【13】
スティーブン達と敵対している組織の名を黄冠会(おうかんかい)と言う。このところ派手な争いはないものの、両者は水面下で常にいがみ合っているような関係だった。 黄冠会の中心的な資金源は違法薬物。ただし会自体が薬物を売買するのではなく、その下部組織が品物を売り捌き、彼らの収益が上納金として黄冠会に入ってくるという仕組みになっている。おかげで警察も直接的に違法薬物関連で黄冠会を家宅捜索することはできず、非常にやきもきしているらしかった。 しかしながら先日二名が銃で撃たれて死亡した事件により、警察は黄冠会の本部に立ち入るチャンスを得て、今も随分楽しく引っ掻き回しているとのこと。この機に別の罪状の証拠も探し出すつもりなのだろう。黄冠会にとってはたまったものではない。 (こりゃ相当恨まれてんだろうなぁ) 何故か反社会的組織であるこちらに流れてきた警察内部の資料を閲覧しながら、レオナルドは内心でひとりごちた。無論、恨んでいるのは黄冠会、恨まれているのはこちらの組もといスティーブンである。 黄冠会は自分達がトウドウやミカミを殺していないことを理解している。となれば、自分達の痛い腹が探られるきっかけを作った者は別にいると考えるだろう。そしてその最も有力な候補が当時トウドウと会っていたスティーブン・A・スターフェイズ。 スティーブンも警察から任意同行を求められたり様々な資料の提出を要請されたりしたが、証拠不十分および彼自身負傷していたこともあり、最終的には加害者ではなく被害者側に分別されることとなった。まだ警察内部にはスティーブンを疑っている者もいるが、先述通り証拠がないので手が出せない状況だ。スティーブンの顔を見て盛大に舌打ちしたとある警部補を思い出し、レオナルドはこっそり苦笑する。 ともあれ、黄冠会はスティーブンを疑っているはず。むしろほぼ犯人と決め付けているかもしれない。上層部は慎重な態度を取りスティーブンを疑うだけでまだ断定はしておらずとも、下位の構成員であればすでにスティーブンへの復讐を考え始めている者がいる可能性は十分にあった。 スティーブン本人もそれを理解しており、あの一件以来彼の周囲の警護は若干厚みを増している。滅多なことでは幹部クラスの人間が襲われるなどありはしないのだが、可能性がゼロでない以上、油断は厳禁だった。ただし大々的に護衛を増やせば自ら犯人ですと名乗るようなものなので――少なくともそう捉える人間がいないわけではないので――、厚みを増したのは主にスティーブンが個人で雇っている者達である。勘や目が良い者ならば気付けるだろうが、基本的には組にも秘されているスティーブンの私設部隊もしくは私兵というやつだ。 さて、そのように思考を巡らせているレオナルドが現在いるのはスティーブンの自宅のリビングルーム。今日は少し早めに本部を出たため、南向きの大きな窓の向こうは綺麗な茜色に染まっている。 しかし本部の執務室にいようがスティーブンの自宅のリビングにいようが、レオナルドのやることは変わらない。スティーブンの活動に関する情報がある限り、それらを一字一句漏らさぬよう細かく確認していくだけだ。 一旦区切りがついたところでレオナルドは使用していたタブレット端末から顔を上げる。腰を下ろしているソファは相変わらず抜群の座り心地で、寝転がればそのまま安眠できそうである。ただし睡眠時間は足りているので今のところ眠気は襲ってこない。 驚くべきことに、スティーブンに悪夢の話をした夜以降、レオナルドが同じ夢に魘されることはなかった。重い罪の意識は未だしっかりと胸の内で存在を主張していたが、頬に触れた手の温かさがその罪の意識に溺れてしまう前にレオナルドを引っ張り上げる。一度だけ会った男の黒い目と批難の声はスティーブンの気遣わしげな声と表情に塗り替えられ、「君にやさしくしたいのに、俺は君を傷つけてばかりだ」と自嘲交じりに呟かれた言葉がレオナルドの胸を締め付けた。 レオナルドはこれ≠ニ向き合わなければならない。 頭では理解しているがまだ踏ん切りがつかなくて、レオナルドはタブレットをローテーブルに置くと静かに目を閉じた。 数日後――。 以前より予定していたエバーラスティンコーポレーションのマリアベルCIOとの会談を終え、レオナルドはスティーブンと共に帰路についていた。専属の運転手がハンドルを握る車内の後部座席にスティーブンとレオナルドが座っている。窓の外を流れる街並みはすっかり夜の帳が下りて、鮮やかなネオンの輝きが右隣にいるスティーブンの横顔の上を滑っていた。 エバーラスティンは外資系の複合メディア企業で、表向きはクリーンなイメージを保っている。しかし創業一族はこの国に進出してきた時からスティーブン達と繋がりがあり、持ちつ持たれつの関係を保っていた。今回の会談も定期報告のようなもので、マリアベル・エバーラスティンと対面している時間の半分は雑談である。 しかしその雑談の中で、今日は少し気になることをマリアベルから言われていた。 ――とある方々から『天秤』と手を切れ、と警告をいただいておりますの。 豊かな金髪を持つ妙齢の美女はそう言って嫣然と微笑んだ。『天秤』というのはスティーブン達が属する組を指す隠語である。 マリアベルらを脅しているのは十中八九、黄冠会だろう。幸いにもこの国に根を下ろした時から裏の世界と関係を持ってきた彼女がその程度の脅しに恐れをなすことはなく、ただ笑みを浮かべたまま「下手は打たないでくださいね?」とだけスティーブンに告げた。さすがメディア企業の情報関連トップを任されていると言うべきか、警察でも掴み切れていない情報をしっかり所持しているらしい。裏で何があったのか、おそらく彼女はほぼ正確に理解している。 