巨人はいなくなり、ヒストリア・レイスが女王として民衆を導き、そんな彼女を仲間達が支える。まさに大団円。ハッピーエンドが訪れた。
人々は壁の外の世界に踏み出し、幾多の困難を乗り越えて『自由』を掴み始めている。しかしそうやって外の世界へ出て行く者達の中に、何よりも誰よりも強く自由の証明を求めた少年の姿は無かった。 「――ッ!」 痛みに全身を苛まれ、しかし身を縮めることすらできない少年が一人、粗末なベッドの上で身体を横たえている。 太陽の光が差し込まない暗い地下室で、唯一の光源はチェストの上に置かれた蝋燭が一本。少年の声なき悲鳴に合わせて小さな炎は揺れ、それに照らされて空気中に漂うチリらしきものがキラキラと輝いた。 ピシ、ピシ、という何かが割れる微かな音。それは痛みに悶える少年のほんの僅かな身じろぎに伴って生まれている。その音の発生源こそ、空気中に舞い、蝋燭の炎を受けて輝くものの正体だ。 パキン、とひときわ大きな音が鳴った。ベッドの上の少年は片方の目を見開く。だが声は発せず、それどころか指の一本すら満足に動かせない。悔しげに噛み締められた唇。ぐっと眉間に皺が寄り、吊り上り気味の大きな目からは透明な雫が零れ落ちた。 ――どうして。 声なき声を発する。読唇術に長けた者でも今の少年の唇の動きを正確に読むのは難しいだろう。それほどまでに少年の動作は本人の意思に反して小さく弱々しいものだった。 ――なんで。 右目から零れ落ちた涙がこめかみを伝い、黒髪に吸い込まれる。 ――おれは、こんな。 激情に喉が震える。声の代わりに、またピシピシと何かが割れる音。少し高めのそれはガラスにヒビが入る音に似ている。 その時、別の音が少年の耳に届いた。底の固いブーツが石の階段を下りてくる音。そしてこの部屋に通じる扉に手を掛ける音だ。 キィと僅かな軋みを奏でて、蝋燭に照らされる暗い部屋に新たな人影が現れた。 少年にはそちらを向くと言う動作すらできない。だが現れたのが誰かは知っていた。聞き慣れた音だから判別できた――……と言うよりも、この部屋を訪ねる人間など一人しか思い当たらなかったからだ。 部屋にやって来た人物がベッドに近付き、そこに仰向けで横たわっている少年を見下ろした。黒髪を刈り上げた、鋭い目つきが特徴的な成人男性だ。 「…………エレン」 ――はい、リヴァイ兵長。 横たわる少年――エレンを見下ろすのは、彼の上官であり監視者であり守護者であった調査兵団リヴァイ兵士長。 リヴァイはエレンの状態を観察し、眉間に深い皺を刻んだ。 ハッピーエンドを迎えた世界。しかしその結末に最大の貢献をしたと言っても過言ではないエレン・イェーガーは、彼の望みを最悪の形で裏切る状態に陥っていた。 ピシピシと割れる音がする。ガラスのように硬化し透明度が増したエレンの身体がひび割れ、あるいは剥離する音だ。割れて弾けたエレンの身体だったものは小さな破片となって空気中に漂い、蝋燭の光を受けて輝く。 今やエレンの身体は関節部を中心に至る所で結晶化が進行していた。 まるで細胞と水晶を入れ替えているかのように、日々エレンの身体は冷たく硬質な何かに置き換わっていく。最初は腕や足の動きに小さな違和感を覚える程度だった。しかしそれはやがて表層に現れ、エレンの自由を奪っていった。 蝋燭の明かりを反射してキラリと輝くエレンの身体。もう無事なのは心臓の周辺と顔の一部のみ。顎の一部と左目はすでに結晶と化し、その役割を満足に果たしていない。残った右目からまたひとしずく涙が零れ落ちた。 物も食べられず、けれども巨人化の能力の影響かすぐに餓死することもなく、エレンは緩慢に衰弱していく。己が身の自由を奪われる恐怖に晒されながらじわじわと、身体だけでなく心まで侵すように。 「エレン……」 リヴァイはベッドの傍らに膝をつき、ガラスより脆くなったエレンを壊さないようそっと手を伸ばす。まだ人の肌の質感が残る右の目尻に指を這わせ、零れ落ちる涙を拭った。 「どうして」 震える声でリヴァイは呟く。 「なんで」 それはエレンと同じ思いだ。 「お前は、こんな」 どうしてエレンがこんな目に遭わなければならない。