【1】


 845年、ウォール・マリア南部のシガンシナ区に超大型巨人が出現。シガンシナ区と外界を隔てる壁が破壊され、人類の居住地域に巨人がなだれ込んできた。
 対巨人戦の専門家である調査兵団は同日午前に壁外調査へ出発したばかりであり、住民を守りながら避難させる役目を負ったのは安寧に浸りきった駐屯兵団の兵士達。状況は絶望的で、事実、数多の命が失われた。
 しかしそんな中、壁外より帰還した調査兵団の面々は奇妙なものを見つける。廃墟と化したシガンシナ区に生存者がいたのだ。
 医者として住民達から慕われていたイェーガー氏の自宅前。壁が破壊された際に飛び散ったと思しき巨大な破片で家屋そのものは押し潰されてしまっていたが、無事だった庭に少年が一人、座り込んでいた。
 十歳程度の幼い少年が見つめているのは倒壊した家に身体を挟まれて抜け出せないまま倒れている女性の姿。
 女性が呼吸をしている気配はなく、少年は涙を流しながら歌らしきものを歌い続けていた。
 それを耳にした者が『歌らしきもの』とあやふやな表現をした理由は、声が掠れ気味で所々途切れ、更には歌詞が壁内で使われているのとは異なる言語だったからである。しかし涙を流しながら旋律を紡ぐ様は美しく、凄惨な状況の中に咲く一輪の花のようだった。
 調査兵団の兵士が少年に気付いたのもその歌の所為である。
 歌に気付いて最初に駆けつけたのは調査兵団に入ってまだ一年の――けれどもズバ抜けた実力を持つ――リヴァイという名の兵士だった。リヴァイがその光景を見た時、彼は思わず息を呑んだ。
 夕闇に沈みゆく世界で赤い日差しの中に座り込む少年。はらはらと涙を流す瞳は金とも銀ともつかぬ輝きを宿し、小さな唇を割って流れ出す旋律は聞いた者の心をざわつかせる。あまりにも現実離れした、美しいけれども悲しい光景だった。
 リヴァイが誘われるように敷地内へ足を踏み入れると、ちょうど太陽が壁の向こう側に沈み、シガンシナ区に夜が訪れた。同時に、歌がぴたりと止んで少年がリヴァイの方を見た。
「ちょ、さ……へいだ、ん?」
 少し吊り上り気味の大きな目が闇の中で銀色に煌めく。陽が落ちたことで巨人の活動も止まり、辺りはしんと静まっていた。――否。この少年の歌が聞こえていた場所だけは陽が沈む前から巨人の存在を感じなかった。
 不思議な光景に飲み込まれそうになりながらもリヴァイは公に心臓を捧げた兵士として、生存者である少年に手を差し出す。
「ここを出るぞ。ウォール・マリアの住民は全てウォール・ローゼに避難するよう指示が出ている」
 少年は一旦リヴァイから視線を外して家屋の下敷きになっている女性を見た。「母親か?」とリヴァイが尋ねれば、少年の小さな頭がこくりと頷く。
「生きては……いないか」
「水が……なかった、から」
 ぽつりと呟かれた少年の言葉から、リヴァイはこの女性が巨人に直接殺されたのではなく、家屋の倒壊に巻き込まれて重傷を負い、喉の渇きを訴えながら死亡したのだと推測した。超大型巨人の出現からこの時間まで半日も経っていないため、真実水不足で衰弱死したわけではないだろう。
 少年の勘違いをあえて訂正することはなく、リヴァイはその軽い身体を抱き上げる。少年は「かあさん」と母親に向かって手を伸ばしたが、彼女が死んでいることは十分理解しているらしく、唇を噛んで伸ばした手を引っ込めた。
 リヴァイは少年を抱きしめ直す。その瞬間、ふっと水の気配を感じた。しかしその気配を辿る前に腕の中の少年の目を見て息を呑む。
「……てやる」
 一度は母に伸ばした手を血が出んばかりに固く握りしめて少年は喉の奥から絞り出すように告げる。
「絶対に許さねぇ。母さんを死なせたアイツらを……巨人共を、必ず滅ぼしてやる」
 見開かれた双眸は自ら光を発するようにギラギラと輝き、その化け物じみた意志の強さをリヴァイに示して見せた。

「絶対に! オレが巨人を駆逐してやる!」

「ほぅ……悪くない」
 腕の中に少年を捕らえていたのはリヴァイ。しかし一瞬にしてリヴァイの興味を攫っていったのは、虚空を睨み付けてそう叫んだ名も知らぬ少年の方だった。


 シガンシナ区の町中から壁上へと戻って来たリヴァイに同じ調査兵団の仲間達はぎょっと目を剥いた。
 当然のことながら、皆の驚きはリヴァイが傷一つなく帰還したことに関してではなく――
「よく戻ったな、リヴァイ。ところでそれは?」
 次期団長と目されている分隊長のエルヴィン・スミスがリヴァイの抱えている『モノ』について尋ねる。
 それは成人男性としては小柄な方であるリヴァイも容易く抱き上げられるサイズだった。防寒用としてなのか、リヴァイの深緑のマントを肩に掛けられ、小さな手でその裾をぎゅっと握りしめている。身体をすっぽりと覆うマントから覗く顔は固く唇を引き結び、目だけが爛々と輝いていた。
 眼力は凄まじいが、どこからどう見ても幼い少年である。
 近くにいたハンジ・ゾエが「誘拐?」とゴーグル越しに訝しげな視線を投げかけた。
「誘拐じゃねえ。保護だ」
 すかさずリヴァイが訂正する。しかし眼光鋭い悪人面のリヴァイが小さな子供を抱きかかえている姿は、どう控えめに表現しても人攫いそのものだった。
「保護なら他の避難民達と合流させた方がいいんじゃないか? 家族もそちらにいるだろうし」
「母親らしき人間はこいつの目の前で死んでいた。それに……」
 エルヴィンの無難な提案を断りながらリヴァイは腕の中にいる子供を一瞥してふっと口の端を持ち上げる。
 未だ少しも治まらぬ巨人への憎しみに濡れた大きな瞳。それに気分を高揚させながらリヴァイは告げた。
「こいつは化け物だ。避難民の一人として最終的に開拓地へ送られるより、今から化け物の精神に見合った育て方をしてやった方がずっとこいつの、そして俺達のためになる」
「こんな幼い子供に対して『化け物』か……」
 苦笑を浮かべながらエルヴィンが少年を眺めやる。しかしリヴァイの言葉を否定することはない。
 エルヴィンはふっと息を吐き、ひとまずその子を降ろしてやったらどうかと告げるため口を開く。しかし実際に言葉を発する前に、少し離れた所から「げっ、あの巨人まだ動いてやがる」という一般兵の声が聞こえてきた。
 巨人は基本的に陽が沈むと活動を停止する。しかし陽が沈んでもしばらくは動ける個体も存在した。一般兵が見つけたのはその類だろう。
 しかしそれでもいずれは活動を停止することが分かっているので、エルヴィンや他の者達が特別に指示を出すことはない。声が聞こえた方から少年の方へと意識を戻す。そしてエルヴィンは目を瞠った。
「きょ、じん……?」
 ザワリ、と肌が総毛立つ。声を発したのはリヴァイの腕の中にいる幼子だ。周囲に設置した松明に照らされてその目は金とも銀ともつかぬ色に輝いている。
 炎の動きに合わせて揺らめく瞳を、巨人を見つけたと言う兵士の方に向けながら、少年はリヴァイの服をくいと引っ張った。
 リヴァイは少年の望みを察して壁の淵ギリギリまで近付く。少年の大きな双眸が暗闇の中に蠢く巨人の影を捉えた。
「あいつを殺したいか?」
 リヴァイは問う。殺したい、と返答されるのだと当然のように思いながら。
 しかし子供の答えはその更に上を行っていた。
「今ここで殺すよ」
 幼子の妄言だとは到底思えない確固とした物言い。どうするつもりだとその手法を尋ねる前に、子供は巨人を睨み付けたまま口を開いた。そこから紡ぎ出されたのは小さな身体に見合わぬ圧倒的な声量。そして、誰も知らない言語によって構成された歌。
 何をしているのかと問う必要はなかった。少年が歌い始めてすぐ、彼が睨み付けていた巨人は動きを止め、その身体から蒸気を上げ始めたのだ。白い蒸気の向こう側ではうなじを削いだ後と同じように肉体の腐敗が始まっており、巨人がすでに死亡していることを示していた。
 変化が起こったのはその活動していた巨人だけではなく、壁の傍ですでに活動を停止していた他の巨人達も同様に蒸気を上げて消滅し始めている。
「歌で巨人を殺せるのか……?」
 ぽつりとエルヴィンが呟いた。信じられない光景に周囲の兵士らは身を凍らせている。まるで身じろぎ一つでもすれば少年が紡ぐ『死の歌』の餌食になるとでも言いたげに。
 少年は五十メートルの高さがある壁の上にいたということもあって、声の届く範囲は左程広くない。しかしその範囲に存在した巨人がことごとく全身から蒸気を上げて死亡した後、歌はふつりと止んだ。辺り一帯、巨人が消滅していく音だけが小さく聞こえている。
「ふむ……。リヴァイ、良い拾い物をしたな」
 その静寂を割ってエルヴィンが発言する。ずっと少年を抱えたままだったリヴァイは自分の上官を見やって「だろう?」と自慢げに答えた。
 こんな力は予想外だったが、少年を見つけた時の状況の理由は判明した。それに子供が『化け物』であるのは、リヴァイにとっては既知の事実だ。今更特殊な力の一つや二つ問題ない。
 リヴァイは腕の中の子供を見下ろし、「おい、クソガキ」と話しかける。
「お前の世話は調査兵団で見てやる。そこでいくらでも巨人を殺させてやるよ」
 金と銀に揺らめく瞳がリヴァイを見上げる。
 少年は口を開き――
「………………み、ず」
 イエスともノーとも答えずに、ただその単語だけを発して気を失った。
「お、おい!」
 よく見れば小さな唇はカサカサに渇いている。微熱もあり、軽度の脱水症状であることを示していた。
 リヴァイは慌てて他の兵士に水を持ってくるよう指示を出す。答えを聞く前にこの少年には栄養と休息が必要らしい。
「ったく。中身と変な歌は化け物級だが、身体はガキそのものってか」
「そうらしいな。だがそれならこの子の答えは決まっているようなものだろう」
 リヴァイのぼやきにエルヴィンが苦笑する。しかし確かにこの偉丈夫の言う通りだ。まだ名も知らぬ少年は、きっと目覚めてからリヴァイにこう答えるだろう。
 調査兵団に入って巨人をぶっ殺したいです、と。


