東の森の屋敷には化け物が一匹住んでいる。


【1】


 東の森に住んでいる伯爵を殺せ。心臓を突き刺し、首を切って持ち帰れ。
 リヴァイに与えられた仕事はこの辺り一帯を治めるイェーガー伯爵の暗殺だった。悪政と善政どちらでもないごくごく平凡な統治を行い、人前にも滅多に現れない伯爵は、住民達にとって普段ほとんど意識しない存在である。
 そんな可もなく不可もない男を殺せとは一体どういう理由からだろうか。
(……考えても仕方ない)
 リヴァイは思考を断ち切った。自分はただ育ての親であり仕事の斡旋役でもあるケニー・アッカーマンの指示通り、森の屋敷の伯爵を殺せば良いのだ。
 目の前にそびえる大きな屋敷を見上げてリヴァイは一度深呼吸をした。
 荷物は肩から掛けた鞄が一個。あからさまに武器と分かる物は入っていない。リヴァイはしばらくこの屋敷で使用人として働き、隙をついて屋敷の主である伯爵を殺害するよう指示を受けていた。
 木製の扉に取り付けられたドアノッカーを叩いてリヴァイは声を張り上げる。
「本日よりこちらで働かせていただくことになりました、リヴァイと申します。お屋敷の方はいらっしゃいますか?」
 返答はなし。誰かが扉に近付いてくる気配もない。まるでもぬけの殻と言わんばかりの様子にリヴァイは顔をしかめる。
 だが、かなりの時間待ってリヴァイが思わず踵を返して帰りそうになった時、突如として扉が開かれた。
「遅くなってすまない! よく来てくれた。オレがここの――……あれ? 誰もいねぇ?」
 勢いよく扉を開いて顔を出したのはまだ若い黒髪の青年。金色のアーモンド・アイがきょろきょろと周囲を見渡す。その目に、彼よりもずっと背の低いリヴァイの姿は映っていない。
「……おい」
「うお!?」
 低い唸り声のような呼びかけに青年がびくりと肩を震わせる。そしてようやく見つけたリヴァイの姿に元々大きな目を更に大きく見開いた。
「え、子供?」
「…………もう十三歳だ。立派に働ける」
 自分が平均より小柄なことを自覚しているリヴァイは思わず敬語も忘れて答える。この見た目からして、屋敷の中でもさほど位の高い者ではないだろう。
 案の定、青年は「ごめんなー」と破顔した。
「さ、入ってくれ」
 促されてリヴァイは屋敷に足を踏み入れる。人の気配が感じられない割に屋敷の中は綺麗に保たれており、チリ一つ見当たらない。暗殺などという仕事を請け負う傍ら掃除好きでもあるリヴァイはこっそりと己の仮の職場環境に満足した。
 気分が良くなったおかげで少し棘の取れた表情を浮かべつつ、リヴァイは案内役として一歩前を行く青年に声をかけた。
「あんた、名前は?」
「オレはエレン。よろしくな」
 エレンと名乗った青年はリヴァイの方を振り返ってにこりと笑う。「よろしく」とリヴァイが返答すれば、その笑みは更に深まった。
「ところで伯爵様は今どちらに? 挨拶は……」
「え? 挨拶ならたった今済ませたじゃねぇか」
「は……?」
 小首を傾げるエレンにリヴァイはぽかんと口を開けて唖然とする。
「それは、どういう」
「どうもこうも、オレがこの屋敷の主、エレン・イェーガーだ」
「はあ!?」
 リヴァイは声を裏返す。
 確かに足を止めて名乗り直したエレンの姿は堂々としており、どこかの貴族の子息くらいには見えた。しかし彼の見た目はあまりにも若く、それよりなにより――
(なんで伯爵自ら使用人の出迎えなんぞしてやがんだ!)
 屋敷にこもりきりの男一人殺すくらい簡単だと思っていたのだが、それとは別に開始早々奇妙な展開に見舞われてリヴァイは頭が痛くなった。


