【1】
盲目の兵士がいる。しかも今年の新兵だ。更に言うなれば訓練兵団を第五位の成績で卒業した有望株。 などという眉唾物の話をリヴァイの元に持ってきたのは、調査兵団の分隊長を務めるハンジ・ゾエだった。巨人にしか興味のない巨人狂かと思っていたが、やはり他の兵士らと同様に新兵の情報はそれなりに気にしていたらしい。かと言って、にわかには信じがたい話題ではあるが。 「誰に聞いた?」 「ん? エルヴィンに」 即答するハンジ。それを聞いてリヴァイは眉間の皺を深めた。あの食えない男が発したただの冗談か、それとも事実か。確率は半々といったところだろう。 「ほぅ? あいつは他に何か言ってたか?」 「それがさぁ! 聞いて驚け!」 まるでリヴァイのその言葉を待ってましたとでも言いたげにハンジは鼻息を荒くする。まずいスイッチを押したとリヴァイが後悔した直後、彼女は予想外のことを言ってのけた。 「盲目の新兵がうちに来るんだよ!」 「……は?」 「だーかーらー! その新兵君、調査兵団を希望してるんだ!」 どの班にするかエルヴィンはまだ考え中らしいけどねぇ、と続けるハンジの言葉など耳に入っていない。 まだそんな新兵がいるとは信じられないが、もしその存在が事実として、成績が五位だったのはきっと何か裏があるのだろうと思う。簡単に言えば、憲兵団に入るためのコネのようなものだ。であるにもかかわらず、その(おそらく不正をした)新兵は調査兵団に来ると言う。この、死亡率の高い危険すぎる場所へ。 憲兵団ならばたとえ盲目であっても無事に過ごせていただろう。むしろそこにしか居場所などないはずだ。盲目の兵士など駐屯兵団ですら使えない。調査兵団は言うに及ばず。 「馬鹿か」 ぽつりと呟いたリヴァイに、ハンジが興奮を鎮めてそちらを見た。レンズ越しの双眸はパチパチと瞬きを繰り返し、やがてゆっくりと彼女が口を開く。 「エルヴィンが言ってたよ。面白い子だって。あの顔はきっと冗談じゃない。エルヴィンは本気でその新兵君をここで使うつもりだ」 だから楽しみなんだとハンジは言う。眉間の皺を更に深めたリヴァイは小さな声で「マジか」と独りごちた。 「本日よりこちらに配属となりました、エレン・イェーガーです。よろしくお願いします!」 心臓に右拳を当てる敬礼をとりながら名乗ったのは、今年の新兵である少年。『こちら』と言うのはリヴァイが率いる班のことである。通常、突出した実力を持つリヴァイの班に新兵が配属されることはないのだが、今回は特例としてエルヴィンがこの決定を下した。 それは構わない。リヴァイ達の実力についてこられるなら、新兵だろうと古兵だろうと同じこと。しかしただ一点、腑に落ちないことがあり、リヴァイの困惑と苛立ちは急速に高まっていた。 リヴァイ班に配属となった新兵――エレン・イェーガー。訓練兵団卒業時の成績は第五位。……そう、彼はあの盲目の兵士なのである。 すらりと伸びた手足は長くしなやかで、兵士としてはまだまだな体つきだが、今後に期待といったところ。すっと通った鼻筋の下に程よい厚みの唇があり、肌のきめ自体も細かい。客観的に見て整った容姿をしている。しかしその双眸は幅広の布でしっかりと隠されていて見ることは叶わなかった。 (なんでこんな兵士を俺の班に入れたんだ、エルヴィン……) 基本的に団長であるエルヴィン・スミスの言葉には従うようにしているリヴァイだが、今この時ばかりはあの男を思い切り殴りつけてやりたくなった。 通常の兵士でさえリヴァイについて行くことができないのに、視覚を奪われた人間に何かできるわけが――正確に言えば『生きて壁外から帰って来られる』わけが――ない。これではただ死にに行くようなものだ。それともまさか、リヴァイにこの役立たずを守れということなのか。 (ふざけんなよ、あの野郎) 無駄に死にに行かせようとするのも、リヴァイの手間を増やすのも勘弁願いたい。しかもリヴァイが守ろうとしたからと言って、確実に守れるはずがないのだ。どちらにしろ、このような人間をリヴァイの元に置くべきではない。 思わず舌打ちが漏れて、新兵の肩がビクリと揺れた。こいつもこいつだ。何故、憲兵団を志望せず調査兵団に来たのか。自分に何かできると思い上がっているなら尻を蹴って追い出してやりたいし、自殺志願者であるなら全身を縄で縛って道に転がしてやろうと思う。どちらでも無いなら、さっさと諦めて他の兵団に移ってほしい。 舌打ちをした後にリヴァイは大きな溜息を吐く。その所為で新兵がオロオロと困っているのが視界に入った。 (……次の壁外調査までまだ時間はある。それまでに自分が実力不足だってことを分からせて、異動希望を出させるか) この新兵も決して悪い人間ではないのだと思う。ただ何かが食い違っていて、調査兵団を希望してしまったのかもしれない。ならば手間だが、リヴァイがその軌道修正を手助けしてやる。人死にが減って悪いことなどないのだから。 リヴァイは改めて新兵を見た。布に遮られ視線が合うはずもないのだが、相手がしっかりとこちらを見据えている気がして少しだけ驚く。 「早速今日の任務に取り掛かる」 「はい!」 元気よく応じた新兵へ、そうしてリヴァイは言い放った。 「まずは兵舎の掃除だ。チリ一つ残すな」 リヴァイが極度の綺麗好きであることを知らない多くの兵士は掃除を命じられると高確率で驚愕か落胆のどちらかを顔に出す。しかしエレンはそのどちらも見せず、リヴァイが指定した場所の掃除を開始した。 他の班員に同様の指示をした後、自らも掃除に取り掛かったリヴァイは珍しいもんだとほんの少し感心していた。が、その鋭い双眸がフローリングの隙間に存在する埃を『目視』した瞬間、彼は気付く。 