「今まで本当にお世話になりました。皆さん、どうぞお元気で」
そう言ってレオナルド・ウォッチはライブラの面々に最後の挨拶を告げた。笑みの形に細められた双眸からはもう荘厳な青白い光が零れることはなく、ただ彼の妹とよく似た青い瞳が覗いている。 レオナルドがライブラの一員になってからすでに×年。実年齢より幼かった容姿もいくらか成長し、最早『少年』とは呼べなくなっている。彼は幾多の困難を超え、ようやく妹の光を取り戻した。自身に宿っていた神々の義眼も上位存在に返却し、これで彼は正真正銘ただの一般人である。 ゆえに。 今日、レオナルドはヘルサレムズ・ロットを出て行く。 目的を達成した喜びの中、仲間達との別れはレオナルドの瞳を必要以上に潤ませた。しかし涙は見せまいと、精一杯の笑みを浮かべる。 レオナルドの背後には結界で区切られ霧に覆われた街と外の世界を繋ぐゲート。ここを越えればライブラの皆と完全にお別れだ。そして正面には、レオナルドを見送るために集まってくれたいつもの面々。おまけに幻界病棟ライゼズのルシアナ・エステヴェスまでわざわざ分裂させた彼女の一人をこちらに寄越してくれた。 外でも元気にやれよ、等々。皆は口々にレオナルドへ別れの言葉を返す。それに一つ一つ答えながら、レオナルドは最後にライブラのリーダーであるクラウスとその副官的存在スティーブンに視線を向け、深々と頭を下げた。 「本当に、本当に、ありがとうございました!」 「ああ。外でも息災で」 「元気でな、レオ」 「はい!」 そうしてレオナルドはくるりと彼らに背を向けて歩き出す。ゲートの向こうに広がるのは霧に閉ざされていない抜けるような青空。大きな喜びと決して消えない寂寥感を抱えてレオナルドは進む。 しかし―― 「……あ?」 ぐらり、と視界が揺らいだ。同時に背後からライブラの皆の悲鳴が聞こえる。何だろうと思って振り返ろうとするも、身体は思った通りに動かず、足元の地面が崩れたかのように視線が下がった。否、足元が崩れたのではない。これは、 (ぼくの、あしが。てが、からだが) レオナルドの肉体に亀裂が入り、バラバラに砕けようとしている。 そして悲鳴を上げる間もなく、暗転。 何よりも幸いだったのは見送りの場にルシアナがいてくれたことだった。ゲートをくぐると同時に崩壊し始めたレオナルドの身体はライブラのメンバー達によってヘルサレムズ・ロット側に引き寄せられ、心臓が活動を停止する前にルシアナが緊急執刀。異界の技術を使った縫合を駆使し、レオナルドは一命を取り留めた。 そう、問題は『異界の技術』である。 ライブラの一員としてこの危険な街で暮らし続けたレオナルドはたびたび大きな戦闘によりライゼズでの手術を受けていた。いずれは街の外へ帰るであろうレオナルドのため人界の技術を主に使っていたが、時にはそれだけではカバーしきれず、苦肉の策として異界の技術も用いて。 異界の技術は異界と現世が交わるヘルサレムズ・ロット内だからこそ支障なかっただけで、ひとたび異界の力の及ばぬ外の世界に赴けば、たちまち無効化もしくは暴走する可能性が高い。つまり、異界の技術で繋ぎ合わされていたレオナルドの身体は、多大なるリスクを内包してしまっていたのだ。そして用いられた技術が高度であればあるほどリスクも跳ね上がる。 この危険性はあらかじめ考えられていたことだった。ただレオナルドがどうなるかなど確かめたことがなく、何より異界の技術を用いなければ命が危うかったシーンがいくつもあったため、使わずにはいられなかったらしい。 レオナルドもルシアナと出会って少し経った頃に妹の足の件でその可能性については示唆されていた。ゆえに取り乱すようなことはなく、ただ義眼も返却して本当に何の力も持たない自分がこの街で生きていくのは大変だろうな、という気持ちだけが胸にあった。 「レオ、どうした。ぼうっと天井なんか見上げて」 見舞いに来ていたスティーブンが苦笑交じりに尋ねる。かつてはこちらを少年と呼んでいた伊達男もいつしかレオナルドやレオと呼ぶようになっていた。ただの義眼やお荷物、護らなくてはならない対象としてではなく、本当の意味でライブラの仲間と認められたようで嬉しく思ったことをレオナルドは今でも覚えている。 「気分が優れない? 先生を呼んでこようか?」 「いえ、大丈夫です。