【1】


「なんだ、また飲んでいないのですか? 好き嫌いはいけませんよ」
 プラチナブロンドの青年が膝を抱えてうずくまるもう一人の青年に向かって呆れた声を出す。
 二人の足元には絶命した少女の身体が横たわっていた。相手が嫌がることを承知でプラチナブロンドの方が「折角の処女なのに」と付け加える。
「……人間の血なんか飲めるもんか」
 うずくまる方――黒髪の青年が地を這うような声で答えた。
 僅かに上げた顔は暗い表情を浮かべ、コバルトブルーの瞳に光はない。彼らの種族≠ノとって重要かつ唯一の食物である人間の血液を拒み続けているため、頬はこけて手足にも力がなかった。
 しかしそれは黒髪の青年自身が望んだことだ。目の前の化物に人間をやめさせられ、あの時死ぬはずだった身体は今もまだ動いている。鏡に映らぬ肉体を持ち、人間の生血を啜る化物のなんとおぞましいことか。このまま餓死してしまえばいいと青年は本気で思っていた。
 静かに、しかし絶対的な拒絶を示す新たな配下の様子に、そのマスターであるプラチナブロンドの青年はひょいと肩を竦めた。そして、
「レオナルド」
「……っ」
 名を呼ばれ、黒髪の青年ことレオナルドはビクリと肩を跳ねさせる。
 この種族にとって名は言霊。真の名を知る者はその相手を縛る権利を得るに等しい。加えて相対する青年は化物としてのレオナルドの主人(マスター)だ。
 瀕死のレオナルドを拾った際、マスターはその持ち物からフルネームを知った。つまりいつでもレオナルドを好きにできるという意味であり、おかげでファーストネームを呼ばれるだけで身体が竦むようになってしまった。
「糧を得なさい。このままでは本当に動けなくなりますよ」
 マスターが溜息を吐きながら諭す。
 まるで親鳥が雛に餌を与えて世話するような甲斐甲斐しさだ。しかしその実態は人間の子供が無責任に捨て犬へ餌をやるようなものである。興味が向く限り世話をするが、飽きればその存在ごと忘れてしまう。
 現に、
「せめてレディが復活するまで私の相手をしてもらわないと」
 マスターははっきりとそう告げた。
 いたずらにレオナルドを眷属にしたのは、本来欲している別の誰かの一時的な代替品が欲しかったから。しかもおそらく暇潰し目的で。
「レディ=H」
 初めて耳にする単語にレオナルドは首を傾げる。
「君より先にいた私の眷属ですよ。君を拾う前に人間の手でバラバラにされてしまいましたけど」
「はっ、『ヴァンパイアハンター』に殺されたってことか」
「我々に死≠ヘありません。最初に教えたでしょう? 我々の細胞は破壊された瞬間から再生を開始するのです。滅殺されたように見えても、それは単に完全回復まで時間がかかっているだけのこと。位の高い者ならばそれこそ一瞬で回復してしまえるのですよ。レディはまだまだ低級なのであの破壊具合だと何年かかかってしまいますけど」
 何が面白いのかプラチナブロンドの吸血鬼はくすくすと笑いながら少女の死体を挟んだレオナルドの正面で膝を折った。
 労働を知らぬ貴族のような手がその見た目に反してむんずと荒々しく少女の細い首を掴み上げる。
「レオナルド」
 マスターが少女の死体をレオナルドの前に突き出した。
 虚ろな瞳がレオナルドの姿を反射する。
「っ」
「今ここで君に壊れられても困るんです。血の吸い方(テーブルマナー)だって教えてあげたでしょう? さあ、君は私の眷属なのですから、私に従いなさい」
 美しく微笑むマスター。しかしその双眸からはちらりと剣呑な気配が覗いている。拒絶は許さない、と空気が告げていた。もしこれ以上拒めば、死よりも恐ろしいことが待っているだろう。
 レオナルドは奥歯を噛み締めた。
 だがやがて顎の力を意識して抜き、ゆっくりと口を開く。
「そう。良い子ですね」
 少女の首筋にかかっていたマスターの指先が動き、白い肌に傷をつけた。したたる赤。本能が刺激され、レオナルドの喉がごくりと鳴る。
 見えないストローを咥えて右手をそれに添えるようにすれば、重力に従ってしたたり落ちるだけだった血液が空中を漂ってレオナルドの口内に滑り込んだ。舌に触れたまだほんのり温かい血液を美味と感じ取ってしまえることにレオナルドは絶望する。だが作り変えられた身体の方は久々の糧に歓喜していた。
(なんで僕は生きているんだ)
 あの幼子がどうなったのかも分からないまま化物の玩具にされて、自分もまた化物として人の血を啜っている。
 おそろしい。おぞましい。なんて、みにくい。
 体中に活力が満ちるのを感じながらレオナルドは居もしない神を呪った。


