【5】


 スティーブン・A・スターフェイズの専属秘書。それが今のレオナルド・ウォッチの立場である。
 この肩書きはレオナルドがスティーブンの管理する職務内容全てに目を通しても問題ない環境を作るため、最初に与えられたものだった。
 ただし実際には全く秘書らしい仕事などしていない。レオナルドはただスティーブンの手元に届く膨大な量の情報を『見る』だけだ。そこから整理してスティーブンに必要なものだけ選んで渡したり、はたまた彼が多忙の際には代理を務めたりというようなことは一切無い。ただスティーブンの所有物として傍らにある。それだけがレオナルドに求められた対価だった。
 レオナルドが目を通す情報は過去のものから現在、そしてこの先の予定まで、多岐にわたる。その中にはスティーブンが仕えるクラウスや更に上の者にさえ知らされない案件があった。つまり、スティーブン本人にしてみれば機密中の機密というやつだ。それにすら触れてしまったレオナルドは当然のことながら情報漏洩防止のため可能な限りスティーブンの傍に侍り、行動を共にすることが要求される。上層部のみの会議や非常に特別な取引相手との会食等、レオナルドが同席を許されない場合は、鍵のついた部屋で待機という名の監禁まで行われた。しかしレオナルドは一切それに反対しない。ただ静かに己の家族の安寧を青い双眸で確認するだけ。
 そのような生活が始まって一ヶ月ほど経ち、ちょうどスティーブンが関わってきた過去の出来事についてレオナルドがあらかた把握し終わった頃。
 買い与えられたラップトップから視線を外し、レオナルドは重くなった両目を誤魔化すようにきつく目を瞑る。
 秘書の肩書と共に、組の本部にもなっている屋敷の一角――スティーブンに与えられた執務室には新たな机が用意された。レオナルドは目を瞑ったまま部屋の主の持ち物に見劣りしない高級デスクチェアにゆっくりと背を預ける。
(これは、すげーわ)
 正直なところ、スティーブンの行いはレオナルドの想像を軽く飛び越えていた。この身に施した行為などまだまだ甘いものである。過去の所業に一通り目を通した今、改めてそう思う。
 組のためなら何でもするんだな、というのが一番当たり障りのない表現だろうか。以前ザップが「実質的に組を動かしてんのはあの人だぜ」と言ったことがあったが、それは表側のみならず裏側――クラウス以上の人間が感知しない部分――においても当てはまる表現だった。ザップ本人がそこまで気付いているかどうかは不明だが。
(そういやあの部屋を出てから一度もザップさんに会ってないな……)
 スティーブンの指示でザップとその部下が動いた際には当然報告が上がってくるため、レオナルドもそれに目を通して彼が元気にしていることは知っている。しかし素っ裸で目覚めたあの客間での一件以来、ザップとの直接的な接触は全く無かった。
(まぁそれ以前に僕のこと覚えてるかどうかも怪しいところだけど)
 所詮、ザップにとってレオナルドは上司が暇潰しに連れて来た玩具のようなものだろう。あの部屋で交わした言葉も愛人と一度ベッドインすれば忘れてしまったとしてもおかしくない。ある種の極限状態から救ってくれた相手でもあるので縁が切れてしまうのは惜しい気もしたが、こんな環境では致し方ないとレオナルドは諦めることにした。
 そんな中、
「何を考えている?」
 同じ部屋の中で軽やかかつスピーディーにキーボードを叩いていたスティーブンがいつの間にか顔を上げてこちらを見つめていた。何でもない風を装いながらもその声と表情には僅かな苛立ちが見え隠れする。
 レオナルドは糸目で紅茶色の双眸を見返し、「いえ、特に何も」と淡々とした声で答えた。
 スティーブンの苛立ちの理由は不明だ。彼は大抵、レオナルドが目の届く範囲にいるだけで満足している。しかし時折こうして何かが気に入らないような顔で注意を己に向けようとする。レオナルドが他人のことについて思考を巡らせていると発生する傾向にあるようなのだが、果たして偶然か、それとも必然か。
 しかしレオナルドにとってそれは考慮に値しないことだった。自分はただこの男の元に集まる情報に黙々と目を通していればいい、とレオナルドは思っている。大切な妹や両親にこの男の魔の手が伸びないよう監視し続けるためスティーブンの所有物にはなったが、彼のご機嫌取りまでは契約に含まれていないのだ。レオナルドが彼に差し出す対価は彼のものとして傍に侍ることのみ。無論、スティーブンが求めればそれ≠ノ応じなければならないのだけれども。
 ただし口を割らせるために無体を強いた夜以降、スティーブンがそういう意味でレオナルドの肌に触れたことは一度もない。今もまたレオナルドの返答を聞いた男は席を立つことすらなくただじっと見返して、納得いかなさそうに唇を引き結ぶだけだった。
 しばらく黙したまま見つめ合っていれば、ついに根負けしたのかもしくは時間の無駄だと感じたのか、スティーブンがラップトップの画面に視線を戻す。長い指は再びキーボードの上を滑り始め、レオナルドもまた新しく上がってきた報告書の存在に気付いてマウスを操作した。
 カチカチとクリックし、PDF形式のファイルを開く。こちらはチェイン・皇という諜報関係に携わる女性からの調査報告書だった。近々スティーブンが会食をする予定となっている相手の周辺を調べたもので、政府関係者との癒着の可能性があるとされていたのだが、見事その予想は的中していたようだ。
(あ。って言うかこいつクスリ扱ってんのか。こりゃ今回の会食、取引が目的じゃなくて潰すための顔合わせだな。向こうは普通に商売するつもりで出てくるんだろうけど)
 秘書の仕事など全くしていないものの、これだけ情報に触れれば組の性質や考え方も理解できるようになってくる。スティーブンの所業も表裏合わせて把握していればなおのこと。
 また次の会食は密会と言うほどでもないのでレオナルドも秘書として同行する。ただし食事中は別室であちら側の付き人と待機だ。最終的に食事中交わされた内容はレオナルドの耳に入ってくるのだが、何事にも体面というのは必要である。
 なお、飛び抜けて見目が良いわけでもなく、加えて少し前まで一般人だったレオナルドが会食に同行すれば、それを連れて来たスティーブンが相手方に軽視される……というようなことはない。秘書になるにあたり、レオナルドは頭のてっぺんから爪先までスティーブン本人によって磨かれる羽目になった。現在まとっているスティーブンのものより暗い色をしたスーツもストレートチップの革靴も全てスティーブンが選び、彼のポケットマネーで支払われたものである。秘書として侍らせるなら見た目にも気を遣わなければならないとのことで、ちんちくりんとも称されるレオナルドは本気になったスティーブンの手によって見違えるほどに垢抜けた。まさかついひと月前まで貧乏アルバイターだったなどとは誰も思うまい。ともあれ、おかげさまで会合や会食に向かうスティーブンの秘書として付き従っても今のレオナルドならば見劣りしないのだ。
 スティーブンがあれこれとレオナルドに施したため一方で要らぬ噂も立ったのだが、それはそれ、これはこれ。人の噂も七十五日。放っておけば静かになるだろう。
(でもまさか僕がこの人の恋人とはなぁ……)
 ちらりと横目でスティーブンを一瞥する。
 同性だが、レオナルドの見た目やスティーブンの行動諸々により、レオナルドはこの男の『イロ』なのだと勘違いする人間が組の中にも外にも少なからず存在しているのだ。自分自身は実害が出ていないので気にするほどではないと思っているけれども、この男はどう感じているのだろうか。
(嫌だとか考える前に、こういう噂すら何かに使えないかって考えてたりして)
 その可能性は大いにある。
 繰り返しになるが、このスティーブン・A・スターフェイズという男、組のためならば何でもできてしまう人間なのだから。

