【1】


 イタリアの港湾都市チヴィタヴェッキアからフェリーで約二十一時間。スペインのバルセロナに到着。TGV高速鉄道を利用すればフランスを経由して船の約半分の時間で目的地まで向かえるのだが、五年制の普通高校(リチェオ)を卒業したばかりで金銭的に余裕のないレオナルド・ウォッチは時間短縮よりも安価を取った。それに、船には船の良い所がある。ポルト・デ・バルセロナ(Port de Barcelona)で手を振って別れた老紳士は、孫のような齢のレオナルドを大層可愛がってくれて、一人の船旅を随分と楽しいものにしてくれた。
 イタリアを発ってからほぼ一日。太陽は真上よりほんの少し西側へ傾いた位置にあり、腕時計で確認した時刻は午後一時を過ぎていた。フェリーの中で朝食を取ったものの、それ以降は飲み物しか口にしていない。きゅるりと鳴いた腹を抱え、レオナルドは可憐な妹と似ても似つかないくるくる巻いた髪を荒っぽい動作で掻いた。
「まずは腹ごしらえかなー」
 近場のバルに入っても良かったのだが、折角観光に来たのだからちょっと変わったところへ行ってみたい。
 観光用ガイドマップによれば、この港からカテリーナ市場まで徒歩および路面電車を使って二十分弱の道のりらしい。カテリーナ市場は豊富な食材を取り扱っている場所なのだが、中にはバルも併設されており、市場で働く人間だけでなく観光客なども利用可能とのことだった。市場の空気に触れながらの昼食、というのも乙なものだ。
 スペインの昼食は午後二時から四時頃に摂るのが一般的である。そのためバルは正午前後から開店するものが多い。今から行けばちょうど良い頃合いとなるだろう。
 再び小さく鳴いた腹を宥めるようにひと撫でして、レオナルドは近代的なデザインをした白とエメラルドグリーンの車両が停まる路面電車の駅へ足を向けた。


 駅から徒歩五分。市場に着いたレオナルドは生ハムやオリーブ、卵、鮮魚など、それぞれの専門店に目を輝かせながらも目的のバルを見つけてカウンター席に腰かけた。「よう、ボウズ。旅行者かい?」と語りかけてくるマスターに「シィ(はい)」と答え、早速ガラスケースの中に並べられている料理の数々に唾を飲み込む。
 この店はメニューリストから選ぶのではなく、ガラスケースに並んだ本日のタパス(小皿料理)を見て注文する形式らしい。先にジンジャーエールを頼んでから、レオナルドはガラスケースに貼り付くようにして「おおお」と感嘆の声を上げた。
「どれも美味そう!」
「うちのバルはこの市場で仕入れた新鮮な食材を使った料理が自慢だからな! どれを食っても美味いぞ」
「わー。そう言われると逆に迷うっすね」
 トマトソースで煮込んだカタツムリ、黒ソーセージ、カタクチイワシのフライ、三種の生ハムを使ったサラダ、魚介類のマリネ。その他、赤や黄、茶、緑、様々な色がケースの中できらきらと輝いている。しかもそのどれもがお手頃価格だ。さすが市場で働く人達の胃袋を支えているバル。お財布にも優しい。
 どれにしようかなーと悩むレオナルド。するとその横に一人の男性が並んだ。
「この店の料理は全部美味しいんだけど、良かったら僕のオススメをいくつか紹介しようか?」
「!」
 びっくりするほど良い声が真横から聞こえてレオナルドは目を見開く。その顔を見て男性は「驚かせたか? すまない」と言って、傷の走った頬を掻いた。相手の顔を真正面に捉えてレオナルドは更に驚く。顔の左側に走る傷は随分と大きなものだったが、それが欠点どころか良いアクセントになるくらい見事な色男だったのだ。
「え、あ、あの」
「なんだセベロじゃないか! お嬢さん(セニョリータ)をひっかけるだけじゃ飽きたらず、少年(ムチャチョ)にまで手を出す気かい?」
 マスターはガハハと笑って、新たに現れた男をからかう。
 黒いシャツのボタンを上から三つも外し、首筋からちらりと見える左胸にかけて――もしくはもっと下まで――赤い炎のような刺青を走らせているこの色男は随分と遊び人でもあるようだ。しかし店主の態度から察するに、悪い人ではないのかもしれない。
 突然話しかけられ「えっ、え?」と戸惑うレオナルドに、セベロと呼ばれた男は苦笑を浮かべて「あー……この人の言うことは冗談半分だと思ってくれよ」と告げる。
「それよりほら、昼飯だろ? どうする? 僕もこれからなんだが、一緒にどうかな。旅行者の少年」
「あ、え、あっ、はい。お、お願いします」
 咄嵯に頷いてしまっていた。セベロはよしよしとレオナルドの頭を撫で、ジンジャーエールが置かれた席の隣に座る。更にその隣には自身が抱えていた紙袋――市場で買った物が詰まっているようだ――を置き、慣れた様子でいくつかの料理を注文し始めた。
「黒ソーセージは軽く焼いたバゲットに乗せて食うと格別だぞ」
 なるほどそれは美味しそうだ。想像すれば口の中に唾液が溢れる。
 隣のスツールに腰かけた男は最後に自分用のビールを注文して太陽の国に相応しいニカリと明るい笑顔を浮かべた。つられてこちらまで笑顔になる。
 しかしここで一つ訂正させてほしいとレオナルドは思う。確かに自分は童顔の部類に入るものの、もうムチャチョと呼ばれる齢ではない。ここはセニョールと呼んでほしかった、と。


