【9】


 誰かをあそこまで深く愛する姿に憧れた。自分も愛されたいと思った。その時点できっとスティーブン・A・スターフェイズはレオナルド・ウォッチに特別な感情を抱いてしまっていたのだろう。
 彼を自分の傍に置き時間を共有する日々の中、感情は更に濃度を増す。気付いた時には手遅れで、憧れは依存にも似た思慕へと姿を変えていた。そして自覚は春に花が咲くような喜びよりも氷の刃で腹を貫かれるような苦しみをもたらした。
「俺は君に愛されたい」
 四度目の睡眠薬。自覚しても行動を変えることは難しく、スティーブンは今宵もわざと深い眠りに落としたレオナルドの傍らで膝を折る。シーツの海へ無防備に投げ出された手を取って自らの額に押し当てれば、内側からの酷い圧迫感が胸を襲った。
 ぐっと息を詰め、その痛みをやり過ごす。
 スティーブンはレオナルドを愛してしまった。だからこそ、彼の少年に深く愛されたい。しかし今のこの立ち位置でどうすれば愛してもらえるのか、全く分からなかった。
 しかもスティーブンの一番はこの組で、レオナルドの一番はきっと彼の家族。一番を捧げられないのに、どうして彼の一番になれようか。
 スティーブンがレオナルドに己の全てを明け渡してしまわない限り、彼は絶対にスティーブンを疑い続け、その身体しか傍に置いてくれない。心はずっと遠く、彼の家族の元に寄り添うことだろう。
「俺は君に愛されたい。でも、俺は君に愛してもらえない」
 誰かを愛すると言うこと。己の中に芽生えたそれを自覚した今、傍に置くだけではレオナルドがあの大きな愛をその欠片さえスティーブンのような男には与えてくれないのだと理解した。だというのに、彼への感情を知ったスティーブンはレオナルドの一番になりたいと願ってしまう。おこぼれに与るだけでは到底足りない。彼の深い愛を独り占めしたいと、浅はかにもそう思ってしまうのだ。
 今、せめてもの救いは前回の様に無自覚のままサカってしまわなかったことだろうか。目の前の身体に触れて熱を持て余していたのは、ただ単純に相手を欲する本能ゆえ。しかし自らの裡に抱えるものを理解すれば、それすら畏れ多いものとなった。汚れた欲など到底向けられないくらい、この少年はスティーブンから遠く離れた所にいる。
「……あァ」
 少年の手を押し当てた額の下、閉じた双眸がじわりと熱を帯びる。愛しているのに、愛してほしいのに、愛されない。それがこんなにもつらいものだったなんて、スティーブンは今までちっとも知らなかった。
 喉の奥から零れそうになる嗚咽を必死に噛み締めて「レオナルド」と、特別になってしまった少年の名を呼ぶ。
 スティーブン・A・スターフェイズはきっとレオナルド・ウォッチに愛してもらえない。彼の一番にはなれない。彼の愛を独り占めすることはできない。
 ならば、せめて。
「俺は君にやさしくされたい。君に愛してもらえないなら、せめて、君にやさしくされたい。なぁ、レオナルド。俺が君にやさしくなったら、君は俺にやさしくしてくれるのかな」
 やさしくして、やさしくされて。その心が欠片でも己の傍にあるのだと錯覚できるように。

* * *

 違法薬物の売買に手を出していた会食相手は当人及び秘書共に死亡。こちらはスティーブンのみ負傷。そうなってはやはりクラウス以上の人間に報告を上げないわけにもいかず、正式な書類の形で今回の件をまとめることとなった。
 穏便に済まないのは予定通りであるため最初から報告書を作ることは確定していたのだが、実際に作成されたそれを電子データとして閲覧したレオナルドはじんわりと指先が冷たくなっていくのを感じていた。
 組の本部内では何とかそれを誰にも悟られることなく隠し通したが、スティーブンと共に帰宅して食事を取り、風呂を済ませた後。いつものように用意されていたグラスに口をつけたレオナルドは、中身を半分も飲まないうちにグラスを取り落とした。
 テーブルの上に落ちたグラスは割れることなく、残った中身を天板の上にぶちまける。片付けなければ、と思って手を伸ばすが、指先が震えて上手く動かない。
「……っ、ぁ。くそっ」
 割れた窓の前、スティーブンが両腕で持ち上げた秘書の男。その頭が狙撃によってはじける姿を克明に覚えている。
 あれはレオナルドが見捨てて、殺した男だ。スティーブンがミカミの心情を知らなかったあの時、レオナルドが告げ口しなければ、K・Kは引き金を引かなかったかもしれない。
 結局は組のためにもミカミが生きていては困るのだが、レオナルドが彼の死を望んだのは組ではなく自分自身のため。この眼の存在を知った他者が家族に魔の手を伸ばしたら……と、その恐怖のみで人としての大事なものを捨て去った。
「違う。家族のせいにするな。俺は、俺のために他人の死を願ったんだ」
 呻くように呟く。
 あの日から感じていた胸のムカつきは最高潮となり、罪悪感に心臓が早鐘を打つ。冷や汗がじっとりと背中や額を濡らし、はっはっと短い呼吸を何度も繰り返した。
 しかしこの場でくたばってもいられない。スティーブンにこんな姿を見せるつもりは毛頭なく、レオナルドは未だ震える指先で片付けを始めた。グラスを食洗機に移し、零れた水を布巾で拭き取る。何事もなかったかのように整えて、ふらつく足で寝室へと向かった。
 ぼふり、とベッドに倒れ込めば、頭は押し寄せる罪悪感で眠りから遠ざかろうとするのに、まるで精神の防衛機構が働いたかの如く不思議な眠気が襲ってくる。それに身を任せ、レオナルドは完全に双眸を閉じた。


