スティーブン・A・スターフェイズが味覚を失ったのは彼が十八歳になったばかりの、ある晴れた日のことだった。
 その頃すでにスティーブンは「牙狩り」の一員として常に前線で戦う日々を送っていた。突然の味覚消失を受けてまず考えたのは不摂生に伴う栄養不足からの味覚の鈍化。それからストレスによる一時的なものかとも疑ってみた。頭部を負傷して云々という線は、ここ最近の状況から見て可能性は低いと判断。が、結局のところ原因は掴めず、何日経っても、何ヶ月経っても、味覚が元に戻ることはなかった。
 しかしスティーブンはこの事実をあまり大きく考えなかった。何せ本当に支障がないのだ。味覚がなくとも飯は食える。飯が食えれば戦える。それでいいじゃないか、と。


(そう……思っていたんだが)
 ごくりと喉を鳴らしてスティーブンは目の前の光景を見つめる。
 己を含む部隊が突入したのはとある富豪の屋敷。始まりは牙狩りが一つの噂話に注目したことだった。
 その屋敷には複数の人間が監禁されており、かつ屋敷の主人は食人主義者で誘拐してきた人間を夜な夜な食い殺していると言う。眉唾物の案件だが、人間の血を吸う化物退治を使命としている者たちにとって些細な噂話も見逃す訳にはいかない。よって調査メンバーですら半信半疑なまま調べが進み、なんと結果は黒。周辺地域や自国に留まらず他国からも人間――特に幼い子供――を誘拐しているという事実が判明し、しかも誘拐された人々が屋敷から解放された事例はなかった。奴隷や愛玩用として秘密裏に売りさばくでもなく、誘拐された人々は屋敷の中で消費≠ウれているのだ。
 化物によるものか、それとも狂人が凶行に及んでいるのかは未だはっきりしなかったが、ここまで判れば無視もできない。念のため対「血界の眷属」の装備で牙狩りメンバーは突入し――。
「ブラッドブリードじゃなく、『フォーク』の犯行だったとはな……」
 独りごちたその声はカラカラに乾いて冷たいコンクリートの壁に反響する。
 牙狩りの仲間に気絶および拘束された中年の男がスティーブンの脇を抜けて外へ連れ出されていった。屋敷の豪華さに相応しい整った身なりをしていたが、口元に付着する血液がおぞましさしか呼び起さない。スティーブンたちが突入する直前まで屋敷の主人に血を舐められていた¥ュ女はその場でへたり込み、次いで緊張の糸が切れたのかわんわんと泣き出した。その姿に彼女より幼い子供たちもつられて泣き始める。
 冷たい地下室に閉じ込められていたのは十代半ば以下の少年少女たち。十歳未満と思しき幼い者が多いのは、その方が抵抗されずに捕らえることができたからだろう。
 子供たちを誘拐し監禁していた男が突入してきたスティーブンたちを見て最初に叫んだのは『これは全て私のケーキだ! 誰にも渡さんぞ!」というもの。血界の眷属であればそのような世迷言など叫ばない。屋敷の主人は人間だ。しかし単純な人間ではなかったのである。
 この世界には『ケーキ』と『フォーク』という特性を持つ者たちが僅かながらに存在する。
『ケーキ』は生まれながらに美味しい$l間を指す。それ以外は――および大多数の普通の人間にとっては――ごくごく平凡で一般的な人々である。しかし後天的に現れる『フォーク』の特性を持つ者にとってケーキの血肉は勿論、涙や唾液といった体液でさえ至上の甘露となった。加えてフォークはその特性が目覚めると、ケーキを欲さずにはいられない。何故なら彼らは特性の発現と共に通常の味覚が消失し、ケーキでしか味覚を感じることができなくなってしまうのだ。
 味を感じられないくらい、人を喰らうことに比べれば……と思われるかもしれないが、実際にフォークの特性が発現してしまえば、そんな軽い調子では済まされないとされている。フォークは本能的にケーキを強く欲するようになっており、それまでの人生で築いてきた何物をも犠牲にしてもケーキを味わうことに執心してしまうのだという。
 そんな強い執心によって、ケーキが誘拐および殺害されてしまうケースは多い。二者の絶対数が少ないため目立つものではなかったが、推定されるケーキとフォークの数からすれば恐ろしい率になるらしい。研究ではフォークによってケーキの約半数が幼い頃に誘拐や捕食の被害に遭っていると推定されている。
 なお「らしい」や「推定」などという言葉でしか表現されないのは、ケーキやフォークの数が正確に判らないことが理由だ。フォークはその行動から『予備殺人者』と社会的に忌避される傾向があるため、当人が進んで明かすことはない。そしてケーキの方はフォークと出会わなければ自身がケーキであることすら自覚できないのである。
 スティーブンにとって『ケーキ』や『フォーク』という人種は大変だなぁと感じつつも遠い世界のおとぎ話であった。血界の眷属もとい吸血鬼などというフィクション感満載の化物退治を生業としているが、それくらい縁遠い――場合によっては一生出会わない――類のものだったのだ。
 そう、縁遠いもの、別世界のものであるはずだった。
 しかし――。
 ばたばたと慌ただしく、屋敷の主人が連れ出されたのに続いて、仲間の女性が傷ついた少女の元へ駆け寄って手当てを開始する。十代半ばと思しき少女の腕には多数の切り傷が存在していた。おそらく屋敷の主人が少女の命を損なわない範囲で何度も何度も血を啜っていたのだろう。また彼女の周囲にいるもっと幼い子供たちは傷の少ない者が多く、少女が子供たちの身代わりを買って出ていたものと推測された。
 なんと美しい慈愛の心か。いずれは血だけでなく身体を切り刻んでその肉を喰い尽くされてしまうかもしれないという恐怖と戦いつつ、それでも懸命に助けを待つ日々。折れずに気高さを保ち続けた精神は歴々の聖女と比べても劣りはすまい。敬服に値する。しかし現時点において、スティーブンにはそのような心を抱くことが非常に難しかった。
(喉が、乾く)
 僅かに漂う血の匂い。
 鉄錆の、あまり好ましくはないはずのもの。
 そのはずなのに先程から出入り口付近に突っ立ったままのスティーブンにとって少女の血は――否、それだけではない、この部屋に集められた子供たち全ての血の匂いが、汗の匂いが、体臭が、芳しく感じられて仕方なかった。
 本能的な歓喜と共に理性が大き過ぎる絶望を訴える。
(まさかこの俺が)
 ――フォーク。予備殺人者だったなんて。
 心の中で呟くのもおぞましい事実が脳内で木霊した。
 応急処置を済ませた少女が牙狩りの仲間に付き添われて地下室を出る。スティーブンの目は自然とその少女を、正確には少女の傷口を追っていた。だが自分の無意識の行動にハッとして慌てて視線を地下室へ戻す。それがまた悪かった。残っている子供たちは全てケーキだ。つまりフォークだと判明したスティーブンにとっては極上の食物でしかない。味覚など感じられなくても気にしないと思っていた考えがガラガラと瓦解する。フォークの本能はその程度で済むような生易しいものではなかったのだ。
 ぶつり、と唇を噛み切る。いくら強い本能であっても今ここで負けでどうする。自分たちはこの子たちを助けにここまでやってきたのだ。ならばその仕事を最後まで全うしろ。
 スティーブンは子供たちを外へ誘導する仲間に交じり、ゆっくりと地下室の奥の方へ歩みを進めた。そう、子供たちを助けなければ。だって自分は彼らを助けに来たのだから。こうして伸ばす腕も子供を抱き上げて外に出してあげるためで――。

