似せた












1(一護)



「黒崎サン、今日もこのあと病院?」
「はい。」
「真咲サン、早く治ると良いっスね。」
「ありがとうございます。それじゃあ、」
「ええ。また明日。」

そう言って微笑む店長に頭を下げ、俺は荷物を抱えてバイト先を後にした。
駐輪場に止めておいた自転車に跨り、向かうのはこの町の中央病院。
その精神科に俺のおふくろは入院している。
もう、ずっと長い間。
小学四年生が高校一年生になっても彼女は退院出来ないでいた。



* * *



「こんにちは。」

真っ白な引き戸を開けて真っ白な部屋に入る。
相部屋ではなく個室であるそこにはベッドが一つ。
そのベッドの上で身体を起こして窓の外を眺めていた女性がこちらを振り返った。

「あら、来てくれたのね。こんにちは。」

穏やかで、透き通るような声。
ふわりと浮かべられた微笑は甘く優しいものだけで形作られたかのよう。

「今日は紫陽花を持って来ました。うちの家で咲いたやつなんですよ。」

そう言って、手に持っていた花束を女性の方に差し出す。
紫と言うよりはやや青味がかったそれを目にし、女性は何かを思い出すように遠くを見た。

「きれいね・・・。私の家にもこんな紫陽花が咲くのよ。あなたにも見せてあげたいわ。」

花弁のように見えるガクの部分を指でそっとなぞり、彼女は俺と視線を合わせて微笑む。

「ねぇ。私が退院したら家にいらして下さらないかしら・・・」








「・・・幸也くん。」








ああ、これが俺に科せられた罰なのだ、と。
その名前を呼ばれる度に思う。

「ええ、そうですね。俺も黒崎さんのお宅に伺ってみたいです。だから早く良くなってくださいね。」
「もちろんよ。」

うふふ、と彼女が笑う。
それに合わせるようにして俺も笑みを作る。



この部屋において、そしてまた彼女において、俺は彼女・黒崎真咲の息子ではなく、遠藤幸也という他人だった。
六年前から、ずっと。



















2(夏梨)



当時あたしは今よりもずっと小さかったけれど、あの時の衝撃をはっきりと覚えている。
いや、衝撃と言うよりも困惑とした方が正しいだろうか。
・・・まあ、どちらでもいい。
とにかくあたしは、あの時の記憶を忘れ去ることが出来ないでいた。
お母さんと一兄が交通事故に遭い、そして昏睡状態だったお母さんがベッドの上で目を覚ました時のことを。



* * *



空手を習っていた一兄を送り迎えしていたお母さん。
いつもなら時間通りに一兄を連れて笑顔で帰ってくるはずだった。
でもお母さんは大きな怪我をして意識不明になってしまった。
どうやら頭も打ったらしい。
お医者様に何を言われたのか、親父はあたし達の前でも沈んだ顔を隠し切れないでいた。
あたしも遊子も泣いて、お母さんお母さんって呼んだ。
遊子なんか特に酷くてあまりにもボロボロ泣くもんだから、途中であたしは泣き止み、一兄と一緒に慰め始めるくらいだった。

でもそれから三日後。
あたしは奇跡が起こったと思った。
お母さんが目を開けたのだ。
あたし達姉妹は当然のこと、ずっと我慢してきたであろう一兄やそして親父でさえ泣いた。
よかったよかった、って。
目を覚ましたお母さんはしばらくぼんやりしていたけれど、やがてあたし達を順番に見るようになって、ふわり、と笑った。

「みんな、心配かけたわね。・・・あなたも、本当にごめんなさい。」
「いいんだよ、真咲。俺達はお前が無事に目覚めてくれただけで十分なんだ。」

そう言って親父がお母さんを抱きしめる。
身体に負担をかけちゃいけないから優しく、優しく。
お母さんはその肩口から視線をあたし達に向けて嬉しそうに目を眇めた。

「遊子、夏梨。あなた達にも心配かけてごめんなさいね。」
「いいの。おかあさんが起きてくれたなら、それで。」
「おかあさぁん!!」

あたしの隣で遊子がまだブワッと涙を溢れさせる。
そしてあたしと一兄が慌てて慰め、落ち着かせた。
と、そこで。お母さんの視線が一兄に固定される。
一兄もそれに気付いたようで、嬉しそうに、そして何か(きっと「お母さん!」だろう)を言おうと口を開けた。
でもお母さんはコトリと首を傾げて目を丸くし、そして。



