《1》

 ウォッチの血族の瞳には海が宿っている。
 ヘルサレムズ・ロット出現から三年後、その海は神に奪われてしまったけれど。



「いいなぁ」
 始まりはその一言。
 斗流血法・シナトベの継承者ツェッド・オブライエンが新しくライブラのメンバーに加わるのに伴い、事務所の一室にエラ呼吸が必要な彼のため巨大な水槽が用意された。その水槽を見上げ、レオナルド・ウォッチが決して大きくはない声で呟いたのである。
「なんだ、少年。君も事務所に住みたいのか?」
「む。そうだったのかレオナルド君。ならば今からでも――」
「わっ! ち、違いますって! ギルベルトさんもすかさず家具カタログ持ってこないでください!」
 呟きを聞いたスティーブンが冗談交じりに問いかけ、更にそれを耳にしたクラウスが本気にとって執事のギルベルトと共に空いている部屋のレイアウト変更について相談を始める。レオナルドは慌ててリーダーを止めた後、「スティーブンさぁ〜〜ん」と恨めし気にもう一人の上司の名を呼んだ。その目は糸目ながらも「貴方なら僕がクラウスさんの好意に甘えて事務所に住み付こうなんて思っていないことは確実に理解しているでしょう?」と雄弁に語っている。
 スティーブンはレオナルドの視線を受けて「はっはっはっ」とわざとらしく笑ってみせた。
「しかし何で羨ましいんだ? 少年の趣味がアクアリウムだなんて初耳なんだが」
「あー、別にそっち方向の趣味じゃないっすよ。綺麗だとは思いますけど。僕のはどっちかというとプールとか、海とか、そういう系です。久々に泳ぎたいなぁって」
「なるほど」
 趣味が水泳ってことか、とスティーブンは頷く。そのタイミングで件の水槽の主となるツェッドが顔を出した。瞳孔のないつるりとした両目でツェッドがレオの姿を捉える。
「ミスタ・ウォッチは水泳が得意なのですか?」
「あ。レオでいいっすよ。それとツェッドさんってお呼びしてもいいですか?」
「ええ。勿論です……レオ君」
「ありがとうございます。水泳っすよね。えっと、まぁ、一応は。泳ぐのも好きですし、水に浸かっているだけでも結構気分良かったりします」
「そうですか。ヒューマーにもそのような方がいるんですね。ああ、そうだ。レオ君さえよければ、水槽に遊びに来ていただいても……いえ、すみません。さすがにいきなり過ぎました」
 兄弟子とは似ても似つかず礼儀正しいツェッドは自身の『住居』に出会ったばかりの知人を招くことが無礼であると感じたのだろう。誘ったはいいものの、しまったと言わんばかりに小さく頭を下げた。また彼の控えめな態度には己が人類(ヒューマー)でも異界人(ビヨンド)でもないという引け目に起因するところもあったのだろう。
 しかしライブラが誇る一般人レオナルド・ウオッチは、異形が蔓延るこの都市に住んでもなお平凡でいられるという稀有な人間である。その類稀なる精神で人類・異界人問わず広い交友関係を築く少年は、ツェッドの礼儀正しさの裏に隠れた引け目を敏感に感じ取ってニカッと笑った。
「ツェッドさんさえよければ是非! うち安アパートなんで風呂もシャワーしかねぇんすわ。バスタブなんて夢のまた夢! だからツェッドさんの水槽みたいな思いっきり水に浸かれる場所ってすっげぇ心惹かれるんです。勿論ツェッドさんのご迷惑ならお邪魔しませんけど」
「いえ! 迷惑なんてとんでもない! どうぞいつでも来てください!!」
 パアッとツェッドの周りの空気が華やぐ。
「へへっ。ありがとうございます。……あ、スティーブンさん、勝手に話進めちゃいましたけど、僕がツェッドさんの水槽にお邪魔しても大丈夫ですか? 設備とか、なんかその辺のことで」
 若い二人(?)の交流を眺めていたスティーブンは話を振られて「ああ」と微笑んだ。
「問題ないよ。水槽の浄化装置は結構性能の良いヤツを入れたし、ツェッドさえ構わなければ好きにするといい」
「よし! ありがとうございます、スティーブンさん。ツェッドさん、よろしくお願いしますね」
「ええ。いつでも遊びに来てください」
 ツェッドにそう言われたレオナルドは本当に嬉しそうで、「やったー!」と諸手を挙げ、全身で喜びを露わにしている。少年本人は気付いていないが、傍らで眺めていたクラウスが事務所内にプールを作るか否か迷い始めるレベルだ。
 スティーブンは友人兼リーダーが暴走する前に釘を刺すことをひっそりと心に決めつつ、無意識にヘルサレムズ・ロット内で比較的安全とされるプールの所在と自宅のバスタブのサイズをそれぞれ思い出していた。



《2》

 雨に濡れるのも好きだと彼は言った。



 レオナルドがツェッドの水槽にお邪魔すること数回。それを目撃したザップが腹を抱えて笑った後、なんやかんやと同じ部屋に居座ること同じ回数。また水槽に入らずともその部屋で一緒に過ごすこと更に複数回。その間、人狼のチェインが仕事で消滅の危機に陥ったり、ジャパンのヤクザの抗争が絡んだ事件でクラウスが怪我を負ったり、レオナルドの友人が超巨大化したり、幻界病棟ライゼズがHLに出現したりと大小様々な危機は起こったが、かねがねいつも通りに騒々しく日々は過ぎて行った。
 そんなある日の早朝。所用でつい一時間前まで人と会っていたスティーブンは、薄暗い霧の街を車で走行していた。今の時間帯なら朝日も顔を出しているはずなのだが、天気は生憎の雨。ヘルサレムズ・ロットを覆う霧は雨だろうが晴れだろうが律儀に全てを白色で隠しており、今も霧と馴染むように弱い雨が降り注いでいた。
 車のワイパーが前面のガラスについた雫を単調なリズムで拭っていく。
 まだ早朝とあって、車の数も人――異界人・人類ともに――の数も少ない。一日の中で比較的静かな時間帯だが、もう少しすればここにも様々な人やモノが溢れ返るだろう。
 走行する車が少ないこともあり、スティーブンはふと歩道の方に視線を向けた。特に意識してのことではなかったが、
「っ!?」
 視界に捉えた『それ』の姿にぎょっと目を剥く。そして慌ててハザードランプをつけ、車を路側帯に寄せた。ドアを開けて後ろを振り返る。
「レオナルド! 少年、君、こんな時間に何をしているんだ!」
 ただ呼び止めると言うよりは叫んだと言っていい音量に、小さな背中がびくりと跳ねた。驚いたように振り返るその人影はやはりスティーブンが見知った姿、レオナルド・ウォッチその人だ。GPSで確認するまでもない。
 スティーブンは車から降りてレオナルドの元へ駆け寄った。決して強くはないものの、雨が髪もスーツも濡らしていく。
「え。スティーブンさん……?」
「少年、傘はどうした」
「持ってねーです」
 言葉通り、レオナルドは傘を持っていなかった。いつからこうなのか、髪も服もぐっしょりと濡れそぼって重そうだ。不快なはずなのに、しかし一見してレオナルドが気にしていないのが気にかかる。
「カツアゲでもされたか?」
「いえ。最初から持ってなかっただけっすよ」
「……まさか傘を買う金すらないのか?」
 だったら無理やりにでも活動資金を増やさねばならない。秘密結社ライブラの構成員――しかも神々の義眼を持つ重要メンバー――が雨の日に傘すら買えない財政状況であるなど認められるわけがないと思うスティーブン。しかしレオナルドは苦笑して「傘一本買うくらいのカネならありますよー。スティーブンさん、僕がどんだけ貧乏だと思ってんすか」と返した。
「ただ少し雨に打たれたい気分だっただけです」
「少年にそんなセンチメンタルに浸りたくなる時が訪れるとは」
「喧嘩売ってんならそれがたとえ上司であっても買いますよ」
「冗談だ。しかし何か嫌なことでもあったか?」
 雨に打たれたいなどと考えるイコール嫌なことがあった、と連想するのは別におかしなことではないだろう。スティーブンはそう尋ねるが、しかしレオナルドの答えは否定だった。
「そんなんじゃないっすよ。僕が単純に、濡れる行為が好きなだけで」
「……そう言えば水泳だけじゃなくて水に浸かる行為自体が好きだと言っていたな」
 ツェッドがライブラに来たばかりの頃の会話を思い出し、スティーブンが告げる。レオナルドが目を丸くした。
「覚えてたんですか」
「一応な。で、それが理由か?」
「はい。自宅でシャワー出しっぱなしは勿体無いですし、折角空から無料のシャワーが降っているとなりゃこうしちゃいられないと。それに今の時間帯ならカツアゲするような奴らも少ないっすから」
「一応身の安全のことは考えて行動しているんだな」
「ははっ、まあ」
 後頭部を掻きながらレオナルドがちょっとだけ視線を逸らす。この様子だとうっかり雨の日に外へ出てばっちりカツアゲされた経験があるようだ。スティーブンは「まったく……」と口の中で呟き、親指で路駐している自分の車を指した。
「乗って行け、少年。この時間帯だと、君が自宅に着く前に厄介な奴が多少は起きだすはずだ。絡まれたくないなら雨の中の散歩を切り上げてうちに帰ることだな」
「え、でも俺、濡れたままっすよ」
「僕も君を引き留めて車の外に出た時点でずぶ濡れだ。そう変わらないよ」
「うっ……なんかすみません」
「そう思うなら素直に車に乗って運ばれてくれ。君が絡まれてカネの代わりに内臓なり何なり……それこそ眼球なり、奪われでもしたらたまらない。勿論、頬に一発喰らうだけでも受け入れ難いがな」
 ライブラの番頭役としての台詞の後にほんの少し個人としての気持ちを付け足して、スティーブンは再度己の車を指差す。そこまですればレオナルドも折れる気になったのか、「お、お願いします……」と控えめに了承した。


