「もし俺が死んでミシェーラの目に光が戻るなら」
 おそらくそれは冗談半分、言い方を変えれば半分は本気の言葉だった。
 しかしまだ本当にそんな方法で上位存在との契約を破棄できるのかどうか全く判っていなかった時の話。
 レオナルド・ウォッチはへらりと軽い笑みを浮かべて告げる。
「今度こそ、自分じゃなくてアイツのことを選んでやりたいと思うんです。ミシェーラはすっごく怒るでしょうけどね」

* * *

 神々の義眼保有者が死亡することで上位存在との契約が破棄される。義眼の対価として盲目になった者には光が戻る。――確度の高い情報としてその話がライブラにもたらされた瞬間、スティーブン・A・スターフェイズはレオナルド・ウォッチを鋭く睨んで「まさかとは思うが、今すぐ自殺しようなんて考えていないよな」と言い放った。
「あ、当たり前じゃないっすか! 俺だって自分の命をそこまで軽んじていませんよ。少なくともしばらく悩みます」
「よし。じゃあ情報が本当に正しいかどうか判るまでは絶対に変なことするんじゃないぞ」
「うぃっす」
 レオナルドの言い分に執務室内にいた他のメンバー達は「確定情報だったら自殺する気なのか」と慌てたが、ひとまずそれを黙殺してスティーブンは一時しのぎの約束を取り付けた。
 一応、レオナルドが無意識に己の命を軽んじる行動をとらないよう、ザップ、ツェッド、チェインに目配せして警護を強化させる。若者三人への無言の指示に当人達は表面上だけでも落ち着きを取り戻し、レオナルドと仲の良い彼らが変化したおかげでK・Kも声を荒らげるのは控える姿勢を見せた。
「クラウス、この件は牙狩り本部にも報告するぞ。あっちの情報網も使ってこれが正しい情報かどうか更に精査する必要がある」
 牙狩り本部への連絡は状況を考えれば当然のこと。何せレオナルドもとい神々の義眼は『血界の眷属(ブラッドブリード)』の排除を目標に掲げる牙狩りにとって重要過ぎる存在だからだ。その存続に関わる話なのだから、ライブラだけで決めることはできない。
 この事実から懸念される事態をスティーブンは正しく理解しながら、あえてそれを口にすることはない。この先起こり得る未来を憂うスティーブンの脳裏には、かつて耳にしたレオナルドの言葉が残っていた。
 言い方は随分ソフトだったが、つまり少年はこう言ったのだ。
 自分が死んでミシェーラの目が元に戻るなら、死んでみせよう。と。