恐ろしい相手だが、ギブアンドテイクが成立している以上、敵にはならない存在だ。なお、あちらは女性であるためスティーブンのハニートラップが通用するかと思いきや、彼女は黒髪の男があまり好きではないらしい。若い頃に騙されかけたとか何とか。嘘か本当か知らないが、楽しげに語っていた。と言うわけで、こちらとは純粋に組織としての利益だけを考えて手を組んでくれている。 (明日は午後から大事な面会予定が一つ。こっちは相手が相手だから警護はいつも以上にしっかりしてる。午前中は組内の会議で本部に籠りっぱなしだし、少なくとも今日明日で襲われることはないかな) マリアベルからの忠告を思い出しつつレオナルドは胸中で呟いた。 黄冠会がスティーブンを狙っているとしても、さすがにこちらの本部へカチコミに来ることはないだろう。そんなことをすれば即座に大戦争だ。狙うならばスティーブンの出先か自宅、もしくは移動中。誰がやったか判らない状況であればなお良い。事故に見せかけたり、無差別殺人や押し込み強盗を装ったり。 そう、たとえば今みたいなタイミングが一番危険だ――。と、信号で車が減速する中、レオナルドは思う。 そんな時、スティーブンがふとこちらを向いて目が合い、相手は驚いたのか軽く目を瞠った。レオナルドもまさか目が合ってしまうとは思っておらず、誤魔化すように口を開く。しかし言葉を発する前に、視界の端に映った何か≠ノ気付いたスティーブンが勢いよく車の後方を振り返った。 そして、 「止まるな! 走れ!」 レオナルドではなく運転手に強い口調で指示を飛ばす。数瞬遅れて彼が見ている方に視線を向ければ、隣の車線に前方が赤信号であるにもかかわらず全くブレーキを踏むことなく走ってくるジャガーが一台。頑丈なことで有名なその高級車は方向指示器を点滅させることなくこちらの車を目掛けてハンドルを切る。 スティーブンの指示で運転手がブレーキからアクセルに踏み替えたものの、減速し始めていた車とアクセル踏みっぱなしの車の速度の差は明らか。ジャガーは左後方、つまりレオナルド側の斜め後ろから躊躇なく突っ込んできた。 「レオ!」 強い力で引き寄せられる。二台の車が接触する直前、レオナルドは大きな身体に抱きしめられるようにして視界を奪われた。そして状況を把握する間もなく全身を強い衝撃が襲う。 意識がブラックアウトする直前、レオナルドは思った。 (なんで俺なんか護ってんですか。あんた、組のことが大事なら、まずは俺より自分でしょ) 「……ぉ、レオ! おい、レオ! 大丈夫か!」 「っ、」 スティーブンの声で目が覚める。気を失っていたのはほんの十数秒らしい。大きく歪んだドアから距離を取るように、レオナルドは反対側に座っていたスティーブンに抱き締められていた。 「ぅ、はい。大丈夫、っす」 「そうか……よかった……」 心から安堵するようにスティーブンが肩から力を抜く。 車は完全に停止していたが、こちらもそれなりに強度を誇る特別仕様の高級車である。車体ごと中の人間をぺしゃんこにするまでには至っていない。だがレオナルドが座っていた側のドアは完全に歪み、蹴り付ければ今にも外れそうだ。また運転席側では前の車に追突してしまったせいで、フロントガラスは粉々。運転手はエアバッグに埋もれて気絶している。 「ひとまず出るぞ」 「は、はい」 レオナルドは頷いて、反対側のドアから出ようとするスティーブンに続く。だが無事だったそのドアのロックを外した瞬間、後方――歪んだドアの方――でガンッと大きな音がした。驚いて振り返ると、蜘蛛の巣状にひびが入ったガラス――防弾ガラスだったので割れなかったのだ――の向こうに人影を見つけた。その人物は衝突で生じた車体とドアの隙間に踵を打ち付け、本当にドアを蹴り外してしまう。 救助に来てくれた人間ではない。どこにでもいる一般人の格好をしたその若い男は、しかし呼吸が荒く、目を血走らせ、更には右手に拳銃を持っていた。 「見つけた、スターフェイズ!」 「ひっ」 こちらを向いたグロックの銃口にレオナルドは引きつった悲鳴を上げる。 男はスティーブンを狙っているようだが、銃を握るその構えはかなり危うい。落ち窪んだ目はぎょろぎょろと忙しなく車内を見回しており、手足の痙攣も見受けられる。麻薬の禁断症状が出始めていた。 「こいつを殺せばクスリをもらえるこいつを殺せばクスリをもらえるこいつを殺せばクスリをもらえる」 ぶつぶつと呪文のように低く小さく呟かれる、彼の動機。まともな交渉はできそうになく、また狭い車内では満足に逃げることもできない。 「きひ!」 口の端から涎を垂らして男が引き金を引く。 パン、という発砲音。同時に全身が強い衝撃を受け、レオナルドは目を瞠った。だがその真っ青な双眸に映るのは凶行に走った男の姿ではなく、紺色のシャツと黄色のネクタイ。また火薬のにおいを感じる前に男物のコロンが香る。そして再び発砲音が聞こえ、同時にレオナルドをシートに押し倒すようにして庇っている身体がビクリと跳ねた。 「ス、」 「スターフェイズ様!」 私兵としてスティーブンに仕えているあの細身の男の声が聞こえる。そうしてさっきとは別の位置から発砲音がして、薬の禁断症状に狂っていた男が悲鳴を上げて地面に倒れた。駆けつけてきたのはこの車の少し後ろを別車両で走行していた護衛担当の私兵達。 「救急車……いえ、このままドクター・エステヴェスのところまでお運びします!」 その声と共にレオナルドを庇っていたスティーブンの身体が退けられる。再び目にしたスティーブンの顔は二発の弾丸を受けて苦痛に歪み、脂汗を流していた。 「す、てぃ」 「れお……よかった。ぶじ、だな」 「っ、なん……で」 瞠目するレオナルドにスティーブンは微笑み、もう一度「よかった」と呟く。