吾輩は猫である。よって某有名文学の書き出しがどのようになっているかなども知らない。ともあれ吾輩は猫であり、更に付け加えれば家と言う檻の中に閉じ込められ安寧を貪る軟弱者どもとは一線を画す、所謂『野良』というやつだ。自由を愛する猫と考えてくれればいい。
 そんな吾輩は野良として数多の人間と関わりを持っている。そいつらは吾輩をそれぞれ好き勝手な名前で呼んだ。野良の先輩方に聞いた所、以前は『ミケ』やら『タマ』やら『ミー』やらそういう名前が多かったらしいが、吾輩はもう少し捻った名前を付けられている。
 そうだな。ひとまずここ、川のすぐ東側にある一軒家。母親と父親と息子の三人家族の例を紹介しよう。家を空けていることが多い父親と吾輩が交流を持つことは無いに等しいのだが、代わりに息子の方とは良く顔を合わせている。そいつは毎日吾輩のために美味なる食事を用意しているのだ。その素晴らしい食事を供する礼と言ってはなんだが、吾輩はこの息子の相手を頻繁にしてやっている。
 息子は銀色の大きな目をしており、吾輩が近寄ってやるといつも嬉しそうにする。それから決まって「こんにちは、兵長」と吾輩を呼んだ。次いで「ご機嫌いかがですか?」「今日の食事はどうでしたか?」などと尋ねて来るので、吾輩は律儀に「悪くない」と答えてやる。こいつら人間に吾輩達の言葉が通じているようには思えんのだが、ともあれそう答えてやれば、息子は毎度「良かったです」と微笑んだ。
 ある日、満腹の状態で毛づくろいをしていると、息子は「さすが兵長、綺麗好きなんですね」と言ってきた。特に何か答えてやる必要もないと思ったので毛づくろいを続行していると、息子は吾輩の傍にやって来てその場にしゃがみ込む。
「オレ、昔兵長に教えられたことをちゃんと活かして今でも掃除に手は抜いてないんですよ」
 ほうほうそうか。しかし昔とは一体何だろうな? 吾輩は人間の掃除の仕方をこの息子に教えたことなど無いのだが。まぁ人間が吾輩に誰かを重ねるということは今まで一度もなかったわけではないので、今更気にするつもりもないが。
「リヴァイ兵長」
 そう言えば、この息子は吾輩のことを普段『兵長』と呼ぶが、時折こうして前に別の名前を付けてくる。ひょっとしたらフルネームが『リヴァイ兵長』で、愛称が『兵長』なのだろうか。毎日よく尽くしてくれるこの息子ならばどちらで呼ばれたとしてもきちんと返事をしてやっても良いと思っているがな。
「兵長、へいちょー。もうちょっとオレに構ってくださいよ。掃除のこと、褒めてくれなくても良いですから、ね。それともやっぱり『甘えんじゃねぇ』って怒ります? やっぱり兵長ですもんね。でもそれも格好いいです。さすがオレの憧れの人だ」
 しゃがみ込んで、折った膝の上で腕を組んで、その上に頭をこてんと乗せて覗き込んでくる息子。どれだけ身体を折りたたんでも人間だから吾輩より随分大きい。しかしどうしてだろうか。どうにもこうにも、子猫に感じるような庇護欲がこいつを見ていると湧いてくる。うむむ。吾輩は母猫ではないのだが……。
「兵長」
 息子が吾輩を見て銀色の目を細める。そしてこちらに手を伸ばし、吾輩自慢の黒い毛をそっと撫でた。本来なら人間になど触らせたくないのだが、まぁこいつは特別だ。
「へいちょう」
 はいはい何だ。
「リヴァイ、へいちょう」
 吾輩を撫でる手は優しく、声も穏やかだ。しかしその名を口にした息子は、どこか寂しそうな顔をしていた。
 息子は吾輩に触れたまま目を瞑る。
「あいたいです」
 それは誰に向けた言葉だったのか。


