【1】


「ウィ、スティーブン」
 そう言って電話を取ったスティーブンの顔色が変わる。ライブラの事務所で待機していたメンバー達は一瞬で神経を張り詰め、副官からの指示と説明を待った。
 短いやり取りの後、スティーブンが携帯端末の終話ボタンに触れて待機任務中だった面々を見渡す。
 リーダーのクラウスは自席。レオナルドとザップは定位置のソファで携帯型ゲームに興じていたが、そちらはすでに電源が切られて視線はスティーブンの方を向いている。K・Kは自宅、チェインは外で諜報活動中だ。ラインヘルツ家の有能執事は車の用意をしていることだろう。
 息を吸い込み、スティーブンは口を開いた。
「連邦捜査局から緊急要請が入った。ロックフェラー・センターに血界の眷属が出現。数は二。少なくとも一方は長老級だ。これから全員で現場に急行する」


 いつか遭遇した吸血鬼達とは逆の組み合わせだな、とスティーブンは胸中でひとりごちる。
 先行する諜報係から、敵はプラチナブロンドの優男と若い女の姿をしていると報告が上がってきた。そして前者が長老級(エルダークラス)であると推測される、と。
 以前地下鉄の駅構内で対峙したのは女の姿をしたエルダークラスのブラッドブリードとそれに付き従う低級の男の吸血鬼だった。あの時はK・Kと共闘しても満身創痍で、クラウスの到着がほんの少し遅ければ今頃スティーブンは車中の人ではなく墓の下に入っていたことだろう。
 ギルベルトが運転する車はスピード重視の厳ついフォルムをしたオープンカー。後部座席にはスティーブンとクラウス、そして二人の間にちょこんとレオナルドが収まる形になっている。ザップは自身のランブレッタで裏道を使いながら現場までの最短距離を進んでいるはずだ。
「プラチナブロンドの男と若い女……」
 スティーブンの右隣で報告を聞いていたレオナルドが小さな声で呟く。風除けと義眼を開いた時のカモフラージュとして装着しているゴーグルは彼の表情を隠すのに一役買っており、少年がどんな気持ちでそう呟いたのか他人の推測を難しくしている。
「知り合いに似た組み合わせでもいるのか?」
 探るつもりはなかったが何となくそう尋ねてみた。するとレオナルドはしばらく逡巡した後、口元を歪ませて「実は」と続ける。
「会いたくない知り合いに全く同じ組み合わせの二人がいまして」
「……へえ。珍しいな、少年がそんなことを言うなんて」
 上辺だけでなく、スティーブンは少しだが本当に驚いていた。
 誰にでも得手不得手・他人に対する好悪はあるだろうが、レオナルド・ウォッチがはっきり「会いたくない」と発言するようなことがあるとは思っていなかったのだ。
 どうやら自分は無意識のうちにレオナルドを美化しすぎていたらしい、とスティーブンは自覚する。目の前の少年は聖人君子などではないのだから、蛇蝎の如く嫌う人間がいてもおかしくないはずなのに。
 スティーブンのそんな考えを読み取ったわけではないだろうが、レオナルドは顔をこちらに向けて苦笑を浮かべる。その苦い笑みの半分はレオナルドの向こう側で今の発言に目を瞠っているクラウスが原因かもしれない。『レオ』の思い出があるスティーブンほどではないにしろ、クラウスもそれなりにレオナルド・ウォッチを平凡ながらも一本芯の通った万人に優しい少年だと思っていただろうから。
「君にそう言わせる人間なら、よほどのクズが人非人か……。ともあれ、ろくでもない奴らなんだろうな」
「はは。ええ、まあ、とんでもない人達ですよ。できればもう二度と会いたくないですし――」
 言いながらレオナルドはゴーグルに手を添える。外すためではない。位置を直すフリをして己の表情を隠すためだ。
「――もし再会したなら、殺してしまいたいですね」
 凍えるような声で吐き捨てる。
「まあ、それができなかったから憎いままなんすけど」
 冷たい声から一転、情けなさが漂う声音を出して少年は肩を竦めた。
「っ、そいつらは君に一体何をしたんだ……?」
 クラウスが驚愕で固まってしまい、スティーブン自身も声を掠れさせながら尋ねる。
 彼の妹でも傷つけない限り、レオナルド・ウォッチがこうも憎しみを露わにする存在などいるとは思えなかった。しかしミシェーラ・ウォッチが義眼の件以外で害されたという事実はない。にもかかわらず、スティーブン達の間に座る少年はこうして黒い心情を吐露してしまっている。
 スティーブンの問いにレオナルドはうつむいた。そして、ぽつりと零す。
「ずっと昔に大切なものを傷つけられ、その上、僕自身も人としての尊厳を奪われました」
 小さな呟きと同時に、車は目的地へと到着した。