【2】


 伯爵らしくない伯爵、エレン・イェーガー。ひょっとしたら使用人の一人がリヴァイをからかっているのではないかとも思ったが、あの後、ちょうど出先から帰ってきた本来の使用人――アルミンとミカサの証言により、エレンが本当の伯爵であることが明らかとなった。
 奇妙なのは本人だけではない。この屋敷の管理・運営自体がおかしかった。
 決して狭くは無い屋敷――何と言っても伯爵の本邸なのだから――に住んでいるのはエレン、アルミン、ミカサの三人だけなのである。そして今回リヴァイが加わったことで屋敷の住人は四人になった。
 四人。たった四人だ。腐っても伯爵が所有する屋敷の住人の数ではない。しかしあれから数日経っても彼ら三人以外の誰かを見かけることはなく、そうであるにもかかわらず屋敷の管理は問題なくなされていた。知らない間に食事ができていたり部屋が綺麗になっていたりするので、冗談で魔術でも使っているのかとすら思ってしまう。
「魔術か。リヴァイは面白いことを考えるな」
 初対面の一件に加え、あまりにも相手が伯爵らしくない所為で、リヴァイはあっと言う間に主人であるエレンと普通に会話するようになっていた。
 エレンは暇を見つけてはリヴァイを構っているらしく、日に何度も話しかけられる。時には私室に呼ばれ、彼自ら紅茶を振る舞ってくれるほどだ。以前からの従者である二人――特にミカサの方――にはあまり良い顔をされないが、エレン本人が望んでいることとあって、軽い忠告以外は受けていない。
「実はこのオレこそが魔術師で――」
「こっちはそんな冗談を真に受けるような齢じゃねぇんだが」
「ははっ。ごめんって」
 じろり、と下から睨み上げれば、エレンの苦笑が返ってくる。
 屋敷の管理が行き届きすぎていることを魔術と称したのはリヴァイだが、そんなものをまともに信じているわけがない。魔術師も魔女も幽霊も妖精も吸血鬼も狼男も、そういうものは全て幼い子供を躾ける時に使う大人達の方便だ。リヴァイくらいの齢の子供にはまだ一部通じるかもしれないが、生憎リヴァイ自身はそういう架空の存在より人間の方がずっと恐ろしいことを知っている。
 ただしエレンに関して言えば恐ろしいと感じる部分はとんと存在しなかった。
 政はきちんとやっている。伯爵本人の努力に加えて二人の使用人が恐ろしく有能なおかげで、街や各村に配されている役人からの報告は全て目を通され、こちらからは適切な指示を返している。また過剰な徴税も行っていないため伯爵家もさほど懐に余裕があるわけではないが、浪費家でもないのでそちらの心配も無用だ。
 数少ない使用人達への態度も悪くない。アルミンとミカサはエレンの幼馴染でもあるらしく、三人は主従という立場を完全に崩すことはないが、良好な関係を築いている。無論、リヴァイへの態度も、使用人に対するものとしては完璧ではなかったかもしれないが、個人としては好ましいものだった。
 総じて『悪くない』イェーガー伯爵。しかしリヴァイには一つ気になることがあった。