【2】


 リヴァイが拾った不思議な少年の名はエレン・イェーガーと言った。父グリシャ・イェーガー、母カルラ・イェーガー、同居人――当人曰く家族――のミカサ・アッカーマンとの四人暮らし。
 休息と水分補給でエレンが意識を取り戻した後に語った情報がそれである。母親のカルラはエレンの目の前で事切れたが、エレンの願いを受けてグリシャとミカサそれから親友のアルミン・アルレルトの行方は現在捜索中だ。しかし巨人の襲来と言う大厄災に見舞われた直後であるため、見つけられるかどうか、そもそも生きているかさえかなり怪しいところだった。
 一方、エレン当人は水分を摂取しただけで随分と体調も良くなり、すぐに自力で動けるようになった。目立った傷もない。目覚めた時にはすでに陽が昇っていて、リヴァイ達は今回一泊したウォール・マリアに最も近いローゼ内の調査兵団の支部から少人数で密かにエレンを壁上へと連れ出した。
 ローゼの壁上に立つと風が強く、その風に乗って煤けたニオイが届く。大混乱の中、火事も起こったのだろう。また壁上の固定砲も使用されたため、火薬のニオイが残っている。そして眼下には昨日まで人々が住んでいた領域に跋扈する巨人の姿。
 リヴァイは傍らに立つ少年を見下ろして「ここから歌ってみるか?」と尋ねた。
 昨夜の現象がもう一度起こるかどうか確かめる必要がある。そのためにリヴァイと団長の代理としてエルヴィン、それから巨人研究の担当としてハンジとモブリットだけがエレンと共にこそこそとこの場所へやって来たのだ。
 エレンはマリア側の大地を見下ろした。それからリヴァイを見上げ、膨大な怒りを内包したギラつく瞳で「もっと近くがいい」と告げる。
「そうか」
 簡潔にそう答えると、リヴァイはエレンを片腕で抱き上げる。そしてエルヴィンに目配せし、
「そういうことだから、しばらく地上に降りる」
「……無茶な真似はするなよ」
「誰にものを言ってやがる」
 憮然とした表情で返し、リヴァイはそのまま壁から飛び降りた。落下の最中にアンカーを放ち、巨大な壁に突き刺す。そうやって速度を調節しながら降りていけば、巨人の手がギリギリ届くかどうかの距離になったところで腕の中のエレンが歌い出した。
 リヴァイ達を捕まえようとしていた巨体が指先から崩れていく。
 エレンに近い部分から、またエレンに近い個体から、あっと言う間に消滅が始まった。リヴァイがブレードを抜く必要もなく、美しい歌声が届く範囲の巨人達は何の抵抗もできずに蒸気を上げ、腐敗し、骨を晒して、最後はその骨すら消えて無くなる。憎き対象が消滅するその光景はいやに爽快であり、また奇妙な悪夢を見ているようでもあった。
 どういう原理かは分からないが、これでエレンが巨人を殺す歌声を持っているということは事実であると認めて良いだろう。リヴァイはしばらくエレンを歌わせた後、まだ歌う気でいる少年を宥めてローゼ内へと帰還した。


 歌の効果の再確認も終わり、正式に調査兵団で身柄を預かることになったエレンは、ひどく水を欲しがる子供だった。その能力の有用性を考えれば水を好きなだけ与えるくらいの融通は利かせられるが、奇妙と言えば奇妙である。
 それから身体検査の際に下肢を晒すことを嫌がった。その様は羞恥と言うより忌避に近く、下着までは脱がなくていいと大人達が言うと、エレンは渋々それに従った。ひょっとしたら下着で覆われた臍から腿の上半分までのどこかに気になる痣や傷でもあるのかもしれない。
 しかしながら、巨人を殺す歌と腹から太腿までを隠したがる様子以外はきわめて普通の少年だった。特別優れた身体能力が備わっているわけでもない。ハンジが「エレンを解剖すればあの歌の秘密が分かるかも……?」と呟いたが、周りがそれ以上の接触を許さなかった。無論ハンジも冗談で言ったのだろうが――彼女は変人だが他人を平然と傷つけるような異常者ではない――、リヴァイですらうっかり背後にエレンを庇ってしまうくらい普段のハンジは研究に熱心≠ネのである。
 また、エレンの歌については『詳細確認中』ということで、事情を知る者には箝口令が敷かれた。その前に一部の人間から話が漏れてしまっていたものの、「歌で巨人を殺せるはずがない」と皆が一笑に付し、噂が広まっている気配はない。確かに実際の場面を目撃しなければ到底信じられる話ではないだろう。
 しかし調査兵団の上層部が十歳程度の子供を引き取ったという話は静かに、かつ早々に周囲へ広まり始めていた。誰かの親戚か隠し子か、はたまた稚児かと囁かれる中、大人達はエレンの身体の秘密を探る前にそちらへの対応を迫られることに。エレンと言う存在は隠しようがないのだから、変な噂が定着する前に――稚児など以ての外である――嘘でも何でも良いのでそれらしい役割を与えてしまった方が良い。
 と言うわけで、
「今日からリヴァイはエレンの兄と言うことで」
「は?」
「リヴァイにはファミリーネームが無かったな。ちょうどいい。これからはリヴァイ・イェーガーと名乗ってくれ。イェーガー夫妻の長男で、エレンが生まれてくる前に誘拐されて行方不明になっていたことにしよう。周囲やエレンに心配をかけてはいけないから夫婦はリヴァイのことを黙っていた……という設定で」
「設定? 何だそりゃ」
 エレンの生家があるシガンシナ区の住民が散り散りになったのを良いことに、エルヴィンがとんでもない案を出してきた。合いの手のように声を挟むリヴァイも呆れている。一緒にエルヴィンの執務室に呼ばれていたエレンも横で唖然としていた。
 しかしこれはただ単にエルヴィンが適当に思い付いただけのことではないらしい。次期団長候補であるエルヴィンはすっと真面目な顔になり、理由を告げた。
「今後エレンが成長して兵士として戦い始めた時、巨人の討伐数が異様に多かったとしても周囲は『リヴァイの弟なら』で納得しやすくなるだろう? 歌で巨人を殺しているという話よりは余程信じやすい。無論、エレンが戦う際は事情を知っている口の堅い者達で周囲を固める予定だが」
「そう言うことか」
「幸いにも二人とも黒髪で目つきも悪……いや、鋭い。瞳の色も同じではないがよく似ている。年が離れていることも合わせれば、なんとか兄弟で通るはずだ」
 不要な言葉が聞こえた気もしたが、確かに今後のエレンのことを考えれば実力者として有名になり始めているリヴァイの縁者としておいた方が都合は良いだろう。エレンも納得したらしく、リヴァイと目が合うと「にい、ちゃ、ん?」と小首を傾げた。物凄く言い慣れていない感がある。
「『さん』付けで十分なんじゃねぇのか。ずっと会っていなかったって『設定』なんだろ。まぁ、あえて兄と呼びたきゃそう呼べばいい。好きにしろ」
 リヴァイの言葉を聞いていたエルヴィンも異論はないらしく、「そうだな」とエレンを促すように言った。二人の大人にそう言われ、エレンはこくりと頷く。
「よろしくお願い、します」
「深く考えなくてもいいよ。君達は『ずっと会っていなかった兄弟』なんだから。仲が良さそうでも、逆にぎこちない関係でも、周りはそれなりに見てくれるさ」
 エルヴィンに言われてエレンは再び頷いた。神妙な顔をしているが、おそらく状況について行けていないのが原因だ。巨人の所為で母と故郷を失い、家族や友とは離れ離れ。憎しみを抱いて調査兵団に連れて来られたとか思えば、何故か知らぬ間に兄(仮)ができている。これがたった数日の間に起きれば、状況に置いて行かれるのも仕方ないだろう。
 リヴァイはエレンの頭にぽんと手を置く。こちらを見上げる大きな銀灰色の双眸と目が合った。昼間の屋内ではエレンの目とリヴァイの目が殊更似た色に見えるらしい。
「なんにせよ、俺達といれば巨人は殺し放題だろうよ。よかったな、俺の弟」
「……強い兄ができて光栄です、リヴァイさん」