「俺は君に愛されたい」
 声が聞こえる。
 成熟した男の声だったが、それはまるで小さな子供が庇護者に縋るかの如き必死さと健気さが滲んでいた。
 水底に沈むような深い眠りから覚めたレオナルドは目を開けないままぼんやりと状況把握に努める。レオナルドは知らないことだが、スティーブンが予定していた半分程度しか睡眠薬を摂取していなかった身体は少しの睡眠と他者の声及び手に触れられたことでその眠りから引き上げられていたのだ。
 片手が温かな何かに包まれているのを感じる。それが己より一回り大きな手であることをレオナルドは遅れて理解した。
(ああ……そうだ。この声、は、スティーブン・A・スターフェイズの)
 ならば手を握っているのもあの男なのだろうか。
 それにしては弱々しく、レオナルドを心身共に痛めつけた男のイメージからは程遠い感触だ。
「俺は君に愛されたい。でも、俺は君に愛してもらえない」
 レオナルドが眠気の抜けきらない頭でふわふわと思考する中、弱々しい声は更に続く。
 痛ましいほどに切々と、敵わぬ願いに身を焦がすように、男の声は寝室の中をゆっくり広がっていった。
(ヘンなの)
 ふわりふわりと水面に揺蕩うような思考でひとりごつ。
 聞こえている声が夢や幻聴でないのなら、スティーブンはレオナルドに愛されたいらしい。
 その両手を真っ赤に染めながら己が属する組のため身を粉にして尽くす男が、何をトチ狂ったのかこんな平凡なクソガキに愛を乞うている。しかもレオナルドに愛されないことを理解しているせいで今にも泣きそうな声だ。
「……あァ」
 男の口から零れた声は溜息か、それとも哀切か。「レオナルド」と続く呼び名は普段スティーブンがあまり口にしないものであり、特別性が増しているような気がした。
「俺は君にやさしくされたい。君に愛してもらえないなら、せめて、君にやさしくされたい。なぁ、レオナルド。俺が君にやさしくなったら、君は俺にやさしくしてくれるのかな」
 愛してもらえないことを理解している男は、ならばせめて、と優しさを望むらしい。
 しかしスティーブンは解っているのだろうか? 彼はレオナルドにとって己の全てを対価に差し出して家族の安寧を約束させた敵であり、強者である。
(そんな貴方に僕が優しくする?)
 弱者が、強者に。
 それはなんて矛盾だろうか。滑稽ですらある。
 しかし愛の代わりに優しさを乞うた男が静かに部屋を出た後、レオナルドはゆっくりと両の瞼を押し上げた。そうして小さく舌打ちをする。
「なんでこんなタイミングで目なんか覚めたんだ」
 知らなけば、あんな声を聞かなければ、今こうして心乱されることもなかったのに。