 夜。夕食を終えて少しするとエレンは街へ出て行く。頻度は二日〜三日に一度。戻って来るのは出かけてから数時間後のこともあれば、夜明け前の場合もある。そして戻って来た時のエレンは必ず強い香水の香りを纏っていた。自分のものではない。女物の香水だ。
 照明を必要最低限に絞った薄暗い屋内でも分かるほど帰宅後のエレンは頬を赤らめ、目元には得も言われぬ色気が漂っていた。街で何をしてきたのかは明白である。
 街に出た時にそれなりの金額を使っている様子は無かったので、娼婦を買っているわけではない。それに伯爵なのだから女を買いに行くのではなくここに来させればいい。つまり街にはエレンと金銭の発生しない関係を結ぶ相手がいるということだ。しかもエレンが自ら赴くほど惚れ込んでいる相手である。
 ――と、思っていたのは最初の数回ほど。その後、リヴァイはエレンの纏って帰ってくる香水の香りが毎回異なることに気付いた。つまり、エレンの相手は決まった人間ではないということ。気の良い伯爵は女に関してのみとんでもなくだらしない男だったのである。
 ケニーがエレンの殺害の仕事を振ってきたのはこれが原因だろうか? しかし、それにしては理由が軽いような……。ひょっとしたら、依頼主はエレンに手を付けられた娘の親か恋人(自称を含む)か何かなのだろうか。そう考えつつ、リヴァイは与えられた自室でベッドの上に寝転がっていた。
 一人部屋という所からして破格の扱いだが、ベッドはたかが一使用人に与えられるにしては上等過ぎるもので、実はリヴァイが生きてきた十三年の中で一番良い家具だったりする。
「そう派手過ぎるわけでもねぇのに、たかが女遊びで殺されちゃあアイツもやってらんねぇよな」
 宙を見上げて呟く。エレンの普段の態度を見ていれば、決して相手に手酷く当たっているわけではないだろうと予想できた。しかし誰かの気に障って、リヴァイのような者に依頼が回ってくる。仕事の期限は聞いていないが、潜入からひと月過ぎようとしており、そろそろ実行せねば相手もしびれを切らす頃だ。しかしリヴァイはあまり乗り気になれなかった。
(絆されているのか?)
 胸中で自問する。
 可もなく不可もない安定した統治を行う伯爵。女関係には眉をひそめるが、それ以外は好ましい人間で、下っ端で出自も定かでないリヴァイにも全く差別意識を持たず気軽に接してくる。
 また何度か話しているうちに分かったことだが、エレンは見た目に似合わず豊富な知識を持っており、リヴァイのあらゆる疑問に答えてみせた。二人で会話する際には紅茶を好んで淹れるが、夕食時には真っ赤なワインを飲むのが好きらしい。それから女物の香水の香りを纏って帰ってきた時は、リヴァイがあまり良く思っていないことを早々に気付いて自ら近寄ろうとはしないという分別を備えている。
「…………はぁ」
 重い溜息を吐いてリヴァイは手で両目を覆った。
 これでエレンがどうしようもない悪人なら何も悩まず殺せたのに、そうでないから迷ってしまう。
 しばらく考え込んでいるうちに目が冴えてきて、リヴァイはチェストの上の水差しを手に取った。しかしガラス製の水差しの中には水が全く入っていない。それを見ると余計に喉が渇いてしまい、リヴァイはしぶしぶ水差しを持って部屋を出た。調理場に飲み水がある程度保管されていたはずだ。
 しんと静まり返った屋敷の中にリヴァイの小さな足音だけが響く。足音や気配を完璧に隠す術は習得していたが、ここでは自身の本来の仕事がばれないよう日中は足音を殺す癖を抑えていた。それが今も発揮されてしまったのだ。
 このままでも問題は無かったが、誰もいない空間で自分の足音だけが聞こえるのは何だか気味が悪く、リヴァイはそっと自らの足音を消す。夜目が利くため燭台も持っていない。息を殺し、闇に同化するようにそろりそろりと進む。
 二階へと続く階段の前を通りかかったその時、リヴァイの耳がかすかな異音を捉えた。
(人の声、か……?)
 今夜、エレンは出かけていない。夕方から客人がやって来たためだ。エルヴィン・スミスという金髪碧眼の男はエレンと共に夕食をとった後、二人で客間に引っ込んでしまった。そして客間はこの階段を上ってすぐのところにある。かなり夜も更けてきたが、エレンとエルヴィンはまだ客間で話し込んでいるのだろうか。
(ん?)
 胸にもやもやとしたものが広がってリヴァイは首を傾げる。
 エレンが客人と一緒にいることの何がそんなに気にかかるのだろう。
 リヴァイは調理場に行くはずだった足を階段に向けた。屋敷の使用人として∴ル音の正体を確かめに行くだけだ、と胸中で幾度か繰り返す。