「ぼく、誰かな?遊子のお友達?」



その瞬間、あたしはお母さんの言ったことが理解出来なくて、でも理解した途端、心臓が止まるかと思った。
見上げた先には一兄の顔。
くしゃりと歪み、けれどもすぐに一兄らしくないくらい穏やかな笑みが浮かんだ。


「・・・そうです。はじめまして、黒崎さん。オレ、遊子ちゃんと夏梨ちゃんの友達の遠藤幸也って言います。」


一兄の口からスラスラ出てきた台詞に驚く余裕も無くしたまま、あたし達はそれを聞いていた。



















3(一護)



おふくろが記憶障害だと判ったのは事故から三日後の、昏睡状態から目覚めてすぐのことだった。
親父のことも、遊子や夏梨のことも、そして自分が交通事故に遭ったことも全て覚えていたのに、彼女は俺だけを忘れてしまっていた。
「ぼく、誰かな?」と尋ねられたその瞬間、咄嗟に出た台詞には言った俺自身でさえ今も信じられないでいる。
よくもまあ、あんなにスラスラと嘘が言えたものだ。
それとも人間っていうのはそういう生き物なのだろうか。脳の神秘だな。
けれどそんなふうに言ったのはきっと、おふくろが交通事故に巻き込まれたのも俺の所為なのだと解っていたからなのだろう。

とにかくそんなわけで、俺はあの時あの瞬間から彼女にとっての遠藤幸也となった。
遊子・夏梨も将来通うであろう公立の小学校の四年生。
家は近くないけれど、黒崎医院に患者として訪れたのがキッカケでそこの二人娘と交流を持つようになった、と。

見舞いに行き、おふくろと顔を合わせる度、俺は彼女に沢山の嘘を吐いていった。
きっとこれは罰なのだ。母親に怪我をさせた己への罰なのだ。
そう、思いながら。



* * *



「最近、あの子達どうしてる?ちっとも姿を見せてくれなくて・・・」

肩を落として「嫌われたのかしら?」と呟く彼女に、俺は「大丈夫ですよ。」と笑いかける。

「勉強とかクラブ活動とか色々忙しいみたいです。それに例え勉強とかを終わらせたとして、まだ彼女達は小学生ですから、あまり遅い時間にはこちらに来るわけにもいきませんし。」
―――かわいい娘さん達に会えないのは寂しいでしょうけど我慢です!きっとあの子達もあなたに会えなくて寂しがっているでしょうから。

告げれば、どうやら彼女に元気が戻ってきたらしい。
そうよね、と両拳を握って一人で頷いている。

「それにこうして幸也くんも来てくれるんだし、私ばっかり寂しがってちゃだめよね!」

とても三人の子供(彼女の中では二人だが)を生んだ女性には見えないほど若々しくキラキラとした表情で語りかけてくる。
俺は照れたように笑い返しながら相槌を打ち、それから花を花瓶に生けてきますと言って病室を離れた。





紫陽花を花瓶に移しながら小さく溜息をつく。
今日もまた彼女に嘘をついた。

遊子と夏梨は来られないのではない。来ないのだ。
俺を忘れてしまった母親と会話をするのが恐ろしいのだと言う。

母親が俺と言う存在を全否定するのが恐い。
自分達もその話に合わせる、つまり俺を否定しなければいけないのが恐い。
もし彼女の誤りを正そうとして真実を告げてしまったら、彼女の心がどうなってしまうのか分からなくて恐い。
彼女のことが大好きなのは今も昔も変わらないのに。



花を花瓶に移し終わり、周りについた水分を拭う。
それを落とさないように両手で持ち、俺は部屋へと足を向けた。




















「大丈夫。まだ笑える。」












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