【1】
脳というものは非常に複雑怪奇だ。 体内外からもたらされる刺激を電気信号として受け取り、それらを独立して――たとえば右手で感じた痛みを左足のかゆみとして処理しないようにして――、また反対に密接な相互作用を伴って――悲しみを覚えた時に傷を負っていないはずの胸が痛くなるなど――一手に処理している。 さて、唐突だがここで一人の哀れな少年について記述しよう。 彼はどこにでもいる極めて普通の少年だった。家族思いの両親に、愛らしい妹が一人。妹は生まれつき足を悪くしていたが、そのハンディキャップをものともせず明るい性格の娘だった。 しかしそんな幸せな家族を悲劇が襲う。 元はニューヨークという大都市が存在していた場所に突如として構成された、異界と現世が交わる異形の都市ヘルサレムズ・ロット。少年の家族は妹の足を治せる手立てがないかと、藁にもすがる思いで人知を超えたその都市に最も近い街を訪れた。 残念ながら家族にもたらされたのは幸運でも奇跡でもなく、前述の通り悲劇。 仲の良い兄妹の前に現れたのは異界の住人であり、その者は二人に問いかけた。見届けるのはどちらか、と。 恐怖で足がすくみ声を発せなくなっていた兄に代わり、答えたのは美しく聡明な妹。「奪うなら私から奪いなさい」と告げた彼女からはコバルトブルーの眼球ごと視力が失われ、代わりに兄である少年には『神々の義眼』と呼ばれる特殊な眼が移植された。 少年は絶望した。少年は己を責めた。 自分が選択をしなかったせいで大切な妹から視力まで奪ってしまったのだから。 義眼を経由し強制的に流れ込んでくる膨大な量の情報で吐きそうになりながらも、少年は妹の膝に縋って泣き叫ぶ。 そして慟哭の中で少年は思った。自分は最低な人間だ。妹を守るどころか、彼女から奪うことしかできない。最低で、最悪。最大級のロクデナシ。卑怯者。 瞼を閉じたまま微笑む妹は優しく少年の頭を撫でる。その手つきは決して不甲斐ない兄を責めるものではなかった。あなたが奪われる側にならなくて良かったと心から思っているそれだ。 妹の想いが伝わってきたからこそ、少年は更に悔いた。この罪、一体どうすれば償えるのか。 気丈で、愛らしく、聡明で、美しい妹。彼女から奪った物を返せるならば、何であろうとも差し出せる。こんな、妹の優しい手を受けることすら値しない不甲斐ないロクデナシの卑怯者が差し出せるものであれば、何でも。 そうして、少年は妹の目を治す手立てを求めて自ら危険なヘルサレムズ・ロットへと赴く。 ここで少し冒頭へと戻ろう。そう、脳の話だ。 人間の脳というのは実に不便かつ便利なもので、見たいものを見たり、見たくないものを見なかったり、聞きたいものを聞いたり、聞きたくないものを聞かなかったりすることができる。実際に網膜に映った映像は視神経を通して脳に伝えられ、また耳に入った音は鼓膜を震わせその奥で電気信号に変換し、これも脳へと送られる。が、その脳という場所で「見なかった」「聞かなかった」と処理する場合があるのだ。(逆もしかりだが今は割愛する。) では、聞きたくないものを頭で理解する前に「これは聞きたくないものである」と決定するにはどのような過程があるのか。これは色々あるが、実際に聞いてから聞かなかったことにしたり、状況から判断して事前にシャットアウトしたり、と多種多様だ。その中で、例に挙げた少年は『眼』を使って判断していた。 少年に移植された義眼はとても特別で特異で奇怪で高性能。視覚に関することではほぼ万能と言っても過言ではなかったが、そういった特殊能力を発揮しなくとも、ごく単純に『眼が良い』状態になっていた。 常人ならば気付きもしない人間のわずかな動作からその感情の機微を察するということができるようになった少年は、眼で見た情報を使って無意識のうちに己が聞きたい言葉と聞きたくない言葉を選別するようになったのである。高性能な眼のおかげでその選別も一級品。聞きたくない言葉は絶対に少年が『聴く』ことなどなかった。 では少年が聞きたくない言葉とは何か。 少年は己を最低最悪の卑怯者だと思っている。そんな者が最も受け取るべきでない言葉――……。少年はそれを、好意、と定義した。無論この定義も無意識下での処理だが、それはさておき。 つまるところ少年は己に向けられる好意(を表現するための言葉)をことごとく頭から除外することにしたのである。 両親が「愛してるよ、私達の息子」と言っても肝心な部分のみ音が飛んで聞き取れない。ヘルサレムズ・ロットへ渡る前に別れた恋人が最後に「ずっと好きよ」と言った台詞にも「Love」の部分はぶつりと音が無くなった。 そして最愛の妹の言葉ですら。 反してテレビやラジオから聞こえる単なる言葉としての=w愛してる』はこれまで通りに聞こえる。 少年は己に起こった異変に最初愕然とし、次いで安堵した。妹から視力を奪った己が誰かに愛されて良いはずがないと思ったからだ。 こんな卑怯者が、ロクデナシが、優しい愛の言葉を受け取って良いはずがない。聞こえなくなれ。もっともっと聞こえなくなれ。――少年のそんな思いに応えるかのように、彼の脳は好意の言葉を『無音』で塗り潰す。言葉が音になる直前までの状況も、相手と自分との関係性も、気配も、身振り手振りも、そしてもちろん特別な眼を通してようやく感知できるような表情の微細な変化も、それら全ての情報が愛情を拒絶するために用いられた。 『愛してるわ、お兄ちゃん』 ヘルサレムズ・ロットにて、外界に住まう妹との通信の最後にその言葉が届けられる。少年はスカイポのカメラに向かって微笑んだ。妹の愛情に満ちた言葉はやはりきれいさっぱり音が飛んで聞こえない。 「僕もだよ、ミシェーラ」 画面に映った相手の口の動きだけを頼りに、少年――レオナルド・ウォッチは糸目を更に細くしてそう答える。 通信が終わればブースの外へ。まるで見計らったかのように今の職場から支給されているスマートフォンが震えた。慣れた様子で操作し、端末を耳に添える。聞こえてきたのは熟成された甘いテノール。 『少年、今大丈夫かい?』 「あ、スティーブンさん。はい、大丈夫ですよ」 仕事かな、と思いつつ、耳に端末を当てたまま移動開始。空調のきいたインターネットカフェを出て半分以上が異界人で占められている雑踏の中を歩きだす。 現在、レオナルドはその義眼の有用性を買われて超人秘密結社ライブラに所属することを許されていた。スティーブンはそこの上司である。新しい仕事を命じられたなら素早く対応できるよう、少年の足はライブラの事務所へと向けられた。 しかし「何か僕の眼が必要な事件でもありましたか?」と尋ねたレオナルドに対し、返ってきたのは優しげな苦笑。 「スティーブンさん?」 『いや、すまない。そうじゃないんだ』 完璧な、誰が聞いても「この人は私に心を許しているんだ」と思ってしまいそうな甘い声。その声でもって電話の相手は続けた。 『もし時間があるなら一緒に食事でもどうかと思って。ほら、時間もちょうどいいだろう?』 言われてみれば、とレオナルドは空を見上げた。常に霧で覆われている空は赤く染まり始めている。まだ職場にいるだろうスティーブンとこれから合流して食事をするならば確かにちょうどいい時間かもしれない。 どうかな、と尋ねる声にレオナルドは「yes」と返した。電話の向こうでスティーブンが嬉しそうに『それなら――』とレストランの名前をいくつか挙げ始める。 『どこがいい?』 「スティーブンさんと一緒ならどこでも嬉しいですっていつも言ってるじゃないですか」 明るく、けれど少しだけ恥ずかしそうな声音を意識してレオナルドは答えた。端末からは弾んだ声で『わかった。じゃあ僕の方で決めておくよ』と聞こえた後、次いで待ち合わせの場所を指定される。レオナルドはその全てに頷き、指定された場所へと方向転換する。 会社の上司と私的なディナー。ただの上司と部下ならこんなことはしない。