* * *

 レオナルドを飼うと決めると同時に、スティーブンは彼を己の自宅に住まわせることにした。使っていなかったゲストルームに少し手を加えてレオナルドの部屋に。内側から鍵をかけられないようにするのと、窓は換気可能だがひと一人が通り抜けられないようデザイン変更した。
 本部に出勤する際も帰宅の際も、また食事を取る時も、四六時中行動を共にする。ひと月ほどそんな生活を続けてみたが、スティーブンは特に不都合を感じず、またレオナルドもあからさまに不平不満を漏らすことはない。あの少年の場合、自分の扱いがどうであれ情報が正しく伝えられていればそれで良いのだろう。
 若い頃と比べて地位が格段に上がり現場の荒事から遠ざかっているスティーブンは、代わりに机の上で処理する業務が恐ろしいほど膨大になっている。それでも持ち前の要領の良さで夕食を取る時間までに仕事を済ませれば、後はレオナルドを伴って帰宅するのみ。
 自身が運転する黒のベントレーの助手席に少年を乗せて我が家に到着した後、スティーブンは日中に通いの家政婦が用意してくれていた夕食を温め直してダイニングテーブルに並べる。その間、レオナルドはリビングのソファに座ってタブレット端末を弄っていることが多い。今夜も例に漏れず、少年は熱心に画面を見つめていた。
 端末に表示されているのは動画投稿サイトやSNS系ではなく、スティーブンのスマートフォンと連動したスケジュール帳や仕事の資料等々。スティーブンに関わる案件の多さは目を瞠るものがあるので、レオナルドは一時たりとも無駄にしたくないと言わんばかりに空いた時間ですら情報収集とその整理に努めているようだった。
 明けても暮れても頭の中はスティーブンのことばかり。その事実にレオナルド本人は気付いているのだろうか?
「少年、食事にしよう」
「わかりました」
 ただしどれほど熱心に資料を読み込んでいてもスティーブンが声をかければレオナルドは瞬時にその手を止めて食卓に着く。スティーブンのものになったレオナルドは『家族に手出しをしない』『情報をすべて開示する』という約束を守る限り、とても従順な子供だった。
 レオナルドと住むようになってから格段に使用頻度の増えたテーブルで向かい合って席に着けば、特に会話もなく静かに食事が始まる。
 かちゃかちゃと食器が擦れる小さな音だけを共にして、家政婦が腕によりをかけて作った夕食を腹におさめた後、少年は無言で席を立った。この家に住み始めたばかりの頃はスティーブンが次の行動を指示していたが、慣れた今ではそれも必要ない。
 食事が終われば、次は風呂。レオナルドを先に入らせ、スティーブンはその間に食器の片付けを行って最後に風呂上りの少年が飲むためのドリンクを準備する。これを飲んだ後、レオナルドはスティーブンが風呂から出るのを待つことなく自室に引っ込んで眠ってしまうのだ。
 今日はペリエにミントの葉を浮かべたものを。ただしミントの葉以外にもう一つ別のものを加える。
 ぽとんと炭酸水の中に落とされ、溶けていくのは白い錠剤。軽くステアすれば見えなくなってしまうそれは、医療機関で処方される正真正銘の睡眠薬だった。


 風呂を済ませたスティーブンは内側から鍵がかからないようになっている部屋へと足を踏み入れる。ベッドの上の住人は薬のおかげで常より深い眠りに落ちていた。
 レオナルドに睡眠薬を飲ませるのはこの一ヶ月で三度目。ただし幸いにも少年が違和感を覚えたことはないようだった。
 ベッドの傍らに両膝をつき、スティーブンは胎児のように身体を丸めて眠るレオナルドの片手をそっと握り締める。完全に成人した男の手をしているスティーブンと比べて、レオナルドのそれは一回り小さく、またどことなく柔らかい。綺麗な形をしたピンク色の爪を撫でて、スティーブンはうっそりと微笑んだ。
「レオ……レオナルド」
 少し手を引いて、その指先に唇で軽く触れる。
「大きな愛にあふれる人。どうか、僕を愛して」
 指を絡ませて軽く握れば、風呂上りで温まっているスティーブンの手が気持ちいいのか、無意識にそっと握り返された。その反応に胸の奥が湧き立つのを感じたが、今日の執務室でのことを思い出してスティーブンは眉間に皺を寄せる。
「今日は一体誰のことを考えていたんだ? 僕と一緒にいたのに。僕のことだけ考えてろよ。僕が君の大切なものに手を出さないよう、ずっと監視するんだろう?」
 薬で深い眠りに落ちているレオナルドはその問いに答えない。スティーブンも答えを求める代わりに自分より一回り小さな手を更に己の方へ引き寄せて、指を舐めたり甘噛みしたりと好きなように振る舞った。
 やがて指先を這っていた舌は指の股、手のひら、手首へと進み、腕の内側を痕が付かない程度に吸い上げる。
 風呂に入った後のレオナルドはスティーブンが使っているのと同じボディソープの匂いがする。けれども深く息を吸い込めば、何となく自分がまとっているより甘い香りが混じっているような気がした。
 スティーブンは身体を伸ばしてレオナルドの首筋に顔を近付ける。スン、と鼻を鳴らせば、レオナルドの体臭だろうか? もっと嗅ぎたくなるような香りが鼻腔を満たす。たまらなくなって、白い首筋に唇を押し当てた。ちゅ、ちゅ、キスを数度繰り返し、やわく甘噛みを施す。舌で舐め上げても全く甘くなかったが、それとは別の甘さが脳髄をしびれさせた。
 世間一般的には愛撫に分類されるであろうその行為。しかしスティーブンにとっては自分がレオナルドに愛を向けるためではなく、レオナルドに彼からの愛を乞うための行動である。キスや甘噛みの合間にも「ぼくをあいして」と小さく繰り返し、愛された時のことを想像して口元を緩めさせた。
 しかしそんな行為の最中にスティーブンは自分の身体の変化に気付く。
 過去二回はしばらくレオナルドを堪能しただけで気が済んだ。しかし現在、膝立ちの体勢からレオナルドに半ば覆い被さるような形になっていたスティーブンは、ベッドの縁に勃起した股間のものが擦れるのを感じて、はたと目を見開く。
 自覚はなかったがかなり疲れているのだろうか。放っておけば静まるだろうか。そう考えを巡らせるスティーブンだったが、
「……ん、ぅ」
 眠っていたレオナルドが小さく声を出す。はっとして少年に視線を戻すと、彼は未だ深い眠りの中。胸を撫で下ろすと共にじわじわと下腹の辺りから熱が迫り上がってくるのを感じた。
「はっ……」
 スティーブンは一旦身を引き、背中を丸めてベッドの縁に額を押し付けた。シーツの上に投げ出されていたレオナルドの手を己の頬に触れさせ、ずれないよう左手で上から押さえつける。そして右手は己のズボンの中へ。
 ほんの少しの躊躇いは圧倒的な衝動に押し流される。
「レオ」
 ゆるく立ち上がった己のものを扱けば、すぐに腰が震えた。
「レオ、れお」
 溢れてきた先走りを指で掬って先端に塗り込めるように動かす。直接的な快感に滲み出すものが増えると、その滑りを利用して陰茎全体を擦り上げる。裏筋を撫でながらレオナルドの名前を呟けば、背中にビリビリと電流が走った。
「ッ……ぁ、レオ……れおなる、ど」
 女性から引く手数多なせいで自慰をする機会は多くないのだが、今夜のそれは普段の自慰よりも格段に早い。とろとろと我慢できずに零れ出す液体はますます指の滑りを良くし、裏筋を弄ったあとで亀頭に戻ってくると容易く熱い吐息が零れた。
「ふっ……は、ぁ、っ………れお」
 ぐちゅぐちゅと暗い室内に水音が立つ。忙しなく熱い息を吐きながらスティーブンは頬に添えていたレオナルドの手を左手で持ち上げて、手のひらにちゅうと吸い付いた。
「っれお、きもちいい、よ……れお、れお、れお、――ッ」
 ぐり、と指先で鈴口を強く抉るように押した瞬間、スティーブンは達した。レオナルドの手のひらに熱い息を吹きかけ、満足そうに「ああ」と呟く。
「れおなるど……」
 指先一本一本にキスを落として、スティーブンは眠り続ける少年にとろりとした微笑みを向けた。
「はやくおれをあいして」