 スペイン語とイタリア語は似ているため、きちんと学んでいなくても大体の意味は通じる。また、スペインの人々もイタリア人の扱いは心得たもので、間違った言い方をすれば「スペイン語じゃこう言うんだよ」とわざわざ教えてくれたりもする。
 というわけで、セベロとの会話は妙に弾んだ。否、言葉の壁の低さだけが理由ではないだろう。このセベロという男、とにかく会話が上手い。話題が豊富で頭の回転も速く、なおかつ自分ばかり話すのではなく相手の言葉を引き出す方法も心得ている。人間、誰しも他人の話を聞くより自分のことを話す方が好きな生き物だ。そして好きに話させてくれる相手には好感を抱いてしまうのも仕方のないことだった。
「へぇ。レオナルドには妹がいるのか。君に似て可愛らしい子?」
「僕に似ちゃったら可愛いとは言えないんじゃないっすかねぇ。でもミシェーラは本当に周りの人から可愛いって言われますし、兄の僕からすれば世界一可憐ですね。性格は見た目に似合わずさっぱりしてますけど」
「いやいや。君によく似ていたってきっと可愛らしいよ。ふわふわした柔らかな髪も、綺麗な肌も、いつもは糸目みたいだけど実はぱっちりしている大きな青い目も、どれも素敵じゃないか!」
「ちょ、え、はあ!? その言い方、なんか俺が可愛いみたいじゃないっすか!」
「え? そう言ってるつもりだけど?」
「マジかよ!」
 教えてもらった通り軽く焼いた厚切りバゲットに黒ソーセージを乗せたものをつまみながら――絶品すぎて追加注文した――二杯目のジンジャーエールを飲んでいたレオナルドがカッと目を見開く。
 隣に座るセベロはニコニコと上機嫌で笑いながら、こちらも二杯目のビールをあおる。
「あの、本当に女性以外も守備範囲ってやつなんですか……?」
「マスターのは冗談だって言っただろう? あーでもレオならいけるかも」
「いけちゃわないでください!」
「即答かぁ」
 ははは、と大口を開けて男は陽気に笑った。十中八九冗談だろうが、男さえ振り返ってしまいそうな色男に言われると思わずドキッとする。少しだけだが。本当に少しだけだが。
 ほんのり熱を帯びてしまった頬を誤魔化すようにレオナルドはバゲットを手に取ってかぶりつく。パテ状の黒ソーセージが口の端に付着し、それを舌でぺろりと拭った。一方、男がビールのつまみにつついているのはアンチョビとイワシの酢漬けがセットになった小皿。この二種のイワシの組み合わせを地元では『夫婦』と呼ぶらしい。これを頼んだことに意味があるのか、否か。
 ひとまず食べているものに関して深読みはしないこととする。バゲットを一切れ完食したレオナルドはジンジャーエールで口の中をすっきりさせた後、セベロの隣の席に置かれている買い物袋に視線を向けた。
「なんかいっぱい買ってるみたいですけど、セベロさん、それ全部食べるんですか?」
「ああ、これ? 違うよ。これは店の分」
「店?」
「そ。うちの店(バル)で使う食材。昼間の分は午前中に買ったんだが、どうにも夜の分が足りそうにないって厨房の奴らに言われてね。暇な僕が買い出しを任されたってわけさ」
「うちの店≠チて言い方……もしかしてセベロさん、バルのオーナーだったんですか!」
「おまけで、夜の演奏もやってるよ。僕、フラメンコギタリストなんだ」
 そう言ってセベロはギターを奏でるように中空で手を滑らせる。長い指が艶やかに動き、市場の喧騒の中にありもしないギターの音色が流れたような気がした。
「ふへー」
「良かったら聴きに来るかい? こうして出会ったのも何かの縁だし、夕食時に来てくれたら割引もしてやるぞ」
「いいんすか!」
「もちろん。あ、旅行者なら地図持ってる? 店は旧市街にあるから口頭じゃ説明しにくくてね……」
「ありますよ。はいっ!」
 割引の言葉につられてほいほいと旅行者用の地図を取り出したレオナルド。セベロも意気揚々と店の位置を書き込む。
「サグラダ・ファミリアはこれから行くんだったな。じゃあその前にサンタ・エウラリア大聖堂(バルセロナ大聖堂)も行っておくと良い。近くにピカソが描いた壁画を飾っている建築士会の建物がある。ピカソは若い頃この街にいたからね」
「へぇ……そうなんすか。わかりました! 行ってみます」
 市場から徒歩十分弱の場所にある大聖堂にも丸をして説明してくれるセベロにレオナルドはほうほうと頷く。
「本当は僕が案内してあげられればいいんだけどなぁ」
「そこまで御厄介にはなれませんよ。夜、お礼もかねてちゃんとお邪魔させていただきますね」
「うん、待ってるよ。とびきりの演奏を聞かせてあげる」
 セベロはそう言って微笑むと、手を伸ばして親指でレオナルドの口元を拭っていく。驚いて目を丸くする少年の姿に男は苦笑を零し、親指で拭った黒ソーセージの欠片を舌で舐めとった。
 やっていることは行儀の悪い行為なのに、唇から覗く赤い舌は妙に色っぽく、レオナルドは今度こそ隠しきれないくらいに頬が赤くなるのを感じた。セベロはくすりと口の端を持ち上げてポケットから財布を取り出し、レオナルドの分も合わせて払ってしまう。
「セベロさん!?」
「いいから。楽しい昼食のお礼だよ。それじゃあレオ、また後で」
 チャオ、と告げて席を立つ男。レオナルドの制止も聞かず、荷物を片腕に抱えて市場の人ごみの向こうへと消えてしまった。
 残されたレオナルドは熱の消えない頬を持て余しながら小さく唸る。一部始終を見ていたマスターはそんなレオナルドに配慮しつつも「冗談のつもりだったんだがなぁ……。あの色男め」と小声でひとりごちた。


【2】


 日中、セベロに教えてもらったルートで街を観光し、日が沈む頃にレオナルドは彼がオーナーを務めるバルへ足を向けた。
 紀元前205年から500年にわたって支配を受けたローマ帝国時代には、街の中心としてローマ人が多く居住していたゴシック地区(バリオ・ゴティコ)。ここには今もローマ時代の遺跡が残っている。セベロが地図に書き込んでくれた彼の店もまたゴシック様式の建築物で、迷路のように入り組んだ小道の先に探していたアンティーク調の看板を見つけたレオナルドは「ふへぇ」と感嘆の吐息を漏らした。
 五階建ての建物の一階と二階が店になっている。三階以上は住居だろうか。窓辺に置かれた鉢植えやカーテンを見上げて予想する。セベロ自身が住んでいるのかもしれないし、アパートメントとして別の誰かが借りているのかもしれない。
 思う存分建物を眺めた後、レオナルドは意を決して店に足を踏み入れた。扉を開けた途端、夜のバルに満ちる酒と料理の香り、そして人々の賑やかな話し声がぶわりと覆い被さってくる。気圧されるというよりは心が沸き立つようなその雰囲気に知らず知らず笑みを浮かべながら、スニーカーを履いた足を更に奥へ進ませた。
 目的の人物を探すため首を巡らせていると、
「やあセベロ! 今日はもう演奏を始めてくれるのかい?」
「ああ。今夜は特別な子をお迎えする予定だからね。いつもより少し早めにステージへあがるよ」
 客の一人とそんな会話を交わしながらギターケースを持って二階へ続く階段に足をかけたセベロを見つける。レオナルドが決して大きくない声で「あ」と発すると、たったそれだけで気付いてくれたセベロが紅茶色の視線をこちらに向けて嬉しそうに破顔した。
「レオ! 来てくれたんだな!」
「こんばんは、セベロさん」
「そこに座ってて。料理は昼間と同じく僕のおすすめを出すよう言ってあるから! 今夜はとびきりの演奏を披露するよ。どうかゆっくりしていってくれ」
 他の客から向けられる好奇の視線などものともせず、セベロは手まで振ってから二階へ上がった。一階と二階の間は大きく吹き抜けになっており、おかげで二階部分の床面積はあまりない。奏者達が幾人か詰めてしまうだけでいっぱいになる。
 この地区は立地的に一戸当たりの敷地が広く取れないため、代わりに天井を高くして店の狭さを感じさせない造りにしていた。二階の隅の方――客から見えない部分――には予備の椅子やテーブルを保管している。……と言うのは、本日来店したばかりのレオナルドは知らないことである。
 ともあれ、二階部分もといステージに上がったセベロは他の楽器を持つ仲間達と視線を交わした後、おもむろに弦を弾き始めた。
 流れ出すのは軽快なメロディー。今にも席を立ってステップを踏みたくなるような音楽に皆が笑みを浮かべ、時には身体を揺らしたり手拍子をしたり。きっとセベロ自身も楽しんで弾いているのだろうなぁと予想できて、レオナルドはここから彼の姿をきちんと見ることができないという事実を少し勿体無く思った。
 楽しい音楽に料理は次々と消費され、酒の注文も相次ぐ。皆、陽気に笑って一曲終わるごとに口笛や指笛を吹いて賞賛し、ラテンの陽気な夜は更けていった。


