【1】
ミシェーラ・ウォッチの視力を取り戻すという最優先事項がある以上、レオナルドにはライブラを離れるつもりなどない。たとえそこが化物たる己にとって一歩間違えば死に至る場所であっても、今のところレオナルドが接触できる範囲でライブラより情報収集能力に秀でた団体・個人は見当たらないのだから。 間違えなければ良いだけの話である。現状のまま眼だけが特別な人間を演じ、彼らのために義眼の能力を使い、そして彼らからいつかもたらされる義眼の情報を心待ちにする。ついでに忌むべき同族達を封印する手伝いもして、遠回しの復讐まで遂げてしまえばいい。 自分を仲間だと信じてくれている人々を騙すこと、そして何より己が『あの子』の敵になってしまった事実が胸に突き刺さりひどい痛みを訴えたが、レオナルドはそれを無かったことにした。 【2】 今日は散々な一日だ。レオナルドは頬を腫らしたまま胸中でひとりごちる。 まずカツアゲに遭った。不幸なことに妹への仕送りが入ったカードを所持していたため、自分の生活費どころかそれごと奪われてしまった。取り返すため人を殺さない程度の武器としてスタン警棒――スタンガンの機能が付いた警棒――を『武器庫(アーセナル)』のパトリックから貰い受けたはいいものの、実際カツアゲ犯の元へ取り返しに行ってみれば、スタン警棒でも人間は死ぬ可能性があると脅されてまともに振るうことすらできなかった。結果、生活費と仕送りを奪われたまま怪我の具合だけが悪化。レオナルドに残ったのは体中に散った盛大な痛みと尋常ではない顔の腫れである。 もう一つおまけに、最初のカツアゲの現場を見ていたチェインには手助けしてもらうどころかそっぽを向かれてしまっていた。自分が彼らに吸血鬼であることを黙っている分、無視されても仕方が無いのかな、やっぱどこかで信用されてないのかな……と、自罰の意識に拍車がかかる。 そんな心身共にボロボロの状態で出くわしたのは、メディスン的な方面でラリってパッパラパーになった職場の先輩もといクズ、またの名をシルバー(S)・シット(S)、正式名称ザップ・レンフロ。どうやら愛人の一人である女性の飼い猫を探しているらしい。 ザップはレオナルドに猫探しを義眼で手伝ってくれと泣き付いてきたが、生憎レオナルドの両目に見たことのないものを探せる機能は付随していなかった。が、少しでも人手が欲しいのか、はたまた単なるさみしがり屋さんなのか、ザップは強制的にレオナルドを猫探しに巻き込んだ。 そして今、レオナルドは股間を押さえて意味不明な言葉を発する銀髪褐色肌の先輩をランブレッタの後ろに乗せて夜の街を走り回っている。このスクーターの持ち主はザップなのだが、危なっかしくて運転なんぞさせられない。 ザップの前後不覚具合が悪化しているのはどうやらその愛人の設けたタイムリミットが迫っているからのようだ。いっそタイムオーバーになって股間にぶら下がった立派なご子息を吹き飛ばしてもらえば、女性関係が派手すぎるザップも今後大人しくなるかもしれない。とは思っても口に出さないのがレオナルドの良心であり、自衛手段でもある。顔を腫らしている今、もうこれ以上怪我をする可能性は下げておきたかった。 ザップもレオナルドに会うまで色んな所を探し回っていたのだが、どうにもこうにも猫は見つからず、二人はヘルサレムズ・ロットの中でも高級住宅街に近いエリアにまで足を延ばしていた。 ひょっとしたら夜の散歩にやってきた金持ちの近隣住民にザップの呻き声がうるさいと通報されてしまうかもしれない。そうなったら厄介だなぁと、レオナルドはランブレッタのハンドルを握りながらゴーグルの下で辟易とした表情を晒す。ザップならさっさと逃げてしまうだろうが、残念ながら身体は化物でも血の摂取量が足りないせいで凡人程度の身体能力しか持ち合わせていないレオナルドは回避など夢のまた夢、つまるところ職務質問一択である。 そんなこんなで「さっさと猫見つかれもしくは時間切れになれ」とレオナルドが念じながら義眼で周囲を見渡していると、道の端に見知った顔を見つけた。 「あれ? スティーブンさん?」 