【序】


 人魚。上半身が人間、下半身が魚の架空生物。人間がジュゴンやマナティといった水棲哺乳類を見間違え、更に各地に存在する海や川の難所と結びつけたことで生まれた、おとぎ話の登場人物。
 ……とされていたが、近年、科学技術の発展により人類が宇宙と同様に未知であるとされていた海の世界を隈なく解明した結果、人魚としか言いようのない生物が発見された。
 未だ人魚に関しては多くのことが調査中だが、どの個体も見目麗しい。また男女比は女の方が圧倒的に多く、更には一部の人魚伝説にある通り得も言われぬ美しい歌を歌う者も僅かながらに存在する。
 人魚の中でも甘美な歌声を持つ貴重なその者達を人類は伝説になぞらえて「ローレライ」や「セイレーン」と呼んだ。


【1】


「人魚研究をしている施設の中じゃうちはトップレベルなんだけど、このセイレーンはなかなか歌ってくれないねぇ」
 強化アクリル樹脂プレートで作られた高さ十メートル幅二十メートルの巨大な水槽を見上げてハンジ・ゾエは呟いた。
 彼女がかけている眼鏡のレンズに影が映り込む。目を細めるハンジの視線の先では、青白く輝く水の中で一人の幼い少年が優雅に泳いでいた。
 人間で言えば十歳程度。髪は黒く、大きな瞳は南の海を思わせるエメラルドグリーン。まだ柔らかな肢体は性別を曖味にさせている。
 そんな彼は、しかしながら普通の人間ではない。何時間でも何日でも水中で生活できる彼の下半身は蒼銀色の鱗に覆われた魚の形をしていた。
 人魚。特に彼は美しい歌を歌う種族であったため、セイレーンと呼ばれている。
 なお、天上の歌声とも言われる彼らの歌は人類のどの言語とも違う『歌詞』によって紡がれる。人魚の言語とされるその歌詞の意味を解明するのも人魚研究の大きな目的の一つだった。
 研究のために仲間の元から連れて来られた人魚。しかし珍しい男体である彼は滅多にその美しい歌声を響かせてくれない。無理矢理歌わせるのは国際機関が定めた条約で禁止されているため、研究者達はひたすら人魚の機嫌を取り、環境を整え、人魚がその気になるまで待つしかなかった。
 人魚の中には言葉が通じないながらも協力的な個体もおり、運良くその人魚と巡り合えた研究所は大きな成果を残している。ハンジがいるローゼ研究所もこれまで幾度となく学会で研究結果を発表し、世界にその名を知らしめてきた。その成功もあり、今回、珍しい男の人魚を研究する権利が得られたのだ。
「さすが男体でセイレーン、しかも世界初『研究所内で生まれた人魚』なんていう三重レアに相応しい難易度……」
 しかしながらハンジの呟きの通り、少年体のセイレーンは生まれた施設からこの研究所に移って以降、まだたった数度しか歌ってくれていない。しかもそれは初期の頃だけで、半年経った最近では歌を歌うどころか研究者に協力的な姿勢を見せることすら少なくなっていた。日がな一日、この広いとは言え限られた世界で泳ぎ回るのみ。
 本当はすでに役目を終えて海に戻された仲間の元へ帰してやった方が良いのかもしれないが、この研究所に属する研究者として至極貴重な対象をそう簡単に手放すことはできない。大きな声で言うことではないが、セイレーンを手に入れるためにそれなりの大金も動いている。
「何か暇潰しでも与えてやれたら、少しは機嫌直してくれるのかな」
 つまらなさそうにすいすいと水中を泳ぐ少年を見つめて、ハンジは溜息を吐いた。

* * *

「……迷った」
 巨大な研究所の一角で男が一人、がっくりと肩を落とす。
 この広大な面積を有するローゼ研究所に赴任して一日目。腕時計型のウェアラブルデバイスを操作して施設内の地図を表示させるが、端末から3D投影されたパネルには「error」の文字。どうやらこのエリアはGPS機能が働いていないらしい。
「電波遮断区域に入り込んじまったのか……? だったらまずいな」
 男は眉間に皺を寄せて独りごちる。
 科学の恩恵を放棄した一部地域はさておき、このような場所でGPSが使えないとなると、それは故意にそうしていると考えて良い。大抵の場合、そのような場所では機密情報が扱われていたり、まだ公開できない会議や実験が行われていたりする。
 男は自分をスカウトした人間によって一応この研究所のほぼ全てのエリアに立ち入る権利を付与されていたが、それでも自分に関係ない場所へ足を踏み入れることは良くないと思っていた。研究者の中には部外者が自分の領域に入ってくることを酷く嫌う者が少なくない。
 とりあえずGPSが機能している場所へ向かおうと男は視線を上げる。だが踵を返す前に改めて白を基調とする施設の廊下を見渡した時、まるで引き寄せられるように一つの扉が目に入った。
 何の変哲もない両開き横スライド式の扉だ。近くに他の扉がないため、おそらくかなり広い部屋に繋がっている。扉の横にはセンサーがあり、入室権利を持つ人間が腕の端末をかざせば自動で開くようになっていた。
 扉の上には『大水槽1』の文字。この研究所は人魚を中心とした海洋生物の研究をメインに行っているため、大規模な水槽と日常的に水槽の中の生物の体調をチェックするための計測機器だけを置いた部屋や小〜中規模の水槽を併設する実験室などが多数存在する。
 部屋は防音仕様で気密性も高く、中の音が外に漏れることはない。しかしその扉の前に立った男には中から大きな魚が跳ねるような水音が聞こえた気がした。
 扉の横のセンサーに腕の端末をかざす。小さなLEDライトが赤から緑に変わり、扉は小さな空気が抜ける音と共に開いた。
 水の匂いがする。
 真水ではなくおそらく海水。ただし研究所で調整された人工海水らしく、『海の匂い(潮の香り)』はあまりしない。
 男は室内に足を踏み入れる。明るい廊下とは違い、主な照明は足元を照らす暖色系のフットライトと非常時の誘導路を示す緑色のライト。だが広い部屋の中はぼんやりと青白く照らされていた。その光源は部屋の体積の殆どを占める高さ十メートルはあろうかと言う巨大な水槽。そこから、今度こそ本物の水音が聞こえた。
 音がした方を見上げて男は目を瞠る。
「そうか。ここは人魚の」
 太陽の代わり――にしては弱々しく、月の代わりと称した方が良さそうだ――の照明が一つ、高い天丼から吊り下げられ、水槽の内部に光を届かせていた。その光に反射する水飛沫と、キラキラ輝く蒼銀。広い水槽の上部に人魚が一匹、月光浴でもするように身体を漂わせていた。水音は人魚が悪戯に水面を叩くことで出ていたようだ。
 男は人魚の背中を見上げつつ制服代わりの白衣のポケットに両手を突っ込む。成入しても身長は百六十センチ程度しかなく、しかし一見すると細身だが実は平均以上についた筋肉と立派な骨格のおかげで、胴回りや肩幅に合ったものを選ぶと大量生産された既製品の白衣ではどうしても袖が余ってしまう。折り返された袖口がポケットのところでくしゃりと皺を作った。
 水を循環させるためのポンプの低い駆動音が小さく、そして途切れることなく続いている。その中で時折混じるパシャパシャと言う水を叩く音。しばらく水面に浮かぶ人魚の背を眺めていた男だったが、
「暇そうだな」
 思わずそう口に出していた。
 バシャンとひときわ大きな水音が立つ。驚いた時の人間そっくりの反応だ。それまで水面に浮かんでいた人魚はきょろきょろと周囲を見回し、それから水槽の下の方にいる男を見つけると潜水を始めた。こぽこぽと空気を吐き出しながら、初めて見る人間――人魚は人類の顔を識別できるとの研究結果が出ている――の前までやって来る。
 透明度の高い強化アクリル樹脂プレートに手を這わせ、物珍しそうに水槽の外の人間を見つめる人魚。その瞳を見返しながら男はぼそりと告げた。
「なんだ男か」
 がっかりしたのが向こうにも伝わったのだろう。人魚は他の研究者と違う態度に目を丸くし――人魚研究をする者なら男体の人魚に驚愕や歓喜こそすれガッカリすることはない――、次いでむっと頬を膨らませた。大きなエメラルドグリーンの双眸が怒りに鋭くなる。
 生憎、白衣の男は然して人魚に興味はない。そしてまっとうな男として、下半身が魚とはいえ美しい女性の裸を拝見できる方が嬉しいと感じる。子供の、しかも男の裸など見てもつまらない。
 人間で言えば十歳くらいの少年体の人魚を見据えて、男は「ああ、思い出した」と言った。
「お前、非協力的なレア人魚か。噂は聞いている。研究に協力しない割には珍しがられねぇとへそを曲げるのか? 勝手なもんだな」
 人魚は人語を話さないが、ある程度人間と接点を持っていると何を喋っているのか理解すると言う。少年人魚は男の言葉を理解したのか、それとも言語理解まではいかずともニュアンスで大体の意味を感じ取ったのか、更に目つきを鋭くさせた。ギラギラと緑の瞳を輝かせる。虹彩に金の光が混じったようにも見えた。
「冗談だ。そう怒るなよ」
 男は肩を竦める。だがその程度で人魚は怒りを静められないらしく、鋭いままの視線でギッと男の白衣の胸についた名札を睨み付ける。名札には「Levi Ackerman」と記されていた。
 一字一句暗記するように睨み付けるその様子を見て、男――リヴァイは「あ」と口に出した。この人魚、リヴァイの名前を覚えるつもりなのかもしれない。
 嫌な予感がして手で名札を隠せば、人魚が「何すんだよ!」とでも言いたげな表情で目を合わせてくる。小型ながらもなかなか獰猛なお子様であるようだ。
 人魚と言えば美しいと言う印象が先行し、そこから勝手に儚いだとか優しいだとかいうイメージを抱いてしまいがちだが、このお子様を見ているとそれも馬鹿らしく思えてくる。リヴァイはふっと口元に淡い笑みを刻んで水槽から一歩後退した。人魚の少年は「おや?」と不思議そうな顔をする。
「面白いものを見せてもらったが、生憎俺はお前らの謎の解明にさほど興味がない。もう会うこともないだろうよ」
 そう言ってリヴァイは踵を返す。人魚は水底付近を漂ったままぺたぺたと水槽の壁面を触る。リヴァイの行動に意表を突かれ、困惑しているようだ。
 リヴァイが振り返らないと知ると人魚は透明なその壁を叩き始めた。しかし当のリヴァイは別れの挨拶代わりにひらりと右手を挙げただけで、振り返ることすらしない。
 そのまま扉を通り抜け、廊下へ。今度こそ目的地である自分用の研究室に辿り着くため、リヴァイは来た道を戻り始めた。先程本人に告げた通り、もうあの少年人魚とは会うこともないだろうと思いながら。
 しかし――