 レオナルドを助手席に乗せたスティーブンはハンドルを握って少年の自宅アパートへと車を走らせる。車なら十五分ほどの距離だが、徒歩となればそれなりの時間がかかったはずだ。それでもレオナルドが絡まれずに済んだのは、やはり時間帯のおかげだろう。これがもう少し前か後なら、少年の頬が盛大に腫れていてもおかしくない。
 家に帰ったらちゃんと身体を拭いて暖かくして食事もしっかりとるように、とスティーブンが昏々と説けばレオナルドがぐうの音もなく押し黙る。しかしその顔には「あとちょっとだけ」と不満が書かれていた。
「少年?」
 わざと声のトーンを上げて呼べば、隣のレオナルドが小さな声で「だって久々の雨だったのに」と呟く。
「ツェッドの水槽にお邪魔すればいいだろう?」
「そんな毎日毎日お邪魔できませんよ」
「まぁそりゃそうか」
 ツェッドはレオナルドの訪問を喜んでいるようだが、レオナルドとしては自分の趣味にツェッドを無理やり付き合わせているような気分になるのだろう。だから誰にも迷惑をかけない天然のシャワーを利用しようとしたわけだ。
「……」
 スティーブンはレオナルドの横顔を一瞥した後、ハンドルを切った。隣で「え?」と少年が首を傾げる。
「あの、スティーブンさん。僕のアパートはそっちじゃ……」
「うちにおいで、少年。バスタブいっぱいに湯を張ってやるから、それに思う存分浸かればいい」
「は? え? はあ? いやいや、そんなご迷惑は!」
「いいからいいから。ツェッドばかりに君の欲求解消の手伝いをさせるわけにもいかないだろう。だったら君達の上司として俺にも手伝わせてくれよ。何、水道代なら気にするな。伊達に稼いじゃいない」
「えーもうー全然よくねぇっすよー。ちょっとー話聞いてー」
「それからうちに来れば朝食もしっかりしたものを出してやれるが?」
「……お邪魔させていただきます」
 レオナルドが一瞬で意見を翻す。と同時に、少年の薄い腹がきゅるりと鳴いた。
 ちなみに、ライブラから活動資金が支給されるのは明日の予定であり、レオナルドの懐事情などスティーブンでなくとも簡単に予想できたことだった。



《3》

 人間は洗面器一杯の水があれば溺死する。



「スティーブンさん!」
 そう言ってこちらに伸ばされた少年の手を握り返すよりも早く、スティーブンの身体は冷たい水の中に飲み込まれた。


 つい先日、血界の眷属(ブラッドブリード)を用心棒に雇うという愚行に出た犯罪組織との戦闘があり、前線で戦っていたスティーブンが大怪我を負いながらもなんとか生還した一件からしばらく。傷も粗方癒え、ライブラの番頭役は現場に復帰していた。
 とは言ってもまだまだ本調子ではない。当人は平気だと言うが、リーダーのクラウスはスティーブンに事務所内での仕事を割り振り、また言葉には出さないがザップやツェッドも戦闘を含む肉体労働を自ら進んで担当した。
 いつも騒がしいヘルサレムズ・ロット内でも数日はそれで上手く回っていた。が、たった数日だけだ。
 事が起こったのはスティーブン復帰から四日目の朝。クラウスとK・Kが任務で外に出ているタイミングで、
「はあ? ハドソン川東岸にビビットカラーのサンショウウオ?」
 電話を受けたライブラの番頭役は声を裏返した。
 体長十五インチ程度(約四十センチ)の両生類と思しき生き物が次々と川から上がってきており、そいつらが手当たり次第に人を襲っているらしい。一匹当たりの脅威は小さいが――襲われた異界人の子供が持っていたバットで滅多打ちにして退治しただとか――、いかんせん数が多かった。複数で襲い掛かられては対処のしようもなく、また出現するエリア自体も広いため人員がいくらあっても足りない。HLPDだけでは手が足りず、広範囲に攻撃できる者としてライブラも助力することと相成ったのである。
 レッド、イエロー、スカイブルー、ショッキングピンク、イエローグリーンに蛍光オレンジ。集まるだけで目が痛くなる色の洪水に、現場へと到着した面々は思わず眉間に皺を寄せた。
 この生き物達、どうやらHL内のペットショップが商品として新しく生み出した手のひらサイズの両生類だったのだが、全く売れずに成体も卵もまとめて川へと廃棄してしまったらしい。環境が合わずに死ぬはずだったそれが、死ぬどころかいつの間にか川の底で増殖し、なおかつ想定以上に大型化、オマケにガッツリ肉食に変化して、この度、住処が狭くなったことで大移動を開始したのではないかと推測されている。当該のペットショップについてはすでにHLPDの手が入っていた。
「生き物を何も考えず自然に放しちゃいけません! メーワク! カンキョーハカイ!」
 力強く頭上で×マークを作るレオナルドはすでにゴーグルを装着し、二度とこんな大発生が起こらないよう見落としやすい幼生と卵メインで捜索を開始している。が、予想以上に数が多く見なければいけない範囲も広いため辟易としているようだ。
「しょうね〜〜〜〜ん?」
「あっ、はい! すんません捜索続けます!」
 義眼での探査に全神経を傾けている(はず)の少年の護衛と、周囲に現れたビビットカラー両生類の殲滅を行うのはスティーブン。レオナルドが見つけた遠方のビビット以下略を走り回って退治するのはザップとツェッドの役目である。とは言っても、スティーブンの担当エリアは広い。おおよそ肉眼で確認できる範囲全て、といったところか。個々に撃破するのではなく一定の間を置いて広範囲を凍りつかせ、陸に上がってきたばかりの生き物達を水中ではなく天国に送り届けていた。
 幾度目かの『アヴィオンデルセロアブソルート(絶対零度の地平)』を放った後、レオナルドの眼が熱を持ち始めたので義眼の使用を一時休止させる。ザップとツェッドにも連絡を入れ、彼らには見つけたターゲットを手当たり次第処理するよう指示を出した。
 レオナルドが休んでいる間もスティーブンの仕事は変わらず、陸に上がってきたビビットな生物を血凍道で大虐殺。技が解けた後で警察から派遣された担当者が死骸を回収するのでカラフルな屍の山ができあがることはなかった。が、やはり良い気分ではない。人に害をなす生物であるため退治されているが、元々は人の都合で作り出された命だ。勝手に作っておいて、ちょっと性質が変わったからと言って根絶やしにされるなど、ビビット生物達にとってはたまったものではないだろう。
 技を繰り出すたびになけなしの良心が痛む気がする……と内心で呟きつつ、スティーブンは自分達の方に向かって足を動かす蛍光イエローの両生類を見つけて、地面に足を振り下ろす。可哀想だが、こちらも大事な仲間を傷つけられるのは御免なのだ。
「少年、眼の調子はどうだ」
「だいぶ熱が引いてきました。これならいけます」
「よし、じゃあ探査再開だ。――ザップ、ツェッド、少年が回復した」
 インカム越しにそう告げれば、電子変換された声が『うっす』『了解しました』と返ってくる。続く『やーっと復活かよ陰毛様ぁ』『レオ君、無理しないでくださいね』という斗流血法の使い手達の言葉にレオナルドは「ツェッドさんありがとうございます」とだけ答えた。無視されたザップが声を荒らげるが、それを遮るように「ザップさんの位置から北北西に十メートル、ベンチの陰に赤いやつ二匹っす」と少年が報告すれば、義眼を無駄に酷使させまいとカグツチの後継者はさっさと動き出す。次いでツェッドがいるエリアでも新たに卵を見つけたレオナルドはそちらにも指示を送って本格的に探索を再開させた。
 無理をしているわけではなさそうだと少年の様子を一瞥してから、スティーブンも周囲に視線を走らせる。レオナルドが遠方に集中している分、近くはスティーブンの肉眼が頼りだ。とはいっても、時間が来れば無差別に広範囲を凍りつかせるため、見逃しがあっても問題は無いのだが。
 遺骸回収班から退避完了の通信が入り、スティーブンは再び片足を持ち上げる。単調な作業にあくびが出そうだった。しかし踵を地面につける直前、視界の端に異様なシルエットが映り込む。
「……っ!」
 息を呑むスティーブン。
 川面が盛り上がり、水しぶきを上げてそれ≠ヘ姿を現した。形はこれまで目にしていたサンショウウオによく似たもの。しかし水面から出ている部分だけでも十フィート(三メートル)、尻尾まで合わせればその倍はあるだろう。表面を一色でも目に痛いビビットカラーがモザイクタイルのように覆っている。
「おいおい、いくらハドソン川がデカいからって、短期間でそこまで成長しなくてもいいだろう」
 頬を引きつらせながら呻いたスティーブンは、異変を察して意識をこちらに戻したレオナルドに下がれと指示を送る。少年は「げっ」とサイズ・色ともに規格外な両生類を見上げてすぐさまその指示に従った。
 スティーブンは両足に均等に体重をかけて大型ビビット生物と対峙する。重心は少しつま先側へ。そして一瞬の間を置き、行動開始。先手必勝、相手が行動を起こす前にスティーブンは地面を蹴る。と同時に進行方向に広がる水面を凍らせ、足場を作って飛び上がる。瞬きの間に、靴底に十字を刻んだ足先が水に濡れる巨体に触れた。
「エスパーダデルセロアブソルート(絶対零度の剣)!」
 叫ぶと同時に足がめり込んだ巨体がそこから一気に凍りつく。血界の眷属のような超回復能力を持ち合わせていない生物は見た目の割にあっさりと氷のオブジェに早変わり。凍った水面に着地したスティーブンはポケットに手を突っ込んで陸地のレオナルドを振り返った。
 が。
「スティーブンさんもう一匹いますっ!」
 その警告にスティーブンは身構える。背後で敵意が膨れ上がった。はっとして振り返ろうとするが、先日傷を受けた箇所がズキリと痛んで一瞬だけ動作が遅れる。その頭上に大きな影が落ちた。
「くそっ」
 毒づくスティーブン。岸の方からレオナルドが走ってくる。だが間に合わない。
「スティーブンさん!」
 そう言ってこちらに伸ばされた少年の手を握り返すよりも早く、もう一体潜んでいた大型ビビット生物の体当たりによってスティーブンは冷たい水の中に飲み込まれた。


 病み上がりの身体と巨大生物の体当たり。おまけに水は冷たくて、身体が酷く重い。水を吸ったスーツは重りや枷そのもので、スティーブンの自由を奪っていた。ごぼり、と空気が肺から漏れて代わりに水が入ってくる。
 仰向けに沈んでいるのか、視線の先には霧で弱められた太陽光。きらきらと白い光を水中に伸ばし、けれどもそれが救いの手になることはない。幸いだったのはスティーブンを水中に突き飛ばした巨大生物が追撃してこなかったことだが、溺れかけているスティーブンはその事実にも理由にも頭が回っていなかった。
 薄く開かれた両目に、太陽の光をバックにして小さな影が映り込む。それは人の姿に似ていた。しかし何なのかを確認する余裕もなく、スティーブンの意識は闇に飲まれる。
 完全に気絶する直前。スティーブンが最後に感じたのは、細い腕が背に回り、ぐいと持ち上げられる感覚だった。