思いもよらぬ所で大切な子に遭遇してしまったのだが、声に動揺は出ていなかったはずだ。 今日は散々な一日だ。スティーブンは霧にかすむ夜景を眺めながら胸中でひとりごちる。 ライブラの副官ではなく一般人のスティーブンとして開いたホームパーティ。友人知人を集めて楽しく行うはずだったそれは、しかし欲に目が眩んだ彼らによって呆気なく終わりを迎えた。スティーブンの手元からは数多くの友達が消え、残ったのは何とも言えない寂寥感。私設部隊が自宅で文字通り凍り付いている元友人達を処理し終えるまでこうして外に出てみたものの、自分が今夜のパーティをフリではなく本当の意味で楽しみにしていたのだと自覚し、更に気分が落ち込んだ。 信頼できる家政婦が作った美味しいローストビーフも、自ら腕によりをかけた他の料理も、今は複数の氷像から漂う冷気に冷やされてすっかり冷たくなってしまっているのだろう。自宅に帰れば、死体は消えていてその冷たい料理達と一人で対面する羽目になる。 裏切りなどよくあることだ。ライブラの情報は裏社会で法外な値段を付けられることもある。主要構成メンバーの身柄やその脳ともなれば、取引される金額は更に跳ね上がるだろう。友人一人売り払うだけで一生遊んで暮らせる大金が手に入ると知って、悩まない者などいないはず。それが浅い付き合いの男なら尚更。人間とは他人よりも自分を大切にする生き物なのだ。 (ああ、でも……) スティーブンは夜景をぼんやりと眺めながら否定の言葉を一つ落とす。 自分はそんな定義に当てはまらない人間を知っている。一人は若い頃に出会って以来ずっと友人関係を続けているクラウス・V・ラインヘルツ。彼ほど実直で誠実な人間はいない。クラウスなら目の前にどんな大金を積まれても友人を売るような真似はしないだろう。 そして、もう一人は―― (レオ……貴方は自分の命を使ってまで幼い俺を助けてくれた) 金銭どころの話ではない。 まだ出逢って一月も経っていないような子供へ、自身は見えない棘に貫かれても逃げろと必死に叫んでくれた人。 スティーブンはその時に受けた頬の傷をそっと指でなぞる。今の医療技術なら消してしまえる傷だったが、あえてそれを残したのは、この傷が血界の眷属への憎しみの証であり、また『レオ』がスティーブンに向けてくれた愛情の証でもあると思ったからだ。 傷を撫でた指はそのまま下に落ち、シャツ越しにロザリオを握る。何か嫌なことや不安なことがあればこれに触れようとするのが幼少期からの癖となっていた。ただしどんなにロザリオを大切にしていても、一番解消したい不安は絶対に消えてくれなかったのだが。 不安の根源たる帰ってくることのない唯一の存在≠想ってスティーブンは溜息を吐く。 そんな時だった。 「旦那様!?」 背後の道路を通り過ぎた車がブレーキをかけて停まったかと思いきや、その中から出てきてスティーブンの名を呼んだのはよく知った声。 驚いて振り返りながらスティーブンは声を上げる。 「ヴェデッド!?」 視線の先には家政婦として雇っている異界人の女性が立っていた。 パーティの真っ最中であるはずの雇主がこんな所にいると知って純粋に驚いているのだろうヴェデッドは、大きな目を丸くして近付いて来た。本当のことを言うわけにもいかないスティーブンはひとまず笑って誤魔化す。 そんな彼女の後ろから小さな異界人が二人現れた。ヴェデッドは二人を己の前に立たせ、「息子のガミエルと娘のエミリーダです」と紹介する。しっかりした母親に育てられると子供達もしっかりしてくるのか、ヴェデッドに促されてからではあったが、二人とも初対面の大人であるスティーブンにきちんと挨拶をしてみせた。 スティーブンはそんな異界人の子供達の片方、エミリーダが両手に抱えているものに視線を向ける。手足の先端と耳、口元が黒色をした猫が鳴きもせずされるがままになっていた。 「かわいい猫だね」 「エヘヘ……さっき見つけたのぉ」 物怖じしないタイプと思しき娘は猫を褒められて純粋に嬉しそうにしている。可愛いもの好きは『女の子』なら異界人も人類も変わらないのかもしれない。 スティーブンは穏やかな気持ちでヴェデッドに「良い子達だ」と微笑む。