 吸血鬼に転化させられて何年経っただろうか。五年? 十年? 二十年……は、まだかもしれないが、生まれたばかりの赤ん坊が立派な姿になるくらいの年月は過ぎたとレオナルドは思う。月日をぼんやりとしか感じ取れないのは、永遠に近い寿命を持つ化物の仲間入りを果たしてしまったからだ。
 人間の血液を半ば無理やり摂取させられながら、レオナルドは今もプラチナブロンドのマスターと共に行動している。
 月日は人を変えると言うが、生憎その言葉が吸血鬼に適応されることはなかったらしい。マスターは相変わらずレオナルドを『レディ』とやらの代替品とし、レオナルドは自分を含めて吸血鬼という化物をおぞましいものだと感じていた。
 それから、性質は変わらないが胸の内で大きくなっていったものが二つ。
 自分がこんな目に遭う原因となったあの女の化物への恨みと、消息が分からなくなってしまった幼いスティーブンを案じる気持ちだ。
 特に後者は著しい。
 マスターがレオナルドを拾った時、他に人間はいなかったとのこと。ならば誰かに助けられた可能性がある。もし生きていれば、きっと見目麗しい立派な青年になっているだろう。
 自分が正反対の化物に成り下がってしまったためか、スティーブンとの思い出は宝石のように輝きを増し、彼が無事に成長していますようにという願いは強くなっていった。
 叶うならば一目会いたい。しかし願うと同時に思い出は美化され、今やレオナルドにとって醜い己の姿をきれいな人間であるスティーブンの前に晒すなどとんでもない悪行だった。またそもそも何十億という人間が住む世界からたった一人を探し出す難しさをレオナルドはよく知っている。
 だからもう『レディ』とやらが戻って来て、自分がお役御免になることを願うばかり。そうしたら独りで絶食なり、吸血鬼狩りを生業とする人間達の前に出て行くなりして、化物の生を終わらせてしまおう。
 そう思っていたレオナルドだったが……。