【10】


「少年、喉は乾かないか? 僕が茶でも淹れてこよう」
「いえ結構です」
 レオナルドは即座にスティーブンの申し出を断る。
 さっきからチラチラと落ち着きなくこちらに視線を向けているなとは思っていたが、まさか空のカップをそうと気付かず傾けてすぐに茶でも淹れてこようと言い出されるなど予想していなかった。
 いつも通りに出勤した本部。その屋敷内にあるスティーブンの執務室で、部屋の主は椅子から半分腰を浮かせたまま声を詰まらせている。昨夜のことがレオナルドの夢でないのなら、これが彼の言う『やさしさ』の表現方法なのだろうか。
「そ、うか……。実は僕もそんなに喉は乾いていなかったんだ」
 スティーブンは肩を落として椅子に座り直す。今時子供でもやらない取り繕い方は以前この身をいい様に扱った男のイメージからはかけ離れたものであり、レオナルドは眉間に皺を寄せる。
 それでもリアルタイムで更新される情報をラップトップで確認する作業は止めずにいると、数分後にまた声をかけられた。
「小腹は空いていないか?」
「今朝もしっかり朝食をいただいたので問題ありません」
 答えながら、今日の朝食が殊更豪華だったことを思い出した。
 スティーブンは容姿だけでなく料理の腕も優れている。レオナルドが口にするものはほぼ彼もしくは彼が雇っている家政婦によって作られたものだ。スティーブンの腕前はその辺の飲食店など太刀打ちできないレベルであり、朝食一つ取ってもレオナルドが一人暮らしをしていた時とは比べ物にならないくらい質の高いものを出してくる。それが今朝は更にパワーアップしていた。
 あれもレオナルドに優しくしようとした結果なのか。
 二つ目の申し出も断られたスティーブンは「そうだったね」と努めて平静を保ち、けれどもレオナルドからすれば明らかに気落ちした様子で頷く。不本意ながら胸の奥がむずむずと疼いた。
「じゃあ……」
 まだめげないのか、と反射的に胸中で呟く。
 レオナルドも己が男にキツく当たっている自覚はあった。しかしそれを悪いことだとは思わない。自分達の関係は強者と弱者、搾取する者と差し出す者。何のつもりかは知らないが、おふざけ≠繰り返すスティーブンに付き合う義埋も余裕もレオナルドは持ち合わせていないのだ。
 己に言い聞かせるように胸中でそう繰り返し、胸の奥で湧き上がる疼きを無視してレオナルドが画面に視線を走らせていると、スティーブンが先を続けた。
「今度の休みにでも家族に会ってくるかい? 旅費なら僕が出そう。ひとまず二泊三日くらいで。君も久々に家族の元気な顔が見たいだろう?」
 息が止まる。まさかそこまで言い出すとは予期していなかった。彼はレオナルドが逃げ出すとは思わないのだろうか。無論、スティーブンの裏事情まで知った今となっては、逃げ出しても捕まる可能性の方が高いことは理解しているが。
 ともあれ驚愕を相手に悟らせることなく、レオナルドは口を開く。
「遠慮します。家族とは時折電話で話せていますし、今の時期にここを離れたら貴方の元にどんな情報が集まって来るのか把握しきれなくなるので」
「そんなことは……。君が帰ってきてすぐ確認できるよう僕の方でまとめておくこともできるし」
「その言葉を馬鹿正直に信じろと?」
「え」
 レオナルドがラップトップから視線を上げると、赤みを帯びた瞳が唖然とこちらを見つめていた。それを冷ややかに見返してレオナルドは続ける。
「今の時点でさえ貴方が僕に全部見せているか、本当は分からないじゃないですか。信じるしかない状況だから可能な限り把握に努めていますけど、僕は貴方のことを一切信用できないし、していない」
「……しょ、ねん」
(やめろ。そんな顔で僕を見るな)
 まるでこちらの方が悪人のようではないか。家族の安全と引き換えにレオナルドの全てを奪っていったのはこの男の方だというのに。
 その事実を無視して、スティーブンはひどく傷ついた顔をする。今までレオナルドが黙って傍に立っていれば満足していたくせに。どこに転機があったのか知らないが、いざ己が優しさを見せてそれが相手から返されないと知ると幼子のように容易く傷ついてみせる。
 何も言わずこちらを見つめる紅茶色。理不尽だと思ってもなお、レオナルドの胸の疼きは増すばかりで、痛みさえ訴え始めていた。
 元々レオナルド・ウォッチという人間は他人につらく当たれるようにはできていない。優しい家庭――スティーブン達のような者からすれば正に『表の世界』とでも言うのだろう――で育ったからこそ、他人に優しくし、家族や周りの人間を慈しむのはレオナルドにとって当たり前のことだった。
 特に、生まれつき足の悪い妹がいたおかげで人によっては偽善ともとられかねないほど他者を大切にすること≠ェ身に沁みついている。加えてある程度成長し、自分の眼のことで周囲に迷惑がかかることを自覚するようになったレオナルドは、その負い目とでもいうように殊更周りを優先し、大切にすることを覚えていった。
 だからこそ、いくらスティーブンがレオナルドにとって珍しく明らかな『敵』であったとしても、傷ついた顔をされれば心が痛む。これが演技ならまだ怒れたのだが、昨夜の様子から察するに、優しくしたいのも優しくされたいのも彼の本心なのだろう。
(本当に……なんであの時、目が覚めたんだ)
 何も知らなければ、気に食わない男がトチ狂ったかふざけたか、そう思うだけで済んだはず。もしくは男が部屋に入ってきた時点ではっきり目覚めていれば、戯言を吐き出す前にスティーブンはレオナルドの元から去っていたかもしれない。あのタイミングで目覚めてしまったがためにレオナルドは相反する思いで悩む羽目になっている。
「レオナルド」
「……何ですか」
 スティーブンからの視線を遮るように目を伏せていたレオナルドは名前を呼ばれて渋々顔を上げる。見据えた先の男は困ったように笑って「いきなり俺がこんなじゃ驚くよな」と頬を掻いた。
「でも別に何か裏があるわけじゃない」
「でしょうね。裏があった方が状況は理解し易いですが、今のところ僕を懐柔しても貴方に得なことはない」
「……」
 返答は眉尻を下げた苦笑。過去の資料を読み込んで思考パターンはある程度理解したと思っていたのに、今のスティーブンの胸中はよく読めない。
 眉根を寄せるレオナルドにスティーブンは告げる。
「何か希望があれば言ってくれ。可能な限り叶えるから」
(アンタ、馬鹿ですか)
 男があまりにも情けない姿ばかり晒すから、その罵倒は心の内だけに留めた。レオナルドはひとまず「……わかりました。何かあれば」と答えて視線を机上に戻したが、小さく唇を噛む。
(僕の望みは家族の安全だけ。逆立ちしたって元凶のアンタじゃそれを叶えられないだろうが)
 だと言うのに、レオナルドの返答を聞いた男はほんの少しだけ嬉しそうに微笑んで仕事に戻る。「あいしてほしい」「やさしくしてほしい」というあの声がレオナルドの耳の奥で木霊した。

