どうしてこうなった。
 なんて始まり方は古今東西数あれど、ホントにどうしてこうなったのかと今、僕は問いたい。誰にって、そりゃ……誰だろう?
「少年、次は右手出して。それと左手はどっかで擦らないように気を付けて」
「は、はい……」
 耳元で囁かれるのは女性なら即行で腰砕けになる男性的な色気に溢れた声。正直、同性の僕ですらちょっとあやしくなるくらいだ。
 言われるがまま差し出した右手は後ろから伸びている大きな左手にすっぽりと包み込まれた。
 節の目立つ大きな左手に繋がる腕はダークグレーの生地に包まれている。袖口から覗くのは紺色のシャツ。ここ――秘密結社ライブラの執務室でそのような服装に身を包んでいるのは一人しかいない。
 本当にどうしてこんなことに。
 僕が座っているのは一人掛けのソファ。けれどそこに一人で座っているわけじゃない。確かにこのソファは大柄なクラウスさんでも座れるくらいのサイズだけど、今はそこに立派な成人男性と小柄とはいえ男である僕が一緒に座っていた。しかも、僕が成人男性の脚の間に……って、あああああ! そうですとも成人男性かっこ笑いじゃなくて、僕はライブラの副官スティーブン・A・スターフェイズさんの脚の間にちょこんと座らされておりますともちょっと何これきっっっつい! 冗談きっつい!
 と、心の中では大暴れできても現実でそれができるわけないんですよね。何せライブラを取りまとめる腹黒番頭さんですよ? 日夜異界の怪物と戦う氷使いさんですよ? 神々の義眼なんてものを持っていても所詮一般人でしかない僕が逆らって良い相手じゃない。言われるがままです。イエスマンです。いのちだいじに。ガンガン行ってはいけません。
 差し出した右手は指先がこちらを向くように指を曲げられていた。女の子とは違って全くケアなんてされていない、爪切りで定期的に伸びた分だけ切っているような爪が眼前に晒される。
 その表面をついと撫でていくのは小さな刷毛。そこに染み込ませていた真っ赤で艶やかな液体が僕の爪の表面を埋めていく。
 目が痛くなるほど鮮やかなそれは紛うことなくマニキュアだ。赤いマニキュアが塗られているのは僕の爪で、塗っているのはスティーブンさんの手だった。
 左手はすでに済まされ、五枚の爪がつやつやと赤い色に輝いている。血界の眷属を彷彿とさせるような、けれども彼らの翼みたいなオーラよりずっとチープな、赤。スティーブンさんの手によって僕の指先はその色に染まっていく。
 背中に感じる他人の体温はどうにも僕を落ち着かなくさせて、耳元を擽る吐息と合わせて尻の辺りがむずむずしてくる。すごく、すごく、居心地が悪い。けれども聞こえてくるのはスティーブンさんの小さな鼻歌。ライブラの番頭は現在非常にゴキゲンだった。
 この人一体今日で何徹目だっけ……? と考えだしたけど、常時彼に引っ付いているわけじゃない僕が知る由もない。でもこんな異常行動、それこそ寝不足でもなけりゃするはずないだろう。
 極度の寝不足(暫定)状態にある番頭様は器用にマニキュアを塗っていく。はみ出しなんて一つもない。これ関連のことは全く分からないけど、女性の爪を綺麗にする仕事でもスティーブンさんなら食っていけそうだなぁとは思った。その器用さが僕の爪なんかに発揮されているのははなはだ疑問だけど! 疑問だけど!!
 心が温かい人は手が冷たいという通説の反対なのか、それとも僕が緊張した結果手が冷たくなっている所為か、右手を包み込むスティーブンさんの手はとても温かい。
 その手が丁寧に、慎重に、僕の爪に赤を乗せていく。まるでこんな何の変哲もない手が宝物になったような錯覚すら起こさせるほど、スティーブンさんの手の動きは優しい。
 スティーブンさんは最後の一本を塗り終えると刷毛をマニキュアの小瓶に戻して傍らのテーブルの上にことりと置いた。そして僕の両手を取り、手の甲をこちらに向ける格好で眼前に掲げる。
「よし」
 小さくそう呟く声を聞きながら僕もまた自分の指先を見た。
 てらてらと艶めく赤い爪。左右共にスティーブンさんの両手に支えられた計十枚の赤。これが綺麗な女の人の手なら赤色も節くれだった男の人の手も似合って仕方なかっただろう。現実は残念ながら僕の手だが。
 でも何故かどきどきする。違和感しかないはずなのに。
「少年?」
「っ……」
 耳元で囁かれる呼称に小さく肩を揺らせば、その場所でくつりと笑われた。ああ、これは。悪い大人の笑い方だ。
 アルコールを摂取した時のようにクラクラと脳みそが揺れる。手を握られている感触と耳に注がれる低い声だけが鮮明だった。
 そんな僕の耳を悪い大人の唇がそっと掠めていく。
「レオ」
 いつもは少年だなんて、まるで「村人A」みたいな扱いをするくせに。どうして貴方はこんな時だけ僕の名を呼ぶんだ。
「レオナルド」
「っ、ぁ」
 毒のような声を注ぎ込まれる。
 熱と濡れた感触がして、耳殻を唇で食まれたのが分かった。
「すてぃ、ぶ、さ……」
「とても綺麗だ」
 それは貴方が塗った爪のことでしょう?
 とは、訊き返せなかった。






レッドネイル







2015.05.19 pixivにて初出