 上辺だけじゃない。汚いところも全部、スティーブンの全てを知って、本当の愛を与えてください。


【6】


「なぁに黄昏てんのよ、ザップっち」
「姐さん……」
 組の本部地下に設置された遊戯室。そこの簡易バーカウンターに腰かけていると、ぽん、と肩を叩かれた。
 振り返ったザップの銀色の双眸が捉えたのは、右目を眼帯で覆った金髪碧眼の美女。K・Kという通り名を持ち、フリーランスながらも半ば専属のような頻度でこの組によく手を貸している狙撃手は、遊戯室でカードにもビリヤードにも興じることなく、それどころか酒の入っていたグラスさえ空っぽのままぼんやりと葉巻をくゆらせていたザップの顔を見て眉間に皺を寄せる。
「アンタ本当に調子悪そうね? そんな顔、むしろアタシの方がしたいくらいなんだけど」
「……そういや今日はスターフェイズさんと次の仕事の打ち合わせでしたっけ?」
「そうよー。ほんっっっと何度見ても嫌になるわ、あのスカーフェイス! 腹黒さが滲み出てるったらないんだから」
「ははっ。まぁあの人がいないと、人の良い旦那だけじゃウチも上手いこと回りませんし」
「それが分かってるから更にムカつくのよ」
 むう、と頬を膨らませる彼女はすでに二人の子供を持つ母親であるらしいのだが、なかなかどうして、そんな年齢など感じさせないほどに美しい。
 K・Kはこの組の番頭役スティーブン・A・スターフェイズと犬猿の仲である。正確に言えばK・Kが一方的にスティーブンを蛇蠍の如く嫌い、スティーブンはそんな彼女に苦笑で対応するのだが、この狙撃手本人からすれば同じようなものだろう。むしろそれすら嫌悪を加速させる理由になっているかもしれない。
 彼らの間に過去、何があったのかはさておき、仕事とはいえスティーブンと顔を合わせた後のK・Kは当然のように機嫌が良くない。
 そんな彼女が浮かべたくなるような表情とは――。ザップは葉巻を人差し指と中指に挟んだままその手で両目を隠すように顔を覆った。
「今の姐さんがしたい顔っすか。そりゃもう酷い顔なんでしょうね」
「そうね。苛立っているような、うんざりしているような、なんとも言えない顔よ。……何かあった?」
 最後は幼い子を持つ母親の声音で。
 あまり親と縁のない子供時代を過ごしたザップはその声に口元を歪めながら、軽い口調を意識して、しかしどことなく重さを拭いきれないまま言葉を紡ぎだす。
「スターフェイズさんと打ち合わせしてきたなら、あの人の横にいたクソガキも見ましたよね。レオナルドっていう陰毛頭のガキ」
「え? ああ、まぁ。新しく雇った秘書だって? でもアイツ、秘書なんて必要なの? 今まで一人も雇ったことなかったじゃない」
「っスね。たぶん秘書なんて言っても、あの陰毛頭は秘書の仕事なんてしてねーっすよ」
 K・Kとスティーブンが打ち合わせをしている最中も資料の一枚すら出すことなくただ同じ部屋の中で突っ立っていただけではないか、とザップが尋ねれば、K・Kは素直にそれを肯定した。
「しかもスカーフェイスのヤツがニコニコしてる横で、あの子、全然表情を変えなかった。なんていうか、人形とかロボットみたいにずっと無表情なの」
「あー……やっぱそうでしたか。俺も最近は遠目にしか見てなかったんすけど、ホント……スターフェイズさんに付き従っているアイツは生きてる感じがしねぇっつーか」
「知り合い?」
「一応。アイツが結構ころころ表情を変えるヤツだってことくらいは知ってますよ」
 たった一回、言葉を交わしただけだったけれど。それでもザップはスティーブンの秘書ことレオナルドが表情豊かな少年であることを知っている。
 ザップは葉巻を傍らの灰皿に押し付け、カウンターの上で手を組んだ。
 あの客間での一件以降、ザップはレオナルドと一度も言葉を交わしていない。
 実はレオナルドがスティーブンの秘書になったと聞いてすぐ、ザップは彼がまだ売り飛ばされていなかったことをほんの少し嬉しく思いながら会いに行こうとした。しかしその前にスティーブンの方からザップの元を訪れ、こう言ったのだ。
 ――必要以上に彼と接触しないでくれないか。あれは俺のものになったんだ。
 言葉を交わすな。姿を見せるな。スティーブンはザップにそう要求した。
 何故なのかと問えば、組一番の伊達男は暗い瞳でザップを見据え、「お前はあの部屋でもう一生分、あの子と話しただろう?」などと答える始末。どうやらレオナルドが監禁されていた客間にザップが愛用している葉巻が残されており、それに気付いたスティーブンが自分の許可も得ずにザップが裸のレオナルドと接したことに怒りを覚えたらしい。
 許可も何も、最初からスティーブンは客間への入室を禁止してなどいなかったはずだ。理不尽にも程がある。しかし暗い紅茶色の双眸に見つめられると強くも出られず、ザップは彼の言い分を受け入れるしかなかった。
 以降、レオナルドには会いに行けていない。時折、スティーブンに同行する少年の横顔や後姿を遠くから見かけるのみ。しかもそのシーンの全てにおいて、レオナルドはあの時見せてくれた多彩な表情をどこかに置き去りにしたような冷たい顔つきをしていた。おかげさまでザップはこのところ胸に鉛でも流し込まれたような気分が続いている。楽しそうな顔などできるはずもない。