パーティの件で重くなっていた心がほんの少し軽くなったような気がした。立場上どうしようもない人間関係に晒されることが多いものの、こうして穏やかな家族を見ていると世の中も捨てたもんじゃないなぁと思える。 その気持ちのまま素直に「ありがとう」と伝えれば、スティーブンの背景を知らぬ彼女にはなんのことかさっぱり分からないのは当然のことで、不思議そうな顔をされる。だが、それでもいい。それでいい。「ああ……何でもない」と付け足せば、空気を読める彼女は静かにスティーブンの謝意を受け入れた。 穏やかな気持ちになれ、またヴェデッド達をここに長く留めておくのも悪かろうと、スティーブンはそろそろ帰宅のことを考え始める。まだまだ気は進まないが、彼女達のおかげで帰宅するだけの気力は蓄えられたようだった。 しかし親子に別れを告げるよりも早く、別の知人の声が聞こえてきてスティーブンはハッとする。 「あれ? スティーブンさん?」 ランブレッタに乗ってやって来たのは、スティーブンにとって世界で一番大切な人と同じ名を持つ少年だった。 スティーブンは現在、きれいに死体だけが無くなった自宅に戻っていた。ただし一人ではない。温め直された料理を前にし、レオナルド・ウォッチがそれに手を付けようかどうか迷っている。 夜道で声をかけられてからは怒涛の展開だった。 まずレオナルドとタンデムしていたザップがエミリーダの抱える猫を目にした瞬間、奪い去るように確保した。びっくりして目を丸くする異界人の少女にザップは「嬢ちゃん悪ぃな俺この猫探してたんだよぉってなわけでもらっていくな!」と早口に告げ、そのままレオナルドを残しランブレッタで夜の街に消えていった。 取り残されるヴェデッド親子とレオナルドとスティーブン。「あ、置いてかれた……」と、ぽつりと呟くレオナルドに事情説明を求めれば、ザップがまたまた女性関係の厄介事に巻き込まれた末の結果だということが判明する。スティーブンはひとまず度し難い人間のクズである部下への叱責を明日以降に行うとして、エミリーダに謝罪し、親子に帰宅を促した。 これで残ったのはレオナルドとスティーブンの二人である。スティーブンは自宅まで難なく徒歩で帰れるが、半スラムの安アパート――つまり高級住宅が立ち並ぶ地区からだとかなり距離がある場所――に住むレオナルドはここまで乗って来たランブレッタを回収されてしまったため愕然としている。 しかもまだ夜は更けていないとはいえ、そろそろ街の各所で生還率が厳しい数字を叩き出し始める頃だ。スピードを出せる乗り物があるならまだしも、徒歩で移動するのは戦闘能力に欠如している少年にとっていささか難易度が高すぎた。 「あー……、少年」 スティーブンはシャツの上からロザリオをひと撫でし、レオナルドに声をかける。 「ひとまず僕の家に来るかい? 顔の腫れも相当なことになってるしね」 大切な義眼を持つ非力な部下を保護するためだ、と誰にともなく言い訳をして、スティーブンは自分の家がある方向を指差した。 「少なくとも君の家に帰るよりは近いし安全だろう」 と付け足して。 そんなわけでレオナルド・ウォッチはスティーブンの高級アパートメントにやって来ることとなった。 まず随分汚れていたので風呂に入らせ、中身と同じく汚れていた服は全自動の洗濯機に投入。若干生地は痛むが高速で洗濯と乾燥を指定すれば、ちょうど少年が風呂から上がるタイミングでそれらが完了した。 身体と衣服に清潔さが戻れば、次は傷の手当てである。これくらいなら慣れていると本人から慌てて自己申告があったので、スティーブンは道具だけ渡してパーティの残り物を温めることにした。救急箱を渡した瞬間、少年の腹が盛大に唸り声を上げたからだ。そういえば、この子はカツアゲに遭って有り金を全て奪われていたのだった。 そして、冒頭に戻る。 まさか上司の自宅で風呂、手当て、食事のコースに見舞われるとは思っていなかったであろうレオナルド・ウォッチが苦い表情を浮かべていた。「俺の方が世話を焼かれてしまった……」と呟いているのは、本来彼が兄という世話を焼く立場≠ノあるからだろうか。