「あーっ! あなたがリヴァイだね! ローゼに同じ名前の人間が他にいなくて分かりやすかったよ! って言うか扉を開けた人間のIDチェックすれば特定できるんだけど! まぁそれはさておき! ちょっとあなたに来てほしいんだ!」
 奇妙な邂逅からたった数時間後、自分の研究室に辿り着いて一息ついていたリヴァイは、白衣を着た髪がぼさぼさの眼鏡に突然部屋を襲撃された。ハンジと名乗ったその研究者は有無を言わさずリヴァイをどこかへ連れて行こうとする。
「ちょと待て! てめぇ一体何なんだ!」
「私? 私はハンジ・ゾエだって名乗っただろ?」
「じゃなくて! なんで俺を連れて行こうとしてやがるんだ! あとどこへ行く気だ!」
「おっと失礼。興奮が収まらなくってね」
 リヴァイをずるずると引き摺っていたハンジは廊下の真ん中で立ち止まり、両手を広げて振り返った。
「私の専門は人魚だよ。そしてこれからあなたを連れて行くのは大水槽1。あなたにうちのセイレーンと会って欲しい」
「……あ?」
 リヴァイの脳裏を青白い空間がよぎる。まだ幼い少年人魚の姿と共に。ハンジはあの人魚とリヴァイを引き合わせようとしているのか。
「なんでだ? 確かに俺は海洋生物の研究者だが、人魚は管轄外だぞ」
「知ってるよ。ざっくりだけど調べさせてもらったから。でもそんなの関係ない。たとえあなたが他分野の研究者でも、それどころかただの事務員とか清掃員だったとしても、私はあなたを呼んだだろう」
「理由は」
 尋ねるリヴァイにハンジは眼鏡の奥で目を輝かせる。興奮で鼻息が荒くなり、リヴァイは思わず一歩後ずさった。
「だってあの子がここへ来て久しぶりに自発的な行動を起こしたんだ! いつも私達を無視するあの子が! 私のチームが部屋に入るとあの子が壁面に張り付いていてね、必死に何かを書くんだよ。何だろうって思ったら、エル、イー、ヴイ、アイ――リヴァイ。あなたの名前じゃないか。しかもあの綺麗な目をギラギラさせてね! こりゃあもうあなたを呼んでくるしかないでしょ!」
 リヴァイは頭を抱えた。あのクソガキ(もう人魚とすら呼んでやらない)、やはりリヴァイの名前を憶えていたのだ。そして自分の専任研究者であるハンジに「こいつは無礼なヤツだ」とでも訴えたかったのだろう。
「さあ! 理由も説明したところで、出発進行ーっ! あー! 楽しみ!」
 興奮しまくりのハンジに引き摺られ、ドナドナよろしくリヴァイは再び大水槽の部屋を訪れる羽目になった。


