【1】


 年の頃は十五か十六。ひょろりと伸びた手足は長く、若木のようにしなやか。成人男性としてまだ完成されていないからこその美しさがその少年からは滲み出ていた。
 整った顔立ちと、臆することのない堂々とした仕草。そして大きな銀色の双眸は真っ直ぐに前を見つめている。太陽の光が降り注ぐ地上ではきっと幾人もの女性が振り返っただろう。しかし生憎、少年が歩いているのは明るい地上ではなく、その足元に広がる地下空間。王都の真下にある『地下街』だった。
 地下の天井部分では内部に嵌め込まれた蓄光結晶が夜空の星の代わりに弱々しい光を放っている。その下を――まるで星が瞬きを見せるように――跳んでいた人影が少年に目をとめた。
 人影は合計で三つ。うち一人が残りの二人に手振りで合図を送り、彼らは慣れた様子でとある家屋の屋根に着地する。カシャン、と三人が空を跳ぶために使っていた道具『立体機動装置』がその動きに合わせて音を立てた。
「今夜の酒代に丁度いい。狩るぞ」
「了解」
「りょーかい!」
 黒髪の小柄な男が少年を指して告げれば、残りの二人――銀髪の男と赤髪の少女がニッと笑って応じる。
 どう見ても地下ではなく地上の住民であろう少年が何故こんな所にいるのかは不明だ。しかし地上の人間であればそれなりに価値のある物を所持しているだろうし、こちらが満足できるだけの額にならなければ少年そのものをどこかに売り払ってしまえばいい。見目の良い少年少女を欲する人間はどこにでも、そしていくらでも存在する。
 恨むならこんな場所にまでのこのことやって来た愚かな自分を恨め、と口の中で呟いて黒髪の男は屋根の上から飛び出した。


 面倒なのがまた≠竄チて来たな、と少年は思った。先程まで微かに立体機動のワイヤー射出とガスの音が聞こえていたのだが、今はそれが止んでいる。代わりに屋根を伝ってこちらへ近付いてくる複数の気配。自分がこの地下街にそぐわない存在であることは自覚していたが、周囲に溶け込むためわざと襤褸布をまとい背中を丸めて歩くというのも耐え難く、『自分は自分』を貫いた結果がこれなので文句は言えない。
 少年は小さく溜息を吐き、これまでと同じように%ヲげるのではなく足を止めて襲撃者達が現れるのを待った。
 見聞を広めるため――という名目で実際は明確な目的もないただの暇潰しだが――特殊な環境であるこの地下街にやってきたものの、突っかかって来るのはちょっとした足止め程度の小者ばかり。少年は僅かな楽しみすら見いだせないそれに飽き飽きしていた。今回はそうならないことを祈るばかりである。一応立体機動装置を使用している者のようなので、多少腕も立つだろう。あれは正規の兵士以外が入手するのは大変難しく、また入手できたとしても使いこなすにはそれなりの素質と訓練が必要になる。
「さぁさぁおいで、坊ちゃん、嬢ちゃん」
 少年が口の中で小さくそう呟いた直後、見上げた先の屋根から三つの人影が飛び出してきた。
 成人男性と思しき影が二つ、そしてまだ少女と称すべき影が一つ。どちらも少年にとっては年下=\―『坊ちゃん』と『嬢ちゃん』だ。飛びかかってきた影達はまさか獲物が自分達から逃げるのではなく立ち向かって来るなどと予想していなかったのか、ひたと焦点を合わせてくる銀色の双眸に息を呑むのがはっきりと分かった。
 真冬の月のような冴え冴えとした銀色。少年がその色で絡め取ったのは先行していた黒髪の小柄な男。青灰色の両目を大きく見開いた男は、それでも臆することなく小ぶりのナイフを構えた。立体機動装置の半刃刀身は地下街の狭い路地にあまり向いていない。半刃刀身ではなくナイフを用いるのはそのためだろう。
 落下の勢いを加算した一撃が少年に振り下ろされる。だが恐ろしく早いその攻撃を少年はしっかりと目で追い、片足をずらして半身になるという必要最小限の動きだけで回避してみせた。すれ違った男の顔が驚愕に染まるところまで視認しつつ少年は口の端を持ち上げる。
「まずは一人目」
 直後、少年の右手が振り上げられた。そのまま振り下ろされたのはすれ違った男の背中。ゴッ、と鈍く重い音を伴って一撃目を仕掛けてきた男を地面に叩きつける。
「リヴァイ!」
「兄貴!」
 銀髪の男と赤髪の少女が同時に叫ぶ。二人の双眸は獲物を見つめる狩人のものから敵意に満ちたものへと変化した。
「てめぇよくも兄貴を!」
「待てイザベル!」
 イザベルと呼ばれた少女が着地と同時に少年へ突進する。だが片手のみでリヴァイを地面に叩きつけた少年はすでに体勢を立て直しており、掴みかかってきた少女の手を逆に掴み返し、くるりと軽い動作で捻った。
「ッッッ!」
「大丈夫。折ったりしねぇから」
 そしてそのまま少年はイザベルの足を払うと、背中から地面に叩き落とす。軽い身体が跳ねてイザベルの息が詰まった。衝撃の所為で肺は上手く酸素を取り入れられず、次の動作に移れない。その隙に今度は少年の方から動いた。これまで一歩分しか動いていなかった少年が残る銀髪の男に向かって地面を蹴る。
「あんたはそこの二人と違って頭脳派って感じかな?」
 少年は密やかに笑い、最初の男――リヴァイをも凌ぐ素早さで銀髪の腹を右の拳で抉った。
「……ぐッ、ぁ!」
「ファーラン!」
 地面に転がったままイザベルが悲痛な声を上げる。銀髪の男――ファーランは少年に殴られた勢いのまま後方に吹っ飛んだ。残念ながら威力を殺すため自分で後退したのではない。少年の拳は完全に決まってしまっていた。
 これで終いか。ガッカリすることすらできない小者ではなかったが、それでも暇潰しには程遠い。少年はこっそりと肩を落とす。だがその後方でゆらりと立ち上がる影があった。気配を察し、少年は振り返る。
「へぇ。結構強く打ったつもりだったんだけど」
 リヴァイがナイフを構えて立っていた。告げた言葉の通り、先程背を打った一撃は並の人間ならばしばらく痛みで立ち上がれないか気絶するレベルのものだった。しかし現にリヴァイは立ち上がっており、ふらつき等も見られない。上手く受け流したのか、それとも常人より優れた肉体の持ち主なのか。
(どちらにしろ、面白い)
 少年は舌で唇を濡らすと、ろくな構えも取らずに走り出した。しかしその動きは恐ろしく速い。あっと言う間にリヴァイの懐に入り込む。
「ッ!」
 今度はリヴァイも反応した。後ろに向けて地面を蹴ると同時にナイフを一閃。殴りかかってきた少年の右拳を容赦なく切り裂く。普通なら痛みにより少年には多少なりとも隙ができる。バックステップの分と合わせてリヴァイが体勢を立て直すには十分な時間が得られるはずだった。……が。
「ひでぇ。指が飛んじまうとこだった」
 軽い声と共に少年の長い足が鞭のようにしなる。ナイフに指を切り飛ばされそうになったにもかかわらず、些かもひるむことなく少年は次の攻撃を繰り出してきたのだ。しかも、やはり驚異的なスピードで、かつリヴァイが後退した分を容易く埋める蹴りという攻撃で。
「くッ!」
 少年の重い一撃をリヴァイは腕をクロスさせて受け止める。攻撃をきちんと目で追えていたため効率よく力を受け流せた。それでも少なくないダメージを負ったが、反撃に移るには十分だ。
 腕をクロスしたまま受け止めた足を跳ね上げ、リヴァイは少年の体勢を崩しにかかる。少年はその力に逆らわず跳躍してバク転、更に空中で身体を捻ることでリヴァイから視線を外さない。だが少年が着地した時にはリヴァイが先に動き出している。リヴァイは少年の脚の低い位置を狙い左で蹴りを放った。少年はそれを予期していたように避ける。が、それもリヴァイの予想のうち。両手を地面につけたまま本命の右足を跳ね上げ、少年の顎を狙う。
「!」
 少年は目を見開きながら攻撃を避けた。リヴァイのつま先は顔を逸らした少年の前髪を僅かに掠る。
「身体の使い方をよく分かってるなァお前! 生身の人間なのにスゲーじゃん」
 リヴァイの身のこなしを少年が褒め称える。たとえ周囲やリヴァイ本人にとってはそう思えなくても、また台詞の意味が分からなくても、これは少年にとって掛け値なしの称賛だった。
「でも」
 少年は銀色の目をキラリと光らせる。まるで玩具を前にした猫のように、もしくは獲物を前にした猛獣のように。
「いくら使い方が上手くても、オレを倒せそうにはないな」
 少年のスピードが上がる。
 そして間もなく、リヴァイの意識は少年の一撃によって刈り取られた。


 気絶した成人男性が二人。そして意識はあるものの痛みでまともに動けない少女が一人。それを見下ろして少年は無傷の♂E手で頬を掻いた。
「このまま放っておいたら絶対に襲われるよな……」
 男の方は身ぐるみ剥がされポイ捨て、悪ければそれに加えてサンドバッグ。少女は勝気そうな目をしているものの良く見れば整った顔立ちをしており、下種な人間に見つかれば口にするのもおぞましいことになるだろう。
(しかもこいつら、ここじゃ有名なヤツらなのかも)
 ちらほらと建物の陰からこちらを伺う他者の気配を感じて少年は眉根を寄せた。地下街における有名とはイコール強者であると考えていい。そんな人間が地面に這いつくばって無力化されている。となれば、少年がこの場を離れた瞬間に介抱するどころか日々虐げられる側の人間による残虐行為に発展しかねない。
 少女もといイザベルもそれを分かっているのか、少年から視線を外さないようにしつつも周囲の様子に気を張り詰めている。
 はあ、と少年は大きな溜息を吐いた。
「おい、そこの嬢ちゃん」
「あ? 誰に向かってンな口きいてんだよ!」
「お前に決まってるだろうが」
 声を荒らげるイザベルとは正反対に落ち着いた呆れ交じりの態度で少年は返した。
 どう見ても十代半ばにしか見えない少年にまるで年上のような振る舞いをされたイザベルは怒りで顔を赤く染める。しかし飛びかかって胸倉を掴むことはできない。身体は本調子ではなく、そして本調子であったとしてもこの少年に敵わないことは先程明確に示されたからだ。
 反撃が叶わないイザベルは悔しさと怒気に顔を赤く染めたまま口を噤む。ぎゅっと引き結ばれた唇を見て少年が「それでいい」と頷いた。
「嬢ちゃんが動けるようになったら気絶してる二人を連れてここから離れるぞ。ヤバい雰囲気なのは察してるよな?」
「どういう、ことだよ」
「そこの小さいのと銀髪のヤツをオレが運んでやるって言ってんの」
「はあ?」
 虚を突かれたようにイザベルは目を丸くする。その後すぐに双眸を剣呑に狭め、「ふざけんなよ」と低く唸った。
「兄貴とファーランに何する気だ」
「何もしねぇって。ただの親切心でお前らのアジトか安全な場所に運んでやるって言ってるだけだろ」
「信じられるか」
「まぁそうだけど」
 少年はあっさりと認め、しかしながら「でも」と続ける。
「オレがここからいなくなった途端にどうなるのかくらい見当はついてんだろ? 嬢ちゃんにこいつらが守れるのか?」
「………………」
 無言の肯定がイザベルにできる唯一の回答だった。
 自分一人ではリヴァイとファーランを守りきれない。そして、他の人間に頼ることも不可能。
 リヴァイを頂点としたグループにはイザベルとファーラン以外にも数多の人間が属している。だがそれは元々ファーランが率いていた者がほとんどであり、そして彼らは『強い者』に従う。ファーランがリヴァイを強者と認めてその下についたからこそ、リヴァイは数多くの手下を従えることになったのだ。しかしもしリヴァイが他者に負けるという姿を晒し、あまつさえ手下に助けを求めたとしたら……。その瞬間、手下達の中でリヴァイは強者でなくなる。そして彼らは反旗を翻すだろう。イコール、周囲で様子を窺っているならず者共と何ら変わらない。
「どうする?」
 少年が問うた。
 イザベルは倒れ伏しているリヴァイとファーランを見る。未だ彼らが起き上がる気配はない。
「……手を、貸してくれ」
 ぐっと唇を噛み締め、イザベルはそう願った。


 イザベルの大事な仲間を一瞬で倒してしまった少年は、その体躯に見合わぬ怪力でリヴァイを右脇に抱えファーランを左肩に乗せると「で、どこへ運べばいい?」と尋ねた。なんとか自力で動けるようになったイザベルはいくつかある隠れ家のうちここから最も近いものを頭に思い浮かべ、「こっちだ」と渋々歩き出す。
 動きに合わせて立体機動装置の金具ががちゃがちゃと音を立てた。自分が鳴らしている音だというのに妙に苛立たしく、イザベルは舌打ちをする。だがそこでふと気付く。数歩後ろをついてくる少年はリヴァイとファーランの両方を抱えているにもかかわらず、そちらの方から聞こえてくる立体機動装置の金具の音がほとんど無かった。
 装置が外されているのではない。少年が気絶した二人をなるべく揺らさないよう配慮した結果、音も最小限に抑えられているのだ。
「……」
「ん? どうした」
 後ろを振り返ったイザベルに少年が小首を傾げる。二人で軽く百キロを超えているというのにその顔はけろっとしていた。
「何でもねぇよ」
 唸るように告げてイザベルは再び前を向く。そして少年に答える代わりに口の中だけで呟いた。
(あいつホントに人間かよ)
 身のこなしも常軌を逸した馬鹿力も、とても人間のものとは思えない。リヴァイとて規格外ではあるが、それでもまだ「すごい人間だ」という評価で済む。しかしそんな彼を一瞬で倒し、今は二人の成人男性を軽々と運べてしまえる少年が、自分達と同じ『人間』というくくりに入って良いものかどうか。
 こんな存在が敵に回ったらひとたまりもない。だがたとえ味方になったとしても恐怖が喜びを凌駕する気がした。そんな少年の手の内にイザベルの大切な二人の命が握られている。否、イザベル自身とて例外ではない。少年がその気になれば三人ともこの腐った世界から仲良くオサラバする羽目になるだろう。
 無駄だと理解していても警戒心は否応なく高まった。少年の一挙一動にイザベルは神経を尖らせていく。
 そんな少女の様子を察して少年は分からないよう溜息を一つ。そこまで緊張せずとも無体を働くつもりはない。が、そういう警戒心こそこの地下街で生き残るのに必要な技能なのだろうと少年は思う。
 結局、イザベルの警戒は彼女達の隠れ家に到着してリヴァイとファーランを寝床で休ませるまで最高値を維持し続けた。

* * *

 状況はほとんど変わっていないと言っても少年の手からリヴァイとファーランが離れたことでイザベルは随分と身体の強張りを解くことができた。
 現在、イザベルは隠れ家の居間で少年と対峙している。『対峙』とは言ってもイザベルが睨むように相手を見つめ、少年の方は強烈なその視線に苦笑しているという状態なのだが。
「そう睨むなよ。お前もあの二人も別に取って食いやしねぇって」
 少年はそう言いながら勝手に椅子を引いて座る。イザベルが「てめぇ何してんだよ!」と声を荒らげたものの、少年は意に介さず落ち着いた声音で「ちょっと来い」とイザベルを手招いた。
「ほら、嬢ちゃん」
「嬢ちゃんって呼ぶな! 俺はイザベルだ!」
「そうか。じゃあイザベル、腕みせろ」
「はあ?」
 ひらひらと振られる手を見てイザベルは訝る。こいつは何を言っているのか。
 すると少年は手を差し出したまま、まるで当然のように言ってのけた。
「野郎二人は寝かしときゃそのうち自然と目を覚ます。でもお前はちょっと筋痛めちまってるかもしんねぇから」
「……は?」
 唖然とする、というのはこういうのを言うのかもしれない。イザベルは目を点にして己に向けられた手を見やる。
「ほら早く。たぶん大丈夫だとは思うけど一応な」
 少年のその声を聞いてイザベルはキッと相手を睨み付けた。
「てめぇナメてんのか」
「ナメてねぇよ。野郎二人を運んだついでってだけだろうが。これでも経験値だけはあるから医者の真似事もできる。いいからさっさと診せろ」
「ちょ、おま!」
 いい加減問答に飽きた少年が立ち上がり、イザベルの腕を引いた。イザベルはぎょっとするが圧倒的強者に抵抗できない。結局その場に突っ立ったまま、少年は少女の腕をさすったり指で押したりし、イザベルはその動きを見つめる羽目になる。
「ん。筋は痛めてねぇみたいだな」
「つーかすっげー冷てぇんだけど」
 イザベルに触れた少年の手は氷のように冷たかった。若千鳥肌を立てながら抗議すれば、少年ははたと目を丸くして「あ、悪い」と呆気ないほど素直に謝罪する。
「この家、そんなに寒くねぇだろ」
「あー……気温とか関係なくオレはいつもこうだから」
 イザベルの腕を開放して少年は頭を掻く。その様子をイザベルは改めて眺めやった。
 銀色の大きな目が印象的だが、ごくごく普通の少年だ。病気を患っているようにも、またクスリをキメているようにも見えない。悪意や敵意も感じられず、ただ幾分マイペース過ぎてイザベルの調子が狂わされる。
「お前、名前は」
 気付けば、イザベルの口からそんな問いかけが零れ落ちていた。銀色の双眸が居心地悪そうな少女の姿を視界に映す。
 そして、
「エレン」
 偽名か本名かイザベルには判断できないものの、少年は簡単に答える。まさかこうもあっさり名乗られると思っておらず、イザベルが「え?」と目を丸くすると、少年はもう一度、今度はよりゆっくりハッキリと名乗ってみせた。
「オレはエレン・イェーガーだ」


【2】


 鼻腔を擽る美味しそうな匂い。小さく腹が鳴る音と共にリヴァイは目を覚ました。
 視線を巡らせて薄暗い部屋をすぐさま確認する。自分のいる場所が隠れ家の一つであると知り、ほっと胸を撫で下ろした。しかし椅子で寝ることが多い己がベッドで横になっていたこと、そして僅かだが身体に残る鈍痛に、自身の敗北が夢でなかったのだと理解して顔をしかめる。
 ただの場違いなクソガキかと思いきや、手も足も出せぬまま打ち倒されてしまった。頬が地面に接したことすら感じられないうちに意識を失うという体験を久々にした気がする。あんな経験はまだ力が無かった子供の時以来だ。
「チッ」
 大きく舌打ちし、リヴァイはベッドから降りた。居間から漂ってくる食事の匂いに宥められながらドアノブを握る。
(そういやファーランもやられたってのに、誰が俺をここまで運んだんだ?)
 ふと浮かび上がった疑問に首を捻りつつドアを引いた。そして、目の前の光景に絶句する。
「なっ――、てめぇ」
「お。イザベルー、ようやく起きてきたぞ」
「兄貴ーっ!」
 部屋から出てきたリヴァイを迎えたのは美味そうな匂いの発生源――シチューの大鍋を持った少年。その見覚えのある銀眼にリヴァイが殺気立つ。だが少年に呼ばれてイザベルが現れると、殺気は困惑へと切り替わった。
 自分と同じ目に遭ったはずのイザベルが背後の少年を全く気にすることなくリヴァイの正面に立つ。大丈夫かと心配する少女の声に「ああ」と反射的に答えた後、リヴァイの視線は彼女を通り越して鍋をテーブルに置いた少年に向けられた。
「どういうことだ。何故てめぇがここにいる」
 低い獣の唸り声のような問いに少年が軽く肩を竦めた。
「僅かばかりの善意の結果ってやつだな」
「あ?」
「だってあのまま放置したらイザベルがクソ野郎共に襲われちまうだろ。女の子なんだから」
「……」
 リヴァイは黙り込む。確かにその通りだが、納得がいかない。この少年は地下街でも一目置かれる自分達に勝利した。そしてここは生易しい地上ではなく悪鬼巣窟の地下街なのだ。敗者には死あるのみ。もしくは死よりもつらいことが待っている。だというのに、この少年は呑気に「善意」ときたもんだ。リヴァイは小さく舌を打つ。
 そんなリヴァイの苛立ちとは逆に、イザベルが「女の子なんだから、って何だよ! 俺はか弱い存在じゃねーぞ!」と喚き、少年が「女の子は女の子だろうが」と当たり前のように返している。同い年くらいの男女のやり取りのはずなのだが、並んで立っていると少年の方がずっと老成して見えた。
「とりあえずメシ食うぞ。冷めたら味が落ちる。ほら、もう一人もそろそろ起きてきて良い頃だろ。イザベル、見てきてくれないか」
「おう!」
 自分を拾ったリヴァイと仲間であるファーランの言葉くらいしか受け入れないはずのイザベルがいとも容易く少年の言葉に頷いた。その事実にリヴァイは目を瞠る。イザベルはリヴァイの様子に気付くことなくファーランが寝ているらしい部屋に入って行った。
 居間に残されたのはシチューの鍋をテーブルの中央に置いた少年と、扉の前で棒立ちのままのリヴァイ。目が合って、少年が口の端を持ち上げる。
「どうも。オレはエレン。お前はリヴァイでいいのか?」
「年上にきく口がなってないんじゃねぇか」
「年上ねぇ……地下街でそんな年功序列ルールが成立すると本当に思ってんの?」
 ここでは少年――エレンが強者。弱者はリヴァイ達。反論は許されず、リヴァイは視線を逸らす。ただしその所為で少年が声に出さず「年功序列でも口のきき方は変わんねぇけど」と呟いたことには気付かなかった。
「ま、とにかく、だ。イザベルにも言ったが冷めたシチューは美味くない。少なくともオレは特別料理上手ってわけじゃねぇから、冷めても美味いシチューなんて作れねぇ。腹が減ってるなら席につけ。イザベルと一緒に作ったから毒も何も入ってねぇよ」
「毒なんざ使わなくてもてめぇならその腕だけで俺達を好きにできるだろう」
「じゃあ安心して食えるな」
 リヴァイは少年から視線を逸らしていたので相手がどのような表情を浮かべていたのかは知らない。だがきっといけ好かない顔をしていたのだろうと思いながら、何度目かになる舌打ちを放った。


 イザベルに起こされたファーランも加わり、四人の奇妙な食事が始まる。部屋から出てきたファーランは居間にいたエレンを見て慌てたが、イザベルだけでなくリヴァイまでその状況を――渋々といった風情だったが――受け入れていたため、黙って席に着いた。
 各人の前には湯気が立ち昇る温かなシチューと少し硬くなったパン。元々大して美味くもないパンが古くなって更に不味いものになってしまっていたが、シチューにつければ問題ない。現にイザベルは――自分が作ったことも手伝ってか――四人の中で一番旺盛な食欲を見せている。
「イザベル、オレのパン半分やるよ」
 そう言ってパンを半分に千切ったのはエレン。ちょうど自分の分を食べ終わったイザベルがぱっと顔を輝かせる。
「いいのか?」
「ああ」
 エレンが頷き、ファーランとリヴァイが何かを言う前に半分になったパンはイザベルの手の中へと納まった。
 すっかりエレンに懐柔されてしまっているイザベルに男二人は微妙な顔をする。しかしそれを見たイザベル本人は仲間達の表情の理由を違う意味で受け取った。
「あ、でも俺が食っちまったらエレンの分が……」
 二人は同じような年頃である。だとしたら、エレンもまたそれなりに食欲を持っているはず。そう心配したイザベルがパンを手に持ったままエレンに視線を向けた。しかしエレンは頭を振る。
「オレはあんまり食わなくてもいいから」
「でも腹空くだろ」
「それが全然。一日くらい何も食わなくても腹鳴らねぇし」
「マジで?」
「おう。マジで」
 だからそのパンはイザベルのものだとエレンが微笑む。あまりにも綺麗なそれに少女の頬が怒りとは違う意味でぱっと赤く染まった。しかし次の瞬間、エレンが笑顔のまま「なんか近所の猫に餌やってるみてぇ」と呟いたことで空気は一変する。
「なんだとコラてめぇ! 誰が野良猫だ!」
「落ちつけイザベル! 皿が落ちる!」
 ガタンッと机を揺らして立ち上がるイザベルにファーランが慌てて止めに入った。
「止めるなファーラン! こいついっぺんシメる!」
「シメていいから先にメシを食え! リヴァイも何か言ってやれよ!」
 急に話を振られたリヴァイはスプーンをシチューの中に浸けたままイザベルを見やって、一言。
「座れ」
「でも兄貴!」
「埃が立つだろうが」
 リヴァイの言葉には威圧感があった。
 この家もそうだが、リヴァイ達の周囲はいつも清潔に保たれている。それは全て掃除の鬼とでも称すべきリヴァイの指導によるものである。そして彼の指導を受けるイザベル達は清潔さを保てなくなった場合におけるリヴァイの機嫌の悪さをよく知っていた。
 風船の空気が抜けるようにイザベルは力なく着席し、彼女を押さえていたファーランも椅子に腰を下ろす。
 その一連の流れを見ていたエレンは「お見事」と呟いた。すぐさまリヴァイの視線がそちらを射る。
「てめぇもてめぇだ。意味もなく挑発すんな」
「悪かったって」
 エレンはリヴァイに軽い謝罪をした後イザベルの方を向く。
「イザベルもごめんな」
「分かればいいんだよ、分かれば」
 そう言ってイザベルはエレンからもらったままになっていたパンを小さく千切り、口に放り込んだ。
 止まっていた食事が再開される。エレンが「でもイザベルってやっぱ猫みてぇだよな。可愛いし」と言えば、イザベルは「なっ、かっ!? つーか猫っぽいならエレンの方だろ!」と答え、ファーランがエレンの顔を眺めて「確かに猫目だよな」と反応する。そしてイザベルが得意げに「だよな!」と話を振った先はリヴァイで、リヴァイもまたエレンを一瞥し「まぁそうだな」と同意すれば、エレンが「そうか?」と首を捻った。
 本来なら三人で完成していたはずの団欒が、エレンを入れた四人で違和感なく構成されていた。しかもつい先程まで襲う側と襲われる側であったにもかかわらず、エレンはリヴァイ達の中に溶け込んでいる。更にその奇妙さをリヴァイ達に全く悟らせない。
 否、奇妙に思う者はいた。食事を続けながらファーランはちらりとエレンを見る。
 いつの間にかすっかり懐いてしまったイザベル。決して好ましいと思っているわけではないが、なんだかんだで結局は傍にいること≠許しているリヴァイ。彼らはひょっとしたら動物的勘や第六感のようなものでエレンの人間性を判断しているのかもしれなかったが、ファーランにとってエレンはまだ正体不明ゆえに許容できない存在である。
 と、その時。銀色の双眸がファーランに向けられた。ピクリと動きを止めたファーランにエレンが目を細める。笑ったのだろうか。
「エレン、おかわり!」
「はいはい」
 イザベルによって視線は逸らされ、ファーランはいつの間にか強張っていた肩から力を抜く。
 その後、ファーランがひたすら視線を逸らし続けたことで、食事中に二人の目が合うことはなかった。


 食事が終わるとリヴァイが部屋へ引っ込み、イザベルは今日は己が当番なのだと言って洗い物を始めた。テーブルの傍に残ったのはエレンとファーラン。
 ファーランはイザベルがこちらの会話を聞いていないことを確認してから口を開く。
「なんであんたは俺達を助けたんだ」
 顔を見ることなく、独り言のような喋り方だった。ファーランの問いかけにエレンもまたそちらを向くことなく、洗い物をするイザベルの背中を眺めながら答える。
「リヴァイにも言ったが、ただの善意だよ。動けない女の子がゲス野郎に襲われたら可哀想だろ」
「でも放っておいたって良かったじゃないか。ここは地下街だ」
「そうだな」
「じゃあ何故、善意なんてものが顔を出した?」
 ファーランはエレンを見た。するとエレンもまたゆうるりとファーランの方を向く。
 そして少年の回答は、
「暇潰し」
「は?」
「だから、暇潰しだって」
 目を点にするファーランにエレンは苦笑を浮かべながら言葉を続けた。
「オレには時間が山ほどある。だから無駄な遊びも寄り道もいくらだってできるんだよ。今回も――地下街に降りてきたこと自体がそんな寄り道の一つ。まぁ寄り道って言ったって、別に目的地があるわけじゃねぇんだけど」
 こう言い替えれば納得できるか? とエレンはファーランに尋ねる。
 理解できない、とファーランは思った。相手の言っている意味が分からないのではない。自分とあまりにも立場が違う人間だからこそ、正確に理解することはできないだろうという諦めの気持ちだ。「そうか」とだけ吐き出せば、エレンは「そうなんだよ」と目を細める。
「イザベルを手懐けたのも暇潰しに含まれるのか?」
「ああ。素直な子だから簡単だった」
 エレンは否定するどころかあっさりと肯定した。
「肩を叩く程度で良い。僅かでも触れ合うこと。そして一緒に飯を食うこと。これがあれば大抵の人間は友好関係を結べる。少なくとも、そうされた方は相手に多かれ少なかれ好意を抱いちまうもんだ。ちなみにこれはどっかの学者が言い出したことじゃなくて、ただのオレの経験則」
「経験則って……あんた一体いくつなんだ」
「さぁな。自分の齢なんて忘れちまったよ」
 そう答えたエレンはファーランよりも若い――と言うより『幼い』――姿であるにもかかわらず、恐ろしく老成して見えた。ファーラン達に対して敵意や害意はないが、そこには好意も存在しない。ただただ興味だけによって『暇潰し』を行う少年に、ファーランは告げるべき言葉を見つけられない。
 ふっとエレンが笑った。
「心配すんな。このままお前達に付きまとったりしねぇよ。地下街にはまだしばらくいるつもりだが、すぐにこの家を出て行く。ま、偶然出くわしたら手でも振ってくれ」
 そう言うと、エレンはイザベルの元へ向かった。二人が何かを話しているかと思えば、イザベルが驚いたように目を見開く。
「もう行っちまうのか?」
「おう。ファーランには挨拶したんだが……リヴァイにはイザベルからよろしく言っといてくれ」
「……わかった」
 即座に有言実行。エレンはイザベルに別れを告げたらしい。そのまま元々大した荷物もなかった少年はこの家を出て行く。イザベルは惜しみながら、ファーランは茫然と、その背を見送った。