「あいつ、目が見えねぇのに掃除なんてできるのか……?」 身なりが清潔で寝癖等も見当たらなかったため、ついつい普通の人間と同じように命じてしまったが、盲目の人間にとって掃除は難易度の高いものではないのだろうか。つまり、エレンがきちんと掃除できるとは思えない。それ以前に盲目の彼はきちんと持ち場へ向かえたのだろうか。 エレンの素直な態度に感心して消えかけていたリヴァイの眉間の皺がぐっと深まる。 しかしその時、リヴァイが掃除していた部屋の出入口でカツンと軍靴を鳴らしながら敬礼した人物が一人。 「リヴァイ兵長、担当範囲の清掃が完了しました」 「エレン……?」 開け放たれた扉の手前に立っていたのは正真正銘エレン・イェーガー本人。周囲に彼の移動を補助したと思しき人影はなく、リヴァイは信じられずに「一人で来たのか?」と口に出して尋ねていた。 「はい。さすがに三年間過ごした訓練兵団と違って調査兵団の兵舎はまだ慣れませんが、移動に支障はありません」 「見えてねぇのにか」 「視界がなくとも他の感覚がそれを補っておりますので」 さも当然とばかりに答えるエレン。リヴァイは眉根を寄せた。それが見えているはずもないのにエレンはうっすらと苦笑し、「兵長のお考えは当然のことかと思います」と告げる。 「今お時間を作っていただけるようでしたら、まずはオレの掃除の結果をご覧ください。そうすれば兵士として……は、どうか分かりませんが、少なくとも常人と同レベルには生活可能だとご納得いただけると思います」 リヴァイは自信満々なエレンと共にこの新兵の持ち場へ向かった。先程エレンは大口をたたいてみせたが、新兵がリヴァイのチェックに一発合格できるなど有り得ない。しかしゴミを目視できない割に掃除への自信が見て取れるのも奇妙であり、実際にエレンが掃除した場所を見るまでは何も言うまいと口を噤んだ。 少し歩いてようやくリヴァイ自身が指定した場所に辿り着く。 そこは一般兵が使う部屋から離れたところにある一室だった。使用者はエレン・イェーガーただ一人。度重なる壁外調査で兵士が減少して使われなくなったエリアだったのだが、今年、わざわざエレンのためにその部屋が用意された。 新兵であるエレンに四人部屋ではなく一人部屋が与えられたのはエルヴィンの采配である。あからさまな特別扱いにリヴァイは何も言わなかったが、これは何も『言わない』のではなく『言えなかった』からだとも言える。呆れてものも言えない、というやつだ。やはりエレンは実力で入ってきた人間ではなく、何かのコネや取引によってリヴァイの手元に置かれた弱者なのだろうか、と。 二人して部屋の前に立つ。ここまでの廊下は綺麗に掃除されており、リヴァイがケチをつける部分は無かった。だがそこは元々綺麗だったという可能性も考えられる。 エレンが部屋の扉を開けた。 「……てめぇが一人でやったのか」 「はい。オレ一人で行いました」 リヴァイは無言で一歩部屋に入る。ざっと見回した程度では問題点が見つからない。見逃しやすい家具と家具の合間の埃や窓のサッシ、その他細々とした部分をチェックしてもやり直しを命ずベき箇所は無かった。 「いかがですか」 エレンが尋ねる。リヴァイは部屋の手前で立ったままのエレンを振り返り、「問題ない」と口を開いた。 「だが何故だ? てめぇは目が見えねぇんだろ?」 「兵長、ご存知ですか。目が見えない生き物は他の感覚を鋭敏にしてそれを補うそうです」 「ほう……? じゃあもう一つ質問だ。掃除をここまで完璧に仕上げたのはお前の常か?」 たとえ目が見えていてもリヴァイと初めて接する人間はリヴァイが納得する掃除を行わない。しかしエレンは違った。まるでリヴァイが潔癖症であると既知であったかのように、部屋の掃除を完璧にやってみせた。 「いいえ」 エレンは首を横に振る。 「普段はもっと雑です。ですが兵長からは身の回りを清潔に保とうとする人間特有の空気を感じました。うちの父親も医者という職業柄、清潔さには気を使っていたので、オレにとっては馴染みのある空気なんですけどね。ともあれそういうことで、綺麗好きと思われる兵長にご納得いただけるよう、いつもより丁寧に掃除を行いました」 目には見えない様々な要素をひとまとめにして『空気』と称し、エレンはそう答えた。布で覆われた双眸はそれでもひたと上官を見据えているかのようで、これもまた視覚の代わりに発達した感覚によるものだろうかとリヴァイは推測する。 最早エレンが何かのコネで訓練兵団を五位で卒業し、リヴァイの元に配属されたなどとは思わない。まだエレンの兵士としての実力は未確認だが、エルヴィンの采配はきっとエレンの実力に由来するものなのだろう。 「よし。午後からは班全員で立体機動の連携訓練を行う。準備しておけ」 「はつ! 了解しました!」 エレンの美しい敬礼に見送られてリヴァイは部屋を出る。新兵を預かることを聞かされてからずっと蓄積されてきたイライラはいつの間にか消え去っていた。 立体機動の連携訓練の最中、エレンが誰よりも他者の動きに敏感で見事な立ち回りを見せるのは、もう間もなくのことである。 【2】 「エレン!」 リヴァイが調査兵団の本部内を歩いていると、少し離れた所から己の部下を呼ぶ声が聞こえた。親しげなその声が聞こえてきたのは練兵場の方向。そちらへ視線をやると、金髪の少年が黒髪の少女を伴い、リヴァイの用事が終わるまで軽い自主訓練をしていたエレンの元へ駆け寄って行くところだった。 すでに用事を終えてエレンと合流しようとしていたリヴァイは元々の目的地でもあるそちらへ足を向けつつ、少年少女らを何とはなしに眺める。