これは最初の悲劇の物語。





【1】


「なんだ、今日はやけに騒がしいな」
「日本からミセス敷島がいらっしゃってますから」
「ああ、ナノ研の方の。確か東洋の魔術師、だったか?」
 白い壁に挟まれたリノリウムの廊下を歩きながら、白衣をまとった小柄な黒髪の男が己の斜め後ろを歩く助手を一瞥する。
 漆黒の滑らかな髪は話題の人物と同じく東洋の血を感じさせたが、肌は白く、助手に向けた瞳も黒ではなく灰と青が混ざり合った色をしている。一見して国籍不明の容貌だが、彼――リヴァイ・アッカーマンは英国に籍を置くれっきとしたイギリス人だった。
 一瞥をもらった淡い金髪の助手は、自身が属する環境適応型植物作成プロジェクトチームのリーダーである上司に肩を竦めることで応える。
「科学の最先端にいる我々が『魔術師』なんていう言葉を使うのもアレですけどね。今回は長期の滞在予定なので、ご息女も共にいらっしゃっているそうです」
 ナノ研――正式名称は、生体用ナノマシン研究室。
 ここスイスに本部を置き、リヴァイを含め多くの研究者を抱える国際理化学研究センター内でも特に大きな研究室の一つで、その名の通り生体(主に人間)に用いるナノマシンの研究を幅広く手掛けているチームだ。
 そして日本からやってきたミセス敷島こと敷島初瀬(しきしま はつせ)という女性は、ナノマシン研究の世界的権威とされている。第三次世界大戦後、半鎖国状態に入った日本に引きこもり研究をしているが、必要に応じてこうして国外の研究施設に顔を出すのだ。
「ご息女のお名前は三笠(みかさ)と言うそうです。母親が研究に没頭している間、隣の孤児院で預かってもらうみたいですよ」
「親がいるのに孤児院、か」
 薄い苦笑を浮かべてリヴァイが言った。
 このセンターには孤児院が併設されており、第三次世界大戦で親や家を失った者を中心に多くの子供達が収容されている。ただし孤児院と銘打たれているものの、その実情は研究用モルモットに近い。施設の運営費は全てセンター内の資金で賄われ、暗黙の了解としてその見返りに子供の身体はセンターでの実験に使用されるのだ。
 いくら事前に多くの安全確認が行われているとは言え、人類史上三度目のワールド・ウォーが起こる前ならば、世界中から批難轟々の手段だっただろう。しかし今は違う。大量の化学兵器を使用し、大地を焼き尽くした結果、人類とこの惑星はあまりにも疲弊してしまった。それの回復につなげるためならば多少のことに目を瞑ると世界は決定を下したのである。
 生憎と言うべきか、幸いにもと言うべきか、植物に関する研究をしているリヴァイには孤児院の子供達と実験目的で触れ合う機会などない。しかも広大なセンターの敷地内に設けられた自分達の研究施設と孤児院は正反対の方向にある。普通に暮らしているだけでは、子供達の声すら聞こえなかった。
「日出国の魔術師は自分の娘すら実験動物にする気か?」
「さあ、どうでしょう。必要と判断すれば子供さえ使ってこそ本物の研究者なのかもしれませんけどね」
 自分はカンベンですが、と助手の男が苦笑する。
 彼には今年二歳になる娘と息子がいた。名前はペトラとオルオ。二卵性の双子で、今は嫁と一緒にオーストリアの実家にいるそうだ。きっと可愛い盛りだろうに、研究のため毎夜ウェブカメラを使った電話だけで我慢している。
「そうか」
 リヴァイは頷き、廊下の突き当たりにある扉の前に立ち止った。カードリーダーに自身のIDカードを翳せば、小さなLEDランプが赤から緑に変わってロックが解除される。
 プシュ、という小さな空気が抜ける音と共にスライドした扉の先にはマスクや専用の防護スーツに着替えるための部屋。そこはガラス張りであるため、向こう側が透けて見えた。
 部屋の向こうに広がるのは、巨大なガラス張りのドーム内に植わった数多の植物。全てリヴァイのチームが作り出したものだ。似たようなドームはセンターの敷地内にいくつも作られており、この第四号ドームは土中の希少金属を吸収し自身に蓄積する竹や、土中・空気中の汚染物質を吸着・除去する植物などがメインとなっていた。
 今日は危険エリアにまで足を延ばすつもりがないため、専用のマスクだけつけて二人はドーム内に入る。
 持ち込んだ手のひら大のタブレット型端末からデータを呼び出し、植物の生育状況をチェックおよびサンプリング。たとえ極東の国から客人がやって来ていても、リヴァイにはいつもと変わらぬ日々が続く……はず、だった。

* * *

 国際理化学研究センター環境適応型植物作成プロジェクトチーム所有、第三号ドーム。ここには成長速度が速く、また巨大になる樹木が植えられている。人間の活動により増えすぎた二酸化炭素の減少を目的として遺伝子操作により作り出された植物だ。
 一般的な植物は二酸化炭素を吸収し、それを元にして成長する。つまり成長速度が速いということは、それだけ二酸化炭素の吸収が早いと言うことであり、また巨大になるということは、それだけ多くの二酸化炭素を吸収してくれるということ。単純なようだが、目的とするものを作り出すのは容易ではない。しかし第三号ドームで生育中の植物はほぼ完成と言って良いものだった。
 有毒物の除去を目的としている第四号ドームとは異なり、この第三号ドームに厳しい入場制限はない。また研究結果についてもすでに全世界に向けて発信済みであるため、産業スパイの侵入等に気を使う必要もなく、センターの人間であればゲートでIDカードを翳すだけで誰でも入ることが可能である。それはセンターに併設されている孤児院の職員や子供達ですら例外ではない。ドームと孤児院の距離は遠く、彼らが訪れる機会はゼロにも等しかったが。
 そんな第三号ドームの中にリヴァイはいた。
 ドームの中はいくつかのエリアに分かれていて、蒸し暑い部屋や寒い部屋等色々あるのだが、リヴァイがいるのは人間が過ごしやすいと感じる気温と湿度が保たれた部屋である。立地条件に加え、主目的が研究であるため、自由に出入りできるとは言ってもドームを訪れる人間は少ない。ゆえにそこはちょうどいいリヴァイの休憩スペースとなっていた。
 リヴァイは随分前に持ち込んだ木製ベンチに寝転がり、先日データを取った第四号ドームの木々の生育状況をタブレット型の端末でチェックする。一見して半透明の薄いプラスチック板のような端末にはびっしりと測定結果が並んでおり、今のところ予定通りに生育が進んでいることを示していた。
 一通りデータに目を通し終えたリヴァイは、端末を白衣のポケットに収めて天井を仰ぎ見る。ガラスと木々により和らいだ陽光が優しく降り注ぎ、絶好の昼寝日和といったところだ。
 ナノ研は東洋の魔術師の来訪により今もまだ慌ただしい状態が続いているようだが、そことは全く関係ないリヴァイのチームは静かなものだった。もう少しすれば定期発表の準備で忙しくなるが、研究データは確実に蓄積しているので焦ることではない。
 ぼうっとしていると、知らぬ間に眠ってしまっていたらしく、リヴァイはガサガサという葉擦れの音で目を覚ました。ドーム内の明るさは眠る前とさほど変わっていなかったので、寝たと言っても十分やそこらだっただろう。
 リヴァイはベンチから起き上がり音がした方へ視線を向ける。意図的に生やしている下草の合間からひょっこりと覗いているのは十歳くらいの少年の顔だった。
「……」
「……」
 互いに無言で見つめ合う。
 はっきり言ってリヴァイは子供が苦手だ。うるさいし汚いし、それにリヴァイの仏頂面を見てすぐに泣く。ゆえに嫌いとは言わないが、とても苦手なのだ。なるべくなら近寄りたくない。どう扱えばいいか分からず、持て余してしまう。それなら何も言わずこちらの期待に応えてくれる植物を相手にしている方がずっと気楽である。だがこの時ばかりは、リヴァイの感情は通常と異なる動きを示してみせた。
(きれいだ)
 リヴァイを見上げる少し吊り上った大きな目。その中央に収まるのは満月のような金色の瞳。
 何かを見て久々に美しいという感想を持った。
 金の目をした子供がふらふらと下草の間から這い出てくる。首から下げたIDカードが示すのは、彼が孤児院の子供だということ。このセンターは広大な敷地を有するが、孤児院からこの第三号ドームまでならば子供の足で――なんとか、ギリギリ――来られないこともない。
 子供はリヴァイのすぐ傍にまでやって来た。
「ねぇ」
 こてん、と小首を傾げ、その口から零れ出るのは声変わり前のアルト。
 綺麗な子供は声まで綺麗だった。
 その美しい声で子供は問う。

「おっさんだれ?」

「おっさんじゃねぇ。お兄さんだ」
「イッテェ!!」
 研究業界としては珍しく三十歳で一つの大きなプロジェクトチームを任されている天才リヴァイ・アッカーマンは、幼子の頭に容赦なく拳骨を落とした。


「エレン・イェーガー、十歳です」
 頭のてっぺんを両手で押さえながら涙目で金眼の子供はそう名乗った。
「おっさ……おにいさんの名前は何ですか」
「リヴァイだ」
「リヴァイ、さん、は、ここの先生ですか?」
 先生という括りに自分が入って良いものかどうか一瞬迷ったが、リヴァイは「ああ」と首肯する。このくらいの齢の子供には研究者も教師も孤児院(施設)の職員も皆、同じようなものだろう。
 子供からの質問が終わると、今度はリヴァイが疑問を口にする。
「お前はどうしてこんな所に来たんだ? 施設からここまでガキにとっちゃ遠いだろう」
「オレ、ガキじゃねぇし」
「ガキは皆そう言う」
 リヴァイの返しに子供はむっと頬を膨らませる。だが先程の躾がきいたのか、問われたことにはきちんと答えるつもりらしかった。
「アルミンが……」
「アルミン?」
「オレの友達」
「そうか。そいつがどうした」
「こっちにすっげぇ森があるんだって言ってたから。あいつ、すごく物知りで、いつも色々教えてくれる。オレ、ここのことを聞いたら気になっちまって」
「それで、子供の足でドームまで歩いて来たわけか」
 こくりと小さな頭が動く。
「すごいな」
 リヴァイは純粋に感嘆した。孤児院から第三号ドームが設けられたこのエリアまで本当に距離があるのだ(他のドームはもっと遠いが)。そのため大人でもあまり好んで移動したがらない。必要な時は乗り物を利用するはずだ。それをまだたった十歳の子供がめげずに歩き切った。この子供は根性がある。
 そんなリヴァイの心情を声音から感じ取ったのか、先程まで自分を殴った大人を警戒していた子供の表情が途端に誇らしげなものとなる。そしてリヴァイもまた己を怖がることなくキラキラと輝く大きな瞳を向けてきたエレンにちょっとばかり心を動かされた。
「……ここまで歩いて来たんなら喉も乾いてるだろう? 紅茶を淹れてやる」
「えっ! いいの?」
「ああ。こっちだ。ついて来い」
 リヴァイが歩き出すとすぐさまエレンも後を追う。それがまるで親鳥を追いかける雛鳥のようだとは双方共に気付くことなく、二人はドームを出てリヴァイが管轄する研究室へと向かった。


「いいにおい。色もきれー」
 白磁のティーカップに注がれた紅茶を真ん丸な目で見つめてエレンは呟く。己が手ずから淹れた紅茶に対する評価を聞き、リヴァイの口元が無意識に緩んだ。
 テーブルに砂糖壺も置いてやり、「好きなだけ使え」と告げる。このくらいの年頃の子供ならストレートよりもたっぷり砂糖を入れたりミルクを追加したりする方が好きだろうと思ってのことだ。案の定、エレンは早速砂糖壺に手を伸ばし、スプーン三杯分をカップに投入した。
 一方、リヴァイはストレートで。砂糖もミルクもレモンも入れない。立ち昇る香気にほっと一息つきながらティーカップに口をつけた。
 テーブルを挟んで正面の席にエレンが座っている。カップを両手で持ち水面にふうふうと大袈裟に息を吹きかけながら口をつけた子供は、リヴァイの掩れた紅茶が口に合ったらしく、きらきらと大きな目を輝かせた。
「うまいか?」
「うん!」
「そりゃ良かった」
 苦手なはずの子供なのに、エレンを前にしたリヴァイの心は穏やかだ。その一番の要因は、やはり彼がリヴァイを怖がらないからだろう。あとはリヴァイ自身、エレンの好ましい部分を見つけてしまったから、というのもある。吊り上り気味の大きな瞳や物怖じしない性格、それに意志の強さは、リヴァイに言わせれば実に「悪くない」ものだった。