* * *

 いくら過去の記憶を揺さぶられたからといって、上司二人に要らないことを言いすぎたなぁとレオナルドは反省する。
 現場に到着すると共に戦闘要員は血界の眷属がいると思しき場所に向かって駆け出した。一秒一刻を争うため、悠長にレオナルドの発言について問い質すような真似はしない。やるとしたら戦闘が終わって無事に帰還してからだ。
 レオナルドは吸血鬼の諱名を読むため派手な動きをする戦闘要員達から少し離れて移動している。今、彼の動きを視認しているのは遠くからスナイパーライフルのスコープを覗くK・Kくらいだろう。他の面々は気配で大体の位置を察している程度だろうか。
 ロックフェラー・センター。五番街および六番街にある超高層ビルを含む複数のビルからなる複合施設である。大富豪のジョン・D・ロックフェラーによって1930年から建設開始。設計はレイモンド・フッド、他。
 ニューヨークでも指折りの名所であり、金色のプロメテウス像や冬になると飾られる巨大なクリスマスツリーとスケートリンクは地名を知らない人間ですら映画等で見たことがある光景だろう。
 ニューヨークが崩落しヘルサレムズ・ロットへと再構築されたため色々と消失したり組み替えられたりしているが――残念ながらシンボルの一つであるGEビルが途中から折れて消失している――、一応名前が残る程度には姿形が保たれている場所の一つである。
 レオナルドの視線の先で戦闘が開始された。氷の塔が伸び、炎が舞い、錆色の十字架が地面に乱立する。その合間を縫って撃ち込まれるのは電撃をまとう銃弾。ライブラの戦闘要員達によって吸血鬼の足止めが行われている。
 レオナルドはそんな攻撃の陰に隠れて血界の眷属達の姿を視界に捉えた。
 そして、
「……ッ!」
 大きく目を見開き、息を呑む。
 GEビル消失跡地前に広がる細長い形の庭園――チャネル・ガーデンズの植木の陰から見えたのは、報告通りの男女二人。一方はプラチナブロンドの端正な顔立ちをした青年、もう一方は真っ赤な唇が印象的な美しい女。じく、と傷など一つも残っていない目の奥が鈍い痛みを訴える。数秒遅れて、眼球を脳みそごと貫かれ、肉体をぐちゃぐちゃに破壊される感覚が身体のあちこちでぶり返した。
「はっ……、」
 冷や汗が背中を伝う。だが逆にレオナルドの唇はうっすらと弧を描いていた。
 相手が強敵であるのは分かる。現にかつて味わった痛みを思い出して身体は震えていた。しかし今のレオナルドには彼らの諱名を見ることが可能だ。これさえあれば『あの子』を傷つけた女もレオナルドを化物に変えた男も封印することができる。
 自分の正体を明かすことに繋がってしまうため女の方の不可視の攻撃について今すぐライブラの皆に教えることは躊躇われたが、その分を補おうとレオナルドは戦場へ一歩また一歩と近付いていく。一字たりとも間違えることなくその名を紙に書き写すため、ある程度の接近は必要なことだった。また諱名を書き写した紙をクラウスに渡すためにも距離は短い方が良い。
 現在、吸血鬼とライブラの面々はGEビル消失跡地で派手な戦闘を繰り広げている。とは言っても戦っているのはプラチナブロンドの青年の方だけだ。彼を『マスター』と呼び、彼から『レディ』と呼ばれる女の方は人間の攻撃を容易く弾くマスターの姿にうっとりと見惚れていた。
 レディは完全に観客と化している。またマスターはそんなレディに派手なパフォーマンスを披露するため、動き回って攻撃を避けるのではなく、自分に襲い掛かってくる炎や氷や電撃や十字架を己の手足だけで弾き返している。時折強めの攻撃に当たって身体の一部が消失することもあるが、長老級と指定されるほどの超高速治癒により、次の攻撃が襲ってきた時には完治しているという有様だった。
 視線をあっちこっちと動かさずに済むおかげで諱名を読み取るのも容易くなっている。レオナルドは植木に隠れて彼らの名前をメモ用紙に書き記した。全ての文字を読み直して間違いがないことを確認すると同時に、インカムでクラウス達に読み取り完了を告げる。
「クラウスさん、できました。今、チャネル・ガーデンズの端……えっと北西側にいます!」
『よくやった少年。クラウス、聞いていたな? ここは俺とザップとK・Kで抑えるから君は少年の元へ』
『承知した!』
