【1】


 ドラゴン(竜)とは悪の象徴である。
 かつて人々が壁の中に逃げ込むよりも前、『宗教』というものが当たり前のように彼らの傍に寄り添っていた頃、とある巨大な宗教においてドラゴンとは邪悪な生き物であると定義され、悪魔と同一視されていた。
 しかしながら、ヘビやトカゲのような爬虫類に翼がついた姿で描かれるそれらは、ただの空想上の生き物でしかなかった。おとぎ話の中でのみ、ドラゴンは人々を苦しめた後、勇敢な騎士に剣で貫かれ、また聖女によって浄化される。
 はず、だったのだが。
 人々が『巨人』という人類の天敵の出現により三重に築かれた壁の中に逃げ込んだ後、ドラゴンとしか呼びようのない生物もまた姿を見せるようになった。巨人と同じく、体長は数メートルから十数メートルというバラつきがあるものの、いずれの個体も人間と比べればあまりにも巨大。また人間を好んで襲うとされていた。
 そして何より人間がドラゴンを恐れたのは、そういった性質を持ち合わせ、更に奴らが壁を越えて移動できるという飛行能力を持っていたことである。ドラゴンはその背に生えた翼で、巨人さえも防ぐ高さ五十メートルの壁を悠々と飛び越えるのだ。
 せめてもの救いは壁の外にうじゃうじゃと存在している巨人と違って滅多に姿を現さないことだった。おそらく奴らの個体数はとても少ない。もしドラゴンが巨人と同数――否、今よりもう少し多く存在していたなら、人類はあっという間に滅ぼされていただろう。
 ただし人類も指を咥えてドラゴンに捕食されるのを待つだけではない。
 まず人々は喫緊の課題である巨人をどうにかするため、立体機動装置と半刃刀身という武器を作り上げた。それはうなじを弱点とする巨人を人間の力で屠るためのものだったが、やがてその武器は巨人だけでなくドラゴンの討伐にも応用されるようになったのである。


「各兵団から精鋭を選んで竜退治だ?」
 調査兵団所属リヴァイ兵士長は己の上官から言われた言葉に対し、眉間に皺を刻んでそう返した。
 巨人から逃れるために人類が逃げ込んだ三つの壁の中。その狭くはないが決して広くもない世界には、三つの兵団が組織されている。
 憲兵団、駐屯兵団、調査兵団と別れるその組織は、各兵団の性質上、前者二つと後者一つの友好関係があまりよろしくない。したがって普通であれば三兵団合同で何か一つのことをするという事態など考えもしないものだった。もしそんなことが起こるなら、よほどの危機が訪れた時と言っても過言ではないだろう。
 リヴァイの上官にして調査兵団のトップ、エルヴィン・スミス団長は、重い溜息を吐きながら告げた。
「これはまだごく少数の人間の耳にしか入っていない情報だが、ウォール・マリア内の辺境の村をドラゴンが荒らしまわっているらしい。場所が場所であることと民の混乱を避けるため憲兵団が動いたことでまだ公にはなっていないものの、かなりの村がやられている。被害が大きな町に及ぶ前に討伐せよというのが王政府からの命令だ」
「滅多に姿を見せねぇはずのドラゴンがそうしょっちゅう人を襲うもんなのか?」
 むしろ兵士崩れなどの盗賊が村を襲っていると考えた方が可能性は高い。
 しかしそう反論したリヴァイに対し、エルヴィンは「私もそう思ったんだが……」と否定を告げる。
「襲われた村の破壊痕が、どうにも人間の手によるものではないらしい。もっと大きなものに襲われたようだと、村を調べた憲兵から報告が上がっている」
「……」
 所詮仕事を怠けることしか知らない憲兵の調べだろう、と思ったが、リヴァイは口を噤んだ。いくらここで自分がエルヴィンに反論しようとも、すでに王政府から命令が下っている。ならばやるしかないのだ。それに表情を見る限りでは、エルヴィンも憲兵の報告には半信半疑であるらしい。そしてやはりリヴァイと同じ結論に至り、精鋭選抜のために今こうしてリヴァイを執務室に呼びつけたのだろう。
「こちらから出すのはお前と……あと数名。残りはリヴァイ、そちらで選んでくれるか」
「わかった。指示に従おう」
 頷き、リヴァイは踵を返す。残りのメンバーが決まったらまた報告すると言って扉をくぐれば、背に「こちらも日程を含め詳しいことが決まれば随時知らせる」とエルヴィンから声がかかった。
 その声に振り向かないまま「ああ」と答え、リヴァイは団長の執務室を離れる。その足取りに迷いはない。
 リヴァイの中には、すでに討伐隊として選ぶ人員の顔が浮かんでいたので。


 エルド・ジン、グンタ・シュルツ、オルオ・ボザド、ペトラ・ラル。それがリヴァイの選び出した『精鋭』だった。
 討伐自体は三兵団合同で行うものの、最少行動単位である班は同じ兵団からのメンバーで作るらしい。したがって、その四人とリヴァイの合計五名の班は、リーダーのリヴァイの名前からそのまま『リヴァイ班』という名称がついた。
 憲兵団と駐屯兵団からは同規模の班がそれぞれ二つと三つ、調査兵団からはリヴァイ班のみの参加となる。班の数が異なるのは、各兵団の大きさによるものだ。壁外に出るため巨人との遭遇率が異常に高い調査兵団は他兵団に比べて構成人数がぐっと少ない。また人類最強の兵士とも呼ばれるリヴァイが出てきたことで、人数に関して他から――少なくとも表立っては――批判を受けることはなかった。
 討伐出発の日も決まり、各班の顔合わせも終了。そうして計三十名ほどの一団がマリアに向けて出発した。
 目的地はマリア内に点在する『巨大樹の森』の一つ。しかしそこは他の巨大樹の森と異なり、異様に面積が広かった。また大きな町からも遠い。そのため開発は全くされておらず、何が潜んでいるか分からない異様な森として扱われている。そしてその森を中心として近くの村が襲われるという事件が発生していた。安易ではあるが、そこを探らないという選択肢はない。
「壁を易々と越えられる竜がすでに壁の中で巣を作っていやがる……か」
 巨人に次ぐ脅威とされる生物が知らぬ間に自分達の隣にいる。そんな想像をしてリヴァイは皮肉げに唇をほんの少しだけ歪めた。
 今回の竜討伐には、成功の際、王政府からそれなりの見返りがあるとされている。そして褒賞があると知った途端、一部の者の目の色が変わった。常にカツカツの財政である調査兵団代表のリヴァイ達も心惹かれるものがあったが、憲兵団や駐屯兵団の兵士らにとっても成功報酬はとても魅力的に思えたのだ。
「この顔ぶれなら我々が一番ですね」
 馬で平野を移動しながら、隣に並んだエルドがぽつりと告げる。周囲にいる他のリヴァイ班のメンバーも反論はしない。何せここに集まっているのは人類最強とそのリヴァイが選んだ班員達なのだから。
 実に頼もしいメンバーである。しかし良いことばかりではない。
 リヴァイ班が手柄を得る可能性が一番高いというのは、リヴァイ班以外のメンバーにとっても思い付くことである。そしてそう考える者の中には、自分こそが褒賞を得たいと思う者もいる。つまりそういった者達にとってリヴァイはとても邪魔なのだ。
 人の欲は深い。
 それが形となったのは、ウォール・シーナからマリアを貫く巨大な川から別れた支流の一つに差し掛かった時だった。

「兵長!!」

 リヴァイ班の誰かが叫ぶ。馬上から伸ばされた手は何も掴めない。
 突如としてリヴァイの馬が暴れ出し、支流と言っても轟々と冷たい水が流れる川へ向かって突進したのである。
 リヴァイの制御を受け付けない馬は気が狂ったように頭を振りながら川へ突っ込む。突然のことに対処できなかったリヴァイもまた馬と共に川へ飲み込まれた。
 あっと言う間の出来事に言葉を失う面々。それからすぐに気を取り直してリヴァイの捜索を始めるも、彼らが目的の人物を見つけることはできなかった。
 見つかったのはリヴァイのものと思しき深緑のマントと破損した立体機動装置のみ。
 日が暮れ始め、憲兵団から選出されたリーダーが捜索を打ち切るよう声をかける。意気消沈するリヴァイ班の四人。
 夕闇の中で誰かがニヤリと口元を歪めた。


【2】


 エレン・イェーガーは森の中に居を構え、たった一人で住んでいる少年である。昔は仲の良い二人の男女と一緒に暮らしていたのだが、彼らはエレンよりずっと短命で、もうこの世にはいない。
 さびしくないと言えば嘘になる。だが人里離れたこんな所に留まってくれるお人好しなどあの二人くらいしかいないだろうと、エレンは半ば諦めていた。
「おはよう、ミカサ、アルミン」
 窓際に飾った小さな赤い花と黄色い花に向かってエレンは声をかける。
 三人暮らしには少し狭い、けれども一人暮らしには広すぎる一軒家の一番日当たりが良い場所にその花は活けられていた。
 ガラス越しに差し込む日の光を浴びて名もなき花は美しく咲き誇っている。その花弁を散らさないようエレンはそっと指先で花を撫で、水を汲むための桶を持つ。
「じゃあ行ってくるな」
 近くを流れる川に水を汲みに行くのがエレンの朝の日課である。水のついでに昨日設置した仕掛けに魚がかかっていれば嬉しいなぁと期待しながら、足取り軽く川へ向かった。
 しかし、エレンは向かった先で思わぬものと遭遇する。