* * *

 ザバッと水中から何者かが顔を出す。濡れた黒髪をかき上げて周囲に視線を巡らせたのはレオナルド・ウォッチ。青い義眼を見開いて、少し離れた所からこちらを窺う大型ビビット生物を見つけると、そいつに短く「去れ」と告げる。たったそれだけでスティーブンに牙を剥いた生き物は静かに川底へと沈んでいった。寿命がどれくらいかは不明だが、世界で唯一だっただろう伴侶を失った『彼女』がきっともう子をなすことはない。その代だけで潰えるだろう。
 レオナルドは鮮やかな色彩が完全に見えなくなったのを確認すると、片腕で支えていた自分よりも大きな身体を両腕で抱え直し、岸辺へ向かって泳ぐ。その動きは体格に見合わず実に素早く、あっと言う間に岸辺に辿り着くと、水中から救い出したスティーブンを仰向けに寝かせた。
 息は、していない。
「すみません、スティーブンさん。俺みたいなちんちくりんじゃ嫌かもしれませんが、人命救助なんで我慢してくださいね」
 素早くそう呟いてからレオナルドはスティーブンの顎を逸らして気道を確保する。鼻を指で摘まんで口を開けさせた。と同時に己の唇を噛んで少量の血を流す。
「其の血肉は不老不死の妙薬=c…とまではいきませんが、効果がないわけじゃないんで」
 苦笑し、うっすらと赤が滲んだ唇でレオナルドはスティーブンの口を覆った。

* * *

 スティーブンが目覚めた時、大量発生したビビットカラー両生類との戦闘は完全に終わっていた。残るは事務処理のみ。とはいっても街中での戦闘のような大規模な破壊は起こっていなかったので、普段より事務処理は楽だろう。それは嬉しい。
 だがスティーブンには一つ気がかりなことがあった。
 川に落ちたスティーブンを助けてくれたのはレオナルド。救助の最中に大型生物が襲ってこなかったのは義眼を使ったからだと報告があった。ゆえにそれは問題ない。気になるのは――
「なんでこの前の傷まで完全に治っているんだ……?」
 血界の眷属との戦闘で受けた傷口まで完全に塞がっていたのだ。もうどんなに動いても違和感はなく、戦闘に支障をきたすことはないだろう。
 おかしい、と自宅に戻ったスティーブンは首を捻る。洗面所の鏡の前に上半身裸で立って観察しているのだが、もう傷跡さえ判らない。
 念のため近日中にライゼズのルシアナ・エステヴェス医師に相談することを決めて、スティーブンはシャツを羽織った。鏡の前から踵を返し、廊下へ出る。
「どうなっているのやら」
 ひとりごちつつ、顎に手をやる。物事を考える時にはよくなされるポーズだが、スティーブンの親指は無意識に己の唇をこすっていた。



《4》

 彼らはその血脈を愛さずにはいられない。
 特別な理由は無く、ただそれがそれであるために。もしくはそれがそれであるということが、何よりも特別であるために。



「また水か」
 つい先日ハドソン川にダイブさせられたばかりのスティーブンは、新たに発生した案件を前に軽い頭痛を覚えた。
 書類を手にしたままうっかり呟いてしまったのがライブラの執務室内であったため、先程からソファセットの所でちょっとした書類整理を引き受けてくれていたレオナルドが「どうかしたんですか?」と顔を上げる。
「ハドソン川の次はイースト・リバーで巨大魚の大量発生でも起こりました? それともアッパー湾でタコ足のすぐ傍を超高速で泳ぎ回るイカでも現れました?」
 九割冗談、ただし残り一割は「HLなら有り得るかも」という可能性を含ませてレオナルドが尋ねる。スティーブンは「いや」と苦く笑って、己が持っていた書類をひらひらと振った。
「今度は屋内、水族館だ」
「……異界の生き物と交配して生まれたイソギンチャクが飼育員を食い始めた、とか」
「半分……いや、ほぼ正解だな。イソギンチャクじゃないが、異界生物との交配種が問題になっているのは事実だ。ただしついでに言うと、今君が考えている条件だけなら警察と保健所が連携すれば事足りる。僕達の出番はないよ」
 新種の生物が恐ろしく狂暴化していれば話は別だが、水族館の壁を突き破って街中に出てくることもないのだから程度は知れている。また先日のハドソン川の一件でライブラが駆り出されたのは、ビビットカラーな奴ら一体ごとの戦闘力は低いものの、あまりにも数が多く出現範囲も広かったため。しかし今回問題が起こった水族館は川と比べてずっと規模が小さい。
「世界の危機と言えるほど強力なモンスターが生まれたわけじゃない。が、公僕だけで対処できる問題でもない。今回ライブラに求められているのは高い索敵能力とほどほどの戦闘力だ」
「つまり?」
 早くも色々と察して若干顔を青くしたレオナルドから合いの手が入り、スティーブンはきっぱりと言った。
「一緒の水槽に入れていた異界生物と勝手に交配して生まれた人喰いウミウシカッコカリが幻術を使ってかくれんぼしながら水族館の客とスタッフとついでに展示している魚も食い散らかしているんで早々に見つけて退治してくれ、だとさ」
「やだーガチで義眼案件じゃないっすかー」
 その場で顔を伏せるレオナルド。自分が人喰いウミウシ――わざと『カッコカリ』などと付けたのは、ウミウシには有り得ない大きさと行動パターンを持ってしまったからだ――のいる空間に放り込まれるのを見越して早々に嘆いている。今度の少年の予想は大当たりなのでスティーブンは「はっはっはっ」とわざとらしく笑った後、「護衛はちゃんとつけるから安心しろ」と続けた。
「とりあえずザップかツェッドだな。幸いにもそのウミウシは長く陸上にいられないらしくて水族館の建物内から出る様子はない。明日にでも出向けば充分だろ」
「……あの、お客さんも喰われてんですよね?」
「ああ」
「もっと急いだ方がいいんじゃないですか……?」
「それがだな」
 呆れ十割で溜息を吐きながらスティーブンは肩を竦めた。
「人喰いウミウシすら面白がって、水族館の客は減るどころか増えているらしい。だから館長はウミウシを退治したくないそうだ。しかし先日ちょっとしたお偉方の孫がバクッといかれてな。それで話がこっちに来たってわけさ。館長としては俺達のことなんて全く歓迎していないだろうよ」
 収益が上がっているので水族館の閉鎖もしない。おかげで今も一日数人が水族館から帰って来ないとのこと。
 作戦当日はさすがに市民を巻き込ませないため無理やりにでもこちらから閉鎖させるが、なんだかなぁとしか言い様がなかった。


 そして翌日。
「……行くか、少年」
「ふへ〜い」
 いやいや返事をするレオナルドの隣に立っていのは、ザップでもツェッドでもなく、スティーブン・A・スターフェイズだった。
 昨日告げた通り、スティーブンはザップかツェッドどちらかもしくは両方を護衛につけるつもりだったのだが、直前でザップが金を借りているマフィアの人間と鉢合わせして逃亡開始。それにたまたま居合わせた大道芸帰りのツェッドが巻き込まれ、逃げている途中でかなり本格的かつ危険度の高い邪神復活を試みる宗教団体のアジトに転がり込んでしまいそのまま戦闘開始。そして終息したかと思いきや邪教集団アジトの三つ隣の建物とその斜向かいの建物からそれぞれ偶然同タイミングで出てきたザップの愛人達が銀髪男の姿を見つけるや否や、アジアンビューティー系の女は日本刀を構え、キャラメル色の肌が魅惑的なヘーゼルアイの女は呪術らしき文言を唱えて、ちょうど追い付いてしまったマフィアの連中と一緒になってザップを追いかけ始めた。なお、現在も逃亡中である。したがって二人は現在進行形で出動不可。邪神復活を阻止したのは僥倖だが、これから死地(水族館)に赴くレオナルドからすれば「役立たず!」の一言に尽きるだろう。スティーブンも同意見だ。
「机の上に白い恋人(書類)を残したままってのが気にかかるんだが……」
「五体満足でここから帰還できたらお手伝いします」
「よしきた! 君には傷一つ付けさせないから安心してくれ!」
「有り難いはずなのに有り難くない!!」
 大仰に嘆くレオナルド。
 ともあれ、彼の背を押してスティーブンは水族館に足を踏み入れる。
「ふお……すげ……」
 薄暗い館内でまず二人を出迎えたのは青い光を放つ大水槽だった。
 人払いされた屋内で義眼の青がその姿を現す。驚きに目を見開いたレオナルドは高さ十メートル程もある超大型のそれを見上げた。
「こいつがメインの一つだな。向こうにエスカレーターが見えるだろ」と言ってスティーブンが水槽の手前に設置されているエスカレーターを指差した。「ここから上のフロア……大体一般的な建物の三階分だな、そこまで一気に上がって、あとは大水槽を取り巻くように作られた緩やかなスロープ状の通路を通りながら片手にこの大水槽を、反対側に他の展示物を観賞。最後にまた地上(ここ)まで戻ってくるルートになっている。途中、隣のイルカショー用エリアや特別展示スペースに通じる通路があるんだと」
「ショーのステージまで確認範囲に入りますか」
「入るぞ。ついでにステージの裏側にある飼育用の水槽も捜索範囲だ。夜間にイルカが一頭、ショーの最中に小型のクジラが一頭喰われている。しかも後者の時はそのままショーを続行したそうだ。観客の盛り上がりは歴代最高だったらしい」
「うげ」
 スティーブンの返答にレオナルドは顔をしかめた。客や従業員が消えても開館し続ける水族館だとは聞いていたが、さすがに『水族館』の趣旨から離れたショー≠ノは嫌悪を隠せないらしい。
 そんな少年の気分を切り替えさせるように癖毛の頭をぽんと撫でて、スティーブンは「ほら」と促す。
「さっさと人喰いウミウシを見つけてケリをつけるぞ」
「っす」
「とりあえずエスカレーターで上のフロアへ行く前にそこの大水槽を覗いてみてくれ」
 スティーブンにそう言われたレオナルドが水槽に近付いて透明な壁面に手を触れさせた。見開かれた神々の義眼が分厚いアクリル板の向こうに広がる世界を見つめる。
 水槽の内部では色とりどり大小様々な魚が自由に泳ぎ回っていた。見慣れぬ――というか奇抜な――個体は異界産だろうか。
 足元に近い所では岩陰に隠れたり砂に潜ったりして外敵に見つからないようカモフラージュしているもの。中層から上には群れをなして泳ぐ小魚や、その群れを壊すように突っ切っていく大型の魚。それから壁面に沿うように泳ぐマンタやその仲間達。本来は大型の海洋生物の身体にくっ付いて水中を移動しているはずの小型のサメがアクリル板にぴたりと貼り付いている姿も見受けられる。仕事で訪れた場所だが、これはなかなか圧巻だった。
 ほう、と小さく感嘆を零したスティーブンは、しかし次いでレオナルドに視線を戻し、ぎょっと目を剥く。
「少年……なんだかすごいことになってないか?」
「あー。やっぱり普通じゃないですよね」
 振り返って苦笑したレオナルドの向こう側、透明な仕切りの奥にそれまで自由に泳ぎ回っていたはずの魚が集まってきていた。
 美しい色をしたものはヒレを揺らして踊るように泳ぎ、大型のものはそのダンスを邪魔しないようレオナルドをしばらく見つめてから別の魚に場所を譲る。岩陰や砂の中に姿を隠していたはずの生き物はそこから顔を出して、外敵を恐れるよりもこちらが優先だと言わんばかりにレオナルドがいる方へ近寄りつつあった。
「まさか水族館へ来るといつもこうなのか……?」
「はあ、実は。でも妹の方がすごいんですよ。アイツが水族館に入ると、こうやって水槽に近付く前に魚の方が反応するんです。そんなだから、僕も小さい頃は『ミシェーラは海に愛され過ぎて、陸上では歩けなくなってしまったんだね』なんて言ったりして。現代医療じゃ妹の足が動かない原因も治療方法も分からなかったから、動かないことに不満を零すより、こうやって二人で動かないに足る理由ってのをよく考えていたりすることもあったんです」
「へぇ。良い兄貴じゃないか」
「だったらいいんですけど」
 肩を竦めてレオナルドは小さな笑みを零す。スティーブンの偽りない感想をお世辞だと受け取ったようだった。
 少年は再び水槽の方へ向き直ると、種類に関係なく集まってきている魚達に苦笑して「はいはーい。今日はお前達じゃなくて別のヤツを見なきゃいけないんで、ちょっと退いてくれよー」と呟いた。すると、
(そんなの有りかよ)
 スティーブンは内心でツッコミを入れる。人間の声に魚が従うはずなどないのに、少年のその呟きを聞き届けたかの如く魚達が一斉にその場を退いたのだ。開けた視界にレオナルドは「ありがとー」と告げて、青い義眼が水槽を隈なく見通した。
 レオナルドの視線が向くたび、その邪魔をしないように魚達が場所を空ける。このシーンだけなら青白く光る神々の義眼に魚達が忌避感を覚えて避けているのだとも思えたが、先程までレオナルドの前に集まっていた事実があるので、決して光を嫌っているが故の行動ではないだろう。水槽の中にいる全ての生き物がレオナルドの意思をくみ取り、それに従っているかのようだった。
 しかもレオナルドがその事実に驚いている様子はない。彼にとってこれ≠ヘ当たり前のことなのだ。
(君は眼を除けば完全に一般人のはずなんだがなぁ)
 これはどうにもこうにも一般人から逸脱している『特技』である。ライブラの活動にとって有益かどうかは分からないが。
「んー。ここにはいないみたいっすね、巨大ウミウシ」
 一通り水槽の中を見たレオナルドがスティーブンを振り返って一言。次いで水槽に視線を戻すと、少年は再び近くに集まりだした魚達に「なぁ、お前らの仲間とかお客さんとか喰ってるヤツ知らないか?」と語りかける。
「おいおい、さすがに魚が教えてくれるわけ――」
 苦笑して告げるスティーブンだったが、
「……は?」
 思わず目を瞠る。
 レオナルドの前で魚達が一斉にある方向を見つめていた。先程心の中でレオナルドの『特技』はライブラの役に立たないと思ったばかりだったのに、早々にそれが覆されそうだ。
「少年」
「ははっ。なんかアッチみたいっすね」
 うわー初めてやってみたけどホントに教えてくれるとかマジか。とレオナルド本人も少し意外そうに呟きながら踵を返してスティーブンの方へやって来る。魚達の意思表示を信じるならば、どうやら目標は現在大水槽とは別の水槽に身を潜めており、それを倒しに来たスティーブン達は既定のコースに従ってエスカレーターを上がる必要があるようだった。
「行きましょっか」
「……そうだな」
 魚達が向いた方向にはスロープの途中から向かうことのできるショーエリアがあったはずだ。スティーブンは何とも言えない表情で頷き、レオナルドと共に上階へ向かった。