そうだとしても今はスティーブンが年上かつ上司、彼の方が年下かつ部下であるはずなのだが。 「遠慮するな、少年。どうせ余り物だからな。処理を助けると思って存分に食ってくれ」 そう告げるスティーブンの声は本人が予期していたよりも明るい音をしていた。言われたレオナルド本人は特に気にしていないようだったが、「じゃあお言葉に甘えて……」とようやく料理に手を付ける彼を見つめるスティーブンは僅かに目を見開く。 「……少年、僕は向こうで片付けをしているから、何かあったら呼んでくれ。それから繰り返すが、本当に遠慮してくれるなよ。僕一人じゃ到底食べきれない量なんだ」 「わかりました」 「よし」 相手が頷くのを確認した後、スティーブンはキッチンへ向かう。そして道具の片付けをするフリを始めながらレオナルドの見えない所で唇を歪めた。 「あいつはまだグレーの人間だぞ、スティーブン・A・スターフェイズ」 己を戒めるように呟く。 血界の眷属の諱名を読み取れることが判明し、ライブラ及び牙狩りの中で一気に重要度が跳ね上がった神々の義眼。しかしその持ち主であるレオナルド・ウォッチに関しては、未だ不確かな部分が多かった。 何故ならウォッチ家に拾われる前の情報が全く出てこないのだ。ごく稀に似た容姿の目撃情報はあっても、それは二十歳前後の姿であり、当時まだ子供である彼のはずがなかった。 ライブラへの貢献度や日々の生活態度から『白に近いグレー』の『白』の割合は大きくなっているものの、人を疑うことを知らないリーダーの右腕としてスティーブンがまだ警戒を解くわけにはいかない。 しかし頭では解っているはずなのに、こうしてプライベートな空間に招き入れ、何くれと世話を焼いてしまっていた。おまけにレオナルドと一緒に過ごせて少しばかり楽しく感じてさえいる。 スティーブンはキッチンのシンクを両手で掴み、顔をうつむかせた。 鈍い銀色の底面にぼんやりと自分の顔が映る。 「近くにある手なら誰でもいいから掴みたかったのか。そんなに弱っていたのか、俺は」 ひとりごちる。しかし、そうじゃない、と頭の中で声がした。 身じろぎすれば、シャツの中でロザリオが揺れる。 「…………俺は彼にあの人を重ねているのか」 問いかけるのではなく諦めながら受け入れるようにそう呟いて、スティーブンは瞼を下ろした。 年齢も経歴も全く異なり、ファーストネームが一致しているにすぎないのに。どうしてかスティーブンはレオナルド・ウォッチに『レオ』を重ねてしまう。身の裡に迎え入れ、弱みを晒してしまう。彼に縋って慰めてくれと泣き付かないのは自分が年上であるという矜持によるものだ。それがなければ、今頃自分はみっともなくあの薄い身体に腕を回していただろう。 それもこれもレオナルド・ウォッチが悪い。あの人と同じ名前だからスティーブンは狂ってしまうのだ。 レオナルド本人が聞けば非難轟々であろう理由を付けてスティーブンは顔を上げる。自分の内面の理解ができれば、それを取り繕うことも難しくない。『幼いスティーブン』ではなく『上司のスティーブン・A・スターフェイズ』の仮面を貼り付けて、スティーブンは料理が並ぶリビングへ戻ることにした。 「今夜は泊っていくといい。これから帰るとなると、またカツアゲに遭うぞ」 生還率の低さはニュースを見なくても判ると言いたげに、壁にかかった時計を指差してスティーブンが言う。 レオナルドはびっくりするほど美味しい料理を食べる手を止めて眉尻を下げた。 「でもスティーブンさんのご迷惑になります」 この言葉は本心からのものだ。風呂も傷の手当ても食事も世話になって、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。相手がかつて助けた幼子であってもなくても、それはレオナルドの中で他者に相対する時の常識だった。 「それに盗られるものはもう無いですし」 妹への仕送りも失っていることを思い出して、告げると同時にへこむ。 「おいおい。だからって折角身体も綺麗になって手当てだってしたって言うのに、また汚れたら意味がないだろう。