「なんだ……?」
 いつも水を汲んでいる岸辺へ向かうと、少し離れた所にある大きめの岩に何かが引っ掛かっていた。その何かとはカーキ色のジャケットを着た黒髪の成人男性。全身ずぶ濡れで、下半身は未だ水の中だ。
 エレンはその場に桶を放り出して駆け出す。
「おい! 大丈夫か!」
 まずは肩を叩いて意識を確認。しかし男は気絶し、ぐったりとしている。呼吸を確かめれば、弱々しいが一応感じられた。ただし身体が随分と冷たくなっている。決して良い状況とは言えない。
 エレンは決心するように一度頷くと、なるべく男の負担にならないよう気を付けつつその身を背負った。身長はエレンよりも少し小さめだがかなりの筋肉質で、水に濡れているのと合わせてずっしりと重い。しかしエレンはその重さを感じさせない様子で背負ってしまう。
 エレンはひょろりとした外見であり、服を脱いでもその通りの体型だったが、同じ体格の人間と比べてずっと強い力を持っていた。ただし自分の筋力が常人をはるかに上回ることを知ったのは、近くにアルミンとミカサがいたからだ。もし彼らがいなければ、エレンは自分の状態が普通だと思っていただろう。
 重いはずの男を軽く背負ったエレンは、振動を与えないよう細心の注意を払いながら家へ戻る。筋力だけでなく頑丈な身体を持つエレンは怪我や病気とも縁が遠い。しかし人間の手当の仕方は知っていた。これもまた、今もまだ大切な友人である二人のおかげだ。
「つーかあそこに引っかかってたってことは上流から流れてきたんだよな……? どんだけ頑丈なんだ、このにーちゃん」
 エレンが水を汲んでいる場所は流れの緩やかな場所だ。しかしその元となる川はかなり流れが速い。もし事故か何かでこの男が川に落ちたのだとしたら、普通ならここに辿り着くまでに死んでいる。
 背に負った男はどう見ても『人間』だが、そんな人間の中でも特別頑丈な部類に入るのかもしれない。
 ほんの少し自分と似たところがあるみたいだと、エレンの唇が弧を描く。ただし背中から伝わる温度は正常な人間のそれではない。この男を失わせないためにも、エレンは帰路を急いだ。

* * *

 男が目を覚ました時、まず視界に入ったのは古びた木の天井だった。見知らぬ天井だと思いつつ、しかしそれならば自分の知っている天井とは何かと考えた瞬間、男は己が何も覚えていないことに気付く。
 なぜ自分はここにいる? ここはどこだ? どうやってやって来た?
 そもそも自分は一体何者だ。
「…………ぁ?」
 驚きの声を上げたはずなのに、それは酷く掠れて小さなものだった。そう言えば体中がギシギシと動きにくく、また全身の至る所が痛みを訴えていることをようやく感じ始める。そして自覚した途端、その痛みは大きなものとなって男は眉間に皺を寄せた。
「っ、そ……」
 毒づくことすらままならない。口内も喉もカラカラに乾燥していた。しかし身体は動かず、そもそも水がどこにあるのかすら分からない。
 男が混乱と苛立ちの嵐に苛まれる中、それを割ってすっと声が聞こえた。
「目が覚めたのか?」
 声の主は男の顔を覗き込んできた。おかげで男からもその容姿がはっきりと見て取れる。
 男は相手の容姿からそれを『少年』と判断した。どうやら自分に関する記憶はすっぽり抜け落ちているというのに、そういう判断の基準となるものは頭に残っているらしい。
 少年は金色の大きな目をパチパチと瞬かせ、それからふっと表情を和らげた。少し吊り上り気味の双眸の所為でキツめの容貌だったのが、たったそれだけで愛らしいものへと変わる。
「今、水持ってくるから」
 そう言って少年は再び男の視界から外れた。足音が遠ざかる。
 男が寝かされているベッドは窓際にあり、身体を動かさずとも視線だけで空を眺めることができた。窓から差し込む陽の光はまだ十分明るいものの、その空の色は現在うっすらと朱色に染まっている。太陽はとっくの昔に中天を過ぎ、世界は夜を迎える準備を始めていた。
「水持ってきたけど……飲めるか? ちょっと起こすな」
 そうこうしているうちに少年が戻って来て、水が入ったコップをベッドの傍にあるサイドチェストの上に置く。次いで言葉通りに男へと近寄り、ベッドと背中の間に手を差し込んだ。
「っ……」
「あ、悪い。痛かったか?」
「……ぃ、っい。……こして、くれ」
「ん。じゃあ行くぞ」
 起こしてくれ、という男の言葉を読み取って、少年が再び男の上半身を起こすよう介助する。少年がクッションを積んで背もたれにすると、男はそこへゆっくり体重を預けた。
 ふう、と一息つく。それだけでかなりの重労働をこなした気がしてくる。だが喉の渇きには逆らえず、男は「みず……」と小さな声で言った。
「吸いのみが無くて悪いな。コップから飲めそうか?」
 言いつつ、少年は水が入ったガラスのコップをそっと男の唇につける。男は唇が湿るのを感じると、薄く口を開けて少しずつ流れ込んでくる水を飲んだ。乾いた口腔や喉を濡らすその感触にようやく生き返る心地がする。
 ゆっくり、ゆっくり、そうやって水を飲み、コップの半分まで減ったところで一度口から離した。男はふっと息を吐き、「すまない」と先程よりずっと聞き取りやすくなった声で告げる。
「いいよ。困った時はお互い様だ」
 少年が双眸を細めて笑った。
「オレはエレン。あんたはリヴァイさん……で、いいのかな? あんたが着てたジャケットにLeviって刺繍されてたんだけど」
 読み方は合ってる? と少年が小首を傾げた。だが男がその正否を答えることはできない。自分がどうしてここに居るのか、そもそも自分が何者なのか、名前を含めてすっかり頭から抜け落ちてしまっているのだから。
 男は口を噤んでぎゅっと眉間に皺を寄せる。エレンと名乗った少年はその表情に再度首を傾げ、「どうした?」続けた。
「その……実は……」
 リヴァイという名前かもしれない男は眉間に皺を寄せたまま口を開く。黙っていても事態は好転しない。ひとまず自分の状況を相手に伝えるべきだろう、と。
「何もわからねぇんだ」
「……は?」
「だからだな、何も覚えてねぇんだよ。自分の名前も、どういう状況にあったのかも、全部」
「…………記憶喪失、もしくは一時的な記憶の混乱ってやつか?」
「かもしれねぇ」
「あー……」
 大きな双眸に哀れみの色を滲ませて少年が眉尻を下げた。
「まぁあんた、オレが見つけた時は死にかけてたもんなぁ」
「どういうことだ?」
「この家からちょっと行った所にある岸辺で、全身ずぶ濡れのまま気絶してたんだよ。たぶん上流の方で川に落ちて流されてきたんだろうな」
「その影響で記憶が……ってことか?」
「考えられるとしたらそれだよ。ま、あんたが記憶喪失を装っていない限りはって条件が付くけど」
「残念ながら本当に記憶がねぇんだよ」
 男――エレンの言うことが確かなら『リヴァイ』という名前なのだろう――は肩を落として溜息を吐く。が、たったそれだけの動作で全身が痛みを訴え、小さく呻き声を上げた。エレンは「大丈夫か!?」と声をかけた後、先のリヴァイの台詞に対して「記憶の件は信じるよ」と答える。
「あんた傷だらけだったし。記憶喪失を装うにしてもわざわざそんな状態までリアリティを追求するなんてナシだろ。下手したら死んでたぜ」
「……そんなに悪い状態だったのか?」
「ああ。たぶん普通の人間なら死んでた。でもあんた、身体は頑丈な方らしいな」
 良かったなぁ、とエレンが表情を緩めた。それが本当に喜んでいるように見えて、リヴァイの胸が温かくなる。それから、はたと気付いた。危険な状態だった己を助けてくれたのは目の前の少年である。にもかかわらず、リヴァイはまだ助けてもらった礼を告げていない。
「エレン、だったか」
「ん?」
「いや……その、助かった。お前は俺の命の恩人だ」
 ぱちり、とエレンの大きな双眸が瞬く。それがふっと緩み、
「んー。いいよ、さっきも言っただろ。困った時はお互い様だって」
 真正面からのお礼の言葉を受けて気恥ずかしそうに目元を赤く染めた。
 エレンのその変化にリヴァイもつられてしまったのだろうか。胸の奥が疼く。なんとか「そ、そうか」と、つっかえつつも返して、胸の疼きを振り払うように咳払いを一つ。だが傷だらけの身体で咳払いは少々荷が重かったらしい。ズキン、と走った痛みに再度呻き声を上げる羽目になり、エレンが慌てて身体を支えた。ほんのりと二人の間に漂い始めていた空気も一瞬にして霧散し、良いのか悪いのか、双方共に感じていた恥ずかしさはすっかり彼方へ追いやられてしまった。
「えっと、とりあえずリヴァイさんって呼ぶな。で、リヴァイさん。あんた傷が治るまでここにいろよ」
「いいのか?」
「当たり前だろ! それにオレ、友達が死んでからずっとここで一人暮らしだったんだ。むしろいてくれた方が嬉しい」
 友達が死んでから――。何気ない言い方だったが、少年の暗い過去の部分を聞いてしまい、リヴァイははっとする。エレン本人も言った後で気付いたらしく、苦笑いを浮かべた。
「……で、どうかな。ここ、結構深い森でさ。たぶん身体が治らねぇと出るのも難しいと思う。あんたの身体が動くようになったらオレが外まで案内するよ」
「そうだな……」
 リヴァイは頷く。自分が何者なのか分からない。行くべき所など全く思い付かない。ならばせめて傷が治るまで厄介になっておくべきだろう。それにこの家の居心地の良さを、まだ目覚めたばかりだというのにリヴァイははっきりと感じていた。
 気持ちだけでも背筋を正し、リヴァイはエレンに頭を下げる。
「すまんが、しばらく世話になる」