 魚がああ≠セったのだから、イルカやクジラがこう≠ネのも仕方が無い。と、今にも半円状の階段型観客席の方へ飛び出してきそうな海洋性哺乳類を見つめてスティーブンは半眼になる。
 視線の先では、イルカとクジラとシャチが仲良く水中から顔を出してレオナルドにキューキューと愛おしそうな鳴き声を発していた。なおこの時間帯、本来ならば彼らはショーをするためのこの場所ではなく、奥の飼育用スペースにいるはずだった。しかしスティーブンと雑談しながらレオナルドがここへ足を踏み入れた瞬間、奥から思い切りジャンプしてこちらの水槽へと勝手に移ってきたのである。
「妹君だけじゃなく、君も相当海に愛されているみたいだな」
 先程教えてもらった台詞を借りてそう言えば、レオナルドは頭を掻いて「ですねー」と苦笑いをした。
「まぁこいつらが飛び出してきたのは、人喰いウミウシのせいで不安になっているってのもあるんでしょうが」
「分かるのか?」
「何を喋ってんのかは分かりませんよ。何となくっす」
 少年は水槽の壁面に沿って備え付けられていた階段を上り、観客席側のステージへ。その動きに合わせて水面から鼻先を突き出すイルカとクジラとシャチを小さな手で順に撫でた。
「仲間を喰った犯人は俺が必ず見つけてやっからなー」
 そう言って、大水槽の時と同じように青く輝く義眼がショーエリア全体を見渡す。だが見つからなかったようで、レオナルドは肩を落とした。
 しかしその時、レオナルドが義眼を使っている間大人しくしていたイルカ達が急に声を上げ始めた。親愛を示すようなものではなく、まるで警告音のような切羽詰まった声を。
 魚には好かれておらずとも戦闘のプロとしての経験があるスティーブンは咄嵯に「レオ!」と叫んだ。
「こっちへ!」
「は、はい!」
 レオナルドが慌ててステージから降りる。次の瞬間、彼の立っていた場所が大きく抉れた。衝撃で破壊されたのではなく、まるで強い酸性の液体で溶かされたかのようにドロドロと。
「ひょえ!」
「くそっ、そこか!」
 姿は見えずとも勘だけでスティーブンは足を床に打ち付ける。
「アヴィオンデルセロアブソルート(絶対零度の地平)!」
 足元から氷の大地が広がる。イルカ達を凍らせないよう範囲はごく限定的に。
 しかし手応えがない。範囲を限定したのがまずかったのか、それとも初撃で目標はその場を退いていたのか。
 スティーブンは戻って来たレオナルドを背後に庇い、僅かな違和感も逃さぬよう神経を研ぎ澄ませる。
 ただし視覚に関してはレオナルドの方がずっと上だ。少年は攻撃された位置とそれまで己が見渡していた範囲、そして人間には感知できないものを感じているらしいイルカ達の行動を見極めて「あっ!」と声を上げた。
「スティーブンさん、上です!」
 見上げた先にはステージを照らすための設備として白く塗られた鉄骨とそこに取り付けられた複数の大きなライトがある。他にはショーでイルカ達が飛んで弾くのであろう吊り下げ式のボールが三つ。そのボールの一つが不自然に揺れている。
「ウミウシのくせに速いっ」
 対象の姿を捉えたレオナルドが顔をしかめた。その視線はこれまで自分達の視界の外を狙って隠れていたウミウシをしっかり捕捉している。
「少年、君の視界を片目だけ僕に転送してくれ。下手に広範囲の攻撃をして被害を増やしたくない」
「分かりました。……視野転送!」
 スティーブンの見ている世界が一瞬だけブレ、そして己とは高さの違う視界が投影される。両目の差異をすぐさま認識、修正し、スティーブンは一番近くにあった鉄骨の柱を蹴りつける。
「アヴィオンデルセロアブソルート(絶対零度の地平)!」
 鉄骨を伝って氷が目標へ向かい、そして捕えた。絶対零度の氷に包まれたウミウシは呆気なく力を失い、鉄骨から落下。水中ではなく客席側に落ちてそのまま砕け散る。それを見届けてからレオナルドの視野転送が終了し、視界が元に戻った。
「本来は半透明なのか」
 足元まで転がって来た透明な氷の破片。その中に納まる軟体動物の一部を見てスティーブンが呟く。
 生きている間は体表の色を変えることで術式を編み、発見されないよう幻術で己を覆っていたらしい。しかしこうして死亡し、その術式の効果も解けた。
 遺骸回収はライブラに属する担当人員に任せることになっている。スティーブンはそちらに連絡を入れてから、客席の一つに腰かけてほっと一息ついているレオナルドに微笑みかけた。
「お疲れ、少年。よくやってくれた」
「あざーっす。でも結構早く片が付いたのはここにいる魚達のおかげっすね」
「んー、まぁそうだな」
 そうだとしてもレオナルドでなければこんな奇妙な捜索方法などできなかったのだが。
 スティーブンはふわふわ頭のつむじを見下ろし、改めて何とも奇妙な解決方法だったと今回のことを振り返る。後日、レオナルドには詳しく話を聞いた方がいいかもしれない。
(だがまぁ今は……)
 水槽の縁の近くで水面から顔を出すイルカ達に客席から手を振っているレオナルドを見下ろし、スティーブンは穏やかな気持ちでひとりごちた。
(海に愛された少年に感謝の意でも捧げようか)


 しかしスティーブンがレオナルドの不思議な『特技』について改めて尋ねるより早く、事態は急変する。



《5》

 海に愛された代償は地上を歩くのに適さない足と、他人(ひと)よりゆっくりとした時間を刻む身体。



 レオナルドの妹、ミシェーラ・ウォッチが婚約者と共にヘルサレムズ・ロット入りを果たした。しかしミシェーラと共に現れたのは彼女の本来の婚約者トビー・マクラクランを人質にし、その姿を借りた神々の義眼保有者だった。
 義眼保有者同士の戦いはライブラの精鋭達ですら認識できないレベルのものだったが、レオナルドが必死の思いで送ったSOSはギリギリのところで仲間達に届く。レオナルドの身体を取り込もうとしていたDr.ガミモヅはクラウスの拳によって粉砕され、ウォッチ兄妹とトビーの命はなんとか繋ぎ止められた。
 ミシェーラは軽いかすり傷と打ち身及び長期の精神的ストレスに伴う若干の肉体衰弱。トビーは長らく身体を拘束されていたにもかかわらずライゼズで処置を受けるとすぐに動けるようになった。最も重症だったのは妹を背にして戦い続けたレオナルド。身体はどこもかしこもボロボロで、右手の指も切り飛ばされてしまっていた。そして何よりも酷かったのが目の周囲の火傷と、視神経および脳にかかった負荷の大きさ。義眼の酷使によって発生した熱はあわや脳みそを沸騰させ、レオナルドを再起不能に追いやる寸前だった。
 幸いにも脳は無事で、他の箇所も異界と現世が合わさった最高峰の医療技術により元通りになることが保証されている。――否、保証されていた≠フだが。