「レオ」
 楽しい時間が終わってレオナルドがそろそろ店を出ようかと思っていた頃、ギターをケースに戻したセベロが笑みを浮かべて近付いて来た。レオナルドが座っていた席の正面に腰掛け、セベロはいっそう艶やかに微笑む。
 何曲も続けて演奏していたため体温が上がった彼からはふわりとフレグランスが香る。大胆に開いた襟といい、女性を虜にする香りといい、この男は本当に文字通り色男であると改めて確信した。
「今日は来てくれてありがとう。楽しんでくれたかな」
「はい。すごく素敵な夜でした」
「それは良かった。でも……」
 ふふっ、と吐息を漏らしてセベロがテーブルの上に軽く身を乗り出す。腕を伸ばしてレオナルドの顎をそっと指で支えた。
「そういう台詞は店じゃなくてベッドの上で聞きたいものだ」
「……男の俺に言ってどうするんですか」
「おや。つれないなぁ」
 ぱっと手を離したセベロはおどけたようにそう言った。
「でも君を好ましく思っているのは本当さ。できれば友人になってほしい」
「貴方みたいな色男が僕と友人に?」
 両目をぱちぱちと瞬かせてレオナルドは驚きを露わにする。セベロにとってレオナルドなど市場で偶然出会っただけの旅行者であり、一般的な男性が親しくなりたがるような美女ではない。一応人当たりは良い方だが、年齢の割に背も小さく童顔な己のどこに魅力があるのだろうか。心底理解できない。
「いや?」
「いや、ではないですけど」
 むしろ嬉しいとすら思える。しかし納得がいかなかった。
 糸目のまま眉間に皺を寄せるレオナルドを見てセベロが苦笑する。
「レオは僕を過大評価してくれているのか、それとも自分のことを過小評価しているのか。どちらにしろ、釣り合う・釣り合わないなんて考えるのはナンセンスだぜ。僕は君を見かけて話しかけたいと思ったから話しかけたし、実際に話してみて楽しかったからこうして店に招待した。で、もっと仲良くなりたいと思ったから正直にそれを言ったまでさ」
 レオは? 僕と友人になりたくない? と、ほんのり眉尻を下げて気弱に尋ねる男のなんと卑怯なことか。レオナルドはグサグサと良心に突き刺さるものを感じながら「〜〜ッ!」と唇を噛んだ。早々に自身の勝利を確信したセベロは一瞬にして弱々しい表情から嬉しそうな笑みへと変じ、「レオ」と甘ったるくレオナルドを呼ぶ。
「MY YOUNG FRIENDになってくれよ」
「わ、わかりました。から! もう、そうやって男の俺に色気振りまくのやめてくださいよー!」
「ははっ! Lo hice (やったね)!」
 顔の左にある傷をくしゃりと歪めてセベロは年若い少年のようにガッツポーズをする。それからいそいそと自身の携帯を取り出し、「じゃあ連絡先を交換しよう」と提案してきた。
「レオが良ければ明日も案内するよ。連絡先、教えてくれるよな?」
「セベロさんの中では決定事項なんすねー。はいはい、喜んで交換させてもらいます。あと案内ちょー嬉しいっす。助かります」
 レオナルドも携帯を取り出し、口頭で番号を告げた。セベロはそれを己の携帯に打ち込み、次いで自身の番号を告げてレオナルドが端末に打ち込む。登録名はセベロ。セベロの携帯にはレオナルドもしくはレオと入力されているのだろう。
「朝は店の買い出しがあるから午後に連絡するよ。明日はバンド演奏の日じゃないから、夕飯も良ければ一緒に」
「はい。楽しみにしていますね」

* * *

『やあ、レオナルド』
「おはようございます、セベロさん」
 滞在先のホテルで軽く朝食を摂ってしばらくした頃、待ち人から電話がかかってきた。
『朝食はもう済んだかい?』
「はい。もしかしてセベロさんもう買い物終わったんですか?」
『今日は君とのデートだから即行で終わらせてきたよ』
「デートって。セベロさーん、電話越しにも色気振りまくのやめてください。そういうのは女性に」
『レオは本当につれないな』
 電話の向こうで肩を落としたのか、はあ、とわざとらしい溜息の音が聞こえる。レオナルドはそれに苦笑を返して「それで、どこに行けばいいですか?」と待ち合わせの場所を確認した。
『ああ、それなら窓の外を見てごらん』
「へ?」
 レオナルドが泊まっているホテルは然して大きくないリーズナブルな宿である。大通りには面しておらず、車が一台ギリギリ通れるような幅の道を跨いで正面に個人商店が並んでいる。建物自体が大きくないおかげか、客室は全て陽当たりの良い道路側に窓を設けていた。
 セベロの言葉に慌てて窓を開ければ、「『レオー!』」と、下方と携帯の両方から美声が聞こえてきた。
「ちょ、え! セベロさん!? なんでここに!?」
「一秒でも早くレオの顔が見たくてさ!」
「ええー!」
 確かに昨夜、帰り際に泊まっているホテルの名は告げていたけれども。
 まさか道行く女性達が現在進行形で振り返っているような色男が満面の笑みを浮かべて己を迎えに来るなど誰が予想していただろう。レオナルドは慌てふためきつつ、ひとまず「すぐ行きますんでちょっと待っててください!」と叫んだ。
「ゆっくりでいいよー。しっかりお洒落しておいで」
「洒落た服なんて持ってないです!」


「お、お待たせしました……」
 なるべく急いで準備を整えホテルから出てきたレオナルドをセベロは軽く両手を広げて「やあ!」と出迎える。
「デート相手に待たされるのは男の甲斐性さ」
「僕も男ですからねーそこんとこ忘れないでくださいねー」
 何がそんなに楽しいのかと問いたくなるくらいニコニコしているセベロにレオナルドは半眼で呻いた。最早これがデートであると確定していることにツッコむ気力もない。
 これだからラテン系の男は……と、自身が優男の代表たるイタリア出身であるにもかかわらずレオナルドはこめかみを押さえる。そんなこちらの考えを知ってか知らずか、近付いてきたセベロは「でも急がせちまって悪かったね」と軽い謝罪を落とした。
「あ、いえ。でも迎えに来てもらえて嬉しかったっす。待ち合わせ場所を指定されてそこまで辿り着けなかったら恰好悪かったし」
「ありがとう。そう言ってもらえると安心するよ」
 レオナルドの弁にセベロははたと目を見開き、それからふわりと淡く微笑んだ。異性を(時には同性をも)ドキリとさせるそれではなく、心が温かくなるような表情だ。それを真正面から受け止めたレオナルドは照れくさくなって視線を逸らした。
「あれ? レオ、本当に急いでくれたんだな……」
 そう言ってセベロがレオナルドの頭に手を伸ばす。
「ほら、髪に糸くずが」
「え! わ、うわ。マジっすか!」
 セベロの手が言葉の通り糸くずを摘まんで取り去った後、そっとレオナルドの頭を撫でた。長い指は浅く、深く、髪の中に潜り込み、絶妙な力加減で地肌を擽る。日中に似つかわしくない気配を微かに漂わせる接触にレオナルドの頬がうっすらと赤くなった。しかもオマケとばかりに、
「ちょ、あ、セベロ、さん……! っ!」
「かわいいなぁ」
 少し硬い男の指先がレオナルドの耳を撫でて、つまんで、意味ありげに縁を辿る。心臓が爆発しそうになって、レオナルドは「もー! からかわないでください!」とセベロの手を半ば無理やり押し退けた。
「あと男に『かわいい』は禁止です!」
「はいはい。ごめんよ、レオ」
 反省など全くしていない表情でセベロは謝罪し、「さあ」と気を取り直して言った。
「それじゃあ、レオナルド限定とっておきのバルセロナ観光を始めようか」