「はぁい、マスターお久しぶり。ようやく貴方の元へ戻って来ることができたわ。あら? そこにいるのは――」

 ある日、何の前触れもなく。その化物はレオナルド達の前に現れた。
 高くそびえる山々と澄んだ空気、きれいな水で満たされた湖。どこかレオナルドの故郷を思わせるその場所に現れたのは、血のように真っ赤なルージュが印象的な女の形をした吸血鬼だった。
 見たことのある容姿と聞いたことのある声にレオナルドの全身が総毛立つ。
「えーっと、確か、そう! エスメラルダの子供の傍にいた人間じゃない」
「ッッッ! お前のせいで!!!!」
 何も考えられなかった。反射的に飛び出して女吸血鬼の顔面を狙う。だが突然の行為にも女吸血鬼は焦ることなく、自分より転化して日が浅いレオナルドをあっさりといなしてみせた。
「マスター? この子、同族にしたの?」
「ええ。レディが私の所に帰って来るまで暇だと思いましたので」
「そ。なんとも面白いことをするのね」
 唇を歪めて女吸血鬼――『レディ』が嗤う。
 レオナルドは歯噛みした。目の前の女が憎かった。自分の陥っていた状況がただひたすら腹立たしかった。
「……まさかあの子と僕を襲った化物と同じものがこの身体にも施されていたなんて」
 考えればその可能性にも到れたはずだったのに。
 今すぐ自分の身体を引き裂いてしまいたい。しかしそれは後回しだ。自分で死を選ぶ前に『やりたいこと』ができてしまった。
 レオナルドはコバルトブルーの淀んだ目でレディとマスターを睨み付ける。勝算はゼロに等しい。しかしこのままではいられない。
 同じ『死ぬ』でも一矢報いてからだ。
 レオナルドからの殺気が伝わり、レディがうっそりと微笑む。その表情はあの時と同じ、絶対的強者のもの。化物になった今も彼女にとってレオナルドは取るに足らない塵芥の一つなのだ。またそれはマスターも理解しており、牙を剥くレオナルドを見ても全く心配した様子がない。代替品が本命によって破壊されるのを楽しみにしている気配すらあった。
 それでもレオナルドの決意は揺らがない。意識を研ぎ澄ませる。忌々しい力の使い方は作り変えられてしまった身体の方が解っていた。また人間の血液は定期的に摂取させられていたため、戦う前からエネルギー切れを起こすこともない。
 マスターは配下同士の戦いに手出しする気が無いらしく、悠然とした態度で二人から距離を取る。レフェリーでも気取っているのだろうか。ならばそれでいい、とレオナルドは視界の中央にレディの姿を捉えた。
 踏み込み、跳躍。人間など比べ物にならない膂力が地面を抉って標的に一瞬で肉薄する。自分は不可視の触手や棘のような攻撃を使えない。しかしナイフよりも強靭な手刀がある。指先を揃え、右手で狙うはレディの心臓。『人間の急所』を狙ってしまうのはまだレオナルドの中に人間としての習慣や考え方が根強く残っていたからだろう。
 だがそれは失策だった。指先がレディに届く直前にレオナルドは横から大きな力で殴り飛ばされる。不可視の触手、もしくは棘。レディが使う――おそらくは彼女特有の――攻撃方法。それに吹っ飛ばされたレオナルドは湖面へと思い切り突っ込む。
 爆発のような大きな水音が立ち、高い水柱が立つ。晴れた空の下で澄んだ水が雨のように降り注ぎ、場違いに美しい虹が浮かんだ。
「レディ、やりすぎじゃないですか?」
「だってぇ。急に突っ込んでくるから驚いたんだもん。それにしても……マスターの手で転化されておきながら、あの弱さは何?」
「さあ。やる気の問題でしょうか」
 プラチナブロンドの吸血鬼は吸血鬼狩りの専門家達が『長老級(エルダークラス)』に分類するほどの力の持ち主だった。当然、その配下であるレディにも最初からそれ相応の力が宿っていた(組織を破壊されれば回復までかなりの時間を要するが)。しかしあの黒髪の青年はどうかと、レディは呆れ果てる。
「粗悪品? 私の代わりだとしても、もうちょっと上手く作ってくれなきゃ」
 半分拗ねて半分楽しんでいるような表情を浮かべ、レディはレオナルドが沈んだ湖に近付く。低級の吸血鬼は流れる水を苦手としているが、湖の水は川のように流れていないので近付くことなど造作もなかった。
 透明度の高い水を覗き込む。そこに吸血鬼たる彼女の姿が映り込むことはなく、雲一つない青空と遠くにそびえる山々だけが湖面に揺らいでいた。
「さぁて。粗悪品ちゃんはどこかなー? んー?」

「ここだよ、アバズレ」

 レディの背後にレオナルドはいた。水柱が立った時、レオナルドは水中に潜るのではなくその柱に隠れてすでに地上へ出ていたのだ。
 女の頭部に向かって渾身の力で上段蹴りを放てば、完全に油断していた彼女の側頭部にきっちりと足の甲が埋まった。今度はレディの身体が湖面に打ち付けられ、離れた所で見ていたマスターが「すごいですねぇ」と呑気に声を上げる。
 しかし呑気なのはマスターだけだ。不意を突かれたレディは湖から上がってくると共にギラついた目でレオナルドを射る。
 そして、
「ひき肉にしてやるわ、クソガキ」
 直後、不可視の棘がレオナルドの両目に突き刺さった。
「――――ッ!」
 脳まで貫いたそれにより、レオナルドの身体が空中に持ち上げられる。しかし死ぬことはない。その身体はすでに化物なのだから。
 ビクンッ、ビクンッと身体を震わせ、レオナルドは呻き声を上げる。
 しかしレディの怒りは静まらなかった。両目を串刺しにしたまま彼女の攻撃は続く。宣言通り、レオナルドの身体をひき肉レベルにまで壊し尽くすために。