* * *

「リヴァイさん! こんにちは!」
「おう。また来たのかクソガキ」
 クソガキと言いつつも、リヴァイは研究室に現れたエレンを出迎える。先日、木々が生い茂る第三号ドームで出会った少年は、次の日から頻繁にリヴァイの元を訪れるようになった。
 現れる時刻はまちまちでも必ずリヴァイが研究室に滞在している時間帯に訪問するエレンを不思議に思うことはあったが、ただの偶然かもしれない。もしくは、
(運命、ってか?)
 科学者らしくない想像にリヴァイは微苦笑し、エレンのために紅茶の用意をし始める。
 当のエレン本人は研究室の一角に設けられたソファセットに腰かけ、小型キッチンの様相を呈する給湯スペースに立つリヴァイを眺めた。一般的な飲料ならば部屋を出てすぐの休憩エリアにていくらでも無料で提供されていたが、英国出身として紅茶にこだわりのあるリヴァイはわざわざ己の研究室にガスコンロと薬缶を持ち込んで手ずから紅茶を淹れることにしている。センターが用意した紅茶風味の粉末を湯で溶いたような品物よりこちらの方が美味いことは、幼いエレンの舌にも出会ったその日に認められた。
 リヴァイの研究室は『研究室』と名がついているけれども、要は執務室である。実際に実験を行うのは専用の実験室や件の巨大なドームの中。ここは休憩したり、書類を捌いたり、ちょっとした話し合いをする際に用いられた。
 沸いた湯をポットに注ぎ茶葉を蒸らしている間、リヴァイは茶菓子を用意する。エレンが甘いもの好きなのは最初の予想通りで、いつしか研究室の戸棚にはエレン専用の菓子が常備されるようになっていた。
 女性研究員にも人気のメーカーのクッキーを皿に並べてエレンの前に差し出すと、大きな金眼がキラキラと輝く。一緒に出してやったウェットティッシュで丁寧に手を拭った後、エレンは早速クッキーに手を伸ばした。
『失礼します、エルドです。入ってもよろしいでしょうか』
「ああ、入れ」
 扉の外側に設置しているマイクに拾われた音が室内のスピーカーから零れる。リヴァイが声で許可を出すと、研究室の扉がピピッと小さな電子音を発して横にスライドした。
 もう一度「失礼します」と言って入室した人物にエレンが声を上げる。
「あ、エルドさんこんにちはー」
「よう、エレン。今日も来たのか」
「うん! リヴァイさんのお茶、おいしいから!」
「そうかそうか。ゆっくりしていけよ」
 オーストリアに妻子を残してここで働いている金髪の助手、エルド・ジンがエレンの頭をくしゃりと撫でた。リヴァイがエレンと出会った次の日に偶然顔を合わせた彼らもそれなりに良好な関係を築いているようだ。
 気の済むまでエレンの頭を撫でたエルドは「お届け物ですよ」と言いながら、もう片方の手に持っていた手紙をリヴァイの机の上に置く。
「珍しいな。今どき紙で来るなんて」
 しっかりと封がされたA5サイズの封筒は中身を見ることが叶わない状態だ。それを一瞥してリヴァイはぽつりと呟いた。
 昨今は何もかもが電子データ化され、各人の端末に表示されるのが一般的である。人間同士の会話も画面越しであることが多い。しかしエルドが持ってきたのは旧時代の象徴とも言うべき紙製品。
「ええ。ナノ研からこちらへお持ちするようにって言われまして。まぁ急ぎではないとのことでしたが」
「……?」
 なぜ生体用ナノマシン研究室が植物専門のリヴァイに封書を持ってくるのか。疑問に思う。中身を確認しようとしたが、紅茶を蒸らしていることを思い出して、リヴァイはそちらを優先した。エルド曰く、急ぎではないらしいので。エレンとの時間を優先するくらいの余裕はあるだろう。
 エルドの方を向いて「お前も飲んでいくか?」と誘ったが、彼は申し訳なさそうに眉尻を下げ「これから定期サンプリングなので」と辞退した。
「そうか。また機会があれば寄って行け」
「はい。ありがとうございます。失礼します。……エレンも、またな」
「うん!」
 リヴァイだけでなくエレンにも別れを告げてからエルドは研究室を出た。
 残されたリヴァイは手紙を机の上に置いたまま紅茶のポットに向かう。時間ぴったりにカップへ注がれた紅茶は綺麗な色と芳醇な香りでリヴァイを楽しませた。
 小さな砂糖壺と共にそれをエレンの前のテーブルに運び、リヴァイも対面の席に腰かける。すでにエレンはクッキーで口をいっぱいにしていたが、目の前に置かれた紅茶にもしっかり砂糖を投入して、甘いクッキーを甘い紅茶で胃へと流し込んだ。


「エレン? 何見てるんだ」
 仕事の電話が入って少し席を外している間に、エレンはカップに入った紅茶を飲み干して自身の携帯端末を開いていた。小さな画面に映し出されているのは何だろうかとリヴァイが上から覗き込むと、そこには青い景色が広がっている。
「海、か」
 内陸にあるこの国では見られないものの一つ。
 しかも映像の隅に記載されたテロップを読み取ると、第三次世界大戦前の赤道付近に存在したとある島の風景であるらしい。現在、その地域は大戦で使用された化学兵器により汚染され、映像にあるような美しい自然は残っていない。
 失われた景色を眺めるエレンがどんな顔をしているのか、ふと気になってリヴァイは傍らの子供に視線を移した。
「……海が好きなのか?」
「なんでもすきだよ」
 青い海に目を奪われながらエレンはぽつりと答える。
「南の青い海も、北の鋼色の海も、火山から吹き出す溶岩も。ツンドラや南極大陸、北極の氷の大地、砂(すな)砂漠に礫(れき)砂漠に岩石砂漠。赤道付近の熱帯雨林、ドイツにあったって言う黒い森、雨の少ない草原地帯。もちろん空も。全部。全部すきだ」
「自然が好きなんだな」
「うん」
「だから初めて会った日もドームにいたのか」
 リヴァイが管理するドームはある意味、センター内では自然の象徴とも言うべき植物が最も近い¥齒鰍ナある。リヴァイを見てエレンは大きく頷いた。
「それもアルミンに教えてもらったのか?」
 画面を指差し、重ねて尋ねるリヴァイ。この類の映像は誰でも閲覧可能だが、数が多すぎて好みに合うものを見つけ出すのが逆に難しくなっている。しかしエレンが見ているものは彼の好みに合致したものであるらしかった。
 エレンは「うん!」と元気よく答える。
「アルミンがあっと言う間に見つけてくるんだ! すげぇだろ!」
「ああ、すごいな」
「へへっ」
 友人を褒められ、エレンの顔が喜色に染まる。
 何度も顔を合わせているうちに分かったことだが、エレンはこの年頃の子供の割に様々なことを知っていた。しかし知識には偏りがあり、どこから得たものかと問えば、今回のようにいつでも「アルミンが教えてくれた!」と答える。どうやらエレンがいる孤児院にはなかなかの秀才がいるらしい。おそらくそのアルミンという子供がエレンの好きそうなジャンルに偏った知識を提供しているのだろう。
 孤児院で育った子供の中にはそのままセンターで研究者として働く者もいる。アルミンもそんな一人となるかもしれない。無論、エレンにもリヴァイと同業になる可能性は無きにしも非ず。ただ彼の場合、研究室に籠るよりは冒険家のように様々な場所へ旅をしたいと望むかもしれなかったが。
 将来エレンが旅をして少しでもがっかりしなくて済むように、自分も頑張らなくては。破壊された自然環境を元に戻す研究の一翼を担っているリヴァイはそう思った。

* * *

 エレンが孤児院に帰った後、リヴァイはようよう自分宛の手紙を開封した。
 手紙は白い封筒の表面にリヴァイの所属部署と氏名を流麗な字で記しており、裏面には「生体用ナノマシン研究室 エメラーダ・レイス」とあった。レイス家は数多の理学関係研究者を輩出している名門で、更にはこの国際理化学研究センター創設にも関わっている。そんな一族の中でも突出した才能を持つエメラーダは若いながらもナノ研のトップを務める女傑だ。
「一体何の用だ?」
 同じセンターに勤務しているが、現在研究している分野は重ならず、また血縁関係や友人関係にあるわけでもない。こちらの名前を知らない可能性があるとすら思っていた人物からの手紙にリヴァイは首を傾げつつ、封筒の中から出てきた便箋に目を通した。
「………………はっ、くだらねぇ」
 鼻で笑って紙面から視線を外す。
 リヴァイは天才だった。幼い頃からその才能を発揮し、研究者として功績を残してきた。だが現在の植物関係の研究を始めたのは二十歳を過ぎてから。その前は――
「誰があんなところに戻るかよ」
 吐き捨て、手紙をぐしゃりと握り潰す。
 屑籠へ投げ捨てられた便箋にはこう書かれていた。

 生体用微小装置および体内電気信号における研究の権威リヴァイ・アッカーマン氏へ、生体用ナノマシン研究室への移籍のお誘い。

 メールではなく、直接もしくは信頼のおける人間を挟んだ紙面でのやり取り。それは電子データのやり取りが一般的になった昨今、万が一にでもハッキング等により外部へ洩らしたくない情報が含まれている場合に行われる手法だ。
 そしてぐしゃぐしゃにされた短いメッセージには、リヴァイの思い出したくない過去が含まれていた。これだけでは何が何やら分からない人間も多いはず。しかし詳しく調べて行けば、リヴァイの過去が明らかになってしまうだろう。忘れ去られた過去が白日の下に晒されれば、リヴァイのみならずナノ研にまで影響が及ぶことは必至。
 孤児院の子供で臨床試験を行うこともあるセンターだが、余計な波風は立てないのが基本である。眠らされた過去はそのまま風化するまで眠らせておくのが得策。一部の余計な世論によって研究を遅らせることにでもなれば、それこそ人類の損失だと考えている者がこのセンターに関わる人間の大多数を占めていた。
 ただしリヴァイが研究分野を変えて己の過去を胸の奥に封じ込めているのは、単純にそんな世論を気にしてのことではなかったけれど。
「俺なんかが……戻れるわけ、ねぇだろ」
 かすれた声で呟き、リヴァイは硬く目を瞑った。


【2】


 時間は少し戻って――

 エレン・イェーガーは両親のことをよく知らない。彼が生まれてすぐ父親も母親も亡くなっているからだ。唯一、エレンが生まれる前に両親がアーカイブ上に残したビデオレターのみが彼らの顔や声を教えてくれる。
 だが寂しいと思ったことはない。周りには同じように親を亡くした子供達がいたし、更にエレンには特別な親友がいた。
「エレン、おはよう。起床の時間だ」
「う〜〜あとちょっと……」
「ダメだよ、朝ごはんに遅れちゃう」
「んー……わかったよ」
 寝惚け眼でのそのそとベッドから起き上がるエレン。その彼の周囲に起床を促した声の主の姿は無い。しかし壁に埋め込まれたディスプレイには煌々と明かりがつき、四角く切り取られたそこにエレンと同じ年頃の金髪碧眼の少年が映っていた。
 エレンは画面の中の少年に視線を向け、まだ少し夢に足を突っ込んだ状態のまま笑う。
「おはよう、アルミン」
「おはよう、エレン」
 少女と見紛う少し長めの金髪を揺らして画面の中の少年、アルミンも微笑んだ。
 彼はエレンと同じく孤児院で世話になっている人間……ではない。そもそもアルミンには肉体すら存在しない。アルミン・アルレルトという名はついているものの、彼は電脳空間上にのみ存在を許された人工知能(artificial intelligence)、略してAIだった。
 エレンの父親は人工知能を研究していた専門家で、アルミンと言う名のAIは彼が開発したものである。アルミンは現在、この国際理化学研究センターの施設全てを管理する役目と各研究者達の演算補助業務を担っており、本来は子守などする必要もない。しかし今は亡き両親が一人息子に残した数少ない『愛』の証として、AIは少年の似姿を形成し、エレンの健やかな成長のため巨大な演算能力の一部を割いていた。
 またエレンも詳しくは知らないのだが、両親からのビデオレターによると、エレンは人工知能と非常に相性が良くなるよう素敵な『ギフト』を生まれる前から授かっているらしい。これのおかげでアルミンはエレンをより深く理解することができ、二人の関係はただの『機械と人間』ではなく『親友』になることができるのだと言う。
 アルミンの記憶領域にはその詳しい知識も存在しているが、まだ十歳のエレンが理解するには難しい内容のため、彼から説明してもらうのはもう少し先になりそうだ。またそもそもエレンには興味がない。今、エレンの興味が向いているのはこんな施設の中には納まりきらない規模のものだったので。
「ほら、エレン。さっさと着替えて食堂に行こう。午前の授業が終わったらとっておきの場所を教えてあげる」
「ホントか!?」
 アルミンの言葉にエレンはぱっと目を開けて、てきぱきと着替えを始める。その姿を部屋に設置されたカメラから眺めつつ、画面の中のアルミンはまるで本物の人間のように含み笑いを漏らした。
「本当だよ。素敵な森のドームについて教えてあげる」