和やかな雰囲気から、彼らが親しい間柄であることはすぐに分かった。 「調子はどう? って言っても、たった数日会ってなかっただけか。でも訓練兵団じゃ毎日顔を合わせていたから、こうして別の班になった後に会うと久しぶりって気がするよ」 「エレン、今の班は大丈夫? いじめられたりしていない?」 金髪の少年と黒髪の少女はエレンのことを余程大切に思っているらしい。盲目の友というのはやはりそれくらい心配したくなるものなのか。 しかしながらリヴァイ班に配属された後のエレンは盲目であることを感じさせないほど『普通』に生活している。それどころか視覚の代わりに発達した他の感覚のおかげで他人の気配に敏く、それを活かして常人以上の行動をとってみせることもあった。立体機動の合同訓練などがその良い例で、後ろに目があるのかと言いたくなるくらい良い動きをするのだ。あの少年は。 「おー元気にやってるよ。班の先輩方も皆、良くしてくれる。お前らも……まぁ体調は悪くなさそうだな」 顔色を見ることすらしていないが、エレンにはそういったものまで判断可能であるらしい。 二人が頷けばエレンの口元が弧を描く。 「そのままちゃんと調子整えておけよ。もう今度の壁外調査の日程は決まってるんだから」 必ず多数の死傷者が出る壁外調査。それを前にしてエレンは恐れるどころか期待に胸を膨らませているようだ。双眸が布の下に隠されていても分かる。彼は多くの人間と違い、巨人と遭遇することを恐れておらず、そしてまだ見ぬ壁の外という世界に憧れを抱いていた。 「オレ達、ついに壁の外へ行くんだ。つってもまだマリアの中だけどな」 「でもそこからマリアを奪還して、本当の『壁の外』へ行くんだよね」 「ああ」 金髪の少年の声にエレンは力強く頷く。少年の青い目は見えないエレンの双眸の分も補おうとしているかの如くキラキラと輝いていた。そんな二人を見守る少女も恐怖は抱いていない。彼らの瞳にはちゃんと理性の光が灯っており、愚者が無知ゆえに恐怖を感じていないのではなく、何らかの確固たる自信によって恐怖を打ち負かしているのだと証明していた。 「いいか、お前ら。ミカサは強いし、アルミンは頭が良いけど、どっちも無茶はするなよ」 「わかってる」 「もちろんだよ、エレン」 二人は各々そう答え、次いでミカサと呼ばれた少女の方が正面からエレンの後頭部に手を伸ばし目を覆い隠している布の結び目を解いた。布ははらりと解け、エレンの容貌を露わにする。 (なんだ……あいつ……) 三人の時間を少し多めに取らせるつもりで柱の陰に隠れて様子を見守っていたリヴァイが、初めて見るエレンの顔に眉根を寄せる。いつもしっかり目とその周囲を覆い隠していたので、ひょっとするとエレンは醜い傷でも負っているのかと思っていたのだが――。 (綺麗なもんじゃねぇか) 外気に晒されたエレンの顔は傷一つない綺麗なものだった。 アルミンとミカサは最初からそれを承知しているのか、特に気にした様子はない。そのまま、二人は交互にエレンの前に立ち、閉じられた瞼に口づけを落としていった。練兵場の隅で行われたその行為はまるで神聖なもののようで、目撃したリヴァイは訝る気持ちを忘れて息を呑む。 「私もアルミンも、それにカルラおばさんも、エレンがいたから生き残れた。折角あなたが助けてくれたこの命、無駄にはしない」 「オレとしては、無駄にしないっつーか、ただ自分が思う通りに生きてほしいって思ってんだけどなぁ」 ミカサの言葉にエレンは苦笑を浮かべた。まだ目は閉じられたままだ。 「ほら、もういいだろ。それ返してくれ」 「うん」 ミカサがエレンに布を渡す。 少年少女らの『儀式』が終わると、エレンの双眸は再びしっかりと覆い隠された。 そして目を隠したままエレンがくるりと振り返る。リヴァイがいる方向へ。 「お待たせしました、兵長」 「……相変わらず敏いな。一応気を使って気配は殺していたんだが」 「すみません。こればかりは他の人に負ける気がしないので」 確かにリヴァイとて彼のように目隠ししたまま気配だけを頼りに立体機動をすることはできない。エレンの言うことはもっともだ。 「もう話はいいのか?」 「はい。兵長のおかげです」 エレンはそう言って一度背後の二人を振り返った。 二人はエレンと異なりリヴァイの接近に気付いていなかったようだが、どちらも頭の回転が速く度胸もあるのか、すぐに姿勢を正して敬礼している。リヴァイは片手を上げてそれを解かせ、踵を返した。 エレンは二人に「またな」と短い別れを告げてリヴァイの後に続く。相変わらず「見えているのか」と言いたくなるほどきっちり三歩離れた場所を歩くエレンに、リヴァイはこっそりと感嘆した。 時間は少し遡る。リヴァイがエレンの素顔を見ることになるその少し前、調査兵団本部にあるエルヴィン・スミス団長の執務室にて。 その部屋には団長であるエルヴィンの他に、リヴァイとハンジの姿もあった。つい先程まで他の分隊長もいたのだが、ここに集まった理由でもある今度の壁外調査に向けてのミーティングはすでに終了しており、彼らは退室した後だ。 リヴァイもまた部屋を出て行こうとしたのだが、ハンジが手にしている資料に目をやって足を止めた。 「クソメガネ、そりゃ何だ?」 「これ? ちょっとエルヴィンへの報告用にね。あなたも聞いていくかい?」 紙の資料をバサバサと振る手つきは素っ気ないものだったが、眼鏡の奥の双眸は興奮の色を宿している。巨人のことを語る時の様子に良く似ていると気付いたリヴァイは長話に巻き込まれる前に退散しようと踵を返した。しかし、 「待つんだ、リヴァイ。