気付いたのだろう。激しく抵抗をし始める。しかし灰崎が足を少しばかり深く差し入れただけで黒子は「ひっ」と息を呑む羽目になった。
「そうそう、大人しくしてろよ。そしたらキモチヨク……は無理だろうけど、なるべく痛くねぇようにしてやっから」
「な、にを」
「そりゃナニだろ?」
 黒子から奪ったネクタイをそのまま両腕の拘束に用いて、自由になった左手も使って灰崎は本格的に黒子の服を脱がしにかかる。

「そこまでにしろ、灰崎」

「……けっ、来やがった」
「赤司君!」
 気に食わないという顔と助かったと安堵する顔。両者それぞれの表情を浮かべながら、現れた赤司に視線を向ける。絶対に邪魔をしてくる他人の目の前でわざわざことを進める気のない灰崎は盛大に舌打ちした後で黒子から離れた。
「黒子、こちらに」
「っ!」
 赤司が手を伸ばして微笑めば、黒子が真っ直ぐ駆けてくる。普段淡泊な態度を取り無表情がデフォルトの黒子であっても、さすがに同性から襲われたとあっては平静でいられなかったらしく、赤司に促されるままその背に身を隠す。
「もう大丈夫だ。まずはそのネクタイを取らせてくれ」
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「黒子が謝ることじゃない。……よし。特に怪我なんかはしていないな? 部活には出られるか?」
 両腕の拘束を解いた後、赤司は優しく黒子に尋ねる。黒子は「はい。出ます」と頭を縦に動かした。突然灰崎に襲われて驚いたものの、直接的な被害はまだ受けていなかったのが幸いしたのか、平静を取り戻すのも早かったようだ。
 元々繊細な見た目に反して図太いところもある黒子は淡い笑みすら見せた。赤司はそれに満足そうに頷いて黒子の背を押す。
「皆には担任に呼ばれていたと言えばいい。オレはこのバカに少しばかり説教してから顔を出すよ」
「わかりました。お願いします」
「ああ」
 これまでの対応から赤司を全面的に信頼している黒子はぺこりと一礼してから小走りで部室へ向かった。
 黒子の姿が完全に消えた後、赤司はそっぽを向く灰崎に一歩二歩と近付く。
「……灰崎」
「なんだよ」
「オレの目には黒子が嫌がっているように見えたんだが、間違いはないな?」
「……」
「お前がここまで無理強いする人間だとは思わなかった。これはオレの落ち度だ。お前を見誤っていた」
「天下の主将様も見誤るなんてことがあるんだな」
「ああ、全く困ったことにな。だがこれからは違う」
 赤司はポケットに手を入れる。そして部室からとってきたそれ≠素早く取り出して、
「灰崎」
「なん……ッ!?」
 静かな呼びかけとは正反対に、赤司が勢いよく地面を蹴る。これまでゆっくりと近付いてきていた赤司に油断していた灰崎は、その手に握られている物と赤司が狙っている部分≠ノ気付いて身を捻る。
 天性の反射神経のおかげか、赤司のそれ≠ヘ灰崎の頬を軽く掠っただけで済んだ。しかし灰崎が咄嗟の判断で避けなければ、
「ふん、まぁ避けられないようならレギュラーにはなれないよな」
「テメェ!」
 赤司が握ったボールペンは灰崎の目を突き刺していたことだろう。
 攻撃を避けられた赤司は淡々とした表情で手の中のボールペンをもてあそぶ。灰崎が避けるギリギリのタイミングで攻撃を仕掛けたのだから驚く必要もない。勿論、ペンの切っ先が灰崎の目を貫いても何ら構わないとは思っていたが。
 そんな赤司の態度に灰崎は激昂から一変、ぞっと顔を青褪めさせる。普段と全く変わらない様子なのに赤司の行動があまりにも常軌を逸しているからだ。しかも帝光中学バスケットボール部を勝利に導く役を担っているというのに、傷害事件など起こしてしまえばそれもできなくなる。常勝の男がわざわざ己の顔に泥を塗る危険を冒したのだから。
「オレに怪我なんてさせたら試合に出られなくなっちまぜ」
 頬に少しの掠り傷ができたくらいならいくらでも誤魔化せる。しかし片目が潰れたとあってはどうしようもない。
 そう告げる灰崎に、しかし赤司は鼻で笑って返した。
「それが?」
「なっ」
「それがどうした。バスケ部? 関係ないな。お前はオレの大切なものに手を出した。制裁を加えるのは当然のことだろう?」
 赤司にとって黒子と比べられるようなものは何もない。バスケ部もまた例外ではなかった。唯一バスケ部を守る理由があるとすれば、黒子がそれを望むなら、という条件が付くだろう。
「と言うわけで灰崎、選ぶんだ。二度と黒子に手を出さないと誓った上でなおかつバスケ部を辞めるか、それともオレに逆らうか。今ここで決めろ」
 ボールペンをくるりと回し、赤司はいつも通りの表情で選択を迫る。
 黒子に手を出したのだから手の中にあるペンで灰崎の顔をぐちゃぐちゃにしてやっても構わなかったのだが、傷害事件を起こせば黒子のいるバスケ部≠ェ試合出場停止になってしまう。しかしながら灰崎がこれまで通り部活に顔を出せば、さすがに黒子の心労がかさむ。
 赤司の思考はどこまでも黒子中心に働いていた。判断基準は黒子のためになるかならないか。その一点のみ。黒子が望むならば彼に触れた灰崎の両手足を切り落とすことすら厭わない。
「オレは――」
 灰崎は青を通り越して真っ白になった顔で口を開く。赤司の異様さに気圧された彼は、そうして結論を口にした。
「結構。それじゃあな」
 答えを聞き、赤司はボールペンをポケットに直すと灰崎に背を向けた。自分が先程起こした凶行など全く無かったかのような顔で去っていくその背に灰崎が吐き捨てる。
「赤司、お前気持ち悪ぃよ」
「オレはただ黒子が大切なだけさ」
 振り返らずに告げて赤司は第一体育館へ向かう。
 その翌日、灰崎祥吾の退部が部内に公表された。