【3】


 ウォール・マリアが放棄されてからたった数ヶ月後、年が変わってすぐ衝撃的な作戦が実行に移された。『ウォール・マリア奪還作戦』と銘打たれたそれは、事実上の口減らしである。マリアから逃げ延びてきた住民を全て養うには、ローゼ内だけでは不十分だったのだ。そして王侯貴族等の特権階級が住まうシーナは最初からマリアの住民を受け入れる気などない。よって溢れた人間が壁外となってしまったウォール・マリアに放り出される羽目になったのである。
 曲がりなりにも奪還作戦と名がついているため、まともな訓練もしていないマリアの住民の他に調査兵を主とした兵士も何名か付き添うことになる。それを選ぶのは各兵団のトップであり、選ぶという行為は「死ね」と言うのとイコールだった。
 調査兵団団長のキース・シャーディスはその重すぎる役目を果たした後、団長を辞任した。今後はせめて無駄死ににならない兵士を育てるため、教官として生きていくことに。そして彼の辞任に伴い、次の団長に就任したのはエルヴィンで、それと同時に他の兵士より突出した力を持っていたリヴァイが『兵士長』という特殊な役職につくこととなった。
「どうしてオレを奪還作戦のメンバーに加えなかったんですか」
 キースはすでにおらず、新しく団長となったエルヴィンにエレンが愚痴交じりに尋ねる。二人が腰かけているのは団長の執務室に備え付けられたソファセット。ローテーブルを挟んで向かい合うように座っている。
 エルヴィンは苦笑を浮かべた。しかしそこで誤魔化すのではなく、自分の考えを偽ることなく話す。
「確かに君がいれば生き残れた人間もいるだろう。しかしあれだけの人数を全て守れるはずがない。全員がその場に固まって立っていたとしても、君の声が届く範囲から出てしまう人間は必ずいる。それに君の声の効果を知って安堵する人間ならばまだいいが、逆に君を恐れて襲い掛かってくる人間がいないとも限らない。巨人を殺せるなら、人間ですら殺してしまうのではないか……とね。エレン、君を化け物だと恐れる人間はきっと出て来るよ。そんな所に君を放り込むわけにはいかない。君にはもっと効果的な働きを期待したいんだ」
「……」
 唇を噛んで黙り込むエレンに対し、エルヴィンは微笑む。あの不思議な力と共に生きてきたエレンは力がもたらす弊害についてもよく知っているのだろう。もしくは親からきちんと諭されてきたか。
 力は人に喜ばれる。しかし力は容易く人に恐れられる。そして恐れられれば、異端視され、迫害される。どんな風に己の身が危険に晒されるのか、言われずともエレンは理解していたのだ。ゆえにそれを指摘されれば反論を口にできない。
 母が死ぬ原因を作った巨人を殺したい。もうこれ以上誰かが死ぬのは見たくない。大切な人ならなおさら。けれどいくら子供がそう願っても現実はままならない。力があってもその使いどころを考えねばならず、そうあることを周囲はまだ十歳の子供に強要する。
 ほっそりとした膝の上でエレンの拳が白くなるほど握りしめられていた。エルヴィンは眉尻を下げる。そんな風に遣る瀬無さを感じて苦しませたくはないのだ。
「おいで、エレン」
 エルヴィンはソファから腰を上げてローテーブルを回り込み、エレンの傍に膝をついて両手を差し出した。エレンが無言のままその手を取り、ぽすりとエルヴィンに体重を預ける。エルヴィンは小さな背と尻の下に腕を回して抱き上げた。エレンはされるがまま。
 このくらいの年齢の少年になると大人――特に血の繋がらない他人――に抱き上げられるなど嫌がりそうなものだが、家族と友を失ったばかりのエレンは他人の温度に餓えているのだろう。リヴァイに大人しく抱き上げられていることが多いエレンを見て今回ためしにやってみたのだが、予想は外れていなかったようだ。
(おや。何故だか水の気配がするね)
 エレンを抱き上げていたエルヴィンはふと胸中で呟いた。それはリヴァイも感じたことだったのだが、エルヴィンは知る由もない。
 川を流れる清涼な水の気配。それは清く美しいが、時には他者に牙を剥く。まるでエレンのようだ。少しきつめの整った容貌と真っ直ぐすぎる精神、そして破滅の歌。
(そう言えば禁書の中に面白い生き物の話があったな)
 それは川に住まう美しい魔物の話。魔物は歌と美貌で船乗りを誘惑し、その船をことごとく沈めたと言う。実際には魔物などおらず、いくつもの船が沈んだ川の難所だったその場所に聳える大きな岩の名を、人々は船を沈める架空の生物の名前とした。
 ――ローレライ。
 水と共に生き、歌で他者を滅ぼす、美しき化け物。
(エレンはローレライなのかもしれないな)
 そんなはずはないと分かっていても、ついついそんなくだらないことを考えてしまう。エルヴィンはひっそりと苦笑し、小さな化け物の拳から力が抜けるまであやし続けた。