 そろりそろりと足音を殺したまま階段を上り、客間へと向かう。闇の中、目的の部屋から僅かに灯りが漏れているのを見つけた。扉が少しだけ開いている。話し声と思しき音もそこから聞こえていた。
 リヴァイは未だガラスの水差しを持ったままそちらへと近付いて行く。息をひそめ、扉の前に立った。その時。
「……っ、ぁ」
(ッ!)
 びくりと硬直する。扉の隙間から聞こえてきたのは押し殺した嬌声だった。声は低めで、女のものではない。エレンかエルヴィンどちらかのものだと察したリヴァイは、次いで嫌悪に顔をしかめた。
 男同士で密事に耽っていることに関してではない。そういう嗜好を持つ人間が一定数存在することは知っている。リヴァイが不快に思ったのは、エレンが不特定多数の女のみならず男まで、しかもわざわざ屋敷に招き相手にしていることについてだった。
 エレンが男女区別なく複数の女や男に触れ、また触れさせている。今まではその名残を感じ取る程度だったが、こうして直に扉一枚向こうで行為が行われていることを知ると、腹の底に鉛でもたまっているような気分になってくる。胃がムカムカとして、今にも吐きそうだ。
 吐き気を抑えるようにリヴァイは水差しを強く握りしめた。
 扉の隙間からは荒い呼吸に混じって恍惚の溜息を漏らす音が聞こえてくる。ぴちゃぴちゃと少し粘着質な水音も一緒に。
 そんな中、リヴァイは微かな血のにおいを感じ取った。裏の仕事を請け負う者として嗅覚にはかなりの自信がある。においは部屋の中から漂ってくるものであり、リヴァイはぎょっとした。
(これで野郎二人の特殊プレイだったら笑えねぇぞ)
 胸中で毒づきつつ隙間から部屋の中を窺う。万が一を考えてのことだった。
 しかし廊下からでは二人の姿を目視することができない。意を決し、リヴァイは扉に手を掛けた。僅かな軋みの音すら立てないよう注意して隙間を広げ、そこに身を滑り込ませるようにして入室する。
 入ってすぐ正面には四人がけのテーブルセット。左手奥にベッドがある。ベッドには天蓋が用意されていたが、現在それは半端に閉じられ、リヴァイの位置からはそこに二人の人影を確認することができた。
 押し倒されているのはエルヴィンの方だ。彼の腰の辺りにエレンが跨っており、上半身を相手の方に折り曲げていた。エルヴィンの手がエレンの腰と太腿に添えられている。ただしエレンの着衣はほとんど乱れておらず、あまり良く見えないが、エルヴィンの方だけ上半身裸であるように思えた。
「ん……ふ、っ」
「っく、ぁ」
 エレンが吐息を零し、そして水音。エレンに何かをされているらしいエルヴィンが僅かに声を漏らす。しかし苦痛を感じている様子はない。どちらかと言うと気持ち良すぎて声が出ているようだ。
「え、れん」
「エルヴィンさん」
 かすれ気味の声で名を呼ぶ客人に、エレンは一度顔を上げて呼び返す。倒していた上半身を起こしたおかげで、リヴァイはエレンの横顔をわずかに確認することができた。
 笑みを浮かべたその唇が異様に赤い。『血色が良い』どころの話ではなかった。血でも塗り付けたように真っ赤な唇。自らのそれにエレンが舌を這わせる。
「もう少しだけ、良いですよね?」
「……お手柔らかに」
「勿論です。死なれては困りますから」
 妖しく細められたその双眸は普段よりも濃い金色で、自ら光を発しているかのようだった。
 エレンが再びエルヴィンの首筋に顔をうずめる。再開される呼気と呻きと水音。直感的にそれは性行為よりも更に隠すべきことだと感じてリヴァイは身をひるがえした。なんとか気配を殺すことだけは継続して自室に駆け戻る。
(なんだあれは!)
 二人が何をしていたのかは分からない。だが『見てはいけないものだった』と本能が察している。
 空っぽのままの水差しをチェストに戻し、リヴァイはベッドの中に潜り込んで身体を丸めた。まるで幼い子供がオバケから身を隠すように。
 硬く目を瞑ってもエレンらの姿が瞼の裏に焼き付いて消えてくれない。愛おしそうにエレンの身体に添えられていた手。恍惚とした吐息を零すエレンの横顔。妖しく濡れた真っ赤な唇。それを舐める赤い舌。金色の目は光り輝き、おとぎ話に出てくる人喰いの魔物のよう。
「……はっ、なんで」
 リヴァイは己の身に起こった変化に気付いて戸惑いの声を上げた。丸めた身体の中央、身体の一部が存在を主張し始めている。
「なんで、今、勃ってやがるんだよ……ッ」
 妖しいエレン。美しいエレン。男の身体に跨って唇を真っ赤に染めていた、魔物のような青年。その姿が脳裏をよぎるたびに股間は熱くなっていく。
 ――エレンを恍惚とさせているのがエルヴィンではなく自分だったら良かったのに。
 そんな声が頭の中に響いて、リヴァイは「クソが」と罵った。


