秘密結社ライブラ。
 かつてニューヨークと呼ばれていた都市が一夜にして消滅し、その場所に構築された異界の者達が蔓延る霧の街『ヘルサレムズ・ロット』にて日々世界の均衡を保つために暗躍する者達の集団である。
 彼らの働きは多岐にわたるが、その中でも重要視されているのが異界の者達の中でも特に強大な力を持つ『血界の眷属(ブラッドブリード)』を滅するまたは密封(封印)することだった。
 吸血鬼とも呼ばれる血界の眷属に関しては、その諱名を知ることで存在の本質を捉えることができ、封印が可能になる。よって当然のことながら血界の眷属達は他者に己の諱名を知られないよう細心の注意を払い、逆に人間側は諱名を知るために様々な手を尽くしてきた。血界の眷属は諱名で縛られない限りほぼ無敵と言って良い存在だったからだ。
 しかし彼らを狩ることをずっと昔から生業としてきた者達の組織――ライブラおよびその前身となる集団を含む――では三年前にヘルサレムズ・ロットが出現するずっと前より血界の眷属に対する強力な手札が用意されていた。その手札のおかげでライブラのメンバーは素早く正確に諱名を知ることができ、恐ろしい化け物達を無力化することに成功し続けている。
 異界との接点である霧の街に移ってもそれは変わらず。
 そんな組織の『切り札』ではないが重要な『手札』の名を、レオナルド・ウォッチと言った。


 この世には『神々の義眼』と呼ばれる特殊で特別で希少で奇妙な物が存在している。青い燐光を放つその眼球は非常に美しいものの、全てを見通す能力を宿した非常に恐ろしい神の手による芸術品=Bその瞳を異界の存在から与えられたのが――当人からすればそんな生易しい表現では到底足りないのだが――、レオナルド・ウォッチという人間だ。彼の瞳は血界の眷属の諱名を見通し、見通された諱名は異界の強者を密封する役目を負った戦闘要員達に伝えられる。
 非常に重要な役割を担っているが、その重要性に反して彼自身の強さというものはほとんどない。圧倒的な頭脳も膂力も魔術的な素養も擁していない彼は完全なる非戦闘要員であり、義眼のことを除けばどこまでも一般人だった。少なくとも彼を取り巻く人間のほとんどはそう認識している。
 しかしそんな彼も吸血鬼狩りの集団に属してかなり長い年月を過ごしていた。レオナルドの能力を日々活用して血界の眷属に立ち向かう戦闘要員の一人であるスティーブン・A・スターフェイズにとって、彼は自分がライブラに属する前から存在する先輩にあたる。ただし、小柄で童顔の部類に入るレオナルドが自分より年上であるようには終ぞ見えたことがないのだが。
 その人は今日もライブラの執務室で机に向かってペンを走らせていた。神々の義眼を持つレオナルドは、有事には現場に赴いてその目の能力を発揮するものの、必要がない時にはこうして職場である執務室にて書類整理に追われている。何故なら彼はライブラの副官でもあるからだ。
 ライブラのリーダーは強さと優しさと圧倒的なカリスマ性を揃えた紳士、クラウス・V・ラインヘルツ。そのクラウスを支えるためにレオナルドは情報の収集・分析と采配、暗躍から単純な事務処理まで、数多の業務を一手に担っている。スティーブンがライブラに所属するようになってからはその業務の一部が回され始めたため、共に過ごす時間は他の戦闘要員達に比べて圧倒的に多かった。
 時間を共有する中でスティーブンは多くのことをレオナルドから学んだ。副官を務めていてなお周囲から『一般人』と認識されるための術や、トップに立つクラウスを支えるために必要な裏方≠フ仕事もそれに含まれる。とある情報収集の方法を指して「スティーブンはかっこいいからそういう仕事≠煬yくこなせちゃうね」と、まだ若いスティーブンに笑って告げたのも彼だ。
 優しく実直なクラウスが知れば眉をひそめるようなこともごく当たり前のように教えられた。レオナルドが秘密裏に所有していた私設部隊から株分けされた手駒≠貰い受けたのもかなり前のことで、今やその部隊をスティーブンは己の忠実な手足として使いこなしている。
 まるで手の内を全て明かすようにしてレオナルドはスティーブンを育てた。彼について一番よく知っている他人はスティーブンだと言っても過言ではない。
 正しく、真面目に、誰よりも誠実に生きるリーダーの下で汚れ仕事すら請け負う立場は、当然のようにスティーブンの中でレオナルドに親近感を抱かせる。スティーブン・A・スターフェイズにとってレオナルド・ウォッチは先輩であり上司であり師であり、そしてライブラという区切りの中よりも更に狭い意味での同志だった。
 そして現在、ライブラは一人のリーダーと二人の副官によって運営されている。勿論、リーダーはクラウス、副官がレオナルドとスティーブンだ。
 スティーブンが戦闘も裏方も同時にこなせる実力者だという認識はライブラ全体に共通するものであったが、反してレオナルドは未だ一般人の域を出ない――神々の義眼保有者であることだけが特別な――男だと考えられている。スティーブンはそれが心底恐ろしいと思う。そもそも一般人が十年以上この組織に属して生き延び、尚且つ副官などという地位についていられるはずがない。レオナルド・ウォッチは一般人どころかその皮を巧みに被って他者を欺ける非凡な人間だ。確かに純粋な戦闘力という点では全くもって役に立たないだろうが、それを差し引いて余りある貢献をレオナルドはライブラにしている。スティーブンはそんな彼を恐れつつも心から尊敬していた。