すみません……折角来ていただいたのに」 「どうってことはないさ。迷惑はいっぱいかければいいし、気遣いも思い切りさせればいい。義眼を返してライブラを去ることになったとしても、君が僕達の大切な仲間であることに変わりはないからな」 「へへっ。あざっす」 他のメンバーよりも一歩引いたところがあるようなスティーブンからの惜しげもない言葉にレオナルドは顔を赤くする。と同時に、この人がこういうことを言ってしまうレベルなのだから、本当に皆には心配をかけてしまったのだと改めて反省した。自分の身体に起こったことなので客観的に見ることはできないが、おそらく彼らが目にしたものはとんでもなくおぞましいものだったに違いない。仲良くしていた人間が突然、バラバラに崩れていく姿など。 「で、何を考えていたんだ?」 申し訳なさでいっぱいになっているレオナルドにスティーブンが問いかける。レオナルドは包帯でぐるぐる巻きにされた手で――何せ指もバラバラになったらしい――頬を掻いた。 「僕、この街から出られなくなっちまったじゃないですか。だから退院した後どう生活していこうかなーって。今の僕って眼を元に戻して本当の本当にただの一般人ですし」 一般人の生存確率など恐ろしく低いのがヘルサレムズ・ロットだ。しかもレオナルドはライブラの情報も持っている、つまり「超」が何個もつくほど狙われやすい対象である。そんな彼が外の世界ならばさておき、何が起こるか分からないこの街でどうやって生活していけばいいのか。 (なるべく街の外に近い場所に家を借りて……ああ、高くつくだろうなぁ。いっそこっちからお願いしてライブラに脳抜きをしてもらうとか。それなら俺はライブラの記憶を忘れないままで、かつ誰かに狙われても簡単に情報が盗まれることもないだろうし) 皆が聞けばとんでもないと大反対するような案まで考え出すレオナルドだったが、彼の困り顔を眺めていたスティーブンがあっけらかんと告げた。 「ああ、それなら。君の住まいはラインヘルツの別邸になるって決まったんだが」 「は?」 おっとこの人いきなり何言ってんだ? とレオナルドは目を点にする。しかしあくまでスティーブンは冗談を言ったつもりなどないらしく、言い方を変えて同じ意味の台詞を告げる。 「だから、レオはクラウスと一緒に住むんだよ。これなら君の安全は十分確保される。僕らも要らぬ心配をしなくて済むというわけさ」 「僕が、クラウスさんと?」 「ああ。別に他のライブラ関係者の家でも良かったんだがね。一番安全度が高いのはやっぱりクラウスのところだからなぁ。俺も一応立候補したんだぜ? でも腕に覚えがあってなおかつ信頼できる人間を君の傍に常時置いておけるほどじゃなかったから、しょうがなくクラウスの奴に譲ってやったのさ」 「いやいやいや、しょうがなくって! え? つーか誰であろうとそんなご迷惑かけられませんよ!」 「レオナルド」 はあ、と。スティーブンはわざとらしく溜息を吐いた。 「君は自分がどれだけ価値のある人間か解っていないようだな」 「そっ、そりゃあライブラのことを多少は知っちまってるわけですから、情報源としての価値は……」 「違う」 スティーブンが即座に否定する。 赤みを帯びた双眸は真っ直ぐにレオナルドを見据え、真摯な声が鼓膜を打った。 「情報だけにしか興味が無いなら、君がこの街を出ると決めたその日のうちに脳抜きでも記憶消去でも何でもやっている。そうじゃなくて、レオナルド・ウォッチという人間はその身も心も俺達にとって大切な存在なんだ。だから失いたくないし、君を守るためなら何だって差し出したいと思う。住処なんて易いもんさ。言ったろ? 迷惑はいっぱいかければいいし、気遣いも思い切りさせればいいって」 「でも……」 「でも、じゃない。答えは『Yes』か『Ja』か『Si』だ」 たった一つの答えしか認めないと、氷を操る副官様は不敵に笑う。 「認めろよ、レオナルド・ウォッチ。君は俺達にとってかけがえのない存在なんだ」 ヘルサレムズ・ロット内にあるラインヘルツ家の別邸は、さすが公爵家の持ち物と言うべきか、恐ろしいほどの広さと警備の厳しさを誇っていた。 レオナルドはここからライブラの事務所に通うクラウスとほぼ毎日、頻繁に訪ねて来るスティーブンとは週の半分、その他のメンバーとも一週間と空けずに顔を合わせている。