 そして、844年――。
 エレンとの出会いから約一年が過ぎた。本人はしばらく地下街にいると言っていたが、あれからファーランもイザベルも、勿論リヴァイも、彼に会うどころか見かけたという噂話を耳にすることすらない。まるで三人揃って夢でも見ていたのかのように、あの一件は実際にあったかどうかも分からないあやふやな過去になりつつあった。
 そして、そんな過去があったことを忘れてしまうくらいの変化がリヴァイ達の身に起こっていた。
 調査兵団への入団。
 分隊長を務めるエルヴィン・スミスという男の働きかけにより、リヴァイ達は調査兵団に入ることとなったのである。立体機動装置を用いた地下空間での逃走劇は巨人を相手に生き残ってきたエルヴィン達の方に一日の長があり、リヴァイ達は彼らに捕縛された。憲兵団に引き渡され一生開拓地で重労働を強いられるか、それとも罪を問わない代わりに調査兵団へ入って巨人と戦うか。二つに一つの選択を迫られ、リヴァイ達は後者を選んだのだ。


 数日前まで地下街のゴロツキをやっていた三人が、三年間の厳しい訓練に耐え自ら志願して調査兵団に入った兵士らにどう思われるのか。そんなものは火を見るよりも明らかである。事前にエルヴィンと団長のキース・シャーディスによって『彼らは大きな戦力になる』と熱心な説得が行われ、調査兵団内では一応受け入れる態勢も整っていたが、誇りを持ってこの兵団にいる兵士らから完全に不満を取り除くことはできていない。
 そこに加え、リヴァイらの態度は曲がりなりにも兵士と言う立場を与えられたものとしては酷く不適切で、名乗りも、敬礼も、上官に対する態度もまるでなっていなかった。
 入団初日の早朝、調査兵団の練兵場で壇上に立たされたリヴァイ、イザベル、ファーランは兵士らに向かって挨拶をする。しかしリヴァイはファーストネームだけを名乗ってその後は明後日の方向に視線を向けてしまい、イザベルは「イザベル・マグノリア。よろしくたのむぜ!」と街角の不良そのものの態度、唯一まともそうなファーランもろくに敬礼ができないという有様。兵士らが唖然とする中、彼ら三人を預かるようキースから命じられたフラゴン・ターレット分隊長は思わず「自分がですか!?」と声を裏返らせてしまった。
 しかし団長の命令であるならばフラゴンも従うしかなく、三人をまず兵員宿舎へと連れて行く。一般兵用の大部屋には二段ベッドがずらりと並べられており、荷物の置かれていない一番奥がリヴァイ達に与えられたスペースだった。が、そう教えられたリヴァイ達が普通の兵士のように背筋を伸ばして「はい! ありがとうございます!」などと言うはずもなく、フラゴンがまだ去っていないというのにベッドの検分をし始める。思わずこめかみに青筋が浮かんだ。この三人の入団に反対していた兵士らにエルヴィンが頭を下げて頼んできた時のことを思い出さなければ、初日の朝から怒鳴り声をあげてしまうところだっただろう。
 フラゴンは自らを落ち着かせるために一度深く呼吸する。その気配は察しているはずなのだが、リヴァイ達は変わらずベッドに視線を向けていた。完全に上官を上官と思っておらず、舐めきっている。これでは腹の虫が治まらないと、嫌味の一つでも口にしようとしたその瞬間――。
「フラゴン分隊長、あとはオレが引き継ぎますよ。分隊長もお忙しいでしょう?」
 第三者の声が四人の耳朶を打った。
 その声に心当たりがあった四人とも≠ェ各々反応を示す。振り返った四人の視線を受け、現れた少年は大きな銀色の双眸を僅かに細めた。
「エレンか」
「はい。エルヴィン分隊長の許可は取りましたので、宿舎内の案内や規律に関してはオレから三人に教えておきます」
 見事な敬礼をして、少年――エレン・イェーガーが告げる。約一年前、エルヴィンにスカウトされ訓練兵団を経ずに調査兵団入りした人材ではあるが、フラゴンの背後にいるリヴァイ達とは正反対のよくできた兵士であるエレンの申し出に、フラゴンはようやく怒りと苛立ち以外の感情を持つことができた。
「では、頼めるか」
「はい。お任せください」
 エレンの応えにフラゴンは満足げに頷き、部屋を出て行く。その背を見送るエレン。そうしてフラゴンが完全に去ると、銀色の双眸が固まったままの三人に向けられた。
 驚きに目を見開く三人へと近付き、エレンは笑った。
「久しぶり、お三方。まさかこんな所で会えるとは思ってなかったぜ」
「そっ、それはこっちの台詞だろうが! エレンこそこんな所で何やってんだよ!」
 イザベルがエレンの両肩を掴んで揺する。着ている物以外一年前と全く変わらない少年をイザベルはまじまじと見つめた。これは間違いなくあのエレン・イェーガーだ。
 されるがままになっているエレンは苦笑しながら「こらこら落ち着けよ」とやる気のない声を出す。
「一応これでもオレの方が一年先輩なんだぜ」
「一年!? つーことは俺らと別れてからすぐ調査兵団に入ったのか!? こんなアブネーところに!?」
 お前は馬鹿かー! とイザベルは怒鳴った。しかしエレンに堪えた様子はない。あまつさえいつの間にかイザベルの拘束を解いてその赤い頭をぽんぽんと撫でてやっていた。
「そうだよ」
 恐ろしい致死率を叩き出す調査兵団に属していながらもエレンは平然とした声で告げる。
「ちょうど一年前に地下街でふらふらしていたらエルヴィン分隊長にスカウトされたんだ。お前達と同じだな」


【3】


 エルヴィン・スミスには死体と寝る趣味がある。
 という噂が一部の娼婦達の間で流れ始めたのは、彼が調査兵団内で分隊長の地位を戴くよりも前のこと。いつ頃からそのような噂が始まったのか正確な時期を知る者はいないが、彼と一夜を共にした女達はその噂を思い出して「なるほど」と納得するのだ。火のないところに煙は立たないというのはこういうことか、と。
 その辺の男と同じようにエルヴィンは娼館で女を買い、抱く。しかしやることを終えてあとは寝るだけという頃になると、彼は絶対に娼婦と同じベッドで眠ろうとしなかった。行為の最中ならばごく普通に女の肌に触れるエルヴィンは、しかし眠る際に他者の体温が触れようとすると、やんわり――しかし絶対的な拒否を示す硬質な碧眼で――相手を遠ざける。
 何故だと尋ねる娼婦もいた。そういった女達は大抵紳士的なエルヴィンに多少なりとも惹かれてしまった者達である。一度目の拒絶で退かない彼女らにエルヴィンはいつも同じような微笑で「人肌が近くにあると眠れないんだ」と答えた。そこで女が身を引くなら良い。しかし自分は例外になるはずだと更に追ったならば、エルヴィンがその女を指名することは二度となかった。
 人肌があると眠れないエルヴィン・スミス。おそらくそんな彼に惹かれて振られた女の誰かがそのようなことを言い出したのだろう。


「ねぇ、ミスタ。あなた、死体愛好家だって本当?」
 今宵のエルヴィン・スミスの相手がベッドの上でけだるげに問いかけた。娼婦達の間で流れる噂についてすでに知っていたエルヴィンは汗で湿った髪を掻き上げながら苦笑を浮かべる。
「それなら今頃兵士ではなく葬儀屋でもしていただろうね」
「あら。でも調査兵団って死人がたくさん出るんでしょう?」
「生憎私には仲間の死を悼みこそすれ、その死体に欲情する趣味はないな」
「ふぅん」
 女は身を起こしながら言った。
「でもアタシと一緒にこのベッドで休むつもりはない、と」
「ああ。申し訳ないがそろそろ私を一人にしてくれると助かる」
「つれないひと」
 くすり、と女は笑い、ベッドから降りた。全裸であることなど気にすることなく、均整の取れた肢体を惜しげもなく晒したまま服を拾い上げて腕に抱える。半ば透けているような薄い衣を肩にひっかけただけで出て行こうとする彼女にエルヴィンが「着て行かないのか?」と尋ねると、彼女は「いつも大変なミスタを少しでも長く休ませてあげようっていうアタシの気遣いよ」と言ってウインクしてみせた。
 そのまま彼女は部屋を出る。残されたエルヴィンはふっと小さく笑み、ベッドの上で仰向けになった。身をよじりながら、女の体温が移った場所ではなくまだシーツが冷たいところを探していると、ベッドの端の方に転がる羽目になる。
 ひんやりとした感触を甘受しながらエルヴィンは目を瞑る。瞼の奥によみがえったのは、今はもう顔も声も忘れてしまった『あの人』の面影。ずっと昔、まだ無知で世界の歪みなど気付きもしなかった頃、幼いエルヴィンはその人のひやりと冷たい肌に抱かれてよく眠っていた。
 何ものにも囚われない風のような人だった。気まぐれでエルヴィンのいる街を訪れ、気まぐれでエルヴィンを大事にしてくれた人。けれど、たとえそれが彼の気まぐれであっても、幼いエルヴィンの世界の少なくない場所を占めていた人。
「あなたの所為で私は女性と一夜を共にすることもできない」
 目を閉じたまま苦笑する。
 エルヴィンにとって安らかな眠りとはあの冷たい肌と共にある。それ以外は『違う』と判断して、他者と褥に入ることができなかった。
 しかしそれでも構わない。顔も声も忘れてしまったあの人を唯一覚えている証拠になるのなら、それも悪くないと思えるのだ。
「おやすみ、――」
 口にすべき名前も思い出せないまま、エルヴィンは冷たいシーツをそっと撫でて眠りの淵に落ちていった。


 843年現在、調査兵団とは多くの民にとって命を粗末にするタダ飯食らいのゴクツブシ集団である。この百年間、巨人という脅威に晒されながらも壁の中で安寧を享受し続けた民衆は、あえて危険な壁外へ飛び出し自由と人類の解放を求める調査兵団の存在意義をほとんど認めていなかった。
 その結果、毎年訓練兵団から送り出される新兵のうち調査兵団を志望する者はとても少ない。また壁外という未知の土地に対して出資する貴族や商人らも決して十分とは言えず、兵団は慢性的な人手不足・資金不足に陥っている。
 そんな調査兵団で分隊長の地位を戴くエルヴィン・スミスは優れた頭脳を使って日々人材と資金の調達に腐心していた。特に人材に関しては『使える者』であるならその出身や兵団に所属するまでの過程など何でもいい。性格に多少の難があっても構わない。そんな考えの下、地下街からスカウトするのも吝かではないとすら思っていた。
 本来、地下街の人間が対巨人戦で絶対に必要な立体機動装置を所持し使用することはない。しかしどこからか流れた中古の装置を使って地下空間を駆る者がいるという話はエルヴィンの耳に入ってきていた。
 地上よりも弱肉強食がまかり通る地下街。そこに埋もれた人材を発掘することができれば、兵団の戦力強化に繋がるかもしれない。
「……まぁ、容易に踏み入れられる場所ではないんだがな」
 入るは易いが出るは難い。それが地下街だ。地上との接点では憲兵団が目を光らせており、許可のない者――大体は犯罪者や戸籍が定かでない人間――が出て行くことはできない。多額の賄賂を用意すれば通行可能だが、できる者は限られており、またそういった者の中には地下街の方が居心地が良いと言う人間すらいた。
 幸いにもエルヴィンには身分を証明する術がありそれなりの地位も持っているので、憲兵団が設けた検問所を通ることはできる。しかし、それゆえにエルヴィンから通行許可の権利を奪おうと地下の奥深くで手ぐすね引いて待っている者は少なくないと予想された。地下の人間にとって地上の人間はエサなのだ。半端な腕で下りて行って良い場所ではない。
 どうしてもスカウトしたい人材がいるという確信が得られるか、もしくは確かな情報がないまま地下街をふらついても安心できる護衛を見つけるか。そのどちらかでもない限り、エルヴィンが地下街の奥へ潜ることはきっとないだろう。人材は必要だが、エルヴィンが兵団から欠けるわけにはいかない。
 エルヴィンはそっと瞑目した。瞼を下ろし視界から追い出したのは地下街へと通じる入口。
 壁外調査は王侯貴族で構成された議会の承認を要するため、こうして定期的に王都へ出向く必要がある。ここ最近、じわじわと壁外調査廃止派の力が強くなり、予算が減らされそうになったり、壁外調査の中止を求められたりしていた。人材と資金の調達も重要だが、こちらへの対処も喫緊の課題だ。いずれ壁外調査廃止派の貴族が力をつけ、無理やりこちらの動きを妨害してくるだろう。そうなる前に止めたいが、もし起こってしまった際には善悪無視してでも調査兵団を守らなければならない。
 エルヴィンが地下街の入口に背を向けようとしたその時。
「ああ、ここか」
 呟きと共に、すっと誰かが横を通った。
 悪鬼巣窟の地下街へ何の気負いもなしに入って行くのは細身の少年。その手には身を守るための武器らしき物もなく、ほとんど手ぶらだ。まるで近くの丘にでも出かけるような風情の少年を、エルヴィンは大人として咄嵯に引き留めていた。
「ちょっと待ちなさい」
 声を掛けながら少年の腕を掴む。直後、エルヴィンは予想外の冷たさにぎょっと目を見開いた。遠い記憶が刺激されたように胸が疼く。
 瞠目したまま動きを止めたエルヴィンに少年が振り返った。黒い髪に大きな銀色の瞳。どこか猫を思わせるのは、その吊り上った瞳としなやかな動きによるものか。
 少年は見知らぬ大人に呼び止められて、はてと小首を傾げた。
「オレに何か用?」
 冷たい皮膚の少年は気分を害した様子もなく、しかしひどく不思議そうにエルヴィンを見つめる。この少年は自分がどこに入ろうとしているのか理解していないのだろうか。エルヴィンは半分大人の義務として、もう半分は記憶を揺り動かす何かによって、少年に告げる。
「ここがどこに通じるか知っていて向かうのか」
「もちろん」
「君のような子が行けば殺されてしまうかもしれない」
「オレが殺される?」
 少年は実に不可解そうな、けれども面白そうな顔をして繰り返した。
「オレが殺される、か」
 そしてクスリと笑う。
「無理だな。オレを『殺すこと』はできない。だからお前は心配しなくても結構。さあ、手を放してくれ」
 きっぱりとした物言いだった。しかもその口調はまるで年上が年下に言い聞かせるような響きを持っている。
 どこかで聞いたことがあるその言い方にエルヴィンはついつい手の力を抜いてしまい、少年の腕はするりと拘束から抜け出した。
「……それは君が強いから、か?」
「どうだろう? でも弱くはねぇと思うよ」
「何のために行く」
「ただの暇潰し」
 少年がエルヴィンの兵団服に目を留め、ニッと口の端を上げる。
「ここから出てきたら次は壁外にでも行こうかな」
 それはあまりにも馬鹿げた発言だった。しかしどうしてもただの冗談に聞こえない。この少年ならば行ってしまいそうな――そして無事帰ってきそうな――気がした。
 エルヴィンが次の質問をしないと知ると、少年は背を向ける。そして振り返らぬままひらりと手を振り、地下街へ入って行った。エルヴィンはただ茫然とその背を見送る。
 やがて少年の姿が完全に見えなくなると、エルヴィンは一つ息を吐き、
「次は壁外、か……」
 独りごちつつ、未だ冷たい肌の感触が残る手のひらを見つめた。その手をぎゅっと握る。失くしたものを掴み取るように。
「いいな」
 それは調査兵団分隊長としての言葉だったのか、それとも幼い日々に郷愁を覚える男の言葉だったのか。自覚のないままエルヴィンは踵を返す。
 いくら相手を欲しても今の状態で追いかけるのは自殺行為だ。早急に準備を整え地下街に潜る。
 強い意志を青い瞳に宿し、エルヴィンは帰路を急いだ。


 エルヴィンが銀眼の少年を見つけたのは王都で出会ってから五日後のこと。最初の二日間で団長のキースに話を通し、メンバーを集めて装備を整え、地下街に潜った。地下街での寝泊まりは危険度が圧倒的に増すため、地下での探索が終われば地上へと戻る日々。そして探索三日目の朝、二人の部下を率いて地下街へと下りたエルヴィンの前にふらりと少年が現れたのだ。
「あれ? お前……」
「やあ。五日前に地上で会ったね」
 この再会は偶然だったのだろう。少年は見覚えのある男の登場に目を丸くし、その後声を聞いて「五日前はどーも」と返した。
 ざっと見たところ、少年には傷一つない。顔にも、袖から覗く手指にも。あの自信満々な言葉は事実だったということだ。
「なんでお前、こんなとこにいんの?」
 五日前に地下街へ行こうとする少年を引き留めた調査兵団の兵士が何故ここにいるのか、少年は不思議なのだろう。そう尋ねつつ警戒心もなく近寄ってきた少年にエルヴィンは苦笑を浮かべる。
「君を探していた。昨日この周辺で騒ぎがあったと聞いてね、もしかしたら君かもしれないと思って来てみたんだ」
「オレを探しにって……。何のために。まさか騒ぎを起こしたからって捕まえるために? でもそれなら憲兵団の仕事だよな」
 エルヴィンの兵団服やマントに縫い付けられた重ね翼の紋章をまじまじと見つめながら少年は首を傾げた。何度見ようともエルヴィン達が身に着けている紋章は憲兵団の一角獣ではなく調査兵団の翼だ。
「捕まえるためではないよ」
 エルヴィンは友好的な笑みを浮かべつつも、相手に悟られないよう唾を飲み込んだ。どうしてこうも緊張しているのか自分自身でも理解できない。だが失敗は許されないと思っていた。あの冷たい肌を二度と手放したくはない、と。
(二度と?)
 ふと己の考えに疑問を感じ、エルヴィンは内心で首を捻る。だがそれを追及するよりも重要なことが目の前にあった。すぐに思考を切り替え、努めて穏やかな声を出す。
「調査兵団に入ってくれないか。君の力を借りたい」
 ぱちり、と少年が瞬いた。予想外のことを言われて単純に驚いているようだ。
「オレを調査兵団にスカウトしてんのか?」
「ああ。君はこの前、壁外にでも行こうかと言っていたね。そのような気概を持つ人間をみすみす逃すのは惜しい。それに君は腕にも覚えがあるようだ。まだ若いし、立体機動もこれから学べば――」
 離したくないという直感とは別に、立て板に水の如くさらさらとそんな理由をまくし立てる。だがエルヴィンがそこまで言った時、少年がふっと唇を歪めた。
「立体機動ならできるぜ。たぶん一般兵程度には」
「それは本当かい?」
「ああ。正式な訓練を受けたわけじゃねぇけど」
 肩を竦める少年を前に、エルヴィンは「これは僥倖だ」と思った。これならますます調査兵団の分隊長として¥ュ年をスカウトしやすい。彼は上手くいけば即戦力になる存在だ。
「では、入団の方は……」
「いいぜ」
 ニッと少年が笑う。五日前に見たのと――つまり地下街に入ることを「暇潰し」と言った時と――同じ顔で。
 承諾はあまりにも軽く、エルヴィンの後ろに控える部下達は呆気にとられていた。エルヴィン自身もそうだったが、呆気にとられるよりも先に、その気まぐれな様子が記憶の中にある『あの人』のようで、胸を締め付けられる気がした。しかしこの少年は『あの人』ではない。『あの人』であるはずがない。幼いエルヴィンを構ってくれていた『あの人』は彼よりもずっと年上なのだから。
 胸の痛みを抑え込み、エルヴィンは右手を差し出す。
「感謝する。私はエルヴィン・スミス。調査兵団で分隊長を務めている」
「オレはエレン・イェーガー。これからよろしく、エルヴィン分隊長」
 少年――エレンが傷一つない右手でエルヴィンの手を握り返した。そのままエレンは正面のエルヴィンを上から下まで見据え、ふっと頬の力を抜く。まるで遠い記憶に思いを馳せるように。
「なぁ。お前とオレ、昔どこかで会ったことあるか?」
「……ないと思うよ。私は君と似た人を知っているが、その人が君であるはずがないからね」
 エルヴィンは微笑を浮かべてそう答えた。

* * *

 郷に入れば郷に従え。個人対個人の時とは異なり、組織に属することになればエレンも態度を変える。彼にとって大体の人間は年下だったが、上官と部下の関係が成立する兵団に入ったことで、エレンは見た目相応≠フ言葉遣いをするようになった。
 礼儀正しい部下として振る舞ったため、訓練兵団を経ない異例の入団であっても調査兵団の兵士らに受け入れられるまで長くはかからず、すんなりと組織に溶け込んだ。地下街で再会したエルヴィンに対しても敬語を使い、間違っても「お前」などと呼ぶことはない。
 そんなエルヴィンはエレンの直属の上司である。エレンはエルヴィンが見つけてきたことから、世話をするという意味も込めて彼の分隊に配属されたのだ。
 入団から二ヵ月後、以前王都に出向いた際に承認された壁外調査が実行に移された。実力は十分あると認められたエレンも参加メンバーの一人である。
 結果は――。


 沢山の仲間が死んだ。けれどエレンは無傷。その理由をエレンはよく理解している。己の立体機動の技術が平均以上であることは勿論要因の一つであるが、それよりもずっと重要なのは、巨人がエレンを狙わないこと≠セった。誰も気付くことは無かったが、巨人はエレンを『生きた人間』として認識していないのだ。ゆえに好き勝手に動けて、他の人間よりも容易く巨体のうなじを削ぐことができる。そのおかげで救えた命もあった。しかしできることには限界があり、先述の通り多くの兵士がこの世を去った。
 壁内に戻ると戦後処理がある。エレンの上官であるエルヴィンは己の心身の疲労よりも死亡した兵士らに関する処理を優先させた。今回の壁外調査の結果をまとめると共に遺族への連絡と死亡手当の支払い、その他諸々。
 数日かかってそれらを全て終えた夜半過ぎ、エレンは静かにエルヴィンへと茶を淹れて持ってきた。
「お疲れ様です、エルヴィン分隊長」
「ああ、ありがとうエレン」
 机の端に置かれた茶器を見てエルヴィンは微笑む。しかし手を伸ばさない。伸ばす気力すらないのか。ふとそう思い至ってエレンがエルヴィンの顔を見てみると、ランプの光が暗くて分かり難いが、あまり良い顔色ではないことが分かった。
「もうお休みください。ひどい顔ですよ」
 昔、金色の髪と青い目をした幼い少年のまろい頬を撫でたことがあったなと思い出しながらエレンはエルヴィンの頬にそっと手を添える。冷たい指先の温度に驚いたのか、エルヴィンがはっと目を見開いた。だが彼は拒絶するのではなく、じっとエレンを見つめた後、おそるおそる少年の腰に手を伸ばしてきた。
「エルヴィン分隊長……?」
 己の腰に抱き着いて腹に顔を埋めてきた上官に、エレンは戸惑うでもなくただ単に不思議そうな声を出す。
「何をしているんだろうな、私は」
 くぐもった声でエルヴィンが答える。しかし離す気はないらしい。エレンの腹に顔を押し付けたままエルヴィンは言った。
「君の体温は私の大切な人を思い出させる。もし叶うなら、あと少しだけこのまま」
「……いいですよ」
 その声はまるで『あの人』のようだとエルヴィンは思った。しかしそれを告げることはなく、ゆえにエレンは知る由もない。ただエレンは気が向くままエルヴィンの髪を指でそっと梳いた。その指の感触もまたエルヴィンの記憶の中の『あの人』のようで、大の男が深く安堵の吐息をつく。そのままエルヴィンは冷たい肌の温度を感じながら眠りに落ちた。

 エレンに続き、再び地下街から――今度はほぼ強制的に――連れて来られた人材が調査兵団に入団する約十ヶ月前の出来事である。


【4】


 844年。
 貴族院の中でも壁外調査廃止派の最大勢力と言えるニコラス・ロヴォフ。彼が突然意見を変えて賛成派に回ったことにより、ほぼ中止に傾いていた次回の壁外調査も無事に行われる運びとなった。
 キース団長やエルヴィン分隊長がどれだけ説得を試みようとも、議会開催のたった五日前までは絶対に反対の意思を曲げなかったロヴォフに一体何があったのか。知る者はごく僅かであり、そして何があったのかうっすらと察しているのも一握りの人間のみである。また後者の一人であるキース・シャーディスは、正道ではないだろう手段を取った者に非難の言葉を投げかけることはなかった。何よりも、壁の中に囚われた人類が外に出ることを諦めてはいけないのだ。
 しかし『外へ』という意思は、それが強ければ強いほど軋轢を生む。特に今回、壁外調査廃止派の代表だったロヴォフが意見を変えざるを得なくなった理由がその意志に基づいてなされた行為であったため、ロヴォフの腸は文字通り煮えくり返っていた。
 あんな若造≠ノ、とロヴォフは怒りと悔しさでギリギリと歯軋りをする。貴族院で力を持っている貴族達はほぼイコールで世間には公表できないようなことを隠している。今回、憎き若造はその証拠をしたためた書類が己の手元にあると言ってロヴォフを脅してきたのだ。
 ロヴォフは憲兵団へ物資を納品しているラング商会と以前から癒着しており、壁外調査の中止で浮いた予算をそちらへ回そうと考えていた。癒着の件を公表されたくなければ今のままで我慢しろ――壁外調査廃止など考えるな――と、その者はたかが平民出身の一兵卒でしかないくせに大貴族のロヴォフに生意気な口をききやがったのである。
「エルヴィン・スミスめ……ッ!」
 中空を睨み付け、ロヴォフは怨嗟の如き声を吐き出す。だが彼はすでに己が打った手を思い出し、ニヤリと笑った。
「若造が、この私に勝てると思うなよ。証拠が書かれた書類さえ手に入れば貴様なんぞ簡単に潰してくれるわ」

* * *

 調査兵団本部、兵員宿舎。
 フラゴン・ターレット分隊長より兵舎案内の任を譲り受けたエレンは、リヴァイ達の視線を受けながら「さて」と話を区切るように言葉を発し、三人を順に見回した。
「一旦、お前達が使うことになる施設を見て回ろうか。訓練は昼飯を食ってからだな。オレに急ぎの用事が入らない限りは午後からも付き合えると思う」
「訓練って立体機動のことか? エレン、立体機動できたんだな」
 未だエレンに頭を撫でられっぱなし――そしてその行為を受け入れたまま――だったイザベルが目を丸くする。エレンはこくりと頷いた。
「昔取った杵柄ってやつで、特別上手いってわけじゃねぇけどな」
「へぇ。でもそれじゃあ俺らの方が上手いんじゃね?」
「かもしれない。でも生憎お前達が教わらなきゃいけないことはそれだけじゃねぇんだよ。馬術とか、兵士としての基本とか。勿論座学もあるぞ」
「ざがく?」
「机に教本を広げて勉強するってこと」
「げぇー」
 その言動からも分かる通り、イザベルはあまり学ぶことが好きではない。不味い物でも食べたように舌を出してうんざりという顔をする。エレンはそんなイザベルに苦笑してから、彼女の後方にいる男二人にも視線を向けた。
「特に次の壁外調査では新しい陣形を使う予定になっている。学ぶことは多いから、そのつもりでいろよ」
 途端、エレンのすぐ近くから「えー!」という不平の声が上がり、リヴァイは面倒くさそうに視線を逸らし、そしてファーランは「ガンバリマス」と片言で答えながら苦笑を浮かべる。
 三者三様の反応を眺めた後、エレンは「生き残るためだ、やるしかない」と言って肩を竦めた。
「じゃあ行くぞ。ついて来い」
 そうしてエレンは踵を返し、扉へ向かう。三人も仕方なくそれに続いた。何にせよ、しばらくここで生活するのだから施設に関しては頭に入れておいた方が良い。
 ぞろぞろと続く列の最後尾はファーラン。そのファーランはエレンの背を眺めながらふっと小さく息を吐いた。
(生き残るためにやるしかない、か。まぁ壁外調査が行われる前に『仕事』を終わらせて、こんな危ない所からは逃げるつもりだけど)
 声にも出さず、表情にも出さず、ファーランは呟く。イザベルは少々お馬鹿さんなので除外するが、リヴァイもきっと同じことを考えているだろうと思った。
 そう、ファーラン達が調査兵団にやって来たのには理由がある。ただエルヴィンに脅されただけでこんな危険な選択肢を選ぶはずがない。
 エルヴィンが地下街に現れる少し前、自分達の前にやってきた男のことをファーランは思い出す。その男は自分達に取引を持ちかけてきた。エルヴィン・スミスが所持するとある書類を持ち帰れば、三人に地上で暮らせる権利を与えようというのだ。
 男本人は自分の背後にいる『地下街の住人に地上での永住権を与えられるほど力を持った者』について何も語らなかったが、調べればそれが何者なのか案外あっさりと掴むことができた。
 背後にいたのは貴族のニコラス・ロヴォフ。どういう経緯でエルヴィンに脅されているのかは知らないが、彼は脅しに使われた書類を回収して心置きなく報復したいのだろう。
 ファーラン達はその依頼を受けて今ここにいる。しかし書類を回収した後、素直にそれをロヴォフに渡すつもりはなかった。中央でふんぞり返る貴族が地下街の住人に対してまともに約束を守るはずがない。どうせロヴォフは書類を手に入れたらあっさりこちらを裏切るつもりだ。口封じに刺客を寄越してくるだろう。ゆえにリヴァイとファーランが考えたのは、エルヴィンから奪った書類で今度は自分達がロヴォフを脅そうというもの。お貴族様の力で自分達が地上で暮らせるようきちんと取り計らってもらおうという魂胆なのだ。
 三人で地上に出るために、エルヴィンが持つとされる書類を手に入れる必要がある。地下街の住人のままではそれも難しい。しかし調査兵団に入れば、ヤツの身辺を探ることはずっと容易くなる。――これが、リヴァイ達三人が調査兵団にいる理由だ。勿論、壁外調査という名の自殺行為など参加するつもりはない。それまでに目的のものを入手して兵団を去る予定だった。
「どうした、ファーラン。遅れてるぞ」
「え、あ、ああ。すまない」
 エレンの声でファーランははっとする。銀色の双眸が振り返って自分を見ていた。「他の兵士の前でぼけっとしてたら無駄に怒られるから気を付けろよ」と苦笑しつつ、エレンは銀眼を眇める。その微笑がどこか居心地悪く、ファーランは話題を変えるように尋ねた。
「エレンはどうしてここにいるんだ?」
「どうしてって、さっき言っただろ? エルヴィン分隊長にスカウトされたからだ」
「そうじゃない。経緯じゃなくて、目的だよ。何を思ってエレンは兵団に入ったんだ? そんなことしなくても、たぶんあんたならどこででも生きていけただろう?」
 エレンの正体など知らないも同然であるためどうやって生活費を稼いでいるのか等は不明だが、なんとなく目の前の少年ならばどうやってでも好き勝手生きていけるだろうと思われた。それこそ危険な調査兵団になど入る必要はない。だと言うのに、彼は今、ここにいる。
「オレが調査兵団にいる目的か……」
「まさか俺達とそっくり同じく、金髪の分隊長さんに兵団か一生開拓地か選べって脅されたわけじゃないんだろ?」
 ファーランはそう問いを重ねた。いつしか四人の足は止まっている。エレンは瞬きを一つ。イザベルとリヴァイを挟んでエレンとファーランの視線が交錯した。
「なぁ、エレンはどうしてここにいる」
「そうだな。あえて言うなら……お前達を介抱したのと同じ理由だよ」
「……そうか」
 ファーランは頷いた。エレンの言葉の意味を正確に理解できたのはおそらくファーランのみだろう。一年前、エレンがリヴァイ達を叩きのめした後に隠れ家まで運んで介抱した理由。それを彼の口から直接聞いたのはファーランだけだったから。
 エレンの行動理由は、暇潰し。
 命を懸けるこの場でさえ、エレンにとってはその程度でしかないのだ。
「顔色が悪いな? さっきの部屋で休んでるか?」
「いや、一緒に行くよ」
 ファーランは頭を振る。微笑を浮かべるエレンを見て、彼が自分達と同じ人間などとは到底思えなくなっていた。しかしこの感覚はファーランだけのものらしく、イザベルなどは不審そうにしつつもよく分かっていない顔だ。
「どうした、ファーラン。無茶すんなよ」
「平気だって。ただ少し、今日は朝が早くて眠かっただけだから」
 イザベルにそう返し、ファーランは次いでリヴァイを見た。我らがリーダーも口には出さないが心配してくれているらしいとその表情から察し、申し訳なく思いつつも少し嬉しい。
「先に進んでくれ、エレン。どうせ兵団なんてところは次々予定が組まれてるんだろう? 俺もどっかの分隊長さんにドヤされるのはゴメンだ」
「そうだな。よし、じゃあ行くか」
 エレンのその応えと共に止まっていた足が再び動き出す。前に向き直る一行。その直前、ファーランはリヴァイがエレンを鋭く睨みつけるのを目撃してしまった。詳細は分からなくても、ファーランの不調がエレンによるものだと判断したからだろう。
(仲間思いなのは嬉しいんだけど、エレンや他の兵士に当たられるとマズいな。すまん。耐えてくれ、リヴァイ)
 秘密裏にエルヴィンの周囲を探る必要があるため揉め事を起こすのは得策ではない。話題を振る場所を間違えたと後悔しつつ、ファーランはエレン達に遅れないよう足を動かした。