一緒に聞いて行くと良い」 それを引き留めるエルヴィンの声。リヴァイは「正気か?」と思わず聞き返す。巨人狂いであるハンジの話には際限がない。下手をすれば明日の朝まで語り続けるだろう。 エルヴィンもそんなことは当然知っているはずなのだが、それでもあえて話を聞こうとするのには何か特別な理由があるのだろうか。 「……分かった」 長話を覚悟でリヴァイは頷き、手近なソファに腰を下ろした。 「で? クソメガネは一体何の話をするんだ?」 「トロスト区での超大型巨人出現について、少し」 「ああ……俺らが壁外調査に行ってた時のやつか」 「そう。幸いにも被害は壁上に設置された一部の砲台が破壊された程度で済んだけどね。これがもしウォール・マリアの時みたいに開閉扉を蹴破られていたら……考えただけでぞっとするよ」 かつて一度巨人に蹂躙された人類の居住域の末路を知っているがゆえに、そう口にしたハンジの目は全く笑っていない。 しかし彼女が言う通り、ウォール・ローゼの南にあるトロスト区での一件はまさに不幸中の幸いだった。 全ては調査兵団が前回の壁外調査(第56回壁外調査)に出ている間に起ったことだ。 日中、突如としてトロスト区とマリアを隔てる壁のすぐ傍に超大型巨人が現れた。遭遇したのは、ちょうどその時に壁上で砲台の整備をしていた訓練兵達。超大型巨人はその訓練兵諸共、壁上に設置された砲台を片腕だけで薙ぎ払ってしまった。 空中に逃れた訓練兵らはすぐに体勢を立て直し、超大型巨人討伐へと動き出す。特に彼らの班の中で最も成績が良かった一人の少年が超大型巨人へと先行して突撃していった。これは他の訓練兵らの証言からも明らかになっている。単独行動は危険だが、確かにこの素早い判断と行動は賞賛に値した。 しかしながら、ここで奇妙なことが起こる。その訓練兵が飛び出して行った直後、超大型巨人が消えたのだ。 「私が今回エルヴィンに報告しようと思ったのは、その超大型の消え方ってのが奇妙だったからさ」 「五年前のシガンシナと同じようにいきなり消えただけじゃねぇのか?」 「あー……うん、そうだね。まぁ確かにあっと言う間に消えちゃったらしいんだけど……」 紙に書かれた文字を見返しつつ、ハンジは未だ自分ですら信じられないといった口調で続けた。 「目撃情報によると、トロスト区に現れた超大型巨人は一度全身が石のようになって、その後、崩壊しつつ蒸発して消えていったらしいんだ」 「はあ?」 「信じられないよね。でも複数の目撃者がいる。一応エレンにも確認したし」 「おい、ちょっと待て。何故そこであいつの名が出る」 「え? だって超大型出現時、真っ先に飛び出して行った訓練兵ってのがエレンだよ?」 「あいつが?」 「そう。ものすごい偶然だよね。エレンには『視覚』が無いけれど、それでもやっぱり『何かが完全に固まった気配と、その後瓦解しながら消滅していく感じを受けました』って言ってた。あと『自分はうなじを削いでいません。その前に消えましたから』とも」 普通、巨人が消滅する時は急速に腐敗しながら蒸発していく。これまで何体もの巨人を狩ってきたリヴァイ達でさえ、巨人が石化するなど見たことも聞いたこともない。しかも弱点であるうなじを削いでいないのに、だ。 この奇妙な消滅方法は事件の後すぐに報告されていたのだが、誰も彼も半信半疑でまともに取り合っていなかった。しかし自他共に巨人狂と認めるハンジが興味を持ち、今回、徹底的に調べたというわけだ。と言っても、事象の確認だけで詳しい原因などは判明していないのだが。 「ちなみに、これは関係ないかもしれないけど……この一件の後、エレン達が属する第104期訓練兵の仲間の一人が行方不明になっている。卒業前の成績は第三位。すでに順位が確定した後だったから繰り上げは無くて、結局空白ってことになったらしい」 「ほぅ? どうせなら繰り上げでもう一人十位以内に入れてやれば、その一人は喜んで憲兵団入りできたかもしれねぇのにな」 「ははっ、そうだね。まぁ数日後にひょっこり戻って来たりしたら、またややこしいことになりかねないし」 ハンジは肩を竦め、エルヴィンに視線を向けた。 「各人の証言なんかも全てここにまとめてある」 そう言ってハンジは己が持っていた資料を机の上に置く。エルヴィンはそれを手に取ってぱらぱらと捲りながら「わかった」とだけ答えた。その表情から彼が何を考えているのか読み取ることはできない。ただ、資料を流し見ていた青い目がひたと一か所に吸い寄せられる。 「ああ……この証言は面白いな」 双眸をすっと細めてエルヴィンは言った。 「サシャ・ブラウスの証言。『超大型巨人が石化のような様子を見せる直前、エレンが超大型巨人を睨み付けていました』……ふむ、この言い方だともしかしてエレンの目を隠している布は取れていたのかな? 『目を開けている彼の横顔はまるで獣達の王のようでした』……横顔か。つまり正面から見たわけでは無い、と」 「なんだそりゃ。そいつ、エレンに惚れてんのか?」 「それにしては変わった表現方法だけどね。あ、この子って確かダウパー村出身だっけ? 狩猟で生活してた村の子ならこういう表現もするのかな」 リヴァイに続き、ハンジもそう言って肩を竦める。しかも超大型巨人の石化と消失には全く関係なさそうな内容だったため、リヴァイは小さく嘆息してから踵を返した。 「俺はこれからそのエレン本人を迎えに行くから、もう帰らせてもらう」 「ああ、エレンによろしく言っておいてくれ」 「私もー!」 二人の声を背に受けてリヴァイは団長の執務室を出た。 そうして、練兵場の隅でエレンを含む三人の少年少女らの話を聞き、隠されていたエレンの素顔を――両目が伏せられていたとは言え――見ることとなる。 