 あの三人家族が住んでいる家から川を挟んだ正面、西側。橋を渡ってすぐの所に大きな建物が建っている。三人家族が住んでいるのは一軒家、大きな建物はマンションと言うらしい。
 そのマンションの住人の一人に、目つきの悪い小柄な男がいる。小柄と言っても勿論それは人間の、そして成体となったオスの中での話だ。吾輩よりはずっと大きい。が、あの銀色の目をした息子よりは小さい。息子はまだ成体ではなかったはずなのだが。
 小柄な男は朝早く棲家を出て、毎日夜遅くに帰ってくる。何故吾輩がそのようなことを知っているのかと言うと、吾輩の縄張り巡回の際によく遭遇するからだ。しかもそいつは吾輩を見つけると鞄に忍ばせていた煮干しやら猫用オヤツと書かれた美味い物を必ず出してくる。そして、
「よう、エレン」
 吾輩のことをそう呼んだ。
 いつも仏頂面のくせに名を呼ぶ時は鋭い目を少しだけ緩める。それが笑みだと気付いたのは結構前だ。顔つきは随分違うが、あの息子が笑った時と同じような雰囲気を出しているからな。
 今夜は煮干しを出してきた男の方へ吾輩は近付いて行く。ふんふんと匂いを嗅いだ後、手から直接煮干しを食した。全部食べ終わった後、美味かったと一言鳴いてやれば、男は「そうか」と言ってまた微笑む。それをじっと見つめていると、男は吾輩を眺めながら誰に聞かせるためでもなく呟いた。
「やっぱりお前の目は冬の月みてぇだな」
 冬の月。夜空に浮かぶ銀色の満ち欠けする円のことだ。月は年中空にあるが、空気が冷たい季節は特に冴え冴えとした色合いになる。吾輩は自分の瞳の色など知らぬが、男がそう言うのならそうなのだろう。ああ、だったらあの息子の瞳も『冬の月』だ。
「悪くない」
 男はそう言って吾輩の頭を撫でた。ふむ、こいつは冬の月が好きなのか?
 吾輩は男を見上げつつ、橋を渡ってすぐの所に住んでいる息子のことを思い出した。あいつの目は大きいから、この男もあの目を見たなら嬉しく思うかもしれない。
 だが残念なことに、男が帰って来る時間はいつも夜遅く、息子とは簡単に会わせられそうにない。もうちょっと早く帰ってくれば良い物を見せてやれたのに、と吾輩は不満をぶつけるように鳴いてやった。
「あ? なんだお前、俺に何か言いたいことがあるのか」
 あるとも。たまには明るいうちに帰って来い。せめて太陽が赤い頃に。お前、いつも空が真っ暗になってからじゃないと帰って来ないだろう。それだから良い物を見逃すんだ。


 男に息子を見せてやろうと思った夜から何日か経ち、実はそう思ったこと自体を忘れそうになっていた頃、吾輩は男がまだ明るいうちに帰宅したのを見つけた。それまでの数日間、男が帰宅した気配が無かったのだが……一体どういうことだろうか。
 吾輩は一声鳴いて男に近付いて行く。
「ああ、お前か。出張でしばらくエサやれてなかったな。悪かった」
 しゅっちょう? 何だそれは。そいつの所為でお前はここしばらく姿を見せず、そしてこんな明るい時間帯に帰って来たということなのか。
 吾輩が首を捻っている間に男が鞄から吾輩のためのオヤツを取り出した。うむ、頂こう。
 そうして手のひらに出されたオヤツを平らげた後、吾輩は思い出した。こいつに冬の月を見せてやる絶好のチャンスではないか!
 早速吾輩はヤツに背を向け、「ついて来い」と鳴いた。男は訝しげな顔をする。だがもう一度鳴いてやれば「ついて来いって言ってんのか?」と言いつつこちらに近付いてくる。そうだ、そのままこっちに来い。吾輩は橋に向かって歩き出した。
 マンションの敷地を抜け、橋を渡り、まだまだ進む。さぁさぁついて来い。こっちだこっちだ。お前に吾輩が知っているとっておきの月を見せてやろう。あの息子はとても良くできた息子だ。
「おい、待て!」
 む。逸る気持ちが抑えられぬというやつだったか。男が駆け足になっている。どうやら吾輩はかなり本気で走ってしまっていたらしい。だがそう距離も無い場所だ。姿を見失うこともないだろう。
 吾輩は一足先に件の家に辿り着き、息子を呼ぶために大きな声で鳴いた。すると数度の呼びかけで息子が家から出てくる。
「あれ、兵長? 今日は早いですね」
 ああ。お前を見せてやりたいヤツがいたからな。
 そう告げつつ吾輩は追いついてきた男に向き直る。すると吾輩が見た方向を息子も見た。と同時に、男が吾輩の向こうにいる息子を見つける。
「「……あ」」
 その声は同時。吾輩の前後から聞こえた。
「へい、ちょう……?」
「エレン……?」
 おや。吾輩は男の笑顔を知っていたつもりになっていたのだが、どうやらあれは男の一番の笑顔ではなかったらしい。息子を見つけた男の顔は破顔と称するに相応しい顔つきをしてみせた。
 吾輩の横を男が擦り抜けて行く。振り返った吾輩が見たのは、息子を抱きしめる男の姿。
 ……ふむ。吾輩はお邪魔かな?
 尻尾を一振り。吾輩は鳴くことも足音をさせることもなく二人に背を向ける。
 後日、この二人からいつも以上に豪華な食事が供されたことをここに付け加えておこう。













2015.02.22 Privatterにて初出→同日pixivにもアップ

twitterにて開催されておりました「リヴァエレ版深夜の真剣文字書き60分1本勝負」のお題「猫」挑戦作品でした。