 リヴァイにとって最も憎らしい調査兵団の兵士は、言わずもがなエルヴィン・スミスである。手勢を引き連れ地下街に現れたあの男は立体機動でリヴァイ達を凌駕した後、リヴァイの顔を汚水の水たまりに押さえ付け、「調査兵団に入れ」という自らの要求を呑ませた。
 育ちの良さそうなお坊ちゃんがリヴァイを這いつくばらせ、汚い地面に押さえ付けて屈辱を味わわせたこと。そしてリヴァイの大切な仲間に手を出したこと。絶対に許すわけにはいかない。
 元々兵士という人種に期待も理想もなかったが、この件でリヴァイは烈火の如き怒りと憎しみを抱いた。必ず復讐してやる。思い知らせてやる。
 そんなリヴァイにロヴォフの申し出はまさしく渡りに船だった。ヤツからの使者は書類の回収のみでエルヴィンの殺害まで依頼しなかったが、あわよくばこの手でエルヴィンの首を掻き切ってやろうとリヴァイは考えている。
 自分より手練れだと一年前に判明していたエレン・イェーガーが兵団――しかもエルヴィンの部下という位置――にいたことは予想外だが、目的に変更はない。邪魔があれば排除するのみ。リベンジマッチも吝かではなかった。それにどうやらあの少年はファーランの顔色を変えさせる何かを擁しているらしい。仲間に害をなす者は、リヴァイが直接被害を被っておらずとも敵だ。もしこれ以上何かあれば容赦なく牙を剥いてやる。
 兵団生活一日目を終え、大部屋のそこかしこから兵士達の寝息が聞こえる深夜。獲物を狙う獣のように、暗闇の中でリヴァイは鋭い双眸をギラつかせた。


 フラゴン隊所属になったリヴァイ、ファーラン、イザベルだったが、彼らの面倒はフラゴン隊のメンバーに加えてエレンもよく見るようになった。無論、他隊所属のエレンが常時指導できるはずもなかったが、上手く時間をやりくりして頻繁に顔を出しに来る。
 三人は兵士として規律に従う様子も見せず、彼らに手を焼かされていたフラゴンが「助かる」と礼を言ったところ、エレンは「うちの分隊長が半ば無理やり引き入れた人達ですからね。上官の代わりにオレがやらないと」と答え、フラゴンからの好感度をさり気なく上げた。
「エルヴィンが地下街からスカウトしてきたのは同じなのに、お前はエルヴィンの部下、あいつら三人は俺の部下か」
 訓練の休憩時間中、フラゴンが練兵場の端にあった丸太に腰を下ろしてぼやく。隣でそれを聞いたエレンが肩を竦めた。
「タイミングの問題なんでしょうね。オレが調査兵団に来た時はまだ新しい陣形のことでエルヴィン分隊長も忙しくしていらっしゃいませんでしたし。可能ならあの三人も自分で指導したかったと思っておられるでしょう」
「そうかねぇ」
「きっとそうです」
 エレンはにこりと微笑んだ。本当にエルヴィンがリヴァイ達を指導したがっているかどうか、そんなことは知らない。けれどもここでそう言っておいた方が無難だとエレンは判断した。更に追加でフラゴンに告げる。
「フラゴン分隊長に三人が預けられたのは、きっとうちの分隊長がフラゴン分隊長を一番信頼しているからですよ。オレも精一杯お手伝いしますので、どうぞうちの分隊長の我侭を叶えてやってください」
「……ああ。あの人に頼られちゃ、やらないわけにはいかないしな」
 フラゴンはパチンと両頬を叩いて気合を入れ直した。
「ははっ、フラゴン分隊長、ほっぺた真っ赤ですよ」
 エレンが肩を震わせると、「そんなに笑うなよ」とフラゴンが非難するが、その声も表情も穏やかで和気あいあいとしている。
 それを少し離れた所から見つめる人間がいた。
 井戸から冷たい水を汲み上げて頭からひっかぶっているファーラン・チャーチとイザベル・マグノリア。しかし彼らはフラゴンとエレンの様子に目を向けていない。イザベルは水の冷たさを堪能するのに集中しており、ファーランは意識してエレンを見ないようにしている。彼らの傍らに立つリヴァイだけがしっかりとエレンの様子を観察していた。
 青灰色の双眸に浮かぶのは興味ではなく敵意。元々好いた相手ではなかったが、ファーランと何かを話して怯えさた相手を警戒しないわけにはいかない。またリヴァイ本人はまだ意識していなかったが、朗らかに笑うエレンに気味の悪さ――違和感とも言う――を感じており、それが嫌悪や敵意という負の感情として表層に顔を覗かせていた。
 初めて出会ったエレンの瞳。凍りつくような銀の双眸。地下街に現れた、冴え冴えと輝く冬の月。この身を震わせるようなそれが今のエレンにはない。
 気まぐれで、誰にも縛られない孤高の王。そうあるべき彼が軍に属して規律を重んじ、自分よりも弱いに違いない人間に笑顔で従っている。
 リヴァイは舌打ちして、フラゴンの隣で笑うエレンから視線を逸らした。
 兎にも角にも気に入らない。己を汚水に押さえ付けたエルヴィンはこの世で一番気に食わない男だが、エレン・イェーガーというあの意味の分からない少年も同じくらいリヴァイを苛立たせる存在になっていた。
 エレンから視線を逸らしたリヴァイは地下街から共にやって来た二人の仲間を見やり、苛立ちを消すように目元をほんの少し緩める。そんな姿をエレンが一瞥したことなど気付かぬまま。


 夜、風呂上りのイザベルの髪を拭いてやりながらエレンが言った。
「だからな、イザベル。気持ちが籠って無くて下手くそでも構わないから、とりあえず上官と先輩には敬語使え。そんな程度で相手の機嫌を損ねたら面倒だろ?」
「なんで俺ばっかりなんだよ。ファーランにも言えって。それと、兄貴も」
 兄貴も、の部分は正面にいる相手にもギリギリ届くかどうかくらい小さく、ぼそりとイザベルは文句を垂れる。その相手であるエレンは優しく微苦笑しつつも一刀両断するように告げた。
「お前だって傍にいれば分かってるだろ、ファーランは一応できてる。リヴァイは……オレが言っても聞かねぇだろ」
「そうなのか?」
 この「そうなのか?」は、ファーランが敬語を使えていることに対してではなく、リヴァイがエレンの言うことを聞かないということについてだった。イザベルの問いの意味を正確に読み取ったエレンは「ああ」と頷く。
「あいつはオレのこと嫌ってるからなぁ」
「………………」
 イザベルにも思い当たることがあったため反論はせず、黙り込む。
 今の時間帯、階級及び男女別に時間差で兵士らは風呂を使っていた。女であるイザベルは同じ階級の男達より一歩先に風呂を終え、今は入れ替わりで入浴しに行ったリヴァイ達を部屋で待っている。一番下の階級であるイザベル達より上位にあるエレンは先に身体を清めており、下位の兵の様子を見に来ると共にこうして髪を濡らしたまま部屋に戻ってきたイザベルを目にして構い始めたのだった。
 一年前の時点ですでに懐きかけていたイザベルが、こうして何かにつけて世話をしてくれるエレンに好意を抱いていることを、本人は否定しない。ファーランはイザベルが知らない間にエレンと何かあったらしく、再会した少し後からなるべく接点を持たないようにしていた。そしてリヴァイはファーランがそうなってしまった理由を推測しつつ、これ以上自分の『仲間達』にエレンが手を出さないよう警戒し続けている。
「……兄貴がエレンに近付くなってはっきり言ったら、俺、お前から離れるからな」
「おう。仕方ねぇな。イザベルの中にある優先順位に従えばいい」
「そっけねーヤツ」
「お前は仲間思いの良い子だなぁ」
「ガキ扱いすんな。俺達、齢は同じくらいだろ」
「ん? んー」
 イエスともノーともつかない反応をしつつ、エレンはイザベルの視線を遮るようにタオルを動かした。優しい手つきで赤い髪から水気が拭われていく。
「よし、おわり」
 タオルを頭から退けてエレンが再びイザベルと視線を合わせた。
「良い子のイザベルにはご褒美をやろう」
「は?」
 イザベルが胡乱げな顔をすると、エレンはポケットから何かを取り出す。
 両手でエレンからそれを受け取り、イザベルは小首を傾げた。
「なんだこれ」
 絵柄も何もない薄茶色の薄紙に包まれた軽いもの。しかしエレンの視線に促され包み紙を開いたイザベルはぱっと顔面を喜色に染めた。
「クッキーじゃねぇか!」
 王侯貴族でない限り、簡単には手を出せない甘い物。特に地下街出身で、今は兵団の下っ端であるイザベル達にはほとんど食べる機会のないものである。
 エレンは更に別のポケットからキャンディもいくつか取り出して、イザベルの手のひらに乗せた。イザベルは大きく目を見開き、「いいのか!?」と声を弾ませた。
「ご褒美だって言っただろ。それから、今後なるべく上官や先輩には敬語を使うこと。敬語を使えるよう努力してますってポーズを見せるだけでも、相手の態度は変わってくるから。これからも兵団の中で生きていくなら、できるようになっておいた方が良い」
 まだ水気でしんなりとした赤い髪を撫でられ、イザベルはエレンを見上げた。
 ああこいつは知らねぇんだよな、とイザベルは思う。詳しいことまでは理解できていないが、リヴァイもファーランも長くここに留まるつもりがないことをイザベルは聞かされていた。欲しい物をさっさと手に入れ、壁外などという危険極まりない場所に放り出される前に逃げ出す。それが当初の予定だ。ゆえに上官や先輩への礼儀など頭に入れても意味がない。自分達は、こちらを利用しようとした貴族を利用し返して、自由に地上で暮らす権利を得るのだ。今もエルヴィン・スミスが所有する書類の在処を探るため、リヴァイ達が密かに動いている。
 それでもわざわざ否定を返してエレンを困らせるよりはマシだろうと、イザベルは小さな声で「おう」と答えた。エレンは口元を緩めて「よしよし」と笑う。
「イザベルが偉くなったら気にする必要なくなるからな。お前の実力ならすぐに階級も上がるって」
「エレンよりも早く?」
「生意気言うな」
「イダ! イダダダダ! 人の頭押さえんな!」
 撫でていたはずの手でイザベルの頭を鷲掴みながら、エレンはじゃれつく子猫を相手にするような余裕を見せる。
 男女の差はあれども、それほど年の差があるようには見えない二人。しかしイザベルの頭を押さえ付けることで少女の視界に己を映さないようにしたエレンの目に滲む色は、同じ年頃の少女に向けるものではなく、弱くて可愛い子猫を構うそれだった。
 昔々の誰かの時のように、気まぐれで手を伸ばし、文字通り猫可愛がりをする。甘えてすり寄って来るのは元より、小さな爪で引っかかれても、可愛らしい牙で噛みつかれても、ツンとそっぽを向かれても、エレンは全く気にしない。道端で見つけた小動物と同じ。どうせ誰も彼もエレンより年若く、そしていずれエレンを置いて行く相手なのだから――。
(――深入りなんて、するはずねぇだろ)
 ぽん、とイザベルの頭を軽く叩いて、エレンは手を放す。
「その菓子、あとで二人にも分けてやれよ。一緒に食った方が美味いだろ」
「……おう」
 大事そうに手の中の菓子を見つめてイザベルが頷いた。


【5】


 口の悪いイザベルと全体的に態度も雰囲気も悪いリヴァイに挟まれたファーランは、他の兵士達からすれば随分と大人しそうに見える。しかし彼もまた地下街出身であり、更にはリヴァイが現れるまでそれなりに大きなギャングを取りまとめる男だった。つまり柔和な雰囲気を醸し出しつつ揉め事を起こさないよう気を配っていても、中身は血も暴力も厭わない王都の地下の住人なのだ。
「オイ、聞いてんのかよ。地下街のゴミクズ如きが、エルヴィン分隊長直々に拾われたからって良い気になってんじゃねぇぞ」
 何の事情も分かっていない馬鹿な兵士が数人、ファーランが一人になったところを見計らって難癖をつけに来た。ファーランは内心でうんざりしながら表向きは眉尻を下げ、「そんなこと思ってませんよ」といかにも弱々しい態度で否定する。
 イザベルには猛然と反抗されるから、リヴァイには背筋が凍るような視線を投げかけられるから、このように自尊心ばかりのクズ兵士はファーランに目をつけてストレス発散を試みようとするのだ。
 調査兵団本部の人気の少ない所に連れ込まれるのも、これが初めてではない。壁外調査の日が近付いているのに、なんとも呑気な兵士達である。こんなことをする暇があるなら訓練の一つでもすればいい。
(それに、こっちにだって時間がないんだよ)
 ファーランは内心で毒づいた。
 エルヴィン・スミスが持っているという書類は未だ見つかっていない。彼の執務室にも忍び込んでみたが、それらしいものは発見できなかった。
 それなのに壁外調査の日は容赦なく近付いてくる。このままでは本当に壁外へ連れて行かれてしまうだろう。その辺の兵士達よりファーランの方が立体機動の技術が上だという自信はあったが、きっと壁外で生き残るのはそういうこととは違う。
 頭の悪い暴言を吐く『先輩兵士』を前に、ファーランは苛立ちを増していった。まだ表には出さないものの、破裂を待つ風船のようにそれは刻一刻と膨らんでいく。
「へらへらしてんじゃねぇぞ!」
「……っ」
 ぐっと胸倉を掴み上げられた。ファーランは被った猫の裏で思案する。このままいくと、クズ兵士はファーランを殴りつけるかもしれない。それは困る。見えるところに痕がついてリヴァイ達に知られれば、彼らが黙っているわけがないし、それに何より……。
(そろそろ俺も我慢の限界だ)
 見当外れの嫉妬や妬みも、子犬のように吠えることしかできないことも、目的のためなら我慢しよう。だが暴力まで甘んじて受けるつもりはない。こちらは虐げられる側≠ナも服従する側≠ナもないのだから。
 刹那、ファーランの薄い色をした双眸がすっと細くなった。突如として現れた異様な雰囲気に、彼を囲んでいた兵士らが息を呑む。それでもファーランの胸倉を掴んでいた兵士が強がって「な、何だよ……」と吃音と共に吐き出す。ファーランの冷めた双眸がそちらに向けられて――

「ファーラン、ここにいたのか。フラゴン分隊長が探していらっしゃったぞ」

 突然の声。ぎょっとした兵士らが背後を振り返る。そこには一年前にエルヴィンが連れて来た少年、エレン・イェーガーが立っていた。
 エレンは己が目撃したはずの私刑などまるで無かったかのように、いつもの薄い笑みを浮かべて告げる。
「先輩方、お話し中に邪魔してしまって申し訳ありません。分隊長がお急ぎなので、ファーランを連れて行かせていただきます」
 下手に出ているようでいて、けれども上官の名を出すことで絶対に拒否を認めない言い方。唖然とする兵士らを置いて、エレンは解放されたファーランの名をもう一度呼んだ。
「ファーラン、行くぞ」
「あ、ああ」
 踵を返したエレンを追ってファーランは駆け出す。そしてほっと一息。
 目的の物が手に入っていないのに揉め事を起こすのは得策ではない。自分はそう理解していたはずだ。しかしそれすら差し置いて手を出しそうになっていた。もしエレンが来ていなければ面倒なことになっていただろう。何の用かは知らないが、フラゴン様様といったところである。
「あれ? エレン、そっちはフラゴン分隊長の部屋と逆――」
 エレンの後について行くと、思っていたのとは逆方向に曲がった。ファーランが驚いて声をかければ、エレンは足を止めて振り返り、
「ああ、あれは嘘だ。分隊長は相変わらずお前が外で訓練してると思ってるよ」
「…………は?」
 ファーランは目を点にする。言われた意味は理解できた。つまりエレンはリンチされかけているファーランを見かけて、わざわざ嘘を吐いて助けてくれたのだ。しかし何故?
「自分の上官が見つけてきた人材は、部下のあんたが面倒見るつもりってことか? こういうことまで。たかが暇潰しで兵団にいるにしちゃあ徹底してるな」
 自分から『暇潰し』という表現を使っておきながら、ファーランは妙にその単語が気に入らなかった。そう、気に入らない。
 暇潰しで地下街にやって来て、暇潰しでファーラン達を返り討ちにし、暇潰しで助け、そして今もまた、暇潰しで立派な兵士を演じつつファーランが暴走する前に――エレン本人としては襲われていたファーランを助けたつもりだろうが――馬鹿な兵士達を止めた。
 気味が悪い。気持ちが悪い。見た目は年下のくせに、高みから見下ろすような態度が気に入らない。
「あんた一体何なんだ」
 自分達と同じ土俵に立っていない。そんな相手に向けて放った問いは、発した後で妙に得心がいった。エレン・イェーガーとは何者か。そして。
「……あんた、本当に人間か?」
 死ぬ可能性の方が高いこんな兵団に属しながら、それすら暇潰しと言えるその精神。まるで不死の化け物のよう。
「………………」
 エレンは答えなかった。「何だそれは」と笑い飛ばしても良いはずの問いに少年は即答せず、じっとファーランを見つめ返している。しかししばらく見つめた後、この兵団で常に浮かべているような笑みを見せると、彼は肩を竦めて問い返した。
「ファーランにはオレが化け物に見えるのか?」
「っ」
 その問いに言葉が詰まる。
 ファーランからしてみれば、エレンの行動は『普通』じゃない。しかし目に見えて分かる異形でもないのに、相手に正面切って「お前は化け物だ」と言えるものかと問われれば、答えは否だ。少なくとも是ではない。
 答えられないでいるとエレンは苦笑いを浮かべて言った。
「すまん。答えにくい訊き方だったな。まぁオレがどうにもこうにも普通っぽくねぇことは自覚してるよ」
「……自覚はあったのか」
「だから兵団内では上手く隠してるだろ?」
「ああ。周りのヤツら、あんたを普通の兵士だと思ってるみたいだな。地下街であんたと話した俺にとっちゃ、何の冗談かと思ったけど。こんな……命懸けの場所にいることすら『暇潰し』だって? 冗談じゃない」
「死んだらオシマイだもんな」
 さも自分はその例外であるかのように聞こえた。ファーランが眉間に皺を寄せると、エレンはおどけた調子でニッと笑って言う。
「実はオレ、本当に化け物なんだ。首を切られたって死なない。だから巨人の群れに突っ込むような真似だって怖くない。生死をかけた職場にいても、それはただの暇潰し。……って言えば納得するか?」
「馬鹿馬鹿しい」
 ファーランは吐き捨てた。自ら化け物と名乗る化け物などいるものか。エレンの答えを聞いた途端、自分の中にあった疑問が一気に価値を失ったような気がした。
 気力が削がれて肩を落とすファーランにエレンは馴れ馴れしくぽんと触れる。しかし「触るな」と言ってその手を弾けば、呆気なく離れていった。
「フラゴン分隊長が呼んでるってのは嘘だったんだよな? じゃあ俺はこれで。助けてくださってアリガトウゴザイマシタ」
 そう言って、返事を聞く前にファーランは踵を返した。エレンは追いかけて来ない。振り返るのも負けたような気がして、結局、ファーランは一度も足を止めることなくその場を去る。
 そして、十数秒後。
「助けたのはお前じゃなくて、あのクズ兵士共だよ、ファーラン・チャーチ。そんな目をするお前らの目的は一体何なんだろうな?」
 エルヴィンに脅されて大人しく兵団に入ったかと思えば、どうにもそんな風には見えない。こそこそしていることには気付いていたが、どうやらそれ相応の目的を持って三人はここにいるらしい。
 何が起こるのか楽しみだ、とエレンは小さく肩を揺らした。

* * *

「あの野郎……エルヴィン分隊長に気に入られてるからって偉そうに」
 実際に偉そうな態度を取ったかどうかは問題ではない。ただ気に入らないから。それだけの理由で男とその仲間は苛立たしげに舌打ちをした。
 生意気な三人の新入りのうち、一番弱そうな青年に手を出したのは男達の自信の無さの表れだったが、それを自覚するほど彼らは利口ではない。ともあれ苛立ちをぶつけるのにちょうどいい獲物を掻っ攫われた挙句、加えてその相手が、調査兵団の誰もが敬愛する――と、少なくとも男達は思っている――エルヴィン・スミスの直属の部下にして彼が直々に連れてきた少年だったため、男達の嫉妬と苛立ちはいや増した。
 リヴァイもイザベル・マグノリアもファーラン・チャーチも気に入らないが、何よりもまずあのガキ――エレン・イェーガー。何を使ってエルヴィン分隊長に取り入ったのか知らないが、そろそろ自分の立場というものを思い知らせてやらなければ。
 男達と同じように考えている者は他にもいる。エルヴィン分隊長発案の新しい陣形を使う壁外調査の前に、同志を集めてエレンを『指導』してやろう。そう決めた男達は互いにニヤリと下卑た笑みを浮かべ、先程までファーランを『指導』していたその場から去って行った。

* * *

 エレンは自分を世渡り上手などと思っていない。見た目以上の時間を過ごしてきたため集団に属すればそこに馴染めるよう猫を被ることも覚えたが、多くの人間がそうであるように、全ての人に好かれるよう振る舞うことなど無理だった。また、そもそも自分の意志を曲げてまで他者に好かれることが必要だとも思っていない。
 まず自分ありき。周囲の環境を過ごしやすいものにするため多少振る舞いは変えるが、それだけだ。エレンの本質的な意志や行動を無理やり曲げようとする者がいれば、そこから離れるか、もしくは完膚なきまでに打ち負かす。そうやってずっと過ごしてきた。
 無論、自分に向けられる反論の全てに対して牙を剥くわけではない。正しいことは正しいと認め、尊敬に値する人間からの言葉は大切に胸に仕舞ってきた。自分に悪意がぶつけられた時、何が原因だったのか考えることもままある。
 ただしそれは、受け入れるべき、または考慮すべき相手であった場合に限られた。
(その価値もないくせに、こうやってくだらないことしかできねぇ輩は大嫌いだよ)
 思考するエレンの身体は、現在、空中にあった。立体機動で空を跳んでいるわけではない。ここは調査兵団本部の建物内なのだから。
 エレンは本部内で一番大きな中央階段を下りていただけだった。いつものように。しかし今回、すれ違いざまにその背を強く押す者がいた。
 首を捻って見上げた男の顔は既知のもの。先日、ファーランを囲んでいた兵士らの一人だ。邪魔をされた報復としてエレンを階段から突き飛ばしたのだろう。加えて、元々あまリエレンを好いていない部類の人間だったと推測される。おそらくエルヴィンへの敬愛が過ぎて、傍にいるエレンに嫉妬しているのだ。
(くだらねぇ)
 突き飛ばされる前から、エレンは階段を上ってくる相手の異様な目つきに気付いていた。またすれ違った直後、背中に手を伸ばされる気配も。それでもあえて突き飛ばされてやったのは、問題無く着地できる自信があったからにすぎない。
 そう、この程度ではエレンを傷つけることすらできない。
 エレンから冷たい視線を向けられて、突き飛ばした犯人がぎょっと目を瞠るのが見えた。視線の交錯は一瞬。エレンの身体は階下へと落ちていく。着地予定場所はまだ階段の中腹で、落ち方によっては大参事が予想された。幸いにも巻き込みそうなところに人間は立っていないが、異変に気付いた何人かの兵士があっと息を呑む。
 一瞬で周囲の状況を把握したエレンが次の行動に移った。身体を折って頭を下に向け、右手を伸ばす。
 とん。
 音にすれば、あるかないかという程度の小さなもの。右手の五指を階段の面につけ、肘と肩で着地の衝撃を吸収すると、そのままバネのように再び空中に身を躍らせる。まるで右手一本でハンドスプリング(前方倒立回転跳び)をするように、残りの階段を飛び越して下のフロアに着地した。
 底の堅いブーツで床を踏みしめた際にも音は最小限にしか鳴らない。猫のようにしなやか且つ静かに着地したエレンは、衝撃を殺すために曲げていた膝を伸ばして立ち上がる。
 シン……と、辺りが静まり返っていた。いくら身体能力の高さが要求される調査兵団においても、ここまで動ける者は少ない。
「えっ、エレン、腕は大丈夫なのか?」
 最初に着いた右手。そこにはエレンの全体重が乗ったはずだ。筋骨隆々とは程遠い肉体を持つエレンが支えられると思えなかった知り合いの兵士が慌てて駆け寄ってくる。だが、エレンはへらりと笑って「大丈夫だって」と返した。ついでに袖を捲って腕を差し出すが、確かに骨を折ったり筋を痛めたりした痕跡はない。いつも通りの傷一つないひやりとした腕があるだけだ。
 エレンの身体に異常がないことを確認したその知り合いの兵士は、次いで階段の上方に留まっている兵士に目を向けた。しかし非難を口にするよりも早くエレンが上にいる相手に話しかける。
「すみません、先輩。オレ、ぼうっとしていたようで、ぶつかってしまいました。先輩の方は大丈夫ですか?」
 その台詞で、この場にいた兵士らは「そうだったのか?」と驚く。エレンが背中を押されたように見えたのだが、本人がそれを真っ向から否定した。しかも言葉が本心からのものだと思わせる、申し訳なさそうな微笑み付きで。
「い、いや。こちらこそすまない。大丈夫か?」
「はい、ご覧の通り」
 エレンは自分を突き落とした犯人に向かって、それはそれは綺麗な笑みを浮かべてみせた。相手の顔が引きつる。それでも犯人は何とか「なら良かった」と言って、そそくさと上のフロアへ逃げていった。
「いいのか、エレン」
 傍らにいた知人がこっそりと囁く。どうやらエレンの嘘に騙されてくれる気はないらしい。「いいんだよ」と小さい声で返せば、相手は不承不承引き下がる様子を見せた。
 エレンが入団した当初から付き合いのあるこの知人は、入団直後にエレンが受けていた嫌がらせについても知っている。嫌がらせを受けつつもエレンが平然としており、なおかつ嫌がらせの犯人と思しき人間がいつの間にか消えていたことも。
「……ああいうのは放っておくと助長するぞ」
 最後の忠告とばかりに知人は言う。エレンは言葉で返す代わりに肩を竦めて銀色の双眸を狭めた。
 くだらない輩でも、軽い『悪戯』程度なら見逃そう。呆れはするが、これくらいでは怒る必要もない。
 しかし更に何かをするつもりなら、その時は――。