そっちの方こそ世話をした俺に失礼だと思わないか」 「えー……そう言われると……」 年齢はレオナルドの方が上なのだが、交渉事はスティーブンに分があるらしい。しかも相手はこちらにとって愛しさも後ろめたさもある人間だ。おかげでレオナルドはスティーブンの言葉に強く逆らえない。 「少年?」 答えはイエスしか認めないと副音声で聞こえてくる。 レオナルドは年上としてのプライドにひびを入れながら「よろしくお願いします……」と蚊の鳴くような声で答えた。 スティーブンも疲れていたのだろう、とレオナルドが胸中で呟いたのは、日付が変わって一時間ほど経った頃のこと。 すでにテーブルの上を占拠していた料理の数々は片付けられ、部屋の明かりも落とされている。スティーブンは寝室で就寝。レオナルドもゲストルームを与えられていた。 トイレのため部屋を出たレオナルドは用を足して部屋に戻る途中、暗くなったリビングの入り口付近で足を止める。時間が経ってかなり薄くなっていたが、部屋には複数の人間がいたことを示すオーラの残滓。もちろんレオナルドやスティーブンのものではない。レオナルドの知らない沢山の誰かのものだ。 そして今は胃の中や冷蔵庫の中に納まってしまった、パーティ用だったというほとんど手を付けられていなかった料理。 この二つから考えられるのは、スティーブンが――おそらくクラウスには内緒で――やっているであろう世界の守り方≠セ。 「つらくないはず、ないよな」 たとえどんなに平気そうな顔をしていても、彼がどういう子供だったかレオナルドは知っている。加えて今夜は少しレオナルドに対するガードが緩くなっていたことも考慮すれば、スティーブンの内に溜まったストレスは如何程か。 想像し、苦く笑って、レオナルドはそっと踵を返した。向かうのは自分に宛がわれたゲストルームではなく、スティーブンの寝室だ。 寝ていなければ、また寝ていても入室に気付かれれば、不審がられるかもしれない。その時は寝惚けて入ってしまったフリをしようと決めて、レオナルドは寝室のドアを開く。 (……寝てる?) 気配に敏感そうなスティーブンだが、レオナルドが入室しても起きる様子はなかった。実はもう起きていて、近付いたら素早く反応するパターンだろうか。 スティーブンが起きていた時の言い訳のため足音は殺さずにベッドへ近付いた。しかしまだ相手は起きない。 (よっぽど疲れてたってことなのかな) レオナルドはベッドの脇で両膝をついた。たとえ暗い室内であっても神々の義眼は容易く周囲を見渡せる。スティーブンの寝顔もはっきりと視認できていた。 ついでに、すぐ傍のチェストの上に銀とコバルトブルーのロザリオが丁寧に置かれているのに気付いてレオナルドは目元を和らげる。大切にしてくれてありがとう、と音もなく呟いた。 スティーブンは眠っていても大層な色男ぶりだったが、やはりどこかレオナルドの知っている幼子の面影がある。だからこそ顔の左側に走る大きな傷に目が行った。それはスティーブンの魅力を損なうものではなかったが、やはり傷がついた経緯を知っている者としては心苦しく思うのだ。 レオナルドはそっと手を伸ばし、指先で傷痕に触れる。今度こそスティーブンが起きてしまうかと思ったが、反応はなかった。 否。 (あ、わらった) 夢でも見ているのだろうか。レオナルドが傷に触れた後、スティーブンが小さく笑みを零した。 幸せな夢だといいなと心から願いながら、レオナルドは優しく頬を撫でる。そのまま少し身を乗り出して鼻先に親愛のキスを贈った。 「がんばってる君にたくさんの幸いがありますように」 小さな声で呟き、レオナルドは立ち上がる。そうして静かに部屋を出て行った。 その夜、スティーブンは夢を見た。 最初は現実だと思ったのだが、自分が寝ているベッドに近付く気配がとても心地よいものだったので、ああこれは夢に違いないと思ったのだ。 「がんばってる君にたくさんの幸いがありますように」 愛しいあの人が頬を撫で、鼻先にキスをくれる。 泣きたいくらいに優しい夢だった。 【3】 楽園の名を冠する闘技場の不倒チャンピオンにしてオーナー、オズマルド。