【3】 エルヴィン・スミスの執務室には石でできた鷹の彫刻が飾られている。それは昔からある物ではなく、ちょうどエレン達第104期訓練兵が入団してきた頃から置かれるようになった物だった。 「こういう特技を持つ知人ができてね。どれくらいの腕前なのか実際に見せてくれたんだ」 とは、その彫刻に気付いたハンジの質問に答えたエルヴィンの言である。 彫刻師と知り合いになって何になる、とボヤいたのがリヴァイ。 スゲー! 今度私にも会わせてよ! と騒いだのがハンジだ。 二人の反応にエルヴィンは微苦笑を浮かべて「色々なツテを作っておくのは良いことだ。彼に関してはそのうちきちんと紹介しよう」と告げた。尚、新兵達が彼らにとって初めてとなる壁外調査を明日に控えた現在、未だその約束は果たされていない。 「……おい。ここの置物、増えてんじゃねぇか」 リヴァイがエルヴィンの執務室を訪ねると、彼の部屋に飾られていた石の彫刻が一体から二体に増えていた。元々あった鷹の横に今度は躍動感あふれる野兎が一羽。実物大のそれは本物がそのまま石になったかのように精巧な造りをしている。 「同じヤツの作か」 「ああ。本番前の手慣らしってところだな」 「本番?」 いまいち意図の掴めない返し方にリヴァイは眉根を寄せる。しかしエルヴィンには明確な答えを――少なくとも今は――告げるつもりがないらしく、いつかの時と同じ微苦笑を浮かべた。 リヴァイは再度石の彫刻を眺める。鷹も野兎も本当に見事な出来栄えだった。 そう言えば、とリヴァイは初めて鷹の彫刻を見た時のことを思い出す。あの時、あまりの出来栄えの素晴らしさに、ハンジが「メドゥーサに見つめられた本物の動物みたいだね」と言っていた。メドゥーサとは壁が築かれる前の時代から存在する本に記述されていた空想上の化け物の一つであるらしい。 その目は宝石のように美しく、ひとたび彼女――物語の中でメドゥーサとは女の化け物だったのだ――に見つめられると、その生き物は石と化して死んでしまうという。なるほど確かに、そんなことができる化け物が存在したとしたら、このように精巧な動物の置物もできあがるだろう。無論、そんな化け物はこの世に存在しないはずなので、鷹と野兎の作者は特別手先が器用な一般人であるのだろうけれど。 「ああ、そうだ。リヴァイ、お前から見たエレンの調子はどうだ」 しばしリヴァイが過去の回想にふけっていたためか、エルヴィンが話題を変えてそのような質問を投げかけた。石の置物に全く関係のないその問いにリヴァイは一瞬だけ間を空けたが、すぐに「問題ない」と返す。 「掃除は合格点だし、立体機動もまぁ見られるもんだな。昔から盲目のヤツってのはあそこまで動けて、加えて気配に敏いものなのか?」 エレンは目隠しをしていてもまるで全て見えているかのように振る舞う。むしろ視覚を奪われていない兵士より気配に敏感で、動きも悪くなかった。あれが長年目の見えないまま生活してきた人間の行動だというのなら、リヴァイは素直に感服するしかない。ただ経験上、やはりエレンの動きは異常だと思ってもいたが。 「エレンは特別だ」 その考えに同意するようにエルヴィンは答えた。 「普通の人間にエレンのようなマネはできないだろう。たとえ生まれた時から目が見えなくても。……視界を塞いだまま常人以上に――人間ではない別の生き物の如く、とも言えるかな――動けるのは、彼が特別だからに他ならない」 「随分とあのクソガキを買ってやがるな」 「ああ。少なくともお前の班に入れたり、わざわざ部屋を別に用意したりする程度にはね」 椅子に腰かけて机に両肘をついていたエルヴィンは、組んだ指の向こうからリヴァイを見据える。 「守ってやれ、とは言わん。彼は一人でも戦えるからな。ただちょっと人と違うという理由で傍から離すのだけはやめた方がいい、とだけ言っておこう」 「……全くわけが分からんが、とりあえずその言葉は覚えておこう」 「よろしく頼む」 渋々頷くリヴァイにエルヴィンはそう言って微笑んだ。 【閑話 彼が彼女を救った方法】 その小屋を訪れた少年は手に布を持っていた。持ち物は目をしっかり覆い隠せる程度のサイズの布だけで、それ以外は何もない。しかも少年は目を閉じたままだった。 道に迷ったと言う少年は、目が見えていないにもかかわらず彼に応対した男の顔にしっかりと閉じた双眸を向けていた。小屋を訪ねてきた人間が少し奇妙だがどう見ても弱者である少年であったため、男達は気を緩めて少年を部屋の中に迎え入れる。 入ってきた少年を見て、両手を縛られていた少女は「可哀想に」と思った。少年には見えていないと知って、男達はニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべている。きっとあの少年も少女と同じように売り飛ばされてしまうのだ。少年は綺麗な顔をしていたから。 部屋の中には男が二人。少女の家を襲った犯人は三人だったので、もう一人も遠くない場所にいるのだろう。無論、男が一人減った程度で盲目の少年に何かができるとは思えなかったが。 両親を目の前で殺されてここまで連れて来られた少女はすっかり表情を失って、茫洋とした目つきのまま部屋の中に入ってきた少年を眺める。だがふと少年が足を止めた。閉じたままの双眸で少年は少女に顔を向ける。 「助けに来た」 「……え?」 さっぱり意味が分からなかった。だが次の瞬間、少年の言葉に怪訝そうな顔をした男達が行動に移るよりも早く、少年は一番近くにいた男の姿をその両目でしっかりと捉えた。 