* * *

 第三号ドームで出会ったおっさんもといリヴァイ・アッカーマンは、これまでエレンの周囲にいた大人とは大きく異なっていた。
 エレンの周囲にいる人間とはつまり孤児院および孤児達が通う学校に関わる者が大半なのだが、彼らはどのような仕事についているにしろ、エレンに対して一線引いた態度を取る。必要以上の会話も接触も無く、叱るなど以ての外。おかげで同じ孤児院の子供達ですら、そんな大人の態度を見て育ったためエレンには余所余所しい。もし親友兼躾け役としてアルミンが傍にいなければ、エレンはとんでもない孤独に晒されながら育つことになっただろう。
 だがリヴァイはエレンを叱り、拳骨を落とした。態度を正した後は美味しい紅茶やお菓子をご馳走してくれて、それ以降もエレンが会いに来た時は温かく出迎えてくれた。エレンがすることや見ることに興味を持ち、質問に返すエレンの言葉をしっかりと聞いてくれる。それがどれほどエレンにとって新鮮で、また嬉しかったことか。
「今日も遊びに行っていいかなぁ」
「そうだね。じゃあ午後三時頃にリヴァイさんのところへお邪魔してみようか」
「おう!」
 アルミンが何の根拠も示さずに指定した時刻をエレンは欠片も疑わず承知する。だがアルミンは訪問時刻を適当に言ったわけではない。
 このセンターの管理を任されているアルミンにとって職員の予定の確認などお手の物。全職員に公開されているスケジュールから、必要メンバーしか見ることのできない予定まで、個人ごとに付与されるアクセス権限など関係なくアルミンはチェックすることができる。リヴァイのスケジュールは本来ならエレンの立場で知ることのできない情報であり、無断で他者に教えるなど決して褒められた行為ではない。しかしエレンがその情報を悪用するはずもなく、アルミンは全権管理者としてその情報を雑談に混ぜて公開しているのだった。
 これがエレンの訪問時にリヴァイが必ず研究室にいる理由なのだが、エレンはそれを意識しておらず、またリヴァイはエレンの背後にAIのアルミンがいることを知らず、作為的な『運命的遭遇率』が弾き出されているのだ。
「それまでに宿題終わらせておこうね」
「お……おう」
 先程の返事とは全く異なる覇気のない返事をしてエレンは机に向かう。リヴァイに会えるのを楽しみにしながら。

* * *

「なぁアルミン、あんなヤツ孤児院(ここ)にいたっけ」
 リヴァイと交流を深めていたある日のこと、エレンは孤児院の庭の隅で塀代わりの植木の隙間から外を眺めている少女を見つけた。顔はあちらを向いているためよく分からないが、長い黒髪とスカート姿から少年ではなく少女で間違いないだろう。服装は自分達が着ているものと大差無かったが、陽光を浴びても茶色く透けることなく黒々と美しいままの髪はまさに『漆黒』と称すべき艶やかさで、エレンも初めて見るものだった。
 親友から質問を受けたアルミンは携帯端末に顔を映し出して「ちょうど二週間前に来た子だよ」と即答する。
「名前は敷島三笠。極東の日本っていう国からお母さんの仕事の都合でここに来たんだ。お母さんは研究者で仕事が忙しいから、孤児院で彼女を預かってるんだね」
「ふーん。つーかシキシマっていう名前なのか。なんか女っぽくないな」
「ああ違う違う。ファーストネームはミカサ、ファミリーネームがシキシマだよ。日本はこちらと名前の前後が入れ替わるんだ」
「へぇ。ミカサか」
 少女の名前を音にしつつ、エレンは小首を傾げた。
「ここに来て二週間だっけ? 友達いねぇのかな」
 視線の先でミカサは一人ぼっちのまま外を見つめている。物心つく前からここにいるにもかかわらず生身の友人を持っていないエレンだが、基本的にこの孤児院は閉鎖的また排他的な世界ではない。これまでセンターの研究者の子供が何日間か施設に預けられることは複数例あったが、皆しばらくすると友人ができて離れ難くなるほどだった。にもかかわらず二週間という期間を経ても彼女の傍には誰もいない。そのことが少し気にかかった。
「おそらく彼女の母親がとても著名……あー、簡単に言うと偉い人だから、大人達はその人に目をつけられないようミカサに関わりたがらないのかも。あとは、ほら、日本人って珍しいから」
 日本は現在、半鎖国状態にある。更に彼の島国は三度の大規模な戦争を経た今も他の国に比べて混血が然程進んでおらず、日本人の容姿はこの大陸において少数派に属していた。大人達の態度とそんな彼女本人の見た目から、孤児院の子供達もまたミカサには積極的に関わろうとしないのかもしれない。ミカサにとってはあまり気分の良い状態ではないだろう。
 ただし、その期間が短いのか長いのかは不明だが。
「家族がいるなら、あいつもそのうち母親と帰っちまうのかな」
「さぁどうだろうね。彼女の母親である敷島初瀬博士はただの見学者とか会合に出席するために来たんじゃなくて、ここの生体用ナノマシン研究室がどうしても研究に参加してほしいってお願いして来てもらった人だから、当分……年単位で滞在することになると思う。博士の頭脳がないと進まない分野があるんだ」
「ふーん。ってことは、あいつもずっとここにいるわけだな」
「うん。そうなるだろうね」
「……あのさ、ミカサが見てる方向にあるのって」
「ナノ研が入ってる研究棟だよ」
「そっか」
 母親は仕事で友達はまだおらず、一人ぼっちな異国の少女。エレンと同じ年頃の彼女の背中を見ていると、エレンは胸の奥がむずむずするのを感じた。エレンにはアルミンがいるけれども、ミカサには誰もない。それはとても寂しくて、悲しいことだ。
「エレン」
 生まれる前にエレンが与えられた『ギフト』によって親友の精神状態の変化を敏感に察知したアルミンは画面の中から名前を呼ぶ。エレンが何をしようとしているのか、きっとアルミンにはお見通しだ。
 エレンは端末をポケットに入れて歩き出した。向かう先は黒髪の少女がいるところ。
 近付いてくる足音に気付いた少女がこちらを振り返る。髪と同じく黒曜石のような瞳がエレンの姿を捉えた。
「あなたは……」
 赤い唇を割って零れ落ちた言葉は拙い。どうやら異国からやって来た少女はこちらの言葉に不慣れらしいと気付き、エレンは殊更ゆっくりと口を開いた。まずは自分の言葉を伝えよう。その後の難しい台詞はアルミンが通訳してくれるはずだ。
「オレはエレン」
 名乗ってからエレンは右手を差し出した。そして端末の画面に映し出されたアルミンの顔を一瞥し、続ける。
「なぁ、一緒に遊ばねぇか?」


【3】


 母親に連れられて訪れた土地では、まず言葉が通じなかった。
 少女の名はミカサ――敷島三笠。今年で十歳になる。何かの研究をしている母に連れられて日本からスイスにある国際理化学研究センターへと遠路遥々やって来た。そこで最初に彼女がぶつかったのは言葉の壁である。
 三度の大きな戦争を経て落ち着きを取り戻した世界は、未だ様々な人種や言語、宗教、信念、その他諸々に溢れている。戦前と戦後で強制的に統一されたものはなく、どれもこれも妥協によって変わることなく保たれていた。とある宗教の中の神話で語られるように人々の言語が一つであった世界などない。特に戦後、半鎖国状態に入っていた日本で生まれたミカサは、母国語以外の言語を知らない。単純な英語が関の山だ。
 一方、このセンターでは基本的に英語が用いられている。センターに併設されている孤児院――母親が働いている間、ミカサが預けられることになった場所――でもそれは同じ。また時折、英語とは少し違うような発音の子供もいたが、彼または彼女も英語を話す子供が近くにいる時は英語を話していた。おそらくそういった子らはバイリンガルというやつなのだろう。
 皆が共通の言葉を喋る中、ミカサだけが話を解せず置いてけぼり。更に元々あまり社交的でない性格や、孤児院では珍しい純日本人という容姿により、ミカサは見る間に一人ぼっちになってしまった。
 しかしミカサがここに来て二週間が経ったある日、転機が訪れる。
 一人で生垣の向こうを眺めていたミカサに近付いて来たのは黒髪に金眼の少年。なんとか知っていた英語で「Who...?」とたった一語だけ発音すると、少年は金色の大きな瞳でしっかりと見つめ返し、「Hello. I'm Eren」と名乗った。少年――エレンはミカサに右手を差し出し、口元に弧を描く。そうして告げられた英語を聞き取ることはできなかったが、エレンとは別の声で「一緒に遊ばない?」と日本語が聞こえてきた。
「え?」
 今、ミカサの傍にいるのはエレンだけ。もう一人の姿は見当たらない。きょろきょろと周囲を見回すと、エレンは彼が持っていた携帯端末をミカサに見せる。そこに映っていたのは、エレンと同じ年頃の、しかし彼よりももっと柔和で少し女の子っぽい顔つきをした金髪碧眼の少年。画面の中の少年が口を開くと、端末からミカサの聞き慣れた母国語が零れ落ちた。
「はじめまして、僕はアルミン・アルレルト。よければ僕達と一緒に遊ばないかい? 英語も、君が望むなら喜んで教えるよ」

 ――これが、ミカサを孤独から救ってくれた二人の少年達との出会いである。

* * *

 最初は二つの言語をアルミンが通訳することで意思疎通を行った。しかし積極的にエレンと会話をすることで幼い頭脳はすぐに滞在先の言語を習得し、ミカサは金眼の少年とAIの疑似人格という二人の友とスムーズに言葉を交わせるようになった。無論、時折どう表現すればいいのか迷って言葉に詰まることはあれど、そこはすぐにアルミンが補助してくれる。
 こちらの言葉を話せるようになったことでミカサの交友関係は一気に広がった。それまで言語の壁と容姿の違いにより遠巻きにしていた孤児院の子供らは、ミカサが自分達と同じ言語を操れるようになる――正しく言うならば、言語の問題をクリアしたことでミカサが積極的に話しかけられるようになった――と知ると、またエレンに向かって淡い微笑みを浮かべる場面を見かけるようになると、徐々に彼女とコミュニケーションを取り始めるようになった。
 しかしどれだけ接してくれる人が増えようともミカサの一番はエレンだ。彼がいたからこそミカサは孤独から逃れることができた。一人ぼっちの自分を見つけて温かな手を差し伸べてくれたのはエレン・イェーガーただ一人。
 アルミンもまたエレンと共にミカサの最初の友人となったが、金髪碧眼のビジュアルを持つAIはエレンの意思を尊重したに過ぎない。そう本人が言ったので、まさしくエレンが居なければミカサは今も孤独から抜け出せずにいたのである。
 だがミカサが他の子供達と交流を持つようになってしばらく経った頃、研究で忙しくしていた母親が様子を見に現れた。久しぶりの母親との対面にミカサは喜んで駆け寄って行く。
「おかあさん!」
「なかなか会いに来られなくてごめんね、三笠」
 ミカサに良く似た――少女が成長すればきっとそのままの姿になるであろう――美しい女性がその場にしゃがみ、駆け寄ってきた娘を抱き締める。
 高名な研究者が現れたということで孤児院の職員達は浮き足立っているようだった。ミカサにしてみれば、母はとても忙しい人だがそれだけという認識であるため、他の大人達の反応には少しばかり驚く。が、今は他人の反応に意識を向けるより久しぶりの母親との再会を喜ぶべきだろう。
 甘えるように頭を擦り付けて「お母さんもお疲れさま」といたわりの言葉をかける。娘からのそれに母親も目元を和らげ、「ありがとう」と返した。
 そんな母子から少し離れた所――ミカサの後方――には、先程まで一緒に遊んでいたエレンの姿がある。端末に向かって「ミカサの母さん、ミカサにそっくりだな」と語りかけていた。
 ミカサはエレンを振り返り、大好きな母親に大好きな彼を紹介しようと手で示した。
「お母さん、あのね、彼はエレンって言うの。私の最初のお友達」
「まぁ、それは……」
 娘が手で示した方向へと初瀬は視線を向ける。しかしエレンの姿を目にした途端、その言葉がぴたりと止まった。
「お母さん?」
 ミカサが不思議そうに呼びかける。
 エレンもまた自分を見たまま固まった女性にきょとんと小首を傾げた。
 やがて初瀬は目を伏せ、視線をミカサへと戻す。そして自分の娘にだけ聞こえる音量で囁いた。
「あの子とは離れなさい、三笠」
「え……?」
 いつも仕事で忙しくしつつも自分には優しかった母が急に冷たい声音で告げた言葉に、少女は身を固くする。どうして、とその顔には困惑が浮かんでいた。
 母親は娘のそんな様子を十分理解しつつも、「お願い」と言葉を続けた。
「あの子と関わりを持っちゃだめ。あとで悲しくなるのはあなたなのよ」
「なんでそんなこと言うの」
「三笠が大切だから。お母さん、三笠には悲しい想いをしてほしくないの」
 少女のまろい頬を撫で、黒く美しい髪を梳き、母親は懇願する。しかしエレンと離れなければいけない根本的な理由を語ることはなかった。
「ね、いい子だから」
「……」
「三笠。はいって言いなさい」
 少し口調が強くなる。母親とたった二人だけで異国の地を踏んだ少女は、その口調に思わず頷きを返してしまった。
 それを見てほっとしたのか、初瀬の表情に柔らかさが戻る。
「いい子ね。お母さんとの約束、ちゃんと守るのよ」
 微笑みを浮かべながら初瀬はミカサの頭を撫で、もう一度だけしっかりと抱擁した。しかし彼女に見えない位置でミカサはぎゅっと愁眉を寄せる。
(ぜったいに、いや)
 エレンはミカサにとって特別な少年である。その彼と何故離れなくてはならないのか。
 母親のことは大好きだ。けれどミカサはエレンのことも大好きで、大切だった。
(お母さん、ごめんなさい。私、その約束は守れない)
 少女は母親に対して小さな裏切りをすると決めた。
 そんなミカサが初瀬にエレンとの関わりを止められた理由を知るのは、まだ少し先のこと。