【2】


 リヴァイの専門分野はクジラである。世界最大の哺乳類とされる彼らの研究はとても神秘に満ち、興味深い。しかし人魚の存在が明らかになって以降、クジラを含むその他水棲生物の研究はどうしても一歩劣って見られるようになってしまった。今や猫も杓子も人魚研究。人魚以外の研究も科学の発展にとって非常に重要な役割を果たしていると言うのに、その事実はあまり評価されなくなっているのだ。
 そんなリヴァイの目の前には、現在、人魚のために誂えられた大水槽がある。
 先日、上機嫌および大興奮でリヴァイをここに連れて来たハンジは、少年人魚がリヴァイの姿を見て嬉しそうにした――リヴァイ本人にとっては大水槽前に渋々連れて来られた姿を見て所謂『ドヤ顔』をしたようにしか見えなかったが――ことで、「これはイケる!」とか何とか叫んだ。その日はすぐに部屋へ帰されたが、翌日の朝、リヴァイの元に男体セイレーン研究の補助員を兼務するよう辞令が出されたのである。
 主な業務は専門的な観察やサンプル回収、解析……などではなく、『ヒトと交流した場合における男体セイレーンの反応観察およびその後の他実験に対する姿勢変化確認試験』と言う長ったらしい名称がつけられた、ぶっちゃけ人魚のご機嫌取り≠ナある。少しでも少年人魚が協力的になってくれるよう、リヴァイは彼に提供された娯楽なのだ。
 ふざけるな、とも思ったが、辞令と共に提示された給与を見てしまうと何も言えない。これだけあれば研究所の外でも自分の好きなことを調べられそうだった。拘束時間もさほど長くなく、結果、リヴァイは定期的に大水槽を訪れて少年人魚の相手をすることとなったのだ。
 その『ヒトと以下略』が正式に行われた初日、少年人魚は専用の足場を使って水槽の淵に近付いたリヴァイにひたすら尾ひれで水をかけた。こめかみに青筋を浮かせ、拳を握り締めて我慢したリヴァイの姿に人魚はそこそこ満足したらしく、なんとその後、簡易な身体測定だけではあるが研究に協力的な姿勢を見せた。
 おかげでハンジら研究チームの面々は大盛り上がり。今後ともよろしくとリヴァイの両手をしっかり握りしめた。
 初日からある程度の成果を上げられたため、人魚のご機嫌取りの内容はリヴァイの裁量に任されることになった。ハンジは「慣れてきてあの子が許すようになったらここでリヴァイの本来の仕事をしてくれてもいいよ。データ整埋程度なら水槽の近くに端末を持ち込んで片付けることも可能でしょ?」などと言う始末。それでいいのかと思ったが、責任者がオーケーを出すのだから、構わないのだろう。
 そんなこんなで何度か人魚にいいようにされつつ、またその後本来の実験に協力的な姿勢を見せたり見せなかったりで、それでも人魚本人があまりリヴァイに悪戯を仕掛ける気がなくなって来たのか、少なくとも水をぶっかけることはなくなった頃。リヴァイはハンジに提案された通り、自分の仕事を大水槽の部屋に持ち込んで片付けることにした。つい数時間前、データ採取を依頼していた別チームから結果が送られてきたのだ。
 部屋の上の方にある、水槽と接する足場。そこに腰を下ろし、透明な強化アクリル樹脂プレートに背を預ける。端末を腕から外して目の前に複数のウインドウを3D投影させた。操作方法は指先と音声入力。少年人魚以外の他者がいないことも手伝って、遠慮なく数値や画像データのウインドウをいくつも展開させる。
 最近、ここの人魚はリヴァイの行為そのものに興味を持ち始めたらしく――自分に構ってこない人間が逆に面白くなってきたのだろう――、リヴァイの姿が見えるとすぐ、すいーっと泳いで近寄ってくる。本日も水槽の壁面越しにリヴァイが何をしているのか観察するようで、すぐ傍までやって来た。『すぐ傍』とは言っても厚さ五十センチ以上の透明な板を挟んでだが。
 リヴァイはそれを一瞥したのみでサクサクと仕事を進める。背後では人魚がぺたりと壁面に両手をつけ、それどころか額まで押しつけてあるものに見入っていた。
 それはリヴァイが仕事と趣味を兼ねて端の方で再生させていた映像データ。海の中で撮影されたクジラや小魚達が映し出されている。水中だけでなく、時折船の上から海上を見渡したものもあった。
 こつん、と人魚が壁面を叩く。その音でリヴァイは背後を振り返り、「なんだ?」と首を傾げた。人魚はリヴァイを見た後、指で片隅に投影され続けている映像データを示す。
「これをもっと見たいのか?」
 呟きつつリヴァイは人魚に見やすいようウインドウを移動させ、更に別の海の映像データもアーカイブから引っ張ってきた。途端、エメラルドグリーンの瞳がいっそうキラキラと輝き出す。
 この少年人魚は海を知らない。母人魚が人間に協力し、出産をこことは別の研究所――マリア研究所――で迎えたからだ。そのまま少年人魚はマリア研究所で育てられ、この施設にやって来た。
 ひょっとしたら母人魚や年上の仲間達から海の存在について語られていた可能性はあるが、こうして映像データであっても目にする機会は少なかったか、もしくは今回が初めてなのかもしれない。
 そう考えつつ人魚と共に映像データを眺めていたリヴァイは、画面中央に映し出されたクジラを見て「ミシェルか。大きくなったな……」と呟いた。
 ミシェルとはそのクジラに付けられた名前である。身体の模様やひれの形、また傷などから、研究者はクジラの個体を識別することが多い。その際、分かりやすいように名前を付けるのだ。
 しかし、そこまで考えてふと疑問に思った。
 何度かこうして顔を合わせているが、この少年人魚の名前は何なのだろうか。
 個体識別用に名前が無くとも、この人魚に関して言えば、あまりの希少さゆえに問題ないと言えば問題ない。ハンジのチームが書いている研究報告書ではこの人魚を示す名称が使われているのかもしれないが、この場で呼んでいるのを聞いたことが無いので、もしかしたら「対象乙」だとか「男体セイレーン」といった記述がされている可能性もある。
 今のところ世界に一つだけの事例である少年人魚。今のままでも十分だったが、日常的に観察対象には名前を付けている身としては少し寂しい気がした。
 リヴァイは映像を見て目を輝かせている人魚を眺める。
「――――――…………エレン」
 ふい、とエメラルドグリーンがリヴァイを見た。
 リヴァイは意図せず己の口から零れた単語をもう一度囁く。記憶の奥底から浮かび上がってきたような名を。
「エレン」
「――……」
 その唇の動きを見ていた人魚が真似るように口をぱくぱくと動かした。リヴァイは続いて己を指差し、「リヴァイ」と告げる。それから人魚を指差して「エレン」とゆっくり発音した。
 人魚はその動作も真似る。リヴァイを指差して口をぱくぱく。己を指差して口をぱくぱく。正確に言えているのかどうかリヴァイには分からなかったが、とりあえず「よくできた」と頷いてみる。
 人魚の顔がぱっと花咲くように明るくなった。
 少年人魚は優雅に尾ひれを動かして水面から顔を出す。それに合わせてリヴァイも立ち上がった。水槽の淵の近くにある二番目に高い足場にいたため――最も高い足場は水槽の淵と同じ高さだ――、覗き込めば水槽の内側にギリギリ顔を出すことができる。
 リヴァイは水槽の淵に手を乗せて人魚を見下ろす。胸の上まで水面から出てきた人魚が口を開いた。
「ええん。りあい」
「エレン、リヴァイ」
「えれん。りあ、い?」
「……まぁそれでいい」
 まだ少し舌足らずな発音だったがリヴァイがそう言って口元を緩めると、人魚――エレンはぱしゃんと水を跳ねさせながら嬉しそうに水面付近を泳ぎ回る。
 初めて聞く男体人魚の声がまさか自分の付けた名前と己自身の名前の二つだとは予想しておらず、リヴァイは少し嬉しく感じてしまった。
「エレン、はしゃいで壁にぶつかるなよ」
「りあーい」
「言えてねぇし」
 クツクツと喉を震わせる。出会いは散々だったが、それなりに可愛らしいところもあるものだ。
 ひとしきり泳いだエレンはリヴァイが展開中だった海の映像を指差した。
「りあい?」
「これは、海、だ」
「う、みー」
「こっちは、クジラ」
「くいら」
「クージーラ」
「くーじーら!」
「クジラ」
「くいら」
「お前、歌は上手いらしいが、やっぱ人間の発音までは一発で上手くなったりしねぇか」
「うた?」
 小首を傾げたエレンは何かを考え込むように口を閉じた。「歌」と言う単語に反応したとしたら、きっと研究者の発言を覚えていたのだろう。彼らは「歌ってほしい」やら「セイレーンの歌が聞きたい」やら、エレンのいる前でよく言っていたので。もしかしたら、すでに短い単語程度なら人語を解しているのかもしれない。
 黙っていたエレンは一度ちゃぷんと水中に沈んだ。しかしすぐに顔を出し、リヴァイに微笑みかける。
「エレン?」
 名を呼ぶリヴァイ。
 すっと息を吸い込むエレン。
 その直後、天上の歌声が少年の唇を割ってこの世に紡ぎだされた。


 聞き惚れるとはこのことか。リヴァイはエレンが歌うのを止めるまで身じろぎすらしないまま立ち尽くしていた。歌が終わっても身体の芯がしびれたようになり、息を吐き出すことすら慎重になる。
 だがその素晴らしい余韻を十分に堪能する暇なく、第三者の声が下から聞こえてきた。
「すっ……すごいよリヴァイ! まさかその子が歌ってくれるなんて!」
 リヴァイに任されたご機嫌取りの時間が終わって、ハンジが研究再開のために仲間を連れてやって来たのだ。眼鏡の研究者はものすごい勢いで足場の階段を駆け上がる。
 突然声を掛けられたことでむっと眉間に皺を寄せたリヴァイだったが、彼女に文句を言う前にするべきことがある。一度下へ向けていた視線をエレンへと戻し、心からの言葉を告げる。
「とても良かった」
「!」
 エレンの顔がぱっと華やいだ。ほんのりと目元を赤く染め、水中でくるりと一回転する。
 ここまで辿り着いたハンジがその様子を見て「おお!」と声を上げた。
「この子……こんな顔で笑うんだね」
「『この子』じゃねぇ。エレンだ」
「え?」
「俺が名付けて、こいつが認めた。……マズかったか?」
「いいや」
 ハンジは目元を柔らかくして答える。
「ありがとう。私達に足りなかったのはこのセイレーン……じゃなくて、『エレン』に対するそういう姿勢だったんだ。それがよく分かったよ」
 くるりくるりと楽しげに泳ぐエレンを眺めながらハンジは微笑んだ。
「エレン、素敵な名前をもらったね」