【2】


 レオナルドは深い湖の底にいた。脳が破壊されてしまったせいで思考も少し、否、かなり覚束ないが、自分がレオナルドという元人間であることは解っていた。
 分厚い水の層を通してかすかに太陽の光が届いていたが、破壊された眼球は未だ修復され切っておらず、レオナルドがそれを認識することはない。
 眼球よりも優先して修復が進められていたのは胴体や手足。それらはすでにほぼ元通りになっている。幸か不幸か、レオナルドはレディのような特殊な力(不可視の触手もしくは棘)を得なかったものの、代わりに彼女よりも優れた回復力を備えていたらしい。
 ――レディと呼ばれる吸血鬼により一度レオナルドの身体が破壊されてから、数年の月日が流れていた。

* * *

 ミシェーラ・ウォッチは家から少し離れたところにある湖へとやって来ていた。
 生まれつき足の悪い彼女の移動手段はもっぱら車椅子である。本日も母親に手伝ってもらってようやくここまで来ることができた。
 数年前――まだミシェーラが自分の年齢を片手の指だけで表現できていた頃――、ここに何かが落ちてきたらしい。『何か』かつ『らしい』という表現がされているのは、それをきちんと確認した者がいないからだ。大きな水柱が立ったという目撃情報はあるものの、湖のどの辺に落ちたのかすらはっきりしていない。本当は何も落ちて来ておらず、当然湖の底には何もないと言う人さえいる。
 いずれにせよ、湖は今日も静謐で美しく、それを眺めるミシェーラにとっては関係のないことだった。
 濃い緑色の針葉樹に囲まれ、太陽の光を反射してキラキラと輝く湖面。遠くの方には高くそびえる山々があり、澄んだ空気はその稜線さえはっきりと見せる。青い空の下を大型の鳥が悠々と横切っていった。
 麦わら帽子の下からそれを眺めつつ、ミシェーラはご機嫌で車椅子を操作する。物心ついた時から車椅子と付き合ってきたミシェーラは、長時間の使用でなければ自分の手足の延長のように上手く扱うことができた。一緒に来た母親もそれを分かっているので湖のほとりに到着してからは娘のやりたいようにやらせている。
 ミシェーラはゆっくりと車椅子を進ませ、湖の周りを巡る。頬を撫でる風が気持ちいい。同い年の少年少女のように大地の上を走り回ることはできないが、車輪を持つこれは立派な彼女の足だった。
 しかし穏やかな風が突如として突風に変わる。「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた少女の頭から浮かび上がる麦わら帽子。慌てて繊手を伸ばすも、つばにすら触れられず、帽子は湖の方へ飛んで行ってしまう。
 ただし、
「……あ、ラッキー」
 風がやんだ後、少女はコバルトブルーの瞳を輝かせた。
 麦わら帽子が着地したのは、水面から突き出した枯れ木の先端。岸辺から手を伸ばせばギリギリ届きそうな位置である。生まれつきハンディキャップを抱えながらも自分ができることは自分でやっていこうという気概の持ち主であるミシェーラは、俄然やる気を出した。
 そんな娘の思考回路を承知している母親は「無理しないで、また買ってあげるから」と早々に告げる。しかしその程度で諦めるミシェーラではなかった。あれはお気に入りの帽子なのだから。
 車椅子を方向転換させ、帽子が引っかかっている場所へ向かう。母親も娘を止めることはできないならばせめて、と小走りで同じ場所を目指した。ただし距離的にミシェーラの到着の方が早い。
 先にその場所へ辿り着いた少女はさっそく車椅子に座ったまま手を伸ばす。目測通り、指先が帽子のつばに触れた。
「よし」
 小さく呟き、あとちょっとだと上半身を傾けるが――。
「…………ぁ」
 ぐらり、と車椅子が傾いた。車輪の真下の土がとても柔らかかった上に、軽いとはいえ少女一人分の体重移動があったのだ。最早その傾きは一人の力で止められるものではなく、ミシェーラは母親の悲鳴を聞きながら水の中へと落ちた。