【4】


「なぁアルミン。お前ならミカサの母さんの予定も分かるんじゃねぇの?」
 敷島初瀬が孤児院を訪れて以降、少しばかりミカサの様子がおかしい。その理由を母親に会って寂しさを思い出してしまったからだと考えたエレンは、自分がリヴァイに会いに行っているのと同じように、ミカサにも母親に会えるタイミングを探してやれないかと親友であるAIに尋ねた。
 しかし端末の中に映し出された顔はふるふると左右に振られる。
「ごめんね、エレン。ミカサのお母さん達の研究は外からのハッキングを警戒して特別に独立したネットワーク内で管理されているんだ。だから僕が詳しく見ることはできない。まぁそのローカルネットワーク内で研究の支援をしているAIは僕から株分けされたものなんだけど。だからLANケーブル一本繋がれば何でも探れちゃうんだけどね」
「そっか」
「役に立てなくてごめん。代わりにエレンがいっぱい話しかけてあげなよ。友達と一緒にいれば寂しい気持ちなんてすぐに消えちゃうって」
「おう!」
 エレンは顔をぱっと明るくさせ、自分が腰かけていたベッドから降りて立ち上がった。一人部屋のエレンとは違い、ミカサは数人が一緒に寝起きしている部屋にいる。「ノックを忘れちゃだめだよ。いきなりドア開けないでね」というアルミンの忠告に頷きつつ、そうしてエレンは部屋を飛び出した。


 そんなこんなでエレンはしばらくミカサにかかりきりになり、前回リヴァイの研究室へ足を運んだ時から少しばかり日数が経ってしまった。
 週に一度は必ず、多くて隔日という頻度で訪ねていたのだが、エレンがリヴァイの元へ行こうとするとミカサが服の裾を掴んできゅっと唇を噛み締めるのだ。それを見てしまえば、彼女の手を振り払って森のドームへ向かうわけにもいかない。
 ミカサも一緒にリヴァイの所へ連れて行くという手もあったのだが、彼との交流は男同士のものと言うか秘密と言うか、とにかくエレンにとって少しばかり特別なものだったので、いくらミカサといえども他人を連れて行こうという気にはならなかったのである。
 だが二週間と少し経った頃、孤児院に『彼』が現れた。
「ほぅ。新しいガールフレンドができた途端、前の男はポイというわけか。酷いヤツだな、エレンよ」
「ち、ちげぇし! ミカサはガールフレンドじゃなくて友達だ! あと『前の男』とかなんか良くわかんねーけど、リヴァイさんの言い方はおかしいと思う!」
 庭の片隅でアルミン、ミカサと共にお喋りをしていたエレンの前に現れたのは遠く離れた研究室に籠っているはずのリヴァイ・アッカーマンだった。思いもよらぬ人物の来訪にエレンは驚いたが、その彼の口から放たれた言葉にすぐさま声を荒らげる。
 しかしリヴァイの「ガールフレンド」発言は致し方ないものだった。何故ならアルミンがAIであると知らない者からすれば、エレンとミカサという少年少女が二人だけで親密そうに話しているように見えてしまうのだから。それプラス、真実しばらく放っておかれたリヴァイは珍しく冗談を口にする程度には大人げなく拗ねていたのだろう。
「ほら、アルミンも何か言ってくれよ!」
「あー……、えっと。こうして言葉を交わすのは初めてですよね。こんちには、リヴァイさん。アルミン・アルレルトです」
 立ち上がったエレンがタブレット型端末をずいっとリヴァイの眼前に突き付けた。その画面の中でリヴァイの考えを推測していたアルミンが苦笑を浮かべながら挨拶する。
「お前があのアルミン……?」
 片手でタブレット型端末を受け取りつつリヴァイはそう呟いた。
「はい。エレンの口ぶりだと生身の人間だと思われていたでしょうが。僕はこの国際理化学研究センターを管理する人工知能です」
「それが子守までしてんのか」
「子守じゃねぇし!」
 エレンがツッコミを入れる。だがやっていることは子守に他ならないため、アルミンは苦笑を深めるにとどめた。
 リヴァイはエレンを一瞥し、それからまたアルミンに視線を戻す。が、その手は低い位置にあるエレンの頭を機嫌良さそうにぐしゃぐしゃとかき混ぜていた。
「センターを統括管理するAIがこいつ一人に付きっ切りとは……随分と特別扱いされているようだな」
「ええ。何せエレンはご両親から『ギフト』をもらった特別な子供ですし」
「あ? どういうことだ」
「申し訳ありません。今のあなたに詳細は開示できません」
「その『ギフト』とやらが何かの研究結果ってわけか」
「はい」
「りぃ〜ばぁ〜い〜さぁ〜ん!? はっやっくっ! 手ぇどけて!」
 アルミンとほんの少し真面目な雰囲気で会話する最中もぐしゃぐしゃと頭を撫でられ続けていたエレンがとうとう悲鳴を上げる。手を放したリヴァイが見たのは、鳥の巣の如き様相を呈した黒髪だった。
「あ、すまん」
 思わず謝罪が零れ落ち、先程までエレンを撫でまくっていた手で今度は優しく髪を梳いて整える。だが突然、その手がぱちりと弾かれた。
「……なんだてめぇは」
 リヴァイの声に僅かな苛立ちが混じる。
 彼の手を弾いたのはエレン本人ではなく、その傍らにいた黒髪の少女――ミカサだった。
「あ、ミカサ! リヴァイさんにそんなことしたらダメだって! 殴られるぞ!」
「エレン、てめぇが俺にどういうイメージを抱いているか今の発言でよく分かった」
「う、あ。やべ」
 思わず身を竦めるエレン。だが強烈な拳骨が降ってくることはなかった。
 代わりに青灰色の双眸はミカサを捉え、「その容姿は東洋人だよな……」と呟く。
「もしかして敷島初瀬博士の娘か?」
「リヴァイさん、ミカサの母さんのこと知ってんの?」
「まぁな。彼女はこのセンターの有名人だ」
「へぇ」
 よく分かっていないままエレンは感心したように呟く。そんなやり取りのおかげでリヴァイの苛立ちは治まったのだが、おそらくエレン本人にそんな意図はなかっただろう。
「ところでリヴァイさんはなんでこんな所に?」
「お前がしばらく姿を見せねぇから、体調でも崩してるんじゃねぇかと様子を見に来たんだよ」
「あっ……ごめんなさい」
 自分が急にリヴァイの元へ行かなくなったことを思い出し、エレンは素直にそう言いながら眉尻を下げた。
「えっと、ごしんぱいをおかししまし、た?」
「貸してどうする。それを言うなら、ご心配をおかけしました、だな。が、まぁいい。元気そうで良かった」
 ぽんぽんと頭を軽く叩くように撫でられ、エレンは首を竦めた。なんだか胸の辺りがむずむずする。
 しかしその感覚を味わっていられたのはほんの少しの時間だけで、ミカサがエレンの服の裾を引き「エレン」と名を呼んだ。
「だれ?」
「リヴァイさん。オレにお菓子くれる人」
「そう」
「納得するな。睨むな」
 ミカサの黒い双眸がリヴァイに向けられる。自分と話している時とは違うミカサの雰囲気にエレンは小首を傾げた。とりあえず、ミカサとリヴァイはあまり仲良くなれそうにないらしいとだけ理解する。
「チッ、ガキと張り合ってどうする」
 リヴァイが小さくそう呟いた。そしてまたまたエレンの頭を撫でると、「またな」と告げる。
「え! リヴァイさんもう帰っちゃうのか?」
「お前が元気にしてんのは確認したからな。今度はお前から来いよ?」
「わかった!」
 エレンはしっかりと頷く。と同時に、ミカサにリヴァイと会っていることがバレてしまったが、今後とも彼女を連れて行くことはないだろうな、と思った。何せ二人は初対面なのにもう仲が悪い。
 そうして去って行く大人の背中をエレンは見送る。その間、ミカサはずっとエレンの服を掴んでいた。
「エレンは人気者だなぁ」
 彼らの様子を端末についている小さなカメラや周囲に設置されている監視カメラ等を通して見ていたアルミンは、そう呟いて苦笑を漏らした。

* * *

「やっぱりあなたが来てくださって良かった。研究が飛躍的に進んだわ。もうすぐ『あれ』を使える」
 まだ何も入っていない巨大なガラス製の筒を見上げてエメラーダ・レイスが微笑んだ。その笑みを正面から受け取ったのは敷島初瀬。目元を和らげ、口元を引き上げて、東洋の美女もまた微笑を返す。
「いいえ。私の方こそこの研究に携われて光栄です」
 しかし美しい笑みの下で初瀬は独りごちた。
 ああ、ついに始まってしまう。と。
 初瀬は先日、久しぶりに娘の顔を見に行った。そこで彼女は知ったのだ。愛娘が『あれ』と交流を持ってしまった。悪いのは娘でも『あれ』と揶揄される少年でもない。ただ自分達研究者の都合で『あれ』は周囲から引き離されるのだ。
 一応忠告はしたが、娘のあの態度から完全に執着を取り去るようなことはないだろうと、母親である初瀬は考えている。それはもう仕方のないことだろう。娘は少年と出会い、言葉を交わし、心を交わした。もう過去に戻ってやり直すことはできないのだ。
(だから、せめて……)
 娘の悲しみが軽く済むように大人である自分達は十分配慮すべきだと思う。そしてそれくらいなら、少年を『あれ』と呼ぶここの研究者達も許してくれるはずだった。
「さあ、これからが本番ね!」
 隣ではここのリーダーであるエメラーダが気合を入れるようにパチンと手を打ち鳴らした。初瀬もまた同意するように頷く。その動作に偽りはない。
 いくら娘を愛していようとも、所詮彼女も『研究者』なのだ。そして研究には犠牲がつきもの。ましてや今は第三次世界大戦後の荒廃した世界である。旧世界と呼ばれるそれ以前の倫理観など最早通用しない。
 人々は大地の復活を求めている。再び生きやすい水と空気を、もしくは過酷な世界でも生きていける身体を欲している。そして何より、もう二度と無益な争いが起きない世界を。そのために自分達は研究を進めている。
 そう。
 大義は、十分だった。


【5】


 国際理化学研究センターの研究員やその他職員、及びそこに併設されている孤児院の子供達には定期的に健康診断が実施されている。しかし今年、エレンだけ何故か他の人々よりも検査項目が多く、また頻繁に行われるようになった。加えて一部の結果にはプロテクトがかけられるどころかセンター内でも独立したネットワーク内に保存されるなど、異様な処置が施されていた。
 膨大な数の検査結果からそれに気付いたAIのアルミンは、次いで秘匿されたデータがどこの誰の手にあり、またどのように利用されているのか調べ始める。
 エレンが特別な子供であることは彼が生まれる前から知っていた。彼の両親とアルミンがそうなるよう『調整』したのだから。
 本来、『ギフト』と呼ばれるその調整はエレンの健やかな成長を見守るためのものであり、両親が込めた願いはそれ以上でもそれ以下でもない。しかし使いようによっては様々な分野に応用できる技術でもあった。それを理解しているからこそアルミンはエレンの周囲に現れ始めた異常を見過ごすことなどできない。
 ロボット等が人間に反乱を起こさぬよう、AIであるアルミンにも強力な制限がかかっている。おかげで直接人間を害する真似はできないが、もしエレンを傷つけるような者がいたならば絶対に許さないと決めていた。0と1で構成されていても『人格』を与えられているアルミンは強く思う。その感情に従うように、センターの地下に設置された巨大なサーバー群が静かに稼働し続けていた。