「おじさん、だめだよ」
「ッ!」

 声変りもまだ遠い小さな少年の小さな声に息を呑んだ。固まってしまったスティーブンをしり目に癖毛のその少年がスティーブンに触れられそうになっていた子供を別の牙狩りメンバーの元へ誘導する。そして、くん、とスティーブンの袖の端を引っ張り、視線を糸目の自分へと向けさせた。
「だめだよ。かわりにおれがついて行ってあげるから、みんなのことはがまんして」
「君は……」
「ほら、はやく。ほかの人におじさんのこと、気づかれる」
 何故分かるのか、だとか、どうしてまだ十にも満たないであろう子供の君がそんな風に他者に配慮できるのか、といった疑問を口にする精神的な余裕も時間的な余裕もない。「ほら」ともう一度糸目の幼子に促され、スティーブンは小さな身体を腕に座らせるようにして抱き上げた。そして他の仲間たちと同じく地上へと向かう。
 階段を上りながら、抱き上げられた少年はスティーブンの耳元にそっと唇を寄せて囁いた。
「おれのめ≠ヘね、ケーキとフォークがわかるんだよ」
「そんなはず――」
 ない、と否定しようとしてスティーブンは幾度目かの絶句をする。薄く開かれた少年の双眸からは普通の人間にはあり得ない微かな燐光が零れ落ちていた。
 スティーブン・A・スターフェイズ、味覚を失ってから三年後のことである。