 セベロの案内によるバルセロナ観光は本当に楽しかった。どのガイドブックにも載っている場所にも当然足を運んだが、旧市街にあるナッツ専門店といった普通は行かないような所にまで連れて行ってもらい、思わぬ素敵な物との出会いもたくさん。
 昼食はバルのオーナーであるセベロも太鼓判を押す店に案内された。注文したのはカピポタと魚介のリゾット、飲み物はカバ(CAVA)。カピポタはカタルーニャを代表する郷土料理である。牛の頭と足のゼラチンを使った煮込み料理で、ここバルセロナを含むカタルーニャ地方のおふくろの味の一つ。見た目はビーフシチューに似ている。カバは地元特産の発砲ワインだ。透き通った淡い山吹色がグラスに注がれると、白い泡がパチパチと弾ける。レオナルドは「昼からアルコールですか?」と少し驚いたが、思い返してみれば、初めて出会った時にもセベロはアルコールを頼んでいた。最後はまだ腹に余裕があったのでデザートを注文する代わりに牛テールと黒キノコのコロッケを頼み、クリーミーで濃厚な味わいに舌鼓を打つ。
「僕、スペインと言ったらパエリアだと思ってたんですけど、あんまりそれ推しの店ってないんですね」
「まぁそうだなぁ。パエリアって意外と面倒だし、他の国の人が考えるほど頻繁には作らないかな」
 店を出て次の目的地に向かいながらセベロはそう答えた。昼食を摂った店から次の目的地までは少し距離があるので、二人は路面電車を使っている。旧市街の様子とは対照的な流線型の近代的なフォルムは、これはこれで心躍るものだ。
 車内でも当然のようにセベロは乗客達の視線を集め、けれど慣れたものなのか全く気にした様子がない。ただ鈍感なだけではないと分かるのは、乗客達の好奇の視線からさり気なくレオナルドを庇う位置に立ってくれていたためだ。これがイケメンというものか、とレオナルドは感心する。ただしこの気遣いは時折忘れ去られ、他者の目がある前でセベロは平然とレオナルドにアピールするのだが。
 ともあれセベロのおかげで案外居心地の良かった電車を降り、そこからまた少し歩く。時刻は午後三時を回ったところ。セベロがレオナルドを連れてきたのは、彼の店と少し雰囲気の似た建物だった。表の看板には「フラメンコ・バルセロナ」と書かれている。
「ここは?」
「個人が運営するフラメンコの学校さ」
「学校!?」
「ああ。僕はここでフラメンコギタリストとして働いていてね。今日は休みなんだが、ちょっとお願いして開けてもらったんだ」
 そう言いながらセベロはレオナルドの手を取って奥へと案内した。
 オーナーのいるカウンターを通り過ぎ、暖色系のライトでまとめられた部屋の更に奥へ。黒いカーテンで仕切られたその先にダンスフロアが広がっていた。ここで主に女性達がダンスのレッスンをするのだとセベロが説明する。
 壁に沿って取り付けられた手すり、正面には大きな鏡。そして部屋の隅には椅子が数脚。セベロはその椅子の一つに腰かけ、オーナーがタイミングよく持ってきてくれたギターケースからギターを取り出した。
「店で飲み食いしながら聴いてもらうのも楽しいんだが、やっぱりレオにはちゃんと僕の演奏を聴いてもらおうと思ってな」
 セベロはレオナルドに一瞥をくれた後、おもむろにギターを弾き始めた。魅惑的な音が溢れ出す。店で聴いたのとはまた違う、軽快だがどこか艶めいた音色は容易くレオナルドを魅了した。ごくりと唾を飲み込めば異様に大きく聞こえて、何とも言えない気分になる。けれどもすぐに心はギターの音色とそれを楽しげに奏でるセベロの姿へと引っ張られ、レオナルドはその場に立ち尽くしたまましばらく美しい音楽に聞き入っていた。
 しかし。
「オラ(こんにちは)」
 第三者の声が教室に入り込む。セベロがほんの一瞬だけ顔をしかめて――けれどもレオナルドも第三者もそれには気付かなかった――演奏を止め、カーテンの向こうから入ってきた女性に笑みを向けた。
「やあ、カティア」
 セベロはそう言って椅子から立ち上がり、現れた黒いレッスン用ドレスをまとった黒髪の女性の頬にキスを送る。
「レオ、こちらはフラメンコの先生、カティアだ。カティア、彼はレオナルド。僕の友人だ」
「はじめまして、レオナルド。カティア・カマチョよ」
「は、はじめまして。レオナルド・ウォッチと言います」
 緊張気味に答えるレオナルドを見てカティアはふふと笑みを零した。
「あら、セベロのお友達にしては随分可愛らしい子ね」
「そうだろう? 昨日運命的な出会いをして思わず声をかけたんだ」
 セベロがレオナルドを一瞥して答える。
「それにしても、今日はレッスンだったっけ? てっきり休みだとばかり」
「臨時でね。でもまだ少し時間があるの」
 カティアはニコリと艶やかに口元へと弧を刻み、「折角だから」とレオナルドとセベロを交互に見やった。
「セベロ、貴方の演奏と私の踊りをこの子に披露しない? きっと楽しんでもらえるわ」
 レオも見て行ってくれるでしょう? と彼女は蠱惑的な肢体を寄せてきた。レオナルドは慌てて一歩引きながら「え、あ、え?」と目を白黒させる。助けを求めるようにセベロを見れば、彼も積極的なカティアの態度にたじたじなのか、困ったように頬を掻いている。
「えっと、じゃあ、まぁ……カティアさんのご負担にならない程度に」
「そうこなくっちゃ!」
 パチンと手を叩いてカティアがホールの中央に立つ。そうしてセベロに視線を向け、「アレグリアを」と奏者に曲を指定した。
「了解」
 セベロは肩を竦めて了承する。そして椅子に座り直し、曲を奏で始めた。


 カティアの踊りとセベロの曲はまさに息ぴったりと言うべきものだった。
 フラメンコに大切なのはリズム。一つのリズムが十二拍子と決まっているのだが、それ以外は独自の感覚で分かり合う。ゆえにダンスもギターもいつも同じではない。即興だが決まったリズムの中で観衆を魅了する芸術を生み出すのだ。
 レオナルドもまた彼らの生み出したものに魅了された。女性の手の動き、顔の向き、腰の捻り具合、背の反り、そしてタップ。そこにギターの音色が絡まり、熱を上げていく。とても素晴らしかった。けれど――
(どうしてかな。心臓が、痛い)
 ダンスが終わり、「素敵でした」と称賛の声を上げる傍ら、レオナルドは心臓がチクチクと痛みを訴えてくるのを感じていた。その痛みを表に出さないよう必死に押し殺し、「見せてくださってありがとうございます」と両名に感謝を告げた。


「レオ、それじゃあそろそろ夕食に――」
「すみません、セベロさん」
 フラメンコ学校を出たレオナルドはセベロが言い切る前に謝罪する。
「今日は、この辺で。僕ちょっと疲れちゃったみたいで……本当にすみません」
 視線は合わない。否、合わせられない。
 ただひたすら頑なに今日の観光は終いだと告げる。
 折角案内してくれているセベロに対して酷い無礼だというのは解っていた。しかしさっきから胸が痛くて仕方ない。もうこれ以上セベロの前で表情を取り繕うのは難しかった。
 変な顔を見せて相手を不快にさせるより、もう今日は別れてしまった方が良いと判断したのである。
「レオ……。すまない、何か気に障ることをしたかな」
「いいえ、違います。セベロさんは何も悪くありません。俺がちょっと、何て言うか……」
 何と言うべきのだろう。
 それ以上の言葉を紡げず、レオナルドはもう一度だけ「ごめんなさい」と謝って駆け出した。
「レオ!?」
 驚いたセベロが声を上げる。しかし追いかけてくる足音は聞こえなかった。


 ホテルに辿り着いたレオナルドはベッドのシーツを頭からかぶってうずくまっていた。だがしばらくして白い山から頭だけを出す。まるで臆病な亀のように。
「そっか。俺、セベロさんのこと好きになってたのか」
 ぽつりと落ちる、真実。
 レオナルドは己を襲う胸の痛みに苦笑して、両目をぎゅっと瞑った。
「馬鹿だなぁ」
 旅先の色男にからかわれてその気になるなんて。
 望みなど欠片もないのに。