* * *

 レオナルドは自分がスティーブンを気遣い、彼に優しくする義埋などないと考えている。たとえどんなに良心が痛んでも、己はそうする立場ではないからだ。
 ゆえにそれ≠ヘ特に意識して取った行動ではなかった。
 スティーブンが電話で誰かと会話をしている。どうやら電話の向こうにいる相手の上司――以前より電話とメールでのみやり取りがあった重要人物――と直接会う予定を立てているようだ。ただしスティーブンが「×日の×時ですか」と復唱した日時に思うところがあり、レオナルドは自身のラップトップの画面に視線を固定したまま何の気も無しに口を開く。
「その日はエバーラスティンコーポレーションのマリアベルCIO(情報戦略統括役員)と約束があったはずですよ。予定を突っ込めないこともないですが、大変でしょうね。ちなみに翌日の午後はまだ空きがありますけど」
 はず、という単語を使いつつも、スティーブンの予定表にも目を通しているレオナルドはそれを正確に覚えていた。
 呟きは決して大きな声ではない。しかし半分独り言のようなそれを電話中のスティーブンはしっかり聞いていたようで、はたと目を見開く。それからすぐ相手方に翌日の午後なら十分な時間が取れると答え、無事にスケジュールの調整を終えた。
「……なんですか」
 電話を切ったスティーブンがそわそわと落ち着きなくレオナルドを窺っていたため、しばらく間を置いてから問いかける。するといい年した男は視線を彷徨わせた後、レオナルドと目を合わせてはにかんだ。
「君が僕の予定を覚えていてくれたのが嬉しくて」
「っ、」
 レオナルドの助言により無茶なスケジューリングを防げたからだとか、そういうことではなく。ただ単にレオナルドがスティーブンの予定を覚えておくべき情報として分類してくれていたことが嬉しい。そう答えるスティーブンの顔は悪意も裏もない純粋な喜びを表すもので、うっかり目にしてしまったレオナルドは小さく息を呑んだ。
(たった……たったこれだけのことで、あんたは喜ぶのか)
 こんなのは優しさでも何でもない。ただの偶然と気まぐれの産物だ。しかしただそれだけでスティーブンは嬉しそうに微笑む。優しさに餓えた子供のように、こちらが起こすほんの小さなアクションに一喜一憂するのだという現実をまざまざと見せつけられた気がした。
 ラップトップの陰になったところでレオナルドはきつく拳を握る。ギリギリと良心が締め付けられ、気分は最悪だ。
「レオナルド……?」
 黙り込んだ少年を心配してスティーブンが名を呼ぶ。
「少し、外の空気を吸って来ても構いませんか」
「あ、ああ。だが敷地の外には出ないように」
「承知しています」
 言葉少なに答え、レオナルドは執務室を出る。
 少し前なら屋敷の中であっても一人で行動するなど許されなかっただろう。しかし今、スティーブンは簡単にレオナルドの行動を許した。一度レオナルドに帰郷を促した時もそうだったが、優しくすることと信用することを履き違えているのは明らかである。彼がそこまで思考を鈍らせるほど参っている――もしくはレオナルドから返される優しさを切望している――のだと突きつけられたレオナルド本人は、扉を閉めた後で重い溜息を吐いた。


「レオ……?」
 あの部屋にいるのも息苦しく、気晴らしに屋敷の中を適当に歩いていたところ、レオナルドは久しぶりにその人物と再会した。褐色の肌に銀色の髪、そして同じく銀色の双眸を大きく見開いたその人は――。
「ザップ、さん……?」
「お、おう。つーかお前、こんな所に一人でいて良いのかよ」
 番頭はどうした、と尋ねるザップは本当に驚いているようだった。またその口ぶりから察するに、今のレオナルドの立場やレオナルドとスティーブンの噂については聞き及んでいるらしい。むしろ数少ないこちらの眼の事情を知る人間である彼ならば、下世話な噂よりも余程真実に近いところにいるだろう。
 ただし今はそういったことを考えるよりも、レオナルドはごくごく単純に喜びを露わにする。
「僕のこと覚えててくれたんですか!」
 同じ屋敷内にいるはずなのに、ちっとも顔を見る機会に恵まれなかった人。だからもう忘れ去られているかもしれないと思っていたのだが、ザップはレオナルドの顔を見て名を呼んでくれた。
「はぁ? そりゃ覚えてるに決まって……って、そうじゃねぇよ。だからなんでスターフェイズさんと一緒じゃねぇんだ? あの人、お前のこといっつも連れ回してたじゃねぇか。(俺なんか近付けないように牽制までされてたってのに)」
 最後の方はごにょごにょと聞き取れない音量で告げられたため、レオナルドは首を傾げる。ひとまず聞き取れた疑問に関しては「あの人、つい最近考え方が変わったらしくて。今は本人に許可をもらって息抜きしてるんですよ」と答え、「ザップさんも休憩ですか?」と尋ね返した。
「あ? まぁな。庭で一服しようかと思ってよ」
 そう言ってザップは葉巻を指で挟むジェスチャーをする。この屋敷は特に禁煙・喫煙エリアなど分けられていないので、庭に行くのはただの気分なのだろう。レオナルドはなるほどと頷き、「僕も一緒していいっすか?」と問いを重ねた。
 まだ言葉を交わすのも二度目でしかない人間にいきなりグイグイ来られてザップも困惑しているかもしれない。そうは思うが、今のレオナルドはスティーブンの傍にいるのが苦痛だった。彼の傍にいるとこれまでの自分が崩れそうになる。あの男はレオナルドの敵であり、強者であり、こちらを虐げる存在だ。だと言うのに、あんなに幼げに、いとけなく、レオナルドの愛情を求めるなんて。愚かにも絆されそうになる。やさしく、しそうになる。
「…………スターフェイズさんが許してんなら別に構わねーよ」
 幾許かの間はあったが、ザップがそう答える。レオナルドは「ありがとうございます!」と声を弾ませ、彼の後に続いて庭へ向かった。