 牙狩り本部に今回の件を報告した後、スティーブンはレオナルドと向かい合ってソファに座っていた。いつもライブラのメンバーが顔を見せる執務室には現在この二人しかいない。
 クラウスは牙狩り本部に説明役として召還され、ギルベルトはその付き添い。チェインは人狼局に戻っており、ザップは愛人の所――レオナルドが外出の際は強制的に呼び戻されるため自由時間を取れる時に満喫しておくつもりのようだ――、ツェッドは専用の水槽、K・Kは別の任務で作戦行動中である。
 表面上、レオナルドの様子が変わることはなかった。いつも通りの糸目で「いやあ困っちゃいますねぇ」とヘラヘラ笑っている。
「そうだな。本当に困るよ、あんな話」
 一人掛けのソファに腰を落ち着けているスティーブンは長い脚を組んで溜息を吐いた。
「少年、以前君が話してくれたもしもの話≠覚えているか?」
「なんすかそれ……って言いたいところですけど、この状況じゃ一つだけ思い至っちまいますね」
「正直なところ、どうだ。死にたいと思う?」
「うわ〜。スティーブンさん直球すぎっしょ」
「回りくどく話しても意味ないだろう。ちょうど騒ぎ立てる奴らもいないし、ライブラの副官として、君の仲間として、本当のところどう思っているのか聞いておきたい」
「っすねー。クラウスさんとかK・Kさんとかがいたら大変ですもんね」
「あとザップも意外と人情家だぞ?」
「知ってます。ツェッドさんもチェインさんも優しいですし、たぶんギルベルトさんも慌ててくれるんじゃないかなぁってうぬぼれてますよ、俺」
「正しい認識だな」
 この少年はもうライブラという組織にしっかりと根を張ってしまっていた。その根が無理やり引き抜かれてしまえば、自分を含めメンバー全員が小さくない傷を負うだろう。
「で、どうだ? あの話が本当だったとして……」
「ほんっっっと情けねー話なんですけど」
 レオナルドはヘラヘラと笑っている。しかし徐々にその顔はうつむき、脚の上で組んだ手にこつりと額を押し当てた。くるりと丸まった猫背がかすかに震える。
「妹の視力を取り戻したい。でも死ぬのが怖い。情けなくて嫌になりますよ、ほんと。意気地がなくてアイツから光を奪ったのに、今度もまた僕は意気地なしのまま最善の選択を選び取れないんじゃないかって」
「仕方ないさ。それが人間ってやつだろう。俺も世界の均衡を保つためにこの身を削って働いているが、いざ自分の死と世界平和を天秤にかけられて、何の迷いもなく選び取れるかというと……少し自信がない」
「ええ〜。ぶっちゃけスティーブンさんはライブラとクラウスさんのために生きてる人で、いざとなったら簡単に死ねちゃうんだろうなぁと思ってました」
「おいおい、君はどんだけ俺を美化しているんだ? 俺だってただの人間だぞ。クラウスほど高潔な男でもない。無論、色々と自分に制限はつけるし、何かあった時に躊躇わないよう……ライブラにとって一番大事な時に一番使える刃物でいられるよう心得ているつもりではあるけどな。さすがに世界のために死ねと言われて『はい分かりました』なんて即答できるほどじゃないさ」
 レオナルドの中の『スティーブン・A・スターフェイズ像』に苦笑しながら、スティーブンはそう答える。ただしレオナルドの顔はまだ下を向いたままだ。先程の台詞もその状態で放たれたもので、軽さを装っていても声が震えていた。
「レオ」
 とても人間らしい少年の名をスティーブンは優しく呼ぶ。
「義眼の話はまだ確定したわけじゃない。だからとりあえず悩むのはここいらで止めておこうぜ。どうするのか悩むのも、悩んじまう自分を責めるのも、それからでいいだろう。それに――」
「……スティーブンさん?」
 言い淀んだスティーブンを訝り、レオナルドがのろのろと顔を上げた。その表情は呑気な笑みが剥がれ落ちていくらか憔悴の気配を滲ませている。
 ようやく現れた彼の本心を前に、スティーブンは「いや」とかぶりを振った。
「なんでもない」
(何でもないはずないんだが、な)
 スティーブンはソファから立ち上がり、レオナルドの頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。上司の突然の暴挙にレオナルドは慌てるが、「うわ、ちょっと!」と喚く姿はどこか安堵しているようもである。
「少なくとも結果が確定するまで平常通りでいろよ……って言っても無理なのは分かっているから、何かあったら俺達にその都度報告しろ。君は大事な仲間だ。全力でサポートしてやる」
「はい……。はい。ありがとうございます」
「ん」
 スティーブンの手に押さえられ強制的に下を向いている少年の声は涙で湿っている。それに気付かないフリをしてスティーブンは頷いた。
 だがレオナルドが見ていないその顔色はあまり優れない。
(レオナルド、いくら君が自分の命より妹を取る決意をしようとも、牙狩りがそれを許す可能性は……残念だが、とても低い。彼らが天秤にかけるのは『君の妹一人の視力』と『血界の眷属の諱名を読み取れる力』だ。ライブラだけの問題ならまだしも、こればかりはそうじゃない。牙狩りがどちらを選ぶのか。君に何をするのか。答えは明白なんだよ)
 牙狩り本部に報告を上げた時からそれは決まっていたことだ。
 近い将来起こり得る事態にスティーブンは両の目を細めた。