彼はそしてそのまま意識を失い、私兵達に車の外へと運び出された。 マグラ・ド・グラナ会ライゼズ総合病院。スティーブンが運び込まれたその病院の待合室でレオナルドはじっと手術中のランプが消えるのを待っていた。 椅子に座り、膝の上で手を組んで神に祈るような姿勢のまま、もうどれだけ時間が過ぎたのだろうか。 スティーブンが撃たれたと聞いて、本部は今ハチの巣を突いたかのような有様になっているだろう。レオナルドも組の中で最も親しくしているザップに連絡を入れ、スティーブンを狙ったのはおそらく黄冠会の手の者だと伝えている。実行犯だった若い男はその場で私兵の一人に銃で撃たれ無力化されており、身柄はこちらで回収。だが交通事故が絡み目撃者も多数いることから事件を隠せるはずもなく、警察も動き出している。 幸いにも救急車を呼ばず私兵の手によって組がいつもお世話になっている&a院に運び込まれたため、まだここまでは警察の手も伸びていない。他の者達が動き回る中、レオナルドだけが一人この場でスティーブンの手術が終わるのを待つことができていた。 「す、てぃ……ぶん、さん」 レオナルドが無事でよかった、と。文字通り死ぬほど痛いくせに微笑んだ男の顔が頭から離れない。 「あんた、ほんと、ばかですよ」 正直なところ、人心掌握の心得があるスティーブンなら、依存でも何でもさせてレオナルドの心を手に入れることは難しくなかったはず。しかしそれをせず、真正面から、スティーブンによって捻じ曲げられることのない状態のレオナルド・ウォッチを彼は欲した。 そんな人間が、組が一番大切なはずなのに――そして組の運営には自身が重要な役割を果たしていると自覚があるくせに――、反射的にレオナルドを庇ってしまったなど。愚かとしか言い様がない。 けれど。 レオナルドは固く目を閉じ、「ああもう、本当に……」と呻いた。眉間には皺が寄り、薄く開いた口から自嘲が零れ落ちる。 「馬鹿なのは、貴方じゃなくて、僕の方か」 白旗を上げる。 レオナルドは家族のためという名目でスティーブンに己を差し出したが、スティーブンもまたレオナルドのために自分の命を差し出した。頭が良く、理性的な男であるはずなのに、あの瞬間はその全てをレオナルドのために擲(なげう)っていた。それを無視できるほどレオナルドは非情でも冷徹でもない。……とかいう理論的なものはただのオマケで。 レオナルドの無事を確認した時のスティーブンの笑みにレオナルドは折れたのだ。ああ、この人を慈しみたい、と思った。難しいことは全部脇に追いやり、ただそれだけを感じた。 胸の奥で疼いていた感情が姿を現す。きっとこれが向き合った′級ハなのだろう。 だから。 「スティーブンさん、どうか助かって。貴方がほしいもの、今ならちゃんと渡せるから」 【14】 「……ここは」 「スティーブンさん!」 目が覚めると真っ白な壁が視界に入った。それほど利用頻度は高くないのだが見知った壁紙と消毒液の匂いで、スティーブンは己がライゼズにいると悟る。またどうやら自分は横向きに寝かされているらしい。背中側は何となく感覚が鈍く、そちらに怪我を負っているのかということまで理解できた。 まだ少しぼんやりとした頭で判断しつつ、足元側から聞こえてきた声に視線を向ける。 「れ、お……?」 「はい。レオナルドです」 「……」 ああこれは夢か、とスティーブンは思った。何故なら、スティーブンが横になっているベッドのすぐ傍にレオナルドがいて、しかもこちらに向かって微笑んでくれているのだから。彼は決してスティーブンに笑みを見せてはくれない。レオナルドにとってスティーブンはそういう対象ではないのだ。 (でも幸せな夢だ) 「目が覚めて良かった……。今、先生を呼びますね」 「い、や。いい」 「でも」 「もう少しだけ君と話がしたい、から」 ナースコールを鳴らそうとしていたレオナルドがその台詞に動きを止める。この個室に置かれている来客用の椅子に座り直して、少年は眉尻を下げながら「わかりました」と答えた。 「今日の少年、は、やさしいな」 「急にこんな態度を取ってすみません。でもいろいろ考えて、ようやく結果を出したから、僕は……」 「いろいろ考えて=H」 「そうっすよ。貴方の優しさに応えるかどうか、とか。で、その結果がこれです」 へらりと笑う、年齢よりも幼い顔。スティーブンの欲しいものがそこにあった。 「ああ、そうだ。先に確認を……スティーブンさん、ここがどこか分かります?」 「ライゼズかな」 ファーストネームを呼ばれたのは今日が初めてかもしれない。そういうことにも幸せを感じて、スティーブンは目元を和らげる。 「正解です。じゃあどうしてライゼズに入院しているかは?」 「確か、君を庇って……。レオナルド、怪我は?」 「ありません。貴方が庇ってくれたから。だからスティーブンさんは自分のことを一番に考えてください」 「ああ、わかったよ。どうにも今は麻酔が効いていて全然痛くないんだが、これが切れたらちょっと大変だろうな」 背中に銃弾が二発。処置をしたのはおそらくルシアナ・エステヴェス医師だろう。彼女ならば心配ないと自分の体調のことを容易く片付け、スティーブンは今の発言で表情を暗くしたレオナルドに「心配はいらないよ」と声をかける。 「たかが銃弾二発だろう。こうして生きているんだし、問題ない。むしろ君に何かあれば今頃俺の心臓は潰れている」 「おそろしいこと言わないでくださいよ」 「本当さ。仕事はいつも通りやれるつもりだが、君を失った俺は人形みたいな奴になるだろうな」 スティーブンは本心からそう告げる。 「俺はもう、君がいなかった頃の俺には戻れない」 「重いなぁ」 困ったように笑いながらレオナルドはしみじみと呟いた。 「それでも受け止めてくれるかい?」 「ええ、まぁ。