「レゾから聞いたよ、先輩兵士に階段から突き落とされたんだって?」
 エレンが分隊長の執務室に書類を持っていくと、開ロ一番、部屋の主であるエルヴィンは青い目を剣呑に細めてそう言った。どう見ても機嫌は良くない。エレンは苦笑いをする。
 尚、レゾというのは、あの場にいてエレンに心配と忠告をしてくれた知人のことである。エルヴィンの直属の部下ではないが、エレンの知り合いという立場からこっそり報告していたのだろう。
「大したことじゃありません。オレがここに来たばかりの頃はもっと陰湿で危険度の高いものばかりだったじゃないですか。まぁすぐに止みましたけど」
「当時は色々あったが、立体機動装置に細工がされていた時はさすがに胆が冷えたよ」
 エルヴィンは机の上に両肘をつき、口元を隠すように手を組んだ。
「訓練中に思い切り落下しましたからね。お騒がせしました。自分で言うのもなんですが、怪我一つなかったのは奇跡だと思います」
 実際には奇跡でも何でもなく、単にエレンが立体機動装置の扱いに長けていたことと普通ではない肉体のおかげで外見上『無傷』という結果になっただけなのだが、それは他人が知るようなことではない。
 また、エレンの装置に細工を施した時点で、エレンが怪我をしてもしていなくても、犯人と思しき人間がその次の壁外調査にて命を落としたという事実は変わらなかっただろう。ただしその時はエレンが直接何をかしたわけではない。真実を推測するために使える手札は、エレンの上官がエルヴィンで、訓練中に体勢を崩したエレンを彼が目撃しており、尚且つ当時から団長の右腕として働いていたということのみ。
「今回の件についてご心配いただく必要はありません。いざとなればオレ自身で何とかしますので」
 エレンがそう言うと、「本当かい?」とでも尋ねるようにエルヴィンが見つめ返してきた。
「大丈夫です」
 はっきりとした声で告げる。
「オレはそんなに弱くありません」
「ああ、そうだな」
 肯定しつつも、手を退けたエルヴィンの口元は笑っていなかった。
「エレン……私は君を失いたくない。いつか君が『あの人』のようにどこかへ去って行くとしても、それは君の意志であってほしい。誰かに無理やり奪われるのだけはごめんだ」
 不安に揺れる二つの青。分隊長としての仮面を外した男の姿にエレンは眉尻を下げた。
 執務机を迂回して近付けば、成熟した大人の腕が伸びてきてエレンの腰に巻きつく。身体の大きさはエルヴィンの方が上だが、彼は過去の経験からエレンの身体をすっぽり抱き込むよりもこうして抱き着いたり相手を見上げたりする方を好んだ。
 エレンは強い力で己に抱きつく腕にひっそりと苦笑する。お返しに優しく背中を撫でる手つきは、情事を匂わせる愛撫と言うより親と子のそれだった。
「もしオレがここを離れても、それがオレの意志じゃないのなら、またそのうち戻ってきてあげますよ」
「嘘じゃないだろうね?」
「たぶん」
「……ひどいひとだ」
 腰に回されていた腕の一方がエレンのうなじに伸ばされ、ぐいと引っ張る。体格差を利用してエレンを抱き込むのはあまりエルヴィンが好む体勢ではないのだが、今だけは自分の身体を檻の代わりにしたいらしい。
「風のように気まぐれで……本当に酷い男だな、君は」
 エルヴィンに抱きしめられるエレンはその体勢の所為で彼の太腿に片足を乗り上げる格好になっていた。肩越しに窓があり、庭を見下ろすことができる。
 ガラスの向こうに見えたのは、たまたまこちらを見上げたらしい見知った顔。室内で起こっていることを悟り、青灰色の鋭い双眸が大きく見開かれていた。
 その双眸と目を合わせたままエレンは楽しげに笑う。
「そうですか?」
 視線が逸らされ、地上にいた元ゴロツキは足早にその場を去る。気持ち悪いモノを見たというよりは、ただただ腹立たしげに。


 リヴァイがエルヴィンの執務室を見上げたのは、まだあそこに目的の書類が隠されているかもしれないという未練からだった。一度忍び込んで捜索したところ、収穫はなし。けれどももしかしたら隠し扉のようなものがあるのかもしれない。また忍び込める時間の関係で、探し切れていない場所もあった。
 そういう気持ちで見上げた先にあったのは、エルヴィンとは違う意味で警戒し嫌悪している――と自らは思っている――エレン・イェーガーの姿。少年を抱きしめている男は窓に背を向けているものの、十中八九エルヴィンだろう。
 二人が何をしているのか理解した瞬間、リヴァイは目の前が真っ赤になった。冷静に考えればその原因に至れたかもしれないが、その時はただひたすら腹立たしく、憎らしく、どろりと熱いものが臓腑を焼き尽くすように身体を満たす。まともな思考ができない。
 リヴァイと視線を絡ませたままエレンが銀色の双眸を笑みの形に歪める。何故か見ていられなくなってリヴァイは目を逸らした。
 止まっていた足を再び動かし、舌打ちと共に吐き捨てる。
「クソッ、気に入らねぇ」
 何故触れさせる。何故囚われてやっている。お前は孤高な冬の月。異質で異様。人とは違う、銀の目をした化け物であるべきだろう。

* * *

 調査兵団に入団したばかりのごくごく初期に限られるが、訓練兵団を経ずにエルヴィンが直接スカウトする形でやって来たエレンに対して良くない感情を持つ者は少なからずおり、そんな者達が悪質な嫌がらせをしてきたことがある。
 すれ違いざまの嫌味から始まって、集団での暴行は当たり前。しかしエレンがそれらを上手く回避することが何度も続くと、手口は余計に悪化して、終いには訓練中の事故に見せかけて殺そうとまでしてきた。どうせ何をしてもエレンが『殺される』ことはないので頭の悪い先輩兵士らの行為は全くの無意味なのだが、それはさておき。
 一年経ってエレンの周りはすっかり静かになったものの、新しくやって来たリヴァイ達に自ら進んで関わったことにより、あの頃と同じような空気が再び漂い始めていた。嫌味はエレンの耳に入っていなかっただけで、前々からあったのだろう。そして先日、実際に階段から突き落とされそうになった。しかしながらエレンは怪我一つなく、今も元気に活動している。
 経験上、エレンにダメージを与えられないと知ったからと言って、兵士らが嫌がらせを止めるはずもないことは明らかだ。そしてエレンはこれより悪化した場合に相手を見逃すつもりなど欠片も持ち合わせていなかった。


「……」
 兵員宿舎に複数ある一般兵用の一室にて。一見しただけでは分からないよう巧妙に切れ目が入った立体機動装置のベルトを手に持ってエレンはすっと銀眼を眇める。
 この状態だと、ベルトは装着と地上での活動には耐えられるが、立体機動で激しく動けば途中で千切れてしまうだろう。もしそうなれば、姿勢を保てない操縦者は一瞬でバランスを崩し、障害物か地面に激突。大怪我は免れず、下手をすれば即死だ。
 調査兵団に属する兵士がそれを理解していないはずがない。明らかな殺意が滲む細工に、エレンの口元は知らず知らず持ち上がる。
(オレを殺そうとする人間に掛ける慈悲はねぇからな)
 実際に『死ぬ』かどうかが問題ではない。殺意を持っているか否か。エレンという存在を侵そうとするか否か。そのラインを越えてしまった者達は、その瞬間にエレンの中で『人間』ではなくなる。
 今日は午後から壁外調査に向けての合同訓練が予定されていた。場所はウォール・マリア内、観光地としても親しまれている『巨大樹の森』の一角である。悪意ある者達はそこでエレンが事故死することを期待しているのだろう。
 エレンは使えなくなったベルトを廃棄すると、こういう時のために用意しておいた予備のベルトをベッドの下から取り出す。それを手早く装着し、何食わぬ顔で廊下に出た。
 今回の件、それなりに『結果』を出す予定なので、先にエルヴィンに一言告げておいた方が良いだろう。そう考えたエレンが真っ先に足を向けたのはエルヴィン・スミス分隊長の執務室。
 本部の建物内を歩いていると、途中でエレンを盗み見つつ下卑た笑みを浮かべる者達とすれ違った。なんて分かりやすいのかと呆れを通り越して関心すらしながら、エレンは気付かぬフリをして通り過ぎる。あの調子では、ただ訓練後に自分達の成果を確認するだけでは飽きたらず、のこのこと訓練の最中に様子を見に来るかもしれない。もしそうならば、エレンとしても都合がいい。


 午後からの合同訓練にはリヴァイ達も参加することになっていた。
 壁外調査の途中で巨人に隊列をかき乱され、生き残った者達で対処するという仮定の下、数人でチームを組み、時折上空に向かって放たれる信煙弾に従って森の中を移動するというもの。また森の中には巨人の模型も仕掛けられており、発見した兵士は討伐の練習も行う。
 他の兵士らと慣れ合うつもりなど端からないリヴァイ達は三人で組む気でいたものの、同じ分隊内でチームになってはいけないというルールがあったため、仕方なくそれぞれ別班へと組み込まれた。しかし訓練が始まって早々、リヴァイは舌打ちをする。同じチームになった兵士達がとことん使えない≠フだ。
 その兵士達は幾度か壁外調査に参加して生き残ってきた実力者だったのだが、リヴァイの能力と比べると残念ながら随分見劣りしている。訓練の意義としては、実力差も考慮に入れた上でなるべく全員が生き残れるような行動を取るべきなのだろう。しかしリヴァイには彼らと協力して動く気など全くなく、訓練を開始してさほど時間が経たないうちに制止する声も聞かず独断専行へと走った。
 壁外での緊急事態を想定した訓練ならば、足手纏いになる人間と行動を共にするなど以ての外。一人でも多く生き残るのを優先すべきだろうと嘯いて、リヴァイはどんどん森の中を進む。
 その最中、リヴァイは奇妙な集団を見つけた。本来ならば少人数で動いているはずの現在、何故か規定の倍以上の人数で木々の合間を跳んでいる者達がいるのだ。奇妙に思いしばらく様子を窺っていると、その集団は少し離れた所を進む誰かをこっそり追跡しているらしいことが分かった。
「誰を追いかけてやがるんだ……?」
 どうせ真面目に訓練する気もなかったリヴァイは僅かな好奇心と共に追いかけられている方≠ヨと近付く。無論、追う側・追われる側の両方に自分の存在を悟られないよう気配を殺し、距離を保った上で。
 ややもせずリヴァイは目的の人物の姿を視認する。そして訝しげに眉根を寄せた。
「なんであいつが」
 追跡されていたのは見知った顔――エレン・イェーガーだった。しかも周囲には同じチームと思しき人間の姿がなく、たった一人で移動している。
 と、その時。発砲音と共に信煙弾が上がった。しかしエレンもそれを追う側も反応せず、ただひたすら森の奥へと向かう。他の兵士達から遠ざかる方向だ。
 異様な状況に肌がチリチリと焦げ付くような感じを覚えたリヴァイは、これまで以上に気配を殺して彼らを観察し始める。
 ちょうどその頃、エレンを追いかける兵士達は予想外のことに戸惑いを感じ始めていた。
 エレンの立体機動装置のベルトに細工をしたのは彼らであり、こうして集まってきたのも訓練中の無様な墜落を間近で見物するため。しかし先を行くエレンには一向にそんな気配がない。切れ目が浅かったのだろうか、と実行犯が首を傾げる。
 だがそれならば、と彼らは気を取り直した。現在この周辺にはエレン本人と彼に悪意を持つ人間の二種類しかいない。所謂『絶好の機会』というやつだ。装置の細工は失敗してしまったが、まだ自分達がいる。この人数で襲い掛かれば、兵士になって一年程度の子供などあっと言う間に落とせるだろう。
 木々の合間を跳びながら兵士達は目配せし、襲い掛かるのに適した位置取りを始めた。半刃刀身を使う必要はない。ただちょっとぶつかるなり、ワイヤーを歪ませるなりして、エレンの体勢を崩させれば、それだけで相手は勝手に墜落するだろう。そして自分達は他の者にこう報告すればいい。――訓練中の操縦ミスでエレン・イェーガーが事故死した、と。
 飛び抜けた才能もないくせに、エルヴィンに寵愛されるエレン・イェーガーがもうすぐ消える。エレンの実力も真実も分からず、端から知ろうともしていない者達は、くだらない未来を夢想して愉悦に口元を歪める。
 しかし全員の展開を終え、リーダー格の者が合図を送った瞬間、その愚かな幻想はどす黒い赤に染め上げられた。
「――――あ?」
 エレンの左右から飛びかかろうとした二人の首が胴体から切り離される。目標の少年はいつの間にか追跡者達を振り返っていた。しかもその顔に驚きはなく、自分がどういう状況にあるのかはっきりと理解している。
 両手に構えたブレードには赤い液体が付着しており、巨人のものでないそれが蒸気を上げて消えることはない。
 エレンは一度前方に向き直りスピードを上げる。しかしそれは追跡者を振り切るためではなかった。ある一本の大樹にワイヤーを巻きつけるようにしてターンバックを決める。百八十度方向転換をしたエレンの正面には、そのまま突っ込んできた追跡者達。
「人間の皮を被った獣共が」
 そう告げつつ赤く濡れた刃を振り上げるエレンの双眸は、禍々しいほどにギラギラと輝いていた。
 その瞬間、エレンを事故に見せかけて殺そうとしていた者達は悟った。自分達はエレンを嵌めようとして逆に嵌められたのだ。殺意と同量の悪意を彼に向けた時点で自分達の未来は決まってしまっていた。
 抗いようのない力が自分達の首に手を伸ばす。「ばけもの」と仲間の誰かが言った。それを耳にしたエレンが緩やかに口の端を持ち上げる。しかし兵士らが確認できた反応はそれだけ。次の瞬間には少年の持つ刃が兵士達の首を刎ねていったから。
 全員の首を切り落とした後、エレンは自身がターンバックに使った大樹の枝の一本に降り立った。血に濡れたブレードをグリップから外し、地面に向けて落とす。攻撃の構えを解いたエレンはそのままある方向に視線を向けた。
「こいつらは壁外調査前に怖くなって兵団から逃げたってことにするから、お前もそのつもりでよろしく」


 銀の双眸を向けられ、はっきりと自分に対して告げられた言葉にリヴァイはハッとした。それまで木の陰に隠れて目の前の光景に見惚れていたこと≠ようやく自覚する。
 そう、リヴァイは声を掛けられたこと――つまり自分の存在に気付かれていたこと――や、その言葉の内容に驚いて息を呑んだのではない。僅かな時間に起こった惨劇の中、その主役たる少年の姿にただただ魅了されていたのだった。
 普段兵団内で浮かべている薄っぺらな笑みではなく、悪鬼のようにギラギラ輝く銀の双眸と口元に刷かれた酷薄な微笑。圧倒的な立体機動の技量。一瞬で命を刈り取る手腕と躊躇いの無さ。その全てにリヴァイの意識が奪われていた。
 複数の人間を斬ったにもかかわらず己に血の一滴も付着させなかった少年は孤高で、自由だった。何者も彼を奪うこと、拘束すること、穢すことができない。真っ暗な空に浮かぶ冬の月のような、ばけもの。
 恐ろしいのに、目が離せない。
(ああ、そうか)
 これまでリヴァイはずっとエレンが気に入らなかった。兵団で再会してからは特に。その理由を『仲間を怯えさせるから』としていたが、それが全てではなかったのだ。リヴァイがエレンを嫌っていたのは、彼が自身の本質――『化け物である』ということ――を隠していたから。初めて出会った時に見せたあの銀の双眸をへらへらした笑みで隠して人間の中に溶け込んでいた少年を見るのが苛立たしくて仕方なかった。お前はそんな生き物ではないだろうと思った。
 今、リヴァイはエレンの本質を覗いている。エレンはリヴァイに本質を覗かせている。その事実に腹の底が熱くなった。エレンがエルヴィンの執務室にいたのを目撃した時と似て非なる熱を感じながら、口角が自然と上がっていくのを自覚する。
 数多の樹木という遮蔽物がある中でエレンの位置からリヴァイの表情の変化まで子細に読み取れたとは思えないが、銀の瞳を持つ化け物は満足そうに目を細め、立体機動でその場から飛び去って行った。
 遠くで信煙弾の発砲音がする。立ち昇った煙の色を確認し、リヴァイもまたその場から跳んだ。


【6】


「開門、始めーっ!」
 ウォール・マリア、シガンシナ区南側の開閉扉が合図に従い持ち上がって行く。門の前で隊列を組む調査兵団の面々は緊迫した面持ちで出撃の号令を待った。
 ここから先は人類生存圏に非ず。
 リヴァイ達の調査兵団入りから数ヶ月、ついに壁外調査が開始されるのだ。
 隊列の中にはリヴァイ達の姿もある。目的の書類はついに見つけられなかった。リヴァイはいつも通りだが、ファーランは顔を青ざめさせ、イザベルはそんなファーランをからかうことで平静を保っている。しかし逃げ出そうとはしなかった。
 大貴族を脅せるほどの証拠が書かれた重要書類なら、隠す場所も限られている。しかしエルヴィンの周辺をどれほど探しても見つからない。とすれば、残る可能性は本人が常に所持しているということ。三人はエルヴィンがこの壁外調査に書類を持ってきているに違いないと踏み、巨人に注意を向けている隙に奪い取ろうと計画したのである。
 隊列の中で、エルヴィンとその隊は先頭付近に、フラゴン率いる分隊に属するリヴァイ達は後方に配されている。エレンはエルヴィン直属なので、リヴァイ達の位置からその姿を見ることはできなかった。
 轟音と共に開門が完了する。壁の周辺に群がる巨人は壁上の大砲で一掃したとはいえ、悠長に開きっぱなしでいることはできない。先頭のキース団長が声を張り上げた。
「全員、前進せよ!!」
 馬に乗った一団が一糸乱れぬ動きで走り出す。リヴァイ達も馬を駆り、この世の地獄へと飛び出して行った。


 壁外調査一日目はこれまでと同じ矢印型の隊列で、予定していた補給基地へと進んだ。途中、巨人に複数回遭遇したものの、リヴァイ、ファーラン、イザベルは地下街で培った見事な連携を活かし、歴戦の兵士も舌を巻くほどの鮮やかさで巨人を屠ってみせた。
 特にリヴァイの技量は高く、一人で兵士何十何百人分……否、下手をすれば何千人分だと他の兵士らから言われるほど。
 そのため、日中までリヴァイ達を忌避していた兵士達が、当日の夜にはもう彼らに羨望の眼差しを向けるまでになっていた。あまりにも変わり身が早すぎて、リヴァイ達も微妙なその視線がまさか羨望によるものだとは思わなかったのは仕方のないことだろう。
 視線の意味を教えてくれたのは、初めて顔を合わせた兵士――ハンジ・ゾエという性別不明のメガネである。
 補給基地とする城砦跡に辿り着いた一行は巨人が活動しない夜の間に食事や睡眠をとる。全員に食料が配られた後、リヴァイ達がそれを口にしていると、周囲からチラチラ視線を送られていることに気付いた。喧嘩でも売っているのかといきり立つイザベル。しかし三人が周囲を蹴散らす前にハンジが声をかけて来たのだ。曰く、皆リヴァイ達の技量に憧れて、どうにか教えを乞えないかと思っているのだ――と。
「いやぁ、本当にすごいすごい! エレンもあなた達と同じくエルヴィンにスカウトされてきた人間だけど、彼とはまた違ったタイプだね」
「あいつを知ってんのか」
「それはもちろん!」
 リヴァイの独り言のような問いにハンジは頷く。
「私と彼は友達だからね」
「ともだち、ねぇ……」
 どうせいつもの薄っぺらい笑みを浮かべてくだらない話をしているだけなのだろう、とリヴァイは内心でハンジを嘲笑う。エレンの本質はそんなものではない。そして限られた時にしか見せないそれをリヴァイは知っている。
「あー……エレン、友達多そうだよな」
 リヴァイの傍らにいたイザベルが代わりに答えていた。ハンジはレンズ越しの視線を赤髪の少女に向け、「そうそう! 付き合いは広いみたいだよ」と微笑む。
「エレン、人当たりは良いからねぇ」
「人当たりが良いっていうか、俺からすればお人好しって感じだけど」
「そうなの?」
「おう! 初めて出会った時なんか、俺らがエレンに襲い掛かって返り討ちにあったのに、あいつ、そのあと俺達を助けてくれたんだ」
「へぇ」
 ハンジが目を丸くする。「そんなことがあったら、確かにお人好しだって言っちゃうなぁ」と続けた彼女――『彼』かもしれないが――に、イザベルは何故か得意げに「だろ?」と胸を張った。
 しかし会話から外れているリヴァイとファーランはハンジの言い方に違和感を抱く。彼女の言い方はまるでエレンが本当はそう≠ナはないかのように聞こえた。ファーランはエレンの真意を知り、リヴァイはエレンの本質を知っている。もしハンジの言葉の違和感がエレンに対する彼女の認識からくるものならば、この眼鏡の兵士もまたエレンの何かを知っていることになるだろう。
 リヴァイ達の視線に気付いたのか、ハンジが二人を一瞥する。しかし彼女からあえてその件に関して告げる言葉はないらしく、周囲に聞こえるよう少しばかり声を大きくして別のことを言った。
「エレンほどじゃなくていいから、もうちょっと皆と話してみてよ。皆、あなた達と仲良くなりたいんだ。できれば立体機動のコツとか教えてやって。――それじゃあね」
 三人からの返答を聞く前にハンジはひらりと手を振って背を向ける。途端、周囲の者達の目が輝き出す。声はなくとも「教えてくれ!」と期待しているのが丸分かりだ。
「どいつもこいつも立派な向上心をお持ちだな」
「へへっ、俺達って人気者」
「そうだな」
 呆れるようなリヴァイに続き、イザベルとファーランが苦笑する。
「で、教えてやんの?」
「ハッ、馬鹿を言うな」
 イザベルの問いにリヴァイは首を横に振った。
 慣れ合うために調査兵団へと来たわけではない。自分達の目的はエルヴィンから書類を奪うこと。そのためなら相手を殺すことも厭わない。……否、『厭わない』ではない。リヴァイはむしろそれを望んでいる。あの男は絶対に殺す、と。
 地下街で汚水に顔を押し付けられた時の怒りを思い出した。だがその後すぐ、庭から見上げた執務室でエレンを抱きしめていた背中が瞼の裏によみがえってくる。
(ああ、そうだ。あの男は絶対に殺す)
 じわりと滲むリヴァイの殺気に慄いてか、こちらを期待の眼差しで見ていた兵士らが視線を逸らし始めた。ファーランとイザベルですら言葉を詰まらせている。
 それに気付いていても尚、リヴァイは噛み締めるように再び心の中で繰り返した。
(絶対に、殺してやる)


 翌日、巨人が活動する前に動き出すため調査兵団は夜が明けぬうちから補給基地を出発した。
 東の地平線から陽の光が見えてくるのと同時にエルヴィンが号令をかける。
「全隊、長距離索敵陣形に展開せよ!」
 信煙弾が空に向かって打ち上げられ、それに呼応して各班が平原に散らばり始めた。
 エルヴィンが考案したこの新陣形――長距離索敵陣形では、いかに巨人と遭遇せず進軍できるかというものに重きを置いている。これまでの密集した陣形は巨人と遭遇した際に大人数で駆逐することを目的としたものだったが、今回のそれは全く逆の発想によるものだった。兵士を分散させ、信煙弾により状況を伝え合う。索敵能力を飛躍的にアップさせることで、指揮官は荷馬車隊を含んだ部隊全体をいち早く安全な進路へと導くことが可能となるのだ。
 今回、指揮を司るエルヴィンは前衛後方、壁外調査初参加となるリヴァイ達三人を擁するフラゴン班は新陣形でも安全な方に入る荷馬車部隊の側面に位置していた。
 目的となる次の補給基地までは平原が続くので、この新陣形を試すには適したルートと言える。一日目ではなく二日目の今日に新陣形を取ったのもそれが理由だ。
 展開終了後、巨人を見つけた端の班から順に赤い信煙弾が放たれ、それが指揮官にまで伝わると今度は指揮官から部隊の進行方向変更の指示が緑の信煙弾によって順に全体へ伝えられる。大きく広がった一団がまるで一つの生物のように移動するのは実に見事であり、リヴァイも素直に感心してしまうほどだった。
 長距離索敵陣形の展開から四時間半後。すっかり陽が昇ったが、それまでの進路変更は全て無事に成功し、荷馬車部隊の近くにいるリヴァイ達は巨人の姿を見ることすらない。このまま無事に新陣形のテスト初日が終えられると誰もが思い始めたその頃――。
 馬を駆りながらリヴァイ達は空を見上げる。先程まで快晴だった空に黒い雲が広がり始めていた。
 空はあれよあれよと言う間に雲で覆われ、周囲が一気に暗くなる。そして雷鳴が轟いたかと思うと、すぐにバケツを引っくり返したような豪雨が始まった。激しい雨は気温の低下を招き、周囲には霧が発生する。豪雨と濃霧は兵士達の視界を奪い、十メートル先ですらまともに見られない状況になってしまった。
 各班の意思疎通として信煙弾を使用する長距離索敵陣形は、その特性ゆえに雨や霧に対してとても弱い。発案者たるエルヴィンもそれは重々承知しており、出発時は天候に気を付けていたのだが、突発的な雨までは予想することができなかった。
 リヴァイ達のいる場所からずっと南へ下った先、陣形の前衛部分にいるエルヴィンも豪雨の中で顔をしかめる。視野が十分に確保できないこの悪天候の中、兵士が分散しているのはとても危険だ。どこに巨人がいるとも知れず、接近に気付かないまま遭遇してしまえばひとたまりもない。
 索敵・回避に重点を置く新陣形よりも、巨人を排除することを想定した密集型の陣形に戻った方が良いと判断したキース団長とエルヴィンが空に向かって陣形を戻すための信煙弾を打ち上げる。しかし降りしきる雨により数メートルも上がらない。
「くそっ、よりにもよってテスト初日にこの天気とは……ッ!」
 キースが焦る。エルヴィンもまた厳しい表情を浮かべた。
 その斜め後方から馬を寄せてくる人物が一人。
「エルヴィン分隊長、伝令役を飛ばしましょう。俺も各班に陣形を閉じるよう連絡してきます」
「エレン……」
 直属の上官に名を呼ばれ、エレンは恐れ一つない普段通りの笑みを口元に刻む。
「行動は早い方が良い。事態は一刻を争います。どうか指示を」
「わかった」
 エルヴィンはキースを一瞥した後、互いに頷き合ってからエレンに向き直って言った。そしてエレンの他に自分が率いていた班員全てとキースが直接率いていたメンバーの一部を借り受けて他の班への伝令を命じる。指示を受けた者達はすぐさま馬を方向転換させて後方へと走り出した。
 一方その頃、悪天候を嘆く他の兵士らとは異なり、リヴァイはこれを好機と捉えていた。視界最悪の状態ならば自分が持ち場から離れても誰も気付くまい。加えて巨人に遭遇すれば、部隊は大混乱に陥り、エルヴィンにも隙ができるはず。
「ファーラン、この雨に乗じてエルヴィンを襲うぞ!」
 隣で馬を走らせていたファーランにリヴァイは怒鳴る。激しい雨音は他の兵士から怒鳴り声さえ隠してくれた。
 絶好の機会に目をぎらつかせるリヴァイ。しかしファーランは「ちょっと待ってくれ、リヴァイ!」と反対の声を上げる。この悪天候では巨人とどこで出くわすか分からない。迂闊な行動は控えるべきだ、と。
 その反論にリヴァイは顔をしかめた。そんなことを言っていてはいつまで経ってもエルヴィンに勝てない。リヴァイが「巨人は俺が狩るから問題ない」と言っても、ファーランは渋る。ついにリヴァイはファーランを同行させることを諦め、ファーランとイザベルの二人はここに残るよう指示した。エルヴィンの首は自分一人で取りに行く。
 リヴァイの決定に対し、イザベルは自分もエルヴィンの書類を奪いに行くと声を上げたが、リヴァイはそれを断った。ファーランがここに残るなら、イザベルもいた方が良い。二人ならば巨人と遭遇しても対処できるはずだと思ったためだ。
「待ってくれリヴァイ、それなら俺達も一緒に行く。単独は危険すぎる」
 リヴァイの決定を聞いてファーランは必死にそう告げた。しかしリヴァイは「必要ない」とその言葉を切って捨てる。早くあの男を殺したい――リヴァイの頭にあるのはそれだけだ。
「リヴァイ、俺の話を――」
「くどいぞ、決めるのは俺だ!」
 リヴァイは強引に会話を終わらせて二人の元を離れた。やはり雨の所為で他の兵士はリヴァイの動きに気付かない。部隊を大きく迂回する形で馬を走らせ、前衛にいるエルヴィンを目指す。
 だがしばらく進むと急に馬の様子がおかしくなった。リヴァイを乗せた馬は激しく嘶きながら首を左右に振る。何だ……とリヴァイが目を凝らしたその先には――
「ッ!」
 おびただしい『赤』が激しい雨に打たれている。
 リヴァイと同じ制服を纏った人間達が四肢や頭部をもがれ、内臓をぶちまけ、地面に転がっていた。真っ赤な血が大地を染め上げ、雨に流されたそれは妙に大きな窪みへと溜まっていく。その巨大な窪みこそ、この惨状の犯人を示すもの。
「巨人か」
 先行していた班がここで巨人に襲われたのだ。しかも状況から察するに巨人は複数。豪雨と霧のため視界が悪く、兵士らは巨人の接近に気付けなかったのだろう。気付いた時にはもう遅く、彼らは殺されてしまった。
 そして足跡の向きから考えられる巨人の進行方向と、部隊の進行方向。その二つを考えた瞬間、導かれる結果にリヴァイは総毛立った。このままでは巨人とファーラン達がぶつかる。しかも巨人は一体ではない。いくらファーランとイザベルが一緒にいるとは言え、これでは危険すぎる。
「しまった!」
 リヴァイは急いで来た道を引き返した。
 おそらく自分は知らぬ間に巨人と擦れ違っていたのだ。下手に他の兵士らの横を通って気付かれぬようにと大きく迂回したのも、巨人と鉢合わせしなかった原因かもしれない。おかげでリヴァイは無傷だが、代わりにファーラン達が危険に晒されるなら、先に自分が遭遇した方がマシだとすら思えた。
 リヴァイは必死に馬を急がせる。しかしこの悪天候で地面はぬかるみ、所々流れる雨水が川のようになっていた。おかげで馬の速度は一向に上がらず、しかも体力は減っていくばかり。しかしそれでも、やがてぼんやりと雨の中に浮かぶ巨大なシルエットが見え始めた。数はやはり一つではない。少なくとも五体は確認できる。いずれも十メートルを超えており、すでにフラゴンの隊へと襲い掛かっていた。
「ファーラン! イザベル!」
 次々に兵士らが捕食されていく中、リヴァイはなんとか大切な仲間達の姿を視認することができた。二人はまだ無事だ。ファーランとイザベルは戦闘に参加せず、逃げることを優先している。それでいい、とリヴァイは叫んだ。戦う必要はない。お前達でも逃げ切れ、と。
 リヴァイが戻って来たことに気付いた二人がこちらへ駆けてくる。だがその直後、ファーランの馬がぬかるみに足をとられて転倒した。その背にいたファーランも地面に投げ出される。そこへ手を伸ばす巨体。リヴァイは馬の腹を蹴った。しかしここへ戻って来るまでに随分と無茶をした馬はとうとう足を滑らせる。リヴァイは馬と共倒れになる前にその背から飛び降りて自分の足で走り出したが、到底間に合う距離ではない。
「ファーラン!」
 イザベルが名前を叫んだ。と同時に立体機動に移る。ここは平原であり、立体機動に使える建造物などない。しかし彼女は巨人の身体にアンカーを突き刺し、ファーランに襲いかかる巨体を屠りにかかる。この雨の中、操作は困難を極めたが、何とかうなじの近くに取り付くことに成功するイザベル。リヴァイも思わず「よし!」と拳を握った。
 しかしその直後、少女の動きに気付いた別の一体が走り寄って来た。しかも雨でぬかるんだ地面は急な停止など受け入れず、巨体は足を滑らせながらイザベルが取り付くもう一体の巨人へと衝突する。もつれ合いながら倒れ込む二体。その間に赤い髪が――
「ッ! イザベルッ!」
 リヴァイが目を見開く。だが次の瞬間、雨の中で銀の光が走った。
 ズバンッ! と、まるで鞭がしなるような音を立て、走って来た方の巨体のうなじが抉り取られる。それとほぼ同時に巨大な頭部が大きな力で殴り飛ばされたように傾いだ。リヴァイは息を呑む。まるで時が止まった気がした。
 雨の中、ボールを蹴るように巨人の頭部を蹴り飛ばしたのは黒い髪と銀の瞳を持つ若い兵士。彼は邪魔な巨体を蹴り飛ばすと、イザベルの身体を回収する。アンカーを地面に突き刺してガスを吹かしながら猛スピードで跳べば、ぎりぎり彼らを捕まえようとする巨大な手から逃れられた。
 イザベルをファーランの隣に降ろすと、エレンはすぐさま襲い来る巨人に向き直る。ダンッ! と凄まじい衝撃音は、彼が地面を蹴って跳び上がった音だ。普通の人間が出せるようなものではない。エレンは信じられないほどの膂力を発揮して跳び上がると、自分に向かって伸ばされた巨人の腕に着地し、そのまま肩を駆け上がる。顔の側面にアンカーを打ち込んで足場を固定すれば、半刃刀身を構えて二体目の巨人のうなじも深く抉り飛ばした。
 力を失った巨体が倒れる。その頭部に足を掛け、エレンはまた跳んだ。助かったファーランとイザベルが目も口も大きく見開いてその様子を見守っている。地獄のような状態なのに、エレンはまるで舞台上で舞でも舞っているかのようだ。
 あんな轟音が立つほど踏み切れば、脚の組織がぼろぼろになって立てるはずがないだとか、そんなことにまで頭が回らない。ただただ、この混乱の最中に現れた救世主に目を奪われる。
 しかしそれが災いした。イザベルとファーランに別の巨人が近付く。リヴァイもエレンもほぼ同時に気付いた。しかしリヴァイはまだ二人から距離があり、エレンは――……二人に襲いかかる巨人の前に飛び出した。
「…………ぁ」
 その声は誰が発したのか。
 巨大な手がファーラン達ではなくエレンの胴を掴み取り、己の口へと運ぶ。エレンは抵抗するが、圧倒的な体格差から生まれる力に抗えない。そうして銀の目をした化け物のような少年は、三人が見ている中でばくりと巨人の口の中へと消えて行った。
 伸ばされた左腕の一部だけを残して。
 巨大な歯で噛み千切られたエレンの左腕がぼとりと地面に落ちる。
「――――――ッ!」
 リヴァイの目の前が真っ赤に染まった。