つまりスティーブンとレオナルドはただの上司と部下ではない、いわゆる恋人というものだった。 スティーブンからのアプローチで始まったこの関係は実に良好な状態で継続している。ランチもディナーもスティーブンの家に宿泊することも、その場所で行う恋人達の営みも全て経験済みだ。 『レオナルド』 自分達の関係に意識が向いていたレオナルドを引き戻すように、甘い甘い声で呼ばれる。レオナルドは「はい」と答えた。 『じゃあ待ち合わせは今言った通りに。……――愛してるよ、レオ』 「僕もです、スティーブンさん」 最後にそう告げて通話終了。レオナルドは端末をポケットに戻し、雑踏の中を進む。 他人からの愛を望まない少年の口元は小さな弧を描いていた。今にも鼻歌すら聞こえてきそうな上機嫌である。 (だって仕方ないよな。今日も大丈夫≠セったんだから) 最初の頃、レオナルドの脳は眼だけを頼りに聞こえる言葉の選別を行っていたが、ある程度面識を持った後の相手であればその背景と声色だけで音を失くすか否かができるようになっていた。スティーブンはレオナルドにとってある程度∴ネ上に面識を持つ相手である。無論、これもレオナルドが意識してやるのではなく、全て無意識下で済まされて、その結果を『無音』としてレオナルドが受け取り、選択が起きたことを自覚するのだが。 閑話休題。 軽い足取りで待ち合わせ場所へと向かうレオナルド。 その耳には携帯端末越しに注がれた愛の言葉が『無音』に全く侵されることなく残っていた。 レオナルドの耳に聞こえる『愛してる』。 それはテレビやラジオから聞こえてくる感情のないただの台詞と同じ。 つまり、 恋人という関係でありながら、スティーブン・A・スターフェイズはレオナルド・ウォッチを愛しているわけではない。 これが真実だ。 レオナルドはそれが嬉しくて仕方なかった。なにせ自分は愛されるべきでない人間なのだから。 スティーブンのただの気まぐれか、娯楽の一種か、それともこの『眼』に関係しているのか、その辺のことはあまり深く考えていなかった。そんなものはレオナルドにとってどうでもいいことである。 愛されるべきでない人間の傍で偽物の愛の言葉を吐く相手。その存在がレオナルドにとって歓喜すべきただ一つ。妹に対して仕出かした罪を決して忘れないように、常にレオナルドを戒めるように、甘い声で吐き出される温度のない偽りの言葉がレオナルドは嬉しくて仕方なかった。 とうとう鼻歌まで歌い出してレオナルドは笑う。 ただし、実に楽しげな鼻歌とは反対に、その笑みはどこか歪で不格好なものだったけれど。 (僕みたいな卑怯者、誰かに愛されていいはずがない) スティーブン・A・スターフェイズという男について話をしよう。 霧の街ヘルサレムズ・ロットにおいて日夜世界の安定のために戦う超人秘密結社ライブラのナンバー2。エスメラルダ式血凍道の使い手にして、リーダーであるクラウス・V・ラインヘルツの友人であり副官、番頭役とされる文武両道の切れ者である。 長い脚が特徴的な均整の取れた肢体と、こめかみから口元にかけて走る大きな傷跡ですら魅力に変える甘いマスク。自分の男としての長所を良く理解し、それを活かす術を知っている彼は、その容姿を活かした諜報活動でさえ自ら進んで担う。 また清廉潔白な『紳士』であるリーダーとは対照的に、ライブラという組織を上手く動かしていくために必要な暗部をトップたるクラウスにも知られずに受け持っていた。 クラウスのため、ライブラのため、ひいては世界のために献身するスティーブンが結社に新しく入ってきた『神々の義眼』保有者に抱いた印象は、ざっくり言うと「リターンはあれどリスクが大きい」である。その印象は後々義眼保有者自身の功績によって徐々に改善されていくものの、どう転んでも保有者もといレオナルド・ウォッチは戦えないのに戦場に立たなくてはいけない――イコール、戦闘要員の誰かが常に護らなければならない――お荷物さんだった。 だがレオナルドの加入からしばらくして、戦えないことを無視してでも許容できる、否、むしろ喉から手が出るほど欲さざるを得ない理由が生まれた。 神々の義眼がライブラの母体である『牙狩り』の最大目標吸血鬼の殲滅≠ノとって必要不可欠な諱名を読み取ることができると判明したのだ。 吸血鬼もとい『血界の眷属(ブラッドブリード)』の諱名を、本人(本吸血鬼)を目視するだけで読み取れるという能力は、それこそ眷属狩りのために育て上げられた精鋭何十人、何百人分にも匹敵し、また眷属に打ち勝つため連綿と続いてきた牙狩りの歴史何十年、何百年分に匹敵する。 義眼はその美しさから至高の芸術品と呼ばれることもあるが、そんな表現が吹き飛ぶほど重要で重大な事実に、スティーブンは人知れず震えた。 さて、恐ろしいほどの有用性に気付いた後は、それを絶対にライブラから離してはならないと、当然のように思考は働く。 金銭で保持できる縁ならばスティーブンはそれを用意しただろう。魅力的な女を宛がえばいいなら、女を。また実は男色でしたと言うならば好みの男を。しかしながらレオナルドはそういった即物的な人間ではなく、クラウス寄りの思考の持ち主だった。つまり、レオナルドをライブラに留めておくのに最も有効だったのは、当初クラウスが彼と交わした『協力の代わりに妹ミシェーラの視力を取り戻す手立てを探す』という契約、それから人と人との情だったのである。 前者はクラウスという存在によりクリアしている。もしミシェーラ嬢の視力回復にレオナルドの義眼喪失が必要であった場合、神々の義眼保有者の能力を知ってしまった牙狩り本部が承認するかはさておき。 後者についてもまた、日々の活動の中でレオナルドと他のメンバーとの間で友好関係が築かれつつあった。 無論、スティーブンもそれに一役買おうと、レオナルドに良き上司として接することにした。ただしその口から吐き出される友愛の言葉には本心が伴っていない。あくまで義眼は義眼。道具は道具である。 しかしながら他のメンバーが本心からレオナルドに親しく接する傍らで、最もレオナルド本人が懐いたのは、驚くべきことにスティーブンであった。 誰よりも冷たい視線で優しいフリをして接する男の言葉に、レオナルドは誰に対するよりも良く反応した。スティーブンの傍が心地良いと言葉にせずとも態度で示し、嘘まみれの言葉をもっともっとと強請った。 となれば、スティーブンの思考も次の段階に移る。レオナルドが執心する対象として自分が選ばれたなら、ライブラのためにこの身を捧げるまで。レオナルドが望んでいるのならばと、その関係は急速に深まり、終いには恋人などという茶番を演じる羽目になった。 元々偽物の恋心や偽りの愛を振り撒いて情報を集めていたスティーブンにとって、子供一人相手にする程度のことは負担でも何でもない。片手間に愛を囁き、身体に快楽を覚えさせ、レオナルドの純情をもてあそぶ。 悪い大人だという自覚はあったが、それも今更だ。スティーブンはずっとそうやって生きてきたのだから。全てはライブラのために、そして世界のために。 (そのはずだったんだがなぁ……) これまでの考えを一変させるような劇的な事件があったわけではない。ただ共に過ごす中でゆっくりと、本人の意思など関係なしに育まれていたものが芽を出しただけの話。 スティーブンは自宅に招いて食事を済ませた後に眠ってしまったレオナルドを穏やかな目で見つめていた。 ベッドに運んだ身体は相変わらず年齢に見合わない軽さで心配になってくる。普段ゆったりとした服装でいるため判りづらいが、レオナルドは妹への仕送りばかりを優先してあまり良質な食事にありつけていない。最近はスティーブンが気を付けて栄養価の高いものを食べさせるようにしているが、週に一度や二度の逢瀬で改善できる問題ではなかった。 レオナルドを運んだ後そのままベッドの端に腰かけていたスティーブンは、癖のある柔らかな髪にそっと指を通す。