【3】


 リヴァイとエレンの出会いから五年の歳月が流れた。人魚であるエレンはリヴァイを通してヒトに馴染み始め、またヒトであるハンジらがリヴァイの姿勢を見て己の態度を改めていった結果、今では両者の間で良好な関係を築けている。
 珍しい男体のセイレーンであると言うだけでなく、人間に協力的な姿勢のエレンは、リヴァイにもらったその名前と共に好意的な意味で一般の人々にも広く知られるようになった。
 この五年間、エレンのおかげでハンジ達のチームは数々の功績を残している。その一つが『セイレーンの歌の意味について』だ。
 歌詞だけでなく音階や歌い方そのものにも意味を込める人魚の歌はひどく難解で、人間の言葉に直すのは多大な労力を要する。しかしハンジらはエレンが歌う歌のいくつかについてすでに翻訳を終えていた。
 どの研究チームよりも早くハンジ達が翻訳できたのは、エレンが人語を解するだけでなく己で話す努力を積極的に行ったからだ。
 人魚とヒトでは発声器官が異なる。しかしエレンはリヴァイと会話したい一心で相手の言語を学び、ヒトと同じ言葉が話せるよう試行錯誤を繰り返した。結果、今では何の問題もなく水面から顔を出してヒトと会話をすることができる。
 エレンが人語を話すようになり、まず人魚の通常言語の意味がほぼ全て解明された。そして人魚の通常言語よりもずっと難解な歌の解明へステップが進む。
 こうしてハンジのチームを主軸としていくつもの研究結果が学会で発表され、エレンを擁するローゼ研究所は更に有名になっていった。出資を申し出る人間も増え、資金は潤沢に。そんな中、誰かが言った。これならもう一匹人魚を連れて来ることもできるな、と。
 この五年で、エレンの協力により様々な実験が行われてきた。しかし計画はされつつもまだ実施されていない実験が一つある。――繁殖行為だ。
 通常、人魚は卵生かつ単為生殖で増える。人間のように男女が交わって子をなすのではなく、女体の人魚がある時期になると一人で卵を産むのだ。また他者と交わらないため、子のDNAは親と全く同じものになる。
 しかしその法則では男体の人魚が生まれない。男体には子を作る器官がないため、自分と同じDNAを持つ男の性の子を生み出すこともできないのだ。しかし現に、ごく僅かとはいえども男体の人魚は存在する。
 この問題を解決するのがエレンの母親の例である。彼女は人間に協力するよりも前に男体のパートナーを得ていたようなのだ。そのパートナーを人間が確認することはできなかったが、本人(本人魚)は身振り手振りでそう示したらしい。
 つまり、男体の人魚が生まれるのは女体の人魚が男体のパートナーを得て子をなした場合となる。
 この珍しい現象を人の目の届く範囲で起こすため、エレンが女体の人魚とカップリングを行う実験がかなり初期の頃から計画されていた。ローゼ研究所の資金が潤沢になったこともあり、もう一匹の人魚を確保できる目途がついた今、その計画はますます現実味を帯びるものとなっていった。
 人魚の身体がどの時点で「子供」から「大人」になるのか、またどこを見て判断すればいいのか、男体に関しては全く分かっていない。しかし女体の人魚は今のエレンくらいの見た目になれば子をなせると言う。
 ならばエレンもそろそろ身体の準備が整っているかもしれないと研究チームは判断した。
 エレンの相手に選ばれたのは、金の髪、青い瞳、真っ白な肌、そして光の当たり方によって七色に輝く真珠色の鱗を持つ美しいセイレーン。
 彼女がこの研究所にやって来る日取りも決まり、それまでエレンに対する実験は一時休止となった。しかしリヴァイがエレンの元へ通うことはなくならない。今やそれは単なる仕事ではなく、二人(一人と一匹)にとって「やりたいこと」になっていたからだ。
「お前もついに嫁さんをもらうのか……。俺より早いじゃねーか、ちくしょう」
「よめさん、ですか。それって良いものなんでしょうか」
「そりゃ周りは祝福するだろうよ」
「リヴァイさんも、オレが嫁さんをもらったら祝福してくれるんですか?」
「あ? ああ、まぁそりゃあな……」
 水槽の淵に腕を乗せてエレンと会話していたリヴァイはいささか曖味な返答をしてしまう。自分でもよく分からないのだが、めでたいはずの出来事を何故か心から喜ぶことができない。
 この五年間、仲間から離され一匹で過ごしてきたエレンの元にようやく同類がやって来るのだ。例えそれが繁殖のためであっても、悪いことではないはず。
(自分の子が嫁に行く父親の心境ってやつか……? いや、エレンは男だし、嫁に行くんじゃなくて嫁をもらうんだが)
「リヴァイさん?」
 もやもやとした思考を断ち切るように、エレンに名前を呼ばれた。リヴァイはハッとして、会話を中断したことに対し「すまない」と謝罪する。
「ここに来るのは真珠色の鱗を持ったとびきりの美人らしいな。良かったじゃねぇか」
「あんまり興味ないです……」
 エレンは顔半分を水中に沈めながらこぽこぽと気泡を吐き出す。
「リヴァイさんといる方が楽しいに決まってる」
「お前ってヤツは……」
 嬉しいことを言ってくれるじゃねぇか、とリヴァイは口に出さず呟いた。エレンはリヴァイがこの五年間ずっと成長を見守ってきた子供だ。可愛くないわけがない。
 リヴァイと心を通わせるようになったエレンは、少し痛みや不便さを感じる実験に対しても「リヴァイさんの役に立つなら」と言って拒まなくなった。リヴァイは思わず「嫌なら止めていいんだぞ」と言いそうになったが、こちらは人魚の世話をするだけの雇われの身であり、実験について口出しする権利はない。またエレンが協力的になればなるほどリヴァイの評価が上がるのは事実だった。
 そして実験が終わると、全身で「褒めて!」と慕ってくる幼い人魚。こんな健気な生き物をリヴァイは他に知らない。リヴァイにとってエレンは健気で、愛らしい、慈しむべき子供だった。
 リヴァイが水槽の内側に手を伸ばすと、エレンがすいと近寄ってきて頭を触れさせる。水に濡れた髪や頬を撫でれば、うっとりとエメラルドグリーンの双眸が細められた。
 そうやってエレンを撫でていると、しばらくして人魚はリヴァイの手を取った。両手で握り締め、撫でてくれたお礼だと言うように口を開く。
 形の良い唇を割って零れ出すのはセイレーンの歌。この歌は、ここ最近エレンが良くリヴァイに対して歌うものだ。しかし意味は分からない。この歌だけはいくらハンジが願っても、エレンは人語への翻訳に協力しなかったのである。
 そんな不思議で、しかしどの歌よりも美しく聞こえる歌を、エレンはリヴァイのためだけに歌う。
 幸せな時間を噛み締めるようにリヴァイは目を閉じ、その歌に聞き惚れた。


 どの個体も整った容姿を持つとされる人魚であるが、エレンの番として選ばれたセイレーンはそれに輪をかけて息を呑むほど美しい娘だった。
 黄金の絹糸のような髪に縁どられた顔は小さく、大きな目は青い宝石を嵌め込んだかのよう。形の良い小さな唇は桜色。きめ細かい肌は白く、腰から下を覆う鱗は真珠色で、光の当たり方によっては七色に輝く。先に送られていたデータ通りの容姿だったが、実物を目にすると受ける衝撃は大きかった。
「こんな子が姿を見せたらそりゃ船も沈むわ」
 水難系の人魚伝説を思い出しながらハンジは呟く。
 その視線の先では、金髪のセイレーンがエレンと同じ水槽に入れられた後も特に気負った様子はなく悠々と泳いでいた。
 ただし同じ水槽に入れたとは言っても、現在は二匹の人魚を隔てるように、水槽内に仕切りが入れられている。誤って衝突しないよう色を付けた強化アクリル樹脂製の格子で水槽を縦半分に分け、まずは顔合わせと気が合いそうかどうかをチェックするのだ。
 今のところ、二匹の仲は良さそうではないが悪そうでもないと言ったところ。どちらも研究者達から何を求められているかは知っているので、それも影響しているのだろう。
 透明感のある美貌から、水晶のように美しい娘と言う意味を込めクリスタと名付けられた金髪のセイレーンは、大水槽に移された直後にエレンへ一瞥をくれて、以降は特に接触もなく一人ですいすいとこの大空間を満喫している。
 一方、エレンはしばらくクリスタの方を気にしていたが、自分から近付くことはせず、リヴァイが心配して様子を見に来るとすぐそちらへ近寄って行った。
 まさに他人のことを気にしない大人と、親に甘える小さな子供。同じくらいの年齢に見える二匹だったが、この違いには彼らの本当の年齢差が関係している。
 勘違いされがちだが、人魚と人間の成長には大きな違いがある。
 幼少期における人魚の成長はヒトと比べてとても早く、ヒトで言う『見た目十歳程度』は生まれてから二〜三年経った頃の姿だ。その速度で『見た目十五歳程度』まで成長すると、以降はぐっと成長速度がゆっくりになり、数十年かけて『見た目二十代半ば程度』にまで変化する。そこでほとんどの人魚は成長が止まり、人と同じかそれより長い寿命をまっとうするまで変わらぬ姿で生き続けるのだ。
 エレンは生まれてからまだ十年も経っていないまさに『子供』だが、海で生まれて今は一時的に人間に協力しているクリスタは少なくとも二十歳以上だとされている。
「……ま、焦っても仕方がないね」
 ハンジは肩を竦め、チームに無人観測の準備だけさせて今日は引き上げて良いと指示を出す。
 まだまだ二匹は顔を合わせたばかり。将来的には、そしてなるべく早く二人の遺伝子を引き継いだ子供を見てみたいが、こればかりは無理強いもできまい。
 部屋の上の方にある足場を見上げれば、リヴァイが水槽の淵に手を掛けてエレンを構っていた。綺麗な『お嫁さん』をもらったことよりも、そちらの方が今のエレンにとっては嬉しいことらしい。
 やがてエレンは幸せな表情を浮かべながら歌い出す。甘くて優しいその声にハンジや他の研究者達はしばし作業の手を止めて聞き入った。
 その傍らで、水底近くにいたクリスタがふっと水面を見上げる。水中でも聞こえるエレンの歌に耳を傾け、こぽりと小さな気泡を吐き出した。
 ――そう。あなたは…………なんだね。
 人語に翻訳されなければヒトに人魚の歌は分からない。けれども人魚同士ならその歌に込められた意味を正確に理解することができる。
 少年人魚の想いがどこに向けられているのか知った金髪の人魚はそっと口元に弧を描き、優雅に尾ひれで水を掻いた。