「これは……どういうこと?」

 大人の姿を取ったルシアナ・エステヴェスが治療を終えてベッドに寝かされているレオナルドを見下ろし、眉間に皺を寄せる。ルシアナの周囲にはレオナルドを見舞うためにやってきたライブラのメンバーもおり、彼女と同じく先程起こったとある光景を目に焼き付けていた。
 ルシアナの第一声以降、誰もが息を呑んで黙していたが、以前レオナルドの不思議な行動を目にしていたスティーブンがいち早く回復して思わず口を開いた。
「人魚……?」
 言ったのはスティーブンだったが、誰もが頭に思い描いた単語だっただろう。
 疲労と薬でぐっすり眠っているレオナルド。その上半身は包帯やガーゼまみれであるものの見慣れたレオナルドのもの。しかし彼の下半身は深い青色の鱗に覆われた魚の姿になっていたのである。その姿はまさしくおとぎ話に出てくるマーメイド。病室の照明を受け、青い鱗は微かに紫や緑がかったきらめきを見せた。
 また下半身が人外のものへと変化すると同時に、包帯やガーゼに覆われていなかった軽い傷が完全に消え去っているのが確認できた。この分だと包帯やガーゼの下の傷も跡形なく治ってしまっている可能性が高い。
 現に、
「……傷が治っているわ」
 スティーブンがレオナルドの傷について思考を巡らせている間にルシアナが確かめていた。結果は彼女が告げた言葉の通り。レオナルドの身体中に散らばっていた傷は一瞬にして全てが完治どころか最初から存在していなかったかのような状態になっている。彼女が包帯を解くことで、それはスティーブン達の目にもはっきりと捉えることができた。
「まさかとは思うけど義眼の影響?」
 呟いたのはK・K。
 そんなはずはないだろうと本人も充分理解している口ぶりだったが、自分達が認識している最も『未知なるもの』は神々の義眼だ。もしかしたら、万が一、億が一の確率で、義眼保有者が人魚モドキになることだってあるかもしれない。
 しかしそれはやはり間違いだったようで、皆が集まる病室の扉をコンコンコンとノックする音が聞こえた。扉は最初から開いたままであり、振り返った先にいたのは婚約者に車椅子を押してもらってここまでやって来たミシェーラ・ウォッチ。
 ミシェーラは見えないはずの目で病室内を見回し、「兄の身体が変化したんですね?」と訳知り顔で尋ねる。
「ああ、その通りです、ミシェーラ嬢」
 クラウスが代表して口を開いた。
「レオナルド君の身体は今、」
「まるでアンデルセン童話に出てくる人魚姫のようでしょう?」
「! そ、そうです」
 しかし貴女は見えないはずなのに何故それを、とクラウスは問う。また同時に常磐(ときわ)色の眼はトビーの姿を捉えたが、彼は静かに首を横に振った。トビーがミシェーラに説明したわけではないということだ。
 ミシェーラはそんな男二人の様子にすら気付いた様子で小さく笑みを零すと、後ろの婚約者にお願いしてレオナルドが眠るベッドへと近付いた。
「ご安心ください。この身体の変化は兄が深く傷ついたために起こったことですが、逆にこうなれば回復は早いんです。また完全に……そうですね、身体の中まできちんと治れば、この変化もいずれ元に戻るはずです」
「失礼、ミシェーラ嬢」スティーブンが口を開く。「貴女はレオのこの変化についてよく御存じなのですか?」
「ええ。もちろん。これはウォッチ家の特性……体質、みたいなものですから」
 ミシェーラは深く頷いた。
「私達の家系は少し特殊で、瀕死の状態に陥るとこうして身体の傷を回復させるんです。私は祖母から彼女が若い頃に実体験した話を聞いただけですが、今の兄はその話の通りになっているのでしょうね」
 兄が眠っているベッドのシーツをさらりと撫でてミシェーラは顔をうつむかせる。レオナルドの怪我は彼女を魔の手から護るために負ったものだったからだ。少なくとも彼女はそう思っている。
「皆さんは」ミシェーラが顔を上げ、ライブラの面々とルシアナを見えない眼で見回した。「人魚の血肉が不老不死の妙薬になるという話を聞いたことはありますか? アンデルセン童話が生まれたデンマークではなく、日本に伝わっている話なんですが」
 スティーブンを含むライブラのメンバー達は首を横に振り、ルシアナだけが「なんかそういう話、聞いたことあるわ」と答えた。
「人魚の肉を食べた女性が不老不死になったっていう話よね?」
「ええ。そうです。人魚の血肉は傷を癒し、人の肉体から衰えを遠ざける。その特性は人魚と交わった人間の子孫にも伝えられました」
「……君達の家系がそれだと?」
「ええ」
 スティーブンの問いかけにミシェーラが頷く。
「そのせいで私達は海に愛されている≠ネんて言われることもあるんですよ」
 微笑みを浮かべた少女は自身の動かない足を軽く撫でた。
「これを最初に言ったのは周りじゃなくて兄でしたけど。でもトビーも言ってくれたわよね」
「ああ、そうだね。ミシェーラは海に愛され過ぎたせいで足が動かないんだろうって。それを聞いて君は僕との結婚を了承してくれた」
「そうそう。お兄ちゃんと同じことを言われた時にビビッと来たわけよ。お兄ちゃんとは結婚できないから、私にはもうこの人しかいない!って」
 後ろを振り返りトビーと軽く指を絡ませ合った後、ミシェーラは再びライブラの面々に向き直り、「話を元に戻しますが」と続けた。
「ウォッチの人間は――正確には、祖先たる『人魚』とされている女性の血を引いている者は、瀕死の重傷を負うと人魚の血が目覚めて一時的に先祖がえり≠起こします。そうして傷が治ってしばらく時間が経てば、また人間の姿へ。また私も、兄も、この身体に流れる血には多少の回復効果があるとされています。不老不死には程遠いですが、他人の傷もある程度のものならば完全に癒してしまえるはずです」
 ミシェーラの説明にスティーブンははっと息を呑む。身に覚えがあった。完全に消えた傷を服の上から手でさすって、まさか、と口の中だけで呟く。
「もちろんこのことは絶対に口外しないでください。皆さんを信じてお話したのですから」
「無論です、ミシェーラ嬢。我々は決して仲間であるレオナルド君を、そして彼の大切な妹である貴女を裏切りません」
「ありがとうございます、ミスタ・クラウス」
 スティーブンの様子に気付くことなく、クラウスとミシェーラが言葉を交わした。
「ああ、それと」
 今思い出しましたと言いたげな表情でミシェーラがぽんと手を叩く。
「半分人間なので乾燥には強いですが、干からびるとあまり良いこともないので、早々に大きな水槽か、無ければバスタブでも良いので兄を水の中に入れてあげてください」
「先にそれを言ってよ!!」
 ルシアナが分裂し、彼女の片方が慌てて病室を出て行った。



《6》

 惑わしの魔物は青く輝く鱗を持っている。



 レオナルドが退院した。ミシェーラはトビーと共に故郷へ帰り、いつも通りの日常が……まだ、帰って来ない。
 ライブラの事務所にはツェッド用とは別にもう一つ大きな水槽が用意された。そこに入ったのは未だ魚の尾ひれを持つレオナルド・ウォッチ。傷は完全に癒えたのだが、人魚から人の姿に戻るにはもう少し時間がかかるらしい。
 レオナルドはツェッドと違い、地上では一人で移動できないので、水槽が置かれたのは皆が姿を見せる執務室である。水槽の中で青く輝く鱗をきらめかせ、くるりと身をひるがえす姿は、やけに美しく神々しいとスティーブンは思った。
(それとも彼に命を救ってもらったからこそそう思えるのか)
 怪物にハドソン川へ叩き落された時、救ってくれたのはきっとレオナルドだ。溺れて死にかけていたスティーブンを彼がその血で救った。吸血鬼との戦いで負った傷が治ってしまったのはそのオマケだろう。
 デスクで書類にサインをしていたスティーブンは書面から顔を上げてレオナルドがいる水槽へと視線を向けた。ちょうどレオナルドもこちらを振り向き、目が合うとへらりと笑う。軽く手を振ってやれば、少し戸惑った後に振り返された。
 どういう仕組みなのか分からないが、今のレオナルドは水中でも地上でも道具の補助なしに呼吸が可能らしい。したがって非常事態――血界の眷属が出現した場合など――は、メンバーの誰かが彼を抱え上げて現場へ赴く手筈になっている。レオナルドは酷く恐縮していたが、人魚をこの腕に抱けるというのはスティーブンにとって少しだけ胸が躍ることだった。無論、皆には内緒だ。
(俺は足技が主体だから、他の奴らよりも少年の面倒を見る可能性は高いよな……)
 水槽の中を泳ぐレオナルドをぼんやりと眺めながら、スティーブンは胸中で呟く。やっぱり少しだけ、不謹慎だと分かっているのだが、楽しみだと思った。
「あの、スティーブンさん。僕に何かご用ですか?」
 手を振ってからの反応がないスティーブンを訝ってレオナルドが水槽から顔を出す。上半身裸は恥ずかしいとのことで身に着けているTシャツが薄い身体に貼り付いていた。
 Tシャツと同じく水を吸ってボリュームダウンした髪が少年の童顔を強調している様子にスティーブンは目を細めてから軽く首を横に振る。生憎こちらは少年が優雅に泳ぐ姿を楽しんでいただけで、彼に任せる仕事は今のところ保有していない。
「すまない。用はなかったんだ。ただ気持ち良さそうに泳いでいるなと思って」
 正直に話せば、レオナルドは眉尻を下げ「す、すみません」と萎縮してしまう。
「どうして謝るんだ?」
 むしろこの少年は書類仕事に飽きたスティーブンを癒してくれる存在なのに。
「や、だって、スティーブンさんがお仕事されているのに、僕だけ気持ち良く泳いでいるなんて……活動資金をいただいている身で情けないというか……」
「ああ、そういうことか」
 真面目な彼らしい返答にスティーブンは頬を緩ませた。
「気にするな。むしろ今は大きな戦いを終えて休息すべき君を事務所に押し込めているようなものだからな。もっとふんぞり返ってもいいくらいだぞ」
「でもこんな身体にならなきゃ今頃ちゃんとお仕事を……」
「君の妹さん曰く、その身体になったから普通より早いスピードで回復できたんだろう? もし君の身体にごく一般的な回復速度しか備わっていなかったら、おそらく君はまだベッドの上の住人だろうな。つまり今と大して変わらない……いや、むしろ現状は緊急時に動ける分、ずっとありがたい。そういうわけだから何も恐縮する必要はないよ。君は好きに過ごしていていいんだ。それに――」
「それに?」
 これは部下である少年に上司である己が言っていいものかどうか、とスティーブンはほんの少し考える。だが邪気も企みも偽りもない気持ちなのだからと、それはするりと口を割って出た。
「いや、それにな。これはごく個人的な感想なんだが、君の鱗はとても綺麗で見ていて飽きない。加えて君自身の人柄も好ましいし、こうして話しているだけでもいい気分転換になる。君が事務所にいてくれるだけで僕の仕事もはかどる気がするんだ」
 スティーブンの台詞にレオナルドがきょとんと目を開く。それから少しして少年は口元をムズムズさせた後、「ありがとうございます……」と蚊の鳴くような声で言った。耳は真っ赤に染まっており、レオナルドは冷たい水の中に頭まで沈む。
 何とも慎ましい姿にスティーブンはまた頬が緩むのを自覚した。