* * *

「僕が死んだらミシェーラの目が戻るかもしれないって話になった時、スティーブンさんだけが落ち着いていた理由、ようやく解った気がします。皆をまとめる立場にあるからってのも理由なんでしょうが、何よりこうなることを見越していたからなんですね」
 そう言ってレオナルドは項垂れた。
 照明の下に晒された白いうなじには円と直線と文字を複雑に組み合わせた魔法陣のような痣がくっきりと浮かび上がっている。それは牙狩り本部からやって来た魔術師に不意打ちとも言えるやり方でかけられた呪い≠セ。ただし命を奪うものではない。むしろレオナルドが死なないための処置だった。
 牙狩り本部に神々の義眼の返還方法について報告した後、しばらくしてその情報の確度が更に上がることとなった。まだ100%とは言い切れないが、可能性が高まったとしてレオナルドは再び己の命と妹の視力を天秤にかけることに。だが少年が結論を出す前に牙狩り本部からとある人員が派遣された。彼らの仕事は、血界の眷属の密封に多大なる貢献をする神々の義眼を守ること。つまり、レオナルドが自ら死を選ばないよう処置することだったのである。実際に本部へ赴いたクラウスからの報告で彼らはレオナルドの人柄をある程度正しく掴んでおり、己の命より妹の視力を優先する可能性が高いと危惧していた。
 レオナルドのうなじを穢す紫色の魔法陣は対象者が自死を選ぼうと思考を働かせた瞬間、その意識を奪って危険から遠ざかるよう行動させる。たとえばナイフを持っていればそれを手放し、交通量の多い車道に飛び込もうとすれば踵を返させる、というものだ。
 散々迷いながらも妹を選択することにしたレオナルドが行動に移そうとした時、彼に施された術式は圧倒的なまでの効力を発揮した。術式の効果を実地で理解したレオナルドはこうしてライブラの事務所に戻って来ると共に、いつかと同じくスティーブンと二人きりの状態で今の言葉を呻くように落としたのだった。
「僕に付けられた痣のこと……皆さんも知っているんですよね」
「まぁな」
「でも誰も何も言ってくれませんでした。クラウスさんですら『危ないものではない。すまないが我慢してくれ』としか言わなかったんですよ。言い方は悪いっすけど、あの分かりやすい人が」
「もちろん君の人権を無視するものだとは皆、解っていた。クラウスも辛いはずだ。……だけど仕方ないじゃないか」
「仕方ない?」
 レオナルドが顔を上げる。折角ミシェーラの瞳に光が戻るはずだったのに、その機会が失われて何故『仕方ない』なのか、と。妹のために死ぬという選択肢を奪われた少年は怒っていいのか泣いていいのか分からない顔をしていた。
「どこが仕方ないんですか。あの子の目に光を取り戻す唯一のチャンスだったかもしれないのに! なんで……ッ! なんで死なせてくれなかったんですか!」
「少年……」
 義眼を見開き、レオナルドはくしゃりと表情を歪める。
「ああ、すみません。そうじゃねーっすよね。契約破棄のやり方が判ったあの時に俺がさっさと死んでりゃ良かったんだ。でも俺はそれを選べなかった。俺は死にたくなかった。また妹より自分を取ろうとした」
「それは違う」
 スティーブンは反射的に否定していた。
「君に過失はない。君が死なないよう誘導したのはこの俺だ。……そう、仕方ないんだ。『牙狩り』は君の眼を易々と手放したくなかったし、ライブラは……俺達は、君を℃クいたくなかったんだから」
「っ!」
 少年はスティーブンの顔を見上げて息を呑んだ。息を呑んだのは台詞を聞いた直後ではなく、スティーブンの顔をきちんと見てから。そんなにおかしな顔をしているだろうかとスティーブンは軽く苦笑する。
「クラウスもK・Kも、ザップだって不満を口にした。チェインとツェッドは特に何も言わなかったが、代わりにこっちを睨んできたぜ。でも術を施さなければ、妹想いの君が自ら命を絶ってしまうかもしれないと考えた途端に全員口を噤んだ。……俺達はな、レオ、君の妹より君を取ったんだ」
「こんなことをして、僕が境遇に不満だからってストライキを起こしたらどうするんですか。血界の眷属が出ても諱名を読まないかもしれませんよ」
「君がそういう人間じゃないことは、もう本部も知っている。が、もしストライキを決行するならそれでも構わない。俺達は君がいてくれるだけでいいんだ」
「あんたらにとって俺の大事な妹は二の次っすか」
「そうだよ。だから、牙狩りを、ライブラを、俺達を恨め、レオナルド。ミシェーラ嬢が未だ盲いたままなのは最初に君が自分可愛さに死を躊躇ったからじゃない。契約破棄の方法が解った時からずっと俺が邪魔をしているからだ、って」
 自分可愛さに死を躊躇ったから、の部分でレオナルドの身体がびくりと跳ねた。その反応にスティーブンは「ああ、やっぱり」と小さく呟く。このお人好しの少年は周りの人間達の勝手な行動で妹よりも自分を選ばされたのに、それでもまだ『僕が選べなかったからだ』と自分を責めているのだ。
「……ライブラの皆が僕を大事に想っているって言った口で、皆を恨めって言うんですか? スティーブンさんって本当に酷い人ですね」
「酷い大人であることは自覚済みさ。今回に限ってはK・Kだって僕とひとまとめにされることを嫌がったりしないだろう」
「ははっ。そりゃ相当っすね」
 ゆっくりとレオナルドの肩が落ちた。スティーブンを見上げていた視線も下がり気味になる。
 そろそろこの話も終いだ。
「ミシェーラ嬢の視力に関しては別の解決方法がないか引き続き探るつもりだから」
「っす。よろしくお願いします」
 かくり、と力なく頷くレオナルド。もうかける言葉がなかったスティーブンはしばらく彼を一人にしておこうかと踵を返す。しかしレオナルドの声がその足を止めさせた。
「あの、スティーブンさん。最後に一つ訊いていいですか」
「……ああ」
 まだ何か話さなくてはならないことがあっただろうか。首を傾げるスティーブンをレオナルドが糸目のまま真っ直ぐに見据える。
「レオ?」
「貴方、どうして泣いているんですか」
「え?」
 予想もしていなかった問いかけに唖然とする。しかしそろそろと手を頬に持って行けば、指先が濡れた。自覚した直後、視界が滲んで新しい雫が頬を伝う。
「あ、れ……?」
「やっぱり無自覚っすか。僕のことを失いたくないって言った辺りからずっと泣いてましたよ」
 レオナルドの言う通り自覚のなかったスティーブンは呆気にとられたままほろほろと流れる涙を手で受け取る。どうしてこんなに泣けてくるのか本当に分からなかった。
「なんでだろうな。ああ……でも」
 一つ思い当たることがあって、スティーブンは口元に弧を描いた。