【3】


「おはようリヴァイ。ってどうした、その隈」
「……なんでもない」
 結局あれから一睡もできなかった。あのまま自身を慰めるのも良くない気がして、もどかしい熱を抱えたままエレンの妖しい姿を頭から消し去ろうと無駄な努力を重ねていたのだ。
 一方、エレンは昨夜の淫靡な姿など幻だとでも言うように普段の好青年然としていた。唇に血のような赤さはなく、瞳もヘーゼルに近い落ち着いた金色である。
 しかし朝食の時間になっても客人であるエルヴィンは食堂にやって来なかった。代わりにアルミンが客間へと朝食を運び、そちらで済ませたらしい。客間から戻って来たアルミンは平常通りであり、そこで何かいけないものを見た様子は無かった。
 また昨夜はそれなりに血のにおいがしていたものの、アルミンもしくはミカサがエルヴィンの元へ怪我の治療道具を運んでいる素振りはなかった。ではあの血のにおいは一体何だったのか。
「リヴァイ。リーヴァーイー?」
「何だ」
「そりゃこっちの台詞だ。何か悩み事か?」
 黙り込んでしまったリヴァイを心配してエレンが顔を覗き込んでくる。間近に金眼を見た途端、リヴァイの脳裏に昨夜の光景がよぎって心拍数が跳ね上がった。
「ッ! 近寄るな!」
「は? な、なんだ? お年頃か?」
 一歩退いたリヴァイにエレンは怒るというより驚いたらしく、目をぱちくりさせる。次いでリヴァイに触らないと意思表示するように両手を軽く上げ、「思春期ってやつかなぁ」と呑気に呟いた。やはり昨夜の媚態とは重ならない。
(じゃあ何か? 昨日のあれは俺の夢だったとでも言うのか?)
 そんなはずはないともう一人の自分が否定する。しかし確固たる証拠が無かった。
「よくわかんねぇけど、悩みがあるなら相談に乗ってやるからな。使用人だからって遠慮すんな」
「……ああ」
 その悩み事の原因がお前だとは言えず、リヴァイは頷くだけにとどまった。エレンも現時点でこれ以上の追及をする気はないらしく、軽く肩を竦めてその場を去る。伯爵たる彼はいつまでも使用人一人にかかずらっている暇はない。片付けねばならない仕事があるのだ。
 その背を見送り、リヴァイは溜息を吐いた。その吐息に熱が籠っているように感じられたのは、気のせいだと思いたい。