胸がじんわりと温かかった。 「レオ……」 舌に乗せるその名は甘い。声に出した後で本人が苦笑してしまうくらいに甘ったるくて、スティーブンはかぶりを振る。本当にどうしようもない。ミイラ取りがミイラになるとはこのことか、と笑いで肩を震わせた。 思い返せば随分とレオナルドには不実を働いてきた。それを許してもらおうなどとは思わない。むしろこれからもずっと隠し通すつもりだ。 スティーブン・A・スターフェイズは最初からレオナルド・ウォッチのことが好きだった。それを事実だとして、レオナルドには信じ続けていて欲しい。スティーブンのくだらない不実でそのやわらかな心を痛めて欲しくなかった。 「れーお」 前髪の毛先を弄り、側頭部を撫でるように髪を梳き、それから頬を撫でる。 愛しい子。優しい子。こちらが嫉妬してしまうくらい誰かを大切にできる子。スティーブンの大切なレオナルド。 「レオ」 ふにふにと頬を摘まむように愛撫すれば、何度呼んでも目覚めなかった眠り姫がようやくむずがる仕草を見せた。疲れているならこのまま寝かせてあげるべきなのだろうが、胸に溢れる愛おしさがもっとレオナルドと言葉を交わしたい、その姿を愛でていたい、その目に自分を映していて欲しいと願ってしまう。 「おはよう、俺のかわいい眠り姫」 まだ日付も変わっていないというのにそんな言葉をかける。「まだ朝になってないし、つーか姫ってなんですか、あとかわいいとか!」なんて、こちらの台詞に逐一突っ込んでくれるのを待つのも楽しかった。 しかし―― 「………………すてぃ、ぶん、さん?」 スティーブンの眠り姫は余程深い眠りに落ちていたらしい。どうやらスティーブンの声を上手く聞き取れなかった彼は、ベッドに寝転がったまま不思議そうに首を傾げる。 少し子猫にも似たそんな態度を目の当たりにしたスティーブンは伊達男の名が泣くほど頬を緩ませ、レオナルドの顔にキスの雨を降らせる。わざとらしく音を立てながら、その合間に好意しかない言葉を注ぐ。かわいい、すきだよ、あいしてる。おれのれおなるど。 レオナルドはその言葉に応えない。寝起きでぼうっとしているのに加え、キスの雨が邪魔をしているのだろう、とスティーブンは思った。 最後に口へ、少し長めのキスをして。スティーブンは覆いかぶさるようにレオナルドを抱き締めた。反射的に細い腕がスティーブンの背に回される。ああ、愛おしい。その気持ちのまま、スティーブンは「君が好きだよ」とレオナルドの耳元で囁いた。 耳朶を吐息でくすぐられたレオナルドはぴくりと身体を震わせる。しかしスティーブンの視界の外で、少年は訝しげに眉をひそめていた。 この子が好きだとスティーブンが胸を熱くさせる傍ら、レオナルドは内心で、はて、と首を傾げる。 (スティーブンさん、なんでしゃべらないんだろう) レオナルド・ウォッチにはあいのことばがきこえない。 【2】 最近、どうやら自分の恋人は偽物の愛の言葉を吐くことすら億劫になってきたらしい。 と、レオナルド・ウォッチが思ったのは、彼の恋人役であるスティーブン・A・スターフェイズがレオナルドの与り知らぬところで自身の中に芽生えた感情を自覚してから少し経った頃だった。 それまでとてもはっきりと聞こえていたスティーブンからの『愛の言葉』をこのところめっきり耳にしていない。行動自体は変わらないどころかむしろ接触率が高くなっているというのに、その多くが無言もしくは吐息のみという状態だった。 面倒臭くなったのかもしれないなぁとレオナルドは独りごちる。 背中に感じるのは自室の硬いベッド。ぼうっと見上げた先にあるのは安アパートの天井。 今夜もスティーブンに「うちへ泊まりに来ないか」と誘われたが、戒めのために欲した『偽物の好意の言葉』をもらえず、また相手の方もこの恋人関係に飽きがきているのだと思えば、その誘いを受けることなどできなかった。 ふう、と溜息を一つ。どうにも力が出ない。 体力は――有り余っていると言うほどではないにしろ――十分だが、気力の方に問題があった。 ぼんやりと天井を見上げる視界の端に音速猿の白い毛並みが映る。「ソニック?」とその名を呼べば、小さな鳴き声と共に大きな丸い目がレオナルドを覗き込んできた。 元気のない友人を心配してか、レオナルドを見つめる双眸は不安定に揺れている。小さな友がこちらを好いてくれているのは明らかだが、さすがに彼のキイキイという鳴き声まで好悪を判断し音をカットする機能はレオナルドの頭にも備わっていなかった。 小さな手で頬を押しながらソニックが発するのは、おそらく世界で唯一、今のレオナルドが聞き取ることのできる好意の言葉だ。 「心配してくれてありがとな」 囁くように告げてレオナルドはソニックの頭を撫でる。誰の目にも映らず素早く逃げることを生存戦略としてきた異界交配動物はその手を避けることなく静かに受け入れた。 指先や手のひらに触れる他者のぬくもりが心地良い。しかし胸にぽっかりと穴が開いたような感覚が消えることはなく。 スティーブンの異変を察知して以降レオナルドの胸に生まれた見えない穴はじくじくとその本人を蝕んでいた。空虚感とはよく言ったもので、身体のどこかが欠損したわけでもないのに自分を構成していたものの一部を失った≠ニ感じてしまう。 そもそもスティーブンとの関係は『本当』を伴わない嘘まみれのものであるはず。だというのにスティーブンから偽物とはいえ好意を言葉で示されなくなった途端、レオナルドは言いようのない寂しさを覚えるようになっていた。 これは、つまり。 「あー……そっか」 音速猿を撫でていた手を止め、自身の両目を覆う。 「馬鹿だなぁ、俺」 唇が歪んで小さく自嘲を吐き出した。 顔のすぐ傍ではソニックが心配そうに鳴いている。「大丈夫だよ」と答えてやりたかったが、きっとそれを口にすれば震えてまともな音にならないだろうと予感していたレオナルドは、歪んでいた唇を固く引き結んで今にも漏れてしまいそうな声を封じ込めた。 (嘘だって解ってても、聞こえることが嬉しかったんだ、僕は) 自ら無意識のうちに聞こえなくした、誰かからレオナルドに向けての優しい言葉。そうなるのは当然だと自覚していたはずなのに、これは戒めのためだと言い訳をしていたのに、卑しい心は耳触りの良い言葉を欲してしまっていたのだ。 完璧な笑顔と完璧な所作によりこの身を嘘の愛で満たしてくれた大人に甘えていたのだと自覚したレオナルドは、その自覚と同時に厳しい現実をも認識する。 レオナルド・ウォッチはスティーブン・A・スターフェイズを慕うようになっていたが、スティーブン・A・スターフェイズは一片たりともレオナルド・ウォッチを想っていない。それどころか最近はレオナルドの相手をするのも億劫になり、偽物の愛を囁くことすらなくなった。 なんとも情けない失恋だ。まだまともな恋にもなっていないうちに、想いが叶わないことを知ってしまった。 (でも、それでいい) 両目を閉じ、更に上から手で視界を遮ったままレオナルドは胸中で呟く。 妹から奪うことしかできないロクデナシの卑怯者が甘い言葉に現を抜かしていいはずがないのだ。誰かと想いを交わすなど以ての外。そう望むことすら許されない。むしろレオナルド自身が望まない。許せない。幸せを求める暇があるなら、その力の全てを妹の目のために使うべきである。 「よし!」 足を振り子のように使って上半身を起こす。気合を入れてパンと両頬を叩けば、ソニックが驚いて目を丸くしていた。それに「あ、ごめん」と告げて、レオナルドは笑みを浮かべる。 肩口に登ってきた音速猿を優しく撫でれば、やはり温かさが心地良く感じられた。そして案の定、胸の空虚感は埋まらない。けれどもそれでいい。それが、いいのだ。 「もう大丈夫だからな」 好きも愛しているも必要ない。レオナルド・ウォッチが欲するのは、愛しい妹の幸せだけ。それが唯一で、全てだ。 「とりあえずスティーブンさんにこれ以上迷惑かけないようにしないと。