【3】


 翌日の昼過ぎ。のそりとベッドから身を起こしたレオナルドは、一件の着信も入っていない己の携帯を眺めて苦く笑う。やはりいきなり謝罪して別れるような子供など呆れられて当然なのだろう。
 溜息を一つ吐くと、次いで息を吸い込んだ時にセベロがつけていたフレグランスが微かに香った。昨夜はシャワーを浴びる精神的余裕もなくベッドに倒れ込んだため、移り香がそのまま残っていたのだろう。
 甘い香りにきゅんと胸が疼き、それからすぐに死にたくなった。レオナルドは頭を抱えて唸り声を上げる。しかしそれも長くは続かず、緩慢な動きでベッドから降りた。
 セベロが昨日のようにホテルまで会いに来るとは思っていない。しかしどうしても彼が知っている場所にいるのははばかられて、レオナルドは食事も取らずにホテルを飛び出した。
 何も考えずに歩いていると、初日、セベロに言われて訪ねたバルセロナ大聖堂の前まで来てしまい、レオナルドは空腹を抱えてがっくりと項垂れる。なんて女々しいのだろうか。
 かぶりを振り、どこか別の場所へ向かおうと決心する。腹が空いているので開いているバルを探そう。ただし市場にだけは足を向けない。あそこは買い出しをするセベロと鉢合わせてしまう可能性がある。
 さてどこへ行こうかと歩き出したレオナルドだったが――
「ねぇクラっち。昨日アイツに電話で確認した場所ってこの辺だったわよね」
「うむ。そろそろ指定の時間だ」
 金髪を靡かせた長身の女性と強面の大柄な男性のペアとすれ違う。目立つ容姿もそうだが、男性が持っているアタッシュケースに見覚えがあってレオナルドは思わず振り返った。
(あ。あのおじいさんが持っていたのと同じデザインのやつ)
 イタリアからスペインに渡る際、フェリーで一緒になった老紳士の持ち物と同じだったのである。こちらの赤毛の男性も老紳士のような良い身なりをしていたので、ひょっとしたら裕福層で流行っているブランドなのかもしれない。それにしては少し無骨で野暮ったいイメージを受けるのだが……。むしろそれが良いのだろうか。
「ギルベルトさんは二日前に現地入りしたんだっけ」
「ああ。今朝合流してこれを受け取って来た」
「はぁ〜これが例の……」
 金髪の女性が男性の持つアタッシュケースを見やる。
「これで準備完了かしら」
「あとはスティーブンが万事問題なく整えてくれたはずだ」
「そうね。でもそういえばアイツ、なんか昨日ちょっと焦ってるみたいだったけど……」
「電話をするタイミングが悪かったのだろうか」
「仕事命なアイツがそうそうこっちより優先するようなものなんて無いと思うけどね。なんせ半年も前からここで潜入捜査してる男なんだし」
「しかしだからこそ、この地で親交を深めた誰かと会っていた可能性も」
「だとしたらその誰かさんは余程アイツにとって重要な人間だったのかもねぇ。ま、有り得ないか」
 アイツが仕事より誰かを優先するなんて考えられないわー、と金髪の女性はカラカラ笑った。この地で培った人間関係も全ては仕事のために違いない。
 大柄な男性はその体躯に見合わずまだ少し悩んでいるようだったが、女性が「気にし過ぎよクラっち!」と背中を叩くことでそれを解消させる。
「それに今はアタシ達の方だって仕事優先! ほらシャキっとして!」
「う、うむ。確かにそうだ」
 左拳をぎゅっと握って赤毛の紳士は大きく頷いた。


「あら? レオナルドじゃない」
「えっ、あ、カティア、さん……?」
「覚えていてくれたのね! 嬉しいわ」
 バルセロナ大聖堂から歩くこと数分。なんとセベロへの想いを自覚させるに至った張本人と遭遇し、レオナルドは目を瞠る。
 昨夜の黒い練習用ドレスとは異なり、今日の彼女は白いトップスと細身の黒いパンツ姿で日傘をさしていた。
「ふふっ。太陽の国の女が日傘を使うのはおかしい? でも太陽の国だからこそ、女は肌を大事にしなくっちゃね」
 そう言ってウインクするカティア。妖艶さの中に見える愛らしさにレオナルドは「敵わないなぁ」と、漠然と思った。
「さすが綺麗な女性は気遣いも違いますね。今日はどこかへお出かけですか?」
「ええ。実はこれからデートなの」
 瞬間的にレオナルドは内心で「失敗した」とひとりごちる。しかしカティアの言葉は止まらない。
「セベロに誘われているのよ」
 嬉しそうな彼女の笑顔を真正面から受け止めきれず、レオナルドは僅かに視線を逸らして「それは良かったですね」と答える。だがカティアはレオナルドの様子に気付くことなく、「ようやくなのよ。ずっとモーションかけてたんだから」と喜びを露わにしていた。
「ある程度までは親しくしてくれるのに全然デートに誘ってくれなくて。でも昨夜、急にね。一緒に出掛けようって誘われたのよ。貴方に見せるために踊ったのが良かったのかしら」
「そ、それは……なんか意図せず恋のキューピッドになれてたんすかね、僕」
「そうね。本当にありがとう、レオ」
「いえいえ。とんでもねーです」
 視線を下げ、頭を掻いて、喜ぶ彼女を視界から排除する。
 昨日の今日でこれは酷過ぎるだろう。知らなくてもいいことを知らせるなんて、神様はとんだサディストだと思った。
 なんとか声だけは取り繕って、レオナルドは「それじゃあ」と別れを告げる。
「カティアさんを引き留めて待ち合わせに遅らせちゃうのもあれなんで、僕はこれで。楽しんできてくださいね」
「ええ。ありがとう、私のキューピッドさん」
 そして彼女と別れる。軽やかな足音がやけに耳についた。
 うつむいたまま歩いていると、地面にぽとりと水滴が落ちる。
「ははっ……おかしいな」
 ぽとり、ぽとり、と乾いた地面に吸い込まれる、それ。
「雨なんか降ってねぇのに」

* * *

「本当……やっと。やっとよ。待ちくたびれた」
 白いトップスに黒いパンツ姿の女は日傘の陰でニタリと嗤う。
「あの優男をようやく喰ってやれる」
 赤く熟れた唇から覗くのは鋭い二本の牙。
「男なんて、自分が手玉に取るつもりだった女に襲われて、恐怖して、生まれたことを後悔しながら血の一滴すら残さず喰われてしまえばいいんだわ」

* * *

「ターゲット確認。スカーフェイスのヤツは……ああ、やっと来たわ」
 大聖堂を訪れた観光客のフリをして金髪の女性がサングラスの奥からとある人物達を観察する。ここを待ち合わせに使ったとのだ分かる黒髪の男女が頬にキスをし合うのを目にした彼女は、あからさまに顔を歪めて舌打ちをした。
「やぁね、あの胡散臭い顔! 腹黒さが滲み出てる。それを見て男が自分に惚れているなんて思う女も女だけど」
 男女は互いの腰を抱くようにして向かい合い、甘い微笑を浮かべたまま言葉を交わしている。おそらく男が遅れたことを謝罪したり、女の容姿を褒めたり、そういう聞いている方の背中がかゆくなるような台詞を連発しているのだろう。そうに違いないとますます表情を歪めながら、金髪の女性は己の斜め後ろを振り返った。
「まぁいいわ。クラっち、アタシ達も行動開始しましょう。予定通りアタシは先にシウタデリャ公園で待機しているから、クラっちは二人の尾行をよろしく」
「承知した」
 小さく頷き合い、二人は行動を開始する。金髪の女性は肩に掛けたバッグを抱え直して、バルセロナ大聖堂の北東方向にある大きな公園へ。彼女にクラっちと呼ばれた赤毛の大柄な男性は適度な距離を置いて、移動を始めた黒髪の男女の後を追う。
 予定では、黒髪の男女――金髪の女性達の仲間である男と、そのターゲットである女――はバルで昼食を摂った後、シウタデリャ公園に向かうことになっている。公園はあらかじめ魔術的手法で人払いがされており、関係者以外は侵入できない。
 そこで『化物退治』が行われる手筈となっていた。