 昼過ぎになり、エルヴィンが客間から下りてきた。ちょうど迎えの馬車がやって来て、エレンと少し言葉を交わした彼はそのまま馬車に乗り帰ってしまう。
 馬車に乗り込むまで――否、乗り込んだ後も、リヴァイを一瞥することすらなかった。その青い目はひたすらエレンに向けられており、甘ったるい気配を漂わせるばかり。その様はまるでエレンの虜≠セ。
 リヴァイはエレンに触れるその手を忌々しいと思いながら、同時にエルヴィンをひどく哀れな男だとも感じた。――魔に魅入られた者は破滅するのみ。魔そのものが何かを返してくれることはない。
(いや、エレンは人間だろうが)
 エルヴィンが乗った馬車を見送りつつ、リヴァイは己の思考に否定を突き付けた。エレン・イェーガーは男女関係がだらしないことを除いてほどほどに善良な統治者だ。そして可哀想なことに、誰かから死ぬことを望まれている。
「……さっさと仕事を片付けねぇとな」
 すでに周囲から誰もいなくなったのを良いことに、ぽつりと独りごちる。
 返答など有るはずのないそれに、しかし突如として知っている声が返された。
「ほう? そりゃ使用人としての仕事か? それともてめぇが本当にやらなきゃいけねぇ仕事の方か?」
「! てめぇは!」
 ぎょっとして振り返ったリヴァイの視線の先に細身の男が一人。
「なんでてめぇがここにいやがるッ……ケニー!」
 ケニー・アッカーマン。リヴァイに仕事を割り振る当人であり、育ての親でもある男。そんな人物の登場にリヴァイは警戒を強める。
「はっ! あまりにもてめぇの仕事が遅すぎて様子を見に来てやったんだよ」
 剣呑な目つきのリヴァイとは反対に、ケニーは軽い口調で仕事の遅さを指摘する。
 リヴァイは舌打ちをした。確かにそろそろ仕事を終わらせなければと思っていたが、他人から改めて言われると腹が立つ。
(……いや、こんなにもイライラする理由はそれだけか?)
 ふと、疑問に思った。
 単に忠告を受けただけだ。ケニーが厭味ったらしいのはいつものこと。それだけでこんなにも苛立つのはおかしかった。
 リヴァイの過剰な苛立ち具合をケニーも察したようで、ニヤリと口元を歪める。
「なんだ、クソガキ。てめぇアイツに絆されたか」
「っ、」
 咄嵯に否定を返すことができなかった。ケニーの言葉は図星だったからだ。
 認めるしかない。リヴァイはエレンを殺したくないのだ。伯爵らしくない伯爵。気の良い青年で、統治者としては可もなく不可もなく、ただし男女関係にかなりだらしない、そして魂の奥底を揺さぶられるような妖しい魅力を持つエレン・イェーガー。リヴァイは彼との仮初の生活を失いたくなかったのである。ゆえに、相手を見極めるつもりで、またタイミングを見計らうという建前で、だらだらとここまで仕事の完遂を引き延ばしてしまった。
 しかしケニーが現れ、猶予は失われた。リヴァイは自身に与えられた仕事をしなくてはならない。
「くだらねぇ」
 黙して答えないリヴァイにケニーが短くそう吐き捨てる。侮蔑と苛立ちを含んだ声だった。
「あんな野郎とままごと遊びなんぞして何が楽しい。さっさと仕事を遂行しろ。アイツを殺せ。その首を切り取って俺の前に持って来い」
 その口調には、いつもいい加減で軽薄そうな雰囲気を纏うケニーらしからぬ怒気が含まれている。まるでこの件がケニーにとってただの仕事ではないのだと示すように。
(まさか)
 はっとひらめき、リヴァイはそれを口に出していた。
「エレンに死んでほしいのは……てめぇなのか、ケニー」
「ああ」
 一片の躊躇なくケニーは肯定した。
「アイツはガキに弱ぇからな。油断している隙にアイツの心臓を突き刺して首を切り落として来い」
 一体二人の間に何があったのか、リヴァイには分からない。少なくとも、この男は女を一人や二人取られた程度で金にもならない殺人をする人間ではないはずだった。ケニーが人を殺すのは、自分を捕まえようとする人間がいる時と、殺人そのものが金になる場合だけだ。
 ケニーの視線が憎々しげに屋敷へ向けられる。ターゲットへと向ける感情がその目にはたっぷり込められていた。
「殺すだけじゃなく首まで欲しいのか?」
 これまで通り仕事を与えられたなら、その通りに動けばいい。だと言うのにリヴァイはわざわざそんな疑問を口にする。しかし確かに謎なのだ。ただ殺すだけではなく、執拗に首まで欲しがるなど。リヴァイが殺したと言えばケニーは信じるだろう。リヴァイはまだ十三歳だが実績は確かだ。しかし敢えてエレンの身体の一部を欲しがるのには、死を確かめること以外の理由があるのではないかと思えた。
 もしかしてただ殺すだけでは飽き足らず、死者に鞭打つような真似をエレンの頭部に対して行うのだろうか。想像し、リヴァイは顔をしかめる。
 屋敷から視線を戻したケニーがそんなリヴァイの表情の変化を目にして眉間に皺を寄せた。
「何を想像してんのかは大体分かってる。が、そうじゃねぇよ」
 思い出すのも嫌そうにケニーは続けた。
「あいつは他の人間と違う。確実に『殺す』には手順があるんだ。だから心臓と頭を――」
 しかしケニーの言葉は途中で途切れる。視線はリヴァイを通り越してその背後を見ていた。目を見開き、息を呑むケニーの様子を訝しみ、リヴァイもそろりそろりと背後を振り返った。
 そこには――