「……ねぇザップっち。あの子、一体何?」
 尋ねながらも、K・Kの顔は僅かにしかめられていた。もしかしたらレオナルドとスティーブンに関する噂くらいなら彼女の耳にも届いているのかもしれない。これならたぶん組の中だけじゃなく外にも噂は広がってるな、と胸中で呟きながら、ザップはどう答えるべきかしばらく逡巡する。
 噂の内容はレオナルドがスティーブンの恋人もしくは情夫――意味的には『情婦』の方が合っているかもしれない――という下世話なもの。スティーブンの振る舞いを見ていれば、そう考える者が出るのも仕方ない有様だった。
 しかしこれは完全にザップの勘なのだが、スティーブンはレオナルドを抱いていない。
 またどういう経緯があったのか謎であるものの、現在のスティーブンはレオナルドに執心している。一方、レオナルドはスティーブンに従いながらも彼には全く心を許していない。
 あべこべで、ちぐはぐ。奇妙で、奇怪。
 スティーブンもザップに牽制するほどレオナルドを求めているなら、さっさと身体だけでもオトしてしまえばいいものを。得意なはずのその手を使わず、何かを待つようにじっとしているスティーブンは奇妙を通り越して恐ろしさすら感じられる。
 当然のことながら、『美術品』としてレオナルドを傍に置いているわけではないだろう。あの少年は常に糸目を維持しており、その双眸を見せびらかしたりはしていない。またスティーブン自身も『神々の義眼』に執着するような嗜好は持ち合わせていなかったはずだ。
 そんなスティーブンにとって、レオナルドとは何者か。
「姐さんが思ってるようなことじゃないっすよ。かと言ってそれが良いってわけでもないんでしょーけど」
 ザップはひとまずそう答えた。
 K・Kが忌み嫌う男が突然男色(しかも少年愛傾向)に目覚めたわけではない。
「一応あの陰毛頭も特別っちゃあ特別なモン持ってるんです。でもあの人は別にそれが欲しくてアイツを傍に置いてるつもりはないと思います。俺もよくわかんねーんスよねぇ。最初はその辺の変態親父に売りつける気満々だったくせして」
「あの子がどういう意味で特別なのか深くは追及しないけど……なるほど。あのいけ好かないスティーブン先生はあの子に会って何かが変わったってことね?」
「っス。レオ本人はマジで無害っつーか、アイツ一人じゃなんもできねぇタイプですよ。だから俺も含めて周りは特に心配してません。スターフェイズさんの頭の方の心配はしたりしなかったりですが」
「やぁねぇ。それだけ聞いてたら、あの男が恋しちゃったみたいに思えてくるわ」
 今にも嘔吐しそうな顔でK・Kが呻いた。
「恋かー。スターフェイズさんが恋っすかー」
 あの氷のような男が? 女性なら引く手数多の伊達男が? わざわざ眼が奇妙なだけの、大して美しくもない少年を?
 有り得ないだろ、と思う一方で、ザップは妙に得心がいったような心地にも陥る。ならばスティーブンが欲しがっているのはレオナルドの身体ではなく心なのか。そしていつかはレオナルドも心身ともにスティーブンのものとなってしまうのか。
 あるかもしれない未来を想像すると、チクリ、と心臓の辺りが痛んだ。その痛みのせいで思わず眉間に皺を寄せる。
「ザップっち、アンタ……」
「? なんすか」
 ザップの顔を覗き込んでK・Kが驚いたように片目を見開いていた。どうしてそんな顔をするのかとザップが尋ねれば、彼女はやがて表情を驚愕からニンマリとした笑顔に切り替え、「アタシはザップっちの味方よ!」とサムズアップしてみせる。
「はい?」
「アンタさあ、その子……レオっちに会いたいと思ってるでしょ? 遠目に見るだけじゃなくて、ちゃんと会話して、笑ってる顔が見たいんでしょ?」
「……」
 その通りだった。ザップはレオナルドがころころと表情を変える様をまた見たい。軽口の応酬をして、馬鹿みたいに笑いたい。
「ついでに、スカーフェイスがレオっちを独占しているのは正直気に食わないと思ってる」
「……えっと。まぁ、はい」
 こくりと幼子のように頷いてしまえば、K・Kが再び慈母のような微笑を浮かべた。
「それってつまり恋じゃないの」
「誰が、誰に?」
「ザップっちが、レオっちに。友情かもしれないけど、アンタの顔見てたら友情だとしても相当なものよ。どっちにしろ、ザップっちはレオっちをスカーフェイスから奪いたい。あの子をもう一度笑わせてあげたいんじゃない?」
 だからアタシはザップっちの味方につくわ、とK・Kが続けるのを聞いて、ザップはカウンターテーブルに額を打ち付けた。ゴンッとなかなか良い音がしたが、気にしていられない。顔全体が熱くなり、目が泳ぐ。
 恋かもしれない。友情だとしても、相当なもの。とにかくザップ・レンフロはレオナルドにもう一度笑って欲しい。
「〜〜〜〜ッ」
「若いわねぇ」
 無理やりこちらに自覚させておきながら、K・Kは飄々とした顔でそう告げる。
「俺、まだアイツと二回しか顔合わせてねーし、会話したのだって一回きりなんすけど」
「それでも特別な人ってのはできちゃう時にはできちゃうものよ。頑張りなさいな、青少年」
 ぽんぼん、と頭を叩かれる。
 結局、ザップはそのまましばらく顔を上げられなかった。