 透明な壁で囲われた水槽の中しか知らなかったエレンに外の世界を教えてくれたのはリヴァイ・アッカーマンと言う人間だった。彼はエレンの世界を広げてくれただけでなく、名無しの人魚に名を与え、愛情を与えてくれた。
 卵生である人魚の生活史はヒトよりも魚に近く、卵の時も孵化した後も親の庇護を必要としない。しかし完全に放置されるわけではなく、場合によっては親がずっと子の世話をすることもある。
 エレンは親から愛情を受ける代わりにリヴァイからあらゆるものを与えられて生きてきた。エレンの全てはリヴァイでできていると言っても良い。
 その想いを歌に乗せる。
 人魚の歌は親から子へ、もしくは仲間から別の仲間へと受け継がれるものではない。各々の魂が紡ぐこの世で一匹しか歌えない歌だ。比較的単純な意味のものならば別の人魚と良く似た歌になったり、また所々全く同じフレーズや歌い方になったりするが、特別な感情を込めたものは想いの大きさに比例して特別な歌になる。
 そして、エレンの魂が紡いだ歌はリヴァイのためにしか歌われない。リヴァイ・アッカーマンと言う人間はエレンにとってとても特別な存在であると言う証だった。
 エレンは歌う。その感情にどんな名前がつくのかも知らぬまま、幼い心はそこに全ての想いを込めて。
 エメラルドグリーンの瞳はリヴァイだけを見つめている。

* * *

 クリスタがエレンの水槽にやって来てから三日。リヴァイが毎日顔を出すため、エレンも毎日リヴァイに向けて歌を歌っていた。つまりクリスタは三日間その歌を聞き続けたことになる。
 不快そうな様子はなく、むしろエレンの歌が聞こえる間はとてもリラックスしているように見える――と言うのが、観察を続けたハンジ達の見解だ。
 そして本日もエレンが歌うと、クリスタは水の中でそれを静かに聞いていた。だが歌が終わった時、クリスタはこれまでと異なる反応を見せた。
 すい、とクリスタが水面へ向かう。上半身を水の上から出し、水槽内に設けられていた岩場を模した台に手を掛けて――。
「……クリスタが歌った!」
 囁きながら叫ぶと言う器用な真似をハンジがする。しかし心境はこの部屋にいる研究者達全員に共通している。
 エレンに触発されたのか、クリスタがここに来て初めて歌声を披露したのだ。
 リヴァイだけに向けられたエレンの歌とはまた異なる、けれどもどこか共通点があるような、とても美しい歌。それを聞いたエレンがリヴァイの手を握ったままクリスタに視線を向ける。
 その顔は聞き惚れると言うより、驚きと共感。傍らでリヴァイが「何を歌ってるんだ?」と訊くと、振り返って「自分の一番大切な相手を想う歌」と答えた。
 エレンの回答にリヴァイはクリスタが番(予定)であるエレンに歌っているのだと考える。後でリヴァイからエレンの言葉を聞いたハンジ達も同じ推測をした。
 この一件により、後日、エレンとクリスタを隔てる格子が取り除かれることが決定するのだが――……その前に。
 クリスタの歌が終わると、他に仕事があるリヴァイは大水槽の部屋を出て行った。最優先の相手がいなくなったことで、エレンはクリスタへと近付く。
 格子があるため触れるほど接近することはないが、互いの顔が良く見える距離にまで潜ってからエレンはクリスタに話しかけた。
『さっきの歌の相手、お前にとってとても大切なヤツなんだな』
 クリスタの青い目がエレンに向けられる。『うん』と金髪の人魚は肯定した。
『彼女≠ヘ私にとってとても大切な存在なの。あなたもそうだよね? 私が思わず歌っちゃうくらい強い想いが籠った歌だった』
『あの人はオレの全てみたいなもんだから』
『そう。私も、きっとあなたが彼を想うのと同じくらい彼女が特別だよ』
『いいヤツなのか?』
『あなたが言ういいヤツ≠ナはないだろうけど、私の一番の親友』
 水槽を二つに分ける格子を手で撫でながらクリスタは水の中を泳ぐ。エレンはそれに追随するように尾ひれを動かした。
 ついてくるエレンを一瞥してクリスタは微笑む。
『私の名前ね、本当はクリスタじゃないんだ。クリスタは人間がつけた名前。でもその前に彼女からもらった名前がある。私の本当の名前はそっち』
『お前も大切な相手に名前を付けてもらったのか。オレと同じだな! お前の名前、訊いてもいいか?』
『訊くだけじゃなくて、呼んでくれてもいいよ。もっとみんなに呼んでほしい。この名前は彼女が私の特別だってシルシだから』
 くるり。水中で宙返りをしてクリスタは格子を隔てたエレンに顔を近付ける。
『私の名前は、ヒストリア』
『ヒストリア』
『そう。大切な彼女=\―ユミル≠フ親友の、ヒストリア』
 ユミルの名前は私が付けたんだよ、とヒストリアが幸せそうな顔をする。
『私かユミルのどちらかが死ぬ時は絶対に二人の子供を残そうねって誓ってるの』
 宝物のようにヒストリアは呟く。その言葉にエレンはぱちぱちと目を瞬かせた。
『人魚って女体同士でも子供が残せるのか?』
『エレンはやり方を知らないの?』
『うん』
『そっか。男体だからかな。私達は最初から知っていたし』
『子供を残すって、オレにもできるかな』
『できるよ。特に男体は簡単』
『そうなんだ! よかった』
 ハンジ達に望まれること、ひいてはリヴァイの評価を上げることに繋がる行為が無事に完遂できそうだと知って、エレンは胸を撫で下ろす。
 その傍らでヒストリアは浮かない顔をした。しかしやがて彼女は一つの決意をする。自分と同じく大切な存在を持つ少年人魚のために何をすべきか。


【幕間】


 むかしむかし、あるところにとても仲の良い二匹の人魚がおりました。
 片方は女性の身体をもつ金色の瞳の人魚、もう片方は珍しい男性の身体を持つ緑色の瞳の人魚です。
 二匹は男の人魚の瞳と同じ美しいエメラルドグリーンの海で出会いました。それからずっと一緒に過ごし、色鮮やかな魚達が泳ぐ温かな海も、水面を氷が覆う冷たい海も、たくさんの場所を巡りました。
 長い時を共に過ごした仲睦まじい人魚達でしたが、彼らにも寿命があります。加えて男の人魚は女の人魚よりも寿命が短く、どんなに強く望んでも一緒に居続けることはできません。
 そうして、『その日』はやってきました。二匹が出会った美しい海で、男の人魚は動かなくなってしまったのです。
 金の瞳の人魚は悲しくて悲しくてたくさんたくさん泣きました。しかし彼女には悲しみを喜びに変えるために一つだけ残されたものがありました。一番大切な存在がここに生きていたという証。彼の細胞一つ一つに存在する遺伝情報。
 金の瞳の人魚は大好きな相手を抱きしめます。緑の目を瞼の奥に隠してしまった男の人魚はされるがまま、ふわふわと水中に腕を漂わせました。その片方の腕を金の瞳の人魚は優しく手に取り、そっと己の口元に近付けます。