「ケニー……またお前か」

 いつの間にかエレンが立っていた。屋敷の扉は開いていない。そんな変化があればリヴァイもケニーも気付ける。しかしそこには確かに一度建物内に入ったエレンがいるのだ。
 金色のアーモンド・アイは気だるげにやや瞼が降ろされ、表情も若者のそれではなく年老いて全てに飽いたような顔をしている。ガラリと変わったエレンの雰囲気に、リヴァイはそこにいるのが本当にエレン・イェーガーなのかと疑ってしまった。
「え、れん……? あの、これは」
 一瞬疑ったが、そこにいるのはエレン以外の何者でもない。そしてそう認識した途端、リヴァイはこの状況をエレンに見られたという事実にザアッと血の気が引く。
 エレンの口ぶりから、彼がケニーを知っているのは確かだ。『また』というくらい複数の接触があるのなら、おそらく何をしている人間かも理解しているだろう。そんな人間がリヴァイと話していた。ならばリヴァイが何のためにイェーガー伯爵の屋敷へやって来たのか、推測は容易い。もしかしたらすでにエレンの中では確信になっているかもしれない。リヴァイはただの使用人ではなく、エレンを殺すために送り込まれた暗殺者であると。
 バレたところで問題はない。今ここで殺してしまえばいいだけではないか。相手は殺しも何もできない一般人なのだから、殺そうと思えば簡単に殺せる。――そう、心の中で理性が訴える。しかし同時に、自身が狼狽えているのは仕事の成功率に関してではないと理解していた。
(もう、あの生活には戻れない)
 エレンと何気ない会話を交わせない。綺麗な屋敷で少数の人間で、静かに、けれど満ち足りた穏やかな生活。仮初めのそれが目の前で瓦解した。水面に映った月のように最初から実体がなく、掴むことのできないモノだったとしても、リヴァイという個人はそこに浸っていたかったのだ。
 エレンが歩き出す。金色の目はこちらを一瞥するが、エレンは声を失うリヴァイの横を無言で通り過ぎ、ケニーの方へと歩いて行く。
「お前も飽きないな? オレはもうお前の相手をするのは飽きてきたんだが」
「はっ、そう言うなよ。俺とお前の仲だろう?」
「嫉妬に狂ってオレの大事な『提供者』を百人以上殺した男が何だって?」
 双眸に剣呑な光を湛えてエレンは尋ねた。ケニーがニィと唇を捲り上げる。
「そりゃてめぇが悪いんだろうが。てめぇが俺を選ばねぇから……」
「たかが人間一人でオレの腹を満たせると思うなよ」
 はっ、とエレンが鼻で笑った。これぞ嘲笑と言わんばかりの、お手本のような嘲りだ。
 エレンが足を止める。ケニーの目の前、手を伸ばせば触れられる距離。ケニーの獲物は銃であるが、ナイフも隠し持っている。反してエレンは丸腰だ。
 ケニーの手が動く。隠しナイフを取り出すつもりだと気付いてリヴァイは駆け出した。しかしこの距離では間に合わない。エレンはケニーの手の動きを察した様子もなくただ突っ立っている。届かないと知りながらリヴァイは手を伸ばした。
「エレ――ッ」
「はいザンネン」
 グキョッ!! と耳障りな音が響き渡った。何が起こったのか理解できず、リヴァイは目を白黒させる。結果として言えば、ナイフで斬りかかろうとしていたケニーの手から刃物が落ち、更にその手が可笑しな方向に曲がっていた。
 ケニーの手首はエレンに握りしめられ――否、握り潰されており、先程の異音はこれによるものだというのが分かった。
 決して鍛えられているわけではない腕で成人男性の手首を握り潰したエレンは脂汗を浮かべた相手を平然とした顔で見据えている。
「お前がオレに敵うわけねぇだろ? 持ってるモノが違う。純粋な腕力も、反射神経も、動体視力も。生物としての規格が違うんだから」
 デキの悪い生徒に教え込むかの如くエレンは淡々とそう語った。まるで自分は違う生き物だとでも言いたげに。またケニーの方もそんなことは百も承知だと答える。
「だからあのガキを使ったんだがな」
「だと思った。しかもお前の血筋の人間だな? 最初に匂いで分かったよ」
「ちっ、そっちでバレてやがったか。追い出さなかったのは害が無ぇと思ったからか?」
「それが半分。あとは顔が好みだった。――おっと、自分の親戚にまで殺気向けんなよ」
 未だケニーの手首を拘束したままエレンは笑う。その視線の先、振り返ったケニーから向けられた殺気にリヴァイは息を呑んでいた。ぶつけられているのは正真正銘、本物の殺気だ。これまでリヴァイを好いてもいないが殊更嫌ってもいなかったはずのケニーが隠すことなくリヴァイに怒りと憎しみをぶつけている。ビリビリと毛を逆立てるようなそれにリヴァイは息を呑んだ。エレンが止めろと言ってもケニーはそれを抑えない。
「オレが……ケニー、お前を傍にいさせなかったのは、お前が大事な提供者達を殺しまくってオレを怒らせたからだ。お前みてぇな狂犬、飼ってられるか」
 告げると共にエレンはケニーの腕を引く。骨を粉々にされた手首を握ったまま地面に引っ張られたケニーはなす術もなくうつ伏せで倒れ込んだ。起き上がらないようその背にエレンが足を乗せる。
「もういい加減諦めろ。オレはお前のものにはならないし、お前だけをオレのものにするつもりもない。お前だけじゃオレを生かすことはできねぇからな」
「だったらてめぇを殺して――」
「無理だって言っただろ? 生物としての規格が違う。お前は人間、そしてオレは」
 ちらり、とエレンの口元に人間にしては鋭過ぎる犬歯が覗く。