「おい、エルヴィン。エレンがどこにいるか知ら――……そこか」
 エルヴィンの執務室を訪れたリヴァイがソファに腰かけた部屋の主とその腕の中で寝息を立てている仮の弟を見つけて声を潜めた。
 寝た子を起こさないよう小さな声で「どうしてこいつがここに?」と尋ねれば、エルヴィンは眉尻を下げ、彼もまた小さな声で答える。
「お前と同じ理由で鬱憤を抱え込んでいたらしい。それを私にぶつけに来たのさ」
「…………ああ、この前のマリア奪還作戦か」
 エレンのような特殊能力を備えているわけではないが、リヴァイも対巨人戦における『強者』だ。ゆえに先日行われた大規模な奪還作戦にリヴァイが参加していれば、一体でも多くの巨人を屠り、そして僅かなりとも生存者がいたかもしれない。しかしその場合、リヴァイは高確率で死亡する。助けられた者にとっては幸運だが、人類全体として見れば、それは明らかな損失だ。
「ガキに命の使いどころを説いたのか?」
「ああ。エレンは理解してくれたよ」
「酷なことをしやがる」
「その場の感情に流されず、エレンが本当に望むことを叶えるためには必要な措置だろう」
 エルヴィンの言うことは正しい。ゆえにリヴァイはそれ以上の無駄な反論を止めた。
 代わりにエレンを抱えたままのエルヴィンに手を差し出す。無言のままだが意図は伝わるはずだ。催促するように手のひらを上に向けてクイと動かせば、やれやれと言った風情でエルヴィンがエレンを拘束していた手を解く。リヴァイはそこから小さな身体を掬い上げ、己の腕の中に抱え込んだ。エレンが目覚める気配はない。
「……このクソガキ」
 小さく呟くリヴァイの視界に映り込んでいたのは、目の下にうっすらと隈を浮かべた幼子の顔。
 マリア奪還作戦のため徴兵されたマリアの住民は成人男性が多いと聞く。口減らしが目的とはいえ、あくまでも対外的な進軍理由は『奪還』だ。戦力にならない老人や何某かのハンデを持つ者ばかりで構成するわけにはいかない。となると、女子供はさておき、エレンの父親あたりは徴兵されているかもしれない。そのことをエレンが不安に思わないはずがないのだ。
 また男手が減ったことで、開拓地に残された人々の負担も一気に増加したはず。そちらも考え始めれば不安はますます強くなる。
 それなのに。それを分かっているのに。エレンが力を貸すことはできない。だからこそ早く巨人を殺さなければ。そう考える子供の焦りは如何程か。
「おい、エルヴィン。こいつはいつ戦場に立たせるんだ? 身体が十分に成長しきるまで待つようなガキじゃねぇぞ、これは」
「分かっている。普通に訓練兵団を通過してくるような兵士らと同じ扱いをするつもりはない。エレンの周囲を固める人間が決まり次第、すぐに出すさ。まぁしばらくはお前の陰に隠して運用するつもりだが」
 小さな子供が大人に交じって壁外へ行く姿を一般の目に触れさせるわけにはいかない。出発時には荷馬車等に隠して連れて行く。そして壁外に出れば、リヴァイの近くに配してその戦力を解放させる。功績は全てリヴァイおよびエレンの能力を承知の上で彼の周囲にいる者達のものになるが、エレンもそこまで拘ったりはしないだろう。
「エレンの事情を知った上でこの子を守る人間をお前の班員にしようと思う。随分特殊な動き方をする班になるだろうが、元々お前が率いる班なら、周囲が違和感を覚えることもないだろう」
「分かった。班員の候補の選出は任せる。ただし最終決定には俺も噛ませろ」
「エレンを任せる人間だからか?」
「当然だ。このクソガキは俺の弟だからな」
 本気かどうか自分でも分からぬままリヴァイはそう告げて、腕の中のエレンを抱き直す。理由はさておき、班員の決定を全て他人任せにするのは気分が良くなかったのは事実だ。
 リヴァイの言にエルヴィンは肩を竦めて「分かった。その時になれば声をかける」と答える。それを聞き、リヴァイは団長の執務室を辞した。完全に寝入ってしまった子供を部屋に運ばなければならない。
 道すがら、複数の兵士らにエレンを抱えたまま移動する姿を見られたが、兄弟だという話がきちんと浸透しているようで大袈裟に驚かれることはなかった。


【4】


 新兵である自分が何故リヴァイ兵士長率いる班の班員に選ばれたのか。そうエルド・ジンが戸惑ったのも、同じくリヴァイ班になる者達と共に団長の執務室に呼ばれて辞令を受けたその時だけだった。
 リヴァイ班として結成された班のメンバーは、班長であるリヴァイと彼の弟とされているエレン・イェーガー、それからウォール・マリア陥落前から調査兵団に所属しているエノク・シィという男性兵士と、先日行われたマリア奪還作戦の前に調査兵団に入団した新兵であるエルド、同期のグンタ・シュルツ、合計五名である。
 訓練兵団卒業が間近に迫った時期に超大型巨人が現れてマリアが陥落し、その混乱のためエルドらの配属兵科決定は予定より遅れ、年が変わる直前になってしまった。その後まもなく大規模なマリアの奪還作戦もとい口減らしが敢行され、続いて調査兵団内の一部人員変更となり、そしてリヴァイ班結成に至る。
 いくら首席卒業とはいえ、ただの新兵が『人類最強の兵士』とも呼ばれ始めているリヴァイの班に属せるなど、普通は考えられない。よってリヴァイ班への所属を命じられた際には驚いたが、続いて班員の『秘密』を教えられれば納得できなくもなかった。
 リヴァイ班は実力者が揃ったただの遊撃チームではない。ある秘密を守り、またその秘密を有効的に使うために作られた集まりなのだ。
 偏見を持たない兵士もしくは下手な予備知識がない新兵であり、しかしながら実力はそれ相応にあり、状況の変化には柔軟に対応し、また口が堅い人間。リヴァイ班はそういう人間を必要としていた。その要望に合致したのがエルドとグンタであり、また――エルドは付き合いが無かったのでよく知らないが――先輩兵士のエノクだったのだろう。
 そしてリヴァイ班の秘密ことエレン・イェーガーと、彼に絶対的な守護を与え隠れ蓑にもなる存在、リヴァイ。
 エレンの存在(兵士として働くこと)は外部に秘匿されるため、対外的にリヴァイ班は四人構成と言うことになる。人によってはエノクのサポートの下、有望な新人を兵士長自ら育て上げるための班と見るかもしれない。
 そうやって勘違いしてくれるなら万々歳というのがリヴァイ班及びそれを組織した調査兵団の事情を知る者達の考えだ。エルド個人もそれに異論はない。最初は驚いたが、エレンの存在は人類の反撃に必要であり、彼の能力が最大限活かせるよう環境を整えることは重要な使命だと感じていた。
 グンタも同意見らしい。リヴァイは言うに及ばず。そしてもう一人の班員、エノク・シィは――。


「偏見が無いと言うより、あれは心酔してるって言うんだろうな」
 木の幹に背中を預けた格好でエルドは独りごちる。
 視線の先、エルドから少し離れた所――森の中にぽっかりと存在する湖。その中に身体を浸している小さな人影はエレンだ。下肢を隠す下着だけの姿で水の中を泳ぐエレンは実に楽しそうにしている。彼は普通の人間と比べて異様に水の摂取や水との接触を好む。今回も訓練ついでに彼の水への欲求を満たすためリヴァイ班はここを訪れていた。
 そんなエレンの護衛につくのはエルドともう一人の兵士――エノクである。リヴァイは訓練中に呼び出しがあり、付き添いにグンタを選んで調査兵団本部へ向かった。エレンの気が済んだら本部に戻るよう班長から指示を受けたエルドとエノクはこうしてエレンを見守っているというわけである。
 エルドはエレンから先輩兵士へと視線を移す。湖の岸辺でエレンを見つめるエノクの両目は『宗教』というものに縋る人間のそれとよく似ていた。リヴァイがふとした瞬間エレンに向ける慈しみとはまた違う。人間のような不安定なものではなく、絶対的な存在に依存する類のものだ。
 が、それも仕方ないだろうとエルドは先輩兵士の様子に吐息を零した。
 説明を兼ねてリヴァイ班着任時に一度、それから壁外調査を幾度か経ることでエルドはエレンの『歌』の力を何度も目にしている。その効果は凄まじく、美しい歌声が響く世界で人類の天敵だけが滅んでいく様は一種の畏怖さえ呼び起こした。それを目の当たりにして何も感じない人間がいるはずないのだ。しかもエノクは初めてエレンがその能力を調査兵団の兵士のいる前で披露した時――シガンシナ区を見下ろす壁上でのことだ――に同席していた人間で、その頃からすでにエレンの歌に魅せられていたらしい。
 エレンの歌は姿を見せた敵を屠り、そしてまた敵に襲われたエルド達を守った。エレンに守られたエノクはますますエレンとその歌に魅了され、今は『この様』というわけだ。
 エレンが湖から上がってくる。半裸の少年にエノクは清潔なタオルを手渡し、エレンがそれを受け取ると次は着替えを用意する。実に甲斐甲斐しい。エレンも最初の方は戸惑っていたが、今は慣れた様子でその世話を受けていた。邪念がないエノクの行動はエレンの保護者たるリヴァイにも容認されている。
 あの特別な子供を大切にすることに異論はない。しかし、とエルドは目を眇める。
(エノクさん……あんた、いつかエレンのために死んじまいそうだよ)
 大切なのはエレンだけではない。仲間は皆、生きるべきだ。エルドだけでなくグンタも、そしてエレンやリヴァイもそう思っている。しかしエノクだけは違う気がした。エレンのためと言われれば喜んで巨人の口に頭から突っ込んでいきそうな気配を、エルドは先輩兵士から感じ取っていた。
 エノクから着替えを受け取ったエレンは小さく微笑む。ありがとう、と口が動き、エノクもまた嬉しそうに目元を緩めた。
 自分を守って誰かが死ねばエレンはきっと悲しむ。それをエノクは理解しているのだろうか。もしくは理解していても己の生命を軽んじ、エレンが生きていれば問題ないと考えているのか。
 着替え終わったエレンがエノクと共にこちらへ近付いてくる。エルドは木の幹から背中を離し、彼らの元へ歩いて行った。
 エルドもエレンが悲しむのは本意ではない。だがエレンが死ぬのは絶対に駄目だ。ならば全員で全員を生き残らせればいい。そう決意を新たにしながら、まだ湿っているエレンの髪をかき混ぜて「楽しかったか?」と笑って尋ねた。