* * *

 バルセロナ市民の憩いの場、シウタデリャ公園。広い土地の至る所に水と緑が溢れ、若者や家族連れなどが芝生に寝そべったり、池でボートを漕いだりと各々のんびり楽しんでいる。園内にある大きな噴水(水場)の建築にはかの有名な建築家ガウディが携わっており、周辺にあるチョコレート博物館やボルン市場と併せて観光客にも人気のスポットの一つである。  敷地内にバルセロナ動物園やカタロニア議事堂を擁しているその公園へ足を踏み入れたレオナルドは、しかししばらくして違和感を覚え、はたと足を止めた。
 バルに入る代わりに露店で購入したドーナツの袋を握り締めたまま周囲を見回す。ガイドブックに載っていた写真には公園で人々がゆったりと時間を過ごしている光景が写っていた。しかし園内に入ったレオナルドの目に映るのは、青空の下でシンと静まった世界。青々とした芝生と木々だけがそよ風に揺られてさわさわと小さな音を奏でていた。
「あ、れ……?」
 人っ子一人いない。これはおかしい。
 気付いた瞬間、背筋に悪寒が走ってレオナルドは身を震わせた。慌てて踵を返し、出入り口へと向かう。しかし、
「っ、なんで出られないんだ!?」
 透明な壁がそびえ立っているかの如く公園と道路の境界を越えることができない。行く手を阻むものに拳を打ち付けても固い感触が返ってくるだけで突破できそうになかった。
「入る時は何もなかったのに……」
 持っていたドーナツの袋を地面に落としても気付かぬまま茫然と呟く。
 しかもレオナルドからは道路を行き交う人々や車がはっきりと見えているのに、あちらがこちらの異常に気付いた様子はない。助けを求めることもできず、恐怖でヒュウと喉が引きつった。
 だがそれで諦めるわけにはいかない。出られる場所を探すため、レオナルドは竦みそうになる足を叱咤して走り出す。


 レオナルドが出口を探して園内を走り回っている最中、一組のカップルがシウタデリャ公園に足を踏み入れた。
 魔術的要素を付与した特殊な香水をつけた者のみ人払いの効果を受けず入ることができ、また一度入れば術者が術を解除するまで外に出られなくなる結界≠張った敷地内に入ってから、一、二、三歩。男が足を止めた。
「カティア」
「どうしたの、セベロ」
 セベロと呼ばれた顔の左に傷がある黒髪の男は、微笑みを浮かべたまま女の手を放して距離を取る。異変を察し、女の双眸が鋭く尖った。
 一息では詰められない距離をあけ、男は自分達以外誰もいない公園で肩を竦める。両手はズボンのポケットへ。
 そして陽気な声を保ったまま、
「君は『牙狩り』って知っているかい?」
 言うや否や、男の足元から氷の刃が迸った。

* * *

 背後でドンッ!と爆発したような音が聞こえて、レオナルドは肩を竦めた。
「な、にが」
 尋ねても答えは得られない。……否。木々の向こう、公園の反対側と思しき辺りで土煙が上がっている。銃声や小さな爆発音らしき音と共に、その土煙の中に小さな雷のような光や氷のきらめきが見えたような気がした。
「アクション映画の撮影……?」
 だから人払いがされている? そんなまさか。と、レオナルドは乾いた笑いを零す。撮影なら公園の外側にそうと明示されているはずだし、役者以外にも撮影スタッフの姿を見かけるはずだ。それに普通の映画会社がマジックミラー染みた不可視の壁など作れるわけがない。
 ほぼ公園を半周していたレオナルドはごくりと唾を飲み込んで何かが起こっていると思しき場所へ足を向けた。木々の合間を抜け、カタロニア議事堂の横を通り、右手側にガウディの水場が見えてくる。池に設置された噴水は騒ぎがあろうと人がいなかろうと決まった時刻に水を吹き出していた。不穏な騒ぎは公園の中央側へと近付いてきており、先程よりも煙や光のようなものが良く見えるようになっている。
 そして、

「スティーブン!」
「アヴィオンデルセロアブソルート(絶対零度の地平)!」

 よく通る低めの男性の声の後、レオナルドの知っている声が何かを叫んだ。スペイン語のそれの意味をレオナルドは理解している。しかし何を表しているのかが分からない。
 その叫び声の直後、レオナルドの横に広がっていた池が浮かんでいるボートも含め丸ごと一気に凍りついた。
「!?」
 じわりと染み入る冷気はこれが幻ではないことを示している。思わず足を止めたレオナルドの視界の端――斜め前方に人影が映り込み、息を呑んでそちらを見た。
「……セベロ、さん?」
 囁くように名を呼んだ相手が赤毛の大柄な男――確か今日すれ違った男性だ――と共に池の中央付近を睨み付けている。つられてそちらに視線をやれば、女性らしきシルエットが凍りついた池の上で腰から下を同じ氷に覆われ捕えられていた。
 よく見れば、氷に捕らわれているのはカティアだ。服装も大聖堂の近くで出会った際に着ていた物である。しかし美しかったはずの彼女は尖った牙を剥き出しにしてセベロともう一人にスラングをぶつけている。同時にミチミチと背を突き破って出てきた第三の腕が伸び、セベロに向かって爪を立てようとする。しかし当人に届く前に雷をまとった銃弾がその腕を弾き飛ばした。
 その光景にレオナルドは察する。土煙を上げるような『戦い』を行っていたのは、セベロ達とカティアだ。
 でも。
「本当に……一体何なんだ、これ」
 趣味の悪いB級映画でも見ているかのような気分だった。


【4】


 その女は化物だった。しかし化物であっても人間と同じ容姿を持っていた女は己が化物であることを隠して人間の男と恋をした。しかしある時、周囲の人間に女が化物であることがバレてしまう。人間達は寄って集(たか)って女を殺そうとした。唯一縋れる存在として女は恋人を頼ったが、恋人であるはずの男は目を背け、それどころか男にだけ教えられていた女の本当の名を民衆に明かし、彼らと一緒になって女を排除しようとした。
 女は絶望した。そして命からがら生き延びた先で全てを憎んだ。
 男など信用ならない。あんなのはただのエサだ。化物である己が狩ってしかるべき存在だ。
 そう決意した女は、自身の優れた容姿を使いながら数多の人間の男を虜にし、そして男が彼女に手を出したところで残酷に命を刈り取っていった。
 抱きしめた女が化物だと知って恐怖に泣き叫ぶ男共のなんと小気味良いことか。
 女はそうやって化物である己を肯定し、己を裏切った男を否定し、何十年にもわたって各地で残虐な行為を繰り返した。
 そして今回も今までと同じように軽薄な色男をターゲットに定めた彼女であったが――。


「ローザン・エルキュエル・エル・ツィーザツェン」
 足元に広がる池ごと下半身を凍らされたカティア――と名乗っていた化物――の身体に赤毛の男が拳を撃ちつける。口にしたのは彼女の本当の名前だったのだろうか。顔色を変えたカティアは目を見開いて男を見やる。
「貴女を『密封』する」
 男は厳かにそう言い放った。
「憎み給え。赦し給え。諦め給え。人界を護るために行う我が蛮行を」
 赤毛の男はカティアに終わりをもたらそうとしている。状況が全く理解できていなくても、レオナルドはそれを確かに感じた。しかし最期の瞬間、カティアが視線を向けたのは赤毛の男ではなく、彼にスティーブンと呼ばれていた黒髪の男――セベロ。
 彼女は剥き出しにしていた牙を収めてふっと美しい笑みを口元に刻み、
「やっぱり人間なんて嫌いよ。女に甘い言葉を吐く男なんて特に大嫌い」
「ブレングリード流血闘術 999式 久遠棺封縛獄(エーヴィヒカイトゲフェングニス)」
 氷に捕えられていたカティアの身体が錆色の帯のようなものに包まれて密封、そして圧縮。彼女は小さな十字架となり、凍った池の上に澄んだ音を立てて落ちた。