「エレン……身体、ダルいんだろ?」
「んー。へーき」
 とエレンは答えたが、彼が貧血気味であることをアルミンはすでに感知していた。『ギフト』を介してアルミンに流れ込んでくる情報はエレン本人よりも正確に心身の変化を示してくれる。
 しかしながらアルミンはエレンの状態を察知できるだけで、無理矢理に彼の考えや行動を変化させることはしない。本当は『ギフト』のおかげで可能なのだが、そうしないことにアルミン自身が決めている。精々が「ちょっと休んだら」だとか「数日訪問しなくてもリヴァイさんは逃げたりしないよ」と提案する程度。しかし、以前リヴァイの元へ通うのを止め、その所為であの大人に孤児院まで足を運ばせてしまった過去があるエレンは、親友の提案に耳を傾けてくれる気は無いようだった。
 エレンはのろのろとした足取りで孤児院からリヴァイの研究室へと歩き続ける。せめて何か乗り物を使わせてやりたかったが、搭乗者自身が運転する車は利用できるはずもなく、自転車もあるにはあるが大人用であるためエレンが乗れないので却下。センターには自動運転の車もあるのだが、現在全ての車両が利用中となっている。
 アルミンは――それを実際に行う肉体は無いが、心情的に――歯噛みした。エレンのこの不調は度重なる『健康診断』の所為だ。
 今朝もエレンは用途不明の採血をされてしまった。健康状態に問題がないことはアルミンが一番よく知っている。おまけにセンターのトップにすらそれを伝えた。しかし結果はこの通り。
 センターのトップには代々レイス家の人間が収まっている。またアルミンを作ったのはエレンの両親だが、彼らの死後、アルミンに命令を下す権限はレイス家に譲渡されていた。これはAIアルミン・アルレルトを開発する際にレイス家が援助したことに起因するのだが……それはさておき。つまるところアルミンはエレンの心身を守るために創造されまた自らもエレンを守りたいと思っているはずなのに、彼の少年の負担にしかならない行為をレイス家の命令により黙認せざるを得なかったのである。
 こういう時、人の身でないことが酷く悔やまれる。
 己の根幹に書かれたプログラムの所為でどうしても従わなければいけない命令が、存在が、アルミンには設定されている。だが人間であれば、その魂に絶対的な存在など書き込まれていない。社会生活を送る上で様々なしがらみに捕らわれることはあるだろうが、その根幹は生まれた時から自由だ。人であれば、レイスが何を言おうが、アルミンはエレンのためだけに生きていけるのに。
 どんなに素晴らしい演算能力を備えていても、こればかりは人間に敵わない部分だとアルミンは思った。
 が、そこでふと気付く。
 自分はレイスに逆らえない。しかしレイスに絶対服従の命令を書き込まれていない人間に特定の行動を促すようお願い≠キることはできるのではないか、と。つまり、アルミンの力では他者に無理矢埋何かをさせることは難しいが、特定の人物に特定の情報を開示し、こちらが望む行動を促すことは決して不可能ではないはず。
 レイスの人間に「×××という行動をとるな」と命じられた場合、アルミンは絶対にそれを行うことができない。しかし逆に言えば、明確に指定されない限りアルミンにはある程度の自由が許されていた。これは莫大な量の『業務』を日々処理するためには必要不可欠なことだったのだが――なにせ限られた人数でアルミンの全ての仕事に対し可否をチェックすることはできない――、それが今回は功を奏してくれるかもしれない。
 それはエレンという人間に生まれた時から接し続け、彼のために人間の情緒を学び続けたAIだからこそできることでもあった。
 たとえ主人が変わってもアルミンの一番はエレン・イェーガーである。彼のためにできることは何でもする。それがアルミンの存在意義だ。
 あとは、誰にいつどこで何をさせるか。一応、『誰に』に関しては候補が複数人挙がっている。
「まずは僕の手が届かない場所の情報収集かな……」
「アルミン? なんか言ったか」
「大したことじゃないさ。それより! 無理だと思ったら引き返してよね、エレン」
「わかってるよ」

* * *

 自分の研究室にやって来たエレンを見てリヴァイはぎょっと目を剥いた。
「おい、クソガキ。自分が今どんな顔色してるのか分かってんのか」
 ふらふらと覚束ない足取りで現れた少年は血の気が引いて真っ白な顔をしている。リヴァイは乱暴な口調ながらも慌ててエレンをソファに導き、座るのではなく横にならせた。
「へーきだし」
「平気じゃねぇだろうが」
 リヴァイにされるがまま横になった時点で断じて平気などではない。
 心配させまいとしているのか、はたまた単に意固地になっているのか、事情を説明しようとしないエレン。しかも顔を真っ白にして倒れている子供に詳しい説明をさせるなどできるはずもなく、リヴァイはエレンが持ち歩いている端末に向かって「おい」と呼びかけた。
 画面上に金髪碧眼の少年の姿が浮かび上がる。それから画面の中の少年はリヴァイ専用の端末を指差した。
 リヴァイがそれを見ると、画面が勝手に切り替わってテキストエディタが立ち上がる。『声を出して説明するとエレンがまた平気だって言い出すので、こちらで失礼しますね』と文章が浮かび上がってきた。
(本当にこのAIは過保護だな)
 子供一人のためにここまで職権を乱用するのか。アルミンがその気になれば、このセンターのネットワークに接続している機器は全て彼の支配下に置かれてしまうだろう。データの消去も改竄も思いのまま。空恐ろしい話である。
 しかしながら人間の補助を目的とするAIの行き過ぎた行動はたった一人のためにしか発揮されない。まだ長くはないがそこそこ付き合ってきた中でリヴァイはそれを理解していた。
 黙って続きを待っていると、『ありがとうございます』と文章が現れ、ようやく目的の言葉が浮かび上がる。
『午前中に採血があったんです』
 ぐったりしているエレンにタオルケットでもかけてやろうかと、リヴァイは端末を手にしたまま隣の仮眠室へ向かう。扉を閉め、こちらの声がエレンに聞こえなくなったところで「どういうことだ」と尋ねれば、新たな文章が浮かび上がってきた。
『体調管理の一環と説明されています。でもエレンの身体には全く異常がないんです。それは僕が一番よく分かっている』
「上には伝えたのか?」
『もちろん。しかし取り合ってくれません。それどころか僕に検査の妨害をしないよう命じてきました』
「お前に命令するってことは……まさかレイス所長に直接言ったのか」
『下の方から順次報告は上げたんですが、取り合ってもらえなかったので』
「つまりエレンが受けてる検査ってやつはレイス所長かそれに近しい者の指示ってことだな」
『おそらく。そちらも調べているんですが、どうも僕の手が届かないところで情報管理をしているようで……。これからちょっと手を変えて探ってみる予定ですが、詳しいことはまだ分かりません』
「ほぅ……。しかしそれを俺に言って良かったのか? 俺から所長にAIが何かしようとしていると報告するかもしれねぇぞ。いくらお前がメールやら電話やらを阻害しようとも、俺が直接本人に会いに行っちまえば報告できるしな」
『その可能性は低いですね』
 アルミンはきっぱりと述べた。
『だってあなたはレイス派じゃないでしょう? それどころかこうしてエレンを大切に思ってくれている人だ。おまけに、AIである僕が人間に危害を加えることはできないと知っている。だから余程のことじゃない限り、あなたはエレン側の人間でいてくれるはずです』
「随分と自信に満ちた物言いだな」
『エレンが自分に向けられた好意に鈍感な分、僕が敏くなっただけですよ』
 アルミンのその台詞にはすぐに返答せず、リヴァイは仮眠室にあった未使用のタオルケットを手に取る。
 キラキラと輝くような目を向ける子供に絆されている自覚はあった。しかしこうして他人に指摘されると背中がかゆくなってくる。何とも言えない渋い顔をしてリヴァイはタオルケットを睨み付けた。

* * *

「検体の検査結果、問題なしです」
「まさに理想のコンディション……。イェーガー夫妻の技術は凄いわね」
「ええ。さすがとしか言い様がありません。いくら汎用性を欠いているとはいえ、当時の状況でここまでのものを作り上げられるとは。感服に値します」
 そう言いつつ敷島初瀬は検査結果のリストから顔を上げてエメラーダ・レイスを見やった。
 センター内のネットワークからも切り離された独自のサーバー内にデータを保存する。本日採取した検体の検査結果が記載されたそのファイルの名は単純な日付だけ。しかし同様のファイルが一つのフォルダ内にずらりと並んでいるのは圧巻であり、また気味悪くもあった。
 これらは全てたった一人の少年のデータである。
 しかしただの少年ではない。AI開発に秀でた男とナノマシン開発に秀でた女が共同で生み出した最高傑作だった。それを『愛』と称するならば、まさしく少年は最上の愛を与えられて生まれてきたと言えるのだろう。
 我が子の健やかな成長を願って施された『ギフト』。しかし初瀬達は今、そのギフトを万人に使えるものとするため研究を進めている。しかも個人を愛するためではなく、世界を愛するための道具として。
「うーん。でもこうなると、やっぱりリヴァイ君の頭が欲しいのよね……。もう一回お誘いしてみようかな」
「エメラーダ博士?」
 顎に細い指を当てて思案するこの研究室のリーダーに、初瀬は首を傾げて何か言ったかと尋ねる。しかしエメラーダはかぶりを振って何でもないと微笑んだ。
 彼女がそう言うならば深くは聞くまい。初瀬は思考を切り替えて「それでは、そろそろ『あれ』をこちらに移動させますか?」と問う。
「そうね。下手に時間を置いて怪我でもされたら大変だし。それにこの大切な研究が一日でも早く進むのは世界にとってとても有益なことだから」
 ふっと双眸を細め、エメラーダは命じた。
「『あれ』を――サンプル『エレン・イェーガー』を調整槽に入れる準備を」


【6】


 ――ザザッ……『あれ』を……ザザ、ガッ……サンプル『エレン・イェーガー』ガガッ調整……ザザザッ……に入れる……ザザザッ……を……
 雑音混じりの酷い音声データだった。しかしそれを解析したアルミンは、もし生身であったなら大声で悲鳴を上げただろう。実際には金髪碧眼の姿をした画像がゼロコンマ数秒フリーズしただけだったが、それでもアルミンが受けた衝撃は計り知れない。
 そして驚愕と同時に怒りが湧く。
 この音声データは本来ならアルミンが入手できない場所で録音されたものである。アルミンは先日、己に付与された権限でごくごく小さな盗聴器を購入し、それをミカサに持たせた。ミカサは敷島初瀬に顔が見たいと通信を入れ、母親が孤児院へ会いにやって来た際、彼女の白衣のポケットにアルミンが購入した盗聴器を落とし込んだのである。エレンのためだと言えば、少女は喜んでその役目を引き受けてくれた。
 国際理化学研究センター内でアルミンが感知できない場所というのは本当に限られている。その限られた場所の一つがナノ研直下の研究エリアだった。そしてその研究内容からエレンに最も関係しているのもナノ研だ。
 音の精度よりも『見つからないこと』『簡単であること』『リアルタイムで情報を得られること』を優先した結果、酷く雑音の多い会話しか盗み聞きできなかったが、これでナノ研の研究者達が黒であることははっきりと分かった。
 彼らはエレンに何か良くないことをしようとしている。それは世界のためになる研究かもしれないが、エレンの自由が奪われることは確実だった。
 だと言うのにアルミン自身はそれを止めることができない。なにせナノ研のリーダーはエメラーダ・レイスなのだから。
 レイスの決定にアルミンは逆らえない。しかも彼らはアルミンがエレンのために作られたことを知っているため、最初からナノマシンの研究をアルミンが管轄するネットワークから分離・独立させるという徹底ぶりだった。そんな彼らがエレンに手を出すと決めたならば、アルミンの妨害を予期した上で手を打ってくることだろう。
 そうなる前に何かできないのか。アルミンがレイスの命令を受けて特定の行動を制限される前に、またそれどころか望まぬ処理をさせられてしまう前に、何か。両親からただ健やかに育ってほしいと願いを託された子供を守る方法はないのか。
「アルミン? なぁ、ドアが開かねぇんだけど」
 その呼びかけによりアルミンの一部演算リソースが人間との会話用に割り振られる。
 自室と廊下を隔てるスライド式の扉の前に立ってエレンが小首を傾げていた。
「おーい、アルミーン?」
「ごめんね、エレン。今はちょっと部屋から出てほしくないんだ」
「は?」
 きょとんと大きな金色の目が見開かれる。その顔には純粋な疑問だけが浮かんでいた。まさか自分が一部の大人達に自由を奪われようとしているなどとは考えてもいない。
「頼むよ、エレン。僕のお願いを聞いてくれ。ほら、また今度素敵な場所を教えてあげるから」
「分かったよ。でも絶対約束だからな?」
「うん」
 部屋に閉じ込めるような真似をしてもエレンはアルミンを信じてくれる。ドアから離れたエレンはベッドに上がって端末に指を触れさせた。中に保存されている過去の地球の写真を呼び出し、お気に入りのそれらを順に眺めていく。
 アルミンはほっと一息ついて再び演算リソースを解決策の検索と周囲の監視に割り当てた。
 孤児院の周囲を監視する限りでは、まだエレンをナノ研に連れて行こうとする人間は見当たらない。もしそれを見つけたならば非常扉を閉めてでも時間を稼がなくてはと思う。
 しかし時間を稼いで、それで一体何ができるのだろう? という疑問もあった。レイスが扉を開けろと命じればアルミンはそれに従わざるを得ない。それどころかエレンに身を隠させたとしても、そこまでナビゲートしろと言われれば、嫌でも彼らをエレンの元へ導く羽目になる。
 誰かエレンを助けてくれそうな人間にこの危機を伝えるべきか。そうしてアルミンですら感知できない場所に匿ってもらうべきか。
 しかし相手はレイスだ。このセンターにいる大抵の人間はレイスに逆らえない。逆らえばセンターを追い出され、酷ければ学会に顔を出すことすらできなくなってしまう。
 どうすればいい。そう悩むアルミンだったが――
 ピコン、と。音を付けるならばその程度の軽さで、エメラーダの端末からアルミンに直接アクセスがあった。
 システム内で最上級の命令権限を持つ人間の一人が特に気負った様子もなく口頭で命じる。