貴方に応えると決めましたから」 レオナルドがスティーブンの手を取る。両手で包み込むように持ち、「だから」と続けた。 「早く元気になってくださいね。貴方が病院にいたままじゃ、優しくするったって僕にもやれることには限度がありますんで」 「……うん」 こんなに幸せで良いのだろうか。もしくは夢くらい幸せになったって良いのだろうか。 スティーブンはふわふわとした気分のまま、この幸せを噛み締めるようにゆっくりと目を閉じる。 「もう少し眠りますか?」 「ん。そうだ、ね」 まだレオナルドと話をしていたいのだが、どうにもこうにも眠気がぶり返してきた。夢の中なのに眠くなるなんてなぁと内心で苦笑しつつも、スティーブンは怪しくなった口調でそう答える。 「おやすみなさい、スティーブンさん」 そうして優しい声に送られ、スティーブンは意識を手放した。 「急を要するものだけご連絡します」 幸せな夢から目覚めた後、病室に入ってきたレオナルドが「おはようございます。ってもう夜ですけどね」と言った後にその言葉を続けた。 「スティーブンさんが襲撃を受けてからちょうど丸一日が経ちました。今日の午後二時にお会いする予定だったアキタ様との件なんですが、僕の独断で延期にしています。あちらにも了承をいただきまして、ちょうど三週間後、同じ時間に会っていただけることになっています。一応、スティーブンさんのスケジュールを考慮した上での調整なんですが、マズかったら言ってください。僕の方でもう一度先方に連絡を入れますんで」 ぺらぺらと秘書っぽいことを報告するレオナルド。「秘書なんて名前だけのくせに、出過ぎた真似をしてすみません。でも今日の面会だけは放置しておくとマズいって俺でも解ってるんで、やっちまいました」と苦笑交じりに告げる。 「あ、いや……。確かにその通りだったから、助かったよ」 「よかった」 肩の力を抜く少年とは対照的に、スティーブンは盛大に戸惑っていた。レオナルドがしてくれたことは、返答した通り問題ない。とてもありがたいことだ。しかし何故彼がそこまでしてくれるのか、そして今こうしてベッドの横で微笑んでくれているのか、全く状況と原因が理解できないのである。夢の続きかとも思ったが、意識はしっかりしており、更に麻酔が切れたのか、頬を抓るまでもなく背中が盛大に痛かった。 「すまないが……少年、もしかして頭に怪我なんかは」 「頭に怪我ですか? いえ、全く」 「そうか」 頭を打ったわけではないらしい。怪我がないのは良いことだが、レオナルドの変化の理由が不明なままなのでスティーブンは困惑する。 そもそもスティーブンはレオナルドがこのような態度を取ってくれるなど微塵も思っていなかった。優しくしてほしくて優しくするようになったが、その想いが容易く返されるものではないと考えていたのである。だが銃で撃たれて目覚めてみれば、この通り。情けない話だが、突然与えられた幸福によりキャパシティーはとっくにオーバーしていた。 そして困惑は仕事に逃避するという選択肢をスティーブンに選ばせる。 「あー……っと。僕を撃った犯人に関してはどうなっている?」 「いつもの方々が処理しています。そこから得た証言もあって今回の件が黄冠会によるものだと断定されたのが今朝。幹部が撃たれたということで組内は結構殺気立ってますね。ザップさんが先頭に立って若い人達を諌めていますが、スティーブンさんにはなるべく早く復帰していただく必要がありそうです。あと、クラウスさんがあちらとの話し合い≠フ準備を進めています。でも私見ですが、十中八九向こうは知らぬ存ぜぬを通すでしょうし、そうなれば交渉決裂でもっと荒い手段を取らざるを得ないかと思います」 最後に確度の高い私見を付け足してレオナルドはそう締めくくる。すらすらと告げられた報告にスティーブンは思わず「すごいな」と呟いてしまった。それを耳にしたレオナルドは苦笑して「まぁ何だかんだで貴方の傍にいて、貴方のやることを見ていましたから」と返す。 「でも僕ができるのはここまでです。貴方がいなきゃ組は回りませんよ。それは本人が一番解ってることじゃないですか?」 「……そうかもな」 うぬぼれも謙遜も不要だと声に出さず告げるレオナルドを前にしてスティーブンは頷いた。 「僕の代行をできる奴はまだ育ててなかったし」 「まったくですよ。そうだってのに、僕なんか庇って……」 レオナルドの声に責めるような色が混じる。他人から見れば確かにスティーブンのやったことは愚行だ。しかし、 「だって君がいなきゃ、俺は駄目になる。俺はもう君がいなかった頃の俺には戻れない」 組の番頭役だとか、何だとか、そういう話ではなくて。ただ、スティーブン・A・スターフェイズという人間が最早レオナルドなしには成立しなくなっている。これは根幹の問題だ。だから庇ったことは間違いじゃなかったとスティーブンは答えた。 するとレオナルドは重い本心に驚いたりそれを忌避したりするのではなく、青い双眸をぱちぱちと瞬かせてから破顔した。 「それ、さっきも言ってくれましたね」 「……そう、だったか?」 「はい。まあ受け止める覚悟はしましたから」 そう言ってレオナルドはからりと笑う。 レオナルドがいなかった頃には戻れないという台詞を口にしたのも、それに対する少年の肯定的な返答も、全ては都合の良い夢ではなかったのだろうか。 混乱するスティーブンに気付かず、レオナルドは頬を掻いて「でも改めて言われると照れるかも……」と、ほんのり赤くなった顔でひとりごちる。そういう様子からも愛しさを感じてしまうのだが、混乱を晴らす手がかりにはならなかった。 もう、何が何やら。 「さぁスティーブンさん。お話はこれくらいで切り上げて、貴方はもう休んでください。で、早く治して早く復帰してくださいね。