* * *

「どうしよう、兵長が見つからない……」
 震える声で言いながらペトラは馬の手綱を握り締めた。
 リヴァイが川に転落してから丸一日。下流に向かいながら捜索を続けたが、未だ本人を発見できていない。またいくら人類最強の兵士と言われる――つまりこの部隊の中でもとりわけ特別な人間である――リヴァイのためであっても本来の任務を中断していられる期間はあまりなかった。現にリーダーの憲兵はあと一日探しても見つからなければ一旦捜索を中止し、自分達だけで竜討伐の任務を再開すると明言している。残されたリヴァイ班の焦りは大きくなるばかりだ。
 幾度となく巨人と遭遇しても生き残ってきたあの人がこうも簡単に死ぬはずがない。そう思っていても、リヴァイを案じる面々の顔色は刻一刻と悪くなっていく。しかもこの川の先にはドラゴンが巣を作っている可能性がある巨大樹の森が存在し、勿論だが人家などない。もしリヴァイが川から這い上がったとしても、それを助けてくれる人間がいる可能性はゼロに等しかった。
 それに心配事はもう一つある。
(どうして兵長の馬はいきなり暴れ出したのかしら……)
 各兵士が騎乗している馬は王政府から新たに与えられたものではなく、それぞれ自分達がいつも世話をしてきた愛馬だ。特に壁外へ出かける調査兵団にとって馬は重要であり、その知性も体力も、また主との関係性も群を抜いて素晴らしいものである。そんな馬がいきなり狂ったように暴れ出すなど、通常なら考えられない。あるとすれば、何者かがリヴァイを罠に嵌めようとして工作を行ったということ。
 ペトラは一番近くにいたオルオに視線を向ける。
「ねぇ、オルオ。兵長の……」
「ペトラ」
 それを遮ったのは同じリヴァイ班に所属するエルド。彼はペトラを見据え、小さく首を横に振った。リヴァイ班以外のメンバーがいる中でその話題を出すのは得策ではない、と無言のまま視線が告げている。ペトラははっとし、「ううん、なんでもない」とオルオに言い直した。オルオもまたペトラとエルドの言いたいことを理解していたらしく、特に追求することなく「おう」とだけ答える。その向こう側で馬に乗っていたグンタもまた、リヴァイの馬の件に関して同じ考えを抱いているのだと、表情を見れば分かった。
 幸いにもリヴァイ班のこのやり取りを不審に思った駐屯兵や憲兵はいないらしく、ペトラ達はほっと胸を撫で下ろす。だが同時に歯噛みしたくなった。この中にリヴァイを罠に嵌めた裏切り者がいるのだ。しかも犯人は今もまだリヴァイを心配するフリをして捜索に加わっている。自分達は絶対にそいつを許さない。今はリヴァイを見つける方が最優先だが、絶対にあぶり出して罪を償わせてやると誓った。
「ほら、日が沈みきるまで探すぞ。絶対に諦めねぇからな」
 近寄ってきたエルドがペトラの背を叩いた。「当たり前じゃん!」とペトラが答える。
 その声を受けつつエルドはリーダーの憲兵にリヴァイ班だけでもう一度周囲を見て来ると告げると、馬の腹を蹴って走り出した。残りの三人も素早くそれに続く。
 リヴァイ捜索に使える時間はあと一日。最早一刻の猶予もなかった。


【3】


「リヴァイさん、これたぶん調査兵団ってところの制服だろ?」
 二枚の翼が重ね合わさった紋章が縫い付けられているジャケットを掲げてエレンが言う。それをベッドの上で上半身を起こして眺めたリヴァイは「そうなのか?」と疑問に疑問で返した。『ちょうさへいだん』と言われても、今のリヴァイにそのような知識はない。分かるのは、どこかの制服なのだろう、ということだけだ。それにひょっとしたら、制服に似せたただの私服かもしれない。
「アルミンが昔、翼の紋章は調査兵団だって教えてくれたんだ」
「ほぅ」
(昔ってことは……ああ、もしかしたら以前一緒に暮らしてたっつう友達のことか)
 アルミンが誰なのか分からなかったが、とりあえずそう推測しつつ相槌を打つ。
 リヴァイがエレンに命を救われてから一週間が過ぎていた。
 幸いにもリヴァイの肉体は驚異的な回復力を見せ、順調に傷を癒している。折れた骨はまだくっ付かないが、自力でベッドから起き上がることはできるようになっていた。
 最初はリヴァイが無理をして起き上がっているのではないかと心配していたエレンも、そうではないと理解した途端、嬉しそうに破顔した。気味悪がる可能性もあったが、それは杞憂に終わり、リヴァイがこっそりと胸を撫で下ろしたのは本人だけの秘密である。
 リヴァイの調子が良くなり始めたところでエレンも色々と話をするようになって、今日は失われた記憶を取り戻すきっかけにならないかと、リヴァイが当時着ていた服や持ち物を持って来て色々確認する作業に入っていた。
 しかしながら残念なことに、ジャケットを見ても、胴体や足に巻いていたというベルトを見ても、リヴァイの記憶は戻らない。頭の奥底で引っかかるような感覚はあったのだが、それは明確なものではなく、エレンに「どうかな」と訊かれてもリヴァイは首を横に振るしかなかった。
 リヴァイは申し訳ないと思う。しかしそれと同時になにくれとこちらの世話を焼き、記憶を取り戻す手助けもしてくれるエレンの行為を嬉しく思う自分もいた。
 エレンはリヴァイのおかげで孤独を感じずに済むと喜んでくれたが、エレンがいてくれて何より助かっているのはリヴァイの方だ。怪我人に対する介助だけでなく、ちょっとした気分転換のための話や、ふとした瞬間に見せてくれる笑顔。そういったものが、記憶を失い何も分からず不安で仕方ないリヴァイの心を温めてくれる。肉体的な意味だけではなく精神的な部分でもリヴァイはエレンに救われていた。
「エレン」
「ん?」
 ベッド脇で椅子に座ったままジャケットを矯めつ眇めつしていたエレンが顔を上げる。相手を真っ直ぐに見据える大きな金色の瞳はとても美しい。そう掛け値なしに思いながらリヴァイは素直に己の心情を吐露する。
「ありがとう」
「へ!?」
「お前と出会えて良かった」
「なっ!」
 ガタン! と荒々しくエレンが立ち上がる。反動で椅子が倒れた。しかしそれを直す余裕もなく、エレンは顔を赤く染めている。
「んなこと改めて言う必要なんかねぇし……! つか、あーもう! ちょっと出てくるから、リヴァイさん留守番よろしく!」
 そう言うや否や、エレンは踵を返して部屋を出て行った。リヴァイはそれをきょとんした表情で見送る。
 普段あまり表情を作らないリヴァイであるが、それはそれは実に間の抜けたものだった。ただしリヴァイ本人はエレンを前にして自分の表情が豊かになっていることに気付いていない。無論、現在のものだけではなく、先程エレンに感謝の意を告げた際ふわりと浮かべた微笑についても。
「何なんだ、あいつ」
 その呟きをもしエレンが聞いていたなら、きっと彼の少年は大声でこう返しただろう。
 鏡を見ろ、と。

* * *

 リヴァイの捜索は打ち切られ、残りのメンバーでの竜討伐が再開されていた。しかしそもそもドラゴンの姿が一向に確認できず、探しても探しても見つからない。当初の予想通りではあったが、目的の場所である巨大樹の森は非常に広く、ドラゴンの巣を探すという行為は小麦の山の中に一粒だけ落とした宝石の破片を見つけ出すのと同じくらい困難なものだった。
 しかしその一方で周囲の村の被害は増えていく。リヴァイが行方不明になってから一週間後、伝令役の兵士からまた新たに森の近くで村が襲われたとの知らせが入り、討伐隊のメンバーは苛立ちと遣る瀬無さを募らせた。