 スティーブン、クラウスの順に声が入り、レオナルドも自分達のリーダーと合流するため植木の陰から飛び出した。
 いきなり高い攻撃力を持つクラウスが戦線を離脱したのだから、当然吸血鬼達は訝る。彼らがクラウス離脱の真意に気付いて攻撃の矛先を変える前にレオナルドはメモを渡さなければならない。ライブラの到着前に血を吸われたであろう人間達の死体の脇を通り過ぎ、全力でクラウスの元へ走った。
「レオナルド君!」
「クラウスさんっ! お願いします!!」
 レオナルドがクラウスにメモを手渡す。と同時にプラチナブロンドの『マスター』がGEビルの瓦礫に足を乗せたまま「おや?」と片方の眉を持ち上げた。そしてゴーグルをしっかりと装着していたレオナルドに向かって軽く右手を振り下ろす。
「……っ!」
 ガキン、とクラウスの拳が何かを弾いた。レオナルドを狙ったそれはマスターの長く変形させた右腕だ。しかし標的に到達する前にクラウスの拳によって砕かれる。
 硬質化していた吸血鬼の右腕はいくつかの破片に分かれて飛び散る。その一片がゴーグルのバンド部分をかすめた。数本の髪の毛と共にバントが千切れ、レオナルドの顔からゴーグルがずり落ちる。
 すでに破壊された右腕の修復が始まっているマスターは外気に晒されたレオナルドの顔を見てくっと喉を震わせた。レオナルドとクラウスの位置からでは聞こえないが、その口が「君でしたか」と呟く。マスターの視線を辿ってレディもこちらの存在に気付き、不愉快そうに顔をしかめた。
 レオナルドの義眼はそんな彼らの表情の変化を嫌でも鮮明に捉えている。しかし反応はしない。そんな暇があるなら、レオナルドは傍らの人物にこう告げるのみ。
「行ってください。ブラッドブリードを封印して今日も世界を救いましょうよ」
 おまけでニッと笑ってみせれば、クラウスが力強く頷き返す。メモ用紙に書かれたマスターのとても長い名前とレディの比較的短い名前を一瞬で暗記し、屈強なる紳士は左拳を握り直した。
 再びマスターからの攻撃がレオナルドに向けられる。しかしそれをザップの血法が燃やして勢いを削ぎ、スティーブンの氷の盾が護りきる。その間に戦場へと舞い戻ったクラウスは、どうせ人間には何もできないと高を括っていたマスターの身体に左拳を押し当てた。
 長い名前を一字一句間違わずに告げて技名を叫ぶ。
「ブレングリード流血闘術 999式 遠棺封縛獄(エーヴィヒカイトゲフェングニス)」
 ぎゅるりとマスターの肉体が錆色に包まれる。拘束、圧縮。そして小さな十字架となって瓦礫の散らばる地面に落ちた。
「あ……」
 目を見開いて一音を発したのはそれまでマスターとライブラの戦闘を眺めていたレディ。
 驚愕に目を見開き、怒りと絶望で唇を震わせる。
「この……っ!」
 ぶわり、とレディの周囲の空気が揺らいだ。
「人間風情が!!!!」
 彼女の足元から伸びる無数の棘をレオナルドの瞳だけが捉えていた。かつて見えなかった触手とも棘ともつかぬそれは、義眼を得た今、はっきりと視認することができる。しかし他の人間には見えていない。唯一、スティーブンをして天才と言わしめたザップだけが目に見えない棘へ勘だけで攻撃する。
 血の糸が棘を捕えた。しかしそれは完璧ではなく、いくつかの棘がクラウスの四肢に到達する。クラウスもギリギリのところで躱すが、棘は決して浅くない傷を残していく。
「旦那!」
「クラウス!」
 ザップが更に血の糸を増やし、捕えた端から着火し爆散させた。スティーブンも氷の盾を出現させクラウスの後退を支援する。しかし有効な対抗策は見つけられない。不可視の棘はザップの血の糸をすり抜けてクラウスに襲い掛かる。
「クラウスさん後ろです!」
 咄嵯にレオナルドが叫んだ。インカム越しの警告に反応してクラウスが身体を捻る。だがまだだ。それでは棘から逃れられない。間に合わないと解っているのにレオナルドは彼らに向かって駆け出していた。
 レオナルドは手を伸ばす。その向こうでクラウスの身体に巨大な棘が――。
「……………………うそ」
 レオナルドは青白く輝く義眼をこれでもかと見開いた。
 その両目が捉えたのはクラウスを突き飛ばす影。ダークグレーのスーツが赤く染まり、脇腹を派手に抉られた男が口の端を持ち上げる。
「君と少年は密封の要だ。動けなくなられちゃ困るんだよ」
「「スティーブン!!」」
 クラウスとレオナルドの叫びが重なった。