* * *

 灰崎が抜け、黄瀬が加わったチームで赤司達は全中二連覇を果たした。
 ちょうどその頃からこれまで周囲より少し優れた選手£度であった青峰が一気に才能を開花させ、彼につられるように黄瀬が、緑間が、紫原が、そして赤司がバスケ選手としての才能を開花させていった。
 と同時に、チームの各選手達がここぞという場面で黒子へパスを回す数が減ってきていることに赤司は気付いていた。黒子自身もチーム内での自分の立ち位置が――言ってしまえば選手としての価値が――変化し始めているのを肌で感じ取っていたのだろう。最近、コート内で寂しげな目をすることがよくある。
 けれども赤司は黒子のバスケ好き具合をよく理解していたため、彼がバスケから離れることなどないと思っていた。そしてバスケから離れなければ、それだけで黒子は物理的に赤司のすぐ傍にいることになる。よって黒子の寂しげな顔を見るのは心苦しいが、それ以外では何ら問題はなかった。
 灰崎と言う危険な要素を排除したことも赤司の自信を強める理由の一つとなった。黒子を害する人間がいなくなったことで安心して部活に参加してもらえるのだと。
 現に全中二連覇を達成して一月経っても、二月経っても、半年経っても黒子はバスケ部に所属し続けた。赤司の考えは裏切られることなく、黒子は赤司の隣に在り続けたのだ。
(高校も同じところに進もう。オレが提案すればきっとテツヤだって頷いてくれるはずだ)
 三年生の夏、本格的に志望校を決め始める頃になると、赤司はこれからも黒子と共にあり続けることに疑いなど無く、まずは直近の高校進学についてそう考えるようになった。
 そうして迎えた三年目の全国中学校バスケットボール大会。当然のように赤司率いる帝光中学校バスケットボール部は優勝――つまり三連覇を果たした。
 決勝ですら圧倒的な強さを見せつけ、まさしく王者に相応しい勝利を、けれどもどうしようもないくらいの実力差により機械的とすら言える淡々とした勝利を収めたのである。
 最後の試合の際、黒子がこれまで以上に何やら考え込んでいることは知っていたが、赤司は特に何かをしようとはしなかった。だが全中が終わってすぐ、赤司が予想もしていなかった現実が目の前に突き付けられた。
 ――黒子がバスケ部から姿を消したのだ。
 退部届を出した黒子はそれ以降、赤司を含めたバスケ部の者達と一切の関わりを絶った。
赤司は黒子から退部届を受け取ったことに大きなショックを受け、次にどう行動すればいいのかすら考えられなかった。
 まさか黒子が離れていくなんて。赤司と黒子の繋がりは絶対であり、運命であり、だからこそバスケという同じ競技の同じグループにいたのではないのか。
 混乱と言うよりも納得ができないまま、夏が終わり、秋が過ぎ、冬が来て、志望校に願書を出す頃になっても赤司は黒子と顔を合わせる機会が得られない。否、本気で黒子を捕まえる気になったならば可能だったかもしれないが、そうやって再び言葉を交わした際に特別な人の口から何を言われてしまうのか――……赤司はそれが怖くて二の足を踏んでしまう。
 そうなってしまうのは本当に赤司にとって黒子が特別な存在だからだ。同胞。片割れ。唯一愛すべき存在。愛することができる存在。
 自分が黒子に依存していることに赤司は十分すぎるくらい気付いている。孤独なまま生きてきた赤司は黒子と出会って孤独ではなくなった。影を称する彼は影でありながら赤司の光でもある。ずっと暗闇の中にいた赤司は光を知り、その温かさに触れた。もう知らなかった頃には戻れない。
 だと言うのに、黒子の手はするりと赤司から逃れてしまった。一度温かさを知った心には再び生まれた空洞が寒くて寒くて仕方ない。だから気が狂いそうな程その隙間を埋める存在を、黒子テツヤを求めている。でも実際に会った時のことを考えると怖い。もしもう一度決別の言葉を告げられたら、赤司は立ち上がれなくなってしまう。
(テツヤ、オレは……)
 その先の言葉は心の中であっても言えなかった。