「これは……」
 誰かが呟く。
 ドラゴン捜索の手掛かりにならないかと、討伐隊は巨大樹の森から離れ、その襲われたばかりと思しき村を訪れていた。
 元々さほど大きな村ではない。住民全てが知り合いとでも言えそうなその場所は、平時であれば退屈なほどのんびりした所だっただろう。しかし今や家屋はことごとく破壊され、一度は火の手が上がったのか、真っ黒に焼け焦げて細い煙をたなびかせているものもある。そして地面には目を覆いたくなるようなおびただしい量の血痕。なんとか隣村まで逃げ延びた住人曰く、爆発するような轟音が聞こえ、その後すぐ巨大なシルエットが遠目に見えたらしい。それが何なのかはっきりと目視できる前に沢山の岩石が降って来た。……ただしそこから先は、逃げて来た住人には分からない。
 そのシルエットの正体を憲兵団はドラゴンだと判断した。岩石はそのドラゴンが先制攻撃として放ったもので、火事は住人が逃げる際に発生したものだろう。しかし多くの住人は逃げ遅れ、村に到着したドラゴンによって食い殺されてしまった。死体がないのは、彼らの身体がドラゴンの胃袋に収まったから。
 実のところそれは状況証拠ばかりであり、また目撃情報に関してもあまり参考にならないものだったが、人力では成し得ない凄惨な破壊の痕跡を目にした討伐隊のメンバーは「ああ、竜が本当に村を襲っているのだ」と納得してしまう。彼らの脳裏には獰猛で極悪な悪竜の姿がはっきりと描かれていた。
 リヴァイのことが心配でたまらないリヴァイ班のメンバーですら、早くそのドラゴンを退治しなければと強く思う。
「この村に竜捜索の手掛かりになるものが残っていないか探すぞ。班単位で動け。集合は二時間後だ」
 リーダーの憲兵が指示を出す。他の兵士らはすぐさま敬礼の姿勢を取り、班ごとに村の各所へと散って行った。
 ただしこの捜索の結果、彼らが得られた情報はゼロ。
 また更に悪いことに、それから数日後、いつまで経ってもドラゴンの姿すら見つけられない部隊に対し、王政府から討伐遠征の一時中止が通達された。
 何の成果もなく、それどころか人類最強の兵士を失った状態で帰還せざるを得なくなった部隊は所属する兵団にかかわらず皆が意気消沈する。被害はまだ止んでいないためいずれ再び討伐隊が組まれることは予想できたが、それがいつになるのか分からない。またリヴァイを捜索しに行く許可を求めたリヴァイ班に関しては、王政府からドラゴンがいるかもしれない地域へ無暗に兵士を派遣することは承認できないと言われてしまった。
 失うばかりで得るもののない結果にペトラ達は嘆く。再び討伐隊が組織されるまで、自分達は何もできないのかと。

* * *

 ある日リヴァイが目を覚ますと、部屋にはエレンの姿がなかった。耳を澄ますが、別の部屋にいる様子もない。
 ここ最近は調子も良く、何かに掴まって折れていた左足を庇いながらなら家の中を歩き回れるようになっている。ただし何かあった時のためにエレンが見える場所にいない場合はベッドから出るなと厳命されていた。
 エレンとの出会いから十日が経過。しかし記憶はまだ戻っていない。
 リヴァイはまだ三割ほど眠気に足を突っ込んだ状態で窓の外を眺めやる。今日も空は快晴でガラス越しに澄み切った青が見えた。
 しばらくそれをぼうっと眺めていたリヴァイだったが、しかし耳が不思議な音を拾って「ん?」と声を漏らす。
 それは鳥の羽ばたきに似ていた。しかし家の中、ガラス越しに聞こえるものとしては大きすぎる。しかも音源は徐々にこちらへ近付いているらしく、よりはっきりと聞こえるようになっていった。そしてついに――
「ッ!?」
 ガタガタと窓ガラスが振動する。と同時に窓枠に区切られた空の端を掠めていった巨大な黒い影。
 リヴァイは思わず上半身を起こし、しかしながらその急激な動作についていけなかった身体が痛みという形で悲鳴を上げた。結果、リヴァイは呻きながらベッドに倒れ込む。
「な、ん……だ、あれは」
 黒い影は逆光であることに加えスピードが速過ぎた所為で良く見えなかった。捉えられたのは残像だけだ。ただしリヴァイの勘は、あれが巨大な翼ではないかと訴えていた。
 窓ガラスに伝わった振動は巨大な翼が生み出した風圧によるもの。だとすれば恐ろしい結果になる。巨大な翼を備えた化け物がエレンの家の近くを飛び回っているということに他ならないのだから。
 エレン本人はこのことを知っているのだろうか。もし知らないならば教えてやって、ここを離れた方が良いかもしれないと提案する必要も出てくる。
 彼に何かあった後では遅い、とリヴァイは心配を募らせた。
 の、だが。


「それドラゴンだ。でもこの辺に出るヤツは無暗に人を襲ったりしねぇよ。だから大丈夫」
 あれから少ししてエレンが帰宅し、リヴァイは自分が目にしたものについて語った。しかしながらエレンの答えは呆気ないもので、心配はないと告げる。
 そう言えばエレンはずっとここに住んでおり、最近やって来たばかりのリヴァイよりずっと多くこの周辺について知っている。見た目が見た目なので何十年と暮らしているわけではないだろうが、少なくとも彼の(おそらく)十数年の人生の中で、ドラゴンの姿を見かけてもそれに襲われた経験はないのだろう。
「……まぁお前が言うならそうなんだろうな」
「そうそう。杞憂だよ、リヴァイさん」
 にっこり笑ってエレンが答える。
「あ、でももしドラゴンのことが気になるなら昔アルミンが資料をまとめてたはずなんだ。それ見てみる?」
「資料だ?」
「そう。この森に棲んでるドラゴンを中心に、ドラゴンという種についてあいつ独自の見解も書いてあるらしい。オレは読んだことねぇんだけど。ま、気が向いたらリヴァイさん読んでみなよ。隣の部屋の本棚にあるから」
「わかった」
 一般的にドラゴンという生き物は危険なものとされている(とリヴァイの頭の中には残っていた)。ここでずっと暮らしてきたエレンが言うならその言葉を信じようと思う一方、頭に残っていた『常識』の所為で完全に安心することもできなかったリヴァイは、ありがたくその資料とやらを読ませてもらうことに決めた。それに怪我の所為で外出ができないため、暇潰しにもちょうどいいかもしれない。
 リヴァイが頷いた後、エレンは「あ、そうそう! 今日の晩飯はちょっと遠出して食材揃えて来たから豪華だぜ」と声を弾ませる。ドラゴンに関する話題はそれで終了となり、リヴァイも「楽しみだ」と表情を和らげた。


 ドラゴン。その名を聞くと、リヴァイは少し落ち着かなくなる。
 記憶を失う前、自分はドラゴンに関して何かをしなくてはならなかったのかもしれない。しかしその『何か』を思い出すことはできず、眉間に皺を寄せる羽目になった。
 エレンに一声かけた後、リヴァイは隣室の本棚の前へとやって来ていた。壁一面を覆う本の群はほぼ全て故アルミン・アルレルトが所有していたものであるらしい。そんな本棚の一角に目的の物はあった。
 背表紙に何も書かれていない分厚い本にはびっしりと文字が書き込まれ、元は白紙だったページが真っ黒になっている。それを最初から真面目に読む気にはなれず、リヴァイはひとまずぱらぱらとページを捲りながら飛ばし読みをしてみた。その中で気になる記述を見つける。
「『ドラゴンの不死性について』……?」
 そこにはどの文献を参考にしたかもメモされている。幸いにも肝心の記述はその本から綺麗に抜粋されて手元の本に書きつけられ、この気になるテーマについて別の本を探す手間は省かれていた。
 その文献によると、ドラゴンは極めて長寿もしくは永遠に転生を繰り返す存在であるらしい。また人々が壁で囲われた世界に閉じこもる前、一部の宗教では蛇が不死の象徴とされ、その蛇がやがてドラゴンとして描かれるようになったともある。(なお、その宗教は別の巨大な宗教に追いやられる格好となり、信仰の対象だったドラゴンは最終的に悪しきものであると迫害されるようになった。)
 宗教的・精神的な話はさておき、リヴァイの目を引いたのは抜粋された文章の下に続くメモ書きだった。

少なくとも『彼』はまだ若い見た目であるにもかかわらず、僕らよりずっと長く生きている。つまり身体の成長が遅いということだ。成長が遅い、イコール、寿命が長いと考えるなら、長寿であると言うべきなのかもしれない。ただし周りに高齢の竜がいないため判断は保留とする。転生を繰り返すという件にしても同様。