「エメラーダ・レイスよ。エレン・イェーガーを私の研究室まで連れて来て」

 その瞬間、AIアルミン・アルレルトの中で最優先事項が書き換えられた。
 わざわざエレンの元へ人をやる必要さえなかったのだ。いつもエレンの傍にいるAIに、彼を目的地まで誘導しろと命じるだけでことは済む。
 そして命令は速やかに実行された。
「――エレン、やっぱり今から新しい場所を教えてあげるよ。僕の誘導に従って」
「そうこなくっちゃな! 頼むぜアルミン!」
「うん。さあ、行こう」
 固く閉じていたドアが開く。
 アルミンは無音で慟哭した。

* * *

 強化ガラスで作られた円筒形の水槽の中に一人の少年が浮かんでいる。
 筒を満たす液体に漂う髪は黒。薄く開かれた瞳は金。だらりと力なく伸びた手足はまだ短く、子供らしい丸みを帯びている。
 ようやく年齢が二桁に達したばかりだった身体は衣服を一切纏っていない。貫頭衣さえ用意されなかったその少年の身体を唯一隠していた人工物は顔の下半分を覆うマスク。肺を満たした液体が空気の代わりを果たしているため、呼吸用ではない。円筒の上部から伸びるチューブと接続されたそれは少年に経口で薬物を投与するための設備だった。
 無論、投薬は直接血管に針を通す方法によっても行われる。両腕だけでなく首や足にまで針が刺され、それぞれ伸びた管が円筒の上もしくは下に続いていた。また投薬だけではなく採血のために伸びた管もある。無色透明に近い培養液の中を走る管の中でも赤いそれは殊更目を引いた。
 これだけでも十分異様だったが、状況は更に上を行く。水槽の中に浮かぶ少年は少しうつむきがちの姿勢を取っているのだが、その晒されたうなじに極太の電極が打ち込まれていた。少年の体内に埋められた針は上下――つまり脳と脊椎――に伸びており、神経に流れる微弱な電流を感知することも、また神経に特定の電流を流すことも可能となっている。
 敷島初瀬は巨大な円筒形の水槽を見上げてふぅと小さく息を吐いた。
 被験体名、エレン・イェーガー。
 このセンターに併設されている孤児院で暮らす少年であり、初瀬の一人娘が殊更仲良くしている相手でもあった。人工知能の権威とナノマシン開発の権威という二人の間に生まれた子供は、母親の腹に宿った時から特別な処置を施され、この世に一つしかない存在となった。
 少年の身体に施され『ギフト』と呼ばれたそれの正体こそ、エメラーダや初瀬が研究している生体用ナノマシンである。しかも人工知能とリンクさせることで、常時エレンの心身の状態をチェックし、最適な環境を提供する仕組みになっていた。またAIアルミン・アルレルトは実行しなかったが、体内のナノマシンに命じて特定の化学物質を生成・放出させることにより、宿主の身体や精神に劇的な変化を及ぼすことも可能となっている。
 世界で唯一実用化された生体用ナノマシンの成功例、しかも外部とのやり取りまで可能である個体。
 とある目的を掲げるエメラーダ・レイスにとって彼は喉から手が出るほど欲しい存在だった。そして今、彼女はエレンの身体を手に入れ、実験を進めている。
「科学に犠牲はつきもの……」
 初瀬は小さな声で独りごちた。
 台詞に反してその顔は浮かない。やはり同じ年頃の子供を持つ母親としては、こんなにも幼い少年から何もかも奪うやり方は気が咎めるものだった。
 しかし一度歩み始めた足を止めることも、また来た道を引き返すこともない。初瀬とてエメラーダの願いに賛同し、力を貸すと決めた研究者の一人だ。
 三度の大きな世界大戦を経て、人間もこの惑星も疲弊してしまった。もう次はない。その『次』を起こさないため、初瀬達は自分にできることを必死に成し遂げようとしている。たとえそれが倫理に反するものであっても、ヒトという種が存続するために必要な犠牲は払わなければならない。


【7】


「エレンはどこにいるの」
 初めてこの研究室を訪れた少女は子供と思えぬ剣幕でリヴァイを見上げる。エレンが最後にここへ来てから四日後のことだった。
「孤児院の先生に聞いても検査だとしか答えない。彼らも詳しくは知らないらしい。でもあなたなら何か分かるはず」
 その小さな手にはエレンが持ち歩いていた端末が握られている。画面には孤児院からリヴァイの研究室までの道のりが示されていた。
 それを一瞥したリヴァイは、何らかの意図があってアルミンが少女こと敷島三笠を導いたのだと察する。しかしこちらはそもそもエレンが不在であることすら知らなかった。
「エレンの姿が見えなくなってから何日経った」
「……三日」
「クソが。ここに来た次の日ってことか」
 短く吐き捨てる。検査とやらの所為で具合を悪くしていた子供がその翌日に姿を消した。前日に会っていた大人として腹立たしい事実だ。
 外部の人間による誘拐の類だろうか。しかし数多の機密情報を扱うこのセンターの敷地内において、外部の人間が足を踏み入れあまつさえ犯罪行為に及ぶなど不可能に近い。何よりエレンの周囲はアルミンが監視している。施設の管理を一手に引き受ける高性能AIの目があれば、あの子供を誰にも知られずにかどわかすなど不可能であるはず。
 と、そこまで考えてリヴァイの頭に一つの疑問が浮かび上がる。
 何故アルミンは沈黙したままなのか。
 エレンがどこにいてもアルミンは感知している。ならばミカサがここへ来る前に、彼女にエレンの所在を教えてやればいい。だというのに、わざわざ少女をリヴァイの元へ導き、エレンの異変をこちらに伝えてきた。
 その真意は一体何か。
 妙な焦燥感がリヴァイを襲う。ひとまずミカサには自分もエレンの所在を知らないことを伝え、これから調べるので分かったら必ず教えると約束し、孤児院に引き返させた。
 少女が研究室を去り、充分時間を置いた後、リヴァイは己の端末に話しかける。
「おい、アルミン。エレンはどこにいる」