* * *

 レオナルドの身体はようやく両目の修復に取り掛かっていた。
 四肢は完全に元通りになり、脳の方もほぼ正常な思考を取り戻している。治癒しかけの目は薄暗い水中でぼんやりと物の形を捉えられるようになった。そろそろ地上へ出て今後の身の振り方を考えようかと思う。
 眼球よりも先に回復していた瞼を閉じて、もう一度開く。まだよく見えないながらも、遥か上に太陽のものと思しき光。それを目指し、レオナルドは浮上を開始した。
 そして水面まで辿り着いた時――
 どぼん、と。それなりに大きな物が水に落ちる音と、それに続いて女性の悲鳴が聞こえた。「ミシェーラ!」と叫ばれたのは名前だろうか。
 レオナルドは反射的に水音がした方へ視線を向ける。治り切っていない両目でも狭い視野の中にぼんやり車輪が付いた何かと小さな手が、見えて。
「ッ!」
 レオナルドは急いで水を掻く。人間の時とは比べ物にならないスピードで泳ぐことができ、初めて化物の身体に感謝した。水面から少女の手が消える。しかし化物になったことで鋭敏化されたレオナルドの感覚はきちんと彼女の位置を捉えていた。
 ごぼり、と少女の口から大きな気泡が漏れる。その身体に手を伸ばし、
(届け……!)
 レオナルドは自分の腕を彼女の胴体に引っかけた。そしてすぐさま上昇する。
 少女の身体ごと水面に顔を出した途端、顔の横で咳き込む音が聞こえた。少し水を飲んでしまったようだが、少女の意識ははっきりとしている。
「落ち着いて。もう大丈夫だからな。ゆっくり呼吸して」
 少女の肩から上が常に水から出ているよう気を付けつつレオナルドは岸辺へと向かう。ちょうど彼女が落ちた場所には自らも湖に飛び込もうとしていた女性がへたり込んで近付いて来る二つの影を眺めていた。
 ただしその女性に近付き過ぎる前にレオナルドは意識して目を細める。自分の眼球が未だ不完全な状態であることを思い出したのだ。もしこれを見せてしまえば、折角一息ついた女性を無駄に驚かせることになってしまう。
 幸いにも少女の方はまだレオナルドの目にまで意識が向いておらず……否、コバルトブルーのぱっちりした双眸がレオナルドの顔をこれでもかと見つめていた。一瞬前まで溺れていたとは到底思えないくらいのぱっちり具合である。
「…………ご、ごめん、ね?」
 ――怖いものを見せてしまって。
 しかしレオナルドの謝罪に少女は首を傾げた。
「こわくないよ?」
「え」
 レオナルドは目を見開く。治癒途中のそれはコバルトブルーの宝石が暗い眼窩にころりと納まっているような状態だった。
「だって私とおなじ色だもん」
 記憶の中にあるスティーブンよりも少し年上であろう――つまりレオナルドから見てほとんどあの子と齢の変わらない――少女は、涙腺が緩かった少年よりも余程しっかりとした態度でレオナルドにそう返す。更にニコリと可愛らしい微笑み付きだ。
 呆気にとられたレオナルドはそれでも一応双眸を糸目に戻しながら苦笑する。
「キモがすわってんなーお嬢ちゃん」
「おじょーちゃんじゃないもん。ミシェーラだよ」
「そっか。ミシェーラは強いんだな」
「えへへ」
 名前を呼ばれて嬉しそうに笑う少女。その小さな身体をしっかりと抱きかかえて、レオナルドは彼女の母親と思しき女性の元へ近付いて行った。