 人魚に変じた少年は実に楽しそうに水の中を泳ぎ、狭くはないが決して広くもない空間で器用にターンを繰り返す。そのたびに深い青色の鱗が緑や紫の光を帯びながらキラキラと輝いた。
 ずっと眺めていられる光景だったが、本当にそうしているわけにもいかない。スティーブンにはやらなければならない仕事が山ほどある。
 そんなわけで、あの後、書類を片付けてからすぐ外に出たスティーブンは、世間のご家庭がとっくに夕食を済ませて親が子にそろそろ寝るよう告げているであろう時間帯にようやく事務所へ戻って来た。レオナルドが楽しげに泳いでいる姿を見て癒されようと思いながら執務室の扉を開けば、
「ん〜〜ッうまい! ありがとうございますツェッドさん!」
「いえ。今回は特別にってことでテイクアウト用にまとめてくださったのはビビアンさんですから、どうぞ身体が元に戻ったら彼女にお礼を言ってあげてください」
「それは勿論ですよ! でもツェッドさんのおかげでダイアンズダイナーの大ハンバーガーと大ミートスパが食えるんですから、ツェッドさんにも感謝しまくりっす! 本当にありがとうございます! ほらソニックもお礼!」
「キキッ!」
 レオナルドが水槽の縁で豪快にハンバーガーに齧り付いていた。その隣では音速猿のソニックがハンバーガーのバンズの欠片を相棒と同じように頬張っている。
 そして少年の口元を盛大に汚すケチャップを拭おうと、水槽に横付けされた階段に腰かけたツェッドがいそいそとナプキンを用意していた。二人の会話から推測するに、ツェッドは夕食の買い出しに自ら進んで行ってきたらしい。実に甲斐甲斐しいことである。
(そういやツェッドも『魚』に分類されるのか……?)
 思わずり足を止めてしまった出入り口付近で、スティーブンは水族館の水生生物に大人気だったレオナルドのことを思い出す。そう言えばツェッドはほぼ初対面の時からレオナルドに好意的だった。もしかしたら無意識のうちに少年が持つ特性に惹かれていたのかもしれない。
(まぁきっかけはどうであれ、今は少年本人の人柄だとか、ツェッド自身の誠実な性格だとか、そういう理由から仲良くしているんだろうけど)
 なお、今は更にレオナルドが人魚の姿をしているということで、ちょっと似ている二人はいつもより更に親近感を抱くようになっているようだった。
 部下達が仲良くしているのは実に良い。上司としてそう思うスティーブンだったが――。
(なんだかこう、胸の奥がもやもやする)
 慣れない感覚にスティーブンは小首を傾げた。ニコニコとツェッドに微笑むレオナルドを眺めていると、胸の辺りが少しずつ重くなっていくのだ。
 あまり好ましくないその感覚を振り払うように、スティーブンはカツリと足音を立てて一歩踏み出す。
「やあ、楽しいディナータイムをお過ごしかな?」
「あ、スティーブンさん! お疲れ様です!」
「お疲れ様です、スターフェイズさん」
「キッ!」
 レオナルド、ツェッド、ソニックが執務室に入ってきたスティーブンに顔を向けていたわりの言葉をかける。そんな彼らに「ありがとう」と答えて、スティーブンは自席の椅子の背に脱いだジャケットを引っかけた。
 ネクタイを緩めながら水槽に近付けば、すでに半分ほど減った彼らの晩餐がしっかりと目に入る。
「ハンバーガーとミートスパか。あとコークも? しかもそのサイズ……若いなぁ」
 自分がこの時間帯に食べると胃もたれしてしまいそうな量とラインナップに思わず苦笑が漏れる。
「ちょーうめぇっすよ! あと実はこれ夜食です。夕飯はギルベルトさんにいただきました!」
「夜食!? いやしかし……うん、確かに美味そうだ」
 レオナルドの顔を見て告げる。未だ口の端についたケチャップは、それこそこの料理が少年にとってとても美味なものであるという証に思えた。
 この時間帯に食べるのが無理なだけで、たぶん昼間なら食べられる。ついでに、隣にレオナルドのような『ご飯を美味しそうに食べる人』がいれば、更に食が進むだろう。
「ツェッドもすまない。手間を掛けさせたな」
「いえ。自分の分もありましたから。スターフェイズさんはもう夕食を済まされてきたんですか?」
「いいや、実はまだでね」
 これからもう一仕事片付けてから自宅で食べようと思うんだ――、と続ける前に、水系の部下二人はキラキラと目を輝かせた。
「じゃあご一緒にどうっすか! ね、ツェッドさん!」
「ええ。スターフェイズさんもよろしければご一緒に。サイドメニューも色々買ってきましたので」
 そう言うや否やツェッドは傍らにあった大きめの紙袋から揚げたポテト、保温性の容器に入ったスープ、明らかに家庭用と思われるタッパーウェアに詰め込まれた野菜サラダ、スライスされたフランスパン、ソフトボールより二回りほど小さいリンゴ、と次々に出してくる。
 おそらく本来はテイクアウト用でない料理を包んだそれらにスティーブンが店主の思いやりの深さを感じつつ、同時に「これを二人で食べきるつもりだったのか……若いって恐ろしい」と内心で思っているなど知る由もなく、二人と一匹は「さぁどうぞ!」と上司に即席のディナー会場の席(階段)を勧めた。
「……じゃあ、いただこうかな」
「はい!」
「どうぞ、召し上がってください」
「キッキー!」
 スティーブンは階段に直接腰を下ろす。摘まんだポテトは油を吸って少ししなっとしていたが、何だかとても美味しい。「うまいな」と零せば、すかさずレオナルドが「でしょ!」と笑う。
 そんな笑顔を見ていると、胸にあったはずのもやもやはいつの間にかどこかへ消え去ってしまっていた。



《7》

 君は気高く美しい、群青の愛し子。



 レオナルドがこの姿になって何日経っただろうか。
(三週間だ)
 たった三週間と感じるか。それとも、もう三週間と感じるか。スティーブンは事務仕事の合間にコーヒーブレイクを挟んで、己のデスクからレオナルドがいる水槽を一瞥した。
 人魚の姿になるのは一時的なものであり、いずれ元に戻ると聞いている。だがそれがいつになるのか、正確な日付は分からない。
 美しい鱗を持つ今のレオナルドをスティーブンは好ましく思っている。それは事実だ。しかしだからと言って人間の時の姿が嫌いだったわけではなく、戻れるものなら早く戻った方がいいと考えている。
 レオナルド自身、このように行動範囲を限定されているのは不便で仕方ないだろう。戻れる保証はあってもそれが何日後なのか何週間後なのか分からないのもストレスが溜まるはずだ。また、いつも色々な場所へ行ってヒューマーとビヨンドの区切りなく友人を作っていた彼だから、いくら周りが気を使って退屈を紛らわそうとしても――……むしろその気遣いを受けることに、負担を感じているだろう。無論、そんな感情を表に出して皆に更なる心配をかけさせる愚行を犯す少年ではないのだが。
 現在、レオナルドは水槽から上半身を出して本のページを捲っていた。吸血鬼の諱名に使われる『始祖達の旧き文字』を勉強しているのだ。普段ならバイトなり何なりに精を出している時間だが、今はそれくらいしかすることがない。しかもその本はレオナルドが義眼で諱名を読めると判明してすぐの頃に勉強のためと言ってクラウスから貸してもらったはずの物だった。つまり内容はあらかた少年の頭に入っている。大して面白いわけでもないそのような本のページを捲る作業はまさしく暇潰し以外の何ものでもなかった。
(何かいい暇潰しでもないもんかな……)
 しかもさり気なく。レオナルドが遠慮しなくて済むようなものを。
 ふう、と一つ小さな溜息を吐いてスティーブンは机上に広がる書類を眺めた。白い恋人達は熱烈な愛の言葉をプリンタで出力された黒いアルファベットや数字で表現している。さすがに嫌になってくる光景だったが、その中の一枚、A4サイズのコピー用紙の下方に記載されていた文章にスティーブンは目を見開いた。
(これは……)
 記されている文章を再度読み返し、口の端を軽く持ち上げる。
 普段、主にママさん狙撃手から腹黒やら冷血漢やら言われているが、これでもスティーブンは仲間思いの人間なのだ。