* * *

「「スティーブン!!」」
 聞き慣れた友人の呼び声と、「おいおい君がなんで俺を呼び捨てにしてるんだ?」と尋ねたくなる少年の声。しかし、どうしてだろうか。レオナルド・ウォッチの敬称抜きの呼びかけはひどく懐かしい気がした。
 スティーブンの脇腹を抉った無色透明の巨大な棘は付着した血でその輪郭を露わにしている。
(ああ……この光景は)
 遠い記憶がよみがえり、スティーブンは胸中でひとりごちた。かつて庇われた自分は、今、庇う側になっているけれども。
 視線を向けた先にレオナルドがいる。スティーブンの怪我に血相を変え、キッと女吸血鬼を睨み付けた。
「この■■■■がッ!!!!」
 聞くに堪えないスラングはザップとコンビを組ませすぎてしまったせいだろうか。場違いとは解っているが、ライブラの番頭役として反省してしまう。だがそれも一瞬のことだ。
 次の瞬間、女吸血鬼が暴言を吐くレオナルドに視線を向ける。スティーブンの顔から血の気が引いた。レオナルドはこの場にいる誰よりも非力なのだ。そんな人間に血界の眷属の攻撃を向けさせてはいけない。
「ザップ! 少年を護れ!!」
 脇腹の傷に構うことなく叫んだ。
 しかしザップが反応するよりも早く異変が訪れる。レオナルドを視界に捉えた吸血鬼が次のモーションに移ろうとした直後、急にその動作を中断し、両目を押さえて絶叫したのだ。
「あ、ああああああああああ!!」
 叫ぶ女吸血鬼をじっと見据えているのはレオナルド・ウォッチ。青く輝く神々の義眼をめいっぱい見開いて歯を食いしばっている。義眼の力を使って吸血鬼の視界に壮絶な負荷をかけているのだとスティーブンはすぐに解った。いつもなら視野混交(シャッフル)や暗転程度で終わらせているそれを容赦ないレベルにまで引き上げている。その分、レオナルドへの負荷も大きくなっているはずだが、出力を抑える気配はない。
 その様子はただ単純に隙を作ろうというものではなかった。己の義眼の力だけで吸血鬼を戦闘不能に追いやろうとするかのような気迫が籠っている。
 じゃり、とスニーカーの靴底で小さなコンクリートの破片が悲鳴を上げた。
 瞬き一つせずレオナルドは女吸血鬼へ近付いていく。
「レオナルド君!」
 それ以上接近するなとクラウスが呼び止める。しかし少年はリーダーの警告を聞き入れない。ザップも声を張り上げ、K・Kもインカム越しに叫んだが、本人は足を止めることも振り向くことも応答することもなく歩み続ける。
 脇腹を負傷したスティーブンはその場に膝をついてレオナルドの背中を見ていた。
 視界を完全に支配された女吸血鬼は暴言を吐きながら周囲へと無差別に不可視の攻撃を放つ。地面に転がっていたコンクリート片は更に細かく砕かれ、壁だったものは穴だらけになり、そして棘の一つがレオナルドの腕をかすめた。血が飛散し、上着の袖を赤く染め上げる。
 その姿にスティーブンは胃が引き絞られる心地がした。古い記憶がフラッシュバックする。

 飛散するガラスの破片から守るため抱き締められた時に感じたぬくもり。
 耳の奥で反響するのは必死に「逃げろ」と叫ぶ声。
 濃く香る血の匂い。

 不可視の棘に貫かれた、大切な、あのひと。

「――ッ、レオ!!」
 それは『誰』を呼んだのか。
 理解せずにスティーブンは声を張り上げる。
 しかし、
(なんで止まってくれない! 何故だ! 俺が……ぼくが、呼んでいるのに!!)
 レオナルドは進み続ける。不可視の棘が見えているレオナルドは致命傷になるものだけギリギリのところで避けているようだった。しかし身体能力が飛び抜けて優れているわけでもない少年は絶え間なく繰り出される棘の猛攻に少しずつ流す血の量を増やしていく。
 クラウスとザップは見えない棘のせいで近付こうにも近付けない。K・Kが放つ弾丸は時折吸血鬼に着弾していたが、致命傷を与えられるものではなかった。むしろ中途半端な痛みを与えることで余計に棘の攻撃が激しくなっているようでもある。
「おい、アバズレ」
 ようやくレオナルドが歩みを止めた。しかしそこは女吸血鬼から二メートル程度しか離れていない。
「確かあんたはマスターほど再生速度が速くなかったよな」
 決して大きくはない声でレオナルドが告げる。まるで知り合いに対するかのような物言いに周囲は訝しんだ。
「……くそが! これ≠ヘてめぇの仕業か!」
 マスターと話していた時とはがらりと変わった荒い口調で女吸血鬼が口角泡を飛ばす。しかしレオナルドはそれに答えない。否、ひっそりと「ああ、余裕が無い時はそういう喋り方なんだ」と笑う。苛立った吸血鬼は声を頼りに棘を伸ばした。
「「「『レオ(っち)!』」」」
 ひときわ太い不可視の棘が少年の腹を貫く。レオナルドの口端から赤い血が伝った。それでもレオナルドの表情は変わらない。むしろ口角を上げ、露悪的に笑ってみせた。
「見たところ、この棘はあんたの足から伸びてる。ってことは、その足を切り離せばしばらく静かになるんだろ?」
 直後、女吸血鬼の両足が膝の部分ですっぱりと切り離された。ぐらりと傾ぐ女の身体。一体何がどうやってその切断を行ったのか誰にも分からなかった。
 ただ一人、レオナルドだけが行動を起こす。
「クラウスさん! 今なら見えない攻撃もありません! 密封してください!!」
 本体から切り離された棘が少年の腹からずるりと抜けた。栓を失った傷口からは一気に血が溢れる。それでも優先すべきはレオナルドではなく吸血鬼の封印。そうでなければ許さないと青い義眼が告げていた。
 クラウスが駆け出す。左手を強く握りしめ、女吸血鬼の身体に押し当てた。
「貴方を『密封』する」