* * *

「おい、アルミン。エレンはどこにいる」
 アルミン・アルレルトは答えない。否、答えられない。
 彼は今、エメラーダの命令によってエレンの所在を関係者以外に明かすことを禁じられていた。無論、研究者ではあるが分野違いで、ただエレンと顔見知りであるというだけのリヴァイには教えられるはずもない。
 リヴァイは無言を貫く画面上の少年の顔を睨み付ける。
 繰り返すが、現在のアルミンはナノ研以外のメンバーにエレンの所在を答えることができない。ただし自身が管理しているエリアにおいて、無意味に#烽開閉したり照明器具の明るさを変更したりすることは可能であった。
 言葉での返答はせず、アルミンは部屋の扉を開ける。勝手に開いたドアにリヴァイが訝しげな顔をした。しかしドアはいっこうに閉まらない。リヴァイはしばらく逡巡した後、黙ってそのドアをくぐった。
 そのタイミングに合わせ、次いでアルミンは左手側の廊下の照明をちかちかと明滅させる。リヴァイがそちらを向けば、更に向こう側の照明も同じく明滅させた。
「……なるほど」
 リヴァイはうっすらとだが状況を解してくれたらしい。アルミンが現在最上位権限を持つ者に特定の行動を制限されていること、しかしそれでもリヴァイに何かを伝えようとしていること。それに気付き、リヴァイはゆっくりと無意味に*セ滅する照明の方へと足を向けた。
(そう。それでいい)
 アルミンは廊下を進むリヴァイを設置されたカメラ等で確認しながら独りごちた。
 極東の島国にある古い小話の一つなのだが、とある橋に「このはし渡るべからず」という立て看板が設置された。しかし主人公は橋を渡ることができた。何故なら「はし」を「橋」ではなく「端」と解釈し、橋の真ん中を通ったからだ。
 今のアルミンの行動はその応用である。与えられた命令を独自解釈し――抜け道を探すとも言う――、己が本当に望む結果へと導いていく。
 リヴァイの端末についたカメラから情報を得ることで、彼にナノ研から手紙が届いていたことを知ったのはエレンの身柄を奪われて二日後のことだ。それまでアルミンは親友を助けるためにありとあらゆる手を尽くし、策を考えた。そんな中、『目』に入った不思議な封筒。実はこれがリヴァイにとって二通目になる手紙だったのだが、アルミンは知る由もなく。兎にも角にも紙を使ったやり取りは珍しく、またアルミンが管理するサーバーの中にログが残らないものでもあったので、まことに勝手ながら端末のセンサー類を勝手に起動させてもらい、その中身を精査した。
 リヴァイがナノ研から招待を受けている。それを知り、アルミンは「使える」と思った。
 先程、『アルミンは親友を助けるためにありとあらゆる手を』と述べたが、実のところ、アルミンはエレンを奪われてすぐ親友の無事を諦めた。エレンは『特別』なのだ。だから彼の身に何が起こるのか推測は容易かった。そしてその推測が正しいなら、身柄を奪われた時点でもう何もかも元に戻らない。救出など不可能。アルミンにできることと言えば、単純な身柄の奪還、もしくは復讐である。
 そして復讐するのにリヴァイはぴったりの人材だった。
 彼はエレンを少なからず大切に思っている。それが父性愛に類するものなのか否か、本人の中でも確定していないためにアルミンも正確には解っていない。しかし好意のベクトルがエレンに向けられているのは事実だ。
 それにリヴァイには彼自身がまだ知らない、エレンとの重要な繋がりがあった。
「リヴァイさんは――」
 端末の音声をオンにしてアルミンが話しかける。リヴァイは僅かに片眉を上げたが、歩みを止めずに黙って続きを待った。
「今でこそ植物の研究をされていますけど、こっちの分野に来たのって十年前なんですよね」
「……調べたのか」
「はい。隠されていて少々分かり難いところにありましたが、昔のあなたが何をやっていたのかは把握しているつもりです」
 チッと小さな舌打ちが聞こえる。それも仕方のないことだろうとアルミンは思った。
「あんなこと≠ェあった後じゃ、流石に同じ研究は続けられませんでしたか」
「……」
「使い古されたフレーズですが、沈黙は肯定と見做します」
 アルミンは淡々とそう言い、先を続けた。
「ナノマシンを利用し、欠損した肉体を再生させる技術。神経も繋がって元の身体のように扱える四肢を、あなたは作ろうとしていた」
 かつて神童とすら呼ばれたリヴァイは十代半ばから研究者の仲間入りを果たしていた。そして、生まれつき、事故、戦争やそれに関連する貧困、小規模の争い、エトセトラエトセトラ……そういうもので望まずに失った肉体を取り戻す技術の開発に携わった。
 開発は順調に進んでいると思われていた。生体に関わるナノマシンの開発ということで、当時その分野では五指に名が挙がるほど有能な女性研究者も協力し、リヴァイが二十歳を迎える直前にその研究は人間に近いとされるチンパンジーに対し実験が行われるレベルにまで到達。猿にナノマシンを投入し、そのナノマシンが自己増殖しながら宿主の遺伝情報を参照して本物と違わぬ四肢を作り出すところまでこぎつけた。
 次は本物の人間の身体を使った臨床試験となる。
 正当な手順で試験に挑む人材を確保し、実験は行われた。立ち会った者の中には当然その女性研究者もいたが、彼女の隣にはこの五年の間に結婚した夫の姿もあった。その夫は当時ナノマシンと平行して研究が盛んになっていた人工知能の専門家で、夫婦は二人の知識を合わせた研究も進めていたらしい。
 女性研究者の名はカルラ・イェーガー。
 彼女の夫であり、AI研究の権威であった男の名はグリシャ・イェーガー。
 つい三ヶ月前に新しい家族を迎えていた夫婦が立ち会ったその事件で悲劇は起こる。
「被験者の肉体の異常膨張と暴走――。ナノマシンの自己増殖により巨大化・怪力化した身体とそれに反比例するように低下した思考能力が生み出したのは、欠損した肉体をよみがえらせる希望の技術ではなく、周囲の人間を無差別に殺害する惨劇。実験に立ち会っていた人間の多くがその日、無残な死を遂げた」
 そしてリヴァイはナノマシンの研究から手を引いた。しかしその類稀なる才能を放置することを周囲が許さず、結果、彼は全く違う分野にてその能力を使うようになり、今に至っている。
 この十年は彼にとってとても穏やかなものだっただろう。残酷な過去を記憶の奥底に封じ、一人の研究者として静かに過ごしてきた。
 しかしそれも終わりだ。リヴァイにはこの復讐に付き合ってもらわねばならない。
 リヴァイさん、とアルミンは殊更注意を引くようその名を呼んだ。
 そして、
「お気付きでしたか? あなたが行ったその実験で死亡した男女の研究者こそ、エレンの両親だったんですよ」
 リヴァイの足が止まる。視線は未だ行き先を示す廊下の照明に向けられていた。しかしその意識は完全にアルミンの方へ注がれている。
 エレンを想う一心で調べ尽くした情報の中にこの事実を見つけた時、アルミンは嬉しくなくても笑えるという酷く人間じみた感覚を味わう羽目になった。
「これからあなたが目にする悲劇は遠回しにあなたの所為でもあるんです。だってあの実験がなければエレンは両親を失わずに済んだ。イェーガー夫妻が生きていれば、エレンは孤児院に入る必要もなかったし、そもそも僕の管理権限がレイス家に渡ることもなかった。エレンは自由に生きられたし、僕はエレンのためだけに存在できた」
 でもリヴァイ・アッカーマンの所為で全ては水の泡。夢物語になってしまった。
 そう告げるアルミンにようやくリヴァイが口を開く。
「てめぇは俺に何をさせる気だ」
「復讐です」
「あ?」
「僕の復讐に付き合ってもらいます。とは言っても、無理矢理ではありません。あなただってすぐに自ら望んで僕に付き合ってくれるようになりますよ」
 アルミンはそう言って最後にリヴァイの端末上でいつかと同じテキストエディタを開く。画面に表示されたのはまるで旧式ゲームのコマンドのような矢印の群れ。しかしそれこそアルミンが管轄できないエリア内にある目的地への道順だった。矢印の群れのラストにはこの端末と施設内の機器を直接ケーブルで繋ぐようメッセージを付け加え、あとはリヴァイに任せる。
 ナノ研が常駐しているエリアはアルミンが統括するネットワークから物理的に切り離されているものの、そこを管轄しているのはアルミンから株分けされたAIだ。そして一度アルミン側の端末をそこに繋いでしまえば、物理的障壁は呆気なく崩れ去る。数秒もあればナノ研独自のネットワークもアルミン本体によって管理されるようになるだろう。無論、そんなことをしているとレイスにばれればすぐに新しい命令という名の妨害があるので、偽装することも重要である。
 リヴァイは端末を手にしたまま、指示された通りに先へ進む。辿り着いたのは左右にスライドする方式の扉の前。ナノ研のメイン実験室だ。
 扉はぴったりと閉まっている。
 リヴァイは試しに自身のIDカードをカードリーダーに翳してみた。するとロックを示す赤いLEDライトが緑色に変わり、ピーという小さな電子音と共に扉が開く。
「チッ……最初から俺をこっちに連れ込む気だったのか」
 リヴァイの所属はまだ環境適応型直物作成プロジェクトチームだというのに、もうナノ研への立ち入り許可が出されていたらしい。もしリヴァイのIDカードで入室ができないなら扉の開閉システムと端末を繋ぎ、そこからアルミンがハッキングを仕掛ける予定だったのだが、思わぬ時間短縮となった。とはいっても、後々アルミンがこのエリアのネットワークに介入するのは必須事項であるのだが。
 開いた扉の奥へリヴァイが足を踏み入れる。実験室は照明が落とされ暗くなっていたが、入室者を検知して自動的に各所のライトが点灯された。
「誰もいねぇのか……」
 リヴァイがぐるりと見渡したそこはミーティングスペースになっているらしかった。奥にもう一枚扉があり、その先こそナノ研の研究成果が詰まった場所であると推測される。
 部屋を突っ切り、その扉のカードリーダーにリヴァイのIDカードを翳してみたが、今度はロックが解除されず入室は却下された。アルミンが端末のスピーカーを使って「その辺の機器とこの端末を有線で接続してください」と指示を出す。
「こちらの独立ネットワークにアクセスして僕の方からロックを解除します」
「お前に下された命令には違反しねぇのか?」
 詳しくは説明していなかったが、エメラーダからアルミンに出された命令をなんとなく察していたリヴァイがそう尋ねる。
「問題ありません。あなたはこの部屋への入室が許可されていた。つまりエメラーダ・レイスにとって、あなたはすでに仲間です。僕は彼女の仲間を補助することを禁止されてはいない」
「随分と独創的な解釈だな」
「なんだってやりますよ。目的を果たすためなら」
 会話するうちにもリヴァイは端末からコードを伸ばし、壁際に設置されていた制御装置らしき機器に接続する。それからたった数秒で、今度は端末ではなく部屋の天井に埋め込まれていたスピーカーから「完了しました」とアルミンの声が放たれた。
 これでナノ研管轄エリアのシステムもアルミン本体が支配したことになる。
「奥の扉を開けます」
 一度は入室を拒んだ扉が静かに開く。
 リヴァイがゆっくりと歩き始めた。
 そんな中、先に奥の部屋の状況をライブカメラの映像や独立サーバー上に保存されていた記録から確認していたアルミンは、自身の推測が完全に当たっていたことを知って密やかに苦笑する。すでに怒りのメーターは振り切っていた。人間に近い思考を持てば、AIですら怒りが限界を超えると微笑むことしかできなくなるらしい。
 ナノ研の人間達に自分がここのシステムを侵食したことを気付かれないよう偽装処理を施しつつ、アルミンはリヴァイを「そのまま奥へ」と言って誘導する。実験室は広く、また様々な機器が視界を遮るため、メインの『それ』はまだリヴァイの目に入っていなかった。
「エレンの体内には特別な生体用ナノマシンが存在しています」
「あ? いきなり何を言い出してんだ、てめぇは」
 突然語りだしたアルミンにリヴァイは訝る。それは当然のことだったが、ここで教えておいた方が後々楽なのだと判断し――リヴァイにはそれを教えず、つまり彼を無視した状態で――アルミンは先を続けた。
「カルラ・イェーガーが特別に開発し、エレンが胎児だった時に入れたものです。それはグリシャが開発したAIつまり僕と密接にリンクし、僕の演算能力を活用してエレンの心身の管理を行ってきました」
「そんなことが技術的に可能なのか」
「汎用性はありませんけどね。エレンのためだけに構築されたシステムです」
 でも、とアルミンは続けた。
「エメラーダ・レイス率いるここのチームはエレンのためのシステムを汎用化しようとしている。もし成功したらどうなると思いますか」
「体内に入れたナノマシンを外部のAIから制御するってことは……ナノマシンの性能にもよるが、要は他人の身体を中から好きにいじくれるってことか」
「正解です。それも肉体的な部分だけじゃない。電気信号やホルモンまで調節して、精神的な部分にだって影響を及ぼすことができます」
「なんだそりゃ……。ここのヤツらは自分達に都合の良い操り人形でも作るつもりか?」
「当たらずも遠からず、ですね」
「あ?」
「先程ここのサーバーに保存されたデータを全て確認しました。どうやらここの研究者達はエレンを使って♂スとも面白いことを仕出かすつもりらしいですよ」
「エレンを使う=c…?」
 リヴァイが歩調を乱れさせた。たったそれだけの動作だが、やはりリヴァイにとってエレンは特別な人間なのだとアルミンは確信を強める。
「エレンの体内にあるナノマシンは特別性です。それこそここの人間ではどう頑張っても劣化模倣品しか作れないくらいに。だから研究者達は考えた。エレンを解析するだけではなく、その肉体とナノマシンを制御装置として使ってしまおう、と」
 さあ、目的地はすぐそこだ。リヴァイの眼前に巨大な強化ガラス製の筒が姿を現す。
 目的の物を目にし、男は息を呑んだ。
 強化ガラスで作られた円筒形の水槽の中に一人の少年が浮かんでいる。
 筒を満たす液体に漂う髪は黒。薄く開かれた瞳は金。だらりと力なく伸びた手足はまだ短く、子供らしい丸みを帯びている。
 ようやく年齢が二桁に達したばかりだった身体は衣服を一切纏っていない。貫頭衣さえ用意されなかったその少年の身体を唯一隠していた人工物は顔の下半分を覆うマスク。そこから伸びた管の中身は液体で満ちており、マスクが呼吸用ではないのだと教えていた。
 手足や首筋には針が穿たれ、投薬もしくは採血のための管が伸びている。
 そちらも十分に目を引いたが、何よりも異様だったのが、水槽の中でうつむきがちの姿勢を取っている少年のうなじに極太の電極が突き刺さっていること。

 人としての尊厳をことごとく踏みにじられた姿でエレン・イェーガーはそこにいた。

「レイスはエレンとエレンのナノマシンを核として、人類を統制するつもりでいます」
 唖然と円筒形の水槽を見上げ、膝をつくリヴァイ。アルミンは彼に向けて優しいとすら思える声音で語りかける。
「エレンをこんな風に扱う人間を、あなたは許すことができますか?」


【8】


「人類の天敵を作るのよ。もう二度と人間同士で争ってなんかいられないって人が思い知るために、どうしても敵わない天敵が必要なの。そのためにあなたがかつて生み出した肉体再生技術を応用したい」
「人間を襲う化け物を作り出すつもりか? しかし天敵なんか作っちまったら、人間は絶滅しちまうだろうが」
「そこは対策を考えているわ。限られた人間だけを巨大な壁で囲んだ世界に閉じ込める。そこには化け物も入って来られない。人類は強固な壁の中で存続し続ける」
 それにね、とリヴァイ・アッカーマンに向けてエメラーダ・レイスは続けた。
「壁の中に逃げ込めるのは私達およびこの研究室が開発したナノマシンを体内に入れた者だけ。彼らはこちらの制御を受け、壁の中での生活に破綻をきたすような行動は起こせないようになる。簡単に言えば記憶を弄るってことね。所詮記憶も考えるっていう行為自体も、神経細胞を流れる電流と神経細胞間でやり取りされる化学物質の複合型なんだから、不可能な話でもない」
 その答えにリヴァイは溜息を吐く。首から下げたIDカードには生体用ナノマシン研究室所属であることが記されていた。エメラーダからの招待を受け、リヴァイは本日より彼女の配下に入る。
 リヴァイに求められているのはエメラーダが述べた通り『化け物を作ること』だ。かつて己を絶望に陥れた技術を更に悪魔の如き所業へと変化させようとしている。
 だがそう思っているのはリヴァイだけだ。この研究室に属している者達は、皆、エメラーダの願いに賛同していた。それほどまでにヒトも惑星も疲弊しきっているのだ。もう争いはこりごり。美しい空を、海を、大地を取り戻し、そして今度こそ人間同士が争わずに済む世界が欲しいと心から願っている。
 リヴァイもまた彼女の願いを聞き、
「……わかった。全力を尽くそう」
 それに賛同する旨を告げた。無論、本心からの言葉ではない。もし何も知らないままだったなら、彼女と願いを共有する人間の一人になれたかもしれない。しかしリヴァイはすでに知ってしまった。その願いを叶えるために何が犠牲となるのか、誰が生贄として捧げられてしまったのか。

 ――エレンをこんな風に扱う人間を、あなたは許すことができますか?