「本当に、本当に、ありがとうございます!」
「いや、そんな。大したことじゃないんで」
 レオナルドは先程から何度も感謝の言葉を繰り返す母親に段々と自分の方が申し訳ない気分になってくるのを感じていた。こちらの正体を知れば――そうでなくてもまだ治っていないぐちゃぐちゃの眼球を見せれば――感謝の念も一瞬で吹き飛んでしまうだろうに。なんだか騙しているような気がして貼り付けた笑みに苦いものが混じる。
 その脚の間にはミシェーラがちょこんと収まっていて、乾いたタオルでレオナルドに髪を拭われていた。ついでにミシェーラは別のタオルでレオナルドの濡れた服をぽんぽんと叩いている。拙い手つきは水気を取っているとは言い難く、そもそも吸血鬼になったレオナルドは衣服も自分の身体の一部であるので、あまり意味のない行為だった。
「えっと。早くこの子を家に連れて帰らないと、ですよね。風邪引いちゃいますし。それに水も少し飲んでしまったようですから、一応病院にも……」
「え、ええ。そうですね」
 母親がハッとしてレオナルドからミシェーラの身体を預かろうとする。しかし車椅子は水の中。ついでにミシェーラは大きな身体でないものの、母親も筋力があるようには見えない。
「……よろしければ家までお送りしましょうか?」
「すみません。ありがとうございます」
 思わず提案したレオナルドに、母親がまた感謝の言葉を繰り返した。


【3】


 どうして自分はこんな所にいるのだろう。
 レオナルドは心の底から疑問に思った。
 小奇麗な応接セットに座らされ、目の前には紅茶とケーキ。自分の横には先程助けた少女が髪を乾かし服も着替えた状態で座っており――病院には明日行くらしい――、テーブルを挟んで正面では彼女の両親がソファに腰かけている。なお、父親は妻から連絡を受けて急いで帰って来たとのことだ。
 ここはウォッチ家。レオナルドが助けたミシェーラ・ウォッチとその家族が住まう家である。
 ミシェーラを自宅へ運んだついでにシャワーを浴びていけと言われ、服はミシェーラの父親の物を貸してもらった。押し付けられたとも言う。そして実際身に付けてみればシャツの袖とズボンの裾を折り曲げねばならず、胸の奥が重傷を負った。
 それはさておき。
 深く交流を持たずにさっさと姿を消す気でいたのが、あれよあれよと言う間に事が進んでウォッチ一家とお茶をしているなど、湖の底に沈んでいた時には全く予想していないことだった。
 レオナルドは内心で頭を抱える。
 ミシェーラもその両親もとてもきれいな人達だった。容姿は整った方だがそういうことではなく、心が。まさに善良な市民というやつで、普通ならいくら娘の命の恩人であっても突然湖の中から現れた得体の知れない存在など疑って良いはずなのに、笑ってもてなそうとしている。
 だからこそレオナルドは、早くここを離れなければいけない、と強く思う。化物はきれいなひとの傍にいられない。いてはいけない。
 幼い少年の姿が脳裏をよぎり、レオナルドは唇を噛んだ。
「レオナルド君」
 ミシェーラの父親が視線を下げて眉根を寄せたレオナルドに声をかける。なお、ファーストネームに関しては、彼が仕事先から帰って来た時に自己紹介をされて反射的に「レオナルドです」と名乗り返していた。
「娘を助けてくれてありがとう。改めて感謝の言葉を捧げたい」
「いや、僕はただ偶然あそこにいただけですし」
「それでも君がいなければミシェーラはどうなっていたことか……。だからこそ我々は心から感謝しているんだ」
 父親は自分の妻を一瞥し、再び視線をレオナルドへ向ける。
「たとえ、君がどんなひとであってもね」
「――っ!?」
 レオナルドは顔を跳ね上げた。
 ミシェーラの父親は驚きを露わにするレオナルドを前にして微笑んでいる。
「妻から聞いたよ。ミシェーラが湖に落ちた時、君が後から飛び込んだ様子はなかった。その前に湖の中で泳いでいた姿も見ていない、と。君は突然水の中から現れ、颯爽とミシェーラを救ってみせた。でも普通の人間にそんなことはできない。ギネス記録だって、酸素ボンベもないまま潜水していられる時間は二十二分……だったかな。しかももちろんギネスじゃその後すぐ溺れている女の子を助けるなんて行為はやらない」
「あ、の……ぼく、は」
「ああ、そんなに警戒しないでくれ。私達は君に感謝の気持ちしかない。これは本当だ。言っただろう? 君がどんなひとであっても、と。絶対に私達は君への感謝の気持ちを消すことなどない」
 レオナルドは顔を上げたまま、はく、と音もなく吐息を零した。
 受け入れられた、と思ったのではない。歓喜したのではない。彼らはまだレオナルドが人の血を啜って生きる化物であると知らないのだ。単純に『ちょっと人とは違う何か』程度の認識だろう。化物であるレオナルドからすれば、まだ『人間』で収まってしまうレベル。しかしもし自分達の目の前にいるのがおぞましい化物であると知ったなら、彼らはレオナルドを恐れるはず。
 そんなことは簡単に予想できてしまって、レオナルドの心臓がチクリと痛む。
 やはり早くここから去った方がいい。彼らの中に不要な恐怖心を抱かせる前に、長い人生の中でほんの一瞬時間を共にした『人』としてここを出て行こう。――と、思ったレオナルドだったが。
「君はミシェーラの足についてもう聞いているかい?」
「え。……あ、ああ、はい。生まれつきのものでしたっけ」
 この家についてすぐバタバタしながらミシェーラ本人に聞いた言葉を思い出す。着替える前に彼女が言っていた。「私、生まれつき足が悪いの。だからお兄ちゃんみたいにうまく泳げないのよね」と。
 レオナルドの返答に隣のミシェーラがうんうんと頷いている。
 父親は娘の姿を見て愛おしげに目を細めてから再度レオナルドに向き直った。
「実はお恥ずかしながら、娘の足を治す術がないかと現代科学はもちろんのことオカルト方面にも頼ってみたことがあってね」
 ここでレオナルドは話の方向性に「あれ?」と首を捻った。しかし父親は言葉通り恥ずかしげに苦笑しているし、その隣にいる彼の妻も夫の言わんとしていることが分かっているのか、静かに微笑むだけ。ついでにミシェーラは何故か少しわくわくしている。期待に満ちたコバルトブルーの目でレオナルドを見ていた。
 三人の様子を順に眺め、再び父親の方に視線を戻したレオナルドへ、この家の家主が告げる。
「君、人間じゃないだろう?」