【2】


 涼やかな音を立てて二つ目の十字架が瓦礫の山に落ちる。それを回収するのはほっそりとした女性の指。何もない空気中から色素が凝集するように姿を現したのはチェインだった。
 記録用に回していたビデオカメラは最早機能していない。彼女の視線はこの場にいる誰よりも大怪我を負った少年に向けられている。無表情を装いつつも黒い双眸には不安が滲んでいた。
 そんな仲間の様子を一瞥した後、スティーブンはふらりと立ち上がる。すでにレオナルドの元へはクラウスとザップが駆け寄っていた。ライブラの番頭役として、戦場を指揮する者として、何らかの取りこぼしがないか確認するのは癖のようなものだ。しかしその癖ですらおざなりになるほど、今のスティーブンの意識は腹に風穴をあけられたレオナルドへと向かっている。
 クラウスが半ば叫ぶようにしてギルベルトに病院への搬送準備を命じていた。その傍らではザップが自身の血法でレオナルドの傷を塞ごうとする。しかし、
「くそっ! なんで上手く繋げねぇんだよ!!」
 苛立たしげなその声にスティーブンは言い知れぬ不安を覚えた。可愛い後輩が死にかけていて焦るのは解る。しかしザップはその程度で自身の能力の扱いをしくじるだろうか? 上手く繋げない@v因に別の理由がある気がして、スティーブンはよろよろと脇腹を庇いながら遅れてレオナルドの元に辿り着いた。
「おい、ザップ……どういうことだ」
「わかんねぇっすよ! 陰毛頭! しっかりしろ!」
 ザップが再び傷の縫合に挑戦する。しかし細い糸状の血液はレオナルドの肉体に触れると強酸性の液体を浴びせた時のようにジュウと火傷に似た傷痕を生み出した。その傷の上を溢れ出す血液が覆い隠し、更にザップを焦らせる。
 レオナルドの肉体がザップの血液を拒絶しているのは明らかだった。ただしそれは通常の人間における反応ではない。そしてスティーブンは似たような現象をその目で見たことがあった。
 つと、嫌な汗が背中を伝う。それ以上考えてはいけないと頭の中で警鐘が鳴り響いた。
「レ、……」
 無意識に名前を呼ぼうとしたその時、地面に膝をつくスティーブンの指先がかさりと何かに触れる。それは破れた少年の衣服から零れ落ちたものだった。
 おそらくポケットに入れっぱなしになっていたであろうそれは、随分と古びた写真。そこに写っている人物を視認してスティーブンは息を止めた。
「どうして、これを君が」
 写真に写っていたのは二人の人物。一方は少年と称してもよさそうな童顔の青年。ふわふわとした黒髪にコバルトブルーの瞳が印象的である。そんな青年の膝に乗って正面を見つめているのは同じく癖のある黒髪に紅茶色の瞳をした幼い少年。
 スティーブンはその幼子のことをよく知っている。何故なら、
「ここに写っている子供は俺だ」
 そう告げて、唇を戦慄かせた。
「なのにどうして……少年、君は小さかった頃の俺と共にいる?」
 写真を手にしてレオナルドの顔を見つめる。失血のせいで顔を青白くしている少年がへにゃりと眉尻を下げた。
 うっすらと開かれた双眸から零れ落ちるのは青白い燐光。同じ青系だが、スティーブンが慕い続けたコバルトブルーではない。
 傍にいるザップとクラウスは息を殺してスティーブンとレオナルドを見守っている。その頭に浮かんだ予想はおそらくスティーブンと同じものだった。
 レオナルドが血で汚れた唇をそっと持ち上げる。優しいその表情を、スティーブンは「知っている」と思った。それはかつて幼い自分に向けられていたものだ。
「君は、『レオ』なのか」
 スティーブンの問いかけにレオナルドは咳を一回。単純に傷のせいなのは明らかだったが、あまりにも出来過ぎたタイミングだった。
 レオナルドはよろよろと右腕を上げ、己の口元に近付ける。それから軽く唇を尖らせ、息を吸い込む。
「……!」
 次の瞬間、自分達が目撃した光景にライブラの面々は目を剥いた。
 少年の動きに合わせ、近くですでに事切れていた一般人の身体から血液の帯が伸びる。それは空中を漂い、レオナルドの口へと吸い込まれていった。
「ごめんなさい」
 小さな声でレオナルドが呟く。
「少しだけ。全て話しますから、そのために必要な分だけ、血をもらいました」