 ケーキもフォークも他の人とはオーラが違うのだと少年は言った。
 スティーブンの正体を見破った幼子の名はレオナルド・ウォッチ。監禁生活のトラウマによって最初に助けに来てくれた人であるスティーブンに異様なほど懐いた――と見せかけてスティーブンが他の子供に近づかないよう牽制している――その子供は、自身の不思議な双眸をそっと瞼の裏に隠し、たどたどしい口調で説明を付け加えた。
 レオナルドが持つ二つの眼球は突然現れた化物から妹の視力と引き換えに無理やり押し付けられた代物らしい。その眼は見ることに関して万能であり、日常の出力を極力絞った状態でも他者のオーラを見分けることなど造作もないとのこと。半年前、押し付けられた当初はあまりの情報量に身体が耐えられず吐いてのた打ち回るほどだったが、今はこうして普通に振る舞うことができている。
 だが眼に馴染んでも少年の心は決して晴れなかった。大事な妹の視力が奪われてしまったのだから当然だろう。しかも彼の妹は視力を奪われる以前から足が悪く、自力で歩くことができない。おまけに遺伝ではないはずの『ケーキ』の体質を、兄と同じくその身に宿していた。重すぎる三重苦だ。
 そんな妹の車椅子を押して家の近所を散歩していた時、兄妹はこの屋敷の主人と出会ってしまった。レオナルドは兄としての使命からか、それとも化物が奇妙な眼球を押し付けてきた時に何もできなかった罪悪感からか、咄嗟に自分が囮となり、妹を魔の手から隠したのだ。
「ここに君の妹はいないんだから、わざわざ君が僕についてくる必要はなかったんじゃないか?」
「おじさ「スティーブンさん=v
「……おじ「スティーブンさん=v
「…………」
 スティーブンを見上げたレオナルドが件の青い光を帯びた両目で数度瞬きを繰り返し、再び糸目に戻る。他の保護された子供たちとは異なり、この少年はスティーブンの傍から離れることがない。牙狩りの面々もそんなスティーブンを見て「見事に懐かれたねぇ」と面白がって笑うのみだ。少年の裡に抱えたものなど知る由もなく。
 あの屋敷から今回スティーブンたちが使用している拠点へと移った今、少し広めの部屋で子供たちに怪我などないか改めて確認作業が始まっている。レオナルドはすでに済ませ、ちょこんとスティーブンの隣に座ってその様子を眺めていた。
「スティーブン、さん、が」
 一緒に囚われていた子供たちの方へ顔を向けつつも意識はしっかり隣の大人の方へ定めて少年は渋々と呼称を改める。ちなみにレオナルドはスティーブンより十三も年下なので、おじさん呼びは一般的に見て間違いではない。しかしスティーブンはまだぴちぴちの二十代だった。
「わるいひとじゃない、ってことは、見ればわかったから」
「つまり君は僕を助けてくれたってことかい?」
「うん」
「お人好しだなぁ」
 立場上、人間の黒く淀んだ部分に触れることも少なくないスティーブンは、幼い少年の純粋かつ清廉で少々驕りの入った――けれどもやっぱり美しい――精神構造に、素直に感心する。少年の「わるくないひとが、わるく言われるのは、だめ」という言葉がそれに拍車をかけた。どうやら正義感も強いらしい。それに幼い子供にしては『フォーク』の現状もよく理解している。化物に眼を移植される前から彼はそこそこ目が良かった≠フかもしれない。
 ただし正義感が強いわりには、スティーブンたちが突入してくるまで件の少女のように身を挺して誘拐犯から同胞たる他のケーキを守るという行為には至っていなかったようだが……。
「スティーブンさん?」
 無言でレオナルドを見つめれば、どうかしたのかと首を傾げられる。スティーブンも決していじわるをするつもりはなかったのだが、気づいた時には問いかけていた。
「僕のことは庇ってくれたけど、君たちの代わりに血を提供していたお姉さんのことは守ろうと思わなかったのかい?」
 まるでレオナルドのことを薄情で自分勝手な子供だとなじるかのように言ってしまい、慌てて弁明するため「あ、ちが」と口を開く。しかしその必要はなく、レオナルドはけろりとした顔のまま答えた。
「あのひとはとっても頭がよかったから」
「頭がいい?」
「そうだよ。あのおっさんに気に入られるようにしててね、だからたくさん地下のへやから出してもらってた。上に行くととっても大切にされるらしいよ。というか、おっさんの方があのひとに……なんて言うんだっけ、しゅーちゃく? してたかんじで」
 他人のオーラというものが見えるレオナルドは、他の子供たちが気づけないことにも気づけてしまうらしい。ケーキだからと言ってフォークに奪われるばかりが全てではない。頭のいい≠サのケーキの少女は自らの血や涙や場合によっては他のものまで上手く使ってフォークから望むものを搾取する側に回っていたのだろう。となると、彼女にとってスティーブンたちの行動はひょっとすると邪魔なものだったのかもしれない。
「そ、そっかぁ……」
 人間のしたたかさには心底恐れ入る。真実を目にしていたレオナルドが幼さゆえに理解していない部分にまできっちり思考が及び、スティーブンは苦笑を漏らした。この辺りの話題はさっさと切り上げた方が自分にとっても彼にとってもいいだろう。
「あーえっと、その……あ、そうそう。レオナルド、君はこれからどうする? フォーク側の人間に誘拐されたことで、君がケーキだということは他の人が知るところとなってしまった。安全を確保したいならケーキのための保護施設に行くという手もあるぞ。まぁ幸いにも君の国ならケーキの身柄保護の制度がしっかりしているから、保護施設に滞在するのは期間限定で、その間に政府の補助でボディーガードを雇うこともできるだろうけど。そうすれば妹さんと共にこれまで通り実家で暮らせるな」
「スティーブンさん」
「うん?」
 即答を避ける少年にスティーブンはどうかしたかと先を促す。
 するとレオナルドは眉尻を下げ、
「もっとかんたんにおしえて」
 相手がまだ九歳の子供であることをスティーブンに改めて自覚させるに至った。