 ――わたしの一番。わたしの世界。わたしの中でもう一度生きて、生まれてきて。

 かぷり、と。人魚は世界で一番大切な人魚の指を食みました。
 水の中に漂う赤い帯。人魚が人魚を食べているのです。
 ゆっくりと、長い時間をかけて大切な存在を食べきった時、その人魚の瞳は美しいエメラルドグリーンに染まっておりました。そして彼女の胎には新しい命が。
 そう。彼女らは大切な存在をその身に取り込み、一つになり、二つが混じり合った新しい身体で新しい命を孕むのです。


【4】


『エレン、大切な話があるの』
 研究者達も帰宅し、無人の計測装置のみが動く部屋の中。ヒストリアが格子の所まで近付いてエレンに声をかけた。無論、言語は人語ではなく人魚のそれである。
 半分眠りながら水中を漂っていたエレンはその声にぱちりと目を開け、自分も格子の方へ向かう。
『どうしたんだよ』
 格子の向こう側にいるヒストリアの顔色はあまり良くない。ユミルという友について語っていた時とは正反対の表情だ。心配するエレンにヒストリアはしばし沈黙し、意を決したように言葉を続けた。
『私達人魚の、子孫の残し方についてなんだけど』
『うん』
 どうやらヒストリアはエレンが知らないと言ったその件について事前に説明してくれるらしい。
 男体であるエレンにとっては簡単なことだと教えてもらったものの、その詳細はまだ何も聞いていなかった。実際に行動を起こす際、ヒストリアの側から実地で教授されるものだろうとぼんやり考えていたのだが、そうではないようだ。
『先に確認しておきたいんだけど、私とリヴァイさんのどっちが大事って訊いたら、エレンはリヴァイさんって答えるよね?』
『おう、もちろん。ヒストリアだって、オレかユミルってヤツかって訊かれたら、ユミルなんだろ?』
『うん。そうだよ』
 双方とも大切な存在は他にある。それを再確認してからヒストリアは言った。
『でもね、エレン。もし私と子孫を残そうとするなら、リヴァイさんとは二度と会えなくなっちゃうよ』
『えっ、なんで!?』
 エレンは大きく目を見開いた。
『そんなの嫌に決まってる! オレ、まだリヴァイさんと一緒にいたい! これだってただの実験だろ!? なのになんでリヴァイさんと会えなくなっちまうんだよ!!』
『子孫を残すっていうのは大抵の生き物にとって命懸けの行為なの。そして人魚は更に特別』
 声を荒らげるエレンに対し、ヒストリアは努めて冷静に答えた。それが余計にエレンの苛立ちを増長させる。エレンは互いを隔てる格子に拳をぶつけて叫んだ。
『人魚は子供を産んだって死なないんだろ! それくらいオレだって知ってる! もし死んじゃうならここの研究所の人が許すはずない! 人魚は貴重で、しかもオレは――』
『貴重な人魚の中でも更に特別な男体のセイレーン。そうだね。そんなあなたが死ぬと知っていたら、あの眼鏡の人も他の人も繁殖実験なんてこんなに簡単にはしないと思う』
『だったら』
『でも、あの人達が知らないとしたら?』
『――ッ!』
 目を瞠るエレン。そうだ。研究者達は知らないから℃タ験をするのだ。ある程度の結果は予測しているだろうが、それが現実になるかまでは分からない。
 研究者達とは反対に子孫を残すと言う行為の過程で何が起こるか知っているヒストリアは、長い睫を揺らしてエレンを見つめた。
『自分だけじやなく、相手がいる状態で子供を作るって言うのは、人魚の中でも特別な行為なの。本当は世界で一番大切な相手としか行わない。しかもたった一回だけね』
『一回だけ?』
 あくまで冷静かつ穏やかなヒストリアの声に導かれるように、エレンも徐々に落ち着きを取り戻す。オウム返しに尋ねると、ヒストリアは『そう』と頷いた。
『正確に言うと、一回しかできない≠だよ。だって大事な相手とずっと一緒に過ごして、片方が……女体同士ならどちらか一方、男女のペアなら男体の方なんだけど、そちらが死期を悟るか実際に死んでしまった後に行うことだから』
『死んでからって……そんなの無理じゃねぇのか? だってリヴァイさんが見せてくれたデータじゃ、クジラはどっちも元気なヤツらで……』
『言ったでしょ? 人魚は特別だって。勿論どちらも元気な状態で行うことはできる。でも一度やってしまったら二度と大切な存在に会えなくなる行為を元気なうちにするはずがないよね』
『う、うん』
 ヒストリアの説明は未だ肝心なところが抜けていて、エレンは戸惑いながら一応首肯した。
 一つ。人魚が単体ではなく二匹で子供を生み出す場合、男体であるエレンは二度と大切な存在に会えなくなる。
 二つ。本来、人魚が二匹で子供を生み出す場合、片方が死にかけもしくは死亡後にその行為が行われる。
 ヒストリアが語ったこの言葉から導かれる『事実』は何か。片方が死亡していても実行可能な行為とは――。単体でも子孫を残せる人魚が、わざわざ他者の遺伝子を取り込んで子供を生み出す理由と方法。相手が死んでいてもその遺伝情報を取り込めるという意味。
 エレンは考えを巡らせる。おそらく子をなすという行為の最中に重大な何かが起こるのだ。その所為でエレンはリヴァイに(強制的に)会えなくなってしまう。
『ヒストリア……』
 呼ぶ声は僅かに震えていた。
『もし今度の実験に協力したらオレはどうなっちまうんだ』
 ヒストリアの青い瞳がじっとエレンを見つめる。真剣なその表情にエレンはぎゅっと拳を握った。
 そして――


 人魚の真実について聞かされた後、エレンは瞳を揺らし、言葉を失った。
 その反応にヒストリアは目を伏せて祈るように告げる。
『どうか一度考えてみて。この実験に協力しても良いかどうか』

* * *

 エレンの様子がおかしい。
 金髪の人魚が歌声を披露した翌日、リヴァイは少年人魚の顔を見てすぐその不調に気付いた。機械的な測定結果では異常なかったが、リヴァイが現れるとぱっと笑顔を浮かべるはずの彼が今日は眉尻を下げており、言葉数も少ない。
 体調不良ではなく気分の問題であるならば、ハンジではなくますますリヴァイの分野である。リヴァイはいつもの足場に立つのではなく、ハンジに許可を取ってウエットスーツに着替えると、静かに水の中へ入った。
「どうしたエレン」
 クジラの研究を専門にしているリヴァイは当然のことながら泳ぎも得意で、こうして水面から顔を出してエレンと視線を合わせるという動作も実に手馴れている。
 エレンは最初、リヴァイとの初めての距離の近さに驚いていたようだが、すぐに慣れて指を絡めるように手を握り締めてきた。
「エレン?」
「……リヴァイさんとこんなに近くいられるなんて、すごく嬉しいです」
「もう少し早くこうしてやれば良かったか」
 こつり、と額を合わせる。小さな声で「一体どうした?」と再度問いかけた。しかしエレンは答えない。表情を曇らせ、甘えるようにその身を擦り付けてくるのみ。
 無理に聞き出そうとしても意味はない。何か迷っているらしいエレンがその考えを言葉にするためには思考の整理と覚悟が必要であり、それが整うまでリヴァイは根気強く待った。
 やがてぽつりとエレンが呟く。
「リヴァイさん、ごめんなさい」
「何がだ」
「だってオレ、リヴァイさんに迷惑かけてる」
「迷惑? むしろお前が素直なおかげで色々助かっている方だが」
「でも今だってオレがグズグズしている所為で手間かけてるし」
「そんなことねぇよ」
 リヴァイはそう答えながらエレンの濡れた前髪を掻き上げ、露わになった額にそっと唇を落とす。エレンはパチパチと瞬きを繰り返し、やがてじんわりと頬を染めた。大きなエメラルドグリーンの瞳が今にも零れ落ちそうだ。
「ほら、役得だ」
 喉の奥で笑いながらリヴァイはそう告げる。
 かわいい、かわいい、幼い人魚。番ができてしまうのは少し寂しいが、幸せになってほしいと心から願う。
「ああ、エレン。お前もしかして人魚版マリッジブルーってやつか?」
「まり……じ?」
「結婚前に気分が落ち込んだり不安になったりするらしい。でもまぁ、そうなっても大概のカップルはちゃんと結婚するんだが。そして色々あっても幸せになる」
「しあわせ」
「そうだ。お前も可愛い嫁さんをもらって、そいつとの間に可愛い子供ができたら幸せって思えるんじゃねぇのか」
「リヴァイさんは?」
「ん?」
「リヴァイさんは、オレが子供を作ったら幸せになる?」
 その問いかけに対し、リヴァイは僅かに逡巡する。
 エレンの子供と言うことは己の孫のようなものだろうか? だとしたら嬉しいのではないかと思う。また繁殖に成功すれば、それを支えたリヴァイへの評価もぐっと高くなる。精神面でも物理面でも良いことだと、論理的に考えればそう結果が出された。
「……そう、かも、な」
 しかし口から出た言葉には力が無く、リヴァイはエレンの目を見ていられなくなって、代わりにそっと抱き寄せた。互いの首筋に顔を埋めるようにぴったりと身を寄せる。
 ゆえに、
「そうなんだ……」
 エレンが独り言のようにそう呟いた時の顔を、リヴァイを含めた誰一人として目撃することはない。エレンは一度ぎゅっとリヴァイに強く抱きつき、その体勢のまま「ちゃんと、子供作るから」と囁いた。