* * *

 古びた写真を手にしたままこちらを覗き込むスティーブンの顔を見た瞬間、ああ全部話さなきゃな、とレオナルドは胸中で呟いた。
 失敗したとは思う。妹の視力を取り戻す方法を探るためにも自分の正体を隠してライブラに居続けることは重要だったはずなのに、傷つくスティーブンを見た瞬間、それらが全て頭から吹っ飛んだ。人間レベルの肉体しか持ち得ないくせに無差別攻撃を続けるレディに近付き、腹に風穴をあけ、指一本分だけなんとか変形させて作り上げた刃を彼女の脚に叩き付けた。日頃からもう少し血を摂取しておけばここまで接近する必要もなかったのだが、致し方ない。今の身体では見えないほど細い刃でも二メートル伸ばすのが精いっぱいだ。おかげさまでこの身はボロボロである。
 しかしボロボロのままではいられない。
 忌々しくもマスターから教えられた『相手の首筋にかぶりつかなくてもいい血の吸い方(テーブルマナー)』で、この場で事情を説明するのに必要な分だけ死体から血液を摂取する。
 時間をかければこの肉体は完全に回復するが、それではスティーブンをはじめとするライブラの皆を長く待たせることになってしまう。
 吸血行為を目にしたことで周囲に集まったメンバーは一気に警戒体勢へと入った。それでもまだ刃を向けないのは、彼らがレオナルドを仲間だと思ってくれているからだろう。
 それが嬉しくて、申し訳なくて、レオナルドは情けない表情のまま笑った。
 血液不足で通常の人間と同じ肉体強度と回復速度しかなかったレオナルドの身体は、久々に得た糧のおかげで急速に傷口を小さくしていく。腹に開いた大穴を塞いだ後、まだ少し頭がクラクラしていたが、気にせず身体を起こした。
「君は何者だ」
 スティーブンが問う。
 レオナルドはゆっくりと腕を上げ、近くの割れたガラスを指差した。そこにはスティーブン達が映っている。しかし彼らに囲まれているはずのレオナルドの姿はなかった。
「すみません。今まで義眼を使って皆さんを騙してました。本当はこう映ってたんです」
 鏡に映らない身体。それは人間ならば有り得ない現象である。ゆえに妹の視力を代償として押し付けられた義眼はレオナルドが人間として振る舞うためにひっそりと使用されていた。『血界の眷属』や『牙狩り』という名を聞く前は単純に他者を驚かせないため。そして知ってからは、ライブラの皆にこの命を刈り取られないようにするために。
 レオナルドは自分だけが映らないガラスの破片から視線を戻した皆に向けて説明を続ける。
「三十年程前、メキシコで、僕はあの女吸血鬼に殺されかけたんです。その後すぐ男の方に転化させられました。女の……『レディ』の代わりだって。あの時レディは別の人――たぶん牙狩りの誰かだと思うんすけど――その人に一度退治されたらしいので」
「じゃあやっぱり……」
 スティーブンが呟く。レオナルドの話に覚えがあったのだろう。
 だからこそレオナルドは告げた。
「ごめんな、スティーブン」
「な、にを」
「でも君が生きていてくれてよかった」
「れお、まて」
「ごめん」
「どうして謝るんだ」
「どうして? だって……」
 謝るのは当然のことだ。今もまだロザリオを大事に持っているくらい彼はレオナルドの思い出を大切にしてくれているのに、