「やはり貴方は凄いですね」

 いつの間にか集まっていた情報≠ノよって今回の事件も無事解決し、その事後処理に追われる中で、スティーブンはふと斜め向かいの机にいるレオナルドへと声をかけた。
 パソコンを叩いていたレオナルドが画面から顔を上げ、スティーブンに顔を向ける。一目でそれと判る義眼を他者に悟らせないため長年続けられている糸目がほんの少し開き、青い光を零れさせた。
「俺が? すごい?」
「ええ」
 リーダーのクラウスを含め、スティーブンとレオナルド以外の人間は全て出払っている。だからこそできる会話だ。
「貴方がいなければライブラは立ち行かなかったでしょう」
「そんなそんな、大袈裟な……」
 ははは、とレオナルドは乾いた笑いを漏らす。
「それに俺自身もレオナルドさんがいなければ今のような『僕』になれなかった。感謝しています」
「感謝かぁ。むしろ君の人生を俺の都合でこっち側に引きずり込んで申し訳ないって思ってるくらいなんだけど」
「そうなんですか?」
「そうなんですよ」
 レオナルドはヘラリと笑った。
「このポジションに俺がいれば、今度こそ∞貴方に$^っ当で明るい道を歩いてもらうことだってできたのに」
「え?」
「ううん。何でもないよ」
 レオナルドの言葉が聞き取れずスティーブンはぱちりと目を瞬かせる。だが、レオナルドには言い直す気など無いらしい。
 普段はほぼ閉じられている両目がうっすらと開き、青い光を零しながらスティーブンを眺めていた。
「……その目、貴方がこっちの世界に足を踏み入れる前からお持ちなんでしたっけ」
「そうだね。むしろ、こんなものを持ってしまったからこっちの世界に足を突っ込んだと言うか」
 他人がいないことと事後処理がもうすぐ終わることが幸いして、スティーブンはそう言葉を続けた。話題転換も兼ねるそれにレオナルドはすぐさま乗って来て、口元に淡い笑みを刻む。その微笑に少し苦味が混じるのは、神々の義眼が決して望んで与えられたものではないからだろう。
「ではライブラに席を置くことを選ばれたのは? 同じ血界の眷属を狩る組織なら、ライブラ以外にもあったでしょうに」
「あー、それね。そりゃライブラにしかないものがあったからだよ」
「ライブラにしかないもの?」
「そ。正確には、ライブラにしかいない人、だけど」
「……クラウスですか?」
「まぁクラウスも大切な人ではあるね」
 普段から優しい表情をしている顔が更に優しい笑みを刻む。
 クラウス・V・ラインヘルツはスティーブンにとって大切なリーダーであり、また心から信じられる友人でもある。それは他のライブラメンバーにとっても変わらない。
 だがレオナルドがライブラにいる理由イコール、クラウスではないらしい。そうかと言って、レオナルドがライブラに所属する前から彼の近くにいた人間など限られている。ザップもK・Kもチェインもハマーもツェッドもレオナルドより後にライブラ入りした者達だ。
「まさかギルベルトさん……?」
 スティーブンは恐る恐る、クラウスに仕える執事の名を出した。しかしそれはレオナルドの失笑をもらう。「まさか」と笑いながら童顔の師はぱたばたと手を振った。
「でも他に思い当たる人なんていませんよ? もしかして俺の知らない人ですか?」
「いいや。君が良く知っている人だよ」
 レオナルドは机に両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せて机上を眺めやる。
「俺はね」
 完全に目が閉じられ、隙間から漏れていた青い燐光が消えた。
「その人に会うためにここへ来て、その人を見つけて、今度こそ汚いことなんてしなくても済むはずだったその人の人生を俺の勝手な都合で決定付けてしまった」
 スティーブンの問いかけに答えるためではなくただの独白のように、レオナルドの言葉は続く。
 それを聞いているスティーブンは胸の奥の方に違和感を覚えて僅かに眉根を寄せた。レオナルドが誰か他の人を想い、他の人の話を愛おしそうにしているのは、少し、いやかなり、気分が悪い。
「俺が知ってるその人になってほしくて。頭が良くて腹黒くて少し寂しがりやで仲間思いなその人にもう一度会いたくて。俺は遠い昔その人から教わったことを必死でやりくりして、今ここに立っている。――俺には敵と戦える強さがない、戦えないことを補える知恵がない、勇気すら十分に持ち得ない。けれど記憶があり、経験があり、『彼』から学んだ考え方と動き方を知っている。そして俺が持ってるその全てをその人に与えれば、俺の知っている『彼』が……って。ははっ、なんて自分勝手なんだろう」
 自嘲し、レオナルドは再び目を開いた。青い燐光がスティーブンを捉える。
 スティーブンは知らずごくりと喉を鳴らし、かすれた声で問いかけた。
「後悔、していますか……?」
「いいや」
 即答だった。
 青い燐光はスティーブンを捉え続けている。
「大切な妹すらいないこの世界で唯一俺が縋れたのは――」
 その瞬間、スティーブンの目にはレオナルドが今よりずっと幼い、少年と称すべき姿に見えた。

「貴方の存在だけでしたからね、スティーブンさん」

 はく、とスティーブンは息を詰まらせる。
 レオナルドの言っていることは半分も理解できていない。けれど訳の分からない高揚がスティーブンの胸を満たしていた。






きれいなはとてもきたない







2015.05.18 pixivにて初出