 ――ダメだよ、エレン。
 水底で青い目が水面付近を睨み付けていた。何が起こるかきちんと教えたのに、エレンの心は決まってしまった。否、何も知らない人間達によって決められてしまった。
 これでは駄目だ。だから次の手を打たなくてはならない。
 ヒストリアは透明な壁の向こうに見えるハンジ達を一瞥する。エレンには少し痛い思いをしてもらうことになり、また自分の身もいくらか危険に晒すことになるだろうが、もっと分かりやすい『説得』が必要だ。
(言葉で伝えても何とかなるだろうけど……)
 水面付近に視線を戻し、ヒストリアは胸中で呟く。
 少し前までとは違い、現在、人魚の言葉を人語に翻訳することは比較的容易になっている。ゆえにヒストリアが直接研究者達に事実を伝えれば問題は解決するだろう。しかしそれだけでは不十分だ。言葉で伝えるよりも実際に何がどうなるのかを実演して見せ、大きな衝撃を与えることで彼≠ェまだ自覚していない気持ちを彼自身に気付かせる必要がある。そうしなくてはエレンが報われない。
 ある意味で『同志』である少年人魚にヒストリアはできる限りのことをしてやりたいのだ。


【5】


 大水槽を二つに分けていた格子状の仕切りが取り払われ、二匹の人魚が初めて触れ合えるほど接近する。
 周囲には動向を見守る研究者達。エレンの精神安定剤としてリヴァイも同席していた。先日のことがあるので、念のためリヴァイはウエットスーツに着替え、足場の方で待機している。
 部屋の照明は最小限に抑えられ、観測結果をリアルタイムで表示する画面がぼんやりと光を放っていた。その光と水槽の青白い光に照らされ、皆が呼吸にすら気を使う中、二匹の人魚が手を触れ合わせる。
『エレン、いいんだね?』
『おう』
 今回、水槽には水中用の集音マイクが設置されていた。そこから拾った人魚達の会話はコンピュータ内で人語に翻訳され、ほぼタイムラグなしで画面に映し出される。エレン達には事前に了承を取っているため、他人の会話を盗み聞くような後ろめたさはない。
 手を触れ合わせながら労わるように声をかける二匹を眺めていたリヴァイは、心臓にチクリと針が刺さったような痛みを感じて首を傾げた。
 いつもリヴァイの手を握っていたあの少年人魚が、今、別の誰かに触れている。その事実に胸がざわつき、次いで押し潰されるような苦しさを感じる。
『でもその前に歌っていいか?』
『もちろん』
 金髪の人魚の答えを聞くと、エレンは彼女から手を離し、水面へと上がって行った。エメラルドグリーンの瞳と目が合ったリヴァイは思わず一番上の足場まで階段を駆け上がる。そしてエレンの元へ。
 水の中に入るとすぐさまエレンが近寄ってきて、そっと手を握られた。
「嫁さん放置して良いのか、クソガキ」
「ちゃんと了承もらってきましたよ?」
 指と指が絡む。
「これが『さいご』ですから」
 まだほんの子供のくせに浮かべられた笑みは限りなく透明で、見た者の胸を締め付けた。
 そしてリヴァイが「どういう意味だ」と問う暇もなく、天上の歌声が響き渡る。たった一人に向けた歌。エレンと言う名を与えられた幼い人魚の心の全て。
 歌い終わった後、エレンはこれまで人語への翻訳を頑なに拒んでいたその歌について語った。
「この歌の意味は……『あなたはわたしにとっての水であり、風であり、光。わたしはあなたに喜びを教えられ、あなたによって生かされている』。でも、ヒトの言葉にはもっと簡単に表現できる方法があるんです」
 ほんの一瞬、水中に住まう人魚特有の人より少し冷たいものがリヴァイの唇に触れる。柔らかな感触がキスだと気付いて目を見開くリヴァイにエレンは微笑みかけた。

「リヴァイさん、だいすき」

 それが、リヴァイのためだけに紡がれた歌の意味。
 ただ一人に捧げられた歌は、エレンの魂が紡いだ恋歌。
「エレン」
「あなたに、たくさん、さいわいがありますように」
「まっ――」
 リヴァイの返答を聞く前にエレンはそう言って水中へと潜って行った。水槽の底では番となるべき人魚が待っている。
 残されたリヴァイは茫然として、記録用の機材の傍でエレンの想いを聞いていたハンジらは葛藤を抱えた難しい顔で、エレンと金髪の人魚の動向を見守った。
 やがて二匹の人魚が再び指を絡め合う。互いを抱きしめるように身を寄せ、相手の首筋に顔を埋めた。エレンが目を瞑り、金髪の人魚が口を開ける。まるで「見ろ」とでも命じるように、一瞬だけ青い双眸が水面付近のリヴァイを睨んだ。そして美しい娘はその美しさを全く損なわせることなく、番となるよう与えらた幼い人魚に噛みついた。
「――――ッ!!!!」
 痛みでエレンの全身がビクリと跳ねる。水中に漂い始めた赤を見てハンジが素早く叫んだ。
「リヴァイ! エレンを確保!! モブリットは仕切りを出して!!」
 命じられるよりも早くリヴァイは水中に潜っていた。ハンジの横ではモブリットと呼ばれた助手の男が水槽を仕切る格子状の柵を出すため機械を操作している。
 陸上に住む人間と水中に住む人魚が水中で争った場合の結果など目に見えているようなものだったが、リヴァイが諦めるわけにはいかなかった。
 エレンに噛みついたまま青い瞳は近付くリヴァイをじっと睨み付けている。だが必死な形相で泳ぐリヴァイを眺めていた彼女は、ふっと力を抜き、水底まで到着したリヴァイへエレンの身を優しく押しやった。
(あ……?)
 何のつもりかと呆気に取られるリヴァイ。しかし思考が次の段階へ移る前に水槽を仕切る格子が目の前に現れた。それにハッとなって、リヴァイはエレンを腕に抱えたまま浮上する。水面付近では怪我の具合を見るためにハンジが駆けつけていた。
「リヴァイ、診せて!」
「っ、だめです!」
 答えたのはリヴァイではなくその腕の中にいるエレン。噛みつき傷一つだけで重要な器官には傷がついていなかったためか、口調ははっきりとしている。
「実験を続けさせてください」
「エレン、何言って「何言ってやがるこのグズ!」
 ハンジの声を遮るようにリヴァイが怒鳴った。
「てめぇ今アイツに喰われかけたんだぞ! 分かってんのか!?」
 あまりの剣幕に、リヴァイの腕の中でエレンは身体を硬直させる。頭の冷静な部分が可哀想だと告げたが、そんなもので止まるわけがない。今リヴァイを支配しているのは怒り。そして、恐怖だ。たかが傷一つでも、エレンを失うかもしれないと思った瞬間、途方もない恐怖に全身が支配された。心臓が、止まるかと思った。
 しかしそんなリヴァイを裏切るように、エレンが怒鳴り返す。
「喰われなきゃダメなんです!」
「……なに、言って」
 リヴァイの声がかすれた。
 エレンは身を硬くしたままリヴァイから目を逸らす。そして蚊の鳴くような声で告げた。
「こうしないと子供が生まれないんですよ。男体の人魚が子供を作るためには、自分の身体をパートナーに喰わせて産んでもらう必要があるんだそうです」
 エレンの発言に一同がぎょっと目を見開く。「誰が言ったの」と、半ば予想しつつもハンジが尋ねた。エレンはやはり視線を合わせないまま答える。
「ヒストリアです」
「ヒストリアって?」
「そういや言ってなかったな……あいつの名前、クリスタじゃなくて本当はヒストリアですから」
 複数の視線が水の中にいるクリスタ――否、ヒストリアに向けられる。美しい金髪の人魚は水面に顔を出し、人の言葉とは違う言語を発した。水中に設置した集音マイクではその声が上手く拾えない。よってエレンが伏せていた顔を上げてヒストリアを見、彼女の言葉を伝える。
「『エレンの言ったことは本当です。人魚が単体ではなく二匹で子供を生み出す場合には、産む側がパートナーを食べてその全てを取り込む必要がある』」
 先程エレンの口から聞かされたが、改めて子を孕む器官を持つ女体の人魚から告げられて研究者達は息を呑む。
「エレン、てめぇ何故それを黙っていた」
 唸るように尋ねたのはリヴァイ。その声からは彼の怒りがひしひしと感じられる。エレンはその低い声にピクリと身体を震わせたが意を決したようにキッとリヴァイを睨み付けた。
「だって……!」
 美しいエメラルドグリーンには今にも零れ落ちそうなほど涙がゆらゆらと揺れている。