「これを書いたアルミンってヤツは本物のドラゴンを見たってことか……。おまけに見た目やら実年齢やらまで知っていたとすれば、もしかしたら意志疎通までできていたのかもしれねぇな」
 そう独りごちながらリヴァイは思考を整埋する。
 確かエレンもこの家の近くを飛んでいたドラゴンは大丈夫だと言っていた。ひょっとしたらあのドラゴンがここに書かれている『彼』なのかもしれない。
「……」
 一例だけとはいえエレン達が体験した事実と、リヴァイの頭の中に残る常識。そのどちらが正しいのか、今のリヴァイには判断できなかった。
 リヴァイはパタンと手記を閉じ、それを持ってベッドがある部屋に戻る。最終的に自分がどんな結果を下すにしろ、ドラゴンという単語に胸が騒ぐのは事実だ。ならばそれを知るために時間を使うことは決して悪いことでもないだろう。
 ゆっくりと移動することに集中するリヴァイは、それゆえに気付けなかった。
 自身が持ち出そうとした本からひらりと一枚の紙片が落ちる。その紙片はリヴァイの視界に入ることなく、部屋に設置されていたソファ――おそらく本をゆっくりこの部屋で読むためのものだろう――の下へ滑り込んだ。
 紙片はかつてアルミンがドラゴンに関する情報をまとめる際、その前段階として作成した覚書のようなものである。そしてそこには最後に少し荒っぱい文字でこう記されていた。

エレンが僕達よりずっと長く生きることは確実だ。僕らは彼を置いて逝く。それがとても悲しくて、申し訳ない。僕らにもエレンと同じ長寿や不死性があればよかったのに。


【4】


「竜討伐の部隊がやっと再結成される!? 〜〜っ! 今度こそリヴァイ兵長を見つけ出さないと!」
 リヴァイが行方不明になってから一ヶ月以上過ぎていた。
 討伐部隊が再び結成されると聞いて調査兵団兵舎内の食堂の椅子を蹴り飛ばしながら立ち上がったのはペトラ・ラル。
 前回の討伐任務でリヴァイの馬に細工をした人間はすでに見つけて制裁を加えている。どうやらリヴァイに手柄を奪われると焦っての犯行だったようだ。そんなくだらないことで人類にとって大切な人が行方不明になっているという事実にリヴァイ班の面々は怒り、法が許す限りの範囲で最大限の償いをさせている。しかし犯人を見つけてもリヴァイが戻って来ることはない。早くあの人を探さなければと、四人の焦りは増すばかりだった。そこに来てようやく再結成の知らせである。興奮せずにはいられない。
 ペトラの隣にはオルオ、机を挟んだ正面にはエルドとグンタが座っている。討伐隊の再結成に伴い、前回参加した彼らにも声がかかったのだ。
 エルヴィンから話を聞いたエルドは自分と同じく参加を要請されたその三人に声をかけ、今回の説明を続ける。
「そうだ。今度こそ俺達の手で兵長を見つけ出す。しかも今回は前より大人数での編成になるらしい。ま、そうだよな。この一ヶ月でドラゴンが村を襲ってるって話が一般市民の間で噂されるようになっちまったんだから」
 ペトラは椅子に座り直しながら頷く。エルドの言う通りだ。前回の討伐失敗――それどころかドラゴンを発見することすらできなかったのだが――以降も村が襲われるという事件は続いており、憲兵団の情報操作もむなしく、ついに破壊され尽くした村の情報が大きな町に届いてしまったのである。
 民衆は口々に王政府へ対応を要請した。ついでに王や貴族は何をやっているんだと不満も噴出したが、それが大きくなる前に王政府は大規模な討伐隊結成を決定。今頃は王都でそれを発表していることだろう。
 それよりも一歩早く情報が伝わってきた各兵団では、早急に人員選出作業が始まっている。
「調査兵団はドラゴン退治のためにネス班長を中心にしたチームを一つ、それから兵長を探すために俺達が選ばれた。勿論建前上はどちらもドラゴン退治用だけどな。俺達リヴァイ班はドラゴンを探すという名目で参加し、兵長捜索に全力を挙げる。ネス班長達も了承済みだ」
「今度こそ兵長をお助けしねぇと……」
 オルオがぐっと拳を握って呟く。普段彼を罵倒するペトラも真剣な表情で深く頷いた。無論、エルドもグンタも同じ気持ちだ。
 リヴァイが死んでいるかもしれないなどとは考えない。彼は人類の解放に必要な人間だ。こんなところで失われていい存在ではないのである。
「絶対に兵長を見つけ出す。やるぞ、お前ら」
「「「おう!」」」

* * *

 淡々と送っていた毎日に色が付いたようだとエレンは思う。
 大切な家族であり友人であったアルミンとミカサを失ってからエレンは『生きるため』に生きてきた。
 長い寿命を持つ生物としての宿命かもしれないが、それでもやはりさびしい。また自分と同じ存在を探してここを飛び出すという選択肢もあったが、大切な二人との思い出が詰まった家を放り出す決心もつかず、自分の命が尽きるのはまだ先だからと言い訳をしてずるずると生活を続ける日々。
 しかしそんな中、エレンの前にリヴァイが現れた。彼は正真正銘人間なのだが、おそらく普通の人間よりもほんの少しだけ強い人。ゆえにその他大勢の人間よりも一歩だけ……否、半歩だけエレンに近いかもしれない人。
 基本は無表情だったり仏頂面だったりするのだが、ふとした瞬間に見せる笑みはエレンの胸を温かくさせる。それに顔に似合わず――と言ってはリヴァイに失礼かもしれないが――良く喋る相手のおかげで、エレンは言葉を発する機会がぐっと増えた。
 話をしてくれる相手がいること、そして話を聞いてくれる相手がいること、というのは本当に嬉しいものだ。リヴァイに面白い話題を提供しようと考えるだけで色々なものに興味が湧き、世界が違って見えてくる。
 いつか森の外の世界へ帰ってしまう人だと分かっているが、エレンはリヴァイに対して情を抱かずにはいられなかった。
(オレ、リヴァイさんがあの家を出て行っちまったらどうすんのかなぁ)
 エレンは風を感じながら胸中で独白する。
 意識せずとも身体は空気の流れを読み、背中に生えた巨大な翼を羽ばたかせた。
 体長は十メートルほど。黒い鱗に覆われた金眼の竜。長命にして強大。人など遠く及ばぬ生命としての強さを備えた生き物こそ、エレン・イェーガーの本来の姿である。
 人型は大切な友人だった二人の人間に合わせて作った仮初の姿だ。しかしそちらの方が小回りが利き、また人語も話せるため、エレンは人の時の自分も気に入っている。
 しかしながら人型では決して味わえない、雄大な空を自由に飛び回るこの感覚だけは特別であり、エレンの一番好きなものだった。人間に目撃されて怖がられたり攻撃されたりするのを避けるためそう頻繁には飛べないのが目下の悩みであったが。
(リヴァイさんがいなくなったら……うん、やっぱりさびしい。だってまたひとりぼっちになっちまう)
 そうしたら再び代わり映えのない灰色の毎日に逆戻りだ。楽しい日々を送った分、きっと反動は大きいだろう。ついでに寿命でミカサやアルミンを喪った時のことまで思い出し、胸が苦しくなる。
 けれども自分はリヴァイを送り出してやらねばならない。少なくとも、彼がそう望むのであれば。
 そう考えてしんみりしていたエレンだったが……。
(あれ?)
 遠くの方に黒い煙が昇っている。あちらには人間が住む小さな村があったはずだ。少し気にかかるが、巨大な体躯を有するエレンが見に行ってしまえば村人達はきっと慌てふためいて大変な騒ぎになるだろう。それはいただけない。
 エレンはしばらく煙の様子を眺めていたが、迷いを振り切るように顔を背けた。人の世は人のもの。自分のような存在が介入すべきではない。
(それにまぁあんまり長く外出してたらリヴァイさんも心配するだろうし)
 心の中でそう呟いてエレンは一層強く翼を打ち鳴らす。ぐんと上がるスピード。そのまま真っ直ぐエレンは自分の家を目指した。


「おかえり、エレン」
 帰宅すると出迎えの言葉が予想より近くで聞こえたため、エレンは「あ」と声を上げた。
「リヴァイさん? もう随分良くなったみたいだな」
 先日、とうとうリヴァイはベッドの上の生活は暇すぎるといって勝手に動き回るようになった。それくらい体調が回復したということなのだろうとエレンはポジティブに解釈し、自分がいない間も屋内と家の周りだけなら自由に動いてくれて構わないと許可を出している。
 そして現在、リヴァイは彼に割り当てた寝室を出て、なんとリビングの掃除を行っていた。どこからか発掘したのか、三角巾で頭と口元を覆っている。右手にはハタキ。完全装備だ。
 軽い散歩どころかやる気満々で掃除を始めた居候にエレンは苦笑する。だがリヴァイの身体のことはリヴァイ自身が一番よく知っているのだろう。ならば余程のことでない限り、エレンが無理に彼を止める必要はない。それに『自分がいない間も屋内と家の周りだけなら自由に動いてくれて構わない』という約束はきちんと守ってくれている。
「リヴァイさんは掃除好きなのか?」
「だと思う。この部屋も元々そんなに汚れちゃいなかったが、なんとなく……こう、疼いてな」
「うわー。本人が覚えてないだけで実はかなりの綺麗好きと見た」
「かもしれん」
 リヴァイは神妙な顔で頷く。それがなぜかツボに入ってエレンは肩を揺らしながら笑った。どうして笑われたのか分からないリヴァイは首を傾げる。しかしエレンが笑い続けているとそれにつられたのか、口元に弧を描いて「笑いすぎだ、ばか」と持っていたハタキでエレンの頭を小突いた。
「暇ならお前も手伝え。しっかり指導してやる」
「はぁい。お手柔らかに」
「掃除に手抜きはせん」
「マジか」
 と言いつつもエレンは笑顔のままだ。リヴァイに三角巾がどこにあったのか訊いて、自ら取りに向かう。
 この後、リヴァイの指導は本人の宣言通り手抜きなど全くない厳しいものだったのだが、エレンは始終楽しんでいた。
 リヴァイといると勝手に笑顔になる。リヴァイといると嬉しい。だからこそ、近付いてくるリヴァイとの別れの日を思うと胸が締め付けられるように痛かった。