「俺、君の敵になっちまった」

「……ッ! それは! 貴方の本意じゃないんだろう!?」
 声を荒らげてスティーブンはレオナルドの肩を掴んでくる。大きくなったなぁと、場違いな喜びがレオナルドの胸を満たした。
「そうだけど。でも僕は吸血鬼になって、君は吸血鬼を狩る人間になった。だから僕は君達に殺されなきゃいけない」
「いやだ」
 スティーブンは首を横に振る。
 しかしレオナルドは聞き入れない。
「牙狩りは吸血鬼を見逃せるほど甘い組織なのか? そうじゃないだろう? だったらやるしかねぇじゃん。……手を汚しちまうことになってごめんな」
「そんな、こと、言わないでくれ、レオ。何のために、俺が、ぼくが、牙狩りになったと思って……!」
 スティーブンに掴まれた肩は強い痛みを訴えている。
「全部っ、貴方のために!」
「そう……だったの、か」
 かつての幼子の告白にレオナルドは軽く目を見開いた。
「僕の敵討ちのため?」
「当たり前だろう! あんな! 目の前で殺されて……っ! 何も思わないわけがない!!」
「うん。そうだな。君はそんな子だった」
 一緒に過ごした期間は決して長くなかったが、それでもスティーブンという名の幼子が甘ったれで優しい少年であることはよく分かっていた。
 レオナルドはスティーブンの頭をそっと撫でる。だが反対の手で男を抱き締めようとした時、指先にぬるりと生温かいものが触れて、彼もまた決して軽くはない傷を負っていたことを思い出した。
 スティーブン自身のためにも時間はあまりかけられない。レオナルドはスティーブンから視線を外し、クラウスを見上げる。この紳士がどの程度までスティーブン・A・スターフェイズの過去を知り、また今までの会話で事情を察してくれたのか分からないが、レオナルドが願うことは変わらない。
「クラウスさん。僕の本当の名前は、レオナルド・×××××です」
 ウォッチ姓ではないそれがレオナルドの『諱名』だ。
 告げた瞬間、スティーブンが息を呑む。否、彼だけではない。レオナルドの声を聞いた全員が諱名を告げる意味を悟って顔色を変える。
 解った上で、レオナルドは続けた。
「どうか『密封』を」
「レオ!」
 スティーブンが叫ぶ。
 しかしレオナルドはまだそちらを向かない。
「義眼はライブラで使ってください。それからもし慈悲をいただけるなら、ミシェーラの眼のことをどうかお願いします。ウォッチ家の皆さんはこんなどうしようもない僕を迎え入れてくれた善人なんです。だからどうか」
「やめてくれレオ! もう貴方を失うのは耐えられない!」
「……わがままはダメだろ、スティーブン。僕はこの結末を承知した上でライブラに居続けたし、正体を明かした」
 そう言い聞かせながらレオナルドはスティーブンの頬に手を滑らせた。大きな傷に指を這わせ、かつて彼に言われた言葉を返す。
「吸血鬼はすべからく忌むべき悪徳。人間の……君達の、敵だ」
 そしてそれはレオナルドの本心でもある。
 スティーブンはヒュッと息を吸い込み、小さな声で「ちがう。そんなつもりじゃなかった」と、かぶりを振った。
 長い腕がレオナルドの背に回され、首筋に額が押し付けられる。血を吸って重くなったスーツから赤色がしたたり落ちた。
「頼むクラウス。レオを殺さないでくれ」
 うめくような懇願にレオナルドの視線の先にいた紳士が小さく身体を揺らす。眼鏡のレンズに光が反射してその表情を窺うことはできない。だが彼が大きな葛藤を抱えていることは明らかだった。ナックルダスターを嵌めたままの左手が微かに震えている。
「スティーブン、わがままはダメだって言っただろ。君は牙狩りだ。牙を、吸血鬼を、狩るのが仕事だ」
「レオ、そんなこと言わないでくれ。ぼくは、貴方がいれば世界なんて――「スティーブン」
 これまでとは違う鋭い声音でレオナルドはスティーブンの言動を制止する。
「それ以上は嘘でも言っちゃダメだ」
「レオ! でも……!」
 スティーブンが顔を上げる。伊達男とは言い難い情けない表情だった。しかしやはり整った顔をしている。こんな時でも色男は色男なんだと、レオナルドは苦笑した。
「君が今言おうとしたことは、君の本音じゃないはずだ。僕の敵討ちのためだけならあんなに頑張れないだろ、君は。クラウスさんの隣に立って仲間と一緒に世界の均衡を保つことを心から望んだからこそ、君はここにいる。そうだろう?」
 この考えは全くの見当違いではないはず。
 ザップの猫探しに付き合わされたあの夜、レオナルドはスティーブンの隠れた努力の片鱗を見た。人はただの復讐心だけであそこまで心を砕けない。憎しみではなく、慈しみたいものがあるからこそ心を削って働けるはずなのだ。
 現に視線を合わせたスティーブンは息を呑んで二の句が継げないでいる。咄嵯に否定できないことこそ、レオナルドが告げた言葉への返答だった。
 さあ、そろそろタイムリミットだろう。スティーブンの顔色が悪いのは精神的なものだけでなく確実に肉体的なものがある。吸血鬼を狩るために作り上げられた特殊な血液は途切れることなくしたたり落ちて、密かにレオナルドの皮膚を焼いていた。
 さよならの代わりにレオナルドは最期の言葉を送る。