 しかしながら。
 リヴァイ班結成から半年後、エルドが恐れていた通り、壁外調査の最中にエノク・シィはエレンを庇って死亡した。
 エノクを食い殺したのは建物の陰に隠れて姿が見えなかった七メートル級の巨人。エレンに襲いかかったそいつの前にエノクが飛び出し、エレンを庇ったのだ。
 目の前でエノクの胴体に噛みつく巨人にエレンはすぐさま歌い始める。「エノクさん!」とその名を呼ぶ間すら惜しんで紡がれた歌はすぐに巨人の命を奪ったが、エノクが受けたのは致命傷で、あとは苦しみながら息を引き取るのみ。
 エレンは地面に寝かされたエノクの傍に駆け寄り、痛みと出血で顔を蒼白にしながらも笑みを浮かべようとする守護者の一人に顔を歪めた。
「オレが自分も守れないような弱い人間だから……ッ!」
 ――だからエノクさんが身代わりになってしまう。
 まだ柔らかく小さな手を強く握りしめ、激情にかすれた声でエレンは叫ぶ。だがエノク自身は意識が朦朧としているはずなのに、エレンに向けて困ったように笑った。
「私は……あなたを守れて、良かった、と、思います……よ」
「ダメだ。ダメだエノクさん。頼むからオレのために死なないでくれッ!」
 エレンは血に濡れたエノクの手を握りしめ懇願する。しかし周囲の者が――エルドもグンタもリヴァイも――治療の施しようがないことを一瞬で悟れるほど、エノクの状態は悲惨なものだった。
 それを一番理解しているだろうエノク本人は一度ゆっくりと瞬きした後、ふっと吐息を零す。両目の焦点はすでにエレンから外されている。もう目も見えなくなっているのだろう。
「エノ……ッ」
「ぃ、たい、なぁ……いた、い」
 それは「生きていたい」なのか、「痛い」なのか。どちらとも取れるその言葉に幼い少年はきつく目を閉じ、唇を噛んだ。
「エノクさん、オレはあんたの傷を治してやることはできない。だから」
 エレンはそっと身を屈め、エノクの耳元に唇を寄せた。エルドの位置から声は聞こえなかったが、何事かを告げたあと小さな声で歌い始めたのだと、エノクの表情を見て悟る。
 痛みに歪んでいた顔は安らかなものとなり、やがて心臓が鼓動を止めた。エレンが立ち上がる。
 エノクの手を握ったその小さな両手は血に濡れたままだ。しかし構うことなくリヴァイが近付き、エレンの身体を抱き上げた。エレンはリヴァイの肩口に額を押し付ける。泣き声はない。代わりに小さなくぐもった声で「オレが殺した」と漏れ聞こえる。
「オレが、エノクさんを殺した」
 その自責の言葉にエルドが思わず口を開いた。
「お前に危険が迫ったらそれを庇うのが俺達の仕事だ」
「違う」
 しかし、即座に否定。エレンはリヴァイに抱き上げられたまま首を横に振って「違うんだ」と繰り返す。
「エノクさんを、殺したのは、オレだよ」
 巨人を殺す歌の紡ぎ手は、自分を庇って傷を受けた守護者の耳元で歌を歌った。その歌が守護者の命の灯を吹き消したと、まるでエレンはそう言っているかのようだった。


【5】


「もう守られるのはダメだ。歌だけじゃダメだ。皆と同じくらい動けるように……せめて自分の身は自分で守れるように、ならないと」
 幼い子供は血まみれの両手を睨み付けながらそう誓い、強靭な意志で己の誓いを現実にする。

* * *

「新兵と言うには一年早いが、もう名前を出しても良い頃だろう」
 エルヴィンがそう判断を下したのはエレン・イェーガーが十四歳になる年。
 自身を守って一人の兵士が死んだことをきっかけに、エレンは歌だけに頼るのではなく、兵士としての力≠つけることにも腐心した。リヴァイをはじめとする周囲も惜しみなく助力し、また何よりエレン自身の意志の強さによってその想いは成就した。
 ウォール・ローゼの東西南北に存在するどの訓練兵団を探してもエレンに匹敵する人材は存在しないだろう。実力主義の調査兵団内でさえ、公にその名を出す以前からエレンの兵士としての能力の高さは話題に上るようになっていた。
 無論、訓練が始まった当初、エレンはリヴァイの贔屓で分不相応な指導を受けていると負の感情がたっぷり籠もった視線を受けることもあった。しかしひたむきな態度とそれに比例して上がって行く実力によってそれも無くなり、今回エルヴィンの決定に異論を唱える者は現れなかった。
 エレンのための隠れ蓑が必要なくなったため、リヴァイ班は一度解散。リヴァイは以前と同じく必要に応じて単騎で動くようになり、またエレンはエルド・ジンを班長とした新しい班の一員として名を連ねることになった。
 当然のことながら、エルド班はエレンの事情を知り、その特殊能力を最大限に利用するための構成になっている。班長のエルド、エレン、リヴァイ班の頃からエレンの傍にいるグンタ、そしてエルドとグンタの一年後輩にあたるオルオ・ボザドとペトラ・ラル。この五人がエレンのデビュー≠ノ伴い結成された新班のメンバーである。
 そしてエルド班は結成後初の壁外調査ですぐにその実力を発揮した。
 単騎で圧倒的戦力を誇るリヴァイとは陣形の反対側に配され、回避不可能な巨人に対して力を揮う。陣形の片側ではなく左右の守備が上がったことで一度の壁外調査で進める距離が飛躍的に伸び、兵士の死亡率もぐっと下がったのだ。
 以降もエレンは順調に兵士として周囲に認められ、リヴァイほどではないにしろその名を知られるようになる。いずれは最年少で班長を任されるようになるだろうと、早々に噂されるようにもなった。――兵団内だけではなく、ウォール・シーナに住む貴族達の間でさえ。


 長距離索敵陣形の初列、その先頭付近にエレン達はいた。最も巨人との遭遇率が高い場所だが、だからこそリヴァイやエレンのような人材を配するのが相応しいと言えるだろう。現に、反対側にはリヴァイがいる。エレンが右翼側、リヴァイが左翼側だ。
 本来索敵班と言えば二人〜三人程度の小さな班だが、エレン達は巨人の討伐を率先して行う役割も担うため、五人が固まって動いている。必要に応じてエレンを含む幾人かがそこから離れ、巨人を狩りに行く方式だった。
「右前方に巨人発見。数は一。煙弾撃つ?」
 馬を駆りながらペトラが尋ねる。榛色の瞳が向けられた先は班長であるエルドだ。本来なら巨人を見つけ次第信煙弾を上空に向かって撃ち、巨人の接近を他の兵士らに伝えて進路変更を行うのだが、エレンがいるこの班では単なる探知機役ではなく幾許かの采配も任されていた。
「そうだな……本来の進路より若千東寄りになってるし……エレン、歌を頼む」
「了解」
 進路変更ではなくこの場での殲滅を決めたエルドがエレンに指示を出す。エレンはそれに答え、次いで「グンタさん、オルオさん、一緒にお願いします」と並走する仲間に声をかけた。
「ああ」
「しっかりやれよ、エレン」
 要請に応じ、巨人に馬首を向けるエレンに追走するグンタとオルオ。エルドとペトラはそれを見送る。
 しばらく進んで、巨人がエレン達を見つけた。奇行種だったらしく、後方の本隊ではなく向かってくるエレン達を目標に定めた巨人は奇妙な走り方で――しかしとんでもないスピードで――迫ってくる。
 馬の手綱を握ったままエレンはそれを正面から迎え撃つ。空気を吸い込み、口を開いて紡ぐのは破滅の歌。安全な場所であれば思わず聞き惚れてしまう美しい旋律は、この壁外と言う戦場で兵士を守り、巨人を討つ死歌となる。
 念のためついてきたエルドとオルオが立体機動に移る必要もなく、巨人の身体は蒸気を上げながら崩れ始め、馬を操るエレンは走る勢いのまま大地に倒れ伏した巨人の脇を通り抜けた。
 目標を駆逐し、エレンが歌を止める。ここでエルド達の元へ引き返しても良かったが、胸騒ぎを覚えてエレンは周囲を少し見て回ることにした。
 そして――
「エレン!」
 後方にいたグンタが叫ぶ。ちょうどエレンが馬で通り過ぎた建物の陰から巨人が姿を見せたのだ。巨大な手がエレンを掴もうと伸びる。エレンはその巨体を振り返って、