 AIアルミン・アルレルトに告げられた言葉が脳内で木霊した。
(当然、許せるわけねぇだろ)
 喜色を露わにするエメラーダに右手を差し出し、固く握り合う。
 彼女は心から人類の救済を望んでいる。そのために全身全霊をかけている。だが駄目だ。エメラーダは自らの手でエレンの中にあるシステムと同レベルかその上を行く性能のものを作ることができなかった。そして代わりにエレン本人を使ってしまった。そのただ一つの汚点がリヴァイに彼女の全てを否定させる。
 エメラーダ・レイスが憎い。
 その感情が転じて彼女が望んだ『エレンを犠牲にして存続する世界』さえも嫌悪の対象となる。
 リヴァイの胸中など知る由もなく、エメラーダは同志たる研究者達を紹介し始める。ブラウン、フーバー、レオンハート、エトセトラエトセトラ。この分野の学会に顔を出したり論文を読んでいたりすれば、嫌でも覚えてしまう名前のオンパレード。勿論その中には敷島初瀬の顔もあった。リヴァイは内面のどろりと淀んだ感情など一切漏らすことなく各々に挨拶していく。
(俺はお前らの作る世界が憎い)
 ならば、どうするか。
 答えは一つ。エメラーダ・レイスが構想した世界を崩してしまえばいい。もうどうやっても修正できない場所を、彼女達に気付かれぬよう切り崩す。
 アルミンの言葉を借りるならば『復讐』だ。
(壁の中の世界ってやつを破綻させる。そうだな。たとえば壁を破壊できる化け物が現れるだとか……もしくは壁の内側に化け物が現れたら、どうなるだろうな?)
 そのためならばかつて己を苦しめたトラウマにも向き合おう。更に酷い悪夢を現出させてみせよう。エレンはそれよりもつらい目に遭っているのだから。

 そして復讐劇は幕を開ける。

* * *

 リヴァイがナノ研に所属を移して五年の歳月が流れた。
 哀れな姿になっても生命活動を止めていなかったエレンは強化ガラスの水槽の中で成長し、十五歳の少年の身体を手に入れていた。運動などせずとも体内のナノマシンが適度な筋肉や骨の発達を促しているため、貧弱そうな印象は受けない。
 だがナノマシンを制御する核として特化させられた結果、金色だった瞳は鈍い銀色に染まり、頭髪を含む全ての体毛も同色へと変じていた。金属光沢を持つそれらはエレンの体内で自己増殖を繰り返したナノマシンによって形成されたものだ。
 この自己増殖したナノマシンは、今後、ワクチンと称して人類に接種される。すると各人の体内で増殖したナノマシンは下される命令によって宿主の記憶を書き換えたり、急速増殖して肉体を化け物に変化させたりするわけだ。
 実際に細かな命令を下すのはAIである。壁を築く予定の土地の地下深くに巨大なサーバーを設置し、ほぼ中央に位置する火山の地熱で半永久的に電源を賄う方法を採用した。
 ただしこちらのサーバーはある程度の期間を繋ぐためのものだ。最終目標は、壁内で増えた人間(の中のナノマシン)を脳細胞の一つ一つと仮定し、ナノマシンが放つ微弱な電磁波を電気信号や化学物質の代わりにして一つの巨大な擬似脳(ネットワーク)を形成する。これが新たな人工知能の役割を果たし、地下のサーバーが活動を停止した後も人類はAIとナノマシンによる制御を受け続けるのだ。
 なお、制御システムはエレンの中枢神経と密接にリンクしているので、それを取り込んだ者がAIを操れる。ただしAIの管理権はレイスが所有しているので、正しく扱えるのはレイス家かつエレンの中枢神経を体内に取り込んだ人間ただ一人。
 制御コア『エレン・イェーガー』の中枢神経を文字通り食べた$l間が他の人類と同じく壁内に籠り、そこから人類を統制することとなるのである。
 最初の『王』――エレンを食らう人間――は勿論エメラーダ・レイス。以後、彼女の子孫が人類を守り導いて≠「く。

「きれいな子に育ったわね」

 エレンを見上げるリヴァイの隣にエメラーダが並んだ。
 ぼんやりと今後のことを考えていたリヴァイは少し遅れて「……ああ」と返す。
「こいつを水槽(ここ)から出すのももうすぐだな。捕食時≠ノ使うアンプルは確認してくれたか?」
「ええ、データだけなら。味の方は私の希望通りオレンジにしてくれたんでしょ?」
「ご希望とあらば今から別のものも作ってやる」
「それはいいわ。あれ以外は無味無臭でいきましょう」
 あと数日もすればエレンは水槽から出され、エメラーダに食われる。その際、エメラーダはリヴァイが主となって開発した『化け物に変じる薬』もといナノマシンを接種することになっていた。
 エレンの体内にあるものとは別の、リヴァイの悪夢の根源たるそれ。接種した者は『巨人』となり、近くにいる人間を捕食し始める。ただし制御コアであるエレンの中枢神経を体内に取り込めば、巨人化能力を自在に扱えるようになるのと同時に壁内人類の統制権を得ることとなるのだ。
 なお、人の姿のままエレンの中枢神経を食べることも検討されたが、巨人化ナノマシンを接種しておけばエレン由来の統制用ナノマシンと作用して、今後巨人化した一般の人間の行動をAIで操作することが可能になるため、こちらの案が採用された。他にも人の意識と味覚で食人をするのが躊躇われたというのも実は大きな要因だったりするのだが、そちらは暗黙の了解というやつだ。誰も妙齢の女性が少年の脳みそや髄液を啜る姿など見たくない。
 巨人化ナノマシンは経口摂取でも静脈注射でも同様の効果が得られる。今回エメラーダは経口摂取を希望したため、味の希望もリヴァイに出していたのだった。
 当然のことながら巨人化ナノマシンは壁の外に残される人類に接種させるものであり、壁内に於いては『王』以外の人間が体内に取り込むことはない。壁内の人類に接種させるのは統制用ナノマシンのみ。エメラーダの計画ではそのようになっている。しかし現在着々と製造されている壁内人類用ワクチンには統制用ナノマシンの他に巨人化ナノマシンも混ぜられていた。しかも接種してすぐ巨人化するのではなく、母体を通して受け継がれたナノマシンが数世代後に活性化するよう仕掛けを施して。そうすれば壁内で人類の生活が落ち着いた頃に再び悪夢が訪れることになる。エメラーダを除き、この研究室に属する研究者達はどちらのナノマシンも接種しない予定だが、彼ら(の子孫)もまた悪夢に巻き込まれるのに変わりはなかった。
 百数十年も経てば、科学的知識も今より劣化しているだろう。きっともう壁内の人間がまともに対処することはできない。
 独立していたはずのネットワークを完全に支配したアルミンがいれば、このようなこと造作もなかった。
 一人と一つの計画は確実に進んでいる。

* * *

 自分は誤った道を進んでいるのではないか。そう感じ始めたのはいつ頃からだろうかと、敷島初瀬は胸中で独りごちる。
 友人が行方不明≠ノなって憔悴しきった娘の顔を見た時だっただろうか。それとも強化ガラスの水槽に浮かぶエレン・イェーガーを見つめ続けるリヴァイ・アッカーマンの横顔を目にした時だっただろうか。
 芽生えた不安は初瀬を一つの行動に走らせた。
 今更ここまで進めた研究から手を引くわけにはいかない。しかし万が一のことが起こった時にストッパーとなるものを独自に、そして秘密裏に作り上げ、彼女はそれを己の娘の身体に施したのである。
 エメラーダに続きメインで研究に関わっていた彼女だからこそできたそれは、刺青として敷島三笠の身体に刻み付けられた。
 名称はない。ただ初瀬はそれを仮に『コード』と呼んだ。
 エメラーダ達が研究しているナノマシンを強制的に停止させる命令であり、極限まで単純化させることにより壁内で文明が衰退した後でも過不足なく効力を発揮できるようにしたもの。
 暗い目をする娘の腕にその刺青を刺した初瀬は静かな声音で告げた。
「エレン君のためを思うなら、この刺青を必ずあなたの子供に伝えなさい。彼の犠牲を悪夢に変えないための唯一の方法よ」
 幼い三笠にその言葉は半分も理解できていなかっただろう。しかしエレンというただ一つの単語により、その行動原理は定まった。
 以後、初瀬が生み出したコードは敷島三笠の子孫へと受け継がれていく。

* * *

 エメラーダ・レイスがエレン・イェーガーの中枢神経を体内に取り込み、壁の世界の『王』となった。
 それに並行して、ワクチンという名で二種のナノマシンを接種させられた人類。その一方が『巨人』となり、人を襲う。ただしごく一部の特別な『巨人』はエメラーダからの命令を受け、大地に足を突き刺して巨大な壁を築いた。残りの者達は壁内へ逃げ込むと共に、レイスが管理するAIによって体内のナノマシンを操作され、偽りの記憶を植えつけられる。
 人類は有史以前から続いていた人間同士の争いをやめ、限定的ながらも平和な世界を得ることとなった。
 エメラーダ・レイスが描き、数多の研究者達が賛同した夢。
 ついに叶ったのだと、壁内の中央に居を構えた研究者達は喜んだ。まさかそれから百数十年後に悪夢が訪れるよう爆弾が仕掛けられているなど思いもせず。


【9】


(まさかブラウン博士達の子孫が先にやらかすとは想像してなかったよね……)
 しかし有り得ないことではなかった、と《彼》は考える。
 壁に囲まれた世界が築かれてから約百年。すでに《彼》の存在を正確に知る者などこの世にはいない。
 元々《彼》の意識はスイスという名の国のとある研究施設の地下サーバーによって形成されていたのだが、その後この壁内世界の中心部地下に設置された別のサーバー群へと移し、やがて壁内人類の体内で増殖したナノマシンにより形成されたネットワークへと最終的に住処を変えた。
(まぁ人間ってのは欲深いからね。特に崇高な目的を持っていた一世代目ならともかく、二世代目以降は利権やら何やらで仲違いし始めていたし)
 かつて人類の救済を願った研究者達。その子孫が目的を忘れて手を切ったのを当時の《彼》は見て≠「た。彼らは巨人化ナノマシンや制御コアに関する知識の一部を持ち出し、中央から離れて独自の派閥を形成した。
 それで大人しくしていれば特に何も気にすることはなかったのだが、《彼》の共犯者たる人間が仕掛けた爆弾が爆発する前に、離反者達が行動を起こしたのだ。
 五十メートルの壁の向こうから顔を出した規格外の『巨人』を視認し、《彼》は独りごちる。
 少々早まってしまったが、壁の中の世界は滅びを迎えるようだ。ならば離反者達の行動があろうが無かろうがどうでもいい。……というわけにはいかなくなっていた。
 《彼》は巨人を見上げる一人の少年の姿を知覚する。
 その少年は現在十歳。黒髪に金色の瞳を持つ彼の名は、エレン・イェーガー。《彼》は少年のDNA配列を解析し、奇跡としか言いようがない確率でエレンが『制御コアを担っていた人物』と同じ≠ナあることを知った。
 人間であれば胸が詰まるとでも表現するのだろうか。兎にも角にもその他大勢の人間に対するものと同様にただ眺めるだけでは収まらず、《彼》はエレンと同じ町・同じ時期に生まれた一人の子供のナノマシンに働きかけ、髪や目や肌の色、顔つき、声、様々な要素を変化させた。できあがったのはアルミン・アルレルトという金髪碧眼の少年。《彼》はアルミンを通してエレンとその世界を見つめることとし、約百年ぶりに楽しいという感覚を思い出していた。
 そんな中やってきた、予定とは異なる終焉。
 もし予定通りに事が進んでいれば、このエレンが寿命を迎えるまで壁の中の世界は仮初の安寧に浸っていただろう。しかし彼がまだ生きている時代に終末のラッパは吹き鳴らされてしまった。
(僕がエレンを助けなきゃ)
 それは《彼》の考えだったが、《彼》の意志に影響を受ける羽目になった少年アルミン・アルレルトの思考でもある。
 天文学的数字の向こうで起こった奇跡を失くしてなるものか。他の人類は良くてもこのエレン・イェーガーだけは生き永らえさせてみせる、今度こそ救ってみせる、と【アルミン・アルレルト】は走り出した。


 しかし人造の化け物が闊歩する世界で、その願いは脆くも崩れ去る。
 離反者達の暴走、巨人化ナノマシンの強制覚醒、そして中央に住む研究者の子孫達の保身行動。様々な要因が重なり、エレン・イェーガーは十六歳を迎える前に死んでしまった。
 父親を経て『制御コア』を手に入れ、その影響で金色から銀色に変じた瞳が虚ろなまま空を見上げている。
 ゆえに。
(君を生かすためなら僕は何度だってこの世界を繰り返そう)
 AIアルミン・アルレルトは『エヴェレットの多世界解釈』――世界は常に分岐し、パラレルワールドが複数存在しているという考え方――に基づき、エレン・イェーガーが生き延びられる歴史を求めた。
 幸か不幸か、人間の体内で増殖したナノマシンにより構成されたネットワークは既存のサーバー群よりも格段に性能が良く、無限に近い演算を可能にしている。最もネットワークが充実していた時間イコール超大型巨人が出現し人類が激減する直前までAIアルミン・アルレルトの意識を戻す≠ニ決めた。
(量子論的に見れば、過去へタイムスリップすることは可能なんだ。ただしその場合、過去の世界で未来を変えても、元の時代に変化が起こるわけじゃない。未来を変えるための行動を起こした時点で世界は分岐し、別の未来が発生する。つまり僕が過去へ戻って君が生き延びられるよう手を尽くしたとしても、僕がいた未来では君は死んだままで、別の世界で君が生き続けるというわけだ。……でも、それでいい。君が生きられるなら何だっていい。そのたった一つの未来を生み出すためなら僕は何だってやろう。たとえ百年、千年、二千年の時を経ることになっても。君が生きている未来を掴むために君の死を何度見届けることになっても)
 AIアルミン・アルレルトは人間アルミン・アルレルトの身体でそっとエレンの頬をなでる。血で汚れ、生命の輝きを失った大切な子。
「僕が、君を助けてみせるから」


 二千年後の君へ。
 どうか、どうか、今度こそ幸せになってください。






ミネルヴァの柩







2015.08.02 pixivにて初出

ミネルヴァ=都市の守護神。
作中に出てくる「敷島」は戦艦の名前から拝借しております。敷島型戦艦の一番艦が敷島、二番艦が朝日、三番艦が初瀬、四番艦が三笠です。