 赤毛の男が小さな十字架を拾い上げる。そして顔を上げた際、眼鏡の奥にある翡翠色の双眸が呆然と立ち尽くすレオナルドを見つけて大きく見開かれた。
「一般人か……?」
「なに、一般人だって? クラウス、それはどこに――」
 セベロが赤毛の男――クラウスと言うらしい――の視線を辿ってレオナルドの存在に気付く。
「レ、オ?」
 紅茶色の両目には偽りのない驚きが表れていた。
「……っ」
 彼に会いたくなかった。今のは一体何なのか。隣の赤毛の男性が行ったことは何だ。カティアはどうなった。――様々な疑問や感情が脳内で渦巻き、レオナルドの身動きを封じる。その隙にセベロが凍りついた池を横断してレオナルドの元へ辿り着いた。
「レオ!」
「セ、」
「無事か!? 怪我は!?」
「は?」
 がっしりと両肩を掴まれ、正面から顔を覗き込むようにして尋ねられる。
「君に何かあったら俺は……ッ」
 言葉に詰まり、セベロはその場に膝をつく。呆気にとられながらもレオナルドが「怪我は、ありません」と答えれば、色男の肩から力が抜けて「よかった……」と吐息混じりに呟かれた。
「でもどうして君がこんな所にいるんだ」
「か、観光に、決まってるじゃないですか」
 貴方(セベロ)を避けようとしてここまで来てしまったとは言い辛く、そうやって誤魔化す。だがレオナルドの答えはセベロの求めから少しずれていたらしく、「いや、そうじゃなくて。本当なら一般人の君がこの時間帯に公園へ入れるはずがなくて」と、ごにょごにょ話している。
「入れるはずがない? でも普通に入れましたよ。透明な壁みたいな物のせいで出られなかったけど」
「ああ、そういう結界だからね……」
 と、そこで顔を上げたセベロがレオナルドの服装に気付いて「あ」と口を開く。
「その服……昨日のまま。そうか、香水だ。なんだ、俺のせいなのか」
「はい?」
 レオナルドの疑問は深まるばかり。セベロだけが勝手に理解して、そうかそうかと頷き、次いでレオナルドに「すまなかった」と謝ってくる。結界などというファンタジー小説のような単語まで飛び出してきて、さっぱり訳が分からない。
 混乱するレオナルドがもうちょっと相手を問い質そうとした時、セベロと共に戦っていた赤毛の大柄な男性が近付いてきた。
「スティーブン、彼は」
「ああ、クラウス。いきなりすまなかったな。彼はレオナルド。僕の友人、――いや」
 紅茶色の双眸がクラウスを振り返り、それから再びレオナルドに焦点を合わせて、口の中で小さく「もうお別れだしな」と素早く独り言を告げる。そして、
「彼は、俺の恋しい人だよ」
「なんと。それは本当か、スティーブン」
「ああ。レオナルドはイタリアからの旅行者でね。まだ出会ったばかりだが、俺は彼に惚れてしまった」
「はあ? え、ちょ、セベロさん!?」
「レオ」
 予想外のセベロの台詞にレオナルドは一瞬で顔を真っ赤に染める。聞き違いだろうか? セベロがレオナルドに惚れている? そんなまさか! と、首まで赤く染めて動揺を露わにした。そんなレオナルドにセベロは「君も俺と同じように思ってくれていたら嬉しかったんだけど」と眉尻を下げ、「すまない。変なことを言ってしまって」と続けた。
「それと、俺の本当の名前はスティーブン・A・スターフェイズと言う。セベロは任務のための偽名だったんだ。でも君には俺の本当の名前を知っていてほしかった」
「セベ……、スターフェイズ、さん」
「レオ、どうかスティーブンと」
「スティーブン、さん」
「ありがとう」
 君は優しいなぁと、スティーブンは未だ眉尻を下げた情けない表情のまま微かに笑んだ。
「どういうこと、なんすか。任務とか、結界とか、さっきのカティアさんのこと、とか」
 今さっき目にした光景も、セベロ――否、スティーブンのことも、どれ一つとして分からないままだ。教えてください、とレオナルドが乞えば、スティーブンは折っていた膝を伸ばして立ち上がり、凍りついた池に視線を向ける。
「この世には物語の世界のような化物がひっそりと息づいている。俺達はその化物が人界に被害を及ぼさないよう戦うことを使命としているんだ。そのための力も身に着けて、ね」
「カティアさんもその化物だったんですか」
「ああ。彼女は人間の男ばかり狙って殺す吸血鬼だったんだ」
「き、きゅうけつき……?」
 完全にファンタジーの世界だ。首を傾げるレオナルドにスティーブンは苦く笑う。
「僕らの業界じゃ『血界の眷属(ブラッドブリード)』って呼んでるけどな。君のような一般人を巻き込むつもりはなかったんだが……すまない。俺の不注意だ。ここに来たのは仕事だったってのに、どうしても君と一緒にいたかった。おかげでこのザマだ。君には怖い思いをさせてしまった」
 池から視線を外したスティーブンはレオナルドを見なかった。その目はクラウスに向けられ、「そろそろ撤退するか」と声をかける。
「しかし、スティーブン。彼……レオナルド君のことは」
 クラウスの態度に、彼はとても優しい人なんだとレオナルドは思った。それはスティーブンも十分に理解している性質だったらしく、顔に傷のある色男はへらりと笑った。
「世界が違いすぎるんだ」
 住んでいる世界が。見ている世界が。知っている世界が。
 スティーブンの台詞にレオナルドの胸が痛みを訴える。しかし言うべき言葉が見つからず、レオナルドは無言のままスティーブンの顔を見上げた。
 その視線を受け、紅茶色の双眸がもう一度レオナルドを見る。ゆっくりと瞬きを一回。
「レオ、俺とこの国で体験したことはどうか忘れてほしい。世界の平穏は俺達が守るから、君は恐ろしい記憶を忘れて幸せに生きてくれ」
「ス、」
「いや、違う」
 スティーブンは片手で目を覆い、前髪をくしゃりと握り潰す。ふるふると小さくかぶりを振って、彼はかすれた声で懇願した。
「もし少しでも僕を好いていてくれたなら、どうか忘れないでくれ。君を好きになってしまったセベロという男のことを、どうか。この哀れな男の恋心を」
「忘れません」
 レオナルドははっきりと答えた。スティーブンが息を呑む。そんな彼に言い聞かせるように、レオナルドはもう一度告げた。
「忘れませんよ、僕は。貴方と出会ったことも後悔はしない」
 甘く、切なく。胸が苦しい。
 出会ってまだ三日でしかないけれど、
「スティーブンさん……僕は」
「言わないで、レオ」
 表情を隠したままセベロが弱々しく制止する。
「それ以上は駄目だ。俺と君とじゃ立っている世界があまりにも違う」

「さよならだ、レオナルド・ウォッチ」

* * *

 そうしてセベロという名の男はこの街からもレオナルドの前からも姿を消した。
 この一件からしばらくして、世界は大きな混乱に飲み込まれた。世界一の大都市ニューヨークが一夜にして崩落し、そして新たな都市ヘルサレムズ・ロットへと再構成されたのである。
 そして異界と現世が交わる異形の都市の出現から三年後、レオナルド・ウォッチは境界都市にて異界の存在と強制的な契約を結ばされ、不可思議な義眼を埋め込まれた。対価として奪われたのは妹の視力。
 奪われたものを取り戻すため、レオナルドはヘルサレムズ・ロットへと向かった。