やっぱ不必要に話しかけんのもアウトだろうなぁ」 大きな独り言を呟きつつ、ベッドから離れて冷蔵庫へ。空虚感との折り合いの付け方が分かった途端に腹が空いてきた。それに帰宅してからソニックにも食事を与えていない。小さくて優しい友人は自分の空腹を我慢してレオナルドに付き合ってくれていたのだろう。 「なんかガッツリ食いたいよなぁ……………………お、おう」 ぱかっと空けた冷蔵庫。しかし残念ながら、スティーブンと食事をする機会が増えていたレオナルドの家の冷蔵庫にはまともな食料などほとんど存在していなかった。煌々と明かりに照らされているのはミネラルウォーターのペットボトルと何故かリンゴが一つ。そう言えばスティーブンと食事をすると良い物が食べられるので、浮いた分を全て妹への仕送りに当てていたのだった。 ぐぅと鳴る腹を抱えてレオナルドはその場に膝をつく。床に降りた音速猿が同情するように、ぽん、と小さな手で大きな友人の脚を叩いた。 最近、恋人の反応が薄い。 と、スティーブン・A・スターフェイズが思ったのは、彼が己の恋人であるレオナルド・ウォッチへの想いをひっそりと自覚してから少し経った頃だった。 これまでレオナルドは他の誰が発した言葉よりもスティーブンの声に対して顕著に反応してくれていた。しかしスティーブンがレオナルドへの恋心を自覚して以降、その特別扱いが感じられなくなっている。……ような気がする。 もしかしたらレオナルドのことを意識しすぎて、彼の少年自身は特に何も変わっていないのに、受け取り手であるスティーブンが勝手に物足りなさを感じているだけかもしれない。そうだ、きっとそうに違いない、とスティーブンは胸中で呟いた。 結論が出たところで、マグカップに入ったコーヒーを一口。ふう、と息を吐いて中途半端に止めていた書類に再度視線を落とす。 現在、ここライブラの執務室にはスティーブンしかいないため、落ち込んだ表情からようやく元気を取り戻した番頭役の変化を観察できた者はいない。 静かな空間にカリカリとペンでサインする音と書類をめくる音だけが響く。 レオナルドとベッドを共にしなかった次の日は早朝出勤をすることが多くなった。家にいてもあの子と会えないなら、さっさと職場に来て彼が現れるのを待っていたい。もしレオナルドより遅く出勤してしまったら、その分の時間が勿体無いじゃないか、と思うのだ。それに静かな空間で仕事をさっさと片付けておけば、レオナルドがやって来た時に思い切り構い倒すことができる。 これまでの不誠実な態度が嘘のように、スティーブンの頭はレオナルドのことでいっぱいだった。今もあの少年のことを想うだけで口角が自然と上がってくる。 やがて窓から差し込む日光の角度が高くなるにつれ、クラウスとギルベルトが、別室に設置された水槽から出てきたツェッドが、チェインが、それぞれ姿を見せ始める。少し遅れてK・Kが登場し、そして最後に騒々しい言い合いと共に正面の扉からザップとレオナルドが入ってきた。 レオナルドの姿を目にしたスティーブンはなるべく気持ちが顔と声に出ないよう己を戒めながら、けれども万感の思いを込めて「おはよう」と告げる。 先に反応したのはザップで、「はよーございます、スターフェイズさん」とこちらを一瞥。 一方、レオナルドはそんなザップを何故か驚いたように見上げ、次いでその視線が向けられている相手つまりスティーブンへと視線を寄越し、ようやく「あ」と口を開いた。 「おはようございます、スティーブンさん」 「……うん、おはよう」 やはりレオナルドの反応が鈍いような気がする。スティーブンは笑顔で返しつつ内心で首を傾げた。 反応が鈍いどころか、今のはまるでスティーブンの声が聞こえていなかったかのようではないか。 傍にいるザップが突然挨拶をしてレオナルドはそれに驚き、状況からスティーブンが先に挨拶をしたのだと察して自分も口を開いた。――そんな風に見える。 レオナルドの耳に異常があるのかとも思ったが、直前までザップと罵り合っていたのならその可能性は薄い。また今も定位置となりつつある応接セットのソファに腰かけてツェッドと普通に談笑している。 左手側にツェッド、右手側にザップ、そのザップの頭上に現れるチェイン。頭部を思い切り踏みつけられたザップが怒鳴り声をあげ、チェインが鋭く悪態をつく。レオナルドとツェッドが犬猿の二人のやり取りに苦笑して、そこへクラウスが話しかけに行った。どうやら新しい花が咲いたので見てもらいたいらしい。 言い争う男女を放置して、残りの二人と興味をひかれたK・Kがクラウスについて行く。窓辺に置かれていた鉢植えが可憐な白い花を咲かせていた。きれいですね、とレオナルドが微笑み、ツェッドが頷く。 K・Kがこの花は何かと尋ねた。 クラウスは小さくて慎ましい花を指して、名前を告げると共にこれはとても強い植物なのだと説明する。決して派手な見た目ではないが、荒れた土地でも精一杯に生きようとする花だと。 そして、続けてこう言った。 まるでレオナルド君、きみのようだ。 はた、とレオナルドはクラウスの顔を見上げる。その隣でツェッドとK・Kが確かにそうだとクラウスの賛辞に同意した。 レオナルドはツェッドとK・Kに視線を向け、その言葉の意味を解するようにコンマ数秒沈黙し、やがてふわりと頬を緩める。 「僕には勿体無い言葉ですよ。でも、ありがとうございます」 見た者の心を温かくするような笑みだった。しかしスティーブンが偽りの愛の言葉を囁いていた時に浮かべられたものには敵わない。 やはりレオナルドにとって自分は特別なのだと、四人のやり取りを目で追っていたスティーブンは挨拶の件でざわついていた気持ちを落ち着かせる。 まさかクラウスの心からの賛辞がレオナルドには全く聞こえていなかったなどと、スティーブンを含め誰も考えはしなかった。 ある日の夕刻。 ライブラの執務室にはスティーブンとレオナルドの姿だけがあった。他のメンバーは不在。午前中にちょっとした任務を片付けた後、別の任務で出かけていたり、愛人同士の衝突を避けようと奔走したり、所属する局へ顔を出しに行ったり、特設の水槽内で休憩していたり、次の呼び出しがあるまで家族サービスに精を出すと言って帰宅したり、それぞれの理由で姿を消している。 レオナルドもまた帰宅の準備を終えていた。つい先程までスティーブンの仕事の手伝いとして書類整理をしていたのだが、日が落ちて街の生還率が下がる前に帰るようスティーブンが提案したのだ。 できるならば送って帰りたいが――あわよくば自宅に連れて帰りたいが――今日中に捌かねばならない書類が机の上で待機しているため、苦肉の策である。 「スティーブンさん、あまり無理しないでくださいね」 「ありがとう」 ちょっとした言葉をもらうだけで心が温かくなる。幸せだな、と思った。 このところ何かと都合が悪く、レオナルドと食事をすることも彼を家に招くこともできていない。今日こそは、と思ったのだが、午前中の事件のせいでそれもパアだ。 荒んでいた心にレオナルドの言葉は清涼剤のような効果をもたらし、スティーブンは思わずといった風に、外へ通じる扉を開けたレオナルドへと声をかけた。 「愛してるよ、レオ」 レオナルドが振り返る。ただし予想していたような可愛らしいはにかみや赤面ではなく、彼は平素の表情のまま小首を傾げて尋ねた。 「スティーブンさん、何か言いましたか?」 「え……?」 今度はスティーブンが首を傾げる番だ。愛しい恋人が何故そんな発言をしたのか理解できず、戸惑いながらも咄嵯に年長者として取り繕おうと口を開く。 「い、いや。何でもないんだ」 真っ赤な嘘。何でもないはずがない。 それはスティーブンの一番やわらかなところにある気持ちだったのだから。 しかし当の恋人は驚くほどあっさりと返答してみせた。 「そうですか。じゃあお先に。お疲れ様です」 「ああ、お疲れ。