【7】


 組織には頭を潰せば残り全てが総崩れになるものと、頭を潰してもまた新しい頭が速やかに現れて組織を存続させるものがある。今回、レオナルドがスティーブンに随伴した会食の相手は前者だった。
 名はトウドウ。彼が社長≠務めるのは、中規模のコンサルティング会社である。しかしそれは表の顔で、裏では政府関係者との癒着、犯罪組織との繋がり、そして違法薬物の流通等、叩けば埃しか出ない。完全なるワンマン経営であり、一代であらゆる繋がりを作り上げたある種の天才だ。
 しかし今回、トウドウは失敗を犯した。
 彼が最も太いパイプを持つのはスティーブン達が属する組とは敵対関係にある組織である。それは構わない。各々の縄張りで好きなように振る舞えばいい。しかしトウドウは自社で扱う違法薬物をこちら側のシマでばら撒いてしまった。
 半アングラな店でクスリが出回り始めたのに気付いたスティーブンは、その店の一つから順番に辿って薬を流通させている大本まで調べ上げた。彼が最初に足を運んだ末端の店こそレオナルドがアルバイトをしていた場所なのだが、それはさておき。
 クスリは御法度であるこちらのシマで半分ウラ半分オモテの店にブツを流通させ、しかも敵対組織との方が強い繋がりを持つトウドウ。おまけにスティーブン達が管理する地域での売り上げは全て敵対組織の方に流れてしまうので、金銭的な旨味もない。あちら側は今回の会食で正式にこちらからクスリの売買の許可を取ろうと考えているようだが、トップをクスリ嫌いの人間が占めているこの組が首を縦に振るはずもなく、つまるところトウドウはこの件で『どうでもいい相手』から『邪魔な相手』に負の格上げをされることになったわけだ。
 どうでもいいものは放置。しかし邪魔な相手を自由に泳がせる趣味は無い。表向きスティーブンはトウドウの提案を聞くという形を取ったが、早々に舞台から相手を蹴り落とす算段を付けたようだった。
(会食の最中に何者かが遠方より狙撃。初撃でトウドウは頭部を撃たれて即死。二発目でスティーブン・A・スターフェイズが狙われるが、彼はそれを辛くも回避。腕のいい狙撃手は三発目が成功しないと踏んで撤退。なお狙撃手または狙撃を依頼した犯人は、こっちの組とトウドウが手を組むことで不利益を被る者だと予想される……ってシナリオか。ちゃっちいけど、きちんとやれば表立って誰にも文句は言わせない結末を迎えられる)
 文句を言わせないどころか、むしろ『こっちの組とトウドウが手を組むことで不利益を被る者』の代表格である敵対組織に厳しい目が向けられる可能性は大いにある。まさに一石二鳥。
 レオナルド・ウォッチは心の中だけで怖いなぁと呟いた。
 車の後部座席に座ったままチラリと隣を窺えば、いつも通りのきっちりとしたスーツ姿の伊達男が一人。ただし今夜は前髪を上げて額を出している。そんなスティーブンから視線を外し、レオナルドはこれから起こる『事件』を脳内で確認する。すでに配置についているであろう狙撃手は先日顔を合わせたK・Kという女性だ。彼女は非常に腕が良く、トウドウの頭を鉛弾でぶち抜いた後、予定通りスティーブンの腕にカモフラージュのための銃創を負わせてくれることだろう。
 なお、トウドウの秘書とレオナルドは隣室で待機していたため、狙われずに済むという補足設定がある。レオナルドだけではなくトウドウの秘書まで無傷で返すのは、その人物をトウドウだけでなくスティーブンも命を狙われたという状況の証人に仕立て上げるためだ。また秘書が無事なら、同じ立場であるレオナルドが無傷であっても不審がられないという利点がある。
 会食の場所となる料亭へ向かう車の中、今回の作戦を考えた当人は全く気負った様子を見せずに泰然と前を見据えていた。普通は死なないと分かっていても銃で撃たれるのは怖いはず。しかしスティーブンからは恐れに分類される感情を微塵も感じない。執務室で作戦について語った時も――今回の作戦は文章に残せないし、また残すほどでもないからと口頭で説明したのである――同じ顔をしていた。むしろようやく邪魔者を突き止め、それを排除できる段階に至れて喜んですらいたように思える。
(組のためなら鉛弾の一つや二つ喰らっても平気ってことなのかな)
 レオナルドは胸中でひとりごちた。
 もしそうなら大した忠誠心であり、献身だ。自分は己が属する集まりのために身を捧げるなど、到底真似できない……と考えてから、レオナルドは否やを唱えた。
 もし組織ではなく個人、たとえばレオナルドにとってのミシェーラや両親だとしたら。
 大切な人を守るため命を危険に晒す行為は――
(できなくも、ないか)
 現に己はスティーブンの不興を買って殺すか売られるかするかもしれないという状況下で啖呵を切っている。そして隣に座る男がレオナルドの大切な家族に手出ししないよう監視するため己が持つ全てを相手に差し出した。ならばスティーブンが組に対して行っているものと大して差はないのかもしれない。
 かといって共感を抱くには相手が悪過ぎた。スティーブンの両手は真っ赤であり真っ黒だ。レオナルドとは比較にならないほど、守るべきもののために傷つくことも傷つけることも繰り返している。膨大な量の情報に触れてレオナルドはそれを知っており、そしてこの場で改めてそれを理解するに至った。……ような、気がする。
 そんな組のために生きているような男が何故レオナルドを傍に置いているのだろうか、と、ふと疑問に思った。
 売って金にするならまだしも、今のところ一切その素振りを見せていない。また趣味や酔狂で行ったことですら何かしら組のための行為だろうと思わせる男なのだから、レオナルドのこともいずれは上手く使う≠ヘずだ。むしろもうすでに使われている可能性もある。
(僕はこの男から何を求められている?)
 自問しつつも、答えは出ない。しかし明らかなことが一つあった。その『何』が直接的であろうと間接的であろうと、レオナルドの大切なものにとって害とならないよう、より一層気を引き締めなくてはならない、ということだ。
 害となるもの以外ならば、最初の言葉通り全てを差し出してみせよう。身体も、矜持も、倫理観でさえ。レオナルドが心から愛する人達のために。