 笑った。

 歌のために息を吸い込む余裕はない。代わりに立体機動装置のアンカーが巨人の腕に突き刺さり、ガスを噴射してワイヤーを巻き上げる。エレンの身体は宙に浮き、巨人の手を逃れた。
 空中に飛び上がった勢いのままエレンは巨人の頭部に肉薄する。身体に回転を加えてうなじを削ぐ姿はリヴァイのスタイルを踏襲したものだ。しかしエレンの攻撃はそこで終わらない。
 建物に隠れていた巨人は一体だけではなく、もう一体存在していた。掴みかかってきた巨人を削ぐ最中にそれを見つけてエレンは今度こそ歌う。もう一体の巨人はエレンに近付くことさえできずに活動を停止し、そこでようやくグンタ達がエレンに追いついた。
「やはりすごいな」
 あっと言う間に巨人を屠ったエレンの力にグンタは感嘆する。かつて守られるばかりだった幼子の面影はもうない。一人の兵士としてもエレンは立派に育っていた。
「おい、エレン。怪我は無ェ……っうぐ!」
「あ、はい。大丈夫です」
 舌を噛むオルオにエレンは苦笑しながら答える。それからグンタとオルオの両方を見て告げた。
「戻りましょう。本隊の進路は変わっていませんから、そろそろ後方の班がこの辺りを通過するはずです」
「そうだな。オルオ、行くぞ」
「了解!」
 二人は揃ってエルドとペトラがいる方向へ馬首を向け、走り出した。


 壁外調査で予定した工程を終え、調査兵団一行はトロスト区に戻って来た。四年前とは異なり、壁外から戻って来た彼らに対する民衆の姿勢は好意的だ。特に壁外調査の死亡率を下げた陣形の発案者であるエルヴィンや人類最強の兵士と名高いリヴァイへの歓声は大きい。
 調査兵団を英雄視する民衆達。その中の誰かがリヴァイの少し後ろを馬に乗って進むエレンに目を留めた。
「エレン・イェーガーだ! 第二の人類最強だ!」
「エレーン!」
「エレン・イェーガー!」
 自分に向けられる声援にエレンはこっそりと渋い顔をする。
「……オレまだそんなに目に見える功績上げていませんよ」
「まぁお前の場合は時勢の他に、前から有名だった兵長の実弟かつ弟子っていう付加要素があるからな。有名になるのも早いだろ」
 隣を進んでいたエルドがそう言って苦笑した。
「そんなもんですかねぇ。どうせ有名になるなら、シガンシナの皆にオレはここにいるって示せた方が嬉しいんですが」
「家族と親友、だったか?」
「はい。四年前の混乱で全員バラバラになっちまったんで」
 大切な人達が今どこで何をしているのか、エレンには分からない。四年前の混乱で死んでしまったなどとは考えたくなかった。ただひたすら彼らは生きていると信じ、こちらから見つけられないのであれば向こうから見つけて欲しいと願う。
「きっと再会できるさ」
「はい」
 エレンは目元を緩めて頷く。その表情の変化を眺めるエルドもまた淡く微笑んだ。
 公式的に調査兵団の兵士として名を連ねるようになったエレンは確かに有名になりつつある。また本人にも言った通り、調査兵団の活躍を期待する時勢およびリヴァイと言うネームバリューの所為で、名が広まる速度は他の兵士の比にならない。耳の速い貴族辺りにはすでに届いているかもしれなかった。
 有名になればエレンを探している人間が気付く可能性も大きくなる。しかしその一方で厄介事を惹きつけやすくなるのも事実だった。特にエレンは『歌』という特殊な力がある。探られるとそれなりに痛い腹を持っているのだ。
(こいつが変なヤツに引っかかりませんように……)
 エルドは視線を前に戻したエレンを一瞥し、誰にともなく願った。
 しかし世の中と言うものはそう都合よく回ってくれるものではなく。壁外調査から帰還して僅か数日後、団長のエルヴィン宛てに一通の手紙が届いた。
 シーナに住む貴族からのそれは、調査兵団のメンバーを今度開催する夜会に招待したいというもの。貴族は調査兵団の出資者ではないが、やはり貴族と言う特別な階級の人間からの誘いを断るのは難しい。しかしエルヴィンはしばし黙考する羽目になった。何故ならその招待状に記されていた招待客の中に、まだ十四歳と言う若さのエレン・イェーガーが含まれていたからだ。
 こういったことにも慣れているエルヴィンやリヴァイならともかく、権謀術数渦巻く貴族の中へ放り込むには、エレンは幼すぎる。同じ年齢でもずっと貴族社会で生きてきたなら話は別だが、エレンはそうではない。
 しかし悩んでも断りきれる件ではなく、エルヴィンは眉間に皺を刻みながら招待を受けるための手紙を書かねばならなかった。


【6】


「伯爵様、このたびはお招きいただきありがとうございます」
 如才ない笑みを浮かべて夜会の主催者に挨拶をするエルヴィンの後方にリヴァイとエレンは控えていた。伯爵側の希望で、身にまとうのは兵士の正装としての軍服ではなく、黒いタキシードだ。
 普段から襟付きの服をあまり着ないエレンは若千息苦しそうにしている。だが髪を後ろに撫でつけて額を露わにしたその少年は、息苦しさにいくらか顔をしかめていようとも整った顔立ちをしていることがありありと見て取れた。
 その姿は伯爵の目にも入っており、エルヴィンを通り越してチラチラと視線を向けてくる。好色そうな男の仕草にリヴァイは胸中で悪態をついた。
(クソ豚野郎が)
 話題の一つとして最近有名になり始めたエレンを呼んだのだろうが、その相手が気の強そうな子供と知って嗜虐趣味でも刺激されたか。エレンに触れる以前にそんな視線を向けることすら厭わしく、リヴァイは今すぐにでもエレンを調査兵団の兵舎に連れ帰りたくなった。
 しかし立場がそれを許さない。エルヴィンとの挨拶を終えた伯爵がこちらに踏み込んでくる。伯爵はまずこの場でエルヴィンに次ぐ地位にあるリヴァイに右手を差し出し、握手を求めた。こういう時のためにつけている白い手袋は当然外さず、リヴァイは舌打ちを堪えて手を握り返す。
「人類最強と名高い貴殿の噂は私もよく聞き及んでいるよ。マリア奪還のため今後とも頑張ってくれ」
「ありがとうございます」
 偽りしかない返答を無表情で口にする。リヴァイが微笑むタイプの人間ではないことは貴族達も知っているので、伯爵は特に気分を害した様子もなく次の行動に移った。むしろ今回に限ってはリヴァイが多少の暴言を吐こうとも伯爵は気にしなかったかもしれない。――エレンと関わることに気を取られ過ぎて。
「初めまして、エレン・イェーガー君。君の噂もお兄さん同様よく耳にしている。第二の人類最強とも言われているそうじゃないか」
「お初にお目にかかります、伯爵様。勿体無いお言葉です。私などリヴァイ兵士長と比べられることすらまだまだの若輩者です」
「ははっ! 謙遜せずとも良い!」
 エレンの手を両手で握りしめながら伯爵が笑う。少年の手の甲に這わされた指の動きはあからさまな意図を宿しており、エレンの口元がぴくりと動いた。だが自分の立場とエルヴィンやリヴァイにかかる迷惑を考えて必死に堪えているのだろう。リヴァイも怒気を漏らさないようにするので精いっぱいだ。
「そうそう。君に関してはもう一つ素敵な噂を聞いたのだが」
「もう一つの噂……ですか?」
「ああ」
 伯爵は鷹揚に頷く。当人どころかリヴァイにもエルヴィンにも思い当たることがなく、三人は首を傾げた。
 エレンが調査兵団に連れて来られた当初は調査兵団上層部の稚児ではないかという噂もあったが、リヴァイの弟だと触れ回ることでそれもすぐに立ち消えた。ならば、エレンにまつわる第二の人類最強として∴ネ外の噂とは一体何か。
 不思議そうにする三人の兵士を眺めて伯爵は楽しそうに膨らみ気味の腹を揺らした。
「それはだね…………歌、だよ」
「うた、ですか」
 動揺は悟られなかっただろう。エレンの声は平常通りだった。兵士らの警戒など気付いた様子もなく、伯爵は「とぼける必要はない」と声を弾ませる。
 まさかどこからかエレンの秘密が漏れたのかと気を張り詰めるリヴァイ達。しかしその警戒は次に伯爵が放った台詞によって呆気なく霧散した。
「君は時折戦場でとても美しい歌を歌うそうじゃないか。他の兵士らの慰めのために歌っているのだろう? 是非ともその歌声を私の前でも披露してくれないか」
 伯爵と相対しているエレンの様子は変化なし。その陰でリヴァイとエルヴィンはほっと胸を撫で下ろした。エレンが歌っていることはバレてしまっていたようだが、肝心の部分は知られていない。エレンが何のために歌っているか知らない兵士が風に乗って僅かに聞こえてきた歌声を聞き、鎮魂や生き残った兵士らを慰めるためのものだと勘違いしたのだろう。
「伯爵様の前で披露できるような大層なものではございません。様々な美しい歌をご存じの伯爵様からすれば、私の歌など児戯にも等しいでしょう」
 エレンの歌は巨人にしか効かない。よって人間の目の前で披露しても問題は無いだろう。だがエレンはひとまずそう言って断りの意志をやんわりと示した。
 単純に断るのではなく相手を持ち上げてからの台詞は伯爵の機嫌を損ねずに済む。しかし断りとしては弱いものであり、「いやいや、どうか聴かせておくれ」と更に機嫌を良くした伯爵がエレンの手を強く握りしめる結果になった。
 エレンがリヴァイとエルヴィンを一瞥する。本当なら歌わせたくなどないが――こんな豚に聴かせるなど勿体無い――、こちらの方が立場は弱い。伺いを立てる部下にリヴァイ達は仕方がないという判断を下した。
「エレン、伯爵様もこう言ってくださっているのだから」
「わかりました」
「おお! さすがエルヴィン団長! では音楽隊にも準備をさせよう!」
 上機嫌の伯爵が使用人を呼びつけて指示を出す。彼の視線が外れることになったエレンは面倒そうに顔をしかめつつ、先程まで伯爵に触れられていた右手を服の裾で拭っていた。