「死んじゃえよ、クソ野郎」 男を真っ直ぐに見据えるのは、まるで黄金をそのままはめ込んだかのような美しい瞳。それに見詰められた男は瞬く間に全身を石に変え、人としての活動を停止してしまった。 異常な出来事に少女は瞠目する。それはもう一人この部屋にいた男も同じで、「なんだお前は!」と彼はナイフを構えた。が、異様な力の持ち主にナイフなど無意味。金色の双眸を向けられた二人目の男もまた一人目と同じように石化して床に倒れた。 倒れた衝撃で人型の石像はどちらも首や腕が折れてしまっている。その断面も間違いようがなく石となっており、これが人間であったなどと思えない有様だった。 少女は少年を見上げる。彼は再び目を閉じていて、少女にはこの奇妙な力を使わないと示しているようだった。 「あ、の……」 もう一人いるのだと少女は伝えようとした。だが立て続けに起こった異常事態に声が上手く出ない。 「わかってる。もう一人、いるな」 しかし少年は少女が伝えようとしていたことをすでに知っていた。少女を背に庇うようにして少年はドアがある方に身体を向ける。二連続で起こった『重い物が床に打ち付けられる音』を聞いてやって来た男により、そのドアが開く。 「てめぇ、一体ここで何を――」 少女からは見えなかったが、おそらく少年が目を開けた。 男の言葉は続かない。三人目もまた石になり、倒れた時の衝撃でその身をバラバラに砕けさせた。 「これで終わりだな。……ああ、役立たずの憲兵団が来る前にこいつら全部森に隠さねぇと」 面倒臭そうに呟きつつ、少年が手に持ったままだった布でしっかりと自分の目を覆い隠す。きゅっと布の端を結んだ彼は少女の方に振り返り、「立てるか?」と手を差し出した。 「オレの名前は……」 そして少女は命の恩人の名を知る。 彼と初めて一緒に行った作業は、元々人間だった石を急いで小屋の周囲の森に捨てて隠すことだった。 【4】 「初列の二と四か……普通に考えたらあまり新兵を抱えた班の位置じゃねぇな」 「でもリヴァイ兵長がいらっしゃる班なら有り得ない配置じゃないですよね」 リヴァイのぼやきにエレンが答える。 場所はトロスト区のウォール・マリア側開閉扉前。調査兵団の面々はもう間もなく開始される第57回壁外調査に向けて徐々に緊張感を高めていた。 エレンが跨る栗毛の雌馬は、新兵でしかも盲目の騎手を乗せているにもかかわらず落ち着いたもので、首を撫でられると気持ち良さそうにする。人の気配に敏いこの奇妙な新兵は他の動物に関しても察しが良く、扱いが上手かった。 「この期間によくもまぁそこまで懐かせたもんだな」 「ええ。最初は怖がられていましたけど」 エレンは苦笑して肩を竦める。 今でこそこの馬はエレンによく懐いているが、まだ宛がわれたばかりの頃は怯えて近寄ろうとしなかったのだ。新兵が初めて調査兵団用の訓練された特別な馬に触れる時、馬が人間を下に見て素っ気なかったり馬鹿にしたりすることは時折ある。しかしエレンの場合、馬はそのどちらでもなく、また従順な様子を見せるでもなく、まるで天敵がその場にいるかのように怯えたのだった。数日の間に一人と一頭の仲は深まり、こうして緊張感に満ちた空気の中でも和やかな様子を見せるほどになったが。 「賢いヤツなんです、こいつは」 口元に弧を描いてエレンは馬を撫でた。「一目見て分かるなんて、お前オレより察しが良いよな」と囁くように付け足す。 リヴァイにその言葉の意味は分からなかったが、問いただす前にエルヴィンがやって来たため口を噤んだ。 「調子は良さそうだね、エレン」 「エルヴィン団長! はい、問題ありません」 拳を胸に当ててエレンが答える。 今回の壁外調査でリヴァイ達の班は初列二に二人、初列四に四人という形で二つの索敵班に分けて配置されている。そこは一団の最も外側かつ先頭付近(団長の位置から見てやや右寄りになる場所)だ。長距離索敵陣形展開時、彼らの最も近くにいるのは司令塔であるエルヴィン。よって出発前の今もエルヴィンがリヴァイらの班の傍にいるのは何らおかしなことではなかったが、この決して暇ではないタイミングでわざわざ話しかけてくるのは、奇妙と言えば奇妙である。エレン入団時からエルヴィンは何かと彼に特別な対応をしているのだが、その理由は未だリヴァイ達に知らされていなかった。 (そういや、エレンが入ってきたばかりの頃だったか……。あの石の彫刻を作ったヤツを教えると言っていたが、それもまだ知らされないままだな) リヴァイは胸中で独りごちる。壁外調査開始直前にそれとは全く関係のないことへ思考を巡らせるのは、目の前の二人の呑気さに当てられてしまったからだろうか。 思考を切り替えるようにリヴァイは小さく頭を振り、己が跨る青毛の馬の身体を撫でた。幾度となくリヴァイと共に巨人の群れの間を駆け抜けた愛馬は、歴戦の兵と同じくどっしりとその場に構え、落ち着き払っている。……かと思いきや、エルヴィンと言葉を交わすエレンが気になるのか、ちらちらとそちらに視線を送っていた。 警戒しているわけではない。どちらかと言うと構って欲しそうにしている。他人には滅多に懐かないはずの愛馬の様子にリヴァイは軽く目を瞠り、再びエレンを見た。 エレンは相変わらず見えていないはずの目をしっかりと話し相手の方に向け、自分が属する集団のトップに臆することなく言葉を返している。少なくとも初めての壁外調査を控えた新兵の様子とは思えない。 何かあるのか。 唐突にそう感じた。その感覚は論理的な思考によるものではなく、第六感に近い。 エレンには何か秘密がある。エルヴィンはそれを知っており、『特別』と称した。加えて、おそらくあの男のことだからエレンの秘密を利用しようとしている。