* * *

 その日、エレンの家の近くを散歩していたリヴァイは異音を感知して眉根を寄せた。
 エレンの家は巨大な木々が生い茂る森の中にある。ただし家の周辺はぽっかりと木々のない空間が広がり、そのおかげで日当たりは良好だ。リヴァイが歩いていたのはそこからほんの少し森に入ったところで、まだまだ日の光が届く明るい場所であった。
 枝葉越しに降り注ぐ陽光は気持ちが良く、リヴァイは眉間の皺を解いてゆったりと散歩を楽しんでいた。しかし耳が奇妙な音を捉えた瞬間、足を止める。
「なんだ……?」
 ガスか何かが噴き出す音、それからワイヤーのような物が擦れる音、だろうか? ただし何よりリヴァイに怪訝な顔をさせたのは、リヴァイ自身がそれらの音を知っていると感じたからだ。
 誘われるように音がした方へ足を向ける。そして――

「「「「兵長!」」」」

 知らないはずの、しかし耳に馴染んだ呼称。それが空から降ってきた。
 否、降ってきたのは深緑のマントを羽織った男女四人。制服と思しき同じデザインの服を纏った彼らは目に涙を浮かべながらリヴァイに駆け寄る。
 リヴァイは彼らの顔を順に眺めて、

「…………ああ、お前らか」

 自分が何者なのか、唐突に、はっきりと思い出した。


【5】


「すまない。心配をかけた」
「いえ、ご無事で何よりです」
 班員を代表してエルドが答える。彼も他の三人もうっすらと涙ぐんでいた。本当に「随分と心配をかけてしまったらしい」とリヴァイは思う。
 記憶に関しては自分が誰だか分らなかった一ヶ月強の分も含め全てはっきりと頭の中に存在していた。ゆえにリヴァイは穏やかだった日々を惜しいと思いつつも本来の自分に戻らなくてはと表情を引き締める。
「兵長は今までどちらに……」
 調査兵団の制服をまとっていないリヴァイの姿を眺めつつエルドが尋ねる。現在のリヴァイの姿は生成りのシャツと焦げ茶のズボンという状態。これを含めリヴァイがここ最近着ていた服はエレンや彼のかつての同居人であったアルミンの私服を手直ししたものだった。
「川に落ちた俺を下流で拾ってくれたヤツがいてな。そこで世話になっていた。すぐに戻れなくてすまない」
「いえ! お怪我もされていたでしょうし」
「怪我だけなら手紙でも出せたのかもしれねぇが……まぁ、その、実は記憶を失っていてな」
「えっ」
 エルド達四人がぎょっと目を剥く。リヴァイは彼らが驚くのも無理はないと思いつつ、四人にこれ以上心配をかけないよう続けた。
「だがお前らに再会して思い出せた。調査兵団の紋章を見ても全く効果が無かったんだが、仲間の顔ってやつは別格なんだろうな」
 そう言って僅かに口元を緩める。エルド達はリヴァイの表情の変化にはっと息を呑み、それから嬉しそうに破顔した。口々に「本当に良かったです」と告げ、リヴァイとの再会を喜ぶ。
 だがそればかりもしていられない。彼らがここに派遣されたのは竜討伐という任務があるからだ。リヴァイ班としての最優先事項は達成されたが、討伐の件を放置するわけにもいかない。
 各人表情を引き締め、エルドが口を開く。
「兵長、我々は再び竜討伐の任を受けてこちらに参りました。お身体の具合がよろしければ、兵長もご参加いただけないでしょうか」
「勿論だ。が、その前に、世話になったヤツに別れを告げておきたい」
「わかりました。ご一緒してもよろしいでしょうか。我々も兵長を助けてくださった方にお礼をしたいのです」
「ああ」
 リヴァイは頷き、踵を返した。

* * *

「リヴァイさん……記憶が戻ったんだな」
 エレンはリヴァイとその後ろに続く四人を玄関扉の前で出迎えた。彼らは事前の知らせも無しに外へ出てきていたエレンを見て驚いたが、こちらは人間よりもずっと生き物の気配に敏感な種族なのである。姿が見える前からその接近には気付いていた。
 そしてまたエレンはリヴァイの顔を見て、彼が失っていたものを取り戻したのだと悟った。後ろの四人は岸辺で気絶していたリヴァイと同じ型の服をまとっている。十中八九仲間なのだろう。
「ああ。本当に世話になった」
「いいって。オレもリヴァイさんといられて楽しかったし」
 偽りのない気持ちを告げ、次いでエレンは金の双眸でリヴァイの後ろの四人を見る。
「はじめまして、エレン・イェーガーと言います。この一ヶ月と少し、リヴァイさんと一緒にこの家で暮らしていた者です」
「私はペトラ・ラル」
 紅一点の女性が一歩前に出て名乗った。
「それからこっちがエルド・ジン、グンタ・シュルツ、そんでもってオルオ・ボザド。みんなリヴァイ兵長の部下よ。私達の大切な人を助けてくれてありがとう、エレン」
 ヘーゼルの瞳が優しく細められる。エレンは首を横に振った。確かにリヴァイを助けたのはエレンだが、その分を補って余りあるほどエレンはリヴァイから沢山のものをもらっている。
「リヴァイさんが記憶を取り戻せて、それに仲間とも再会できて良かった。ここを去っちまうのは少しさびしいけど」
 後半の本心は暗くならないよう冗談めかして告げる。だがペトラは眉根を寄せて「エレン、ここに残るの?」と困惑した様子で尋ねてきた。なぜ彼女がそのような顔をするのか分からないエレンは首を傾げる。
「えっと……まぁそのつもりです。ここがオレの家だし」
「そう……そうよね。でもここは危険なんだよ」
「え?」
 エレンが更に首を傾げ、ついでにリヴァイも訝しげな顔をする。ペトラは他の班員と視線を交わし、それからエレンとリヴァイを順に見据えた。
「どういうことだ、ペトラ」
 リヴァイが問えば、彼女は苦しげに表情を歪める。
「ここに棲むと考えられているドラゴンが近隣の村を襲っています。兵長はご存知でしょうが……。被害は今も拡大中で、ついに大きな町にもその話が伝わるようになってしまいました。昨日は森の北西にある村が襲われています。討伐隊が動いていますが成果は上がっていません。……正直なところ、おそらくここが標的になるのも時間の問題かと」
「チッ」
 リヴァイが鋭く舌打ちをする。が、それよりも激しい反応をする者がいた。
「どういうことだよ!」
 エレンだ。
 五人の視線が一斉にそちらを向く。しかしエレンは構わず、右手で額を押さえながら「そんなはずない」と呻いた。
「エレン? どうしたの」
「っ! あ、すいません。急に大声出して……」
 ペトラの心配そうな声を受けてエレンがはっとする。しかし混乱は拭えない。
 この森に棲んでいるドラゴンと言えばエレンしかいない。しかしエレンは近くに住む人間を襲ってなどいなかった。また他のドラゴンがやったとしても、それならエレンが森にやって来たドラゴンの気配に気付けたはずだ。そしてここ何年もエレンは同族が近付く気配を感じていない。
 だがそれをリヴァイ達に説明することはできなかった。彼らはエレンを人間だと思って接している。ここで正体を明かしてしまえば、彼らに無用な混乱をさせてしまうことになるだろう。
 エレンはどう言うべきか考えた後、口を開いた。
「確かにこの森にはドラゴンが棲んでいます。でも人間を襲ったりはしません」
「お前が以前言ってたヤツか……」
 リヴァイがぼそりと呟く。エレンは首肯し、残りの四人を見た。
「つまりエレンはこの家を離れる気が無い、ということ?」
「そう取っていただいて構いません」
 ペトラの問いにエレンは頷き、それから身体をずらして玄関扉を開ける。
「リヴァイさん、着替えは用意できてるよ。その格好じゃ皆と一緒に帰れないだろ?」
 さっさと追い出したいような素振りをしてしまって申し訳なく思う。
 仲良くなった相手と離れるのは悲しい。が、今はそれよりも強くエレンを突き動かすものがあった。
(周辺の人間を襲っているドラゴン……。てめぇの正体、オレが突き止めてやる)