「だってオレの子供が生まれたらリヴァイさん幸せになるって言った!」

「――ッ! 馬鹿野郎!!」
 エレンの叫びを消し飛ばす勢いでリヴァイが怒鳴った。エレンの身体が三度硬直する。その身体をぎゅうぎゅうと抱きしめて、けれど以前のように視線を逸らすことはなく、リヴァイは大声で叫んだ。
「お前が死んじまったら意味がねぇ! 俺はお前のガキよりお前自身の方が大切だ! お前じゃなきゃ駄目なんだ! 俺はお前が欲しいんだよ!!」
 リヴァイは叫びながら気付く。そうだ。自分はエレンと誰かの子供なんか欲しくない。ただ、このエレンと名付けた人魚だけが傍にいてくれればそれで十分なのだ。
「だから……」
 怒鳴り声が震えて弱々しいものに変わる。

「頼むから、勝手に喰われて俺の前からいなくなろうとするな」

「リ、ヴァイ、さん……?」
 自分を抱きしめる手が震えているのに気付いてエレンが大きな目を真ん丸に見開いた。リヴァイは眉尻を下げ、傷ついたエレンの首筋に顔を近付ける。
「もしお前が喰われたくなったら、この俺が全部喰ってやる。子供は産んでやれねぇがな」
 温かな舌がエレンの傷口をそっと舐めた。ピリリと痛んだがエレンが抗議の声を上げることはなく、代わりに「ばかですか」と苦笑を浮かべる。
「リヴァイさんが嫌がることはしませんよ」
 エレンはリヴァイの頭を抱きしめる。リヴァイもまたエレンを抱く腕の力を強めた。
 どこか神聖さすら感じられる一人と一匹の姿に誰もが言葉を発せない。ただ、格子を隔てた向こう側でヒストリアだけが満足げに微笑む。
 最初からエレンを食べる気などなかったことも、人魚が子供を生み出す詳しい方法についても、語るのはもう少し後で良いだろう。無粋な説明でこの場の空気を変えてしまうのではなく、今はまだ、種の垣根を越えて心を通じ合わせた一人と一匹に彼らだけの時間を堪能してほしい。
 けれども幸せそうな彼らを見ていると離れ離れになっている最愛のパートナーのことを思い出して少し寂しくなってしまうので、ヒストリアはぽちゃんという小さな水音と共に水中へと沈んでいった。研究者達に色々説明し終えたらさっさとユミルが待っている海へ返してもらおう、と決めながら。

* * *

 結局、男女のセイレーンによる繁殖実験は中止されることが決定した。代わりにハンジの研究チームはヒストリアから人魚二匹での繁殖方法について詳細に話を聞き、それを論文としてまとめて発表し、学会に大きな衝撃をもたらした。
 ヒストリアの話の検証はまだ少し先になるだろう。全ては人魚の気持ち次第。人間が彼らに何かを強制する権利などないのだから。
 またエレンに傷を与えたもののその行為が彼のためだったと証明されたヒストリアは、お咎めを受けるどころが逆に感謝されつつ、本人(本人魚)の希望通り海へと帰された。彼女はそこで待っていてくれた世界で一番大切なパートナーと末永く幸せに暮らしたと言う。
 そしてエレンとリヴァイは――


「これが、海……ッ!」
 目の前に広がる光景にエレンは息を呑んだ。どこまでも続く水面はやがて水平線と呼ばれる果てに辿り着き、そこで空と一つになっている。
 肌を撫でていく風には独特の匂いがあり、研究所の水槽とは異なりあらゆるものがエレンの五感を刺激した。
「リヴァイさん! これが海なんですね!」
「ああ。綺麗だろう?」
「はい!」
 大きなエメラルドグリーンをきらきらと輝かせてエレンは傍らのウエットスーツ姿のリヴァイに頷く。世界で一番大切な人間とエレンは一緒に本物の海にやって来ていた。
 ヒストリアに負わされた傷が癒えた後、ハンジが彼らに気を利かせて『休暇』を与えてくれたのである。本来、人魚を海に帰すとはそのままお別れということになってしまうのだが、リヴァイがローゼ研究所に勤めている限りエレンが広大な海原へ旅立ってしまうことはない。
「泳ぐか」
 リヴァイが額に上げていたダイビングマスクを着け、背中の酸素ボンベに繋がるレギュレーターのマウスピースを口に銜えた。エレンは頷き、その手を取って水中へと潜る。
 外から見た海は美しいが、中から見たそれもまた素晴らしい。どこまでも続く広い世界にエレンははしゃぎ、リヴァイは微笑みながらそれを見つめた。
 しばらく泳いだところでエレンがリヴァイを振り返り、そっと手を伸ばした。リヴァイはされるがまま、エレンの手によってマウスピースを口から外される。
 代わりとしてリヴァイの唇に触れたのは、二度目となるエレンのそれだ。
 唇を合わせるだけの軽いキスの後、エレンは水中でこぽりと息を吐き出しながら笑みを浮かべ、リヴァイの手を取ったまま浮上する。
 水面に顔を出したリヴァイはマスクを外し、「エレン?」と名を呼んだ。その呼びかけに人語で答える代わりにエレンが歌い出す。
 とても美しく、けれどもこれまで聞いたことのない歌。
 歌詞は……エレンに尋ねずともリヴァイには分かった。それは、愛の歌。恋を知った人魚がただ一つの存在だけに捧げるもう一つの歌。

 ――あなたに会えてわたしは幸せ。次はわたしがあなたを幸せにします。だから、ねぇ。ずっとずっと、わたしと一緒にいてください。

 万感の思いを込めて歌い上げるエレン。その歌が終わった後、リヴァイはエレンを抱き寄せてくちづけた。海水の味がするはずなのに、それはどこか甘くて幸せの味がする。
「……ああ、俺もだ」
 こつりと額を合わせて告げる。
 ずっと一緒にいよう。あなたはわたしの幸いであり、わたしがあなたの幸いになるから。


【終】


「どうしてあなたがリヴァイ・アッカーマンをローゼに呼んだのか、今回のことで分かったような、まだ分からないような……」
 ハンジ・ゾエはいつもの白衣姿のまま、この研究施設の総責任者の元を訪れていた。金髪碧眼の壮年の男は穏やかな微笑を口元に刻んで人魚研究のスペシャリストの次の言葉を待った。
「あなたは一体どこまで見通していたんだい、エルヴィン」
 ローゼ研究所の総責任者であり、リヴァイをこの研究所にスカウトした張本人――エルヴィン・スミスは、やはり笑ったまま。しかし彼はほんの少しだけ目を細め、ハンジの問いかけに一つだけ答える。

「『エレン』と『リヴァイ』が惹かれあうことは運命だってことさ」

「科学者が運命を信じるの?」
「彼らに関してだけはね」
 他人に考えを読ませないための微笑。鉄壁の仮面であるそれに、しかし遠い過去を懐かしむような色がほんの少しだけ滲む。
 エルヴィンの言葉と表情に関連性を見出せないハンジは首を傾げたが、これ以上の回答が本人から得られることはなく。「ま、色々結果が出せたからいいや」と言って軽く肩を竦めた。






セイレーン







2015.04.05〜2015.04.08 pixivにて初出