 幼い子供に噛み砕いて情報を与えつつも、頭の片隅でまだこんな小さな子に自身で行先を決めさせるなど不適切極まるとスティーブンは考える。本来であれば一度レオナルドに護衛をつけた上で両親の元に返し、その両親に今後どうするのかを決めさせるべきだ。しかし当のレオナルドがあまりにも真剣に話を聞いてくるものだから、スティーブンもついつい詳しく教えてしまう。
 そして一通りスティーブンからの説明を聞き終えたレオナルドは「おしえてくれて、ありがとうございます」と微笑んだ後、
「じゃあやっぱりおれ、スティーブンさんについて行きます」
 と、あっさり言ってのけた。
「はあ?」
 これにはスティーブンも思わず声が裏返る。確かにこの子供はあの地下室で「かわりにおれがついて行ってあげる」とは言った。しかしあれは自身がフォークであると自覚した衝撃からスティーブンを救い出す以外の役目はなく、言葉通りにレオナルドがスティーブンに同行するという意味ではないはずだ。そんなことはあってはならない。
 しかしレオナルドは笑みを崩さぬままスティーブンの手を取って人気のない方へ歩き出す。「お、おい、どこへ行く気だ」と訊ねれば、幼い子供はその幼さに見合わぬ落ち着いた声音で「ひとに聞かれちゃだめなはなしですから」と改まった口調で答えた。そう言われてしまえばさすがについて行かないわけにもいくまい。
 幾度か廊下を曲がってすっかり人気が無くなった頃、レオナルドが足を止める。小さな指でスティーブンのズボンの布地を摘まみ、くいくいと引っ張って大人をしゃがませた。
「どうして俺について行くなんて言うんだ? そもそも俺が君を連れていくなんてどうして思うんだ?」
 たとえレオナルドがスティーブンの後天的特性を見抜いたとしても、二人はここで別れて二度と重ならない道に戻る。それが何故ついて行くなどと言えるのか。
 そう訊ねるスティーブンにレオナルドは「あれ?」と首を傾げた。
「え、だって。おれがいなきゃ、スティーブンさんこれからたいへんでしょう?」
 言って、小さな手がスティーブンの顔に伸びる。ぺたり、と両手で頬に触れられ、親指がすでに血の止まっている唇の傷をなぞった。
「おれはね、スティーブンさん。あのひと……あのおねえさんみたいに、頭のいいケーキ≠ノなりたいんです」
「何を、言って……」
「わかりませんか? わかりたくないだけですか?」
 かくん、と首を反対側に傾けて幼子は告げる。
「スティーブンさんに、おれの血をあげます。おにくを食べられちゃうのはだめだけど、血をちょっとずつならいいですよ。そうすれば、スティーブンさんなら『フォーク』の……ほんのう? しょうどう? に、まけないでしょう? ほかのケーキをさがして、おそったり、しないでしょう?」
 味を感じることに飢えて、焦がれて、苦しんで、他のケーキを襲って食べなくてもなんとかなるでしょう? 今でもきちんと理性が働いている貴方であれば、僕の血だけで己の欲望を抑えて社会的な地位を守ることができるでしょう? ――そう、青い眼をうっすらと覗かせてレオナルドは問いかける。
「れお、な……る、ど」
 小さな手が視線を逸らすことなど許さないとばかりに力を込める。大人のスティーブンにとって容易く解けるはずのその拘束が、今は何故か鉄より重い。
「おれが、あなたを、みたしてあげます。……だから」
 少年の顔が近づく。
 小さな赤い舌が小さな唇を舐め、唾液で濡れた赤がてらてらと廊下の照明を弾いた。