「ほっとしたんだ。君がいなくならないと実感して、ほっとした。嬉しかった。君の大切な妹はまだ目が見えないままなのに、たまらなく嬉しかったんだ」

「義眼じゃなくて?」
「そうだよ。俺はレオナルド・ウォッチがいなくならないと実感して泣いたんだ」
 酷い男だなぁとひとりごち、スティーブンは右手で目元を覆う。しかし手と顔の隙問から涙は滲み出ていた。
「スティーブン、さん」
 レオナルドが立ち上がる気配。少年はスティーブンの前に立ち、心配そうに様子を窺っている。
「いい大人が泣かないでくださいよ。アンタ、ここの副官なんでしょ。K・Kさん曰く腹黒で冷血漢なんでしょ。たかがガキ一人の自殺を防げたからって、そんなに泣かなくてもいいじゃないですか。なんか僕の方が悪者になった気分です」
「これはきみがわるい」
「ええー。なんすかそれ」
「他のヤツならこんな情けない姿にならずに済んだはずだ」
 スティーブンが自覚していたよりもレオナルドはライブラに深く根を張っていたらしい。否、ライブラに≠ナはないか。スティーブンの中にレオナルド・ウォッチという少年は深く根付いてしまっていた。引き剥がされる痛みを想像するだけで心臓が軋みを上げ、失わずに済むと安堵すれば涙が溢れてくる。
「もー。泣かないでくださいよぉ」
「抱き締めてくれたらたぶん泣き止む」
「アンタ本当に俺の知ってるスティーブンさんですか」
 引き気味の声を出しながら、しかしスティーブンよりも小さな手がぽんと側頭部に触れる。頭を撫でようとして身長が足りなかったらしい。スティーブンがレオナルドの肩に額を押し付ける格好で身を屈めれば、溜息と共に今度こそきちんと頭を撫でられた。もう片方の手は背中に回され、ゆっくりとさすっている。
「すまん。すまない、レオナルド。俺は君に傍にいて欲しい」
 顔を覆っていた手を外し、レオナルドの腰に回して抱き寄せた。抵抗する気配はない。むしろスティーブンの強い抱擁に身を任せ、苦笑を一つ。
「スティーブンさんは知ってたんですか。僕、甘えられるのにも弱いんすよ」
「それは知らなかったなぁ。いいことを聞いた。さすがお兄ちゃん」
「妹のために死ねなかったクズ兄ですけどね。……ああもう、すみません。だからそんな泣かないでくださいよ」
「ないてない」
「その台詞、鼻啜るのやめてから言ってもらえますか」
「……」
 黙り込むスティーブンにレオナルドがくすりと笑った。
「俺、自分がさっさと死ねなかったこと、ずっと悔やむと思います。少なくともミシェーラの両目が元に戻るまでは」
 その自責の念は誰に何を言われようと消えることは無いだろう、とレオナルドは独白する。
「レオ、だからそれは」
「でも」
 スティーブンの台詞を遮って優しい声が降ってきた。
「アンタがこうやって泣いてくれることを知っちまったから、死にたいって、死ななきゃいけないって、そう思うことはやめにします」
「……うん」
 頷き、スティーブンは痩身を抱き締める腕の力を更に強める。
 レオナルドの意思を曲げさせたこと、そして彼の大切な妹よりも彼の方を取ってしまったことへの後ろめたさは確かにあったが、それでもやっぱりスティーブンはレオナルドの言葉が嬉しくて仕方なかった。
「ありがとう」






アウグストゥスの紫斑







2015.11.08 pixivにて初出