* * *

 執務室に戻って来たレオナルドから僅かに煙草の香りがする。自身の部下が愛飲している葉巻の銘柄が脳裏をよぎり、スティーブンは書類にサインする手に力が籠った。しかし変化はそれだけで言葉を発することはない。レオナルドに優しくされたくて、レオナルドに優しくすると決めて、スティーブンは彼の少年の行動に必要以上の制限を加えないことを誓ったのだ。
 レオナルドではなくても、他者が知れば、それは優しさではないと指摘しただろう。しかしスティーブンの胸の内を知る者はなく、男の中でそれは正しく優しさの表現方法の一つだった。
 ただその代価として、静かに、胸がじくじくと痛む。
 他人を愛するとはこんなにもつらいことだったのか、とスティーブンは瞑目した。


【11】


 ダークグレーのスーツをまとう両腕に持ち上げられたのは黒のストライプスーツの男。理知的なノンフレームの眼鏡をかけたすまし顔は今や見る影もなく、焦りと恐怖に彩られていた。割れた窓に向けて掲げられたその男の名をレオナルドは知っている。彼の名はミカミ。レオナルドの眼の秘密を知った男だ。
 次の瞬間、遠方からの狙撃により、ミカミの頭を弾丸が貫いた。赤い血と灰色の脳髄がはじけ、ぱらぱらびちゃびちゃと部屋に降り注ぐ。ごとり、と投げ捨てられた肉体はすでに事切れ、眼鏡は顔から半分落ちかけていた。
 しかしそんなミカミの黒い双眸がぎょろりと動き、
「おまえのせいだ」
 死んでいるはずの男は告げる。
「レオナルド・ウォッチ、お前が私を殺したんだ」