気を付けて」 「はい」 そう言ってレオナルドは扉をくぐる。その背を見送り、扉が閉まるのを待って、スティーブンは口元を左手で覆った。 「あ、れ?」 くらり、と、めまい。 視界が、思考が、ブレる。 「無視された……?」 まるで告白が無かったかのように。 そんな言葉なんて求めていないと、スティーブンの気持ちなど不要だと、そう言われたような心地がした。 レオナルドがそんな人間ではないと知っている。しかしどうしてもマイナスの考えがあとからあとから湧き出てきて止まらない。 「……ッ」 胸が苦しくて、年甲斐もなく目頭が熱くなって、スティーブンは机の上で拳を握った。爪が手のひらに食い込み、痛みを訴える。 「レオ……!」 縋るようにその名を呼んだ。縋れるものなど無かったけれど。 それ以降、スティーブンはレオナルドを食事に誘うことも、家に招くこともなくなった。もし断られでもしたら……。そう考えると恐ろしくて、何も口に出せなくなってしまったのだ。 滑稽すぎて笑えてくる。 今まで何人もの人間を誑かしてきたというのに、本気になった途端その相手にどう出ればいいのか分からなくなってしまったのだから。 更に悪いことに、その恐怖心を煽るかの如く、スティーブンがアプローチを控えるのと時を同じくしてレオナルドもまたスティーブンに仕事以外で話しかけることが無くなり、二人の繋がりは急速に薄れていった。 二人はもはや恋人ではなく。 ただの上司と部下になってしまった。 そして―― 『あたし、結婚するから』 レオナルドが久しぶりに妹とスカイポで通信を開始するや否や、最愛の少女が爆弾発言を落とした。しかも相手を紹介するため、レオナルドに会いに来るという。 拒絶する兄に妹は一歩も引かない。言いたいことだけ言い終えた妹はそのままぷつりと通信を切ってしまう。 レオナルドは項垂れた。 ミシェーラ・ウォッチ、ヘルサレムズ・ロット入り。 【3】 やはりスティーブン・A・スターフェイズはレオナルド・ウォッチの相手をするのが嫌になったのだ。 食事に誘われることも、自宅に招かれることも、そして勿論『偽りの愛の言葉』を囁かれることもなくなったレオナルドは、胸の空虚感にようよう慣れ始めながらそう判断した。 スティーブンの偽りにまみれた言葉の代わりに今度はその胸の空虚感がレオナルドを戒める証となる。 ぴくり、と。ほんの少し指先が震えた。それを握り拳を作ることで誤魔化して、レオナルドはライブラの事務所から出る。 つい先程、妹のミシェーラがヘルサレムズ・ロットにやって来る旨をライブラの構成員として<Nラウスとスティーブンに報告した。 クラウスはいつも通りの頼もしいリーダーであり、紳士としての対応。一方、スティーブンも有能な上司として振る舞っていた。交わす視線も言葉も事務的で、少し前までレオナルドに甘い言葉を囁き、熱を与えていたとは到底思えない態度だった。それを思い出してレオナルドは眉尻を下げる。 立ち止って路地から空を見上げれば、霧の向こうで太陽がぼんやりと輝いていた。その光がまぶしかったのだと誰にともなく言い訳をして、レオナルドは手で両目を覆う。 「ミシェーラのことだけ考えてろよ、レオナルド・ウォッチ。お前に他のことで頭を使っていられる余裕なんてないだろ?」 しかもその妹がもうすぐこの危険な街にやって来る。プリンセスが見つけたプリンスを己のトータスナイトに紹介するために。 気合を入れろ。腑抜けている暇はない。レオナルドは己に活を入れる。自分は愛しい妹がこれと決めた相手を両目でしっかり見定めなくてはならないのだ。 意識して世界で一番大切な少女のことで頭を塗り潰し、レオナルドは歩き出した。 妹の婚約者との顔合わせ当日。 ホテル ヴォルドールアスタリスクU、ロビー。 正面玄関から入ってきた妹と彼女の車椅子を押す青年を、レオナルドは落ち着かない様子で出迎えた。先日、ミシェーラとは画面越しに言葉を交わしたが、元気そうな本人を目にして何となく胸を撫で下ろす。 続いてミシェーラの紹介で彼女の婚約者であるトビー・マクラクランと挨拶を交わした後、レオナルドは妹の身体をそっと抱き締めた。 妹の背に腕を回せば、ミシェーラもまたレオナルドに細い腕を伸ばす。 やわらかな少女の手がレオナルドの背を撫でた。 「お兄ちゃん、ちょっと痩せたんじゃない?」 「ん? そんなことないと思うけど」 「もー。無理しちゃだめだからね?」 「わかってるって」 互いの肩に頭を預けたまま、囁くように言葉を交わす。 ミシェーラの腕の力がほんの少しだけ強まった。レオナルドはそれに応えるように彼女を強く抱き締め直す。触れ合ったところからぬくもりと鼓動を感じる。それを愛おしく思いながら肩の力を抜いたレオナルドだったが―― 愛してるわ、お兄ちゃん。 レオナルドの視界の外でミシェーラが決して小さくない声で告げる。しかしその言葉を向けられた兄は無反応。 「あーあ。やっぱりね」 呆れたような、また残念がるようなミシェーラの呟きにレオナルドが抱擁を解く。「ミシェーラ?」と首を傾げた兄に妹は苦笑を零した。 「やっぱりまだその『難聴』は治ってなかったんだ」 その評価にレオナルドは己の失態を悟る。マズった、と隠すことなく顔をしかめた兄に妹は苦笑を深めた。 彼女はレオナルドの自己嫌悪も後悔もそれに由来する精神的な疾患――と言ってしまって良いだろう――も知っている。ミシェーラ本人からすれば「気付かない方がおかしいでしょ」とのことだったが。 自分に向けられる好意的な言葉をレオナルドが知覚できなくなったばかりの頃、無音化される言葉のほとんどはミシェーラが発していたものなのだから、当然と言えば当然である。しかしレオナルドもまた己の異常を自覚すると、それを周囲に悟らせないように気を配り、演じることを覚えていった。大切な人達がレオナルドの状態を知って悲しむのが何よりも心苦しかったため、その上達は驚くべきスピードであった。 更にヘルサレムズ・ロットに渡ってからは言葉を交わす機会もぐんと減り、レオナルドは上手くやれていたと思っていたのだが……。最愛の妹はその上を行っていた。 ミシェーラの斜め後ろではトビーが何のことなのかさっぱり分からないと首を傾げている。またウォッチ兄妹の護衛として――と言うより、興味を惹かれて様子を見に来た――ライブラのメンバー及びその他諸々レオナルドの知り合い達は、トビーほど至近距離にいなかったのでミシェーラの『評価』を聞き取ることができなかった。 どういうことだい? と後ろから尋ねるトビーにミシェーラは微笑み、 「ナイショ」 と口元に人差し指を当てる。 「ねっ、お兄ちゃん!」 「ん、んー。まぁそうかな」 どう答えて良いのか分からず、レオナルドは言葉を濁した。 ともあれ。 今も好意的な言葉が聞こえない状態であると妹に悟られて気まずい思いをしつつも、兄と妹とその婚約者の顔合わせはつつがなく進む。 ……はず、だったのだが。 レオナルドの特殊な眼球はトビー・マクラクランと名乗った青年の正体を見抜いてしまった。そして妹が何のために無理をしてまでこの街にやって来たのか、その理由に気付く。 ミシェーラの婚約者を体内に取り込み、その姿を借りた異界の存在の名はDr.ガミモヅ。神々の義眼を含む『神々の義肢』の調査と研究を行い、そのためならば手段を選ばぬ卑劣漢は、自身の右目に埋め込んだ神々の義眼を使ってミシェーラ以外の誰にも違和感を覚えさせず、彼女の婚約者に成り代わっていたのだ。 もはやミシェーラが助けを求めることができたのはレオナルドだけ。しかしそれこそがDr.ガミモヅの狙いだった。 神々の義眼を持つ者の近くには同時に盲目の者が現れるという。それを知っていたガミモヅは、左右揃った義眼の持ち主であるレオナルドをおびき出すためにミシェーラを利用したのである。 正当な手順と契約で上位存在から与えられ血界の眷属の諱名さえ読めてしまう完璧な義眼を前にして、ガミモヅはレオナルドに研究の手伝いを要請するだけでなく、その身体を明け渡すよう強要した。 