 あの後、リヴァイは己が何をしたのか記憶にない。気付けばもうもうと昇る水蒸気の中で立ち尽くしていた。周囲にいる全ての巨人をその手で屠ったのだと仲間達から言われなければ、今も知らないままだっただろう。
 どこか現実離れした意識のまま、リヴァイは一本の腕を回収する。まだ若い男のもの。傷一つない、エレン・イェーガーの左腕。
「リヴァイ……」
「兄貴……」
 この腕の持ち主のおかげで無事だった、そして自分達の所為でこの腕の持ち主を死なせてしまった二人は、真っ青な顔を悲痛に歪める。
 だがそれ以上の言葉が出て来ない。やがて黙り込む三人の元へ、馬の嘶きが聞こえてきた。やって来たのは彼らが標的としていた男、エルヴィン・スミス。
「生存者は……くっ、君達だけか」
 周囲の状況を見回してエルヴィンが顔をしかめる。その瞬間、リヴァイが腕を持つのとは逆の手で半刃刀身を振るった。エルヴィンの乗っていた馬の前脚が切断され、彼は馬の背から投げ出される。
 地面に転がったエルヴィンへリヴァイは近付く。そして、上体を持ち上げた金髪の男に刃を突き付けた。
「ニコラス・ロヴォフの書類を出せ」
「そうか。やはりそれを狙って兵団に入ることを了承したんだな」
 全く感情が読み取れないリヴァイの声。それに対し、エルヴィンも冷静な声音で答える。
 リヴァイは表面上一切の感情が削がれていたが、それは色んな思いが交錯しすぎたがための結果だった。ゆえにエルヴィンの冷静な声にすら激しい怒りを覚える。
 何もかもが腹立たしい。そもそも「壁外で殺す」などと悠長なことは考えずにエルヴィンからさっさと書類を奪っていれば、こんなことにはならなかった。巨人に襲われることも、リヴァイがファーラン達と別行動を取って彼らを危険に晒したことも、そしてこの腕の持ち主のことも。愚かな自分の判断に吐き気がする。
 エルヴィンは僅かに沈黙すると、懐から茶色い封筒を取り出した。
「お前が欲しがっていたのはこれだ」
 リヴァイは無言でその中身を確認する。そして濁った瞳のまま紙面から顔を上げた。
「白紙だ」
「ああ。ブラフだからな。ロヴォフが商会と癒着しているのは明らかだった。しかしその証拠がどうしても掴めない。ならばこうするしかないだろう」
「……はっ」
 未だエルヴィンに刃を向けたままリヴァイは吐き捨てるように笑う。
 自分達を利用しようと企むロヴォフを逆に利用しようとしたリヴァイ達。しかしエルヴィンはその更に上を行っていた。大貴族を相手にハッタリで乗り切ってみせたのだ。大した技量である。そして先程の台詞から、エルヴィンはリヴァイ達がロヴォフに依頼され調査兵団に入ったことまで推測していたらしいことも明らかになった。
「なぜ俺達を兵団に入れた」
「君達からロヴォフを脅す材料を更に得られると思ったから。それと、純粋に戦力として欲しかったから、だな」
「ほう? この状況でもか」
 リヴァイはエルヴィンに刃の先を近付ける。しかしエルヴィンが狼狽える様子はない。
 そして――
「……いつの間に」
 呟いたのはリヴァイ。その首には冷たい金属が触れている。背後から近付いていたミケ・ザカリアス――エルヴィンの腹心――がリヴァイの首筋にナイフを当てていた。
「なるほどな」
 そう言ってリヴァイは半刃刀身をボックスに収納する。エルヴィンが立ち上がった。
「ところで――」
 再び周囲を見回しながらエルヴィンは尋ねる。
「エレンを見かけなかったか。こちらへ伝令を頼んだんだが」
 エルヴィンの問いに三人はびくりと肩を震わせた。だがリヴァイが一歩前に出る。そして差し出したのは、肘から下しかない左腕。エルヴィンの青い目が見開かれる。
「冗談、だろう?」
「そう思うか?」
 低い低い。先程よりも低いリヴァイの声。
 エルヴィンは手を伸ばし、そのさして大きくもない肉を受け取った。今にも動き出しそうなほど瑞々しい少年の左腕。それを胸に抱き、男は膝を折る。
「え、れん……?」
「そうだ。俺達を守って死んだ、エレン・イェーガーの唯一の遺品だ」
 先程までの余裕に満ちた表情は消え去り、エルヴィンは身体を折って、
「……ぁ、ぐ……ぅぇ」
 吐いた。


【interval】


 うなじを削がれ、シュウシュウと蒸気を上げながら消滅していく巨大な肉塊。それがいくつも転がる平原に、生きている者の姿はない。圧倒的な力で何体もの巨人を駆逐した男はすでに仲間達とここを去り、残されたのは人間の死体と消えるばかりの巨人のみ。
 しかし、とある一体の巨人の腹が急にぼこりと盛り上がった。そして盛り上がった肉の頂点から銀色の刃が顔を出す。
 内側から突き立てられた半刃刀身。それがぎこちなく動きながら未だ残る巨人の肉塊を切り開いていく。やがて人一人分の裂け目ができると、そこから人間の手が這い出てきた。右手、右腕、黒髪に覆われた頭部、そして銀の瞳。首から下も健在で、巨人に食われたはずの少年兵エレン・イェーガーが五体満足――否、肘から先の左腕を失った状態で地面に降り立った。
 エレンは巨人の体液に濡れた身体を不快そうに眺めた後、ぐるりと周囲を見渡す。生きている者がいない平原に肩を落とし、自分が他の調査兵団の面々から置き去りにされたことを理解した。致し方ない。きっと彼らはエレンを死んだものと思っているのだから。
「ま、オレが『死んでいる』ことに変わりはねぇんだけど」
 ぽつりと独りごち、銀の双眸で北方を見やる。食料も睡眠も必要とせず、疲れも痛みも感じない、ついでに言えば巨人にも襲われない身体なら、時間をかければ壁内に戻れるだろう。一番の難関は壁上や開閉扉の周辺で警邏中の駐屯兵団だが、百年近く巨人の恐怖から遠ざかっている彼らがまともに仕事をしているとは思えない。立体機動装置も無事なようなので、何とでもなるだろう。
 エレンはもう一度だけ周辺に視線を向ける。平原に打ち捨てられている死体の中に赤い髪も銀の髪も見当たらない。黒髪の小柄な男も、金髪の大柄な男も。
 少しだけ口元が緩む。不快の原因だった巨人の体液も、そうこうしているうちにあらかた蒸発し、あまり気にならなくなっていた。乾き始めた衣服が風に揺られ、パタパタとはためく。ただし欠けた左腕は袖ごと食い千切られたので、芯を失った袖が揺れるということは起こらない。
「……ああ、腕がねぇと立体機動も難しいか」
 欠けた左腕を見下ろしてエレンは呟く。遺品として持って行かれたのか、エレンの左腕はどこにも見当たらなかった。仕方ない、と嘆息する。
「他の腕を借りるか」
 そうしておもむろに、自分と似たような体格の兵士の腕を刃で切断し、己の肘から先がない左腕にくっ付けた。奇妙なことに、死んだばかりの他人の腕はぴたりとエレンの肘から先と接着して、エレンの思い通りにグーパーと動かせるようになる。他人の腕なので皮膚の色や質感が微妙に異なるが、それは最早エレンの腕となっていた。
「保って半年……かな。それまでにオレの腕が見つかればいいんだけど」
 ただ一人として生者のいない平原でエレンはぽつりぽつりと独り言を続ける。自分のものではない身体のパーツは、腐らないエレンの身体と接着しても保って半年。それ以降は腐敗して、とても使えたものではない。
「ま、見つからなきゃ他からもらえばいいか」
 平原に転がる数多の死体。壁内でも、ここほどではないにしろ死者は出る。いくらでも、人は生まれて、死ぬのだ。
 そしてエレンは歩き出す。ただひたすら北へ向かって。


【7】


 父親がナイフで腹を刺されて倒れる姿を、ミカサ・アッカーマンは家の中で見ていた。
 最初、何が起こったのか全く分からなかった。両親の話では、たびたびここを訪れる町医者がドアをノックしたはずだったのだ。しかし現れたのは見知らぬ三人の男達。夫が倒れたのを見て妻――ミカサの母親――が、ミカサを庇うように前へ出る。ミカサの足は自ら動くことをせず、ただ母に押されるまま後ずさるだけだった。
 強盗。人攫い。そんな言葉すら頭に浮かばず、ただひたすら真っ白。母親が強盗達に飛びかかる。逃げなさい、とミカサを振り返って叫んだ。
 その柔い身体に向かって男の一人が斧を構えるのを、ミカサの黒曜石の瞳ははっきりと捉えていた。だが少女の足は動かない。逃げるためにも、母を助けに行くためにも。
「おかあ――「壁内に戻って早々胸糞悪いもん見ちまった」
 男の人の声がした。知らない男の人の声。
 おそらくそれが発せられたのはもう少し前だったのだろうが、ミカサにはその声と、母に襲いかかる男の腕が首ごと斬り飛ばされたのはほぼ同じタイミングに思えた。
 振り下ろされるはずだった斧は全く的外れな場所に飛んでいき、ミカサの母は腰が抜けたのかその場にくずおれる。スカートの裾が赤く染まった。彼女の夫の腹部から流れ出した血だ。
 突然やって来た強盗達は茫然とする女子供など最早気に留めていなかった。否、正確に表現するならば、気に留める余裕さえなかった。一人目の首が切断されて、振り返ったもう一人が「誰だてめぇ!」と怒鳴り散らす。だがその台詞を言い切る前に頭の上半分が消失した。三人目も二人目とさほど変わらない。まともな言葉を吐く前に、片刃の剣に心臓を一突きされて絶命した。
 あっと言う間に三人を屠った男――否、まだ十代半ばくらいの少年は、刃に付いた血を嫌そうに眺めた後、血糊を払って太腿の横につけた奇妙な箱に刃を収める。持ち手と刃は分離できるらしく、持ち手の部分だけを上半身につけたホルダーに引っかけた。
 左の袖が欠けたカーキ色のジャケットの少年はミカサと母と父を順に眺め、血を流す父のところで視線を止める。少年は父に近付くとその場で膝をつき、怪我の具合を確かめてから、地面に座り込んだままの母に顔を向けた。
「まだ助かるかもしれません。これからオレが言う物を用意してください」


 あの日からミカサの家には新しい住人が増えた。一家を強盗から救い、重傷の父の命を何とか繋ぎとめてくれた少年の名をエレン・イェーガーと言う。調査兵団の制服を身にまとっていたが、どうやら彼は兵士ではないらしい。正確には「たぶん除名されてると思う」とのことだったが、詳しい経緯は聞いていない。
 特に帰るべき家はないというエレンにアッカーマン家は喜んで住居を提供し、その礼だと言ってエレンは動けない父の代わりに男手として働いてくれる。最初、母も療養中の父も必要ないと遠慮したが、女一人で家を切り盛りするのは大変であり、結局、エレンの申し出を受けることになった。
 ある日、ミカサはエレンに尋ねた。「どうしてあなたはここにいてくれるの?」と。するとエレンは銀色の目を眇めて小さく笑う。
「暇潰し、かな」
 それは少し寂しくて、ミカサは表情を曇らせた。元兵士の割に傷一つない右腕で頭を撫でられ、その曇りはすぐに晴れてしまったけれど。
「結構長い間一人だったから、ちょっと家族の暖かさってやつに触れたかったのかも」
「エレンは家族が欲しいの?」
「うーん、欲しいってほどじゃ……」
「じゃあ私がなってあげる」
「へ?」
 きょとん、と銀の双眸が見開かれた。きらきら輝く美しい銀色が自分を視界いっぱいに映していることを感じ取って、ミカサは整った容貌を淡く上気させる。
「私がエレンの家族になってあげる。エレンの方が年上だからお兄さんね」
「おー。オレが兄でミカサが妹か……。ああ、いいぜ」
 その答えにミカサはぱっと表情を輝かせた。たとえこの関係すらエレンの言う『暇潰し』であったとしても、今ここに、二人の間には新しい関係が結ばれたのだ。
「まだエレンに助けてもらってばかりだけど、いつかきっと私もエレンを守れるようになる」
「妹なら兄に守られておけばいいじゃねぇか」
「それじゃ対等じゃない。私達は兄妹になったけど、家族だからこそ対等でいたい」
「ふうん。じゃあ頑張ってオレを守れるようになってくれよ、ミカサ」
「うん」
 頭を撫でられたままミカサは深く頷く。早くエレンに追いつきたい、対等になりたいと願いながら。


 エレンはいつも長袖の服を着用している。それは左腕の肘から先の皮膚が違う色をしているからだ。
 まるで切断して他の人間の腕をつけたかのように見えるそれを、なるべく他者に見られないようにしている。ミカサの家族はもう慣れて気にしないが――そもそもエレンは一家の恩人なので大抵のことは受け入れられる――、時折町に下りて買い物をする時などは注意が必要だった。
 ただでさえアッカーマン家は町から離れた山の中で暮らしている。東洋人という他とは少し違った造作を持つミカサとその母の他に片腕の色が違うエレンが加わってしまえば、人目を引くのは必至。不躾な視線を必要以上にもらわないようにするため、エレンが腕を隠すのは必要なことだった。
 しかしアッカーマン一家以外にエレンの腕について知る者が一人。皮膚の色が違うそれを見ても嫌悪を示さなかった町の住人は、アルミン・アルレルトというミカサと同じ年頃の少年だった。
 両親が早くに他界し、祖父に育てられているアルミンは、祖父の蔵書の影響で壁外に興味を持つ珍しい子供である。その所為で町の子供達からは仲間外れにされ、また少女めいた容姿のためからかいやイジメの対象になっていた。
 そんなイジメの現場に偶然居合わせたエレンとミカサ。かつてエレンに『弱い者』として守ってもらい、今はエレンと対等になることを目指すミカサはそれを看過できず、アルミンを助けに入った。その件がきっかけで、三人は交流を深めることになったのである。
 またエレンがアルミンの語る壁外の話を否定せず、それどころか興味を持って言葉を交わすようになったため、アルミンはますます二人に懐いていった。
 アルミンにとってエレンは自分と同じく壁外に興味を持つ『同志』であり、またイジメから助けてくれたミカサが心から慕う相手。そんな彼の腕の色が違っていようが何だろうが、アルミンが忌避するはずなどない。
 しかしエレンがシガンシナ区で暮らすようになってから半年が過ぎた頃、奇妙ながらも穏やかなその生活にある異変が訪れた。
 町の一角にある大樹の木陰でアルミン達は本のページをめくっていた。アルミンの祖父の蔵書の一つであるそれには壁外についての記述があり、王政府から禁書に指定されている。全員それを知っていたが、周囲に人影はなく、堂々と読みふけることができた。
 芝生の上に腰を下ろしたエレンの脚の間にアルミンが座り込み、自分の膝の上で本を広げる。ミカサはエレンの後ろから両肩を掴むようにして覗き込んだり、興味が薄れればエレンの隣に座ってもたれ掛ったりするが、今は前者の体勢を取っていた。
 本のページをめくるのはエレンだったり、アルミンだったり、その時々によって違う。またエレンは博識で、本をめくりながらアルミンが呟く疑問に逐一丁寧に答えたり、逆に「これはどう思うか」と質問を投げかけたりしていた。
 そんな最中、ふとページをめくるエレンの左手に視線を向けたアルミンが青い目を大きく見開いて悲鳴を上げた。
「エレン、どうしたのその指……ッ!」
 アルミンの悲壮な声につられてミカサもエレンの肩口から彼の左手を覗き込む。そして金髪の友と同じように目を瞠った。
「あー……これは」
 エレンは本から手を放し、目の前に掲げて顔をしかめた。
 少し前までエレンの身体の色とは微妙に異なるがそれでもきちんと『肌色』だった左手の皮膚が、所々紫や茶色に染まりつつあったのだ。「ついに壊死してきたか」とエレンが呟く。ミカサは初めて聞く単語に首を傾げたが、アルミンは偶々知っていたその意味を理解して戦慄する。
「だ、駄目じゃないかエレン! そんな呑気な! 壊死って……左手が腐ってきてるってことだろ!?」
「そうだな」
 アルミンが怒鳴り、それを背後で聞いていたミカサが強く肩を掴んでも、エレンは焦りも恐れも見せずに頷く。
「早くお医者さんに診せなきゃ……イェーガー先生、今日はこっちにいるかな!?」
 名医と名高いグリシャ・イェーガーはシガンシナでは子供でも知っている人物である。王都でも引く手数多の彼が中心部ではなくシガンシナを拠点としてくれていることに、住民達は大層感謝していた。ただしグリシャは仕事で中心部に出向くことも多い。数日家を空けることもよくあるという。
 焦る子供に、しかしエレンは「いや、必要ない」と答えた。そしてポツリと付け加える。
「人を生かす職業の人じゃオレの身体は治せねぇよ」
「エレン……?」
「どういうことなの、エレン」
 あまりにもエレンが平然としている所為で子供達も徐々に落ち着きを取り戻す。しかしその奇妙な呟きにアルミンとミカサは戸惑いを覚えた。
 エレンは二人を交互に眺めつつ、どう説明しようか思案する。幼い子供達はその銀色の瞳を見返して、何を言われても受け止めるという覚悟を決めた。
「……誰にも言わないって約束できるな?」
「うん」
「エレンがそれを望むなら」
 問いかけるエレンにアルミンとミカサは神妙に頷きつつも目を輝かせる。大好きなエレンにまた一歩近付けたのだ。秘密を明かしてもらえるという事実に子供達の胸は高鳴る。そんないい話じゃないんだけどな、とエレンは苦笑し、己の身体の秘密を告げた。
 そして――
 話が終わっても、驚きはしたが拒絶しなかった子供達。
 アルミンとミカサにエレンは微笑みかけ、最後にこう尋ねた。
「オレくらいの体格の人間の死体ってどこで手に入ると思う?」


 アルミンもミカサもシガンシナ区とその周辺で死体が容易に手に入る場所など知らなかった。しかしその数日後、事態は一変する。
 高さ五十メートルの壁を超える超大型巨人の出現。外と中を隔てる壁が破壊され、町に巨人がなだれ込んできた。更にシガンシナ区の北側の開閉扉も鎧の巨人に破壊され、扉の穴を塞ぐ手立てを持たない人類はウォール・マリアを放棄。逃げ切ったマリアの住民達はウォール・ローゼに入り、開拓地へと送り込まれることになった。
 混乱の最中、エレンは自分と同じ体格の青年の死体を見つけ、腕を交換することができた。少しだけ肌の色が違う、けれども瑞々しい左腕。その腕と右腕でしっかりミカサとアルミンを抱きしめ、エレンはマリアからローゼへと逃げ切ったのである。
 巨人の襲来はちょうどエレン達が町に下りていた時のことで、ミカサの両親の様子を見に行くことは叶わなかった。立体機動装置もアッカーマン家に置いたままで、そんなエレンが助けられたのは二人の子供の他にアルミンの祖父だけ。
 しかしながらアルミンの祖父はその後、ウォール・マリア奪還作戦という名の口減らしに参加させられ、帰らぬ人となってしまった。
 労働力として開拓地に送られたエレン、ミカサ、アルミン。
 痩せた土地と厳しい労働環境の中でエレンは二人に言った。こんな環境から抜け出すために兵士にならないか、と。


 エレンはいつでも好きな時にこの劣悪な環境である開拓地から抜け出すことができる。しかし今のエレンには守りたいもの――少なくとも死なせたくないと思えるもの――があった。
 ミカサ・アッカーマンとアルミン・アルレルト。まだ幼い子供達。けれども聡明で、エレンの全てを受け入れる気でいる二人。
 せめてこの二人が自力で暮らしていけるようになるまで自分が面倒を見ようとエレンは思ったのだ。これもまた『暇潰し』の一つ。しかしそんな気まぐれで自分を慕う二人の子供の寿命が伸ばせるなら、決して悪くはないだろう。
 食料を必要としないエレンの分の食べ物を分け与えてもいつも空腹を抱える羽目になる二人にエレンが兵士にならないかと諭したのもそれが理由である。このまま憲兵団に見張られながら開拓地で過ごしても未来はない。ならば危険度は一気に跳ね上がるものの、訓練兵団に入って兵士になった方が二人のためになるのでは、と。
 叶うならば安寧が約束された憲兵団に。それがだめでも駐屯兵団に。前線に立つ部隊ではなく技巧という選択もある。選択肢は無限ではないが、開拓地で過ごすよりもずっとマシであることに違いはない。
 エレン自身は鳥籠の中に閉じ籠って本来自分の手にあるはずの自由を放棄する行為はあまり好いていなかったが、慈しみの気持ちを覚える相手には長く生きて欲しいとも思っている。アルミンやミカサが「自分は幸せだ」と思える生活を掴めるなら、それに越したことはない。
 二人にもそんなエレンの気持ちが伝わったのか、従軍可能年齢になったらすぐに訓練兵団へ行こうと頷いてくれた。またその後「エレンも一緒に」という二人の強い願いにエレンが頷かないわけにはいかなかった。
 なお、ウォール・マリア放棄の混乱に乗じて、戸籍のないエレンはミカサの家族として登録している。赤の他人より家族である方が同じ開拓地に移されやすいと踏んだためだ。年齢は――エレンが成長しないことを鑑みて――ミカサの二つ上、名前はエレン・アッカーマン。書類上でもエレンはミカサの家族になったのである。


 エレン、ミカサ、アルミンの三人はいつも一緒に行動するため、開拓地でも三人一組の扱いをされることがよくある。特に年長者たるエレンが世話をする幼い子供二人は共に優れた容姿を持っていたため、要らぬ視線を集めることもあった。
 その身に東洋の血を宿し、絹のような黒髪と黒曜石の瞳を持つ神秘的な少女、ミカサ・アッカーマン。
 金髪碧眼、少女のような柔らかい造作をしつつも、青い双眸には知性の光を輝かせる少年、アルミン・アルレルト。
 まともな女っ気の少ない開拓地において、まだ十を超えたばかりの見目麗しい少年少女は真っ先に身の安全を考えるべき対象であった。
 だがこの開拓地でミカサに手を出そうとする者は一人として存在しない。来た当初は複数人見られたが、そういった不届き者共は手を出そうとした瞬間エレンによって完膚なきまでに制裁を食らったからだ。アッカーマン妹にはアッカーマン兄という絶対的な守護がある。その認識は瞬く間に開拓地全体へ広がり、憲兵団から遣わされた見張りですら容易に無視することができなかった。
 反して、アルミンは少し違う。エレンがミカサに対するのと同じレベルで守っているはずなのに、周囲はそう認識していなかったのだ。
 エレンは兄だから妹のミカサを守る。しかしエレンにとってアルミンは故郷が同じなだけの他人である。そう開拓地の者達は判断した。
 三人の近くにいる者ならばその認識が誤りだとすぐに分かったのだが、あまり接点を持たない者やこの開拓地に来たばかりの者はそうもいかない。結果、性的な要素に餓えた愚か者――エレン曰く、人間ではなく人に似た姿をしているだけの獣(ケダモノ)――はアルミンに『いたずら』をしようと手を伸ばす。
 ただしアルミンが実際に被害に遭うことは、当然のことながら無かった。周囲のアルミンを見る目を知っていたエレンが獣達の愚行を許すはずがない。自分が憲兵団に捕えられて小さな子供達から引き離されては困るため、相手を殺しはしないが、エレンは犯人を未遂で捕まえた後、二度とそんな気が起きないくらい肉体的・精神的苦痛を与えてやった。犯人達にとっては不幸なことに、エレンは長い時間を過ごしてきたので苦痛を与える方法にも造詣が深かったのだ。
 そうやって子供達が清いまま開拓地で過ごし、季節が一巡りした頃。エレンに痛めつけられた者が一定数を超え、愚かしくも団結するという事件が発生した。
 彼らの目的はミカサやアルミンではない。自分達に酷い苦痛を味わわせてくれたエレン・アッカーマンである。
「……お前らどんだけ暇なんだ」
 場所は開拓地の外れにある道具置場。ちょっとした広さを持つその中で、ぼそりと呟くエレンの両腕はそれぞれ背後から別の男に拘束され、喉元には半刃刀身の切っ先が突きつけられていた。周囲を取り囲むのはほとんどが開拓地の人間――とエレンは思っていない。あれは有害な獣だ――であるが、中には一角獣の紋章を背負った兵士の姿も見られる。エレンに剣を突きつけているのも憲兵だ。
 呟いたエレンの頬を別の男が殴りつけた。頭が横に揺れ、身体ごと吹っ飛びそうになる。しかし背後からの拘束によって威力は全て上半身で受ける羽目になった。
「「エレン!!」」
 二つの声が悲鳴交じりにエレンの名を呼ぶ。ミカサとアルミン。エレンが守っているはずの子供達は現在、エレンに対する人質としてこの場に連れて来られていた。
 しくじったなぁとエレンは思う。まさか自分に恨みのある男達と憲兵が手を組み、更にはミカサ達をおびき出すため女まで使うとは考えていなかった。憲兵に買収された女達は無害を装って二人の子供に近付き、エレンが少し目を離した隙を狙って彼らを誘拐したのだ。
 この一年間、男ばかり相手にしていたためか、逆に女を疑うことを疎かにしてしまっていた。悔やんでも遅く、二人を人質にとられたエレンは大人しくサンドバッグになっている。自身の痛みや傷に関しては全く気にしていなかったが、これを子供達に見せることには不快感が伴っていた。
(後ろの拘束を解くのは簡単だ。そのままミカサ達を助けるのも、まぁ難しくない。でも憲兵団のヤツらを逃がすと面倒だな……。どんな難癖付けられるか分かったもんじゃない。せめてあと一人、使える人間がいれば)
 エレンは黙ったまま頭を働かせる。その頬を半刃刀身が浅く切り裂いていった。殴っても怯え一つ見せないエレンに、憲兵がいたぶるつもりで刃を滑らせたのだ。
 しかし生憎、生者ではないエレンにそのような傷など何の意味もない。平然とする相手に焦れた憲兵が次々と容赦なくその身に刃を走らせていった。途端にエレンの身体は血だらけになる。それを見せつけられる子供達が声を枯らしながら「やめて!」と叫んだ。
「ちっ、うるせぇな」
 毒づいたのは男達の一人。そいつが「黙らせろ」と告げると、まずアルミンの隣にいた別の男が拳を握った。直後、黙っていたエレンが叫ぶ。
「そいつらに手出ししたらぶっ殺すぞクズ野郎!」
 あまりにも殺気の滲む声に、アルミンを殴ろうとした男の手が止まる。しかし直後、エレンに浅い傷ばかりつけていた憲兵が動いた。
「ぶっ殺されるのはお前だ」
 台詞と同時に、ずぶり、とエレンの腹部に刃が押し込まれる。内臓をかき回すように刃を捻り、憲兵はニタリと笑った。
「お前を殺したら、あのガキ共で楽しませてもらうよ。ま、飽きたら同じ所へ送ってや――」
 憲兵が最後まで台詞を言い切ることはできなかった。
 背後からの拘束を振り払ったエレンが刃に腹部を貫かせたまま憲兵の眼球を己の指で突き刺している。長い指は脳にまで到達しているだろう。またちらりと銀の双眸が向けられた先、二人の子供が立たされていた場所では、ミカサが黒曜石の双眸を見開き、自分の一番近くにいた男からナイフを奪ってその心臓を突き刺していた。
 銀と黒、二つの視線が絡み合う。一瞬の交錯を経て二人は同時に動き出した。