エレンもそれを了承しているだろう。エレンへの特別待遇はその秘密を利用するための対価か、もしくは秘密を守るための手段か、そのどちらかだ。 (こいつら、何をしようとしている?) エレンとエルヴィン。二人が調査兵団を裏切るような真似をするとは思わなかったが、何が起こるか分からない状況にリヴァイは無意識に双眸を細める。と同時に前日エルヴィンから言われた台詞を思い出していた。 『ただちょっと人と違うという理由で傍から離すのだけはやめた方がいい』 人と違う。それは単に目が見えないこと、もしくは見えずとも見えているように振る舞えること……という単純なものではないだろう。 (悪いものではなさそうだがな) エレンに構って欲しそうにしている青毛と栗毛、二頭の馬を眺めやり、リヴァイは心の中でだけそう呟いた。 調査兵団はトロスト区を出発し、放棄されたウォール・マリアの大地を駆ける。長距離索敵陣形は展開済みで、自分達以外の班はほぼ視認できない。異変や巨人の出現を知らせる信煙弾は上がっておらず、一団は順調に進んでいた。 「右方より赤の煙弾を確認!」 しかしながら一体の巨人にも遭遇せずに済むことなど有り得ない。しばらく進んだところで、リヴァイやエレンと同じ初列四に配された二人の班員の片方が右手側から上がった信煙弾を確認し、自身も同じ色の弾を銃にセットした。 「撃て」 「はい!」 リヴァイの命令に従い、赤い信煙弾が上空に伸びる。僅か数秒後、エルヴィンのいる位置から進路変更を知らせるための緑の信煙弾が撃たれた。リヴァイ班を含むそれを確認した各班が斜め左上空に向かって順次、緑の信煙弾を放つ。 そうして大きく広がった一団は左へと進路を変更していく。その後も時折巨人による進路変更を繰り返しながら、調査兵団はおおよそ南へと走り続けた。 通説として巨人は日中にしか活動しない。したがって壁外調査に出た兵士らも日没から夜明けまでの時間を休息に充てることができる。 無事に一日目を終えた一団はマリア内の打ち捨てられた砦を今晩の宿とした。ここはいずれ来る第二次大規模マリア奪還作戦にも利用できるだろう立地にあり、また広さと堅牢さを備えている。調査兵団は持って来た資材の一部をこの砦に保管することとし、先程まで松明の明かりを頼りに荷卸しの作業を行っていた。 巨人が活動しないとされていても、無論、有事の際にはすぐ反応できるよう見張りが置かれ、休んでいる者達も熟睡することなどない。見張りは各班交替で行われ、現在はリヴァイの班が担当していた。 「真っ暗だな」 「ですね」 見張りは二人一組で行われる。リヴァイの傍らにいるのはエレンだ。リヴァイは返ってきた言葉に「何が『ですね』だ。てめぇは見えてねぇだろうが」と言いながら、砦の背後に広がる森から隣のエレンへと視線を移した。 砦の前方は平野が広がり、背後には鬱蒼とした森。巨大樹の森ほどではないがそれなりの樹高があるため、巨人との戦闘には役立ちそうである。ただその森も太陽が沈んだ今は真っ暗で、立体機動などしようものなら自滅は必至だった。常に暗闇の中にいるエレンには関係のない話だろうが。 「光は見えませんが、夜の気配がすると言うか……。昼間に動いてるやつらが休んで、暗闇の中で活動するやつらが動き始めているのが分かります」 「ほぅ。つまりもし万が一夜に活動する巨人が現れても、お前はそいつが俺達の前に姿を現す前に分かるってことか」 「実際に経験したことがないので断言はできませんが、大型と言わず小型の巨人の場合でもおそらく分かると思います」 十メートル級などの大きな身体を持つ巨人ならば歩く時の地響きで常人もその接近に気付くことができる。ただし比較的小型のものである場合、足音があまり大きくなく、またその身体が物陰に隠れてしまう場合もあるので、発見できる確率が下がってしまうのだ。エレンはそれさえ見つけられると言う。 「便利なもんだな」 「否定はしません。でも良いことばかりじゃありませんよ」 「やはり見えないことに不都合を感じる時があるのか?」 リヴァイはエレンの両目を覆い隠す布を一瞥した。直属の上司のそんな動作を知ってか知らずか、エレンは「ええ、まぁ」と言って肩を竦める。 「兵長はアルミンの目を見たことがありますか? 綺麗な青色だそうです。それにミカサの髪、オレと同じ黒髪だそうですが、人種が違うからかな……黒は黒でも同じ色ではないそうです。同期の野郎が言ってたんですが、ミカサの髪も綺麗なんだとか。でもオレはそれを見たことがない。『共感』ができない。そういうのはやっぱり少し……寂しい、かも、しれません」 「エレン……」 森の方へと布越しの視線を投げかけるエレンの横顔は言葉の通りどこか寂しげで、リヴァイは思わず名前を口にしてしまう。だがそれ以上続ける前に、 「ま、その代わりにオレだけが気付けたり実行できたりすることがあるので、どちらが良いとは言えないんですけどね」 沈みかけた雰囲気を察してか、エレンは殊更軽い口調でそう言って再び肩を竦める。 「そろそろ交代の時間ですね。戻りましょう、兵長」 エレンが踵を返す。リヴァイは頷き、その後に続いた。 壁外調査二日目。調査兵団の面々は夜明け前に準備を整えて砦を出発した。長距離索敵陣形を展開し、一路、南を目指してひた走る。 一日目と同じく二日目も順調に進むと思われた。しかし朝日が兵士らの横顔を照らし始めた頃、異変が起こる。 「黒の煙弾です!」 班員が叫ぶ。煙が立ち上っているのはリヴァイ達から見て左手側。まだ進路変更の緑の信煙弾は確認できていない。だがその代りだとでも言うように、遠くの方で土煙が上がっていた。 