* * *

「は!? え、いや、そんなこと、あるわけないっしょー。ねえ?」
 ミシェーラの隣に座る青年がソファから半分腰を浮かせて否定する。父に人間じゃないだろうと尋ねられて焦る姿は完全に墓穴というべきものだった。
 分かっていたが、この人はとても素直なのだ。そして優しい。ミシェーラ達が悪い気持ち――これには恐怖心なども含まれる――にならないよう、気を遣ってくれている。両目をギリギリまで細めているのがその良い例だ。
 ミシェーラは肩を竦めて笑った。
 正直なところ、まだまだ幼いミシェーラは当然のことながら、父親も言うほどオカルトに詳しいわけではない。奇跡が起こって娘の足が治ればいいのに、と色々試してみる程度だ。きっと物語の中に登場するオカルティックな生き物に関してはその著者の方が圧倒的に知識を多く持っている。
 だからレオナルドと名乗った青年が人ではない可能性は半々だったし、また本当に人ではなかったとしても「では一体どういう存在なのか」というのは全く見当がついていなかった。
 レオナルド本人が見事に狼狽えてくれたおかげで「ああ、彼は本当に人間じゃないんだ」と判ったが、そんなわけでウォッチ一家が改めて彼を恐れることはない。
「水の中にいたから魚人(マーマン)? でも水かきは無いわよね」
 レオナルドの手を見てミシェーラが呟く。
「あ、の。ミシェーラ、さん?」
「ゴーストなら透けてるだろうし、それなら私のことも助けられないし」
「えっと」
 中腰のままのレオナルドの顔には「この子いきなり何言い出してんの!?」という焦りと驚愕が滲んでいた。
 彼の視線から外れた父親が朗らかに笑う。
「はっはっはっ! まぁいいじゃないか」
「いやいや全然よくないっすよ!?」
 レオナルドが勢いよく振り返ってツッコミを入れた。
「それでな、レオナルド君」
「くそっ聞いてねーし!!」
 ちょっとヤケになっている叫びを無視して、ミシェーラの父親は言った。