 アッカーマン姓を持つ一族が特殊な能力を有することを、長い年月を過ごしてきたエレンは知っている。自身の身体を『上手く使う』方法を本能的に悟れる彼らは、おそらく人類という括りの中で最も強い者達だ。
 そしてこの瞬間、その力がミカサの中で芽生えたのだとエレンは実感した。アルミンの危機に加え、目の前でエレンが腹を刺されたこと。この二つがミカサの中にあったトリガーを引いたのだ。
 害獣達を誰一人として逃がすことなく打ち倒した後、エレンはぽんと右手でミカサの頭を撫でた。
 頬に他人の血をつけたままミカサは嬉しそうに微笑む。
 エレンは次いでアルミンを見た。少年は目の前の惨劇に息を呑んでいたものの、エレン達を恐れる素振りは全くない。エレンの視線が向けられていることに気付くと慌てて駆け寄り、「二人とも大丈夫?」と声をかけてきた。
「ああ。お前も怪我はないか?」
「うん。ミカサのおかげで」
「そっか。ミカサ、よくやった」
「ミカサ、ありがとう」
「……どういたしまして」
 その光景はひどく異様で、おぞましいほどに奇妙で、それでいてとても愛おしい。
 シガンシナでの地獄を経てから一年。この日、子供達は修羅を知った。


【8】


 845年の超大型巨人襲来とウォール・マリア放棄以降、兵士を目指す者の数は大幅に増えた。元々は人類の平穏をこれ以上脅かされないため尽力したいという意思からのものだったが、時が経つにつれ、訓練兵団に入る理由は「兵士を目指さず生産者になることは腰抜けのすることだ」という見栄ばかりで中身の伴わないものになっていった。
 そんな風潮が漂い始めた頃、エレン、ミカサ、アルミンの三人は訓練兵団に入団した。ミカサとアルミンは開拓地の厳しい生活から抜け出すため、エレンはその二人を見守るために。目指す兵団もマリア奪還に向けて活動する調査兵団ではなく、憲兵団や駐屯兵団といった安全地帯≠ナある。ただし、もしミカサやアルミンが調査兵団を希望したとしても、それが本人の意思ならエレンに否やはない。特にアルミンは外の世界への憧れがあるため、その可能性がないわけではなかった。
 ともあれ、訓練兵団に入った三人だったが、入団直後から何かと注目されるようになる。
 理由は、まずシガンシナ区出身であること。超大型巨人をその目で見たとあって、噂でしか聞いたことのないウォール・ローゼ出身の少年少女らの多くが話を聞きたがった。
 それからエレンとミカサの関係も彼らの興味を引いた。顔は全くと言って良いほど似ていないが、アッカーマン姓で兄妹として書類に記載されている二人。性格も似ておらず、兄は穏やかで――エレンは自分の『自由』が侵されない限り大抵何でも受け入れたのでこう思われたのだ――、妹は冷ややか。ただし妹の愛情が向けられるのは兄のエレン及び同郷の少年であるアルミンのみという明らかな特別扱いと、アッカーマン兄妹が今期の成績トップを争うほどの実力を備えていることが訓練開始早々判明したことにより、『顔と性格は全く似ていないがどちらもなんだか凄い兄妹』という印象を持たれるようになった。
 またミカサの容姿は飛び抜けて優れているが、エレンとて整っていないわけではなく、銀色の大きな目が印象的な顔立ちに心惹かれる者も若千名。ミカサが隠すつもりもなくエレンへの依存を露わにしたため、エレンを想うならミカサが、ミカサを想うならエレンが障害として立ちはだかると、一部の者達に認識されるようになったのは、入団からかなり早い時期だった。
 そんな二人と行動を共にするアルミンは、実技では平均かそれより下の成績であるものの、座学では非常に優秀。これで三人が注目されないはずがない。
 やがて三人は単に一時的な注目を集めるだけではなく、他の幾人かの技能・性格・容姿などそれぞれ優れた者達と共に、訓練兵から――時には教官達からも――一目置かれるようになっていく。しかしながら決して驕ることはなく、皆が嫌がるような仕事も進んで行うなど、模範的な訓練兵として日々を過ごした。
 さて、『皆が嫌がるような仕事』の中には『訓練中に事故死した人間の遺体を家族に送り届ける準備をする、もしくは集合墓地に埋葬する』というものが含まれている。同じ釜の飯を食った仲間が死亡しただけでも心を痛めるというのに、その亡骸の世話をするというのは中々に辛い。しかしエレン達は進んでその仕事を請け負った。
 だが無論それは責任感などというものからではない。十代半ばの少年少女らの遺体に触れる機会そのものが、エレンにとって必要だったからだ。
 訓練兵団で過ごす期間は三年。つまり最低でも五〜六回、エレンの左腕を取り換える必要がある。エレン達は開拓地にいた時から死体の世話を買って出ており、訓練兵団でも同じく皆が忌避する立場を利用してエレンの左腕として使えそうな死体を漁ることにしたのである。
 死者への冒涜という単語は彼らの中になかった。ミカサとアルミンは他人が死んででもエレンには自分達の傍にいてほしいと思っており、ましてやすでに動かぬ肉塊となった者から必要なパーツだけを拝借することに罪悪感など抱きようもない。エレン本人は言うに及ばず。もし死体にまだ意思があり、腕を持って行くなと怒られたならば従うが、そうでないのだから純粋に有効活用させてもらうだけだ。


 ある時、エレンは取り換えたばかりの左腕を眺めながらぽつりと呟いた。
「面倒だよな……」
 それを聞いていたのは両隣にいるミカサとアルミン。立体機動装置の手入れをしていた二人は視線を上げ、エレンに顔を向ける。
 装置の手入れ等を行うこの部屋には現在三人しかおらず、エレンの呟きを聞いたのも本人とこの二人のみ。廊下側にも部屋の中を窺っているような気配はなく、まずミカサが口を開いた。
「左腕を交換すること……?」
「エレンの左腕って何年もずっと交換してきたの?」
 続いてアルミンも尋ねる。
 エレンは交互に左右を見やり、それから己の左腕に視線を戻して頭を振った。
「いや、ミカサと会うちょっと前、自分の腕を巨人に噛み千切られた。一応周囲を探したんだけど見つからなくて。オレの本来の腕があれば交換なんていう面倒なこともせずに済むんだが……たぶん調査兵団が遺品の一つとして回収しちまったんだと思う」
「探す?」
 ミカサが問う。
 その顔を見返してエレンは小首を傾げた。
「調査兵団に行って?」
「うん」
「となるとお前らとは配属先が別になっちまうのか」
 ミカサとアルミンは憲兵団、駐屯兵団、もしくは技巧への配属を予定している。エレンも同行するつもりだったが、自分の腕の手掛かりを求めて調査兵団に入るならば、二人と別れることになるだろう。
 そう告げたエレンにミカサとアルミンは揃って不思議そうな顔をした。二人は示し合わせたわけでもないのに同じ台詞を口にする。
「「エレンと同じところへ行くに決まってる(じゃないか)」」
 きょとん、とエレンが目を丸くした。「本気か?」と問えば、どちらも首を縦に振る。二人の表情は「むしろそれ以外の選択肢があるのか?」とさえ語っていた。
「まぁお前らがそれで良いなら構わねぇけど」
 エレンは自由気ままである。好きな時に好きな所で好きなことをする。その権利が自分(というか全ての人間)にあると思っており、またその考えを貫くために必要な力も持っていた。
 そうであるため、自身の自由が侵されたり自分に害が及んだりしない限りは他者の意志を丸ごと受け入れる。ミカサとアルミンの決定も同じく。エレン自身の迷惑にもならないし、本人達が望むなら一緒に調査兵団を目指すのも悪くないと思えた。
 エレンの回答に二人は顔を綻ばせる。ミカサは「もっと強くなって私があなたを守る」と言い、アルミンは「二人に置いて行かれないように頑張るよ」と拳を握った。


 訓練兵団への入団から三年の歳月が流れた。
 最終成績順位が確定し、解散式も終了。残るは配属兵科選択のみ。己につけられた成績に対し訓練兵達は悲喜交々だったが、解散式後の夜の少し豪華な夕食の席では笑顔で飲み食いを楽しみ、三年間共に過ごした仲間達との別れを惜しんでいた。
 しかし皆が楽しく過ごす中、浮かない顔の少年が一人。椅子に腰かけてちびちびとコップの中身を消費している面長の少年はジャン・キルシュタインと言う。ジャンは実技も座学も優秀な成績を修め、特に立体機動の技術は周囲から一目置かれている。教官からは『自分に正直な所があり、抜き身すぎる性格が何かと他者との軋轢を生みやすい』という評価を下されながらも、最終成績は第六位。訓練兵団にやって来た時から彼が公言していた通り、十位以内の成績を修めて憲兵団への入団権を見事勝ち取った。だと言うのに、今のジャンからは明るい未来への高揚を感じ取れない。
 それにはある理由があった。
 訓練兵団の最終成績上位十名は、第一位ミカサ・アッカーマン、第二位ライナー・ブラウン、第三位ベルトルト・フーバー、第四位アニ・レオンハート、第五位エレン・アッカーマン、第六位ジャン・キルシュタイン、第七位マルコ・ボット、第八位コニー・スプリンガー、第九位サシャ・ブラウス、第十位クリスタ・レンズ。入団時からずっとトップを争っていたアッカーマン兄妹のうち、兄のエレンの最終成績は第五位という――彼の本来の能力からすれば――とんでもない低迷具合だった。
 そして、その低い成績≠フ原因がジャンだったのだ。
 最終試験の最中、崖を登る途中でジャンは突風に煽られバランスを崩した。このままでは墜落するというその時、助けたのがエレンだったのである。
 ジャンの窮地を救ったことでエレンは複数名に追い抜かれることとなり、順位は低下。しかしエレンは恨み言の一つすら吐き出すことなく、ジャンの無事を確認するとさっさと先へ進んでしまった。
 一応その時の礼は告げているし、たとえエレンが本来あるべき成績順でなくとも憲兵団への入団権を得たことに変わりはない。またジャンはエレンの助けがなく自身が十位以内に入れていなくても良かったとは絶対に言わない。けれども普段は自信家かつ時に露悪的に振る舞いつつも根が真面目なジャンは、公表された成績を見て呑気に笑うことなどできなかった。
 ジャンが顔を上げると、視線の先ではいつもの三人組――エレン、ミカサ、アルミン――を中心にして人の輪ができている。エレンがジャンを助けたことを知る者は上位の数名のみで、それ以外の面々はエレンの成績を不思議がっていた。
「エレン、最終試験の結果だけど、あれどうしたんだ?」
「そうそう。てっきりミカサとワンツーフィニッシュだと思ってたのに」
 口々に尋ねる同期達にエレンは苦笑を浮かべる。
「あーあれな。途中でこけた。そうだよな、ミカサ」
 話を振られたミカサはしばしエレンを見つめ、それから静かに「……うん。エレンは崖の近くで転倒してタイムロス」と頷いた。
 ミカサの回答に三人を取り囲む者達は驚いたり笑ったり呆れたり。けれども「珍しいこともあるな」と言いながら、疑う様子はない。少し離れた所にいるライナー、ベルトルト、アニは物言いたげにエレンを一瞥したが、特に何か発言することはなかった。
「でも十位以内に入れて良かったね。エレンとミカサは憲兵団に行くんでしょう? エレンの実力なら、もしその転倒で十位以内に入れていなかったとしても、駐屯兵団に行ったってすぐ憲兵団からお呼びがかかりそうだけど。アルミンは技巧かな?」
 成績上位十名は憲兵団へ行くものだという『常識』から、同期達の一人が確認する。しかしその問いに対し、エレン達はジャンを含む訓練兵達の度肝を抜く回答を口にした。
「オレは調査兵団に行くよ」
「私も」
「僕もね」
 その瞬間、皆が一斉に「はあ?」やら「なんで!?」と声を裏返した。
 ジャンとは違い、三人とも自分から配属を希望する兵団について公言したことはない。しかしだからこそ、最も自分にあった兵団≠ヨ行くものだと皆が思っていた。しかしここに来てまさかの『一番有り得ない選択肢』を口にしたエレン達。周りは驚いて当然だ。
「なんでって……」
 周囲の反応に圧倒されつつエレンはミカサとアルミンを一瞥し、それから皆に向き直って真っ直ぐな声で告げる。

「取り返したいものがあるから」

 シン、と辺りが静まる。エレンのその言葉の意味を皆が考えた。
 数秒して、徐々にハッとし始める。ジャンもまた息を呑んだ。
 エレンの台詞を聞いて皆が思ったのはただ一つ。――エレンは巨人からウォール・マリアを奪還するつもりなのだ。そしてきっといつかは巨人を絶滅させ、外の世界へ。
 離れた所で聞いていたジャンは胸中で「馬鹿らしい」と一笑した。しかし大きく声に出すことはできない。それは空気を読んだからではなく、心のどこかでエレンの言葉に胸を打たれたからだった。
 他の面々も多かれ少なかれ思うところがあったらしい。強く拳を握る者――希望する兵団を変えるつもりなのかもしれない――、気まずそうに目を背ける者――自分の実力と現実を理解し、行くべき兵団を決めたのだろう――、純粋な気持ちで「頑張れ!」「エレンはすごいな」と称賛する者、等々。何にせよ、エレンとその言葉の影響力の強さを知らしめるものとなった。

 たとえエレンにそんなつもりは微塵も無かったとしても。

 ジャンや他の訓練兵達は知らない。エレンが調査兵団行きを決めた理由も、その決意の軽さも。
 そもそもエレンは最初から自由だ。巨人の存在などほとんど意に介していない。エレンが望めば、彼一人だけで世界中のどこへでも行ける。アルミンが見せてくれた本にあった炎の水も氷の大地も砂の雪原も海も、何だって見に行ける。エレンを邪魔できる者は一人もいない。全て自由に、思うがままに。
 皆の勘違いをエレンとその傍らの二人はきちんと気付いていた。しかしあえて訂正して墓穴を掘るのも煩わしく、心の中で「嘘は吐いていない」と言い訳をして口を噤む。
 こうして様々な思いを孕みながら夜は更けていった。


 解散式を終えても配属兵科が決定するまでは訓練兵としての仕事が割り当てられる。翌日、エレンが属する固定砲整備4班はその名称通り壁上の砲台整備のため、午前中からマリアとトロスト区を隔てる壁の上にいた。
 固定砲整備4班のメンバーはエレンの他にコニー、サシャ、ニーナ、サムエル、トーマ。先の二人は上位十位以内の成績を修めたため憲兵団に、残り三人は駐屯兵団に行く……かと思いきや、昨夜のエレンの言葉に胸を打たれ、皆、調査兵団を志望すると言い出した。
「お前らが決めたならそれでいいよ」
 エレンは皆を順に眺めながら告げる。
 三年間共に過ごし、五人は身体的にも精神的にも成長した。一方エレンの肉体は成長という現象とは縁遠いものであるため、彼らと初めて顔を合わせた頃から何も変わらない。しかし五人がエレンを見る目は未だにエレン・アッカーマンを年齢的にも技術的にも己の『上』にあるものとして認識しているそれだ。『親』ほどではなくても『兄』に対するような目をエレンに向ける彼らは、与えられた一言にほっと胸を撫で下ろした。
 エレンは彼らの決意が昨夜から続く勘違いによるものだと理解していたが、それ以上は何も言わない。すると、エレンの一言で改めてやる気に満ちたらしい面々は気分を高揚させたまま本日の仕事に取り掛かる。
 しかしその直後、エレンの背後――マリア側から突如として閃光と爆音が響き渡った。はっとして振り向いたエレンの視界に飛び込んできたのは、すぐそこにある超大型巨人の顔。皮膚を持たない筋肉が剥き出しになったそれを見つめてエレンは叫んだ。
「固定砲整備4班! 立体機動に移れ!」
 班員へ指示を送ると同時に自らもアンカーを打ち出して跳躍する。迅速な行動は巨人に対する恐怖も憎しみも『普通の人間』よりずっと薄いからだろう。余計な感情に支配されなければ、今の己の立場にとって最も適切な一手を躊躇いなく打つことができる。
 エレンの声にハッとして五人が動き出した。おかげで超大型巨人が身体から蒸気を吹き出した時も訓練兵らは何とかそれに巻き込まれずに済む。
 それを横目で見届けながらエレンは装置のグリップを握った。すでに刃はセットしてある。狙うは超大型巨人のうなじだ。
 巨大な腕にアンカーを突き刺したエレンを振り払うためか、それとも壁上の固定砲を破壊するためか、超大型巨人がその巨大な腕を振るって壁上の砲台を薙ぎ払う。エレンは見事な体捌きと立体機動でそれを回避すると、一度回収したアンカーを超大型の後頭部に放った。
(時間勝負だ)
 胸中で告げる。
 五年前のように超大型巨人が開閉扉を蹴破るのが先か、それともエレンがそのうなじを削ぐのが先か。ガスを思い切り吹かし、最短最速で目標へ飛ぶ。そして、捉えた、と思った瞬間。
「――――ッ!」
 超大型巨人の身体から大量の蒸気が放たれる。エレンの身体は容赦なくそれに巻き込まれ、うなじを削ぐどころか後方へ吹き飛ばされた。巨大な後頭部に突き刺していたアンカーも抜けて、エレンの身体は空中に取り残される。
「くそッ!」
 エレンは毒づいた。すぐに次のアンカーを放つが、間に合わない。
 うなじを狙う相手が離れた僅かな隙に、超大型巨人は五年前と同じく頑強な壁の中で唯一の弱点である開閉扉をピンポイントで蹴破った。その後でエレンが再びガスを吹かして巨人に近付く。今度こそうなじを削ごうと半刃刀身を振るったが――。
「消えた……?」
 破壊された扉と壁上の固定砲、そしてマリア側の大地に一対の巨大な足跡を残して、超大型巨人は忽然と姿を消した。
 大穴が空いた扉からはすぐに巨人が入ってくる。エレンは壁上に戻り、地獄の再来に顔を青くする班員達へ冷静かつ強い声音で告げた。
「戻るぞ。本部に状況を報告する。急げ!」


 超大型巨人によって壁に穴を開けられてすぐ、兵士達は住民の避難とそれが完了するまでの防衛戦を開始した。
 不運にも対巨人戦の専門家である調査兵団は同日の朝に壁外調査へ出発したばかりであり、トロスト区内に侵入した巨人の対処は主に駐屯兵団が執り行う。圧倒的に人手が足りず、解散式を終えたばかりの第104期訓練兵団も主に補給物資輸送や情報伝達の係として戦場へ駆り出されることとなった。
 ただし第一位の成績を修めていたミカサと、最終成績は第五位ながらも彼女と同等の力を有するとされるエレンは、駐屯兵団の精鋭と共に避難中の住民を巨人から守る後衛部隊に加えられた。
 これまでの戦歴が物語るように、人類は巨人には勝てない。壁を超えられてしまえば、人は更に内側へ逃げ込むしか手段がないのだ。そしてなるべく多くの人間が逃げ切れるよう、兵士はその命を賭して『時間稼ぎ』をする。トロスト区で始まった戦いも後に『トロスト区防衛戦』と呼ばれるようになるが、実際には防衛ではなく撤退戦もしくは単に敗走と言った方が正しいものだった。
 数多の兵士がその命を散らす中、なんとか住民の避難が完了する。そしてトロスト区にいる全兵士へ撤退の命令が出された。
 しかしエレンとミカサは素直にその指示に従って壁に登ることはなかった。アルミンがまだ町の真ん中にいるのだ。避難するのは彼の安否を確かめてからでなければならない。
 巨人に襲われないエレンだけでアルミンを探しに行っても良かったのだが、ミカサがそれに反対した。よって二人でトロスト区北側の開閉扉前から巨人が徘徊する中央部に向かう。そして、本来ならばすでに撤退しているべき同期達が立体機動に必要なガスの不足で壁を登れないという事実を知った。
 補給基地には巨人が群がり、中にも三〜四メートル級の巨人が入り込んでいるものと思われる。補給基地からのガスの輸送がなくなった今、合流した同期達――五体満足なアルミンを含む――のガスの残量は乏しく、どうやっても壁まで辿り着けない。
「精々補給基地に飛び込めるかどうかってところだな……」
 アルミンのガスボンベを叩いて残量を確認したエレンはそう独りごちた。
 合流した104期の面々は、現在、他の建物より少し高くなった屋根の上に集まっている。決して広くはない屋根一つで収まってしまえるほど同期の数は減っていた。
 エレンの呟きを聞いたライナーが顔をしかめてエレンに尋ねる。
「その言い方……。お前まさか補給基地に向かう気か?」
「巨人に殺された兵士達からガスを拝借するよりはまだマシな方法だろ。壁を登るには、どちらにせよガスが要る。このままここに突っ立っててもジリ貧だ」
 ライナーは押し黙る。エレンの言葉は正しかった。しかし巨人がいると分かっている場所へ飛び込んでいくことは自殺行為に等しい。補給基地に辿り着く前に幾人も死に、また補給基地へ辿り着いても無事にガスを補給して壁に向かえる人間は決して多くないだろう。
 エレンはライナーのしかめっ面を一瞥して続けた。
「オレが一人でここと補給基地を往復するって手もあるんだが……それだと時間がかかり過ぎる。おそらく全員にガスが行き渡る前に巨人が押し寄せて来るな」
「お前一人で往復? それこそ自殺行為だ。行かせられん」
 エレンの特性を知らないライナーがますます眉間の皺を深める。単なる技能だけでなく仲間を守るために必要な心根をも持ち合わせた男の言い分にエレンは微苦笑を浮かべた。
「じゃあこうしよう」
 補給基地を一瞥し、それから同期達に視線を戻したエレンが言う。
「各自、好きな方を選べ。決死の覚悟で補給基地に突っ込むか、それともここで万に一つもあるか分からない奇跡を待つか。ちなみにオレは前者だ。――ミカサ、アルミン、行くぞ」
 同期達の答えを聞く前にエレンは補給基地がある方角へ向き直り、跳んだ。その背にアルミンとミカサも続く。残された者達は逡巡したが、僅かな間を置いてライナー、ベルトルト、アニが屋根から跳び出し、次いでコニーとサシャが出る。誰も彼も決して良い表情ではなかったが、この場に留まっていても奇跡など起きないことを、理路整然と思考して、もしくは本能で、はっきりと理解していた。
「行くしか、ねぇのか……!」
 エレン達が向かった先を見つめ、屋根の上で声を掠れさせたのは、ジャン・キルシュタイン。ジャンもまたこの場にいても無意味だという結論を頭の中できちんと出していた。しかし……と、己の背後にいる者達を振り返る。
 ここにいる全員が現状を正しく理解していた。だが理解することと感情は違うのだ。助かりたければエレン達に続くしかない。けれどここから跳び出せば巨人と遭遇するのは必至。食われるかもしれない、殺されるかもしれない、という恐怖はまだ若い少年少女らの足を竦ませるのに十分過ぎた。
 残るメンバーは自分の意志だけで一歩踏み出すことができないでいる。自分一人では死の恐怖に立ち向かえない者達だ。彼らが動くには誰かの言葉が必要だった。そして、ジャンはそのことすら理解できてしまっていた。
「ジャン……」
 傍らにいたマルコがその名を呼ぶ。そばかすの浮いた柔和な顔には厳しい表情が貼り付けられ、同じことを考えているのが分かった。かつて、ジャンは弱いから弱い人の気持ちが分かる、と言ったのはこの友である。
 何をすべきか。何をしたいか。
 選べ、と言ったエレンの声がよみがえる。
 ジャンは瞑目し、息を吐く。そして再び瞼を上げた。
「全員、俺に続け。生き残るぞ!」
 そこに僅かでも希望があるのなら。ジャンは声を張り上げ、マルコと共に跳んだ。その背に仲間達を引き連れて。


 104期の面々が補給基地の窓を突き破って中に転がり込む。予想通り生き残った人数は決して多くない。特に多くの訓練兵に発破をかけたジャンは苦い表情を浮かべる。
 補給基地での任務に当たっていた者達は無意味なバリケードの中ですっかり怯えてしまっており、ふと視線を転じれば銃で自殺を図った若い男もいた。彼らが任務を放棄した所為でどれだけの人間が死んだのか……考えても詮無きことだが、苛立ちを覚えずにはいられない。
 しかし到着した者達の誰かが声を荒らげる前に、割れた窓から差し込む日光が遮られた。暗くなった室内で背後の窓を振り返った一同が息を呑む。
「巨人がっ!」
 窓に指をかけ、こちらを覗き込む十〜十五メートル級の巨人。ガスはすでに尽き、成す術もない。
 折角ここまで来たのに、と誰かの絶望に満ちた呟きが聞こえる。だが立ち竦む者達の合間を縫って一つの影が走り抜けた。
 窓に手を掛けている巨人の指を躊躇いなく踏み台にして外に飛び出したのはエレン・アッカーマン。巨人の目はエレンに向かない。未だその焦点は建物内にいる若い兵士達に向けられている。その隙にエレンは立体機動を使わず己の膂力のみで巨人のうなじを削ぎ落した。
「うそだろ……!?」
 嘘のような、まぎれもない事実。うなじを削がれて蒸発し始めた巨人の髪を掴み、屋内に向き直ったエレンが叫ぶ。
「外の巨人は何とかしてやるから、お前らは中の巨人を片付けろ!」
 そしてエレンの姿は皆の視界から消えた。アンカー射出の音が聞こえたのでまだ多少ガスは残っていたようだが、それでも少ないことに変わりはない。けれどエレンは時間稼ぎを約束して二体目の巨人の元へ向かった。
 エレンが巨人に狙われることはない。巨人はエレンを『生きている人間』として認識しないからだ。ゆえにこのような無茶もできる。そして彼の無茶が作ってくれた僅かな時間を有効活用するのが、この場に残された者達の務め。最初に行動を起こしたのはエレンの特性を知っている二人の少年少女の一方、アルミンだった。
「皆、聞いて。僕に考えがある」
 その声に引き寄せられて、全員の視線がアルミンの方を向いた。彼が告げたのは、基地内に侵入した比較的小型の巨人を駆除する方法。一か八かの作戦だがそれ以外にやり様がなく、詳細を聞いて全員がすぐに行動を開始する。ただしその間際、長身の大人しそうな青年――ベルトルト・フーバーが、窓の向こうを駆け抜けるエレンの姿を偶然目撃した。ベルトルトは自分が見たものに唖然とする。
 ――巨人がエレンを狙っていない。
 何体目かの巨人を屠ったエレンと、そんなエレンが目の前を通り過ぎても気に留めない巨人達。その光景の異様さに、ベルトルトは息を呑む。そしてひっそりと二人の『仲間』にそのことを伝えに行った。


 アルミンが考え出した作戦は成功し、補給基地まで辿り着いた訓練兵達は全員無事に壁上へ退避することができた。シガンシナ区の時とは違い、鎧の巨人が現れることはなく、トロスト区北側の開閉扉――ウォール・ローゼの広大な大地に繋がる門――は破られずに済んでいる。
 人類はトロスト区のみを放棄し、五年前のように更に内側の壁の中へ人々が殺到することだけは避けられた。もしトロスト区北側の開閉扉すら破壊されていたら、人類は巨人ではなく人間同士で争い、そして滅びへと向かっただろう。今回の被害も甚大だったが、それを回避できただけでも良しとしなくてはならなかった。
 戦後処理には数週間の時を要し、そして解散式を終えていた訓練兵達にはその分だけ遅れて配属兵科決定の日が訪れる。


【9】


 訓練兵が成績順に一同整列している。彼らの正面には一段高くなった舞台があり、その中央に一人の男が立っていた。
 男の名はエルヴィン・スミス。かつて調査兵団の分隊長だったエルヴィンはすでに団長となっており、今夜は勧誘の演説を行うためここに現れたのである。
 訓練兵から見ることができない舞台袖にはエルヴィンの護衛兼訓練兵の品定めとしてリヴァイ、イザベル、ファーラン、ハンジ、モブリットが揃っていた。五年以上前から調査兵団に属している彼らもエルヴィンと同じく立場が変わり、リヴァイは兵士長に、イザベルとファーランは彼が率いる班のメンバーになり、ハンジは分隊長の地位を拝命して副官にモブリット・バーナーがついた。
 エルヴィンは舞台の上で調査兵団の意義と必要性、それから死亡率の高さまでも説明し、それでも自分達と共に戦う意志がある者はこの場に残れと告げる。
 陽も暮れて周囲には松明が焚かれている。その火は主に舞台を照らし出しており、訓練兵達からエルヴィンは良く見えたが、エルヴィンから訓練兵達の顔を細かく判別することはできない。演説が終わった後、調査兵団以外を志望する者達は影法師のようにぞろぞろと動き始め、そして闇の向こうへ消えていった。
 残ったのは二十数名。その立ち位置から、成績上位者の大半が調査兵団を希望していることを知り、エルヴィンは内心で驚いた。
 憲兵団に入ることができる上位十名のうち、去って行ったのは四位と七位。四位の小柄な少女は静かに、そして七位の少年は六位の少年と顔を見合わせ互いの健闘を祈るように拳を突き合わせた後ゆっくりと去って行った。
(一体この子達に何があったのか……)
 例年と比べて明らかに入団希望者の質が高く数も多い。トロスト区での絶望を経験した彼らは巨人という存在をその肌で感じ、人一倍恐怖は大きいはず。それでも調査兵団に入ることを選んだのは、彼らを突き動かす何かがあったからだろうか。
 エルヴィンは半分影に沈みつつその場に残った者達を見回して小さく頷く。そして心からの言葉を発した。
「君達に敬意を」
 一つの兵団をまとめるトップからの言葉に訓練兵達がはっとして空気を揺らす。エルヴィンは大きく息を吸った。
「心臓を捧げよ!」
「「「「「「「「はっ!」」」」」」」」
 まだ若い少年少女らが一斉に敬礼する。公に心臓を捧げることを意味するこのポーズは、人類のために巨人と戦い続ける調査兵団に最も似合いのものだ。
 エルヴィンは新たな仲間をもう一度見回した後、踵を返して舞台袖へ向かう。調査兵団団長がここを去れば、若い兵士らの肩の力が抜けた。そうして舞台袖にエルヴィンが消える直前、その視界の端に第一位の少女が仲間の元へ駆けていく姿が映った。少女が静かな声で相手の名を呼ぶ。