スティーブンがこの頻度でラインヘルツ邸を訪れるようになったのは、レオナルドが住み始めてからのことらしい。「スティーブンはレオナルドを人一倍心配し、また思い遣っていたのだ」とは、クラウスの言である。レオナルドにしてみれば「そんなまさか」な話だったが、クラウスから聞かされると真実味を帯びてくるから不思議だ。 ともあれ、ライブラの面々のお世話になりながら、レオナルドの第二のHL生活は順調に滑り出した。 彼らに返せる物がない分、申し訳なく思う気持ちはある。しかし同時に、実は安堵もしていた。 レオナルドは妹の目に光を取り戻すことだけを願って進み続けてきた。ただひたすらそれに向かって邁進していたレオナルドは、願いが叶った後で次にやることが分からなくなってしまっていたのである。 外の世界へ戻るとしても、妹の所へ帰るわけにはいかない。彼女にはすでに彼女の家庭があり、レオナルドは部外者でしかないのだから。 こんなレオナルドの思考を知れば優しい妹は怒ってしまうに違いない。しかしそれが真実だった。 この街にいるしかないと分かった時、レオナルドは「外の世界で何をすればいいのだろう」という漠然とした不安を捨て去ることができた。 身体がバラバラになってしまうから、街から出てはいけない。街にいては、無力なこの身ではライブラの情報を容易く漏らしてしまうかもしれないから、クラウス達の世話にならなければならない。「するしかない」という明確な方向を与えられたことで、レオナルドは自由の代わりに安寧を手に入れた。 「レオ」 「スティーブンさん! ちわっす!」 クラウスが育てているという薔薇園で時間を潰していると、一昨日ぶりにスティーブンがやって来た。いつも通りの美しいスカーフェイスが薔薇に囲まれているレオナルドを見つめてふわりと笑みを刻む。 「(under the rose.=@……大切な秘密は薔薇の下に隠された、ってな)」 「スティーブンさん? 何か言いました?」 「いいや」 微笑を浮かべたままスティーブンは首を振る。そうしてレオナルドに歩み寄り、男は「今日もこの街は騒がしかったぞ」と、レオナルドにとって絶好の暇潰しである土産話を始めてくれた。 「君だってレオを手放したくないんだろう?」 己の囁きは悪魔のそれに似ていたに違いない、とスティーブン・A・スターフェイズは思う。 長く共に戦場を駆けてきた親友はスティーブンの悪魔の囁きに顔をしかめ、けれどもすぐさま否定を返すことはなかった。それも仕方のないことだろう。この言葉はスティーブンだけでなくクラウスにとっても自身の欲望を擽る最高に最低な誘惑なのだから。 レオナルドが持つ神々の義眼を上位存在に返却するための大きな手掛かりを得たすぐ後のこと。 このまま行けば、遠からずレオナルドは妹の視力を取り戻し、そしてヘルサレムズ・ロットを出て行ってしまう。喜ばしいことであるはずなのに、しかし心臓を杭で突き刺すような痛みがスティーブンを襲った。そして同時に気付いたのだ。 「なぁクラウス。俺は彼を手放したくないよ」 それはあまりにも不実な望みだった。しかし一度持ってしまった望みは何をどうやっても消すことができない。 「愛している、なんて言葉じゃ足りないんだ。何をしてでも傍に繋ぎ留めておきたい。あの尊い存在を失いたくない」 スティーブンはクラウスの肩を叩く。 「君もそうなんだろう?」 気付いたのは同じ想いを持つ者だったから。彼の方が自分よりずっと誠実だが、それでも胸に芽生えた感情は根を同じくするもの。 翡翠色の瞳が眼鏡のレンズ越しにスティーブンを見た。牙が突き出た口はぴったりと閉じられていたが、幾許かの沈黙を挟み、レンズの奥で両目が閉じられる。 「……ああ」 その答えにスティーブンは微笑んだ。 「よし、それじゃあ今からさっそく準備を始めようか。愛しい彼を手放さないために、彼を俺達の傍に繋ぎとめておくために」 怪我の治療と称して外では決して維持できない危険性の高い異界の技術を使った縫合を全身に施し。万が一にも治療が遅れて彼に障害が残らないよう最高の医師もこちら側に取り込んで。鳥を閉じ込める籠は金も人も惜しげもなくつぎ込んだ最高級のものを。 そして、秘密は薔薇の下に隠される。 バラの下にはバラバラ死体
2015.09.19 pixivにて初出 |