用があればいつでも呼んでくださって構いませんから。それじゃ、おやすみなさい」 スティーブンが黙したことで会話が終わったと判断したらしいレオナルドはそう言ってぺこりとお辞儀をする。 「あ、ああ。おやすみ」 咄嵯にそれだけ返せば、少年は淡い微笑みを残して部屋を出て行った。 「よう」 「あ、ザップさん」 スティーブンの病室から出てきたレオナルドを待合室――と言うよりは、壁がないので『待合スペース』だが――で出迎えて、ザップは長椅子から腰を上げる。 「もう用は済んだか」 「はい。つーかすみません。本部まで送ってもらうなんて」 「事が事だからな。お前を一人で番頭の家に帰すわけにゃいかねーよ」 今回のスティーブン殺害未遂の件を受け、レオナルドはしばらく本部となっている屋敷で寝泊まりすることになった。ザップはその送迎を自ら申し出て、仕事の合間を縫ってここまでやって来たのである。 昨夜は病院に泊まり込んだレオナルドだったが、病人・怪我人と夜勤の病院関係者以外に提供できるベッドなどここで用意してもらえるはずもなく、今夜は屋敷でしっかりと睡眠をとらせる予定である。代わりに組の者が何人か病院の内外で番をする手筈だが、その有無にかかわらずスティーブンの私設部隊のメンバーが誰にも悟られずしっかりと彼を護衛していることだろう。よって心配はない。レオナルドも私設部隊についてはよく知っているので、こうしてあっさりと自身の体調管理に気を回すことにしたようだった。 前日に徹夜をしたレオナルドからは疲れの気配が十分過ぎるほどに伝わってくる。しかしながら体力的には疲労していても憑き物が落ちたように晴れやかな顔を見て、ザップは「おや?」と片方の眉を上げた。先日スティーブンに関した悩みを聞いた時とは確実に違う。 「あー……テメェよぉ」 「はい?」 思い当たることが一つ。まさかと思って口を開くが、内容が己の感情と相反する位置にあるためあっさり言い放ってしまうこともできない。言いよどむザップにレオナルドは小首を傾げる。しかしいつまでもそうしていられるはずはなく、ザップは観念して後頭部をガリガリと掻いた。 「番頭との件、ケリついたんだな」 「……すごいっすね、ザップさんは」 「はっ、テメェが分かりやす過ぎんだよ」 一瞬の間を挟んで照れくさそうにレオナルドが頬を掻く。そんな様子に鼻を鳴らしてザップは己の予想が当たっていることを確信した。 僅かに胸の痛みを感じるザップとは対照的に、頬から指を離したレオナルドは真っ直ぐにザップを見据え、糸目を更に細くして微笑みを浮かべる。 「俺の方が折れたって感じっすかね。あの人の気持ちを受け止めようって思いました」 その視線はスティーブンが眠る病室の方へ。薄く開かれた双眸から特別な瞳の色が覗く。だがその色よりもレオナルドが浮かべた表情にザップはひっそりと眉根を寄せた。レオナルドが笑えるようになったのはとても良い。何より己が望んだことだ。しかしその笑みが自分以外の男に向いているという事実に複雑な思いがある。 (ま、そうだよなぁ。特別じゃねぇ相手に笑ってほしいなんて思わねぇだろうし、特別な相手が別の野郎に向かって微笑んでたら腹立つのが普通ってもんだよな) 要は、己はスティーブンに嫉妬しているのだ。 しかしそんな感情を表に出すのはみっともなくて、ザップは「ったくよー。世話かけさせやがって」と少々意地悪く笑う。 「へへっ、ご心配をおかけしました。でもザップさんがいてくれて本当によかったっす」 「あーはいはい。そういう風に褒められても嬉しかねーんですがねー」 「ええー。折角の俺の感謝の気持ちなのに」 視線を病室から外し、ザップを見上げて笑うレオナルド。その背を軽く押すようにして移動を促した。 二人で静かな院内をゆっくりと歩きながら、ザップは己の横に並んだ童顔を見下ろす。そして僅かな嫉妬は残るものの、改めて安堵と喜びを覚えた。 悩んで、逃げようとしていたレオナルドが、ようやく選択をした。そしてザップが見たかった笑顔を取り戻した。その上で彼はまだ己の隣を歩いていて、ザップの視線を感じると「どーしたんすか」と潜めた声で心配してくれる。 「なんでもねぇよ」 「ふぅん。でも何かあったら言ってくださいね。僕だってザップさんの話を聞くくらいはできますから」 「おーおー。陰毛様が偉くなったもんだなぁ」 「頭が抜けてますけど!?」 こんなくだらないやり取りが心底楽しい。癖毛をくしゃくしゃとかき回し、ザップは自然と口の端を持ち上げた。 「お前、そういう間抜け面が一番似合うな」 「へいへい。どーせ俺は間抜け面っすよー」 「おう。だからずっとその顔のままでいておけよ」 「は? どういう……」 「いいから。テメーはいつでもヘラヘラしてりゃいいんだ」 こちらを見上げた視線を下げさせるように、頭に乗せた手に力を込める。「うおっ」と少し大きめの声でレオナルドが慌てたが、場所が場所だからか、それとも直前のザップの表情を見たためか、彼は逆らわずに下を向いた。 「笑ってろ、クソガキ」 ぼそりと呟くザップにレオナルドが返す。 「ザップさんがいてくれたら、たぶんこの先も俺は笑っていられますよ」 その言葉の威力を本人は解っているのかどうか。 ザップは耳まで真っ赤にして「クソが」と小さく吐き捨てた。 【15】 幹部が命を狙われ、実際に大怪我を負った。となれば、組同士の抗争が勃発してもおかしくはない。しかしスティーブンが取った方法は武力でのぶつかり合いではなく、もっと静かで狡猾なものだった。 「まだ傷も塞がりきってねーのに、番頭自ら敵地に乗り込むなんざ、普通はやんねーっすよ」 「ああ、出発前にレオからも言われたよ。それはもう心配そうな顔でね」 「へいへい」 ザップは半眼になって呟く。 