「少年、もっと広い所で泳いでみる気はないか?」
 スティーブンの問いかけに水槽の中の少年はぱちくりと目を瞬かせる。青白い燐光を放つ義眼がはっきりと晒され、彼が驚いていることを示していた。
 どういうことっすか、と小首を傾げるレオナルドにスティーブンは補足説明を加える。
 以前、自分達が水族館で仕事をしたことがあったが、その時の依頼主もといお偉いさんが「もう水はこりごりだ」と言ってHL内に所有していた自宅のプールを取り壊す予定を立てた。しかしいざ工事会社が現場に入ると、そのプールに勝手にこっそり住み付いていた異界人が反発。これまでプールの持ち主にも存在を気付かれぬほど大人しかったのに、住処が奪われるとなるとものすごい勢いで襲ってきたそうだ。そこで警察よりも早く、実績があったライブラにお鉢が回ってきた。さっさと異界人を『退散』させてくれたならば、その後の取り壊し工事までプールは好きにしてくれていいと、異界人の存在に気付かずプールを利用していた過去に戦慄しつつこの度お偉いさんは話を持ち込んだのである。
「……と言う訳なんだ。しかもその異界人には平和的方法ですでに退散いただいている。案外話の分かるヤツでね、戦闘要員が出る間もなく、ライブラの交渉係が働いてくれただけで事は済んだよ」
「ってことは、実際に工事が始まるまで――」
「ひろーいプールが使い放題。ここから車で十分程だから、君の身体なら移動も問題ないだろう」
「おお!」
 余程、水槽の中での生活に飽きがきていたのだろう。後ろ暗いことがないと分かると途端にレオナルドは目を輝かせた。
 そんな少年の様子にスティーブンは充足感を得ながら苦笑を零す。
「事務所を空けるわけにはいかないから全員で、なんて真似はできないが。ひとまず交替制ってことにしてある。たまにはプール遊びってのも乙なもんさ。もう全員に話は通してあるから、君はこれから僕と一緒に移動する。構わないかな?」
「うっす! もちろんです!」
「ははっ、いい返事だ」
 それでは早速、とスティーブンは水槽に横付けされている階段を上がる。水槽から引き上げたレオナルドの身体を傍に常備してある保水シートとバスタオルで包み、横抱きにした。男が男に横抱きなんて……と最初の頃は戸惑っていた少年も今やすっかり慣れてしまい、嫌がる様子も照れる素振りもない。むしろこの場においてはプールのことが頭を占めていて余計に羞恥を感じなくなっているようだった。
 スティーブンは万が一にも少年が落ちないように己の首に細い腕を巻き付かせ、執務室を出る。入れ替わりで外に出ていたクラウスとギルベルトが戻って来た。
「じゃあクラウス、先に行ってるよ。ギルベルトさん、あとはお願いします」
「ああ。楽しんできてくれ」
「いってらっしゃいませ」
 一礼する老執事の隣、眼鏡のレンズ越しに常盤色の瞳がレオナルドの姿を捉える。まさに「わくわく」と表現すべきレオナルドの様子にその双眸がすっと細められ、口元が弧を描いた。クラウスもスティーブンと同じくレオナルドの退屈を紛らわせる手段を探していたのだ。
(本当に可愛がられているなぁ。まぁ確かに可愛いもんなぁ)
 男に対して使う表現ではないけれど。可憐だとかそういう意味とはまた違って、レオナルドには大切にしたくなる何かがある。それは真っ直ぐ前を見つめる姿勢だったり、自分達に見せてくれる笑みや隠すことのない信頼の情だったり、強敵に立ち向かっても折れない心だったり。だから、可愛がりたくなってしまう。
 スティーブンはひらりと手を振って友人とその執事に挨拶すると、レオナルドと共にエレベータへ乗り込む。繊細な美しさを持つ割にかなりぞんざいに扱っても大丈夫らしい青い鱗の尾が腕の中で嬉しげに跳ねた。


 まるで『隔離居住区の貴族(ゲットー・ヘイツ)』の如き、高い天井に青空を投影した室内プール。霧が入る隙間はなく、太陽の代わりの照明が水面に照り付ける。
「あれ? 誰もいませんね」
「そりゃ僕達が最初だからな。集合時間なんてものも決めていないし、来たい奴らは追々来るだろう」
 貸し出されたプールにはスティーブンとレオナルド以外のメンバーがまだ来ていなかった。そもそも来るも来ないも個人の自由である。レオナルドのように諸手を挙げて歓迎する者もいれば、興味がないと言ってそっぽを向く者もいる。
「それにこの方が広々使えていいんじゃないか?」
 泳ぎたくてうずうずしていたレオナルドを早速プールに浸からせながらそう言えば、少年はいくらか申し訳なさそうにしながら「へへ、まぁ」と控えめに肯定した。ザップを代表とするレオナルドをからかいたがる人間が傍にいれば、自由に泳げないことなど簡単に予想できる。
「じゃあ僕ちょっと泳いできます。スティーブンさんは? 着替えてきます?」
 スーツ姿のままのスティーブンを見上げてレオナルドが尋ねた。さすがにこの服で水に浸かるわけにもいかない。また例えプールサイドで日光浴――頭上に広がるのは偽物の青空だが、形だけは――をするとしても、やはり今の服装は不適切だろう。
「ああ、僕はここで見ているだけだから着替えたりはしないよ」
「え! ってことはもしかして僕が泳ぎたいなんて言ったからスティーブンさんはわざわざ……」
 途端、表情を曇らせた少年にスティーブンはかぶりを振り、「君が迷惑をかけているなんてことは全然ないからな」と先行して告げた。
「確かにプールではしゃぐような齢じゃないが、楽しみ方は人それぞれだろう?」
 そう言ってみてもレオナルドの頭上には疑問符が浮かぶ。その身に流れる血ゆえか、水に触れることを良しとする少年にとってスティーブンの楽しみ方は想像の範囲外なのかもしれない。
 我ながら当の本人に向けて言うのは少し恥ずかしいのだが、と心の中で告げてから、スティーブンはキラキラと水滴をまとわせる少年に微笑んだ。
「レオ。君が楽しそうに泳ぐ光景は、とても好ましい」
 するりと本心が口から滑り出る。
 以前にも執務室で言った通り、レオナルドの姿は美しかった。深い青を帯びた鱗は少年が姿勢を変えるたびにキラキラと宝石にも勝る輝きを見せる。尾ひれは透けるような薄い青で、それが水中で揺れるのも優雅だ。無論、見た目だけでなく彼が楽しんでいる姿を見るのは仲間として純粋に嬉しいものである。
「僕はそんな君を見ているだけで充分なのさ」
 言い切った後でやはり少し恥ずかしくなり、「水族館の魚のような扱いになっていたら悪いけどね」と肩を竦めて付け足せば、レオナルドが両手で顔を押さえて「この人はもう……」と呟くのが目に入った。
「スティーブンさんってそんなこと言っちゃう人でしたっけ?」
「そんなこと言っちゃう人だったみたいだな。しかし、僕は結構君のその姿を気に入っているんだが、君からすればいいことばかりじゃない……むしろ不便も多いだろう。それに最初は随分驚いたんじゃないか?」
 照れ隠しから話題転換のつもりで人魚になったばかりの話を持ち出す。するとレオナルドは顔を覆っていた手を退け、若干まだ目元の赤みが取れないまま「いいえ」と首を横に振った。
「そうなのか? でも滅多になるものでもないんだろう?」
「ええまぁ滅多になるものではないですね。そんなしょっちゅう身体を変化させなきゃいけないほど大怪我負ってらんねーです。いや、確かにこの街に来てからかなり危ない怪我はしてますけど」
 繊細な見た目の腰から下に似合わず、ガリガリと大雑把に頭を掻くレオナルド。次いで彼はその綺麗な尾でぱしゃりと水面を叩くと、少しだけ懐かしげな表情を作る。
「実は……ミシェーラは幼かったこともあって覚えていないんすけど、アイツ、小さい頃に一度死にかけたんです。家の階段から落ちて。その時、身体も変化して……だから実際にこの変化を目にしたのは二度目ですね。そういうわけで僕は別に驚いたりもしませんでしたし、この身体が嫌だと思ったこともありません。だってこういう身体じゃなきゃミシェーラは助からなかったから。……そ、それに」
 レオナルドの視線が下がった。戸惑うように青い尾がぱしゃりぱしゃりと水面を叩く。
「スティーブンさんに綺麗だって言ってもらえたし」
 好ましいとか、他にも色々俺には勿体無い言葉を……と、モゴモゴ告げる姿は非常に愛らしかった。
 この年齢の男に対して使うべきではない、と何度思ったことだろう。スティーブンもそれは充分理解している。しかしそれでも胸に湧き上がる何とも言えない感情にこっそり身悶えした。許されるならば今すぐ抱き上げて頭をぐしゃぐしゃになるまで撫でてその顔に頬ずりをしてやりたい。年齢性別職業全てにおいて自分のような人間がそれをやるととてつもなくマズい構図になるという事実だけが理性に働きかけ、寸でのところで止めさせていた。
 欲求の名残としてピクリと動いた男の指先には気付く様子もなく、レオナルドは視線を忙しなく彷徨わせながら唇を尖らせる。
「だ、だってですね。スティーブンさんとは違って、こっちは容姿にコンプレックスがないわけじゃないんで。褒められればそりゃあ嬉しいですよ。『可愛い』はちょっとアレですけど、綺麗とか恰好良いとか言われるもんなら言われてみたかったりですね……。えっと、つまり、できることなら笑わないでほしいと言うか、もういっそ今俺が言ったことは忘れてくださいって言うか」
 喋れば喋るほどドツボにはまっていくレオナルドは最後に声もなく唸って水中に逃げた。さすが(下半身だけだが)魚と言うべきか、ちょっとびっくりするほどのスピードで少年の姿がプールの反対側へと消える。
 姿が見えなくなったおかげでスティーブンも落ち着きを取り戻し、いつもの調子で「しょーねーん。悪かったって」と軽い口調で呼びかけた。しばらくそうして待っていると、こちらも水で頭ならぬ顔の熱を冷やしたレオナルドが再び近付いてくる。「へへっ」と苦笑いをした後、少年はようやく自由に泳ぎ始めた。スティーブンはプールサイドに立ったまたそれを眺める。
 レオナルドと一緒に行動するのは護衛の意味もあるけれど、やはりディープブルーの人魚がのびのびと泳ぐ姿は十二分にスティーブンを楽しませ、気分転換の役割を果たした。時折目が合えば、照れくさそうに微笑まれる。
 しばらくして他のライブラのメンバーも姿を見せたため二人きりの時間は終わりを告げ、レオナルドの視線が向く先はスティーブン以外になってしまったが、得も言われぬ満足感が男の胸を満たしていた。



《8》

 人魚じゃなきゃ愛してもらえませんか?



 レオナルドが人魚に変化してから一ヶ月後、彼の足が元に戻った。
 それはもう呆気なく、長時間水中に潜っていたレオナルドが水面に顔を出したかと思うと、「あ、なんか戻りました」と告げて、執務室にいたクラウス、スティーブン、ザップ、ツェッドの四人を驚かせた。
 主人及びライブラ構成員の驚愕を横目にギルベルトは素早く少年の矮躯をすっかり包んでしまえるタオルでその身を隠し、「仮眠室にお召し物を用意しております、レオナルドさん」と言って彼を奥の部屋へ案内する。それから数分後、まだ湿った髪のままで見慣れたレオナルド・ウォッチが姿を見せた。
「ゴメーワクをおかけしました」
「……いや。元に戻って何よりだ、レオナルド君」
 クラウスが答え、それからザップとツェッドがレオナルドを構いに行く。スティーブンは自席に座ったままその光景を眺め、何も言わずにコーヒーを一口含んだ。
 これで日常が戻って来る。
 そう思っていたのだが――。