借金に困ったザップの策略により地下闘技場『e−den(エデン)』に呼び出されたクラウス・V・ラインヘルツは、その彼との素手の戦いで相手の頭部を破壊してしまった。 己のバイクに乗せてクラウスをここまで運んできたレオナルドは、クラウスの左拳がオズマルドの頭部にめり込んでいく様も、相手を殺してしまったと驚く当人の表情も、そして破壊されて飛び散った肉片の奥から漏れ出す真っ赤な羽のようなオーラもしっかりと両方の義眼で捉えている。 緋色。それはレオナルドにとって忌むべき色。とある子供を傷つけ、レオナルドを化物に転化させ、今も大切な子の敵である者達の色だ。 地下鉄の駅構内でスティーブンとK・Kが傷ついていくシーンがフラッシュバックし、レオナルドの背筋を冷たいものが走った。指先まで嫌な痺れに侵され、義眼を大きく見開く。 「クラウスさん、そいつは……!」 あのままではクラウスが危ない。 封印に使う紅い十字のナックルダスターは闘技場のルールとして最初に取り上げられており、今、彼の手元にはなかった。レオナルドの眼は死体を操りオズマルドと名乗っていた血界の眷属の諱名をすでに捉えていたが、これでは全力での戦闘も眷属の密封も不可能だ。 再び誰かが吸血鬼に傷つけられる光景を見なければならないのか。それに今度こそ怪我では済まず殺されてしまうかもしれない。――自身の考えにぞっとしながらレオナルドは必死に観客をかき分けて前に進む。 しかしレオナルドの声がクラウスに届く距離まで近付く前にオズマルドは戦士としてのクラウスを称賛した後、腕一本で彼を跳ね飛ばし、リングの上から忽然と姿を消した。 クラウスを受け止めたリング周りのフェンスは派手に歪んだが、当人にはほとんど怪我がなく、ようやく駆け付けたレオナルドに大事は無いとはっきりした口調で告げる。念のためレオナルドはリーダーの身体を義眼で少し確認したものの、確かに本人の言葉通りクラウスの肉体に致命的な損傷はなかった。 その後、ザップと合流して事務所に帰還したわけだが――エデンを出た後ザップがクラウスに挑みかかって簡単に伸された件は割愛する――、レオナルドは事務所のソファに腰かけて一人黙考していた。目の前には今回の件の報告書が白紙のままテーブルに乗っている。片手は音速猿の毛並を整えていたが、意識のほとんどはエデンで見た光景に支配されていた。 (あの血界の眷属……クラウスさんも周りの観客も誰一人として殺さなかった) 吸血鬼にとって人間やこの街の異界人などただのエサかゴミのような存在だと思っていたのに、オズマルドの行動はそんなレオナルドの認識から大きく外れたものだった。 強大な力を有しているにもかかわらず、わざわざ死体――それも自分で殺したものではないと言う――をまとって自身にセーブをかける。そして悪意も害意もなくただ単純に一対一、武器も魔術もない闘争を楽しもうとする精神は、どこか高潔さすら感じられた。 高潔? 人間の血を啜る化物なのに? とレオナルドは自分の考えをすぐさま否定するが、オズマルドが残した結果はそんな悪あがきを軽く消し飛ばしてしまえるほど明白で、シンプル。おまけに、あの時のことを思い出してみれば『マスター』や『レディ』を前にして抱いた怖気もオズマルドに対しては感じなかったような気がする。 「……」 ソニックを撫でていた手はペンを握り、真っ白な報告書に文字を書き記す。 『ブラッドブリードは敵なのか?』 自分で記したその一文を目にしてレオナルドは苦く笑った。 吸血鬼を狩る組織を母体としている秘密結社に身を置きながらなんてことを書いているのだろうと、その一文に打ち消し線を引こうとする。だがそれを実行に移すより早く、報告書の上に影が落ちた。 「――敵に決まっているだろう。奴らはすべからく忌むべき悪徳。人間の……俺達の、敵だ」 こちらを覗き込んでいたのは先程まで自席で書類の決裁をしていたスティーブン・A・スターフェイズ。 スティーブンの口調からは普段の冷静さと飄々とした気配が失われ、じわりと滲む嫌悪と敵意があった。その憎しみはやはり幼少期に受けた傷と恐怖に端を発しているのだろうか。 レオナルドはスティーブンを見上げると眉尻を下げ、「そうっすね」と答える。 