「――ッ!」
 掛布団代わりのブランケットを跳ね除けてレオナルドは飛び起きた。自分がどこにいるのか分からず、激しく脈打つ心臓の上に手を当てながら周囲を見渡す。そうして人が二人死んだ料亭ではなく、スティーブンに与えられた彼の自宅のゲストルームだと理解し、はあ、と大きく息を吐き出した。
「さい……あくっ……」
 声も、身体も、情けないほどに震えている。あれは夢だ。しかし現実でもある。レオナルドは自分の都合で他者の死を望み、本当に死なせた。自責の念は悪夢となってレオナルドの精神を苛む。
 あの秘書が死んだ時の光景を未だに忘れられない。むしろ日々鮮明になっていくような気さえした。
「くそ、くそっ!」
 分厚いベッドのマットレスに苛立ちをぶつけても、ぼす、ぼす、と情けない音が響くばかり。手を痛めることすらなく、レオナルドは歯噛みする。
 あの時の判断が間違いだったわけではない。むしろ組のためにもレオナルドの家族のためにも――『最良』とは言えないだろうが――適した判断だった。しかしそれでも己のために人を死なせるきっかけを作ったという事実は、元々一般人であるレオナルドにとって重く苦しい罪となる。
 レオナルドは両手で顔を覆い、どくどくとうるさい心臓の音を聞いた。頭の芯は熱く、逆に指先は冷たい。嫌な汗がじっとりと額や背中を濡らし、空調のきいた部屋なのに酷く寒くて、けれどやけに暑かった。
 そんな時、突如として小さなノック音が響き、
「少年? どうかしたか」
 扉の外から声が聞こえた。レオナルドはハッとして顔を上げる。
 この部屋は内側から鍵がかけられない。しかし外にいる人物は無理やり侵入することなく、レオナルドの応答を待っている。「少年?」ともう一度優しく呼ばれ、レオナルドは反射的に「はい」と返事をしていた。
「魘されていたようだが……大丈夫かい?」
「え」
 外にいる男――スティーブンのベッドルームにさえ音が届くほど声を上げていたのだろうか。就寝中だった相手を起こしてしまったのかもしれないとレオナルドはほぼ反射的に罪悪感を覚えた。
「もし構わないなら、部屋に入りたいんだが」
「なん、で」
「君が心配なんだ。頼む」
「……」
 何事もレオナルドに強制できる男が「頼む」とは。レオナルドはしばらく黙する。
 スティーブンの心配も何もこちらは欲してなどいない。……普段なら。けれども悪夢を見た直後の精神は乾燥してひび割れた土のように脆く、気付けば「どうぞ」と口に出していた。
 返答してすぐに扉が開くことはない。自ら入れて欲しいと言いながら、まさかレオナルドが許可するとは思っていなかったのか、スティーブンは逡巡しているようだった。しかしやがてドアノブがカチャリと音を立てて動き、扉が開かれる。
「……やあ。悪い夢でも見たのかな」
 囁くように告げながらスティーブンはレオナルドがいるベッドに近付く。「水でも飲む?」と言って掲げられたのは小さなグラスと無炭酸ミネラルウォーターの瓶。暗い室内の中、廊下からの明かりを反射するグラスを目にしたレオナルドは急に喉の渇きを覚え、こくりと頷いた。
「待ってて」
 スティーブンは口元に小さな笑みを刻み、ナイトテーブルにグラスを置く。ミネラルウォーターの瓶のふたを開けて中身を注ぎ、ベッドの上で上半身を起こしているレオナルドにグラスを差し出した。
 それを受け取ったレオナルドは数秒水面を見つめた後、グラスに口をつける。冷たい水が喉を滑り落ちていく感覚は気持ち良く、一気に飲み干してしまった。
 空になったグラスを返すためスティーブンに顔を向けたレオナルドは、紅茶色の瞳がじっと己を見つめているのに気付いて小さく息を呑む。先程のグラスと同じく廊下からの光を僅かに弾く双眸にはレオナルドへの心配だけが滲んでいて、見ていると胸が詰まった。
「もういい?」
「は、い」
「まだ夜明け前だ。もう一度眠った方がいい。……けど、眠れそう?」
「……」
 肯定はできなかった。水を飲んでいくらか治まったものの、心臓は未だ早鐘を打ち、頭の芯の熱も退かず、指先は冷たい。きっとこの状態で横になっても起床時刻まで目は冴えたままだろう。
 答えないこと自体を答えと受け取ったのか、スティーブンは瓶もグラスもナイトテーブルに置いて自身はベッドに腰かけた。マットレスが沈み込む感覚にレオナルドが小さく肩を跳ねさせると、彼は微苦笑して「嫌ならすぐに言うんだよ」と優しく声をかけた。
「でももし君が構わないなら、少し話をしようか」
「はなし」
「そう。君が一体何に苦しんでいるのか、どんな夢を見たのか、話してほしい。それにほら、悪夢は他人に話すと良いとも言うしね」
 言いながらスティーブンは腕を伸ばして、水を飲んだことで濡れているレオナルドの唇を親指でそっと拭った。顔を背けても良いはずなのに、今のレオナルドにはその微かなぬくもりすら恋しくて、されるがままになる。
 きっと悪夢と夜のせいだ。だから今の自分は本来の自分じゃなくなっている。そう言い訳をしてレオナルドは口を開いた。
「ぼくが、ひとを、殺したときの夢を、みました」
「君が人を殺した?」
 思い当たらない、と怪訝そうな顔。確かにレオナルドは己の手で直接人を殺めたことはない。けれど。
「あの、秘書……ミカミ、って言った。彼を死なせたのは僕です。僕がああ言ったから、貴方は彼をもトウドウ氏と同じ目に遭わせることに決めた。もし僕が何も言わなければ、少なくとも彼はあそこでK・Kさんに撃たれることなんてなかったでしょう。だから、彼は僕が殺したようなものだ」
「それは違うぞ、少年」
 眉根を寄せ、スティーブンは即答する。
「あれを殺したのは俺だ。俺が判断して、K・Kに命じて撃たせた。だから君が罪の意識を覚える必要はない」
「それでも彼の死には僕が関わっていることに違いありません。あの時、僕は彼に死んでもらわなくちゃと思った。この眼を見られたから、だから口封じが必要だって。家族のためだと言い訳をして、僕自身のために、僕は他人の死を願った」
「レオナルド……」
 罪の意識に耐えられずうつむいたレオナルドにスティーブンが呼びかける。
「すまない。もっと君のことを考えて行動すべきだった」
 吐き出されたのは苦しそうな声。
「君が情に厚い人間だということはよく解っていたのにな。俺とは違って、まだ汚れていなくて、優しい君に、あんな光景を見せるべきじゃなかった。本当にすまない」
 骨ばった長い指がレオナルドの髪を梳く。
「君にやさしくしたいのに、俺は君を傷つけてばかりだ」
 半ば独り言じみた、自嘲交じりの声だった。
 やめてくれと拒絶する気持ちとその手を取りたいという気持ちがレオナルドの中で混ざり合う。頭からゆっくりと降りてきて頬を撫でる大きな手を跳ね除けることもせず、レオナルドは唇を噛んだ。じわりと皮膚の奥に染み込んでくる熱が泣きたくなるほど心地良い。
(僕は優しくなんかない。もし本当に優しいなら、貴方の立場が何であったって抱き締めてやっただろうさ。でも僕は違うから、僕はただの利己主義だから、貴方に優しくなんかできない)
 胸中でひとりごち、そうしてレオナルドは頬に触れる大きな手の上に己の手を添えた。ぴくり、と驚いたようにスティーブンが肩を跳ねさせる。だがそれに気付かないフリをして、レオナルドは己の頬にその熱を留めようと手のひらを押し付けた。
「僕が寝るまでこうしていてください。そうしたら許してあげます」
 ひと一人死んだのはお前自身の罪なのだから許すも何もないだろう、と頭の中でもう一人の自分が嘲った。しかし己が利己主義なのは自覚済みだ。罪の意識に苛まれている自分が一時でも眠りという逃げ道を選択できるなら、それを利用してやろうと思った。
 スティーブンの片手を取り込んだままベッドに横になり、レオナルドは目を閉じる。他人の熱はレオナルドの頭から悪夢を追い払い、安眠へと導いた。
 レオナルドから与えられることなく、ただレオナルドに与えるだけのスティーブンは、身勝手な行動に抗うことなく好きにさせる。「ああそう言えば、この人は元々、大切なものに関してとても献身的な人物だったのだ」と、霞み始めた意識の中でレオナルドは思った。