(避けられている)
 昼食をとるためレオナルド、ザップ、ツェッドの三人が事務所を出て行った後、スティーブンは自分以外誰もいない部屋でそう確信した。
 何もそれは今日だけのことではない。レオナルドが元の姿に戻ってからの一週間を振り返った上での結論である。
 最初は気のせいだと思っていた。レオナルドと仕事以外のことで言葉を交わす回数が少なくなり、目が合うこともぐっと減って……否、ほぼゼロに。少年の足が元に戻ったことで執務室に置かれていた水槽は撤去され、事務所に残って書類を捌くスティーブンとレオナルドの共有する時間が減ったのだから、それは必然だろうとスティーブンも気楽に考えていた。
 しかしレオナルドが大怪我を負い身体を変化させる前と比べても、明らかに二人の接触回数は減っていた。まさに、必要最低限。その言葉の通り。スティーブンがレオナルドと言葉を交わそうとしても、少年は巧みにその手をすり抜け、ザップやツェッド、時にはクラウスや女性陣すら巻き込んで、機会をことごとく潰した。
(俺、何かしたかなぁ)
 ごん、と机に額を押し付ける。過去を思い出しながら色々と考えてみたが、避けられる原因に思い当たらない。ぐう、と呻き声が漏れる。無意識にレオナルドを不快にさせていたならそれこそ大問題だ。
 ちらりと見やったのは一週間前まで水槽があった場所。あの日まで、スティーブンはレオナルドと仲良くしていた。仲良く、できていたはずだ。綺麗な尾だと褒めそやして、レオナルドも満更ではなさそうで。上手くやれていたと思ったのに。
 あの笑顔が見られない。スティーブンさん、と柔らかな声で呼ばれない。
 それが、なんだか、すごく。
(つらい)
 はあ、と重い溜息が漏れた。
 これは懐いてくれたと思った部下が実はそうではなかったというだけの話だ。だというのにそれが酷く心臓を軋ませる。まるで知らず知らずのうちに摂取させられていた麻薬のように、今のスティーブンはレオナルドの笑顔と声を求めていた。
 もういっそ本人に問い詰めてしまいたい。どうして自分を避けるのか、と。不快なことをしていたなら謝るし、気に食わない部分があるなら――可能であれば――直したい。しかしそもそも問い詰めるための時間が取れない。レオナルドはまるで尾ひれを持ち水中で泳いでいた時のようにするりとスティーブンから逃げていく。
 うああ、と呻き声交じりの重い溜息を吐く姿は『色男』や『伊達男』というスティーブンに向けられることの多い形容からかけ離れたものだった。自分でもそれを理解しているからこそ、スティーブンは己の沈みっぷりを改めて感じる。いくら室内に他人がいないから多少気が抜けているといえども、これは相当なものだ。
 ザップ達が昼食から帰って来るまでには立て直そうと決めてもうしばらく机と仲良しになっているつもりだったスティーブンは、しかし、
「なぁにが『葉巻忘れた〜』だ。人をパシらせやがって」
 執務室のドアが開き、スティーブンの脳内を占めていた少年がぶちぶちと愚痴を零しながら入ってきた。内容から察するにザップがシガレットケースをここに置き忘れ、それをレオナルドに取りに来させたのだろう。
 ザップへの苛立ちでレオナルドはここにスティーブンしかいないことに気が回っていない。火も風も氷も操れない指先がローテーブルの上に忘れ去られていたケースを掴み上げる。そして振り返り、
「っ」
「ご苦労だね」
 スティーブンと目が合って息を呑んだ。軽い口調で返してみたが、その動作一つにこちらは歯を食いしばりたくなる。
「……ま、まぁあれがザップさんっすから。それじゃお昼行ってきまーす」
「駄目だ」
 スティーブンは椅子から腰を上げた。このチャンスを逃すわけにはいかない。すでにスティーブンの心臓は悲鳴を上げているのだから。
「や、でも早くしないと下で二人が……」
「待たせておけ。こちらの方が重要度は高い」
 きっぱりとそう言い切ってスティーブンは立ち尽くすレオナルドの手首を掴んだ。ひゅ、と呼気を漏らす少年の動作に対し、スティーブンの眉間には深い皺が刻まれる。視線は、合わない。
「スティ――」
「レオナルド、正直に答えてくれ」
 顔を伏せる少年は教師に怒られるのを覚悟した生徒のようでもあった。しかし違う。恐れているのはスティーブンの方だ。答えてくれと言いながら、これから放つ疑問に対してどんな答えが返って来るのか、怖くて怖くて仕方が無い。
「どうして僕を避ける。君に悪感情を持って接したつもりはない。だが無意識のうちに僕は少年の嫌がることをしていたのか」
「そ、んな……ことは」
「ならどうして目も合わせてくれない。君が人魚の姿をしていた時はもっと――」
「だからですよ!」
 突然レオナルドが大声を上げ、スティーブンが驚いて腕の拘束を緩めてしまった隙に距離を取られる。大股で一歩ほどしか離れなかったが、それはどんなクレバスよりも広く深い裂け目に思えた。
「レオ、」
「俺があの姿だった時、スティーブンさんはすごく優しくしてくれました。今までよりずっと沢山会話して、笑って、気が緩んだところも見せてくれて! でも、でもそれは……」
 少年が顔を上げた。唇を噛み締めて、見開かれた青い双眸からは今にも涙が零れそうになっている。
「貴方が綺麗だと言ってくれた、人魚の姿だったからじゃないんですか。でももう俺は人魚じゃない。ただ目がいいだけで、それ以外は凡人も凡人。優れたところなんて一つもない冴えないガキです。だから貴方に構ってもらえる理由も、もうない」
 ほろり、と雫がレオナルドの頬を伝った。
 予想外の告白を聞かされてスティーブンは呆気にとられる。だが呆けたのは一瞬だけだ。すぐにその意味を理解し、ずっと痛みを訴えていた胸にじわりと熱が灯るのを感じる。
「少年、」
 呼びかける声はかすれていないだろうか。たった一歩の距離を詰め、薄い肩に触れさせた右手は震えていないだろうか。
 スティーブンはこくりと小さく唾を飲み込み、左手をレオナルドの頬に触れさせて顔を上向かせる。少年は逆らわない。
 二人が接する機会が増えたのは、少年のための水槽がライブラの執務室に置かれたのだから当たり前の結果だ。空間を共にしていれば、険悪な仲では無い以上目が合ったり言葉を交わしたりする回数が増えるのも何ら不思議ではない。
 確かにレオナルドの身体が変化したことで手助けとして構う機会は多くなっただろう。またその美しい鱗を話題に出したのも事実である。しかしそれだけがレオナルドに笑みを向けた理由ではない。何よりスティーブンがレオナルドを構うようになったのは、
(その姿に関係なく、俺がレオナルド・ウォッチという人間を特別好ましく思っていたからだ)
 二本の足で駆けるその姿を眺め、言葉を交わし、助け、助けられ。その日々の中でスティーブンはレオナルドにゆっくりと惹かれていった。やがて積み重なった想いは無意識のうちに行動として現れる。レオナルドの身体の変化はただ単に発露のトリガーとなっただけに過ぎない。
 己の中に生まれていた感情を自覚し、スティーブンは微苦笑を浮かべた。その表情を見たレオナルドが不安げに眉根を寄せる。
 たったそれだけの反応でスティーブンは気分が高揚するのを感じた。だって仕方が無いだろう。胸中でそう言い訳をする。レオナルドのこの反応も、またそもそもスティーブンを避けるようになったのも、彼がスティーブンに対して抱く感情が原因に違いないのだから。そしてその感情はスティーブンにとって実に喜ばしいものだった。
 意識してのものではないのに、甘ったるい声が唇を割って零れ落ちる。
「確かに君の尾は美しかったけれど、それが君の全てじゃないはずだろう?」
 視線の先で、少年の下肢を覆っていた美しい群青とはまた異なる青が揺れる。
「むしろ俺はあの尾が君のものだったから美しいと思ったのかもしれない」
「スティーブンさん、お願いですからそんなこと言わないでください」
 唇を震わせてレオナルドが願った。
「……勘違い、しそうになる」
 期待と不安が入り混じるその双眸のなんと美しいことか。しかし涙を堪えるように再び義眼は薄い瞼の奥に隠され、顔を逸らされる。
 スティーブンは笑った。
「それが勘違いじゃないとしたら」
 少年の肩が小さく跳ねる。
 スティーブンはもうこの手から少年を逃がすつもりなどない。どんなに泳ぎが得意でも、伸ばした手をするりと躱そうとしても、芽生えた想いに気付いてしまえば逃がしてやれない。
「目を開けてくれ、レオナルド。こっちを見て」
 それでもまだ目を開けない少年に苦笑を一つ。スティーブンはその目を開かせるため「君のご先祖様のおとぎ話に例えるならば」と続けて言った。
「君は泡にはならないし、海にも還らない」
「っ!」
「やっとこっちを見たな」
 やわらかな頬を手のひらで撫で、涙で濡れた目尻を指先でくすぐる。
「悲しいおとぎ話の結末とは違うのさ。だって俺達は互いに同じ想いを抱いている。そうだよ、レオ。俺も同じ気持ちだ。だからバッドエンドにはならない。まぁそもそも君は人魚姫じゃないし、俺も命の恩人を誤認して他の女に現を抜かす馬鹿な王子じゃないけどね」
「……スティーブンさんは、」
「ん?」
 期待に目尻を赤く染め、レオナルドが震える唇を開く。それを優しく促せば、少年はへにゃりと眉尻を下げて笑った。
「スティーブンさんは王子様と言うよりポジション的に魔女っぽいっす。あ、男だから魔法使いか」
「なんだいそりゃ」
 レオナルドの例えにスティーブンは軽く吹き出した。くすくすと笑った後、両目を細めて少年を見つめる。
「でもそうだな……もし僕が人魚に声と引き換えで足を授ける魔法使いだったなら、そもそも人魚(きみ)を地上には行かせない。王子への恋心を忘れさせて、君と一緒にずっと海の底で暮らすんだ」
「熱烈ですね」
「強欲な魔法使いは嫌いかな?」
「いいえ」
 レオナルドははっきりと否定する。
「誰が自分を助けたのかも分からない馬鹿王子よりずっと素敵だ」
「それは良かった。あと、以前溺れた俺に血を与えて助けてくれたのは君だって、俺は分かっているからな。王子とは違って。……礼が遅くなって済まなかった。ありがとう」
「どういたしまして。でもよく血を使ったって分かりましたね」
「その前に受けた傷が完全に治っていたからな」
「ああ、それで」
 レオナルドが頷く。
 ただし、おとぎ話になぞらえてふざけるのもここまで。スティーブンは改めてレオナルドの顎を持ち上げて視線を合わせると、唇を寄せて囁いた。
「レオナルド、キスをしても?」
「溺れた時にしたじゃないですか。人工呼吸」
「人命救助はノーカンだろう」
「なるほど。じゃあこれが僕のファーストキスになるわけだ」
 嬉しい事実に頬が緩む。しかしそんな顔はあまり見られたくなくて、スティーブンはとびきり甘くかすれた声で囁いた。
「さぁ目を閉じて」
 青い光が薄い皮膚に隠される。
 今度は相手を拒むためではなく、より強く互いを感じ合うために。



 霧烟る都市での人魚物語はこれにてハッピーエンド。






マーメイド・ラヴァー







2015.10.28〜2015.11.22 Privatter,pixivにて初出