現在、ザップはスティーブンと共に車中の人となっていた。しかもなんと黄冠会本部からの帰りである。今回、スティーブンが拳銃で撃たれた件でとある話をしてきたところだった。 こちらが黄冠会に持ちかけたのは、今回の件について黄冠会が犯人であると公にしないこと。 実行犯に吐かせた情報を基に調べたところ、黄冠会の中堅構成員が複数名結託し、自分達の客(金蔓)である薬物中毒者の一人に銃を渡して殺害を命じていた。しかしそれを表に出さず、「犯人は薬物依存症の男で、妄想にとりつかれたまま偶然にもスティーブンを襲った」というシナリオを嘘の証拠と共に用意する。そうすれば警察は黄冠会をこれ以上引っ掻き回せなくなる。 「これで黄冠会は僕達に借り一つだ。こういうのはスピードが命だからな、傷の完治まで待っていられないのさ」 (そもそもの原因を作ったのはアンタなんだろうけどな) 自分達の組内でも犯人は黄冠会の手の者である可能性が高いと認識されている件――男性二名が遠距離から射殺された事件――を思い起こし、ザップは胸中でひとりごちた。発端はスティーブン本人であったはずなのに、最終的には敵の大元に借りを一つ作らせるという狡猾ぶり。さすがとしか言い様がない。 話し合いの経緯はさておき、直接話をしに行くスティーブンの護衛として選ばれたのがザップである。組としての会談なので、スティーブンの私設部隊を連れて行くことはできない。よって組の中でも特に腕が立つザップが選ばれるのは当然と言えた。幸いにも荒事には発展せず、ザップはただの飾りで済んだのだが。無論、戦う術を持っていないレオナルドが同行するはずもなく、今回彼の少年は本部の屋敷で大人しく留守番だった。 そのレオナルドがスティーブンの体調を心配したらしい。彼の変化を傍で見ていたザップには当たり前のことだったが、まだそれに慣れていないスティーブンは苦笑の中に僅かな戸惑いを混ぜていた。慣れていない、と言うよりも、自身の立場や過去の所業を思い返すと、どうしてもレオナルドの変化が理解できないのかもしれない。 (ったく。これだから下手に頭のいいヤツは……) 考えすぎて大事なことを見失う。本末転倒とはこのことだ。 これでは、折角レオナルドがスティーブンを受け入れると決めたのに、その決心が無駄になってしまうではないか。スティーブンが今の態度のままでは、そう遠からずレオナルドもズレ≠ノ気付く。そうすればあの笑顔が曇るのは必至。ザップにとって最も迎えたくない結末だった。 「レオが心配してくれたってのに、あんま嬉しそうじゃないっすね。スターフェイズさんが怪我した辺りから、アイツ、随分当たりが柔らかくなったじゃないですか。それじゃまだ不十分だと?」 スティーブンの態度について、わざと真実とは逆の理由を挙げる。するとスカーフェイスの上司は案の定「いいや」と否定を返し、苦笑を浮かべた。 「十分だとか不十分だとか、そういう問題じゃないんだよ。あの子はきっと俺が身を挺して庇ったことに罪悪感や遠慮を感じているだけだ。だからこんな俺なんかに態度を軟化させてくれた。俺の全てを見て優しくしようと決めたわけじゃない」 「罪悪感で軟化したっつーか……」 口を開きつつ、ザップは「この男、ホンモノのアホか」と内心で罵倒する。ただしこんな場所で声を荒らげるのは無意味だと悟っていた。ゆえになるべく自身を落ち着かせて、スティーブンのためではなくレオナルドのために言葉を続ける。 「裏で汚ねぇことやってるのも含めてレオのために命まで張ったアンタを総合評価した結果、ついにアイツが折れたってことでしょーが。まぁそれに俺の言葉が信じられなくてアンタ自身がどうしてもレオは後ろめたくて優しくしてくれてんだって思ったとしても、そんなんじゃ嫌だなんてわがまま言う余裕、アンタにあるんすか。欲しかったもんが手に入るってんだ、もう少し嬉しそうにしたらどうだよ」 ただしどんなに落ち着こうとしても所々語気が荒くなる。その辺は勘弁してほしいと誰にともなく言い訳しながらザップは隣を見た。こちらを向いたスティーブンが目を見開いて絶句している。まさか恋敵――だろう。初期にばっちり牽制までしてきたのだから――にそんなことを言われるとは思ってもみなかったようだ。 「ザップ、お前」 「アンタがうじうじしたまま手を伸ばさないってんなら」 スティーブンの台詞を遮ってザップは宣言する。 「アイツ、俺がもらいますから」 「それは駄目だ」 こればかりははっきりと、なおかつ即座に返された。 ザップは口の端を持ち上げて「はっ」と鼻で笑う。この返事が欲しかった。これくらいはっきりと己の望みに正直になればいいのだ、この男は。でなきゃレオナルドが可哀想だろう。 「ようやくイイ顔するようになったじゃねーですか、番頭。レオのこと、泣かさないでくださいよ。アイツはへらへら笑ってんのが一番なんすから」 スティーブンはしばらく絶句していたものの、やがて顔を前方に戻し、目を伏せた。右手で顔を覆い、大きく息を吐き出す。 「お前、俺を嵌めたのか」 「はめた? なんのことっすかね。俺は本気ですよ。少なくとも、アンタがアイツを神々の義眼保有者として売りに出した時には借金してでも買い取ってやろうと思うくらいには」 「お前そんなヤツだったか?」 「知らねーんすか、スターフェイズさん。人間、変わるもんなんすよ」 アンタがそうだったように、と付け足せば、スティーブンは手で顔を覆ったままくつくつと肩を震わせた。「ああ、まったくだ」と呟かれた言葉には様々な感情が溶け込んでいる。 「俺はとんだ拾い物をしたようだな」 「そうっすね。俺が先に見つけておけば良かったって思います」 「それはだめだ。あれは俺の――」 「もの、って言ったら奪いに行きますんで」 「――俺の、大切な人、だ」 言葉を間違えなかったスティーブンにザップは苦く笑う。