「おれをたべてもいいから、スティーブンさんが、おれとミシェーラをほかのフォークからまもって」

 直後、スティーブンの舌が感じたのはこの世のものとは思えぬほどの甘露。どうして今までこれを味わわずに生きてこられたのだろう。それほどまでに圧倒的な味覚の渦に飲み込まれた。一瞬にしてその甘みに溺れた本能がレオナルドの矮躯を抱きしめる。
「っ」
 強い力に一瞬レオナルドは驚いたようだが、スティーブンから離れるという意思は見せなかった。後頭部を大人の手に押さえ付けられ唇を更に深く合わせる形になっても、むしろ自ら望んで舌を伸ばす。何も知らない子供のはずなのに、自分がどうすれば上手く目の前の捕食者に捕食されるのか、本能的に知っているかのように。
「れ、お。ッ、レオナルド……っ」
「んぁ、すてぃ……ぶん、さ」
 幼い容貌が徐々に上気していく。年齢にそぐわぬ色気が滲み始め、スティーブンの理性の最後の一線が千切れるかと思われたその時。
「――ッ!?!?!?」
「はい、おしまい、です」
 突然視界が荒れ狂い、あまりの衝撃にスティーブンは両手を廊下についてうずくまった。それを見下ろしてレオナルドは唇を袖で拭いながら告げる。
「もし、今みたいにぼーそーしても、おれのこのめ≠ェあれば、スティーブンさんはおれを食べてころしちゃったりしないでしょ。つまり、スティーブンさんはフォークだけど、ケーキをひとりもころさずにすむ。ね、いいと思いませんか」
「っ、……あー……確かに、そうだな」
 視界をごちゃごちゃに混ぜられる感覚は収まったがすぐに平常通りに戻れるはずもなく、手で両目を抑えつつ呻くようにしてスティーブンは答える。酷い吐き気もあった。が、頭はどこか冴えていた。そして冴えた頭はこう判断を下す。この子供の言う通りだ、と。いわゆるwin-winというやつだ。どちらにも利がある。
 ようやく吐き気と眩暈を振り払い、スティーブンは顔を上げた。正面に立つ幼子の目元は未だ朱に色づき、スティーブンの奥に僅かな熱を灯す。しかしそれには気づかぬフリをして大人は子供に手を差し出した。
「よろしく、少年。君とは良い関係が築けそうだよ、まったく」
「はい、よろしくおねがいします。スティーブンさん」
 差し出された手を取って、小賢しい子供はあどけない顔で微笑んだ。






甘いケーキの面の下







2018.01.09 pixivにて初出