 夜会に呼ばれていた音楽隊の準備が整い、エレンが急遽設けられたステージに立つ。至る所に灯された蝋燭の明かりを受け、エレンの双眸はキラキラと金色に輝いていた。
 ステージの真正面に用意された席で伯爵がいやらしい笑みを浮かべているのがリヴァイの目に入る。あいつはてめぇが呼んだ高級娼婦じゃねぇんだぞ、とリヴァイは思わず殴りかかりそうになるが、横に立っていたエルヴィンに「気持ちは分かるが我慢しろ」と止められた。必要以上に声が硬いのは、エルヴィンもまた同じくらい不機嫌になっているからだろう。
「……そういやあいつ、曲に合わせて歌えたのか?」
「一般的な歌なら歌えるんじゃないか。あの不思議な歌に比べれば魅力に欠けるだろうが、それでも十分だろう」
 怒りを静め、二人は小さな声で言葉を交わす。巨人を滅ぼす歌はエレンだけが正確に知っている歌であり、伴奏も何もない。だがそれを知らない伯爵は音楽隊を用意してしまった。ならばこの場で披露されるのは、いつもの歌ではなく、大衆向けのものになると予想される。
「そうか。そうだな」
 リヴァイは憮然とした表情のまま頷いた。
 やがて曲が始まる。まだ少し会場内はざわついていた。しかしエレンが口を開いた瞬間、ホールからは彼の歌声以外の全ての音が消え去った。
「――っ!」
 ただただ、誰もが息を呑む。良く知っているはずの歌が、何気なく耳にしていた旋律が、エレンが奏でることで胸を貫くようなそれに変わる。音楽隊ですら手を止め、エレンの歌に聞き入った。
 まさに魔曲。エレンの声を聞き慣れているリヴァイとエルヴィンですらごくりと唾を飲み込んだ。
「ここが川なら彼はローレライと呼ばれたかもしれないな」
「あ?」
 エレンの歌声の邪魔にならないようひっそりと呟くエルヴィンにリヴァイは片方の眉を上げた。
「川を進む船の船員を歌と美貌で魅了し、数多の船を沈めたとされる魔物だよ」
「……ああ」
 思わず頷く。確かに、一瞬で夜会の参加者達を虜にしたエレンの姿は魔物と称してもよさそうだった。しかし。
「あれはガキだ。まだたった十四の、な」
「そうだな。彼は我々の大切な仲間であり、お前の弟だ」
 エルヴィンが苦笑を浮かべる。そう。いくら特殊な歌が歌えても、エレンは仲間であり、まだ子供であり、リヴァイにとって特別な地位にいる子供なのだ。
(――ん? 特別って何だ)
 ふとリヴァイは自問した。エレンが兵団にとって重要な人間であり、それを『特別』と言うのは分かる。だがリヴァイ個人から見た場合、彼は特別なのだろうか。そして特別であるならば、一体どういう意味合いを持っているのだろうか。
 リヴァイが内心首を傾げている間に歌が終わってしまった。黙考を中断したのは、観客となった夜会の参加者達が歌の終了と同時に打ち鳴らした拍手。割れんばかりのそれにリヴァイはハッとし、顔を上げる。ステージから降りたエレンに、伯爵が手ずから飲み物を渡しているところだった。
「エ――」
「ブラボー!」
「素晴らしい! なんて素敵な歌なんだ!」
 エレンの元へ行こうとしたリヴァイを遮るように、観客らが立ち上がって手を叩き、その姿を隠してしまう。
「おい! くそっ!」
 リヴァイの悪態ですら歓声が消し去った。派手な舌打ちをし、リヴァイは彼らを回り込んでエレンの元へ向かう。
 そんなリヴァイは人々に邪魔されてエレンに何が起こっているのか見ることができなかった。
 伯爵に手渡されたグラスの中身を飲み干したエレンは数歩進むとふっと意識を遠のかせ、伯爵に抱き留められる。伯爵は「おやおやお疲れですかな。ではお部屋へご案内しましょう」と、にやついた表情のまま奥へ引っ込む。
 リヴァイが人々を回り込んでそこに辿り着いた時にはもう遅く、エレンと伯爵の姿はホールから忽然と消えていた。