義眼を持たない他の面々はレオナルドの危機を救うどころか異常事態に気付くことさえできない。 しかしレオナルドは諦めなかった。一度は圧倒的強者に心が折れそうになったが、その中でわずかな勝機を見出し、見事に掴み取ったのである。 ガミモヅは倒され、レオナルドは瀕死の重傷を負いながらも自分の命と妹の無事を守りきった。 危機は去ったのだ。 ブラッドベリ総合病院に運び込まれたレオナルドはルシアナ・エステヴェス医師により一命を取り留め、同病院の個室で静かに眠っていた。 先程までライブラの面々が見舞いに来ていたのだが、今はスティーブンだけが残っている。他は事務所へと帰還する予定で、ミシェーラとトビーはその見送りだ。スティーブンはどうしてもレオナルドの顔が見たくなり、一度は皆と病室を出たものの、忘れ物があったのだと嘘を吐いてここに戻っていた。 双眸を含む至る所に包帯を巻いて、手足をギプスで固め、酸素マスクをつけた状態で昏々と眠り続けるレオナルド。ルシアナ医師の腕を信頼しているため問題ないと頭では解っていても、つま先からじわりと忍び寄ってくるような恐怖を完全に拭い去ることはできない。 スティーブンは誰かが出しっぱなしにしていたパイプ椅子に腰かけ、きつく指を組んだ手を額に押し当てた。 「レオナルド……」 自分はもう少しで彼を永遠に喪うところだった。仲間達と共にレオナルドの元へ駆けつけた時のことを思うと今でも身体が震える。 それはライブラの仲間としての感情だけではない。かつてスティーブンの中に芽生えた気持ちはレオナルドとの関わりを最小限に抑えるようになってからもずっと成長を続け、想いを募らせ、大きく大きく育っていた。 「君が好きだ」 長らく言えなかった言葉を口にする。相手が眠っているから拒絶もされないという我ながら情けない状態ではあるが、スティーブンは己のやわらかな部分をさらけ出した。 「レオナルド、君が好きだ。愛している。たとえ君の中から俺への気持ちが無くなっていたとしても、やっぱり、レオ、俺は君が好きなんだ」 俯くようにして額に手を押し当てていたスティーブンが顔を上げる。無事なところがないほどボロボロになったレオナルドが、それでも自発的に呼吸を繰り返していた。 スティーブンは目を細めてそれを眺める。 「愛しい人。君が生きていてくれて本当に良かった」 ミシェーラ・ウォッチはその告白を病室の外で聞いていた。ガミモヅの体内から助け出された本物のトビー・マクラクランも彼女と同じく息を潜めて成り行きを見守っている。 兄の勤務先が一般の企業ではなく秘密結社ライブラであることは、今回の一件がひとまず収束した後でレオナルドの仲間達から聞かされていた。 世界のために日夜戦うライブラのメンバーはおそらく他人の気配にも敏感であるはず。けれど今だけ、この病室の中にいる人物に限っては例外であるらしい。一般人であるミシェーラ達を気にすることもできないほどスティーブン・A・スターフェイズ氏はレオナルド・ウォッチのことで頭がいっぱいになっているようだ。 病室から漏れ聞こえる切実な愛の言葉にミシェーラは唇をきゅっと噛み締めた。 きっとスティーブンは知らない。その言葉達が、たとえレオナルドが起きていたとしても本人に届くことはないのだと。 想いが強ければ強いほど、相手を好いていればいるほど、レオナルドの中では無かったことにされてしまう。兄本人はそれが当然だと――むしろそうあるべきだと――思っているようだが、ミシェーラの考えは違っていた。兄は愛されるべきなのだ。もっともっと幸せを感じるべきなのだ。馬鹿な罪悪感ばかり抱えて耳を塞ぐのではなく、婚約者を得て一歩踏み出した自分と同じようにレオナルドも前に進んでほしかった。 「……トビー」 それまで沈黙を保っていたミシェーラが背後にいる婚約者の名を呼んだ。さすがに静かな空間で声を出せば、病室の中の人物にもこちらの存在が伝わっただろう。レオナルドに向けていた言葉達がぱたりと途切れる。 ミシェーラは背後を振り返り、トビーに車椅子を押してくれるよう頼んだ。「いいのかい?」と念のため確認する婚約者に頷き、二人揃って病室に入る。 入って早々、椅子に座っていたスティーブンが立ち上がる気配。しかしミシェーラはそれを制した。 「私も座っていますので、ミスタ・スターフェイズもどうぞそのまま」 「あ、ああ」 そして再び着席する音が聞こえる。 ライブラの構成員として自己紹介を受けた時の伊達男っぷりからは想像もつかないほど脆い雰囲気にミシェーラは眉尻を下げた。 レオナルドへの告白を相手の実の妹に聞かれていたと知った男からは気まずそうな空気が伝わってくる。ミシェーラにはここで聞かなかったフリをすることもできたが、それは一時の安堵をもたらすだけで誰のためにもならないと理解していた。 「貴方にお話しておくべきことがあります」 「僕に話しておくべきこと、かい?」 ミシェーラは兄に幸せになってほしい。妹への負い目で耳を塞ぎ、心を閉ざし、自ら幸せを遠ざけようとする彼を見る≠フはもう嫌なのだ。 そのために自分はこれからこの弱い男に真実を突きつける。きっとスティーブンは傷つくだろう。昔、初めてミシェーラがレオナルドの『難聴』を知った時と同じように。 しかしレオナルドにはそれが必要だ。「愛している」が聞こえない兄に、どんな手段を使ってでもその言葉を伝えようとしてくれる人が。スティーブンがその一人になってくれることを祈りつつ、ミシェーラは真実を告げた。 「兄を愛してくれてありがとうございます。でも、貴方の言葉はきっと兄に届いていません」 ミシェーラの宣告を聞き、まずスティーブンは彼女が兄を慕う同性愛者に牽制してきたのかと思った。が、続けられた言葉にすぐさま認識を改める。それどころか淡々と明かされる真実に目の前が真っ暗になった。 レオナルド・ウォッチには自分に向けられた好意的な言葉が聞こえない。 同じ「愛してる」でもそれがテレビやラジオから流れる言葉なら問題なく聞き取れる。しかし心からの好意が込められていた場合、レオナルドは無意識にそれを拒絶し、当人には『無音』として認識される。 病室のパイプ椅子に座ったままそれを聞いていたスティーブンはベッドの上で眠り続けるレオナルドに視線を向けた。 この少年がライブラという組織において他の誰よりスティーブンの言葉によく反応していたのは、単純にそれが一番聞こえやすかったから。皆が好意的な言葉をかける中、スティーブンだけは全く心のこもらない上辺だけの優しくて甘い言葉を吐き、レオナルドもそれを承知した上で笑みを浮かべ、このヒトデナシの上司を慕っていた。 最初からスティーブンの心の内などレオナルドにはバレていたのである。 「……そんな」 すっと体中から血の気が引くような、反対に全身の血が沸騰するような感覚に襲われる。 好きも愛しているも嘘だらけ。あの頃、スティーブンはレオナルドのことを偽りの言葉に溺れる馬鹿で哀れな子供だと思っていたのに、本当に馬鹿で哀れだったのはスティーブンの方だったのだ。 最初からレオナルドは自分がスティーブンに好かれているなどと思っていなかった。それはスティーブンが自分の中に芽生えた気持ちに気付いた後も同様で、今度はどんなに愛を囁いてもレオナルドには届かない。聞こえない。それどころかとうとう偽りを吐くことすら億劫になったと思われていた可能性もある。 彼に捧げることができたのは嘲りに満ちた偽物だけ。偽りの言葉ばかりを注がれた少年は一体何を思っただろう。 本物の恋人になれていたと幸福に浸り、次いで想いが重ならなくなったと嘆いたのは自分一人。レオナルドからすれば、二人の関係など終わるどころか始まってすらいなかった。 「ミスタ・スターフェイズ?」 顔を真っ青にして黙したまま俯くスティーブンにミシェーラが声をかける。 