「エレン」

「……っ」
 エルヴィンの足が止まった。小さな声が妙にはっきり聞き取れたのは、その名がエルヴィンにとって非常に重要なものだったからだ。慌てて振り返れば、第一位の少女――さすがにダントツトップの人間なのでエルヴィンも名前は知っていた。ミカサ・アッカーマンと言うらしい――が欠けた第四位の場所で立ち止まる。その手が伸ばされた先は第五位の少年。少女にしては長身のミカサの陰に隠れてその顔を見ることはできないが、「あなたは私が守る。そして絶対に取り返そう」と語られた少年はその言葉にゆっくり頷いているようだ。
 エルヴィンの鼓動が早まっていく。舞台袖からじっと二人を見つめれば、異変を感じたリヴァイ達も同じ方向を見ようと首を巡らせる。だが少年の元にもう一人の訓練兵が近寄った時、エルヴィンは肩を落とした。
 ミカサが少年の右手をしっかりと握りしめ、もう一人の訓練兵が少年の左手を同じように握りしめたのだ。
 エルヴィンが求める人には――エレン・イェーガーには――左腕が無い。ゆえにこのような光景は生まれるはずもない。エルヴィンはリヴァイ達に「すまない。何でもないんだ」と言って歩き出した。
 その後、兵団の本部内で入団希望者のリストを確認したところ、あの第五位の少年の名がエレン・アッカーマンということを知った。齢は十七。第一位のミカサ・アッカーマンとは兄妹の関係にあるとのことだった。
「……そうだな。彼であるはずがない」
 そもそもエレン・イェーガーが生きており、なおかつ(何を思ったか)訓練兵団にいたとすれば、調査兵団団長を辞して訓練兵団の教官になったキースがエルヴィンに一報を寄越すはずだ。それが無いということは、エレンは『エレン』ではないということ。
 リストを執務机の上に放り出してエルヴィンは両目を手のひらで覆う。キース・シャーディスがエレン・アッカーマンの顔を見て驚きつつも、左腕があることと年齢が一致しないことから『エレン・イェーガーとは別人である』と判断したその経緯を知らないエルヴィンは、椅子の背に体重を預けて深く深く溜息を吐いた。
「彼は死んだんだ」
 両目を覆う手の隙間からちらりと一瞥したのは、執務机の一番下の引き出し。鍵がかかるそこには、ある物が大切に保管されている。六年経っても全く朽ちる様子を見せないそれ≠ノ、ごく微量の、そして酷く異質な『希望』を捨てることができないエルヴィンは、その希望を己に捨てさせるように言葉を重ねた。
「エレン・イェーガーはもういない」

* * *

 エレンが自身の肉体の特異性を大っぴらにしないのは、壁の中という限られたコミュニティから異物として排除されないように――もっと言えば『異分子狩り』に遭わないように――するためである。しかしエレンはいざとなれば壁外へ逃げ、ほとぼりが冷めるまで何年でも何十年でも何百年でも待つことができる。よって秘密を抱えているが、その秘密を絶対に守り通そうなどとは思っていない。
 またこれまでの経験上、『エレン・イェーガーが死んだ』と思っている人間と再会した際、エレンが「あんた誰だ?」ととぼけるだけで良く似た他人だと判断してくれることが多かった。普通は死んだはずの人物が当時から成長していない姿で現れるとは思わないのである。エレンから働きかけなければなおのこと。
 勘が良い者は自分がかつて言葉を交わしたエレン本人だと気付くこともあるが、その場合、大体は黙ったまま騒ぐこともないので、エレンも普通に付き合った。
 このためエレンは特に姿形を変えず、名前すら『エレン』のまま調査兵団に戻ってきたのである。
 そして今回もいつも通り。資料で『エレン』の名を見たはずのエルヴィン――場合によってはリヴァイも――から目立った反応はなく、エレンは彼らの直属でも何でもない班へ組み込まれることとなった。
 調査兵団に入団したエレンの配属先はレゾ班。ハンジ・ゾエ分隊長配下、レゾ・インス率いる班である。レゾは今年八年目の中堅。そして――
「生きてたのか」
「どーも」
 少し目を丸くするだけにとどまったレゾと、声は小さいものの上官ではなく同僚に対する軽い挨拶を返すエレン。二人は手を差し出し、軽く握った。レゾにはそれで十分だったようで、エレンにだけ聞こえる声音で「久しぶり」と告げると、あとは他の班と同じく顔合わせを行った『新兵』に対し、班長として振る舞い始める。
 レゾ・インス。赤茶色の髪は五年前から変わらない。たった一年間だが調査兵団で共に戦った同期は随分と『勘が良い者』であるらしく、エレンは自分に一瞥を寄越す『班長』にそっと口の端を持ち上げた。
「これからよろしくお願いします、レゾ班長」
「ああ。よろしくな、エレン」


 エレン・イェーガーが他の兵士とは少し違うことを、レゾ・インスは初めて顔を合わせた時から何となく感じ取っていた。
 同じくらいの年齢であるにもかかわらず訓練兵団を経ずにエルヴィン分隊長が直接スカウトしてきたという境遇からではない。たとえエレンが訓練兵団を一緒に卒業した人間であったとしても、レゾが彼を他と同じものとして認識することはなかっただろう。
 第一印象はその後も然して変わることなく、エレンに難癖をつけて行き過ぎた嫌がらせをしていた者達が徐々に姿を消していっても、レゾは大して驚かなかった。直接手を下したのが本人であれ、彼を特別に思う別の人間であれ、そういう状況を平然と受け入れるエレンは確かに『特別』で『特殊』で『異様』だった。
 他とは違うエレンだったが、だからと言ってレゾが彼を忌避する理由はない。むしろ少し話してみれば嫌味も媚びもないあっさりとした性格で、時に片鱗を見せる自由気ままな姿には羨望さえ覚えた。
 つまるところレゾはエレン・イェーガーという存在を気に入ったのである。しかし出会いから一年後、エレンは壁外調査の最中に命を落とした。公式的には、遺品はないとされている。豪雨の中、複数の巨人と遭遇すれば仕方のないことだろう。
 本人が死ぬところを見たわけではなく、また遺品すらない所為だろうか。レゾはエレンの死亡を聞いても大きな衝撃を受けることはなかった。……の、だが。
 あの日から六年の歳月が過ぎ、こうして『エレン・アッカーマン』を新たな部下として迎え入れたレゾは、初対面の時に抱いた印象の原因も、『エレン・イェーガー』が死亡したと聞かされた時の衝撃の低さの理由も、同時に理解するに至った。
(こんな『目』をしている存在を俺はエレンしか知らないし、こんな『目』をしている存在が普通の人間と同じように生きて死ぬなんて思えなかったんだ)
 だから七年前の出会いの時点でエレンの本質を表す銀の双眸に気付き、彼が――おそらく根本的に――他とは違うことを悟った。そして心のどこかでエレンは死んでいないと思い、こうして六年経った後に変わらぬ彼の姿を見てもすぐに本人だと確信し、なおかつ『驚愕』ではなく『納得』したのだ。
 先輩兵士らと共に訓練に励むエレンの姿を眺めながら、レゾは自身の変化をそう考察する。
 そして、それで終わり。
 自分に関して考察を終えても、そこから更に何かをしようとは思わなかった。エレン本人に望みがあるなら、昔の好として手を貸すのも吝かではないが、あちらが特に何かを望まないのなら、レゾからあれやこれやとするつもりは微塵もない。
 なお『あれやこれや』の中にはエレンが昔の姿のまま戻ってきたことを周囲や上層部に告げることも含まれている。もしレゾが報告し、それが認められれば、エレンがどうなるかは薄々理解していた。そしてレゾは折角戻ってきた仲間をあえて針のむしろに座らせるような加虐趣味はない。そもそもその気があるならエレンが異質な存在であると気付いた七年前に行動を起こしているはずだ。
 エレンもそんなレゾの考えや性格を察しているのか、特に口止め等をすることはなかった。二人は基本的に班長と新兵の関係を保ち、ごく稀に口調や動作に七年前の気配が滲む。その現状をレゾはとても居心地良いものとして捉えていたし、おそらくエレンにとっても悪くないものだと思われた。そうでなければあの自由で孤高な存在はさっさとこの場から去ってしまっていただろう。
「あ、でも……」
 思わず口に出しながらレゾは首を傾げる。
「あの人達はどうするんだろ」
 エレン・アッカーマンという存在がこの調査兵団に入ってきたことを知ったら。
 また、エレン・アッカーマンとエレン・イェーガーが同一人物だと知ったら。
 この兵団内、それどころか壁内で知らない者のいない、調査兵団の顔とも言える二人。エルヴィン団長とリヴァイ兵士長がレゾと同じような考えを持ち、行動をとるとは思えない。
 エルヴィンは団長という立場上、エレン・アッカーマンの名はすでに知っているはず。しかし自分の直属の部下にするでもなく、こうしてレゾの班に入れた。またリヴァイに関しては、自分の直属の部下でもないのに入ってまだ間もない新兵の顔と名前を一致させているとは思えない。よって彼はエレン・アッカーマンという存在にすら気付いていないと思われる。
 だがもし彼らがエレンの存在を知った上で、エレン・アッカーマンとエレン・イェーガーを同一人物として認識したら――。
「……泣くかな」
 訓練に一区切りついたのか、調査兵団に入って六年未満の先輩兵士ら≠ニ立体機動の動きについて話し合っているエレン。その姿を眺めてレゾはぼそりとそう呟いた。
 彼が死亡した時のエルヴィンやリヴァイの様子を、この兵団に六年以上在籍しているレゾは一応知っている。
 雨の中で撤退を始めた時、彼らが人目も憚らず泣いていたわけではない。しかし明らかに顔色が悪く、壁内に戻ってもしばらく誰かを探すように視線を彷徨わせていたことをレゾはその目で見ていたのだ。またイザベルとファーランはリヴァイと共にエレンが巨人に食われる瞬間を目撃したらしく、こちらも相当酷い有様だった。
 どんな感情を持っていたのかはさておき、きっとエルヴィンにもリヴァイ達にもエレンは特別な存在だったのだ。
 しかしながら、先述の通り、レゾから何か行動を起こす気はない。ただ見守るだけだ。全てはエレンが自身の望む通りに動き、何らかの結果を導くだろう。
 遠くから時刻を知らせる鐘の音が聞こえてきた。鐘が鳴らされる回数を数えてレゾは部下達に声をかける。
「集合ーっ! 訓練終了だ!」
 声をかけるか否かというタイミングで班員達は走り始めており、すぐにレゾの目の前に整列する。綺麗な敬礼を眺めた後、レゾは班長として次に控える予定を告げた。


 レゾ・インスの直属の上司はハンジ・ゾエ分隊長である。そんなハンジは巨人大好きと公言して憚らない巨人狂かつ巨人研究のスペシャリストで、彼女の部屋はいつも資料で溢れ返っていた。また研究に没頭すると寝食もすっかり忘れてしまう性質であり、副官のモブリットがいなければ身なりや食事は勿論のこと分隊長としての書類仕事などろくにこなせない……かと思いきや。多少溜めることはあれど、それなりに書類はきちんと処理している。
 そしてハンジは自分の配下となる新兵達のリストが手元にやって来た際も漏らさず目を通していた。『エレン・アッカーマン』という名前には当然のように目を留め、名前の横に記されていた簡易プロフィール――性別、年齢、訓練兵団の成績の他に身長や体重など――を読み込んだ彼女は、ふっと眼鏡の奥の双眸を細めて言った。
「なーんか見たことある名前に、見たことある身長と体重……。相変わらず身長も体重も全く変わらないねぇ。そっちを誤魔化すことには気を回していないのかな。気付いていても、どうでもいいって思ってるのかもしれないけど。……っと、待て待て。まだ彼だと決めつけるのは早いかな? 横に似顔絵が無いってのが惜しいね。まぁ実際にやってきたら顔を拝んで確かめるとしますか」
 もし苦笑交じりの独り言をリヴァイあたりが聞いていたら「何言ってやがるこの奇行種」くらいの暴言は吐いたかもしれない。また副官のモブリットがいたなら「新兵のリスト見てニヤニヤ笑ってないで仕事してください分隊長!」と泣きそうな声で言ったかもしれない。しかし生憎この部屋にいるのは主たるハンジのみ。
 散らかり放題の執務室でひらりとリストを振ったハンジは、その紙の束を口元に当ててにんまりと笑った。
「ちょっと気が早いかもしれないけれど……」
 指先で「エレン」の文字をそっと撫でる。
「おかえり、我が友よ」

 そして数日後。

 レゾ班の訓練風景を見物していたハンジは立体機動を終えて地面に足をつけたエレンの姿に眼鏡の奥で目を眇めた。
 少年の動きはハンジの良く知るものだ。調査兵団内では中の上から上の下といった技術レベル。訓練兵団ではそれなりの成績を修められるだろう。ハンジは「手を抜いてるな」と思った。
 かつて共に戦った『エレン・イェーガー』が周囲に認識させていた強さと同じ。けれどもエレンには人にはできないこと≠ェできる。そのおかげで常人とは桁違いの動きが可能であることをハンジは知っていた。
 負傷、更には致命傷という概念を持たないエレンの肉体は腱が切れることも骨が折れることも皮膚が裂けることも内臓に恐ろしい重力がかかることも厭わない。実際にそれを話題に出して本人の身体を研究させてもらったことはないので――おそらくエレンの特異性に気付いておきながらそこまで突っ込まなかったことが、ハンジがエレンの友人として傍にいられた理由なのだろう――、外から観察して分かった事象から推測した程度ではあるものの、ハンジはほぼ間違いないだろうと考えている。
 とりあえず一般人レベルの動きで訓練するエレンのことを彼の周りにいる先輩兵士達は疑っていない。しかし……とハンジは視線を転じた。彼らの班を管理する班長レゾ・インスの方へ。
 レゾは班長として彼らの動きを眺めていた。その表情は部下を指導する中堅らしいしっかりとしたものだが、時折エレンを見る目に『班長』ではなく『同僚』としての色が宿る。レゾもエレンが『エレン』だと気付いているのだ。しかしハンジと同じく大仰に働きかけたりはしない。エレンがやりたいように任せている。否、『任せている』と言うよりは、誰にもエレンの自由を阻害することはできないと知っている、と表現すべきか。
 遠くで時刻を告げる鐘の音が鳴った。レゾが班員を集合させ、次の予定を告げている。
 ハンジはその様を横目に踵を返す。エレンの肉体も興味深い――巨人に噛み千切られたはずの左腕が何故か今のエレンには有るし――のだが、やはり自分の仕事であり最大の情熱を傾けるのは巨人研究。モブリットが「最低限これだけは処理してください!」と言ってきた分は終えたので、思う存分巨人について考察しようとハンジは周囲に花を飛ばしながら自室へ戻って行った。

* * *

 調査兵団には、分隊長の下に存在するのではなく他班とは別のものとして作られた班がある。リヴァイ兵士長が率いるその特別な班は、班長の名を取ってそのまま『リヴァイ班』と呼ばれていた。
 リヴァイ班に所属するメンバーは時と場合によって増減するが、班長であるリヴァイと兵団でも上位に入る実力者のファーランとイザベルの両名は必ず在籍している。遊撃を含む特別な任務を帯びて他の班とは別行動をとる精鋭部隊、それがリヴァイ班なのだ。
 この時期、分隊長配下に存在する班は新兵を迎えるが、リヴァイ班には縁のない話だった。人類最強の兵士とまで呼ばれるようになったリヴァイの動きについて行けるだけの実力が無ければ、この班に入るための候補にすらなれないのだから。
 しかしながら訓練兵団を卒業してすぐリヴァイ班に入るかもしれないと噂された人物が一人だけいる。兵士百人分に相当すると言われたその少女はミカサ・アッカーマン。実際には別班への配属となってしまったが、飛び抜けた技量をもつ成績第一位の新兵として、名前くらいはリヴァイの耳にも入っていた。
 調査兵団が新兵を迎え入れてしばらく。次回の壁外調査に向けて準備が進められる中、本部の建物内を歩いていたリヴァイは誰かがその名を呼ぶのを聞いて、声がした方に視線を向けた。
 ミカサ、と相手を呼び止めたのは金髪の少年。兵士にしては小柄で華奢なその姿に見覚えはなく、新兵なのだろうとリヴァイは当たりを付ける。呼び止められて振り返ったのは少年よりも背の高い黒髪の少女。美しいが冷めた表情だった少女は、少年が近付いてくると陽だまりのような微笑を浮かべる。
「アルミン、どうかした?」
「僕と君の班、午後から休みになったんだ。だからミカサと一緒に会いに行こうと思って。どうかな」
 少年――アルミンが尋ねた。誰に、の部分が省略されていたが、ミカサにはそれで通じたらしい。
「勿論行く。でも、あっちの班も休みだった?」
「まだ確認できてないんだ。けれど、たとえ休みじゃなかったとしても訓練の見学くらいはできるかなって。最近予定が合わなくて顔もまともに見てなかったし」
「わかった。今すぐ行こう」
 アルミンと呼ばれた少年の提案にミカサはしっかりと頷いた。
 どうやらこの新兵達は知人に会いに行くようだ。まだまだ子供気分が抜けていないが、新兵ならばこれくらいだろう。
 いくら兵士百人分の働きができる兵士といえども、ミカサはやはり十代半ばの子供であり、自分の班の一員となるには役者不足だとリヴァイが判断を下した、その時。
「エレン、元気にしてるかな」
「腕の方はまだまだ大丈夫だと思うけど……」
 聞こえてきた名前に呼吸が止まった。リヴァイは去って行く新兵二人の背中を凝視する。
 彼らの向かう先にいるのだろうか。『エレン』が。
「違う。あいつは死んだ」
 リヴァイは思わず頭を振って独りごちた。
 己を魅了したあの少年は六年前に他界し、左腕だけを残して巨人の胃袋の中に消えた。そんな人間が新兵として再び調査兵団に現れるはずがない。
(それに、万に一つの確率であいつが生きて帰って来られたとしても、片腕の人間が兵士になれるわけがない。しかも生きていれば二十歳を超えてるはずだろ? ますます有り得ねぇ)
 そう自分に言い聞かせるリヴァイだったが、視線は二人の新兵から外れない。もし彼らの行き先にエレンと言う名の人物がいて、その人物には左腕が無く、年齢が二十代前半だったとしたら。
 ざり、と足元から不快な音がした。見下ろすと、己の足が一歩踏み出している。つま先が向けられたのはアルミンとミカサがいる方角だ。
「……確認するだけなら」
 誰に言い訳するでもなくそう呟いてリヴァイはもう一歩踏み出した。


 新兵二人が向かった先にはリヴァイも知っている男がいた。ハンジが分隊長を務める第四分隊で班長を任されている彼の名はレゾ・インス。今年で調査兵団八年目になる赤茶の髪の中堅は、自身の班の新兵を訪ねてきた二人組に顔を綻ばせていた。
「お前らがあいつの友達か」
「僕はそうですけど、ミカサは家族ですよ」
「え?」
 レゾはきょとんと目を丸くする。それから視線を虚空に投げ、「そういやあいつのファミリーネームはアッカーマンだったか……」と呟いた。
「ミカサ・アッカーマンとエレン・アッカーマン。なるほど、そういうことか」
 レゾはミカサに視線を向けて数度頷く。
「エレンに会いに来たんだよな。あいつだったらそこで自主訓練中だ」
 そう言ってレゾが指で示したのは、本部の建物のすぐ傍に広がる森。広さはあまりないが、立体機動装置の調子を確かめる際などに便利な訓練スペースだ。耳を澄ませばワイヤーを巻き上げる音やガスの噴出音が聞こえてくる。
「俺もそろそろ呼びに行こうと思ってたから、一緒に行くか」
「「はい」」
 レゾの提案に新兵達が声を揃えて応じ、三人は森へ向かった。リヴァイも距離をあけてついて行く。自分はこそこそと何をしているんだ、とも思ったが、どうしても「エレン」という名前を持つ人物の正体を確かめずにはいられなかった。
 しばらく歩くと森の入り口に突き当たり、レゾが右手を上げる。そこに握られていたのは信煙弾専用の拳銃。バン! と打ち上げられた煙の色は白。
 信煙弾が打ち上げられて少しすると、次第にワイヤーやガスの音が近付いてきて、突如として木々の合間から人影が飛び出してきた。人影は太陽を背負ったまま空中でくるりと一回転し、レゾ達の前に着地する。
「班長……と、ミカサとアルミンじゃねぇか。何か用か?」
 人間が他人のことを忘れる時、一番に記憶から消えるのは声だという説がある。ゆえにリヴァイはその声を聞いても自分が知っている人物のものかどうか判断できなかった。しかしミカサとアルミンへ視線を向けた新兵の容姿を目にして喉がカラカラに乾くのを感じた。
 若木のようにしなやかな肢体を調査兵団の制服で包み、背筋を伸ばして立つ姿。髪は癖のない黒。少し吊り上った銀色の大きな双眸がひときわ人目を引く。――リヴァイの記憶に残るエレン・イェーガーそのままの姿。
 しかし、それはエレン・イェーガーであるはずがなかった。
 あの銀眼の新兵には左腕があり、またどう見てもその年齢は十五歳前後。失くしたはずのものを持ち、経過したはずの時間が存在しない姿は、エレンがあのエレンではないことを如実に物語っていた。
 新兵三人で話をさせてやろうと気を使ったのか、レゾが子供達から離れてリヴァイの方に歩いてくる。途中でそのリヴァイがいることに気付いた彼はすっと立ち止まり、「どうかされましたか?」と穏やかに尋ねた。
「……あいつは」
 リヴァイの視線はエレンに固定されている。その視線を辿ったレゾが、リヴァイがここにいる理由を問うでもなくあっさりと答えた。
「あいつですか? エレン・アッカーマンですよ」
「ミカサ・アッカーマンとは……」
「兄妹だそうです。似ていませんが、まぁ、シガンシナ区の出身なのでそういうこと≠烽るでしょう」
 詳しくは語らず、ぼかした表現を使ってレゾは肩を竦める。
 混乱に乗じた戸籍の偽造か、とリヴァイは思ったが、それでエレンを『エレン』と認める理由にはならない。否定する材料の方が圧倒的に強いのだ。
 そうなると、リヴァイは『エレン・イェーガー』ではないエレンの存在そのものに苛立ちを感じ始めた。『エレン』でもないくせにエレンという名を持ち、同じ容姿をした少年は、まるでリヴァイの中にある銀眼の化け物をその存在だけで穢してしまうような気がしたのだ。
 鋭い視線でエレン・アッカーマンを睨み始めたリヴァイの姿にレゾは僅かに瞠目したが、それ以上何かを語ることはなく、「失礼しますね」とだけ告げてこの場を去る。
 残されたのはリヴァイと、少し離れた所にいるミカサ、アルミン、そしてエレン。
 リヴァイの視線にまずエレンが気付く。それに釣られてミカサとアルミンもリヴァイの存在に気付いた。二人は自分達の大切な存在が人類最強の兵士に睨み付けられていると知って息を呑む……が、困惑したり怯えたりするどころかすぐに威嚇し返すように睨み付けてきた。特にミカサの漆黒の双眸は警戒と怒りに濡れ、早くも殺気立っている。エレンに何かしようものなら絶対に許さないという気迫が感じられた。またミカサほど攻撃性を前面に押し出してはいないが、アルミンの青い双眸にも底知れぬ何かが宿っている。
 一方、二人の男女に庇われるようにして立つエレンはただリヴァイの存在を認識しているだけで、そこに好悪の感情はない。いっそ怯えてくれれば『エレン』との違いがより鮮明になって多少はリヴァイの気分もマシになっただろうが、そうならなかったために舌打ちが漏れた。
 ただしこの場で新兵相手にリヴァイが暴言や暴力に出るわけにはいかない。舌打ち一つで我慢して三人から視線を逸らす。振り返った先では、新兵三人と兵士長の動向など気にした様子もなくレゾが歩いていた。
 そんなレゾは建物内に入る直前、そっと目を伏せて独りごちる。
「兵長は威嚇、団長は見ない聞かない近付かないで逃避、ってところか。死ぬ瞬間やら死体を見た所為でエレンは絶対に死んで手の届かない所に行ったんだって考えちまってるんだろうねぇ。思い入れが強すぎるってのも難儀なもんだな」
 彼に遅れて同じく建物内に戻ろうと踵を返したリヴァイにその言葉が届くことはない。

* * *

 こそこそと、ファーランとイザベルが額を突き合わせて囁き合っていた。
「なあ、なんで兄貴あんなに不機嫌そうなんだ?」
「知らん。でもエルヴィン団長を殺すって言ってた頃と同じくらいの怒り具合だよな」
 兵士長になったリヴァイには専用の執務室が与えられている。しかしリヴァイがずっと一人で過ごしているわけではなく、時折ファーランやイザベルが訪れては休憩室代わりに使うことがあった。今がその時で、偶然にも二人は同時にこの部屋へやって来た。最初、リヴァイ本人は不在だったが、二人が慣れた様子で好き勝手に過ごしているうちに部屋の主が帰還。しかしそのリヴァイの纏う空気が異様にピリピリしており、イザベル達は思わず声を潜めてしまった。
 自分達の知らない間に一体何があったのか、と二人はリヴァイを案じる。『Let sleeping dogs lie.(寝ている犬を起こすな)』(=触らぬ神に祟りなし)ということわざがあるが、それでも大事な仲間に異変が生じれば心配し、また解決の手助けをしたくなるものだろう。
 二人がひっそりと窺った先ではリヴァイが椅子に腰かけ、窓の外を睨み付けていた。そこに特定の何かが存在するわけではなかったが、リヴァイには彼の不機嫌の元凶となった人もしくは物が見えているのかもしれない。
 ファーランとイザベルは顔を見合わせ、思案する。昔から考えるのはファーランの仕事だ。そのファーランがしばらくの黙考後、イザベルに部屋を出ようと視線で示した。イザベルもそれに頷き、なるべく音を立てないようにしてリヴァイの執務室を辞す。
 ぱたん、と最小限の音で扉を閉めた後、イザベルが口を開いた。
「どうする、ファーラン」
「今のリヴァイ本人に聞いてもあまり良い結果にはならないだろう。だから事情を知っていそうなヤツらに声をかける。そこからあいつに何があったのか探ろう」
「わかった」
 六年前よりも伸びた赤い髪を揺らしてイザベルは頷く。二人は早速扉の前を離れ、リヴァイの不機嫌の解決に乗り出した。


 最初に見かけたのはペトラ・ラルとオルオ・ボザド。少し前からリヴァイの真似をし始めたオルオに彼と同期のペトラが毒舌を放っている。調査兵団内では日常風景になりつつあるそれにイザベル達は苦笑いしながら声をかけた。
「ペトラ、オルオ、今日も元気そうだな!」
「イザベルさん! ファーランさんも!」
 オルオに容赦ない罵詈雑言を浴びせかけていたペトラがすっと背筋を伸ばして敬礼する。地下街出身だがペトラ達より二年先輩でしかもリヴァイの古馴染みというイザベル達に後輩の多くはこうして敬意をもって接してくれた。それを少しこそばゆく感じながら、イザベルはペトラを見て、そして舌を噛んで口を押えているオルオを見て、もう一度ペトラを見た。
「お前ら、兄貴の不機嫌の理由を知らねぇか」
「リヴァイ兵長、ですか……?」
 記憶を手繰るようにペトラが虚空を見上げる。
「先程、遠目にお見かけしましたが、少し怖い雰囲気でした。でも何が原因でそうなったのかまでは……」
「そっか。じゃあどっちから歩いてきたかは分かる?」
「あ、はい。あちらです」
 ペトラが一方向を指差す。会話を聞いていたファーランがその方角に視線を向けて「森の方か?」と小首を傾げた。なお、執務室に戻って来た時のリヴァイは立体機動装置を装着しておらず、普通なら本部近くの森に用はないと思われた。
「その手前かもしんねぇぜ」
「そうだな」
 イザベルの言葉にファーランが頷き、オルオとペトラに向き直る。
「ありがとうな、二人とも。仲が良いのは好ましいが、夫婦喧嘩もほどほどにしろよ」
「なっ!? え! 私がこいつと!?」
「ふ、ふふふふ夫婦なんて、ぐぎゃ!」
 羞恥なのか怒りなのか、とにかく顔を真っ赤にするペトラ。
 嬉しいのか困っているのか、酷い吃音になるは最後までまともに言えないはで若千いつも通りであるオルオ。
 そんな二人を後にして、ファーラン達は教えてもらった方へ足を向けた。
 ちなみにこの後、残された二人の元に偶然彼らの先輩であるグンタ・シュルツとエルド・ジンが現れ、「ふざけんなよチクショー! あーもーッ!」と叫びつつオルオに殴りかかるペトラの姿を目撃したとか、しなかったとか。
 仲良きことは美しきかな。


 続いてイザベルとファーランが遭遇したのはハンジ・ゾエ分隊長。趣味に没頭して三日くらい寝食を忘れていたような風貌の上官に二人は思わず頬を引きつらせる。どうしてリヴァイはこの分隊長殿と仲が良いのだろうか。否、ハンジが気難しいリヴァイに臆することなく関わってくるから今の関係が保たれているのかもしれない。そもそもリヴァイ達の初の壁外調査で出会った時からハンジはこんな調子だった気がする。
「あっれー? イザベルにファーラン? どうしたの、こんなところで」
 油っぽくなった髪をかき混ぜながらハンジは眼鏡の奥の双眸を丸くした。
「リヴァイに回すはずの書類は全部片付けたと思うんだけど」
「あ、はい。そちらは大丈夫です」
 書類の催促でリヴァイの班員が自分を探しに来たと思ったハンジの言葉にファーランはそう答える。
「じゃあ何かあった?」
「あったと言うか……」
 ファーランの言葉を引き継ぎ、イザベルが口を開いた。
「兄貴が超絶不機嫌になっちまって。その理由を探ってるんだ」
「へぇ」
 眼鏡の奥の瞳が面白そうに煌めく。
「リヴァイが不機嫌、ねぇ」
「ハンジ分隊長は何かご存じでないですか?」
「うーん。直接見ていないからどうとは言えないけど、一度レゾに話を聞いてみたらどうかな」
「レゾ……? ああ、ハンジ分隊長のところの班長さんでしたっけ」
「そ。あいつなら何か知ってるかも。今の時間帯だとどこにいるかな……自分の部屋にいる可能性が一番高いか」
「先程ペトラ達に会いまして、不機嫌そうなリヴァイが森の方から歩いてきたと」
「だったら一度森まで行って、そこに誰もいなければレゾの部屋を訪ねてみな」
「はい、分かりました。ありがとうございます」
「ありがとな、ハンジ分隊長!」
 ファーランが頭を下げ、イザベルはニカッと笑う。初めての出会いから月日は流れ、イザベルも随分と大人の女性に成長したのだが、その精神はあの頃の粗暴ながらも若々しい状態のままだ。
 アドバイスを受け、二人は先へ。その背を見送ってハンジは口元を歪める。
 二人の話を聞いただけで、ハンジには大体の事情が呑み込めた。おそらくリヴァイはエレンに会ったのだろう。しかしエレン・アッカーマンをエレン・イェーガーに良く似た他人だと判断した。『本物によく似た偽物』に対してリヴァイはその存在を許容できず、だから腹を立てた。
「エレン本人が何もしないなら、私が手を出すのはここまでだね。あとはレゾに任せるとしよう」
 そう呟いて、ハンジは大きな欠伸を一つ零した。