「改めて、はじめまして。私はミカミと申します」
 料亭に到着し、スティーブンとトウドウが二人で会談を始めた後。別室に移ったレオナルドに、トウドウ側の秘書が握手を求めてきた。
 無視する必要性も感じられなかったため、レオナルドは差し出された男の手を握り返しながら「レオと呼んでください、ミカミさん」と告げる。
 本名、特にフルネームを明かさないのは自衛のためだ。今はまだレオナルドの『神々の義眼』の存在を知る者はごく僅かであり、またその者達がレオナルドの家族に危害を加える可能性は低い状態にある。しかしもし何かのはずみで眼のことが他人に知られ、その他人がレオナルドと血縁関係にある者達を調べ上げようとしたならば、フルネームを知られているのは致命的と言えるだろう。ゆえに少しでも家族への危険性を減らすため、相手に渡す情報は少ないほどいい。
 完全な偽名を使わないのは、相手がすでにレオナルドの本名を知っていた時の対策だ。本名を知られているのに偽名を名乗ってしまえば、その時点でこちらが相手を警戒していることがバレてしまう。それではスムーズな取引などできようはずもない。反して、フルネームではなく愛称や省略形を用いれば、親しみを感じていると取ってもらえる。無論、これも時と場合を考えねばならないが。
 今回は上手く行き、ミカミは眼鏡の向こう側で切れ長の黒い双眸をゆったりと細め、「じゃあそう呼ばせてもらうよ」と砕けた口調で答えた。
 黒のストライプスーツに身を包み、理知的なノンフレームの眼鏡をかけたミカミはまさに仕事ができる男といった雰囲気を醸し出している。スティーブンまでとはいかないがかなりの色男だ。さぞ女性にはおモテになるのだろう、と思いながら手を放そうとするレオナルドだったが、
「……あの、ミカミさん?」
 くんっ、と手を引いても離れない。視線の先ではレオナルドの右手を握ったままミカミが薄い笑みを浮かべている。
「手を放していただけませんか。僕らにも料理が用意されているみたいですし、隣のお二人がお話を済まされる前に食べないと」
 レオナルドはそう言って左手で室内に設置されているテーブルを示す。上に乗っているのは漆塗りの重箱が二つ。弁当とのことだが、想像していたものより何十倍も立派だった。メインの二人が食事をしつつ話し合いをする間、秘書達にもただの待機ではなく夕食を取れるように用意されたものであるらしい。
 ミカミもそれを一瞥したが、またすぐに視線をレオナルドへと戻す。男の力は存外に強く、少し本気で引っ張ってみても拘束は解けなかった。
「ちょっと」
 レオナルドの声に剣呑さが混じる。
「ミカミさ――「君、あのミスタ・スターフェイズの『イロ』だって本当?」
「……は?」
 突然のことで一瞬間の抜けた顔をしたが、組の中でも広まっている噂についてだと気付いてレオナルドは表情を正す。苦笑いを浮かべて「まさか」と返した。
「僕はあの人のただの秘書ですよ」
「そう? でもミスタ・スターフェイズは秘書なんていらないくらい有能じゃなかったっけ? それにこれは完全な私の想像だけど、立場上、秘書だろうが何だろうが他人には見せられないお仕事もされているだろうし。そんな状況で君が突然現れたんだ。何かあると思わずにはいられないだろう?」
「……気まぐれじゃないですか。と言うか、ミカミさん、貴方こそ一体何なんですか。その口振りからすると僕の上司のことを随分良くご存じのようですけど」
「うん、まぁね」
 スティーブンのことを良く知っているのかと問われたミカミは上機嫌で続ける。
「トウドウさんよりもミスタ・スターフェイズの部下になりたいと思っているくらいだから」
「はい?」
 本日二回目の間抜け面を晒してレオナルドは語尾を上げた。
「今夜お話をさせていただくにあたって、こちらも色々と調べたんだよ。そしたらもう、そちらの組でのミスタ・スターフェイズの働きぶりといったら! うちの社長≠焜fキる人だけど、比べ物にならないね。むしろ今回に限って言えば、社長はミスだらけだ。ワンマンだから私の忠告も聞こうとしない。そちらの組はクスリ御法度だって言うのに売っちゃう、おまけに取引の話は持って行っちゃう……本当に散々だよ。よくもまぁ今夜出会いがしらに撃たれなかったもんだ。どうせクスリ御法度なんて言葉ばかりで中身がないんだろうとか、クスリの売買の旨味を知れば手のひらを返すだろうとか、そんな甘い考えで今日の段取りをしてしまった人を見ているとね、本当にもう君の立場が羨ましい。いや、あの人に抱かれたいってわけじゃないんだ。あの人の下について自分の能力を活かしたい。私はそう思っている。むしろ君に関しては……」
 人が変わったかの如く興奮気味に喋り続けていた男がレオナルドに触れたままの手を勢いよく引く。強く引っ張られたレオナルドは踏ん張りもきかずにミカミの方へと倒れ込み、そのまま抱き留められた。
「っ、ちょ」
「……あの人が食べた味ってどんなものだろう? そういう意味で気になっているかな」
「ッ!」
 言われた意味を理解して全身が総毛立つ。
 突き飛ばしてでも相手から離れようとするが、それより早く腰に左腕を回され、顎をくいと持ち上げられた。おまけに股へ片足を差し込まれて完全に逃げられない体勢となる。
「放せ!」
「あまり大声を出さない方が良い。隣に聞こえてしまうよ?」
 透明なレンズの向こうで黒い双眸が細くなった。
「君の年齢とかフルネームとか、色々伏せられていて分からなかったんだけど……随分と若いね? 体つきは全体的に薄くて細いし、肌も綺麗だ。ひょっとして十代とか。そんな人間に組の仕事を任せるとは思えないなぁ。君、やっぱり本当はあの人に食べられるのが仕事なんだろう?」
 レオナルドの顔をまじまじと見つめた後、ミカミはうっとりとした顔で微笑む。「違う」と呟くが、信じてくれる気配は微塵もない。
「着ている物は上等だけど、顔はそんなに可愛いわけでもないね。しかも糸目。これ、見えているのかい? 仕事ができる男ってのは趣味が一般とは違うのか。それとも君の具合≠ェ余程良いのかな」
 顎や頬を撫でていた右手が首筋、更にその下へと落ち、脇腹を撫でた。スーツ越しであるためその感触は淡いものだったが、レオナルドは嫌悪に顔を歪める。
 大声を出さないのは、ミカミの言う通り隣の部屋にいるスティーブン達に気付かれないようにするためだ。ただしそれはスティーブンにこんな状態を見られたくないからではなく、これから起こることの邪魔をしないため。その一点に尽きる。下手に声を出して異常を知らせ、スティーブンの邪魔をしたとあっては、あとで彼にどんな制裁を喰らわされるか分かったものではない。
「仕事、しろよ……あんた、それでも一応、トウドウ社長の秘書、なんだろ」
 布越しに身体を這う手の動きが気持ち悪くてレオナルドの声は引きつったものになってしまった。ミカミは一瞬手を止めて、生意気な言葉ばかり吐く『ミスタ・スターフェイズの秘書』の顔を見る。そのまま視線を外すことなく、ぐい、とレオナルドの股間に差し入れていた膝を持ち上げる。
「っ、ひぃ」
 弱い所を押し上げられて、思わずレオナルドの口から短い悲鳴が漏れた。それを間近で確認したミカミは唇の間から白い歯を覗かせていやらしく笑う。
「仕事? ああ、私の今の仕事はミスタ・スターフェイズの秘書のお相手だからね。間違ってはいないんじゃないか?」
「は、ふざけ――っ、あ、やめッ、ァ」
 太腿で股間を擦り上げられ、体格差のせいで足が浮いた。更にミカミの右手はレオナルドの尻を掴み、痛いくらいに揉み始める。
 ふさげるな、と心の中で怒鳴り声を上げながらレオナルドは男の胸板を拳で思い切り殴りつけた。ただし体勢のせいであまり威力は出ず、ミカミは鬱陶しげに舌打ちをするのみ。
「黙って喰われてろよ、ビッチ」
 ミカミはそう吐き捨て、腰に回していた左手でレオナルドの両腕を頭上で拘束する。そのまま壁際に身体を押し付け、残った右手で本格的にレオナルドの身体をまさぐり始めた。
「誰がビッチだっ」