さすがにこの少女も真実を語った相手が、最初、彼女の大切な兄に嘘ばかり吐いていたなどとは思いもしないだろう。もし事実を知ったならその可憐な唇からは罵詈雑言が飛び出してもおかしくない。ふざけるな、と。兄になんてことをしてくれたのだ、と。スティーブンを詰るはずだ。 スティーブンが名を呼ばれても答えずにいると、ミシェーラは小さく溜息を吐き、数秒の間を置いてから口を開いた。 「ミスタ、私が貴方の告白をどこから聞いていたかご存知ですか」 「……ッ」 スティーブンははっとしてミシェーラへと視線を向ける。 少女は全く声を荒らげることなく先を続けた。 「『たとえ君の中から俺への気持ちが無くなっていたとしても』と仰いましたよね。兄と貴方は一時的とはいえ恋人関係にあったと推測できるのですが、いかがですか」 「それ、は」 「当たりですか。まぁそうだろうと思っていました。貴方がライブラという組織の中でどういう立場にあるのか、また兄が……正確には兄の『眼』がどういう扱いを受けているのか。加えて兄の私に対する後ろめたさや後悔、過剰な卑下のことを考えれば、おのずと真実は見えてきます。あ、私の目はこんな≠ネので実際に見えるわけじゃないんですけどね」 「ミシェーラ、今はその最後の台詞要らないから」 「あはっ、ごめんねトビー」 これまで沈黙を保っていたトビー・マクラクランが思わず口を挟む。後ろを振り返ったミシェーラは軽く笑って謝罪し、その表情のままスティーブンを再度見据えた。 スティーブンは血の気が引いた顔で、眼球全体が真っ黒に染まった少女の視線を真正面から受ける。 「でも、見えないからこそなのでしょうか。今の貴方が心から兄を大切に思ってくれていることは、先程の声を聞いてよく理解できました。だからこそ、私はこうして貴方に真実を語った。……貴方に兄を救ってほしい」 「俺がレオナルドを?」 「そうです。いい加減お兄ちゃんも幸せから逃げるのを止めてくれないと」 ふわりと微笑んだ少女は勘だけで兄がいる方向に顔を向ける。 「貴方にその気が無くとも、過去の貴方は嘘ばかり吐いて兄の自傷とも言える行為を幇助していた。だから今度は自分を傷つけてばかりのレオナルド・ウォッチを助けてください。お前は愛されるべきなんだと教えてやってください。もちろん私も一肌脱ぎますよ! って言うかお兄ちゃんがこうなったのは私が原因だし!」 やる気を見せるように拳を握ってミシェーラは言い、そしてスティーブンに尋ねた。「貴方は兄を助けてくれますか?」と。 スティーブンは唇を震わせる。 「俺にその資格があるのかい」 「資格? そんなもの誰にでもありますし、誰にもありませんよ」 「は? じゃあなんで僕を」 「資格云々の話じゃないんです。ぶっちゃけ兄を大切に思ってくれている人なら誰だって構いません。貴方がダメなら他の人にお願いします。私にとって大切なのは兄であり、その兄を立て直してくれるなら貴方であろうと、ミスタ・クラウスであろうと、他の方であろうと、違いはないんですよ。ただ今のところ貴方が一番ねちっこそう……ごほん、失礼。兄をとことん思い遣ってくれそうだったので、お願いしたまでです」 「そ……そうかい」 あまりにも歯に衣着せぬ物言いにスティーブンは圧倒されていた。だが同時に、他の者に任せてなるものかという強い思いが湧き上がってくる。他の誰でもない、自分こそが、レオナルドに「愛している」と伝えたい。理解させたい。 「貴方は兄を助けてくれますか?」 ミシェーラが先程と全く同じ問いを発する。 そしてスティーブンは今度こそ「イエス」と答えた。 「俺はレオナルド・ウォッチを愛しているからね」 両目を覆っていた包帯が取れ、レオナルドは久しぶりに青い眼球へと外の世界を映し出した。 まず、細かな傷を負っていたミシェーラからその痕跡が完全に消えているのを確かめてほっと一息つく。嫁入り前の少女の顔に傷など残ってはたまらない。 それから包帯を取る日に合わせてレオナルドの見舞いに来てくれた人々に謝罪と礼を告げた。彼らからもたらされる言葉はところどころ音が飛んで聞こえなかったものの、仕草や口の動きを見て何を言われているのか判断し、問題なく対応することができたと思う。 眼は治ったが、他の部分はまだまだだ。よってレオナルドはもうしばらくベッドの上の住人になることが決定している。 暇潰し用だと言ってザップがエロ本を出してきた時には腹の底から「なに持ち込んでんですかアンタ! ミシェーラもいるのに!」と怒鳴ってしまい、そのあと傷が痛んでうずくまる羽目になった。ミシェーラは見えずとも空気で察したのか「私は気にしないよ?」と言ってくれたが、レオナルドとしては「お兄ちゃんは気にするのです」と呻かざるを得ない。 そんな中、唯一全ての台詞がはっきりと聞こえた――とレオナルド自身は思っている――のがスティーブンである。以前はさておき、めっきり会話する機会が減ってしまったため、今回も事務的なやり取りをほんの少し交わした程度だったが。 未だ重傷患者であるレオナルドの体調を考慮して、ライブラとその関係者が病室に滞在していた時間はさほど長くなかった。任務が、用事が、と言って一人二人と去って行く。 そして最後に残ったのが―― 「あれ、スティーブンさん? どうしたんですか」 ミシェーラとトビー、そしてスティーブン・A・スターフェイズ。 壁に背を預けて佇んでいるスティーブンはレオナルドの問いかけに微笑を浮かべる。それからトビーを見て、視線で何かを伝えたようだった。 事前に打ち合わせでもしていたのか、それだけでトビーは病室を出て行く。これで残ったのはレオナルドの他にミシェーラとスティーブンだけ。奇妙な組み合わせに首を傾げていると、スティーブンは壁から背を離してベッドに近付いてきた。ちょうどレオナルドの傍にいたミシェーラとは反対側に立つ。 本当にどうしたのだろう、とレオナルドは内心で首を傾げる。 ライブラでも一二を争うほど忙しくしている人物がわざわざ怪我人に時間を割く意味が分からない。仕事関係かとも思ったが、部外者であるミシェーラの前で重要機密にあたるそれを話すはずがなかった。 「レオナルド・ウォッチ」 「はい!」 いきなりのフルネーム呼び。反射的に背筋を伸ばして拝聴姿勢を取る。 スティーブンはそんなレオナルドに苦笑し、同時にそっと手を伸ばした。何をされるのか分からなかったレオナルドは身を固くする。だが大きな男の手が両頬に添えられると、戸惑いの声を発した。 「スティーブンさん……?」 それは久しぶりの感触。スティーブンが偽りの言葉すら囁かなくなったばかりの頃、まだレオナルドが「この人は僕に飽きたんだな」と思うようになるまでのわずかな間に与えられていた触れ方だった。 「レオナルド、いいかい。よく聞いて……いや、よく見て≠ィいてくれ」 そう言ってスティーブンは頭を固定するかのように頬を包む力を少しだけ強める。 真正面に美丈夫の甘い顔。レオナルドを見つめる目は真剣で、やわらかい表情を作っているつもりなのだろうが、どことなく緊張感が滲み出ている。それを見つめ返すレオナルドもつられて緊張し始めていた。 もらい涙ならぬもらい緊張をしてしまったレオナルドがごくりと唾をのみ込む。それが合図になったのかどうか判らないが、スティーブンが口を開いた。 「 」 「え……?」 レオナルドは唖然とする。 声が聞こえなかった。 スティーブンは確かに何かを喋ったはずだ。決して長くはない、とても簡単な言葉を。しかしその音は全くレオナルドの耳に入って来なかった。否、耳には入って鼓膜を揺らしたのだが、頭の中で完全な無音に塗り潰され、無いものとして扱われたのだ。 そして事前に「見ておいてくれ」と言われていたレオナルドはスティーブンの口の動きをきちんと捉えていた。発した言葉も長いものではなかったので、彼が何を喋ったのか把握している。 だからこそ信じられなかった。 