 常勝の王。いつでも全てを手に入れてきた選ばれし人間。赤司征十郎とはそういう人間だった。しかし世界は勝ち続けてきた彼に最悪の一敗をもたらす。


「今までありがとうございました」
 桜の蕾も膨らみ始めた三月。しかし春の訪れをひっくり返すかのように昨夜から急に冷え込んだ東京は、本日、生憎の曇り空だった。そして卒業式が終わりに差し掛かると、空からはひらひらと白いものが降ってきた。
 薄桃色の花びらの代わりに白い雪を枝に咲かせた桜の木の下で向かい合うのは赤司と黒子。
 全中三連覇後、完全に赤司達『キセキの世代』を避け続けてきた黒子が自分から赤司の前に姿を見せていた。しかしそのことに赤司が素直に喜べる雰囲気ではなかった。
「半年間避け続けたのに今更、なんて思われるでしょうが……。やっぱり赤司君のおかげでボクはあの場所に立つことができていましたから」
「あれから半年……まったくよく逃げてくれたものだ。しかしその言葉と気持ちは素直に受け取っておこう。他の皆には?」
 胸に去来する嵐のような感情を全て押し殺し、平静を保って赤司は返す。
 黒子がほんの僅かに悲しげな顔をした。
「言えるわけないですよ。彼らにとって……彼にとって、ボクはもう要らない存在なのに」
 そう告げる黒子の脳裏には相棒と称された青い髪の少年が思い起こされているのだろう。
「……っ、くろこ」
 寄せられた眉に、噛みしめられた唇に、赤司は随分と遅まきながら予想以上に黒子の中で青峰の存在が大きくなっていたこと、そして黒子の心が無残に切り裂かれていたことに気付いた。
 黒子はバスケが好きなのだから大丈夫だと思っていた。たとえ青峰達と同じ道を進めなくなったとしても、赤司が手を伸ばせば届く位置にいるのだと思っていた。けれどそれは思い上がりだったのだ。
 傷つきすぎた黒子は赤司の手の届かない場所にいる。もう一緒には進めない。
「赤司君」
 ひた、と水色の双眸が赤司を捉えた。
 やめてくれ。聞きたくない。そう思っても耳を塞ぐことすらできない。
 そして、恐れていた敗北が訪れる。

「さようなら」

 バキリ、と何かが大きく壊れる音がした。


 赤司征十郎はたった一人、桜の木の下で佇んでいた。
 肩や髪にはうっすらと雪が積もり、その場にいた時間が決して短くないことを教えてくれる。
「テツヤ……」
 さようなら、という最後の言葉が頭の中でリフレインする。去っていく背中が目の奥に焼付いて離れない。
 たった一人の同胞が決定的な決別の言葉を置いて離れて行ってしまった。
 ひどく、寒い。雪が降るほどの外気温だけの所為ではない。再び生じた穴に、ひび割れた心に、雪よりも冷たいものが降り積もっていく。
 凍えそうだった。死んでしまいそうだった。否、心は確実に死んでしまった。
でも人間の身体というのは意外とタフなもので、たとえ大事なものを失くしても、たとえ心が壊れて(死んで)も動き続ける。
「僕≠ヘお前と一緒にいたかったんだ」
 オレ≠ナはなく僕=B
 まるで欠けた部分を補うかのように、けれどもボク≠ナはなく僕≠ナしかない歪な補い方で、赤司征十郎はそう呟いた。






Anemone







バッドエンドで申し訳ないです。赤司様一人称変化のお話。
高校編に続きます(中学編と合わせて10/14オフ本化)。高校編は火黒・誠凛黒がほんのり。赤→黒から赤黒になります。
高校編は中学編と同じくらいのボリュームです。ハッピーエンド。