 森の付近にはレゾ・インスどころか誰もおらず、仕方なくイザベル達は彼の部屋に向かう。自室にいたレゾはイザベルとファーランの姿を見ると快く部屋に入れてくれた。
「すまん。客用の椅子なんて無くてな。そこの椅子とかベッドとか、適当に使ってくれ」
 簡素な書き物机やシングルベッドを指差してレゾは言う。イザベルは「さんきゅー」と言って椅子を引っ張り出し、ファーランは「いえ、お構いなく」と告げた直後にイザベルのその声を聞いて肩を落とした。
 レゾは肩を揺らしてクツクツと笑いながら自身のベッドに腰掛ける。
「で、俺に何の用だ?」
「レゾ班長にお伺いしたいことがあります」
 ファーランが間髪入れず告げた。「ほう?」と上げ調子でレゾは言った。そして瞬きを一つ、ゆっくり行った後、
「リヴァイ兵長が不機嫌になった理由か?」
「!」
「レゾ班長、やっぱ知ってんのか!?」
 息を呑むファーランと、椅子から身を乗り出すイザベル。
「やっぱりって?」
「ハンジ分隊長がレゾ班長に聞け、と」
「ああ、分隊長が……やっぱあの人も『アイツ』のこと気付いてるよなぁ。自称友達だし」
 独り言半分で納得したように呟き、レゾは続ける。
「知ってるも何も、リヴァイ兵長が機嫌を急降下させるところを近くで見てたからな」
「リヴァイに一体何があったんですか?」
「会いたくないヤツに会っちまったからだよ。……いや、ずっと会いたかったヤツ、か?」
「は?」
「どういうことだよ、レゾ班長」
 ファーランもイザベルもレゾの矛盾した物言いを聞いて目を点にする。会いたくないのか、会いたいのか、結局どちらなのか。
 瞬間的にファーランは『リヴァイが会いたいと思う人間』を脳内にリストアップしたが、然して多くないそのほぼ全員がすでに死亡している。よって再会は現実的に有り得ない。
 それぞれ首を傾げる男女にレゾは再び苦笑を浮かべた。
「相手の名前を言うのは控えさせてくれ。俺にそれを教える権利はたぶん無い。本人が望めば向こうから顔を出すだろう」
 それから、とレゾは続ける。
「相手に悪気はないはずなんだ。ただそいつがリヴァイ兵長にとって琴線に触れるどころかぶった切る勢いの存在だったってだけで」
 その台詞はいくらファーランとイザベルが望んでもこれ以上リヴァイの不機嫌の原因の手掛りをレゾからは引き出せないということを示していた。そしておそらく、レゾが拒否した時点で手掛りは途切れる。
 イザベルは納得できないという顔をしたが、ファーランは肩を竦めて「分かりました」と告げた。
「でも最後にこれだけ確認させてください。その相手とはリヴァイにとって害になる人間ですか?」
「いいや」
 即答だった。
 レゾはふっと目元を緩める。
「自分の『自由』を何よりも大事にする変わった存在だが、決して悪いヤツじゃない。(……リヴァイ兵長だってアイツのそんなところに惹かれたんだろう)」
「え? 班長、最後に何て……」
「気にするな」
 レゾの台詞の最後の部分が聞き取れずファーランは尋ねたが、そうやってあっさりと躱される。「喉乾いてたら茶でも出すが」という話題の切り替え兼提案に「いいえ」と返し、ファーランはイザベルを椅子から立たせた。
「俺達はこれで。お時間を取らせてしまい申し訳ありません。お話、ありがとうございました」
「いいや。じゃあな二人共」
「はい」
 ファーランは敬礼し、イザベルは無言で、レゾの部屋を出る。扉が閉まるまで部屋の主は淡い笑みのまま二人を見送った。
 そうして扉が閉まり、ファーランとイザベルの気配が遠ざかると、レゾは出されっ放しになっていた椅子を片付けつつ独りごちる。
「リヴァイ兵長め、エレンに何も聞かなかったのか。もうちょっと自分から突っ込んでいけば、誤解も解けて一番欲しかった答えが得られたのに」
 しかしそのような展開にはならず。
 あとは『神のみぞ知る』ではなく『エレンのみぞ知る』といったところか。


 こうして一部の人間以外にはエレンが『エレン』だと認められないまま時が過ぎた。エルヴィンはエレンの姿を目に入れようともせず、リヴァイは偶然見かけた際にきつく睨み付ける。ファーランとイザベルはレゾの言葉を信じ、これ以上の追及を止めた。
 そして壁外調査の出発日――。


【10】


「彼は普通じゃない。あんなこと≠ヘ有り得ないんだ」
「じゃあもしかしたら……」
「可能性はあるね。巨人が人間を食おうとしない理由なんてそれくらいしか考え付かない」
 三人の男女が言葉を交わす。それはトロスト区防衛戦があって間もない頃のこと。
 とある共通の目的を持つ彼らは自分達が目にした異変から一つの事実を推測し、それを確かめるために動くことを決めた。
 決行は対象となる人物が壁外に出るタイミング。
「――あいつが『座標』を持っているかもしれないのか」
 最も体格の良い一人がぽつりと呟いた。そうであってくれと望むように弾んだ声で、しかしそうであってくれるなと苦しむようなしかめっ面で。

* * *

 845年のウォール・マリア陥落以降、調査兵団はウォール・ローゼの南端にあるトロスト区から壁外調査へと出発していた。しかしそのトロスト区の南側の開閉扉が超大型巨人によって破壊され、現在のトロスト区全域は巨人が闊歩する領域となっている。
 以前ならトロスト区南側の開閉扉を通り抜けている間に巨人が区内へ侵入しても、北側の開閉扉を閉じているため被害は最小限に抑えられた。しかし現状、もし調査兵団がトロスト区北側の開閉扉を通り抜けている最中に巨人が壁の内側に侵入したとしたら、ローゼの全域が危険に晒される。
 したがって、これまで築いてきた拠点に最短距離で到達できるトロスト区からの出発は禁止され、巨人侵入のリスクを最小限に抑えるために今回の第57回壁外調査の出発地として設定されたのはウォール・ローゼ東側のカラネス区だった。
 エルヴィン団長(当時分隊長)が発案した長距離索敵陣形はすでに壁外調査時の基本陣形となっている。844年に行われた初テストでは豪雨により悲惨な結果を残したが、その後は兵士の死亡率もぐっと下がり、有用性が認められたのだ。
 新兵及び彼らを含む班は最も外側の索敵班より一つ内側の伝達役として配置され、指揮を担うエルヴィンは同じく索敵班より内側の先頭付近、リヴァイ班も臨機応変に動けるようエルヴィンに近い位置に配されている。そして新兵であるエレンは班長のレゾと二人一組になり、伝達班として陣形の左翼前方を馬で駆けていた。右寄りの前方にはエルヴィンやリヴァイ達、後ろにはサシャやミカサ等の班が続く形だ。陣形展開後は距離が空いてその姿をはっきり見ることは叶わないが、時折上空に打ち上げられる信煙弾から、彼らがそこにいることはエレンにもよく分かった。
 カラネス区を出発し、市街地を抜けてしばらく。幾度か方向転換しながらも大きな被害は無いまま一団は平野を進んでいる。巨人を避け続けた結果、若干左寄り(東向き)の進路となっていた。
 索敵には開けた場所の方が好ましいが、その分巨人と戦闘になった時には立体機動を活用し辛くなるという難点があり、緊張は否応なしに高まっていく。
「あー……なんか嫌な予感がする」
 馬を駆りながらレゾがぼそりと呟く。周囲に会話を聞く人間がいないこともあり、エレンは敬語抜きで「何が?」と尋ねた。
「いや、何がって言われても具体的なもんじゃなくて……。これまで俺を生き残らせてくれた勘、みたいな?」
「勘ねぇ。そりゃ今回は新兵も多く参加して不安が有るっちゃあ有るだろうけど」
「いやいや、そっちじゃねぇと思う。そんな先輩方が気を付けてりゃなんとかなる系じゃなくて、もっとこう背筋がぞわぞわくる感じ」
「余計わかんねぇよ」
 半眼で答えるエレンにレゾ本人も「だよな」と同意する。それでも嫌な予感は拭えないらしく、顔色もあまり良くない。
 壁外で遭遇する最大の脅威と言えば巨人だ。エレンは巨人に『生きた人間』として認識されないため襲われることもないが、レゾを含む普通の人間はそうもいかない。もしこの班長の予感が巨人に関することであるならば、奇行種かそれ以上の危険が迫っている可能性もあった。
 少し用心するか、とエレンが決めたその時――。
「……レゾ、赤い煙弾って上がってなかったよな」
「ああ。ついでに言うと黒も見てねぇぜ」
 自分達の進行方向から見て左側。本来なら陣形の最も外側にいる索敵班が気付いて信煙弾を上げるはずの対象が一体、こちらに近付いてきた。
「ちっ、左翼の索敵は何やってやがんだ!」
 その巨人が左翼の索敵班を無視して中央に突っ込んできたと判断したレゾはすぐさま赤い信煙弾を打ち上げる。それを確認した別班が順次同色の信煙弾を打ち上げるのが見えた。しかし徐々に大きくなる巨人の姿を目視したエレンが不意に気付く。
「赤じゃねぇ。黒と紫、両方の煙弾を上げろ。あれは奇行種……いや、もっと性質の悪いヤツだ!」
 信煙弾のうち、赤は通常巨人、黒は奇行種、そして紫は緊急事態を知らせるためのものである。エレンは迫り来る巨人に対し後者の二つを打ち上げるよう叫んだ。
 人に近付いてくるのは同じ。しかし男性型(乳房のない個体)しか確認されていない巨人の中で、エレン達に向かって来るそいつは女性的な肉体をしていた。しかも走り方まで通常巨人とは異なる。どんなフォームで走れば最も速度を出せるのか分かっている動きだった。
 そして何よりエレンが女性体の巨人――仮に『女型の巨人』と呼称する――を通常種とも奇行種とも異なるものと判断した理由は、巨人の双眸に宿る『知性』を見つけたからだ。現在、人類が遭遇した巨人の中で別格とされているのは、壁の開閉扉を破壊した超大型巨人と鎧の巨人の二体。そのうちエレンは超大型と至近距離で合いまみえている。その時の気配と女型の巨人にはどこか似たものがあった。
「おいおい……マズくねぇか」
「最悪ってやつになるかもな」
 黒と紫の信煙弾を改めて打ち上げたレゾが頬を引きつらせる。だがその両手にはすでに半刃刀身が握られており、戦闘の意志を見せていた。
「もう少し立体機動のし易い場所だったら」
 レゾがそう言って舌打ちをする。
「そういやもうちょっと進めば巨大樹の森か」
「ああ。この進行方向のままだとそこに突っ込むな。でも団長がそんな指揮するわけねぇわ。この陣形の利点が無くなる」
「じゃあせめて森に掠ってくれれば……」
「そうは言ってもアチラさんは待ってくれねぇみたいだ」
 告げると同時、レゾが馬を駆って巨人に向かった。自分を囮にしてエレンに女型のうなじを削がせるつもりなのだ。その意図を汲み、エレンもまた馬を操る。そうしてレゾに突っ込んで行く女型を迂回するようなルートを取るエレンだったが、
「こっちを見た?」
 エレンが呟いてすぐ、巨大な手が上空から掴みかかってきた。思わず馬から飛び降りて地面に転がる。エレンを乗せていた馬は騎手の代わりに巨大な手で持ち上げられ、ハズレとばかりに投げ捨てられた。
「兵団の馬がいくらするとか考えたくねぇ」
 服を汚しながらも無傷で立ち上がったエレンは己の足で駆け出す。途中で一瞥したレゾは自分が狙われない状況に唖然となって、その後すぐエレンのサポートに入った。今度はエレンが囮でレゾがうなじを削ぐ役目だ。何故巨人に認識されないはずのエレンがこうして女型に狙われているのか疑問は尽きないが、やるべきことに変わりはない。この巨人が指揮官のいる中央へ突っ込む前に自分達で始末する。ひょっとしたら異変を察知したリヴァイ班が応援に来てくれるかもしれないが、それまで待っていられるだけの猶予は女型も与えてくれないだろう。
 一団は巨大樹の森に突っ込まないよう、進路を若干右寄り(西寄り)に変えていた。左翼側から赤に続いて黒と紫の信煙弾も上がったのだから、そちらの点でも基本通りの動きである。しかし指揮を担当するエルヴィンがこの緊急事態を察知しているかどうかまでは分からない。
 このままいくと、後方にいるサシャやミカサの班とぶつかる可能性が高かった。それを幸と取るか不幸と取るか。レゾのことを考えると、増援があることはまだマシかもしれない。女型の巨人はエレンを狙っているようなので、レゾ一人ならば逃げられる。しかし当の本人は現在進行形で巨体のうなじを削ごうと奮闘しているので、彼に加勢する人間は一人でも多い方が良いのである。
 現在のパターンはこうだ――。エレンを捕まえようとするため女型の巨人には隙ができる。その隙を突いてレゾが攻撃を仕掛けるので、女型は咄嗟に防御する。するとエレンを捕まえようとする手が獲物を取り逃がす。
 この繰り返しのおかげでエレンもレゾもまだ無事でいられるが、危うい均衡はいつ崩れるとも分からなかった。
 そんな中――。
「エレン!」
「ミカサ!?」
 予想より早く他班とぶつかった。と言うより、紫の信煙弾に気付いてミカサが先行してきたらしい。傍らには騎手のいない馬を引き連れている。どうやら何かあった時のために交換用の馬まで一緒に連れて来てくれたようだ。
 現れたミカサは瞬時に通常とは異なる巨人の動きを認識し、馬をエレンに向けて走らせた。
「乗って! 森へ行こう!」
「ああ!」
 女型が執拗にエレンを狙っており、戦いは避けられない。またこのように開けた場所では立体機動が不利だという考えから、戦場には巨大樹の森が選択された。ミカサとレゾが時間稼ぎとして女型に突っ込んで行き、その隙にエレンは馬に騎乗して腹を蹴る。
「レゾ! ミカサ! お前らも早く!」
 エレンが馬に乗って走り出すと、女型の巨人はミカサやレゾを振り切って追いかけ始めた。エレンは後ろを振り返りそう叫ぶ。更に後方でミカサが所属している班と思しき兵士達がエルヴィン達のいる方へ伝令を走らせているのが見えた。
 巨大樹の森へ一直線に馬を走らせるエレン、その後ろに女型の巨人、レゾとミカサ、そして伝令役以外のミカサの班の兵士達が続く。女型がエレンに追いつきそうになると、レゾとミカサのペアが女型への邪魔をしかけてくれたため、ギリギリのところでエレンは木々の間へと入り込めた。すぐに立体機動に切り替え、宙を舞う。巨大な樹木を利用して縦横無尽に飛ぶ人影を女型は上手く捉えることができない。しかも今のエレンは『普通の人間』とは異なり、自分の動作で身体の組織が破壊されることを考慮しない動き方をしていた。壊れてもすぐに修復されるため動作に支障はなく、またこんな場合にまで普通の人間を装うべきではないと思っていたからだ。
「オレを殺そうとするヤツに遠慮してやる義理はねぇからな、デカブツ」
 女型の巨人を巨大樹の森に誘い込んだエレンの本領発揮。地を這うような低い呟きを落としながらエレンは銀の双眸をギラつかせる。
 他の面々もエレンに加勢しようとするが、人が集まってきたことで通常の巨人も姿を見せ始めた。まずはそちらを狩らねばならず、結局エレン一人が女型と相対することになる。だがその方が都合が良かったかもしれない。エレンの動きは『人外』過ぎて、まともについて来られる兵士がいなかったのだ。
「うへー。あれがエレンの本気かよ」
「すごい……」
 通常巨人を狩りながらレゾとミカサは瞠目する。エレンが女型の周りを飛びながらその皮膚を切り刻んで行く様は圧巻だった。しかしうなじを削ごうとすると手で庇ったり、それどころか一部分を硬質化させたりと、今までの巨人には有り得ない手法で防御してくるため、なかなか致命傷を与えられない。
「ちっ」
 ガスを吹かして勢いを殺すなどということはせず自分の両足で全ての衝撃を受け止めながら大樹の側面に着地≠オたエレンは鋭い舌打ちを放つ。が、その視界の端で新たな増援の姿を捉える。
「ミカサの班のヤツが連れてきたのか」
 森の中に突っ込んできたのは調査兵団でも特別な位置にある班――リヴァイ班。彼らが伝令を聞いてこの場に駆け付けたのだ。
 やって来たリヴァイ達はこれまで遭遇したことのないタイプの巨人に驚き、次いでそれと相対しているエレンの動きの異様さに息を呑んだ。人間の肉体の耐久性をことごとく無視した無茶苦茶な動作で巨人に傷を負わせながら銀眼をギラギラと輝かせるエレン。誰もがその姿に圧倒される。
 中でも特に驚きを露わにしていたのは――……
「――ッ!」
 リヴァイ班を率いるリヴァイ兵士長その人。
 距離があることに加え対象の動きがあまりにも速過ぎて、共にやって来たイザベルとファーランはまだ女型と戦う兵士の顔を確認できていない。ただ「すげぇ」と驚きながら周囲の巨人の駆除を開始している。だがその動きの片鱗を六年前に一度見たことがあるリヴァイだけは違った。
 まさか、と音もなくリヴァイは唇を動かす。そんなことは有り得ないはずなのだ。何故ならリヴァイが知るその人はリヴァイの目の前で巨人に喰われて死んだのだから。残ったのは噛み千切られた左腕のみ。
 馬鹿みたいに見開いた目は、しかしその思いを否定するように銀色の輝きを捉える。
「…………アァ」
 あの輝きだった。自分を殺そうと罠を仕掛けた愚かな兵士達に容赦なく『死』を与えていた、あの。
「ばけもの、だ」
 うっとりと、蜜のように甘ったるい声音でその言葉は紡がれた。
 まだ相手の見た目が十代だとか、失くしたはずの左腕があるとか、そういった要素は頭から全て吹っ飛ぶ。ただただ自分を一瞬で魅了した『銀の目をした化け物』の再来に、リヴァイはこの非常時にもかかわらず目を奪われ、胸を高鳴らせた。
「リヴァイ! 働け!」
「兄貴! 巨人!」
 ただ一つのものに全てを奪われ立ち尽くすリヴァイにファーランとイザベルから怒声が飛ぶ。その瞬間、女型を相手にするエレンからもまた一瞥がもたらされた。リヴァイはハッとし、アンカーを放って空中へと躍り出る。
「加勢する」
「そ。じゃあよろしく――……っと!?」
 リヴァイが加勢を申し出たところ、エレンは軽い調子で受け入れた。しかしその後すぐ、リヴァイを視界の端に捉えた女型の巨人がその身を押し潰そうと身体を大樹に叩きつけるように動いた。急な動きにエレンは言葉尻を乱し、リヴァイもまた寸でのところで回避して舌打ちをする。
「あの巨人、どうにもオレを捕まえる気のようだが、お前は殺しても良いと思ってるらしいな」
 エレンがリヴァイの傍に着地して告げる。
「しかも食べるためじゃなく、ただ殺すために攻撃してきた。こりゃ『うなじを削いで終わり』じゃ勿体無いかも」
「この人数と装備で捕獲する気か? 正気じゃねぇ」
「可能なら、の話だ」
 女型の手が伸ばされて二人は左右に跳んだ。
 エレンの言う通り、これまでとは明らかに異なる巨人であるこの女型を捕獲できたなら、巨人の謎の解明に大きな役割を果たすかもしれない。しかし現実問題として、十メートル以上の巨体を殺さず捕獲するという装備はこの場に存在しなかった。しかも相手はかなり手強い。加勢しに来たリヴァイを真っ先に潰そうとした事実から、エレン側に別の戦力が加わることを女型が嫌がったことは明白だが、その二人がかりの戦力でも『捕獲』どころか『殺す』ことさえ容易ではなかった。
 捕獲の案を出したエレン自身がまずそれをよく分かっている。仕方がない。巨人の謎を解明するのも一興だが、この場は自分を襲う不届き者を消してしまおうとエレンは決意した。
 エレンが女型の前方で視線を引き付けている隙にリヴァイが背後に回る。だがアンカーの射出音で気付いたのか、女型はすぐさま両手を後ろに回して己のうなじを庇った。指先を硬質化させ、リヴァイのブレードを弾く。
「じゃあこっちだ」
 エレンが呟いた。
 まずは動きを止める。重力とワイヤーの力で一気に降下し、二本の足のアキレス腱を切断する。地面に尻をつく女型の巨人を横目にすぐさま上昇。続いてエレンが向かったのは、その巨大な腕の付け根。手が邪魔になっているならば、腕ごと切り落としてしまえば良い。少なくとも腱を切れば両腕は力を失い、回復までの僅かな時間で目標のうなじを削ぐことができる。リヴァイもエレンの考えを察し、反対側の腕の付け根に回った。
 女型がリヴァイを押し潰そうと上半身だけを使って再び身体を樹木にぶつける。それを回避し、リヴァイはブレードを振りかぶった。少し遅れてエレンも身体を回転させながら腕の付け根を深く抉る。両方の腱を切られた女型の巨人はたちまち腕を力なく垂らした。
 先に腕の付け根を切っていたリヴァイが女型のうなじに到達する。これで終いだ。エレンはその様子を眺めるために少し距離を取った。そして「あれ?」と目を丸くする。銀色の双眸には女型の巨人の顔が映り込んでいた。
「アニ・レオンハート……?」
 ぴくり、と巨人が身じろぎする。リヴァイがそのうなじ付近でブレードを構えた。
 直後。

「ぎぃやぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁあああああ!!!!」

 女型の巨人がとんでもない音量で叫び声を上げた。思わず周囲にいた兵士達の動きが止まる。そして続いて起こった現象に誰もが唖然とした。これまで兵士を狙っていた巨人が一斉に女型へと殺到したのだ。しかも女型を守るためではなくただその巨体を喰い尽くすために。
 近くにいた他の巨人も引き寄せられたのか、続々と集まってくる。数多の巨人が襲い掛かってきたためエレンとリヴァイもその場を離れざるを得なかった。
 女型は喰われる端からシュウシュウと蒸気を上げている。これでは殺害も捕獲も何もない。むしろ自分達がこの沢山集まって来た巨人共に押し潰されないよう逃げなくてはならない。
 この場で最も指揮権の高いリヴァイが全員に向かって叫んだ。
「退くぞ! 全員退避! 本隊と合流する!」


 女型の巨人が数多の通常巨人を呼び込んだため、第57回壁外調査は一日も経たずに帰還することとなった。多数の死者が出る前に事を進められたのは不幸中の幸いと言えるだろう。しかしその事実に団長であるエルヴィンが安堵する暇はなく、リヴァイに伴われて執務室に現れた一人の少年の姿に言葉を失った。
「なっ……きみは」
 リヴァイと共に現れたのは黒髪に銀色の瞳をした十代半ばの少年。
「エレンなのか……?」
 青い目には動揺と困惑が満ちている。リヴァイと同じようにエルヴィンもまたエレンを『エレン』とは容易に認められない側だったのだ。
 尚、ここに来るまでにイザベルとファーランはエレンの顔を見てあっさりと『エレン・アッカーマン』は『エレン・イェーガー』であると納得した。先にリヴァイが認めていたのも大きな要因だが、イザベルと対面したエレンが成長した彼女の頭を――少女だった頃と同じように――柔らかく撫でたのが決定打になったようだった。それですぐイザベルは「エレン! エレンだよな! 生きてたのか! よかった……!」と目を潤ませ、ファーランも自身の過去の態度を振り返って若干気まずそうではあったが「あの時は本当に助かった。礼を言わせてくれ」と真っ直ぐエレンを見つめて言った。
 エルヴィンは六年前と全く変わらない――成長という意味を含む――姿のエレンを見つめて、それから己の机の一番下の引き出しに目を向ける。鍵をかけたそこに保管されているのは、六年前のエレン・イェーガーが片腕を失っていることを証明するもの。
 黙したままのエルヴィンに焦れたのか、リヴァイが「おい、エルヴィン」とその名を呼び、またエレンの方は一歩前に踏み出した。すると――。

 カタン。

 エルヴィンが見つめていた引き出しから微かな音が聞こえた。そこに何が入っているのか知っているエルヴィンは思わず目を剥く。そしてエレンもまた反応を示した。エレンはエルヴィンの視線の先――音が鳴った引き出しの方へ躊躇なく近付く。そして「ああ」と感嘆の吐息を零した。

「オレの腕、そこにあったのか」

 エルヴィンがゆっくりと首を巡らし、エレンを見る。そのまま「え?」と呟いた。
 呆ける彼にエレンは微笑みかける。
「腕を返していただけますか? あなたが持ち帰った所為でオレ随分苦労したんですよ」
 六年前に死んだエレン・イェーガーの微笑みそのものを浮かべてエレンは告げる。そうして次に取った行動は、己の右手で左腕をぐっと掴むことだった。何を、とエルヴィンが問う間も無く、エレンはそのまま己の腕を引き千切る。エレンにとって代替品であり異物である肘から先の左腕は、宿主の意志に従って呆気ないほど簡単に離れた。
 ぼとり、と投げ捨てられるエレンの腕だったもの。
 エレンはその腕から視線を外し、エルヴィンに右手を伸ばした。
「さあ」
 引き出しからはまたカタンと音が鳴った。本来の持ち主の元へ帰りたいと腕自体が望むように。
 エルヴィンはふらふらと引き出しに近付き、肌身離さず持っていた鍵を使って開ける。ゆっくりと引き出せば、年月を重ねても瑞々しいままの左腕が眠っていた。それを両手でそっと取り出し、エレンの前へ持って行く。
「ありがとうございます」
 腕を受け取ったエレンはそのまま無造作に切断面を近付けた。すると腕は融け合うように接着し、継ぎ目一つ見当たらなくなる。腕は本人の意思に従って曲げ伸ばしがされ、手指も滑らかに動いた。
「本当に……エレン、なんだな」
 エルヴィンは己がエレン・イェーガーのものとして所持していた腕を自由自在に動かすエレンの姿を見てようやく得心がいったのだった。彼は、エレンだ。紛うことなく己が求めた冷たい肌の少年。手を伸ばせば避けられることなくその手に触れることができた。指先から伝わる温度は人としてあまりにも冷たいそれであり、幼い頃に刻みつけられた『愛おしさ』そのもの。
 エルヴィンは顔を上げ、「これは一体どういうことなんだい」と尋ねた。
 問われたエレンには答える義務など無かったのだが、前方のエルヴィンと後方のリヴァイをそれぞれ一瞥し、そっと肩を竦める。ミカサとアルミン同様、この者達ならばエレンの秘密を明かしても面倒なことにはならないだろうと思えた。
 そうしてエレンは言葉を紡ぐ。己の身体のこと、その身体の所為で通常の巨人が己を狙わないこと、長い長い時間を歩んできたことを。
 エレンの話を聞き、エルヴィンが霞んでいた己の幼少期の記憶について息を呑むのは、それからすぐのことだった。


 エレンがリヴァイ達に己の秘密を明かし、またエルヴィンが幼少期にエレンと出会っていたことが判明した後。幼い頃から求めていた人と再会できた喜びに感極まっているエルヴィンに抱き着かれたままのエレンは、別方向から突き刺さるリヴァイの視線に苦笑しつつ「さて」と告げた。
「次は調査兵団としての本題に移りたいんだが、構わねぇか?」
 先程までエルヴィンに対しては敬語を使っていたエレンだったが、その幼少期に世話をしていたとなれば話は別だ。見た目に反し、すっかり年上としての口調で二人の思考を切り替えさせる。
「調査兵団としての本題、だ?」
 リヴァイが眉間の皺を深め、またエルヴィンも表情を引き締めつつエレンの身体から腕を剥がした。
 エレンは続ける。
「今回の壁外調査で遭遇した女型の巨人について。あれはきっと中に人間がいる」
「は?」
「どういうことだい」
「身体つきや『生きた人間』じゃないオレを狙うといった行動そのものも十分『普通の巨人』から外れていたからってこと以外に、あの女型の顔を見たら知ってるヤツによく似ていた。そいつの名は『アニ・レオンハート』。訓練兵団の同期で今は憲兵団に所属している。オレが名前を呟いた時、女型も反応した。戦い方もどこか人間の格闘技じみていたな」
 エレンの言い分は「でもそれだけで判断するには……」と渋ってしまう内容だった。しかし確かめないわけにはいかない。それが事実なら巨人の謎の解明に大きく前進することができる。
 二人の表情を眺めて更にエレンは続ける。その内容は、今回エレンが狙われた一件について、女型の巨人の共犯者が調査兵団内に存在するというもの。何故なら女型はピンポイントでエレンがいるエリアへやって来た。そしてエレンを含む各兵士の位置は壁外調査に参加する全員へ事前に知らされている。この情報が女型の巨人へと流されていたために、エレンの位置が正確に狙われたのだろうと推測したのだ。そしてアニが女型の巨人の正体であった場合、最も共犯者である可能性が高いのは、調査兵団に二人いた。
 エレンはその共犯者と思しき二人の名を告げ、更にこう付け加える。
「おそらくその二人が超大型巨人と鎧の巨人だろう。まだ断定はできないが、あいつらの行動には十分注意しておく必要がある」
 その言葉に調査兵団を代表する二人の男はごくりと唾を飲み込んだ。エレンは元に戻った両手をパチンと打ち鳴らして口の端を持ち上げる。
「さぁ、謎解きの開始だ。暇潰しにはちょうどいい」






リビングデッド







2015.03.17〜2015.03.29 pixivにて初出