「血界の眷属は人間の%Gです」 告げながら、今度こそ先程の一文をペンで消す。 平静を装うことはできていたはずだが、死にそうなくらい胸が痛かった。 『ブラッドブリードは敵なのか?』 その一文を読んでスティーブンは目の前が真っ赤に染まる思いがした。 疑問形にするなど馬鹿らしい。奴らは敵に決まっている。幼いスティーブンから神様のような存在を奪い、蹂躙し、死体さえ残さなかったあの化物ども。それが敵ではなく何だというのか。 クラウスとレオナルド(とオマケでザップ)が遭遇した地下闘技場での一件はすでに口頭で軽く報告を受けていたが、改めてレオナルドに作成を依頼した報告書に記された文字を見て激しい嫌悪感を覚えた。 「――敵に決まっているだろう。奴らはすべからく忌むべき悪徳。人間の……俺達の、敵だ」 スティーブンの過去も感情も知らない少年に向けるにはいささかキツ過ぎる口調だったことは後で反省する羽目になるのだが、どうしても抑えがきかない。「君がそれを書くのか?」という思いすらあった。 そんなスティーブンの怒りを感じ取ったのか、レオナルドは弱ったような顔つきで「そうっすね」と答える。 「血界の眷属は人間の%Gです」 はっきりと告げられる少年の言葉はスティーブンの望んだものだった。 吸血鬼に慈悲も妥協も許容も要らない。奴らは敵だ。 レオナルド・ウォッチの口からその言葉を引き出せて、スティーブンはようやく頭に上っていた血を少し下げる。しかしまだ十分とは言い難い。 大人としてこれ以上年下の少年に明らかな八つ当たりをするわけにはいかないと理性が訴え、スティーブンは報告書を覗き込むために折っていた腰を戻す。そして外へ続く扉の方へ足を向けた。 「少年、報告書は新しい用紙で提出してくれ。冗談でもその文章は見たくない」 そう言い捨て、スティーブンは部屋を出る。少し外の空気を吸ってきた方がいいだろう。 入れ替わりでザップが入って来るが、こちらの機嫌が悪いのを察して何も言わずに通り過ぎる。扉が閉まる寸前、「うお〜い陰毛頭ぁ。進捗はどうだー?」と尋ねる声が聞こえた。 何本も線が引かれたとある一文。それは後から書き足された打ち消し線のせいで随分読みづらくなっていたが、まだ何とか読み取れるレベルでもあった。 新しい用紙にそれらしい文章を書き連ねる後輩を背後から覗き込み、脇に退けられていた一枚目の報告書に目を留めたザップはスッと銀色の双眸を細める。 「オズマルドは……まぁ悪い奴じゃなかったわな」 ぽつりと呟いたザップの声にレオナルドが顔を上げた。驚きすぎて義眼まできっちり見せているレオナルドにザップは一瞬躊躇する気配を見せたが、室内に自分達以外の姿がないことを確認して再び口を開く。 「ステゴロフリークっつーか、マニアっつーか。とにかく馬鹿みてぇに強くて、馬鹿みてぇにステゴロが好きな奴だったぜ。たぶん旦那のことも本気で褒めてたし、あの頭部破壊がなけりゃ思い切り殴り合いを楽しんでいたかっただろうよ」 あの一瞬の邂逅しかなかったクラウスやレオナルドとは違って、ザップはもう少し長くオズマルドと交流があった。だからこそ語れるのだろう言葉は軽い口調を装っていてもレオナルドの中に重く響く。 義眼に見つめられることに耐えかねたザップは視線を逸らし、ガシガシと乱暴に頭を掻いた。 それから舌打ちを一つ。 「……なあ、レオ。血界の眷属は俺らの敵のはずだが、世の中にはああいう奴もいるんだな」 【4】 「ねぇマスター。私、次はあそこに行きたいわ」 真っ赤な唇を歪めて女が前方を指差す。マスターと呼ばれたプラチナブロンドの青年は整った顔に淡い笑みを浮かべて「君が望むなら」と答えた。 二人の視線の先、川を挟んだ向こう側にあるのは霧に包まれた都市。青年の方はさておき、女はまだ流れる川を渡れるほどの力を有していなかったが、マスターが使う血脈門さえあれば問題なくどこへでも行けることを知っていた。 仲が良さそうな男女は寄り添い合って霧の都市を見つめる。その足元の少し先、穏やかに流れる川の水面に二人の姿は映っていなかった。 2015.07.18 pixivにて初出 |