「大丈夫。僕がいなくても君は幸せになれるよ」

 そしてクラウスによる密封の瞬間を待った。













「なぁ旦那、番頭」
 それまで黙していたザップが上司二人を呼ぶ。
「ちぃーっと思ったんだがよ。頑丈な吸血鬼の身体に吸血鬼の諱名が読み取れる義眼の組み合わせって最強だよな」
 あまりにもこの場にそぐわぬ軽い物言いだったため、クラウスとスティーブンは「何を言ってるんだこいつ」という気持ちを隠すことなく振り返った。特にスティーブンなど殺気交じりだ。しかしザップは臆した様子もなく歯を見せて子供――ただし悪ガキ――のような笑顔を浮かべる。
「そいつが俺らの仲間だったら、本当にもう最高なんじゃね? つーかさ、血界の眷属みんながみんな、さっき封印したような奴らばっかじゃねぇんだろ? エデンのオズマルドなんかいい例じゃねぇか」
 誰一人として殺さずに、ただ熱狂的な歓喜と興奮だけを周りに与えて姿を消した血界の眷属。その例を出し、ザップはニヤリと口角を上げる。

「吸血鬼が吸血鬼狩りに参加しちゃいけねぇって決まりは、俺らの中にはなかったはずだぜ」

「…………お前やっぱり天才だな」
 スティーブンがぽつりと呟き、レオナルドは思わぬ話の展開に「あれ?」と首を傾げた。


【終】


 レオナルド・ウォッチは血界の眷属である。しかし牙狩りを母体とする秘密結社ライブラに正体がばれた後も牙狩り本部公認で所属し続けている。
 その諱名はライブラの主要メンバー全員に知られており、更なる保険として身体にはエスメラルダ式血凍道のアグハデルセロアブソルート(絶対零度の小針)が仕込まれていた。つまり不死の存在であるレオナルドを殺すことはできないが、動きを封じることはいつでも可能ということだ。
 この状態に持っていくまでスティーブンはそれはもう思い切り、盛大に、人生でこれ以上ないくらい、骨を折った。しかしレオナルドの生存という望んだ結果を得られた今、そのためにした苦労など最早苦労とは思わない。
 ただ一つ不満を挙げるとすれば、攻撃の手段である血凍道をレオナルドに施してしまったことなのだが――スティーブンは本部と違ってレオナルドがこんなことをしなくても絶対に裏切らないと信じている――、すでにやってしまったことなのでどうしようもない。
 しかもレオナルド本人曰く「そりゃまぁ身体に合わない血ですから恒常的に多少の痛みはあるでしょうけど、その程度でライブラにいてもいいなら喜んで受けますよ」とのことだ。スティーブンを信じているからこその言葉なのだろうが、こちらからすれば嬉しさと申し訳なさが半々といったところである。
(ああ、でも……)
 スティーブンはライブラの事務所でコーヒーの入ったマグカップを傾けつつ、音速猿を頭に乗せてザップと共にゲームに興じる大切な人を眺めやる。彼の人に絶対零度の小針を打ち込んだ時、申し訳なく思う一方、自分は確かに歓喜をも感じていた。
 ――レオの身体に俺の血が流れているんだ、と。
 そう考えた時のぞくりと背筋を震わせる感覚は「幼き日の命の恩人に対して抱くにはちょっと違うものなんじゃないか?」とも思えたが、深く考える前に電話が鳴って、スティーブンは思考を中断させた。
 とりあえず、レオナルドが傍にいてくれるならそれでいい。
 今は、まだ。
 スーツから携帯端末を取り出せば、いつもの癖で身に着けてしまったロザリオがシャツの下で揺れる。
 銀とコバルトブルーのロザリオは聖母マリアへの祈りを捧げる時に使うものだ。しかしスティーブンにとってこれはマリアではなくレオナルドへの祈りのための道具だった。一度全てを失くした自分に救いの手を差し伸べて多くのものを与えてくれたのは、紛れもなくレオナルドなのだから。
 十字架のモチーフが底にあしらわれたぴかぴかの革靴で床面をカツリと叩き、通話ボタンに触れて応答する。
「ウィ、スティーブン」

 今日も十字を踏みつけて、スティーブン・A・スターフェイズは『己の聖母レオ』がくれた世界で生きている。






十字を踏みつけ聖母に祈れ







2015.07.20 pixivにて初出

作中に出てくるGEビルはNY崩落時にクラウスさんの頭上を飛んで行ったビル(※先端のみ)です。
最後までお付き合い頂きまことにありがとうございました!