本当に残念だ。しかし悪くない気分だと胸中で呟き、スマートな態度を取り戻すまでもう少し時間がかかるだろう上司から視線を外して窓の外を眺めた。 強化ガラスの向こうには雲一つない青空が広がっている。それが一瞬だけ滲んだように見えたのは……気のせいだ、とザップは己に言い聞かせた。 本部の屋敷内をスティーブンは足早に進む。つい先程、黄冠会との話し合いの結果を組長と若頭に報告してきた。その足で次に向かった先は己の執務室である。 廊下の窓から見える空は青から金と茜のグラデーションへと姿を変えつつある。しかしスティーブンはそれに目をくれることなく、はやる気持ちを代弁するような足音を廊下に響かせていた。 屋敷は随分と広いものの、組のツートップがいる部屋とナンバースリーである己の部屋がさほど離れているわけもなく、おまけに鬼気迫る顔のまま早足で歩くスティーブンを呼び止められる者などいないため、早々に目的地へと到着する。 己の部屋の前でスティーブンは深呼吸をし、ドアノブに手を掛け押し開いた。 「今戻ったよ」 「おかえりなさい、スティーブンさん。お疲れ様です」 「ああ。出迎えありがとう、少年」 そう答えれば、中で主人の帰還を待っていたレオナルドがとことこと近寄ってくる。 「怪我の具合は」 「問題ないさ。危惧していたような揉め事も起こらなかったからね」 「そうですか」 ほっとしたようにレオナルドの肩から力が抜ける。そんな些細な気遣いや仕草だけでスティーブンは胸が詰まる思いがした。少し前までの己なら、それと同時に後ろめたさも感じ、素直に喜べなかっただろう。しかし車中でザップに言われたことを思い返せば、もうこの場所から一歩たりとも退く気持ちにはなれなかった。 レオナルドはスティーブンの気持ちを受け止めると言った。それもザップ曰く単に庇われたがゆえの対価としてではなく、これまでのスティーブンを総合的に評価した結果として。またたとえ庇われたことだけが理由だったとしても、最早スティーブンにレオナルドが伸ばしてくれた手を払うような余裕などなく。ずっと欲しかったものが目の前に差し出されている今、逃すことなどできるはずがないのだ。 扉を閉め、室内で二人。向かい合ったまま、スティーブンは口を開く。 「レオナルド」 「はい?」 改まってファーストネームを呼べば、レオナルドが若干不思議そうに小首を傾げた。 早くなる鼓動に合わせて背中の傷がじくじくと存在を主張する。痛くないはずがないそれは、けれど目の前の大切な存在を護りきった証でもある。そう思えばむしろこの傷は誇らしく、自然と口角が上がった。 「君が好きだ」 目の前に二つの蒼穹が現れる。瞼を押し上げて姿を見せた双眸は『普通』とは異なる青。スティーブンがレオナルドに触れるきっかけとなったものであり、また裏社会ではかなりの高額で取引される芸術品であり、けれども今のスティーブンにとってはレオナルドという宝物のオマケ程度でしかない代物だ。ただしオマケといっても、これが他人のものであれば本当に無価値に等しいものだったが、レオナルドの眼窩に納まっているというだけで何ものにも代えがたい宝石のようにも思えた。 純度の高い青がじっとスティーブンを見つめている。 「僕の一番はミシェーラと家族です。だから貴方を一番に据えることはできません」 「ああ」 それは最初から理解していた。スティーブンは驚くことも焦ることもなく頷く。自分はレオナルドの一番にはなれない。それに、 「俺の一番も君ではなくこの組だ」 「でしょうね。そうじゃなきゃ貴方じゃない」 レオナルドが目元を和らげる。 スティーブンが言った通り、またレオナルドが認めた通り、それがスティーブン・A・スターフェイズという男だ。 「でも」 それでもスティーブンは捨てられない気持ちを知ってしまった。離したくない存在を見つけてしまった。誰よりも、何よりも、傍にいて欲しい人がいる。 「君を愛している。どうか、お願いだ。この手を取ってくれないか」 そう言ってスティーブンは右手を差し出した。手のひらを上に向け、ここに君の手を乗せてくれないかと誘うように。 緊張で心臓が爆発しそうだった。病院で目覚めてからこちら、レオナルドの態度を見ていれば分かる通り、ほぼ確実にこの手を取ってもらえるはずだ。しかしそれでもやはりスティーブンがレオナルドに対して行った非道は消えないし、また彼に見せてきた過去がある。優しくすることはできるが、手を取ることはできない、と返される恐れはあった。 どうか、と乞うスティーブン。レオナルドはその手を一瞥したまま動こうとしない。 「レオ、」 「スティーブンさん」 未だ手を取らないレオナルドは青い双眸でスティーブンを見つめる。 「手を取るだけでいいんですか?」 「……え?」 意味が解らず、スティーブンは間抜けな声を出した。レオナルドは微苦笑を漏らして両腕を広げる。 「手を取るだけじゃ足りないでしょう? だから、抱きしめてあげます。まずは貴方がこれまでくれた分の優しさを返していかなきゃ。その後は――」 「貴方が愛してくれる分だけ、僕も貴方を愛したい」 息が、止まった。 じんと頭の奥がしびれて、その疼きが全身に広がる。青い双眸を見つめ返すスティーブンにレオナルドは手を広げたまま肩を竦めた。 「貴方の気持ちがすっげぇ重いってのはもう知ってます。そして俺はそれを受け止めるって言いました。心変わりはしていません」 「……!」 この少年はどこまで他人に優しくなれるのだろう。深い愛を備えているのだろう。 目頭が熱くなり、視界が涙で揺らぐ。スティーブンが声を出せないでいると、レオナルドは笑って一歩、また一歩と近付いてきた。そうして優しくスティーブンの身体に腕を回し、顔を近付けて目を覗き込む。 「泣き虫ですねぇ」 「っ、君が、泣かせているんだ、ろう?」 「そうっすね。俺が貴方を泣かせている」 レオナルドがつま先立ちになり、スティーブンが背を丸める。こつりと額が合わさって、レオナルドの両目に納まる蒼穹がゆらりゆらりと滲んで見えた。