* * *

「エレンにあの家を離れる気がないのなら、私達がドラゴンを倒すしかありませんね」
 一ヶ月以上世話になった家を出て、リヴァイは兵士長として討伐隊に加わった。エルド達は絶対にリヴァイを見つける気だったらしく、リヴァイのための馬も立体機動装置もしっかりと用意していたのである。
 斜め後ろを馬で進むペトラのその台詞にリヴァイは「ああ」と頷いた。
 エレン本人はこの森に棲むドラゴンは人を襲わないと言っていたが、実際にドラゴンは現れ、周辺の住民を襲い、村を破壊している。その魔の手がいつエレンに襲い掛かるのか……。想像するだけで腸が煮えくり返りそうになった。
 あの家はエレンの大切な思い出が詰まった場所だ。ゆえにそこを離れたがらない理由も分かる。ならばリヴァイはエレンがあの家に住み続けられるよう、脅威を取り払ってやりたいと思う。
 恩返しと言えば聞こえはいいが、公に心臓を捧げたはずの兵士が名も知らぬ沢山の人間よりたった一人を重視している時点で、決してほめられた想いではなかった。しかしそれが今のリヴァイの事実だ。
 そんなリヴァイを含む一行は森の南西を目指していた。北西の村が襲われ、森の近くで無事な村はもうそこしかないのである。待ち伏せの意も込めて兵士らは昨日の内に部隊を班単位に分割し、それぞれ別方向からその村へ向かうことにしたのだ。
 リヴァイ捜索を念頭に置いていたリヴァイ班はその影響で他の班より到着が遅れる見込みになっていた。遅れをなるべく取り戻そうと皆が馬の速度を上げる。
 しばらく馬で駆けた頃、リヴァイ達は目的の村がある方向から砲撃の音と共に黒い信煙弾が上がったのを見た。緊急事態を示すそれに全員が息を呑む。村までもう少し。人々の叫び声まで聞こえた気がしてリヴァイ達は馬の速度を上げた。
 そして村に入る直前。
「ッ! 黒いドラゴン……!」
 黒煙を翼で掻き消すように真っ黒な鱗に覆われた悪竜が空を舞っていた。今度は信煙弾の代わりに砲弾が撃ち込まれる。命中すればそれなりのダメージを与えられるはずなのだが、ドラゴンは容易くそれを避けてみせた。
「兵長! あいつ誰かを掴んでます!」
 グンタが声を張り上げる。その台詞の通り、黒竜は片方の足で人間らしきものを掴み上げていた。ここからではその姿形まではっきりと確認することはできないが、村人もしくは先に駆けつけた兵士である可能性が高い。
「クソが!」
 やはりドラゴンはドラゴンなのだ。エレンは今までたまたま運が良かっただけで、いつあの残忍な生き物の餌食になってしまってもおかしくはない。
(その前に俺が――)
 もっと速く、とリヴァイは馬を走らせた。

* * *

 エレンがその村を訪れた時、兵士は誰一人として到着しておらず、村人達がのんびりと暮らして――……などいなかった。
 広大な巨大樹の森の周辺で最後に残った村を誰かが襲っている。それはドラゴンなどではない。人間だ。ただしその人間達は車輪を付けて移動可能にした巨大な装置を駆使し、家を次々と破壊していった。移動式のその装置には鎖で吊り下げられた鉄球がついており、その鉄球を振り回すことで人も家も薙ぎ払っているのである。
 また少し離れた所では投石に使う道具の姿もあった。装填する岩石を詰めた箱とその道具の配置は、角度によっては翼を広げたドラゴンに見えなくもない。ただしかなり遠目であることと、恐怖心という二つの要素が必要ではあるが。
 突然の襲撃を受け恐慌に陥った村人達を盗賊は袈裟懸けに斬り殺していく。目撃者は一人も逃がさないといった体だ。老若男女構わず嬲り殺しにしていった。
(あいつらが村を襲ってやがったのか!)
 ドラゴンに偽装し、残虐行為を繰り返す盗賊達にエレンの怒りが爆発する。彼らが目視できないほど空高く飛んでいたエレンは一気に降下し、村に降り立った。
 本物のドラゴンの襲来で村は余計にパニックになったが、慌てたのは盗賊達も同じだ。唖然とする彼らにエレンは容赦なく鉄槌を揮う。鋭利に尖った牙や爪で盗賊共を八つ裂きにし、逃げる者の背を踏みつけた。人非人は一人たりとも逃がさないと、エレンは黄金の双眸で盗賊を睥睨する。
 しかし突如としてその身体に砲弾が撃ち込まれた。驚いて攻撃がきた方向を見やれば、見たことがある制服――細部は違うが――に身を包む見たことのない顔ぶれが複数。
 新たに現れた制服姿の人間達はエレンに殺気を向けてくる。一部はエレンが襲っていた盗賊を助けようと動き出していた。
(はぁ!? どういうことだよ!)
 悪いのはその盗賊であって、エレンは村人達を助けようとしただけだ。それなのになぜ自分に殺気が向けられているのか。
 エレンは素早く周囲に視線を走らせ、状況を把握する。そして「ドラゴンが村を襲っている」という前提を持つ者がこの村の様子を見た時にどう思うのか、考えてぞっと血の気が引いた。
 反射的に空へと逃げる。砲撃と同タイミングで上空に向かって撃たれていた黒い煙が翼で掻き乱された。
 牙や爪は盗賊の血で濡れ、足には爪をひっかけ掴んだままの男が一人。まだ息のある男が情けない悲鳴を上げ「助けてくれ」と叫んだ。ついさっきまで助けてくれと泣き叫ぶ村人を下卑た笑みで斬り殺していたくせに。
(けがらわしい)
 湧き上がる嫌悪感にエレンは男を掴んでいた足を緩める。当然、その男は重力に引かれて落下した。高さ五十メートルの壁を軽く飛び越える生き物から落とされた男は、熟れた果実が木から落下した時のようにぐちゃりと地面に汚れた赤い花を咲かせる。
 その行為が更に人間達の恐怖心と「敵を倒さなければ」という思いを煽り、攻撃が激しくなる。エレンは兵士達からの攻撃を幾度となく避けていたが、上空を舞う彼の視界に増援と思しき者達が映った。
 馬で駆ける五人。
 それはエレンが人間の姿で会ったあの――。
(なんでリヴァイさんが)
 リヴァイを先頭に、エルド、グンタ、オルオ、ペトラが馬を走らせながらエレンを見ていた。その目に「リヴァイの命の恩人」に向けていた優しさはない。あるのはただ敵意と憎悪。
(ちがう)
 エレンは悲痛な声で叫ぶ。
(ちがう、リヴァイさん。オレじゃない。村を襲ったのはオレじゃない!)
 その瞬間、エレンに隙が生まれた。兵士らが放つ砲弾はエレンの翼の薄い部分を突き破り、黒い巨躯が落下する。
 地響きを伴って地面へと叩きつけられたエレン。その黄金の目に特殊な形をした刃を両手に構える人間達の姿が映る。彼らの中には重ね翼の紋章をつけた見知った顔が一、二、三、四、五。その五人の中央に立つのはリヴァイだ。
 ペトラが言っていた。ドラゴンの討伐隊が動いていると。それこそ、彼・彼女らのことだったのである。そしてあの四人の上官であるリヴァイもまたエレンを殺すために≠アこへやって来た。
「…………ッ!!!!」
 エレンは声にならない叫び声を上げ、その場から逃げ出した。


【6】


 黒竜が逃げた方角に何があるのか知っているリヴァイは全身がすっと冷たくなっていくのを感じた。
「……ッ! エレンっ!!!!」
 全身が総毛立ち、リヴァイは馬に飛び乗る。
「兵長!?」
 班員達が上官の突然の行動に慌てた声を出す。だが説明している暇はなかった。あの方向にはエレンが、リヴァイの大切な人がいるのだ。
 馬を走らせ、全力でドラゴンを追う。翼を負傷したにもかかわらず、黒竜は恐ろしい速さで巨大樹の森を目指していた。
 やがてリヴァイも森に入る。最初は馬を走らせることができたのだが、奥へ進むにつれ道は悪くなり、最終的には立体機動に移る。効率よりもスピードを優先する無茶なガスの吹かし方はリヴァイらしからぬ乱暴な所作だった。
 なりふり構っていられないのだ。
 木々の所為でドラゴンが枝葉に身体を擦り付けながら進む音や気配は感じられても、その姿を目視することはできない。しかしその方向にはエレンの家がある。そこがドラゴンの目的地であれ、またただの通過点であれ、エレンに危機が迫っているのは確実だとリヴァイは歯噛みした。
「くそっ!」
 もっと速く。もっともっと速く。
 どれだけ望んでも人間ではドラゴンの速度に敵わない。音が、気配が、遠ざかる。リヴァイを置いてあの温かな家に向かっている。
 今にも震えそうになる身体を叱咤してリヴァイは飛び続けた。
 そして――。