「吸血鬼、なんだから」

 はく、とリヴァイは唇をわななかせた。
 今、エレンは何と言った? 彼が吸血鬼?
 有り得ない。そう理性が否定する。化け物など子供を躾けるために大人が使う方便だ。魔術師も魔女も幽霊も妖精も吸血鬼も狼男も存在するはずがない。
 しかしその一方でリヴァイは昨夜のことを思い出していた。妖しく光る金色の双眸と、そんなエレンに組み敷かれたエルヴィンの姿。室内から香ったのは血の匂いであり、聞こえてきた水音は――……。
(エレンが血を啜る音……?)
 カチリ、とリヴァイの中で辻棲が合う。
 わざわざ自ら屋敷を出て街に向かうのは女を抱くためではなく、獲物を漁り、食欲を満たすため。過剰な香水は屋敷にいるリヴァイに血の匂いを勘付かせないため。エルヴィンが屋敷にやって来たのは、おそらく彼がそれなりの地位にあり――伯爵家を『友人として』訪れてもおかしくない地位にあるということだ――、エレンの正体を知った上で血を提供することに同意していたからだろう。
 元からこの屋敷の使用人であるアルミンとミカサもエレンの正体を知っていたと思われる。ゆえに血を吸われてベッドから出られないエルヴィンの世話を平然とした顔でやってのけた。
 リヴァイがこれまでのことを思い返す一方、エレンは未だこちらを振り返らない。自らが踏みつけたケニーだけに視線を向けている。
 そのことがリヴァイを酷く苛立たせた。
(……ぁ)
 自分が苛立っていると自覚した瞬間、リヴァイはそんな己の感情の動きに目を瞠った。突然正体を明かした化け物に恐怖するか、そうでなくとも戸惑うならば理解できる。当然の反応だ。しかし何故自分はそんな感情を押し退けて苛立っているのか。
 しかも怒りの矛先はエレンではなく彼が見据えるケニーに向けられていた。臓腑を焼き尽くすその熱量の名前をリヴァイは知っている。名も知らぬエレンの獲物達やエルヴィンに抱いていたのと同じ――嫉妬、だ。
 嗚呼、とリヴァイは声もなく呟いて瞑目した。
 脳裏をよぎるのは金の瞳。美しく妖しい青年の姿。リヴァイはその瞳に映りたい。彼に触れて、触れられ、自らの体内を流れる血潮が彼の身体に取り込まれる様を想像するだけで全身に震えが走る。背筋を駆け上がるぞくぞくとした感覚は紛れもない快楽だ。
 左手で右手を強く握りしめる。エレンに血を吸われる想像は指先まで痺れさせた。
「なぁケニー、お前まだ分かんねぇのか。他の提供者と同じポジションで満足しろよ。お前はオレの特別にはなれない。オレの大事な提供者達を百人殺しても、千人殺しても、オレはお前を面倒なヤツだとは思うけど、自分の『たった一人』にはしない」
 相変わらずケニーを踏みつけたまま、エレンは淡々と語りかける。地面に伏せたケニーは悔しそうに頭上を睨み付けていた。
(あいつもエレンに魅入られたのか)
 憎いわけではない。殺したいわけではない。ただ、あの男はエレンを殺してでも手に入れたいくらい愛しているのだ。
 頻繁に吸血が必要なエレンをたった一人の人間の血で賄えるわけがないと理解していても、エレンに魅せられた者は自分だけがエレンに血を提供する人間になりたいと願ってしまう。彼の特別になりたいのだと。けれどエルヴィンのようにその欲を抑えなければエレンに触れることは叶わず、欲を抑えられない者はケニーのようになる。
 さて、自分はどちらになるのか。
 リヴァイは更に手を強く握りしめた。
「だったら」
 視界の先でケニーが呻く。圧倒的な力量差を見せつけられ、またリヴァイを使った作戦も失敗した。彼にはもう次に取るべき手段が無い。
「だったら?」
 エレンはオウム返しに問う。
 ケニーはゆっくりと瞬き、金の目をした化け物に乞うた。
 周りの人間を排除しても意味が無いなら、エレン自身を殺して手に入れようとしても不可能ならば――
「俺の血を全部吸い尽くしてくれ」
 たとえ一時的であってもエレンの体内に留まっていたい。それも他者の血の分を全部押し退けるほど大量に。
 まさに命そのものを投げ打つ懇願だった。
 それを聞きいたエレンは、
「しょうがない。それくらいの願いなら叶えてやるか」
 どうせオレはいつも腹ペコだ、と笑う。
 ケニーの顔に歓喜が宿った。そうしてエレンはその場にしゃがみ込み、ケニーの身体を持ち上げて首筋に顔を近付ける。
 リヴァイは見ていられない気持ちになって目を背けた。しかし性能の良い耳は否応なしに魔物が人間の血を啜る音を頭の中に叩き込んでくる。
 やがてその行為が終わると、とさり、と異様に軽い音がした。リヴァイがそちらに視線を向ければ、干からびた何かが地面に横たわっている。その何かが纏っているのはケニーの服。
「ちっ。飲んでほしいなら不摂生してんじゃねぇよ、クソ不味い」
 ぶつぶつと不平を漏らしつつもエレンはケニーの願いを聞き届けたのだ。そうして金色の双眸が再びリヴァイを捉えた時、彼の顔に特別な感情は浮かんでいない。いつも通りの、好青年然とした、可もなく不可もない統治者の姿だ。
「こういう輩はこれまでにも何人かいたからな。もう飽きた」
 唖然とするリヴァイの顔を見てエレンはそう説明する。たとえ命を懸けても彼にとっては沢山の中の一つと同じ。何ら特別なことではないのだと。
 ヒクリ、とリヴァイの喉が震えた。
 誰もエレンの特別にはなれない。彼は化け物であり、自分達は人間――彼の餌。餌が血を差し出そうと、命を差し出そうと、刃物を持って飛びかかってこようと、化け物の心はちっとも揺るがない。彼にとっては見飽きた光景だからだ。それは理解した。十二分に、目の前で行われた悲喜劇に理解させられた。
「エレン……」
「ん? どうした」
 名を呼べば、エレンが平然と応じる。逃げないリヴァイに驚いた様子も、感心した様子もない。
 凶行に走ったケニーの例と同じく、彼にとっては吸血鬼だと知って逃げ出す人間も、逆に恐れず顔を見返す人間も、どちらのパターンも飽きるほど体験してきたのだろう。リヴァイは、数ある例の中の一つ。多数の中の一個。それを我慢できない者は、エレンに相手すらしてもらえない。
 けれど。

「どうすれば俺はお前と同じ場所に立てる?」

 リヴァイはエレンの特別になりたい。たとえ、人間であることを捨ててでも。
 エレンは、はたと目を見開いた。彼の中にはあまりないパターンだったのだろうか。
「そんなことを言われたのは初めてだ」
 吸血鬼は笑った。




 東の森の屋敷には化け物が二匹住んでいる。
 金の目をした青年と、銀の目をした少年が。






ヴァンパイア







2015.05.15 pixivにて初出