滲
む
蒼
穹
【おまけ】 「レオ、どうして俺達二人≠フランチにこの男が同席しているのか訊いてもいいかい?」 「行きがけにザップさんが声をかけてきて、僕がオーケーしたからっすねー」 二人、の部分をしっかり強調して問いかけるスティーブンにレオナルドがさらりと答えた。 ランチと気軽に言ったが、スティーブンとレオナルド、それからザップのいる場所は仕事でも利用することの多い料亭の個室で、畳敷きの部屋に重厚なテーブルと椅子が設置されている。また順次出てくる料理は最初にメニューを見て注文するようなものではなく、店の責任者が客に最適のものを出してくるシステムだった。当然のように最初から値段など聞かされない。 テーブルを挟んでスティーブンの前にレオナルドが座り、その少年の隣にザップが我が物顔で腰を下ろしている。テーブルは広くて全く窮屈さを感じないが、視界にちらちらと入る銀髪にスティーブンは腹が立って仕方なかった。ぎろり、と容赦なく恋敵――しかも先日、いざとなればレオナルドを奪う宣言までした男――を睨み付ければ、器用に箸を扱っていた褐色肌の青年は手を止めて口の端を持ち上げる。 「どうもーゴチになります、番頭」 「お前は自腹で払えむしろ今すぐ出て行け」 一息に言い切るスティーブン。そんな彼を前にしてザップは隣に視線を向け、 「なぁレオ、俺と昼飯食うのは嫌か?」 「いえ、全然。まったく」 「レオ!?」 俺達恋人だよな!? と、狼狽えるスティーブンにレオナルドは「安心してください。貴方から離れたりしませんよ」と答えてスティーブンを喜ばせ、ザップをこっそり落ち込ませた。 「じゃあもう少し俺との時間を大切にしてくれても……」 レオナルドから「僕も貴方を愛したい」と言われて以降、スティーブンは少しだけこの年若い恋人に我侭を言うようにしている。それはまるで子が親の愛情を試すようなものだったが、レオナルドは嫌がるどころか笑って我侭を聞いてくれるので、そのたびにスティーブンは天にも昇る気持ちになった。 しかし。 「いやぁすみません。でもザップさんは特別なんで。本当にいろいろ助けてもらいましたし」 恥ずかしそうに眉尻を下げ、頬を掻きながらレオナルドはそう答える。スティーブンは己の耳を疑った。ついでにレオナルドの隣で彼に見えないよう小さくガッツポーズをした部下が視界に入って更に気分を落ち込ませる。 「よーし、そうかそうか。レオ、番頭に飽きたらいつでも俺んとこ来ていいからな」 「わっ、あ、あの、ザップさ」 ザップが上機嫌でわしゃわしゃとレオナルドの頭を撫でる。微笑ましい光景だが、それを正面で繰り広げられているスティーブンにとってはたまったものではない。思わず椅子から腰を浮かせてテーブルに両手を叩き付ける。 「おいザップ! お前なに他人の恋人を誑かそうとしているんだ! レオも頼むから顔を赤くしないでくれ!」 「だ、だって」 レオナルドは容赦なく髪をかき混ぜる手を両手で捕らえて頭から引き剥がしながら口を開いた。 「俺の恋人はスティーブンさんですけど、ザップさんは別枠と言うか……そう! 言うなればアイドルっす! 苦しい時に支えになってくれてこっちが一方的に見てるばかりだと思ってたアイドルが急に目の前に現れて話しかけてくれるんですよ! そりゃ赤くもなりますって!!」 「この度し難い人間のクズがアイドル!?」 「へー。ほー。そういや芸能人と一般人が結婚なんて今時珍しいものでもねぇよなー」 先程とは一転。スティーブンに貶されてもザップの上機嫌は留まるところを知らない。拳を握ってザップはアイドルだと力説するレオナルドにますます機嫌を良くして少年の肩を抱き、「ほれ、アイドル様からのキスだぞー」と言って少年の頬にくちづける。 「ひゃ!」 「おいクズ!!」 スティーブンは最早「ザップ」とすら呼ばず、テーブルの上に乗りあげそうになった。しかしその前にレオナルドがザップを押し退け、「そこまでです!」と隣席の男を制止する。 「ザップさん、構ってくださるのは嬉しいですけど、僕はスティーブンさんの恋人なので、これ以上は駄目です」 「駄目か」 「はい。この人を――」青い双眸がスティーブンを一瞥した。「慈しんで、優しくして、愛すると。誓ったので」 その言葉にザップはからかうようにニヤついていた表情を戻し、ひっそりと目元を和らげて「おう」と答える。 「わかった。じゃあここまで、な」 「ありがとうございます」 ザップはもう一度だけレオナルドの頭をくしゃりと撫で、きちんと椅子に座り直す。スティーブンもまた二人のやり取りに……と言うよりはレオナルドの言葉に、落ち着きを取り戻して席に着いた。 着席したスティーブンをザップの銀色の目が追いかける。 「つーわけで。スターフェイズさん、いつでも譲ってくれていいっすからね」 殊更軽い口調で放たれるが、奴は本気だ。それを十分に理解して、スティーブンは鼻で笑う。 「馬鹿を言うな。一生手離すものか」 誰を、なんて愚問。 ニヤリと好戦的な表情を作る二人の間でレオナルドが苦笑を浮かべる。その顔は困っているようで、けれどスティーブンの思い違いでないのなら、とても幸せそうでもあった。 【13】2015.10.05 pixivにて初出 【14】2015.10.05 pixivにて初出 【15】2015.10.17 pixivにて初出 【おまけ】2015.10.17 pixivにて初出 |