「もし行くところが無いのなら、私達の家に住まないか。少なくとも、あんな水の底よりは明るくて楽しいぞ」

「………………」
 レオナルドがはたと動きを止める。年上の男性に対して思うべきではないかもしれないが、それはまるで迷子の少年がようやく親を見つけた時のような顔だ、とミシェーラは感じた。
 ミシェーラの父親は微笑んだまま。
「もし君が私達家族にとって大きな害になるのなら、この提案は無かったことにしよう。しかしそうじゃないのなら……たとえば君がゴーストで、一緒に暮らしていると時々ポルターガイストが起こるとか寒気を感じるとか、その程度で済むのなら、この家にいなさい」
 これはレオナルドがシャワーを終えて着替えて出てくる前に家族三人で話し合って決めたことだった。だからミシェーラも母親も何も言わない。父親に任せている。
 レオナルドが極端に細めた目で父親を見遣る。あのコバルトブルーを瞼の奥に隠したまま、青年は弱々しい声で「じゃあ」と尋ねた。
「もし僕が吸血鬼で、生きるためには血が必要なんですって言ったら?」
「近所に迷惑をかけず、更に我々が貧血を起こさない程度に留めてくれるなら、受け入れよう。ちなみに『働かざるもの食うべからず』だから、血の代わりに労力を提供してもらうけどね。ほら、ミシェーラはこの通りお転婆だから妻だけじゃ大変なんだ」
 茶化すように告げる父親にミシェーラが「もう!」と声を上げる。両親はそれに笑ってくれたが、レオナルドは力が抜けたようにソファに座り直し、茫洋とした顔つきで三人の家族を眺めていた。
 やがて、その唇が薄く開かれる。
「……聞いて、くれますか」
「いいよ」
 ミシェーラが家族の中で率先して答えた。
 レオナルドは一呼吸おいて口を開く。
「僕、皆さんの前から姿を消したら死のうと思ってたんです。いや、実際にはこの身体じゃ死ねないんすけど。どうせ復讐だって満足にできなかったんだから、もう誰にも迷惑かけずに、誰も怖がらせずに、せめて『害』にならずに済むように、しよう、って」
 レオナルドのほとんど閉じられた目から透明な雫が流れ落ちる。ミシェーラはそれを綺麗だと思った。
「でも」
 ほろり、ほろりと泣く彼は美しい。幼心にそう感じる。
「怖いですよ。そんなの普通はやってられない。だって俺、なりたくてこんな身体になったわけじゃねぇし。できることなら笑っていたい。笑ってる誰かの傍で、楽しいって思っていたい」
「だったら」
 ミシェーラが身を乗り出してレオナルドの両手を掴んだ。
「わたしたちのそばにいようよ」
 触れていた指先がぴくりと跳ねる。何者かはまだ知らない、けれどミシェーラを救ってくれた指。
 改めて強く握り直せば、少女の小さな手が静かに握り返される。
 その感触にミシェーラはにっこりと愛らしく笑いかけた。
「今日からあなたの名前はレオナルド・ウォッチね」
 お気に入りの帽子の代わりにミシェーラの元へやって来たのは、ミシェーラと同じコバルトブルーの瞳を持つ優しくて綺麗な人。

 だから次にこのひとが何か困難に見舞われたなら、今度は自分が助けてあげるんだ。と、ミシェーラは強く思った。


【4】


(奪ってしまった。こんなに優しい『家族』から、こんなに素敵な『妹』から。僕はずっと与えてもらってばかりいたのに、その恩をあだで返してしまった!)

 かつてニューヨークと呼ばれた街が一夜にして崩落し、異形の都市が再構築されてから三年弱。レオナルドという名の吸血鬼は異界の存在の手で『神々の義眼』をその両目に埋め込まれた。
 理不尽かつ一方的な契約により奪われたのは美しく成長した『妹』のコバルトブルー。
 失われた青を取り戻すため、レオナルドは霧けぶる異形の街ヘルサレムズ・ロットへと向かう。







2015.07.08 pixivにて初出