* * *

 深い呼吸を繰り返すようになった少年の寝顔を見下ろす。自分の部屋にまで聞こえてくるくらい酷い魘され方だったが、なんとか治まったらしい。
 スティーブンはレオナルドがよく眠っているのを確認した後、そっと頬に添えたままの手を引き抜いた。その手を持ち上げ、甲に自らの唇を押し付ける。
「レオ」
 まだ少し手にはレオナルドのぬくもりが残っていた。スティーブンは愛おしげにその名を呼ぶ。
 きっとレオナルドがスティーブンの手を許容したのは、悪夢を見て混乱していたからだろう。しかし、たとえこの夜のことがレオナルドにとってはただの気まぐれで無きに等しいものだったとしても、スティーブンには燦然と輝く大粒の宝石よりずっと尊い出来事だった。
 まるでレオナルドに愛されているような、頼られているような、そんな幸せな一夜の夢。彼を苦しませる原因を作ったことがとても申し訳なかったが、それでもこうして自ら手を取り、触れることを許された事実は、スティーブンにとって幸福以外の何ものでもなかった。
「君が好きだ」
 本人に触れる代わりに、彼に触れられていた手の甲にもう一度唇を落とす。
「どうしようもなく、君を愛している」


【12】


(こいつが俺と会ってても邪魔しねぇって……スターフェイズさん、本当にどうしたんだ)
 低い唸り声を上げる自販機の前。コークの缶を傾けているレオナルドを一瞥し、ザップは胸中でひとりごちた。
 このところ、こうしてレオナルドと過ごす時間をちょくちょく持つことができている。レオナルドを手に入れて早々ザップにもう二度と少年に会うなと牽制してきたあの男は、一体どこに行ってしまったのか。
 スティーブンの行動の変化は彼の心情の変化。レオナルドに自由行動を許しているということは、イコールこの少年への興味が薄れた……わけではないだろう。要らなくなれば手放すのがあの人のスタンスだ。無駄に侍らしたりはしない。ならば、スティーブンの精神面に起こったのは逆のこと。
(姐さんの言を借りるなら、スターフェイズさんが恋をした……っつか、自覚したってところか?)
 ああなんて薄ら寒い想像を、と身を震わせるが、その可能性が最も高いように思われた。
 しかし申し訳ないが、腹黒いと噂される上司の心情などザップには二の次である。優先したいのは今隣にいる少年のこと。スティーブンの態度が変わったことでレオナルドに少しでも笑顔が戻ればそれでいい。
「ザップさん?」
 そう呼びかけ、こちらを見上げて小首を傾げる様子は出会ったばかりの頃に随分近付いている気がする。むしろ幾度となく顔を合わせているおかげか、最初の頃より精神的な距離が近いようだ。しかし何となく引っ掛かりを覚えてザップは口を開いた。
「なんでもねーよ。むしろお前がどうした。気にかかることでもあるんじゃねぇのか」
「……」
 視線を逸らし、缶の縁を噛むレオナルド。残念ながらビンゴらしい。
「スターフェイズさん関係か?」
「何でもあの人に繋げるのやめましょうよ」
「でもオメー、まだあの人の所有物だろうが」
「そうですけど……」
 レオナルドは行儀悪くガジガジと缶の縁を齧り続けている。しかし糸目がふっと開かれてザップに視線を向けた。
「ザップさん、俺のこと買いません?」
「悩み事からてっとり早く逃げる方法がそれってか? ……まあ、スターフェイズさんがお前のこと売りに出したら考えてやるよ」
「そっすか」
「おう」
 かつては神々の義眼保有者を購入するくらいならオンナや賭博に金を使うと切って捨てたザップ。本人はそれを覚えていたが、あえて今の心情を吐露した。またレオナルドも前と違うじゃないか等といったことは言わない。軽い調子で頷いて、最後に「ザンネンっす」とだけ付け足した。
 レオナルドは己が直面している問題から逃げ出したいのだろうか。一人で抱え込み、一人で鬱屈として、ザップにはその片鱗しか見せない。どうにもそれが気に食わなくて、ザップは舌打ち交じりに告げる。
「言いたくねぇなら言わなくていいが、言ってすっきりするなら言っておけよ」
「ザップさん変な物でも拾い食いしました?」
「てめぇ……このザップ様が陰毛頭の話を聞いてやるっつってんだから素直になりやがれコラ」
 失礼なことをほざく後輩(一応)の頭をザップはぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「陰毛ごときがザップ様の慈悲を無視してんじゃねーよ」
「せめて頭を付けろってんですよ頭を!」
 レオナルドが髪の毛を鳥の巣の如くぼさぼさにした先輩の手を弾いて喚いた。しかしその勢いの良さは一瞬だけで、手櫛で適当に整えた後はコークの缶を両手で持ちながら視線を足元に投げる。ザップが黙って待っていると、しばらくしてレオナルドはようよう口を開いた。
「あの人、僕に優しくしてほしいみたいっす」
「……は?」
「言葉の通りですからね。特に裏とかねーですからね」
 床に踵をとんと打ち付けてレオナルドは続ける。
「僕に優しくされたいから、まずは自分が優しくなろうとしていると言うか……たぶん、今の状態はそういうやつっす」
「この自由時間もそれの一つってか」
「優しさの使い方、間違ってますけどねー。俺がもうちっと悪い奴なら情報漏洩しまくりっすよ」
 ふふふ、と小さく笑うも、少年がまとう空気は全く明るくない。
 レオナルドは息を吐き出して呻くように告げた。
「どうして俺なんでしょーね。優しくされたいなら、愛されたいなら、もっと適した人がいるでしょうに。……彼は強者、僕は弱者。彼は搾取する側、僕は搾取される側。僕は家族のためにここにいるしかない人間です。愛しさとか、優しさとか、こっちが抱くようなものじゃないでしょ」
「レオ……」
 ザップは名前しか呼べずに口ごもる。
 レオナルドが抱えているのは困惑と迷い。しかしきっと彼がその気になれば、スティーブンに優しくしてやることは可能だろう。本人も実際には気付いているはず。レオナルドは元々そういう性質の人間だ。愛しい家族のために己を他人に捧げられる人間が優しくないはずがない。けれど彼自身が言った通り、相手と己の立場の差がその性質の邪魔をしている。
 スティーブンとレオナルド。ザップとレオナルド。実のところそれぞれの立場の違いはニアリーイコールである。ゆえにザップはレオナルドの優しさを乞うもまだ与えてもらっていないスティーブンに同情の念を抱いた。否、同情と言うよりも共感と称すべきか。何せレオナルドが持つ人並み以上の慈悲と献身の精神に自分達のような裏稼業の人間は惹かれずにいられないのだから。ザップにはスティーブンの心情が我が事のように理解できた。立場が違うからこそ、その手を欲してしまう。この手を取って笑い返してほしいと思ってしまう。
「ほんと、なんで俺なんか」
 ぽつりと呟くレオナルド。その癖毛を見下ろしながらザップは口を開く。
「なんでも何も、お前がいいって思っちまったらもう他じゃ駄目なんだろ」
 これはスティーブンだけではない。ザップにも当てはまる言葉だ。
 他の人間でもいいはずなのに、むしろ他の人間の方が都合はいいはずなのに、どうしてもレオナルドを選んでしまう。レオナルドがいいと思ってしまう。彼しか欲しくなくなり、それ以外の者の価値など見出す気にもなれなくなる。
 レオナルドの肩が僅かに揺れた。しかし顔を上げてこちらを見られるのも気まずく、ザップは再度ふわふわの黒髪をかき混ぜる。
「本当にどうしようもなくなったらテメェの首根っこひっつかんで逃げてやるから、それまではちゃんと逃げずに向き合ってみろよ。今ここで逃げたら、たぶんお前ぐずぐず悩んで一生納得できねぇままだぜ」
 同情と、共感と。
 本来はこの少年が笑顔でいられることを一番にしているものの――だからこそ彼が納得できる道を進めるように考えて告げたのだが――、そういったスティーブンに対して抱いてしまった感情にも背を押され、ザップはレオナルドにそんな一つの約束をした。