何よりも誰よりも強く自由の証明を求めたこの子供にこそ、世界を、全てを、見る権利があるのではないのか。 エレンの状態を知った時、一部の――どこまでも合理的に物事を判断できる頭を持った――人間は、ほっと安堵したと言う。これで『最後の巨人』の行く末を憂慮せずに済む。自分達が手出しせずとも巨人は滅ぶ。いなくなる。ゼロになる。人間の脅威は完全に取り払われる、と。 そこにエレン・イェーガーという個人の意思は関係ない。巨人の力を持つエレンが生きて存在していると言うこと、それ自体が彼以外の人間の恐怖を煽り、不安を増し、世の混乱を招いてしまうのだ。 リヴァイとてその考えは理解していた。だから人知れず胸を撫で下ろした施政者達に剣を振り下ろさなかった。しかしそれだけだ。リヴァイはこんな可哀想な子供一人救えない。 ヒストリアと彼女の仲間達の手引きでなんとかこの場所に匿えたものの、リヴァイにできることと言えばエレンが完全に息を引き取るまで静かに見守り続けることのみ。公式的にはすでにエレンが死亡したことになっており、ここを訪ねる人間は他に誰もいない。 暗くてさみしい、いっそこの手で死なせてやった方が良いのではないかと思えるようなこの場所で、リヴァイはエレンに残された時間を見つめ続ける。 肉体の結晶化には痛みが伴い、進行するたびにエレンは顔をしかめた。リヴァイがエレンの脚の方を見ると、片方の腿の部分に大きな亀裂が入っている。更にその先、足の指先は完全に砕け、砂と化していた。一部は空気中に漂い、リヴァイが吸い込む中にも紛れ込んでいる。結晶化は人の形を残すことすら満足にさせてくれないらしい。 エレンの結晶化が進む中、リヴァイはある一つのことに気付いた。元々空気中を漂うエレンの身体だったものを吸い込むことに抵抗はなく、ただ己の無力さを噛み締めながらこの部屋に通っていたのだが、少し前から肺に痛みを覚え始めたのだ。今では咳き込み、真っ赤な鮮血を吐き出してしまうこともある。 そう。この輝くチリは呼吸によってリヴァイの身体に取り込まれ、肺を傷付け続けていたのだ。 しかし気付いたからと言ってリヴァイがこの部屋から遠ざかることはなく。むしろより一層、この部屋で過ごす時間は増えていった。 (お前に殺されるなら、それもいい) きっとエレンはそんなことを望んでなどいない。知ればきっと大激怒するだろう。 それでもリヴァイはエレンだったものによって死ぬ未来を思うと、恍惚とし、また心穏やかになれた。 ピシピシとエレンが壊れる音。空気中でキラキラ輝く結晶。リヴァイは深く息を吸い込み、『エレン』を身体に取り込む。 救ってやれない哀れな子供に、せめて殺されてしまいたい。こんな子供一人助けてやれない自分には、もう、光など要らない。 「エレン……エレン……」 リヴァイは手を伸ばし、結晶化しきったエレンの手に触れる。指先が砂糖菓子のように脆く崩れ、小さな欠片が舞い上がった。 呼吸する者の肺を刺して侵す、死の欠片。美しい、美しい、エレン・イェーガーのなれの果て。 それを深く吸い込んで、リヴァイは口の端を持ち上げる。 この想いを、執着を、何と呼ぶのだろう。 エレンの片目からまたひとしずく涙が流れ、こめかみを伝い、髪の間に消えていく。そして涙の痕を這い上がるように結晶化が進んだ。しかし涙は止まらない。次から次へと流れ落ち、結晶化した皮膚の上を伝い落ちる。 「――っ」 死にたくない。離れたくない。 エレンもまた自身が抱えるこの感情の名前を知らない。ただ死への恐怖と、それからリヴァイが傍にいると言う微かな安堵だけが胸を占めていた。 消えた蝋燭。動くもののない暗闇。 ベッドには水晶を砕いたかのような砂が縦長の山を成し、そのベッドに寄りかかったまま動かなくなった男が一人。 誰もいない。 誰も生きていない。 閉ざされた部屋に風は吹かず、熔けた蝋燭に火はつかず。 そこには死だけが存在していた。 光あふれる外の世界では人々が自由を謳歌している。 少年のカラダはうつくしいモノで出来ていた
2015.04.21 pixivにて初出 |