 そして彼らと再会≠果たす。


【5】


 成人男性――それも見目が良かったり何かの芸に秀でていたりと女性に好まれやすいタイプ――ばかり狙って狩りを行う女型の吸血鬼殲滅の命を受け、スティーブンは対象が潜伏しているとされるスペイン・バルセロナに入った。現地に溶け込みながら情報を収集し、そうして見つけた対象は、美しい黒髪の人間の姿をしており、街でフラメンコの教師という職に就いていた。スティーブンは彼女に近付き、己を次の狩りの対象と定めるよう誘導していった。
 仮初の名でバルセロナの街に溶け込んでから約半年後。計画が最終段階に移行しようとしていた頃、スティーブンはレオナルドと出会った。声をかけたのはただの気まぐれ。偶然、贔屓にしている市場内のバルでケースの中の料理に目を輝かせている少年を見つけ、気分が乗った。そうして一緒に話してみれば、くるくるとよく変わる表情が愛らしくて、心が温かくなって、もっと一緒にいたいと思った。
 少年と出会ったこの日に、ヴァチカンで保管されていた吸血鬼の名前のリストの写しをクラウスの執事ギルベルトがバルセロナに持ち込んでいた。無論、そのリストに記載されているのはターゲットである血界の眷属の諱名である。またリストのダミーを持ったK・Kが別ルートでバルセロナ入りしていた。
 密封の要であるクラウスも本来なら同日中にこの地を踏むはずだったのだが、前回の任務で壊れてしまった専用のナックルダスターとグローブの修理が間に合わず、作戦の実行は数日延期。クラウスがこの国に入り次第、スティーブンがターゲットをおびき出して密封という手筈になった。
 生まれてしまった僅かな猶予期間。その間にスティーブンは少しだけ、あと少しだけ、とレオナルドとの時間を持つようになってしまった。カティアと名乗っている吸血鬼は最早スティーブンをしっかりと狩りの対象に定めており、数日延びたくらいでは何の問題もない。ただ少し、任務を終えてこの地を離れる前にレオナルドともう少しだけ交流したいと願ったスティーブンは、馬鹿みたいな必死さで、しかしそれを相手に悟らせないよう懸命に努力して、幸福な時間を過ごした。
 それが悪かったのだ。戦場となる公園に張り巡らせた結界に反応するよう調合された香水がレオナルドに移ってしまい、結果、彼に見なくてもいいものを見せてしまったのである。
 作戦実行の時だけ専用の香水をつけることもできたのだが、それでは突然香水の種類を変えたことをカティアに不審がられてしまう可能性があった。スティーブンなら口先だけで上手く躱せる自信もあったが、念には念を入れて、この地に足を踏み入れた時から同じ香水を使うようにしていたのだ。
 血界の眷属は無事に密封できたが、先述通りレオナルドには見なくてもいいものを見せる結果となってしまった。もしタイミングが少しでもずれていれば、レオナルドが戦闘に巻き込まれたり、吸血鬼のエサにされていた可能性もある。
 スティーブンは己の我侭でレオナルドを危険に晒したのだ。その事実にスティーブンは打ちのめされ、スペインを去った後、よりいっそう仕事から『私』を切り離すようになった。全ては血界の眷属を狩るために。世界の均衡を保つために。私を滅し、公のみを優先する。そんな男になっていった。
 やがて世界は大きな混乱に飲み込まれる。ニューヨークが崩落し、ヘルサレムズ・ロットが出現したのだ。クラウスと共にその場に居合わせたスティーブンは異形の都市ヘルサレムズ・ロットに秘密結社ライブラを設立し、リーダーたるクラウスの副官として世界のために戦い始めた。
 そして、ヘルサレムズ・ロット出現から約三年後――。


「『神々の義眼』保有者の少年か……。ん? この名前は」
 クラウスが引き入れた新たなメンバーの調書を手にしたまま、スティーブンは瞠目した。チェス盤を挟み正面の席に座っていたクラウスが諭すように「スティーブン」とその名を呼ぶ。
 リスト上の名前を指でなぞれば胸が詰まった。押し寄せるのは歓喜か、期待か、恐怖か。
「彼と、同じ世界に立ってみないか」
「……ッ、立ってみたいさ!」
 手に持った調書がくしゃりと歪む。
 レオナルドがこちら側≠フ人間になった。それを喜ぶ自分と、そんな感情の変化を厭う自分がいる。平和な世界で暮らしていけるはずだった少年が異界に触れてしまった。背負わなくてもいい業を背負ってしまった。きっと恐ろしかっただろう、きっと絶望しただろう。それでも再び出逢えた奇跡に歓喜してしまう。
「クラウス、彼は今どこに」
「ピザ屋のアルバイトだと聞いている。ザップには護衛を頼んでいるのだが、返答はあまり芳しくなく……」
「ああ、その辺は気にしなくてもいい。どうせ君には面倒だ何だと返事をして、それでもレオの傍についているはずだ。ザップはそういう人間だからな」
 ザップのような実力者がついていれば身の安全は保障されるだろうと安堵するスティーブン。その言葉を受け、クラウスもほっと一息ついた。
 しかしその後すぐ、二人の元に緊急の連絡が入った。レオナルドが幻術をかけた車両を見つけたのを皮切りに、ザップが負傷、レオナルド自身は誘拐されてしまったのである。
 三年経っても忘れられない想い人の危機に一瞬恐慌に陥りかけたが、スティーブンはライブラの番頭役として指揮を執り、クライスラー・ガラドナ合意に違反して食用に人身売買を行っていた異界人を捕縛、およびレオナルドの救出を成し遂げる。
 そして捕縛の際に少々巻き込まれたレオナルドが運び込まれた病院にて。

「す、てぃーぶん、さん……!?」
「やあ、レオ」

 クラウスの技に巻き込まれる直前、スティーブンが出現させた氷の盾でいくらか防御されたレオナルドは片足と片腕の骨折、肋骨のヒビと全身に擦過傷という状態で病院のベッドにいた。驚きに見開かれた両目は人間のものと異なり、神秘的な青を宿している。
 本当に義眼を埋め込まれてしまったのだと改めて感じながら、スティーブンはベッドの横の椅子に腰掛けた。
「なんで、貴方がここに」
「僕がライブラのメンバーだからさ」
「はあ!?」
「いやぁ驚いたね。まさかもう一度君に……」
 会えるなんて、と軽い調子で告げるつもりだった。しかしいざレオナルド本人を前にすると、胸の奥底に押し込めていた感情が息を吹き返してしまう。
「スティーブンさん……?」
「すまない、レオ。眼のことも妹さんのこともクラウスから聞いた。君がこっちの世界に足を踏み入れたのは悲しむべきことだ。でも、俺は」

「君と同じ世界に立つことができて、どうしようもなく嬉しい」

 眉尻を下げて微笑めば、ベッドの上のレオナルドは目元にぱっと朱を散らした。たったそれだけの反応でスティーブンの胸が高鳴る。
「君が好きだ。今もまだ、あの時からずっと、君が好きだ。――返事を聞かせてくれないか」
 かつては自ら遮った彼の答えを、今ここで求める。勝手だとは理解していても、この気持ちは抑えられない。
「スティーブンさん……僕は」
 妹が、ミシェーラが大事です。彼女が一番です。彼女の視力を元に戻すのが何よりも優先すべきことです。そう、声を掠れさせながら必死にレオナルドは言い募る。
 燐光を放つ青い双眸が真っ直ぐにスティーブンを見た。

「でも、貴方の隣に立っていたい」

「その言葉だけで十分だ」
 スティーブンは破顔し、椅子から腰を上げる。レオナルドの負担にならないようそっとその身を抱きしめて、すり傷だらけの顔にキスを降らせた。













2015.10.21 pixivにて初出(【1】のみ、2015.08.28 Privatterにて初出)

本文中に出てくる「MY YOUNG FRIEND」は、スティーブンがレオナルドを「少年」と呼ぶ時の英訳の一例です(「少年」呼びは、原作コミックスの英語版で複数の訳され方をしています)。
こちらの番組を大変参考にさせて頂きました→BSフジ 路面電車で行く世界各街停車の旅 第16回「バル文化と美食の街 スペイン・バルセロナ」