* * *

 休憩を終えてスティーブンの執務室に戻ったレオナルドは、出る前と変わらずデスクで仕事をしている部屋の主の姿を視界に入れると、その場に立ち尽くして小さく拳を握った。
『本当にどうしようもなくなったらテメェの首根っこひっつかんで逃げてやるから、それまではちゃんと逃げずに向き合ってみろよ。今ここで逃げたら、たぶんお前ぐずぐず悩んで一生納得できねぇままだぜ』
 頭の中でザップに言われたばかりの言葉がこだまする。
 向き合ってみろ――。スティーブンの想いに。自身の考えに。これからどうすべきなのか、何をしたいのか、ということに。
 逃げるのは散々考え抜いてからでいい。むしろきちんと向き合ってからでないとザップはレオナルドを逃がしてなどくれないだろう。「なんだあの人カッコよすぎだろ」とレオナルドは胸中で呟く。
 だが彼の言葉の正しさを認める一方で、これから己が向き合わねばならない事案を思うと鉛でも飲み込んだかのように気分が重かった。
 今、レオナルドの中にはまだ名付けていない感情がとぐろを巻いて居座っている。向き合う、とはつまりこの感情を表に引っ張り出すことでもあった。胸を疼かせるそれの形を見て、名を与えて、認めるか破棄するか選ばなくてはならない。
「……どうした、少年」
 立ちっぱなしになっていたレオナルドを訝ってスティーブンが書類から顔を上げた。その声により、一度思考を中断したレオナルドは「いえ」とかぶりを振って自席に向かう。紅茶色の双眸が己の姿を追っていることには気付いていた。しかしレオナルドは何も言わない。
 自席に着いてスリープモードだったラップトップを起動する。明るくなった画面にパスワードを打ち込んで作業画面に遷移し、いつも通りスティーブンが担っている仕事の確認を再開した。
 何も言わないレオナルドにスティーブンもまた視線を外し、静かに自身の作業を続ける。
 しかししばらく後、スティーブンの意識が書面に集中しているタイミングを見計らってレオナルドは顔を上げた。
 視線の先には美しい男がいる。有能で、冷血で、けれどレオナルドの愛が欲しいと泣く子供のような男が。
 ザップの言う通り、彼にとって他の者では――レオナルド以外の人間では――駄目なのだろうか。
 こんな眼だけが特別な、それ以外はどこにでもいる、しかもスティーブン個人はさほど眼に興味がないという、ただの子供。そんなものしか彼は欲しくないと言うのだろうか。
(ぼくは)
 レオナルドは目を伏せ、瞼の上を指でなぞる。
 自分はスティーブン・A・スターフェイズに優しくできるのか。優しくする気があるのか。……彼を愛することなど、あるのだろうか。
 じくり、と胸の奥が疼いた。







【9】2015.09.27 pixivにて初出
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【11】2015.09.30 pixivにて初出
【12】2015.09.30 pixivにて初出