リヴァイはエレンを一瞥する。エレンもまた見えない目でリヴァイを見ていた。 「奇行種を含めた巨人が複数現れたのだと思われます」 常人には知覚できない何かを感じ取ったがゆえの判断か。エレンはきっぱりとそう告げる。リヴァイは頷き、自ら黒い信煙弾を撃ってすぐ指示を出した。 「エレンは俺と来い。状況を確認し、必要ならば対処する。残りはこのまま走り続けろ。ただし状況に応じて臨機応変な対応を取るように」 「「はっ! 了解しました!」」 新兵だけがリヴァイにつき従うことに異議を唱える者などここにはいない。兵士にとって上官の命令は絶対であり、また更に彼らはエレンの実力をよく知っていた。 彼らの「気を付けて」という言葉にエレンが「はい!」と答える。それを確認し、リヴァイは「行くぞ!」と声をかけた。エレンがそのあとに続く。 まだ状況は目視できない。しかし少し後ろを走るエレンは布に覆われた双眸を真っ直ぐに進行方向へ向け、口元を歪めた。 「巨人が複数います。奇行種で乱れたところに襲い掛かってきたようです」 「あそこにいた仲間は……」 「全滅……ではありませんが、のんびりはできない状況です」 「そうか。急ぐぞ」 「はい」 手綱を握り、馬に指示を送る。騎手の願いに従って馬達は更に速度を上げた。 大きな樹木や建物がない平原。敵を発見しやすいという利点がある一方、実際に立体機動で巨人を狩る場合には最悪の場所と言って良い。馬を駆ってしばらく、リヴァイとエレンは巨人の姿を視認した。同時に、複数の巨人に襲われて混乱の渦中にある仲間達の様子も。 馬を失った兵士が走って逃げようとするのを大きな手が掴み上げる。恐怖に泣き叫ぶ声が聞こえた。ようやくその距離にまで近付けたのだ。 リヴァイは立体機動装置のグリップに刃を装着し、抜刀する。 「先に行く!」 叫ぶや否や、何の遮蔽物もない空間にアンカーを放つ。勢い良く射出されたそれが捕らえたのは標的である巨人そのもの。ガスを吹かしワイヤーを巻き上げてリヴァイは飛んだ。身体に回転を加えてV字に構えた刃を巨人のうなじへ―― 「……は?」 空振り。目測を誤ったのか。 否、リヴァイが巨人のうなじを削ぐ前にその肉体が石となり、次の瞬間、瓦解したのだ。 目の前の現実が理解できず、瞠目しながらリヴァイは着地した。巨人の手に掴まれていた兵士もまた放心して地面の上に座り込んでいる。その兵士は落下した時に叩き付けられた尻の痛みすら考えられないほど驚愕しているようだった。 石像のようになり、そしてばらばらに砕けた巨人だったものは、しゅうしゅうとその欠片から蒸気を上げて消えていく。 「一体何が」 呟くリヴァイに答える声があった。 「立体機動では間に合いそうになかったので、オレの方で対処させていただきました」 「エレ、ン……?」 馬に跨ったままリヴァイの元にやって来たのは新兵のエレン・イェーガー。しかしその顔からはいつも両目を覆っていた布が外され、閉じた双眸が外気に晒されている。 「何を、した」 「巨人を駆逐しました」 エレンは即答する。そして、彼はそのまま未だ複数の巨人がいる方へと顔を向けた。 「兵長はなるべくオレの視界に入らないでくださいね。間違って巻き込むと大変なので」 「てめぇ、どういうことだそりゃあ」 「見ていれば分かりますよ」 馬上で新兵が口元に弧を描く。しかしその笑みは横顔といえども上官に見せるにはあまりにも獰猛で、彼の意識がすでにリヴァイから駆逐対象たる巨人へ大幅に傾いていることを示していた。 そして、ゆっくりとエレンの瞼が持ち上がる。 「オレは壁の外に行きたい。それを邪魔する巨人は全て駆逐してやる」 殺気に満ちた黄金の双眸がひたと巨人を見据えていた。 どろりと熱して熔けた黄金のごとき瞳。人間のものとは大きくかけ離れているそれに、リヴァイははっと息を呑む。 「王、か……」 唐突に、エレンの目を開けた横顔を見たことがある少女の証言を思い出した。獣の王。いや、これは全ての生物を平伏させる万物の王だ。誰も彼によって行われる『強奪』に逆らえない。全ては彼の意のままに。 まるで天啓を受けたかのようにリヴァイはそう理解した。 いとも容易く『それ』を奪ってしまう彼は、生きとし生けるものにとってまさしく恐怖の対象だ。しかしその庇護下に自分が置かれたと知れば、これ以上頼もしいものはない。 感嘆の吐息をついたリヴァイはエレンが見据えた方角に視線を向けた。その先では巨人が次々と石化、瓦解、蒸発という過程を辿って消滅していく。地面に打ち付けられる間もなく石化した肉体が瓦解するのは、死後蒸発するという巨人の特性が石となった体組織にも残っており、蒸発して結合が切れた部分からボロリと崩れていくためだろう。 と、少しハンジの真似事のような考察をしつつ、リヴァイはついでにあの巨人狂の同僚が言っていたおとぎ話に思いを馳せた。 メドゥーサ。 その美貌で己を討伐するためにやって来た兵士を魅了し、睨み付けた相手を石化させるという、伝説上の魔物。 恐怖の対象であるはずだが、しかし物語の中で石化の魔物に殺された兵士らは、その魔物の前に立ったことをきっと後悔しなかっただろう。あの美しい化け物に、その美しい瞳に、真正面から見つめられるならば―― (死んでもいい、と。思ったっておかしくない) ぐっと唇を噛み、胸の辺りのシャツを握り締めた。曲がりなりにも公に捧げた心臓が熱く脈打っている。 真っ直ぐに敵を見据えるエレンの横顔を見上げて、リヴァイはいつか自分が最期を迎える時はこの瞳に見つめられて死にたいと、誰にも言えない願いを抱いた。 メドゥーサ
2015.02.01 pixivにて初出 |