 レオナルドも抵抗するが、容易くスーツのジャケットが左右に開かれ、白いシャツのボタンが外されていく。相変わらず片足で股間を刺激されているため、相手を蹴りつけることもできない。
 シャツの全てのボタンが外されると、肉付きの薄い身体が男の眼前に晒される。鬱血痕や噛み痕一つない白い肌にミカミはほうと溜息をつき、「大切にされているらしいね」と見当外れなことを囁いた。そうして右手の人差し指をレオナルドの臍(へそ)に添える。
「ひっ」
 臍から真上へと撫で上げられ、肩が跳ねた。しかし腕をガッチリと拘束されているため満足に身体を捩ることすらできない。
「……っ、ぅ」
 指は臍からスタートした後ゆっくり上へ上へと皮膚を這い、心臓の真上へと到達する。そこからは上に行かず、代わりに横へ逸れ、シャツの下に隠れていた胸の頂に触れる。
 乳頭を殊更ゆっくりとした動きで押し潰すようにしながら、ミカミはレオナルドの顔を覗き込んだ。
「もうココは開発された? きもちいい?」
「は? 女の人じゃなんだから、胸で感じるわけねーだろ。それよりも腕を――」
「ふぅん。まだか」
 放せ、と続くはずだったレオナルドの言葉を遮ってミカミは何度も何度も乳首を押し潰したり、乳輪を指先で撫でたりと訳の分からない動作を繰り返す。違和感と嫌悪感はあるが、気持ち良いなどとは微塵も思わない。それよりも定期的に股間を押し上げたり揺すったりする脚の方が問題だ。
 さっさとこの拘束を抜け出したい一心で身体に力を込めるレオナルドだったが――。
「ひン!」
 指の腹でなぶられていた乳頭に突然爪を立てられ、腰が跳ねた。しかも痛みの中に得も言われぬ感覚が混ざっていて、レオナルドは大きく目を見開いてしまう。
「……………………ああ、なるほど。だから君はミスタ・スターフェイズの秘書なのか」
 レオナルドの眼を見たミカミがくつくつと喉を震わせた。
 神々の義眼。神の手による至高の芸術品とまで呼ばれる奇怪で幻想的な双眸に、男はうっとりと黒い目を細める。
 状況は最悪だった。
 ミカミはスティーブンの企みになんとなく気付いており、このままトウドウが殺されてもこちらの組が望むような証人にはなってくれないかもしれない。そして何よりレオナルドの眼を知ってしまった。
「ああ、レオ……。君は美しいな。道理でミスタ・スターフェイズが傍に置くわけだ。ようやく得心がいったよ。うん。確かにあの人のような傍に侍るのは、普通の人間じゃ役者不足だ」
「ひっ、あ、ッ、やめ」
 恍惚とした表情でレオナルドの目を覗き込みながらもミカミは手の動きを止めない。何かを感じ始めたレオナルドの胸の頂を摘まんだり、爪を立てたりし、絶えず刺激を与え続ける。
 そしてミカミは真っ赤に腫れたそこに己の顔を近付けて――
 ガシャン! と窓の割れる音。隣の部屋からだ。そして続くのは重い何かがくずおれるような鈍い音。
 ミカミは驚いて顔を上げ、レオナルドは心の中でようやく始まったと呟いた。
「トウドウ社長!? くそっ、狙撃か!」
 スティーブンの焦った声が聞こえる。無論演技だが、数秒後に彼の呻き声が聞こえた。予定通り、腕を撃たれたのだろう。遅れて銃声が聞こえる。遠方からの狙撃のため、着弾より銃声が遅れて聞こえてくるのだ。
 状況が理解できないらしいミカミはそれでも銃声を聞いてレオナルドから離れようとする。しかしその前に、隣室から逃げてきた<Xティーブンがこちらの部屋に転がり込んでくる。彼は腕から血を流してミカミの前に情けない姿を晒すはずだったのだが、
「……なにを、している」
 痛みで掠れても美しい色気のある声が尋ねた。
 紅茶色の双眸にはレオナルドの腕を拘束して襲い掛かっているミカミの姿。また先程からずっとレオナルドの双眸は見開かれている。
 理由は分からずとも状況は解したらしいスティーブンがすっと表情を消した。本当に腕が撃たれているというのに立ち上がり、コツコツと革靴の踵を打ち鳴らしてレオナルドとミカミに近付いてくる。
 無言のまま長い腕を伸ばして掴み上げたのは、ミカミの襟首。そして引き摺るように元来た道を戻る。
「ちょ、え、何するんですか!?」
 レオナルドが思わず声を上げた。予定と違う。ミカミには傷ついたスティーブンの姿を見せて、こちらにとって有利な証言をさせるのではなかったのか。色々と聞いてしまったレオナルドはさておき、ミカミの話を知らないスティーブンはまだそのつもりだったはずだ。なのに彼は氷のような無表情のまま狙撃で割れた窓の所へミカミを引き摺って行く。
 そして、
「K・K、見えるな? 撃ち殺せ」
 ミカミの襟首を掴んでいない方の手でスマートフォンを操作し、遠く離れた所でこちらを見つめているはずのK・Kにそう連絡を取った。
『は? ちょっと、スカーフェイス。アンタ何言って』
「トウドウの秘書を殺せと言ったんだ」
 戸惑うK・Kにスティーブンは冷たく言い放つ。それを聞いていたミカミは慌てたが、スティーブンの力には敵わないらしく、情けない悲鳴を上げるばかり。
『予定と違うじゃない!』
 スマートフォンの向こうでK・Kが声を荒らげる。レオナルドの位置からも聞こえるほどの大声だ。それを聞いて、レオナルドはハッとなって口を開いた。
「そいつ、こちら側の考えもある程度理解しているみたいですよ。だから今夜の話し合いが失敗するって気付いてました。おそらく生かしておいてもあまり良い証人にはなってくれません」
 こちらがトウドウ社長の死を望んでいたなどと証言されてはたまったものではない。――というのは勿論、建前だ。本音は、
(こいつは僕の眼を見た)
 だから、消えてもらった方が良い。
 スティーブンを抑えるだけでも手いっぱいだと言うのに――自分の中で『いいひと』認定しているザップは除く――、これ以上余計な人間を増やしたいはずがなかった。そのためにひと一人の命が消えるとしても、自分がどれほど罪悪感に押し潰されようとも、愛しい家族に比べられるものなどない。
 レオナルドが慌てて告げたその言葉に、スティーブンがくるりと振り返って「なるほど」と呟く。そして前に向き直り、
「だそうだよ、K・K。だから生きていられては困るんだ。さあ、仕事を果たしてくれ。今夜の雇い主は俺だぞ?」
『ッ! ああもう!』
 レオナルドが見つめる先でスティーブンがスマホをスーツの内ポケットに戻し、両手でミカミをひときわ高く持ち上げる。次の瞬間、ぱっと赤い花が咲いた。見事なヘッドショット。トウドウと同じ場所を狙撃されたミカミはその下にいるスティーブンに血と脳漿をぶちまけながら全身の力を失った。
 骸を床に投げ捨ててスティーブンがレオナルドの元へ戻ってくる。
「……レオナルド」
 スティーブンは壁にもたれ掛るレオナルドの前に立ち、虚ろな声で名を呼んだ。
「はい」
「なにを、された」
「顔から腹にかけて触られました。乳首を舐められそうでしたが、未遂です」
「あとは?」
「……その、股間に、脚を入れられて」
「直接触られてはいない?」
「はい」
「そうか……。よかった。いや、良くはないが、まだマシな方か」
 ぶつぶつと独り言のように呟きながらスティーブンは膝を折り、レオナルドのシャツのボタンを留め始めた。
「大声を出さなかったのは作戦のためだよな。すまなかった」
 この男が謝罪をした? と、レオナルドは片眉を上げる。見下ろしてもスティーブンのつむじが視界に入るだけで、表情は伺えない。
 シャツのボタンを留め終わったスティーブンは続いてジャケットに手を掛ける。しかしそのボタンを指で摘まんだ状態のまま、ぽふ、とレオナルドの薄い腹に己の額を押し付けた。
「なにを」
「すまない。しばらくこのままでいさせてくれ」
 そう言ってスティーブンはレオナルドの腹に額を押し付けたまま、しがみつくように腕を腰に回した。先程男に襲われたばかりのはずなのに、幼子のようなその仕草を見てレオナルドは何も言えなくなってしまう。
(調子狂うなぁ)
 ひとまず神々の義眼を目撃した男がいなくなってくれてよかった、と。人でなしのような考えを抱きながら、小さく息を吐き出した。