【7】


 エレン・イェーガーにとって巨人とは己の自由を阻む障害であり、また自身の無力さをまざまざと見せつける後悔の象徴でもあった。
 四年前、超大型巨人がシガンシナ区の壁を破壊したことで、その破片がエレンの家を直撃した。屋内にいた母のカルラがそれに巻き込まれ、彼女はその場から動けなくなってしまった。
 彼女は元々特別な力を秘めていた。しかし他人と交わり、エレンと言う子を産んだことで、その能力はカルラから息子へと移ることになった。その能力とは、歌。他者を破滅に追いやる魔の歌声。
 カルラの元へ帰ってきたエレンは母が巨人に喰われるのを防ぐため、受け継がれた力を用いて歌を歌った。おかげで母子に近寄る巨人はことごとく消滅したが、瓦礫の下で血を流すカルラにはそれだけでは不十分だったのである。
 カルラの血筋の者達はその歌の他にいくつかの特性をも受け継いでいる。その一つが水に関すること。エレンの身体もカルラの身体も常人より大量の水を必要としていた。それは体調不良や怪我を負った時には殊更顕著になり、瓦礫に押し潰されて負傷したカルラはまさにその状態だったのである。
 エレンの歌で巨人からは守られていたが、カルラの身体は次いで水を欲し始めた。しかしこの場にエレン以外で動ける人間はいない。そしてエレンが水を得るためこの場を離れれば、その間にカルラが巨人に喰われてしまう。
 巨人の排除か、カルラが求める水か。幼いエレンは究極の二択を迫られ、そして選べなかった。
 カルラもそれを分かっており、結果、彼女自身が息子と一秒でも長く過ごすことを選んだ。母親が事切れるまでエレンは歌い続け、その死を両目に焼き付けることとなったのである。
 巨人が攻めて来なければ、巨人などがこの世にいなければ、母が死ぬことはなかった。自分にもっと機転を利かすだけの頭と能力があれば、母を助けられたかもしれない。後悔はエレンを苛み、憎しみはエレンの心を塗り潰そうとした。
 それでも、ただ巨人に向ける感情だけでエレンの心を満たさずに済んだのは、調査兵団との出会いがあったからだろう。リヴァイによって拾われたエレンは他者からぬくもりを与えられ、喜びも悲しみも知った。強くなることを学んだ。
 リヴァイと出会わなければきっとエレンは壊れてしまっていた。彼が手を差し伸べたからこそ、エレンは今を生きている。
 エレンの能力は特別だ、エレンは特別な子供だ、と周りは言うが、リヴァイをはじめとする調査兵団の面々こそ、エレンにとっては特別な人々だ。彼らのおかげでエレンの心は黒く塗り潰されることなく、家族や親友を想う気持ちも失わずに済んだのだから。
(リヴァイさん……)
 茫洋とした意識の中、エレンはリヴァイの名を呟く。それは明確な声にはならず、頭の中で響くだけに留まった。だがその名を呼んだのを皮切りに、徐々に意識が戻ってくる。やがてエレンは閉じていた目を開いた。
(ここは、どこだ)
 ガラスと蝋燭によって作られた豪奢なシャンデリア。その向こうは見知らぬ天井。身体の下はふかふかのベッド。腕は頭上でひとまとめにされ、手首に布の感触がある。そしてきっちり着込んだ所為で息苦しかったタキシードは身体から完全に取り払われようとしていた。
 ジャケットはどこかにやられ、シャツはボタンが全て外されている。下肢の方に違和感。直後、芋虫のような太い指が下半身を隠すスラックスをエレンからずるりと抜き取った。
 エレンが己を全裸も同然の格好にした獣をその双眸で捉える。
「……伯爵」
「もう起きたのか。まぁ眠ったままの身体を相手にするより、多少抵抗された方が楽しいからな」
 下卑た笑みを浮かべて伯爵がエレンの下着に手を掛ける。認めたくないが、状況はほぼ正確に理解できた。歌を披露した後に渡された飲み物に薬が混ぜられており、エレンはそれを飲んで意識を失ったのだろう。そしてこれからこの人間の皮を被った獣に犯されようとしているのだ。
 ハァハァと興奮で荒くなった息を吐き出しながら太い指がじりじりとエレンの下着を剥いでいく。舌なめずりをするその顔のなんと醜いことか。
 エレンが身じろぎすらしないのを恐怖によるものだと思ったのか、嗜虐趣味を持つ伯爵は布に包まれた股間のものをすでに立ち上がらせている。しかし興奮しきった表情は、下着の下から現れた『モノ』を目にして困惑へと変わった。
「なんだ、これは……貴様は一体何者だ」
 エレンの左の腰骨付近から太腿中程の外側まで、部屋の明かりを受けてキラキラと輝くものが存在している。それは大きな魚の鱗のように見えた。否、『見えた』ではなく、正真正銘の鱗である。蒼銀に輝く鱗は肌に貼り付けたものではない。エレンの身体から直接生えているものだった。
 驚愕で動きの止まった伯爵にエレンは溜息を一つ。腕を縛られ犯されようとしていても、その顔に恐怖は浮かんでいない。
 やがて呆れの表情の中、輝く双眸に烈火の如き怒りがようよう姿を現す。
 エレンは自分の存在を侵そうとする者を、調査兵団の皆が育ててくれたこの身体に危害を加えようとする者を、絶対に許さない。その強い意志はエレンが生まれつき備えていた自由への渇望にも由来するが、何よりそれを許せば、特別な彼らへの裏切りになってしまうと思えたからだ。
(ケダモノは、死ね)
 エレンの唇から歌が紡がれた。壁内で人々が使う言語とは全く異なる歌詞が伯爵の耳に届いた途端、欲が詰まったその肉体は力を失い、エレンの下半身の上に覆いかぶさるようにしてくずおれる。エレンはそれを一片の躊躇もなく蹴り落としてから歌を止めた。
「……何者、か」
 ぽつりと呟く。
「オレは人魚の末裔だよ」
 他者を惑わす魔の歌の紡ぎ手。遠い昔、数多の船を沈めた歌声を連綿と受け継ぐ者。その対象は、人類。同様に巨人をも屠れるのは……つまり、そういうことなのだろう。
 エレンはもう一度だけ溜息を吐き出し、腕の拘束を解くため身をよじり始めた。
 その僅か数秒後――。

 バンッ!!!

「エレン!」
 身をよじっていたエレンは扉をぶち破る勢いで飛び込んできた人影に目を見開く。血相を変えて現れたのは――
「へい、ちょう……?」
「! お前、その格好」
 リヴァイ兵士長、その人。リヴァイはほぼ全裸のエレンの姿を認めると、自身のジャケットを脱いでエレンの局部を隠すように被せた。鱗が見えたはずなのだが、特に息を呑むこともなく「無事か?」と声をかける。
「は、はい。脱がされただけでまだ何も」
「そうか。……よかった」
 肩から力を抜くリヴァイ。次いで彼は薄汚い貴族と言う名の豚に触れる時のためにつけていた手袋を外し、エレンの腕の拘束を解き始めた。
「兵長はどうしてここへ?」
「歌が聞こえたからな。お前がホールから姿を消してすぐに探し始めたんだが、このクソ広ぇ屋敷に手間取った。だが間に合って……本当に……」
 拘束を解いたリヴァイはそっとエレンを抱き起こす。首筋にリヴァイの吐息が触れて、エレンはくすぐったさに身を竦めた。だが伯爵に触れられた時とは異なり、嫌悪は全くない。硬い手の皮膚の感触と触れた所から伝わる熱に安堵を覚える。
 一息ついたリヴァイは顔を上げ、事切れた状態でベッドの下に転がっている伯爵へと視線を向けた。
「こいつはお前がやったのか?」
「はい。ちょっとマズかったですか」
「……いや」
 リヴァイは首を横に振る。そして穢されずに済んだエレンの綺麗な肌を撫で、「よくやった」と囁いた。
 貴族が死んだのだから問題が無いわけではない。だがエレンが穢されずに済んだのならそれで十分だとリヴァイは言う。
「特に外傷も無いみてぇだし、急性の心臓発作とでも診断されるだろう。お前はたまたまここにいただけだ」
「はい」
 言い聞かせるような物言いにエレンは素直に頷いた。おそらくリヴァイはエレンがどうやってこの伯爵を殺したのか、予想くらいならつけている。つまりエレンの歌の効果が巨人に限定されるわけではないと気付いた。それでも恐れることなくエレンを抱きしめ続けている。
 拘束を解かれた腕でエレンもまたリヴァイを抱きしめ返した。真っ白なシャツにくしゃりと皺を寄せる。
 エレンの本当の力を知っても彼はこの身を恐れない。拒絶しない。彼は何の力もない普通の人間であるはずなのに。
(やっぱりあなたは特別だ)
 エレンはリヴァイの肩口に額を押し付け、甘えるように擦り付けた。
「エレン?」
「オレがいつ歌い始めるか分からないのに、口を塞ぐこともしないで……危機管理能力が問われますよ」
 顔を上げ、視線を合わせる。リヴァイは予想もしなかったことを言われたかのようにパチリと瞬いた。だが気の抜けた表情はエレンを見つめるうちに穏やかなものへと変化する。
 背中に回していた腕の一方をエレンの頬に添えたリヴァイはふっと口元を綻ばせた。
「お前が俺に危害を加えるとは思えない。それに……」
「それに?」
 続きを促すエレン。それを目の前にしてリヴァイの双眸が笑みの形に細められた。
「もしお前が歌ったなら、悪いのは俺の方なんだろう。だったら仕方ない」
「仕方ないって……!」
「お前は俺の特別だからな。……だから、嫌なら歌っていいぞ」
 リヴァイの腕に力が加わり、二人の顔が接近する。頬に添えられた手に強制力はなく、エレンは顔を背けることを許されていた。だが視線は外れず、近付く唇は歌を紡がない。
「エレン」
 鼻先が触れ合う距離でリヴァイが最後の確認をする。エレンは言葉で返す代わりに目を閉じた。
 この感情の名をエレンはまだ知らない。おそらくはこれもリヴァイによって初めてもたらされるものなのだろう。ならばゆっくり理解していけば大丈夫だ。それくらい相手が待ってくれることを、エレンはこの四年間で学んでいた。
 ただ一つ、今の時点で分かっているのは。
(これでもうあなたはオレの『兄』ではなくなりますね、リヴァイさん)

 新しい関係が、始まる。






ローレライ







2015.04.25 pixivにて初出

次の発生時期(季節/タイミング)を捏造しております。
845年の超大型巨人出現の時期および調査兵団の帰還タイミング/846年のマリア奪還作戦/エルヴィンの団長就任/リヴァイの兵士長就任/エルド達(リヴァイ班の四人)の調査兵団入団

そしてオリキャラのエノク・シィさんですが、人魚に心酔する人間だからその眷属っぽい感じの名前ってコンセプトで名付けてみました(笑)
エノク=従う者
ファミリーネームはケットシー(ケイト・シィ)の「シィ」ではなく、海(sea/シー)から。
シガンシナ区から救出されたエレンが夜の壁上で歌った時に居合わせた兵士の一人。