「スティーブンさん、今……」 「きちんと見ていたな? それに俺の声が聞こえなかっただろう?」 「うそだ」 「嘘じゃない。俺は君を――」 あいしてる。 また無音。けれどスティーブンの唇は先程と全く同じ動きをしていた。 I love you. それこそスティーブンの心からの言葉。スティーブン・A・スターフェイズの本心。 レオナルドは目を見開き、咄嵯にスティーブンの手を払いのけた。「違う!」と叫んで男の反対側にいるミシェーラを見る。しかし否定を求めたはずなのにミシェーラは瞑目したまま微笑んで「聞こえたよ」と言った。 「スターフェイズさんはお兄ちゃんのことを愛しちゃってるんだって」 レオナルドは首を横に振る。そんなはずがない。スティーブンはレオナルドを愛していない。だから「好き」も「愛してる」も聞こえていた。だから愚かなレオナルド・ウォッチは彼という存在に縋った。結局、偽りの言葉さえもらえなくなってしまったけれど、ともかくスティーブンの心がレオナルドに向けられることなど有り得ないのだ。 「レオ、どうして否定するんだ」 今度は肩に手を添えてスティーブンの方へ視線を戻される。レオナルドは「だって」と言いよどんだ。 スティーブンの言葉が本心からのものであって良いわけがない。レオナルドにはそれを向けられる資格がないのだ。 妹を犠牲にした最低のロクデナシ。弱虫。卑怯者。それがレオナルド・ウォッチである。自分は誰かに愛されるような人間ではなく、好きも愛してるも向けられて良い立場にいない。 「優しい言葉をもらって幸せだと感じる資格なんて、僕にはない」 だからスティーブンがレオナルドを愛していると本心から告げるなど、あってはならないことだった。 「二人して俺をからかってるんだよな? スティーブンさんとミシェーラ、いつの間にそんな仲良くなったんだ?」 口元を引きつらせて不格好な笑みを浮かべながらレオナルドは二人へ交互に視線を向ける。しかしどちらも一向に「冗談でした」とは言ってくれない。それでは駄目なのに。 「スティーブンさん、ミシェーラ」 何か言って。早く否定して。冗談だったと笑い飛ばして。こんな嘘に引っかかって馬鹿な兄(部下)だと呆れてくれ。 そう何度も何度も願うのに、二人とも黙したまま。――否、ミシェーラが口を開いた。 「お兄ちゃん、スターフェイズさんのことが好きなの?」 「えっ」 ぎょっと目を瞠ってレオナルドはミシェーラを見つめる。スティーブンも驚いたのか、肩を掴んでいた手は呆気なく解けた。 「ミ、シェーラ……? 何を、言って」 「だってお兄ちゃんあまりにも必死だから」 ことり、と。ほんの少し首を傾けた少女の動きに合わせて亜麻色の髪がさらりと揺れる。 「スターフェイズさんの話を聞いただけだと、ミスタの片思いかなぁって思ってたんだよね。でも、まがりなりにも二人は恋人関係だったんでしょ? つまりお兄ちゃんもスターフェイズさんを受け入れていた」 「そ、それは、その……スティーブンさんが僕のこと本気じゃなかったからで」 「うん。そうだね。でも、それじゃあ今の反応は何? どうしてそこまで頑ななの? スターフェイズさんへの気持ちが他の皆さんと同じレベルのものなら、さっきまでみたいに流せばいいじゃない。聞こえたフリをして、適当にあしらって、失礼にあたらない程度にやり過ごせば良かったんだよ。それができないってことは――」 ミシェーラは閉じていた瞼を開く。見えていないはずなのに真っ黒な双眸がわずかなズレもなくレオナルドに焦点を合わせていた。 「お兄ちゃんにとってスターフェイズさんは特別ってことでしょう?」 「……ッ!」 「認めないのは、自分が幸せになっちゃいけないって思ってるから? ああ、本当に……なんて馬鹿なの、レオナルド・ウォッチ」 「ミシェ、」 名を呼ぼうとして、レオナルドは言葉に詰まる。ミシェーラが泣いていた。真っ黒に染まった双眸に透明な雫を溜め込んで、それがレオナルドの見ている前で決壊する。ぽろぽろと止めどなく涙を流しながらミシェーラは膝の上で拳を握り締めた。 「幸せになってよ」 「み、」 「幸せになって! お兄ちゃんが幸せにならなきゃ私だって本当の幸せを掴めない」 言葉では吐き出し切れない感情を示すようにミシェーラはダンッと拳を己の膝に振り下ろす。 「目が見えなくても私はトビーを見つけた! これから結婚して幸せになるの! お兄ちゃんが私に対して後ろめたく思う必要なんてどこにもない! でもお兄ちゃんがいつまでもそんなウジウジしてたらダメなんだってば! 気になって気になって仕方ないの! お兄ちゃんが幸せにならなきゃ、お兄ちゃんが笑ってくれなきゃ、私だって……私だって……『幸せです』ってちゃんと笑えない!!」 可愛らしい顔をくしゃくしゃにしてミシェーラは叫んだ。 「私のことを想うなら、私のために幸せになって!!」 「――っ」 息が、止まるかと、思った。 レオナルドは震える唇を噛み締め、じっとミシェーラを見つめる。それからゆるゆると視線を下げ、ギプスと包帯で完全に固められた両腕に不必要な力が入っていることに気付いた。 「ぼく、は」 「ねぇお兄ちゃん」 ぽろぽろ、ほたほた、と涙を流し、それを自らの手で拭う少女。レオナルドの愛しいプリンセスは彼女の大好きな『亀の騎士(トータスナイト)』に願いを託す。 「もうそろそろ前に進んでよ、私の愛しい騎士様」 亀は構造上、後退ができない。つまりその場にとどまるか、前に進むしかない。それが兄にぴったりだと思って妹は彼を『亀の騎士』と呼んだ。立ち止まることは多いけれど、きっと前に進んでくれる人だからと。 でも、止まってばかりは駄目なのだ。前に進め、と姫は命じる。 「……」 レオナルドはまだまだ痛む身体を無視してミシェーラへと手を伸ばす。包帯だらけのそれで、涙に濡れた手をそっと包み込んだ。 「いいの、かな」 「いいに決まってるじゃない」 「ほんとうに?」 「本当よ」 だからほら、とミシェーラはレオナルドの身体を反対側に向けさせる。ぽんと背中を叩いて最後にもう一度だけ「幸せになってよ」と囁いた。 レオナルドはスティーブンと向き合う。 そして、 「なんで貴方まで涙ぐんでるんですか」 「しょうがないだろ。あてられたんだ」 ほんのりと目を赤くしてスティーブンが鼻を啜った。そのあまりにもらしくない℃d草にレオナルドは苦笑を零す。 背筋を正して、一呼吸。ミシェーラの説教のおかげでこちらの気持ちはすでにバレてしまっているけれど。 「スティーブンさん、貴方が好きです。どうか僕を幸せにしてくれませんか」 「よろこんで」 ――愛してるよ、レオナルド。 レオナルドの両手を握り締めてスティーブンが答えた。 最後の言葉はやはり無音に塗り潰されている。けれどスティーブンが何を言ったのか、レオナルドはきちんと理解していた。 自分に向けられた好意の言葉が聞こえない。現時点でこの症状はおそらくミシェーラを含む誰が何を言っても治らないだろう。治るのはきっと最愛の妹の視力を取り戻した後だ。 奪われたものを取り返してようやくレオナルドの心は完璧に晴れる。けれどそれまで一切の幸福を跳ね除ける気には、もう、なれなかった。自分の幸せを心から願ってくれる人がいると知ってしまったから。 「ありがとうございます」 スティーブンに手を握られたままレオナルドは破顔した。 レオナルド・ウォッチにはあいのことばがきこえない。 それでも、あいのことばは伝わるのだ。 あいのことばがきこえない
2015.06.15〜2015.06.20 pixivにて初出 ご注意:脳みそ云々の話は適当なので信じてはいけません。 ミシェーラちゃんがスティーブンさんに対して思い切り他人行儀な呼び方をしているのは、お兄ちゃんに幸せになってほしいけどやっぱり他人に取られるのはなんだかなぁと思っているからでした。おいこらてめーお兄ちゃん泣かせたらしょうちしねぇぞ!というやつ。 |