 広大な巨大樹の森の中にぽっかりとできた空間。日当たりの良いその場所に建てられた一軒家。
 三人で住むには少し狭く、一人では広すぎる。二人ならちょうどいいくらいのその家が、
「あ、あ、ああああああああああああああああ!!!!!!」
 無残に破壊されていた。
 黒竜に押し潰され、ぐしゃぐしゃに。中に人がいたならばきっと助からないだろう。そして家の周辺にリヴァイが求めた姿はない。
 リヴァイは叫んだ。悲しみを、怒りを、恨みを吐き出すように、昂らせるように。そうして両手に剣を構え、潰れた家の前でうずくまっているドラゴンを睨み付けた。
 翼に空いた穴は無茶な移動の所為で飛膜全体に広がっており、黒竜が再び飛ぼうとする様子はない。
 リヴァイは走った。ドラゴンがその尻尾をひと振りさせるだけで、ただのちっぽけな人間であるリヴァイは叩き潰されてしまうというのに。そんなものは全て頭から吹き飛び、ただ目の前の悪竜を自分の手で討ち取るという考えしか残っていない。
 黒竜が接近するリヴァイへと視線を向ける。黒い皮膚と鱗に覆われた眼孔にはまっているのは黄金。その色がリヴァイの脳裏に何かを訴えかけてくる。だがもう止まれない。リヴァイは胸の内で荒れ狂う感情のまま刃を振り上げた。

* * *

 もうひとりぼっちは嫌だった。
 アルミン・アルレルトとミカサ・アッカーマンはエレンが覚えている中で最初の友達であり、かけがえのない家族である。
 エレンは親の顔を知らない。自分がどこでどうやって生まれたのかも知らない。気付いた時にはこの深い森に棲んでいて、そうして森に迷い込んだ幼い少年少女と出会った。
 人間からすれば恐るべき異形に違いないエレンをアルミンとミカサは受け入れて、二人と一匹は仲良く暮らすようになった。頭の回転が速いアルミンはドラゴンという種に興味を持ち、エレンの知っていること・知らないことを含めて色々なものを発見し、考察し、知識をまとめていった。喧嘩もしたが、とても楽しい日々だった。
 けれどそれにも終わりが来る。生命として純然たる違いがある二人と一匹は、人間の寿命というものによって引き離された。エレンが初めて体験する喪失だった。
 日々の生活は色を失い、生きる意義を見失う。けれどもそんなエレンの前に再び人間は現れた。
 リヴァイとの生活はエレンに喜びを思い出させ、そうして喪失への恐怖をもまた思い出させる。
 人の世に生きるリヴァイを自分の傍に留めておくことはできないと知っていたエレンは彼を送り出すことにも躊躇わなかったが、それでもやはり思う。ひとりぼっちはいやだ、と。
 だと言うのに運命は残酷だ。残酷さこそが世界の有り様だと言うのなら仕方ないのかもしれない。しかしエレンには辛すぎる仕打ちだった。
 リヴァイはエレン(ドラゴン)を殺すために森へやって来た兵士だったのだ。
 エレンに誰かといる喜びと再び一人になった時の孤独を思い出させ、そして最後に絶望を与えたリヴァイ。
 混乱、困惑、驚愕、悲嘆。なんでこんなことに、と思う。
 だがそれらの感情を突き抜けた先で、エレンはとうとう諦めた。
(もういいや)
 自身に向けられた白刃。エレンはそれから目を逸らすことなく胸中で呟く。
 ひとりぼっちは嫌なのだ。ここで助かってもエレンは孤独から逃れられない。ならばもうこの辺で終わっても良いのではないか。
 二度目の喪失には耐えられそうもない。
 リヴァイはドラゴン討伐という仕事も終えられて一石二鳥。もしかしたら『悪いドラゴン』を退治したことで誰かから称賛されたり、感謝されたり、褒賞をもらえたりするかもしれない。ならば一石三鳥だ。
 抵抗は一切せず、エレンは金の瞳でリヴァイを見る。優しかった彼は憎悪にまみれた顔でエレンを睨み付けていた。やはり人間である彼はドラゴンという種を嫌っていたのだろう。
 エレン・イェーガーがドラゴンだとばれる前で良かったとエレンは思う。人型の時に、エレンをエレンと認識している時に、リヴァイにこの表情を向けられてしまったらエレンはきっと耐えられなかった。
(リヴァイさん、リヴァイさん)
 ドラゴンの姿では人に言葉が通じないと分かった上でエレンはリヴァイの名を呼んだ。口を開いたことで噛みつかれると思ったのか、リヴァイが身体を緊張させる。けれども飛びかかってくる速度は落ちない。最悪、刺し違える気でいるのだろう。
 そんな必要などないのに。
(あんたはオレにとって喜びであり、絶望だったよ)
 白刃が迫る。狙うのは喉。そこは硬い鱗に覆われた竜の身体の中で最も防御の薄い『弱点』だった。きっとアルミンの手記にも書いてあったことだろう。
 人型の時のようにエレンはきゅっと両目を細める。笑みの形になっていればいいのだが、さてリヴァイにはどう見えたのか。
 切り裂くことに特化した刃が喉に触れる。
 そして、エレンの意識は途切れた。

* * *

 金色の目をした黒竜は一切の抵抗なく、喉を裂かれて絶命した。切り裂いたところから吹き出した血でリヴァイは全身を真っ赤に染める。
 だが三白眼気味の双眸は切り裂いた喉の部分など見ていなかった。茫洋とした表情で眺めるのは瞼を閉じることなく青い空に向けられている黄金の瞳。
 リヴァイはこの色を知っている。名前も思い出も失っていた自分を一ヶ月以上温かく包み込んでくれた、あの色だ。
 唇が震えた。
 まさか、と音もなく呟き。そして。
「……え、れん?」
 まるで迷子になった幼子が母親を求めるようにその名を呼ぶ。
 しかし事切れた竜は二度と起き上がらず、その場にくずおれたリヴァイに微笑むこともなかった。














 一年後。
 リヴァイはドラゴンに押し潰されたあの家へとやって来ていた。人の手が入らなかったその場所は草が生い茂り、経過した月日の分だけ森にうずもれようとしている。
 己がとどめを刺したドラゴンの躯はない。かわりに、倒壊した家の前にはちょっとした大きさの土塊が鎮座していた。
 事切れた黒竜はあのあと静かにその肉体を土に変え、小山を形成したのである。ちょうどリヴァイの行動に驚いた他の兵士らが追い付いた後だったので、リヴァイがドラゴンを退治したという話は瞬く間に広まった。
 兵士達は歓喜に沸き、リヴァイを称賛した。だがその声は長く保たない。
 その後すぐ、生き残った村人達から、村を襲ったのはドラゴンではなく盗賊であると証言が上がってきたのだ。しかもドラゴンは村人を襲うどころか村を守り盗賊達に牙を剥いていたと。結局、これまで襲われた村もその盗賊達の仕業であり、ドラゴンは一切関係なかったのだと判明した。
 幸か不幸か竜討伐の部隊がやって来たことで生き残っていた僅かな盗賊達は竜の牙ではなく人間の法によって裁かれ、リヴァイの手に残ったのは『単騎でドラゴンをも殺せる兵士』という称号と、この手で奪った命の重さに対する大きすぎる後悔だけだった。
 それでも世界は明日を迎え、人間は生きていく。
 あの日から一年が経ち、リヴァイは草花が生え始めた土の山に持参した花を供える。
 付き添いはいない。誰にも見せられない姿を晒すことになると分かっていたからだ。
 リヴァイはその場で膝を折り、土塊に縋りついた。
「エレン……ッ!」
 最期の瞬間、あの少年は何を思ったのだろう。リヴァイを憎んだろうか。恨んだろうか。恐れただろうか。
 憎み、怒り、恨んでくれていればいいとリヴァイは思う。
 たとえ知らなかったとはいえ、自分は許されないことをした。大切なものを守るつもりで、自分の手でそれを失ってしまった。なのに自分には『やるべきこと』があって、今日もまだ生きている。生きて、壁の外の世界へ行き、仲間を失いながら巨人を殺し、いつか来る人類の解放のために戦っている。
「えれん。えれんえれんえれん」
 壊れた機械のようにエレンの名を繰り返し、土塊に深く爪を立てた。空は晴れているのに、ぽたぽたと地面に水滴が落ちる。
「エレン、俺は――」

「だぁれ?」

 声が、した。
 リヴァイが息を呑んで顔を上げると、エレンだった土塊の上に小さな影が一つ。頂上付近に腰を下ろしたその人影は大きな金色の瞳をくるりと輝かせてリヴァイを見下ろしていた。
「泣いてんの?」
 まるでついさっき土の中から這い出してきたかのようにその小さな身体はどこもかしこも汚れている。低い頭身、短い手足、舌足らずな口調。ついでに言えば素っ裸。おまけに背中からコウモリに似た小さな黒い翼が見え隠れしている。
 ああ、まだきれいに人型を取ることができないのか、とリヴァイは唐突に思った。思うと同時に涙腺を緩ませたまま両手を伸ばす。
「おいで、エレン」
 名前を言い当てられ、幼竜は大きな目を更に見開く。リヴァイは微笑んだ。その笑みに引き寄せられるように幼竜は土の小山を降り、そっと差し出された手に触れる。リヴァイは衝動の赴くまま小さな身体を己の腕の中におさめ、汚れが付くのも厭うことなく頬を寄せた。
「エレン……ああ、エレン! これは夢じゃねぇよな」
「ゆ、めー?」
 ことり、と幼竜が小首を傾げる。
 その動作すら愛しくて、リヴァイはこらえきれずに温かな涙を流した。






ドラゴン







2015.06.11 pixivにて初出