【8】


 レオナルドがトウドウの秘書に襲われているのを目撃した瞬間、スティーブンは自分が何のためにここにいるのか、また腕まで撃たれてやったのか、そういったことが全て頭から吹っ飛ぶ気がした。
 明らかに同意ではなく無理やりといった体に頭のどこかでほっとしながらも、スティーブンのものであるレオナルドに他人が触れているという事実は非常に受け入れがたく、「ああ、この男を殺さなければ」と思ったほどだ。きっとレオナルドの証言がなくても、自分はミカミという男を許しはしなかっただろう。何らかの理由を付けて、もしくは理由がなくとも、男の命を奪い取っていたに違いない。それほどまでに怒りは脳を焼いていた。
 あの後、レオナルドの身に何が起こって、どういう経緯でミカミがスティーブンの企みに気付いているという考えに至ったのか、改めて話を聞いた。スティーブンからすればレオナルドを襲った時点でミカミは死罪だったのだが、それではK・Kが納得しない。そんなわけで、K・Kのために検証することとなったのだ。
 最終的にK・Kも「理由は何であれ無理やり迫る野郎は死んで当然ね。あとレオっちはよく頑張りました」という結論に至ったのだが――。

「あのさぁスティーブン先生。事情っていうか建前は理解したけど、やっぱり仕事にまでアンタの幼稚な恋心を持ち込むのはどうかと思うわよ」

 諸々を終えてレオナルドを退室させた後、執務室に残ったのはスティーブンとK・Kの二人。しっかりと少年の足音が聞こえなくなったのを確認してからK・Kはそう言い切った。
「恋心……? なんだ、K・K。君もあの噂を聞いたのか?」
 スティーブンも自分とレオナルドの噂については知っている。ゆえに苦笑を浮かべた。
 どうやらK・Kはその噂を真に受けて、恋人(もしくは愛人)を他の男に襲われて怒った<Xティーブンがいきなり予定を変更し、秘書の男も殺すよう指示したに違いないと考えたのだろう。
 とんだ考え違いだ。
「僕は別にレオナルドを愛でたくて傍に置いているわけじゃないさ」
 スティーブン・A・スターフェイズがレオナルド・ウォッチを愛しているのではない。愛したいわけでもない。
「僕はね、彼を愛しているつもりはないし、これから愛する予定もない。ただ、彼に愛されたいんだ」
「は?」
 K・Kが隻眼を見開く。そんなに驚くことだろうか?
「レオナルドの愛は素晴らしいよ。たとえば家族に向けた愛。彼は自分の命よりも家族を大切に思い、愛している。僕も思わず彼の家族が羨ましいと思ってしまった。だから僕もそのおこぼれに与れたら、と思ってしまったわけさ。もしあの子が自分の命よりも僕を優先してくれるようになったら……素晴らしいと思わないかい? これ以上の幸福は無いと思ったね」
「ちょっと……なによそれ」
 K・Kは頭痛でも覚えたかのようにこめかみを押さえ、眉間に皺を寄せた。
「まさか気付いてないわけ? 本気? ここまで自覚なしって……まったく、これだから他人を見透かすことと騙すことしか知らない腹黒男は」
「K・K?」
 彼女が何を言っているのか理解できず、スティーブンは首を傾げる。その声を受け、K・Kは顔を上げた。非常に気に食わないというのが分かるしかめっ面がスティーブンを睨み付けてくる。
「スカーフェイス、アンタはレオっちに愛されたいのよね?」
「ああ」
「その理由は、レオっちが本当に大きくて深い愛の持ち主だから」
「そうだな」
「じゃあ例え話だけど。本当に不本意でしょうがない例え話だけど。たとえばアタシに心から愛されたとして、アンタは嬉しく感じる?」
 それは有り得ないだろうとスティーブンは思ったが、事前に本人が「例え話だけど」と念を押していたので、とりあえず頷く。
「そりゃあね。好かれたなら嬉しいと思うだろうさ」
「でもそれってレオっちに愛してもらえた時と同じように感じるの?」
「そんなわけないだろう」
 即答した。
「そう? けれどアタシもレオっちも、心から家族を愛しているのよ? どちらも自分の命より家族が大事だと思ってるのに、アンタはレオっちとアタシじゃ違うって言うんでしょ? だったらその違いは何? アンタが相手に向ける気持ち以外に差はあるの? あるなら今ここで言ってみなさいよ。ねえ。アタシに愛されてもアンタは平然としていられるでしょうね。でもレオっちに愛してもらえたら?」
 ――アンタがレオっちを愛しているからこそ、あの子に愛し返してもらえれば何よりも嬉しいと感じるんじゃないの。
「………………」
 スティーブンは瞠目する。呼吸さえ止まった。
「俺がレオを愛している……?」
「じゃなきゃ好きになってほしいなんて思わないわよ。いい加減自覚なさい、腹黒男。その齢でまともな恋をしちゃったんだから、もうちょっとまともに相手にアタックしなさいよ。そうでなきゃレオっちが可哀想だわ」
 ふん、と鼻を鳴らしてK・Kは踵を返す。
「あーほんっっっと気持ち悪い! こんなおっさんが無自覚恋愛ですって!? 冗談じゃないわよ。これで自覚したんだから、もうアタシを煩わせないでよね。あと、今夜の報酬はちゃんと口座に振り込んでおきなさい。無論、色を付けてね!」
 そう言い捨ててK・Kはスティーブンの執務室を出た。数秒の沈黙を挟み、残されたスティーブンはじわじわと赤くなり始めた顔を手で覆う。
 この齢で、あんな男の子に。
「うそだろ……」
 呟いてみても、それを否定するかのように心臓がばくばくと激しく脈を打っていた。

* * *

 スティーブンの執務室を出た後、K・Kは額を押さえて呻く。
「うう、ザップっちごめん。アンタの敵に塩送っちゃったかも。でも本当にあの無自覚腹黒男、気持ち悪かったのよぅ。だからせめて自覚して隠す努力くらいはしてほしかったの」
 気持ちを自覚したスティーブンがそれを隠すのか、それとももっとオープンにするのか、まだ誰も知らない。







【5】2015.08.26 pixivにて初出
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