フ ェ イ ク






【1】


 男子校とは何とも奇妙と言うか独特と言うか、とにもかくにも普通ではない$「界だとリヴァイは思う。共学とは異なる長所も確かにあり、だからこそ男子のみを集めた学校が今も存在しているのだとは納得しているが、それにしても『これ』は受け入れ難い。
「副会長! アッカーマン副会長!!」
 リヴァイの役職名およびファミリーネームを連呼しながら追い縋ってくるのは、先程リヴァイに告白して一刀両断された男子生徒である。
 そう、男子。ここは男子校であるので、生徒と言えば男子である。そしてリヴァイも男子であり、つまるところ男が男に告白されたというわけだ。
 男子校と言う女性がいない空間において、男が男に恋愛感情を持つのは決して珍しいことではないらしいと、リヴァイはこの学校に来て知った。しかも自分が同性によくモテるタイプであるのだと、知りたくもない事実をまざまざとこの二年間と少し、突き付けられてきた。
「どうかお願いです! 副会長、今フリーなんですよね!? ならどうかボクをあなたのパートナーにしてください! 今はボクのこと好きじゃなくても、必ず好きになってもらえるはずですから!」
 どこからそんな自信が来るのだと胸倉を掴み上げて問い詰めたくなるが、こういう場合はひたすら無視するに限る。でなければ、相手はリヴァイに触れてもらえたと喜んでしまうのだ。それを経験則として知っているくらいにリヴァイはモテた。
 鋭い目つきが印象的だが全体的に整った容姿と小柄な割にしっかりとした肉体を持つリヴァイは、どちらかと言うと「リヴァイに抱いてほしい」と思っている人間に告白されることが多い。現在進行形でリヴァイを追いかけている生徒もそちらの人間らしく、「副会長って綺麗好きなんですよね! 大丈夫です、ボクの身体まだ綺麗ですから!」と、日中にとんでもない発言をしてくる。普通はリヴァイが真正面から告白を断るだけで相手は退いてくれるのだが、時々こういう面倒臭いのが現れるのだった。
 うんざりしつつリヴァイは足早に校舎を進む。人のいる場所に行けば、相手もこのようななりふり構わぬ発言を抑えるだろう。
 角を曲がり、一般教室がある方へ。徐々にざわめきが聞こえてきて、後ろからついてくる男子生徒がはっとしたのが分かった。
 あと少し、とリヴァイは足を速める。しかし相手もなかなかにしぶとかった。リヴァイが綺麗好きもとい潔癖症であると知っているにもかかわらず、逃げられてはたまるかと腕を掴んできたのだ。
「ッ!」
 嫌悪感に襲われて制服の下で鳥肌を立てるリヴァイ。一瞬、足を止めてしまい、男子生徒の顔に喜色が浮かぶ。
「副会長、ボクと――」

「ジャン! 早く来いって!」
「あっ、こらエレン! 前見ろっ前!!」

「へ? うわっ」
「……ッと」
 リヴァイも誰かが近くにいることは分かっていた。人がいる場所へと急いでいたのだから。しかし何も足を止めた瞬間に誰かとぶつかることまでは望んでいなかった。と、自分にぶつかって尻もちをついた男子生徒を見下ろして思う。
 サラリと流れる黒髪と猫のように吊り上った大きな双眸。瞳の色は黄金。襟章の色から判ずるに、学年はリヴァイの二つ下――今年入学した一年生だ。
 エレンと呼ばれたその少年は自分がぶつかっても少し踏ん張るだけで済んだリヴァイを見上げ、慌てたように立ち上がる。
「すみません副会長! よそ見をしていました。お怪我はありませんか?」
「いや……」
 それを言うならお前の方だろうと思いつつも口には出さない。嬉しくないことに、余計な一言を言ってしまったがために惚れられたことも一度や二度ではないのだ。そもそもこうしてぶつかった時点ですでにアウトの可能性が高い。
 後ろに忌々しい相手、前にも面倒臭いかもしれない相手。今日は厄日かとリヴァイが辟易する中、返答を聞いた黒髪の男子生徒はほっと胸を撫で下ろし、「よかった」と微笑む。そして――
「大変失礼いたしました。それじゃあ、オレはこれで」
(ん?)
 滅多にないこの反応。この素っ気なさ。
 リヴァイは思わず目を瞠り、気付けば去ろうとする少年の腕を掴んでいた。
「待て」
「え、……あの?」
 金色の目が驚きに丸く見開かれている。決してリヴァイに恋慕や邪な思いを抱いているようには見えない。
 容姿は端麗と十分に言えるレベル。性格も、先輩であり生徒会副会長であるリヴァイに礼儀正しく振る舞える程度には良好。後ろから馬面の友人と思しき男が慌ててやってくるが、これもまたリヴァイに恋愛的な意味で興味はないようだった。
(見た目、問題無し。性格、問題無し。交友関係、おそらく問題無し)
 この高校を卒業するまでのあと一年弱。厄介事から逃れられるチャンスかもしれない。
「おい、お前」
「は、はい!」
 皆の憧れである生徒会副会長に腕を掴まれて話しかけられたための緊張か、はたまたリヴァイの眼光の鋭さに恐れおののいただけか。どちらかは分からないが、ピンと背筋を伸ばした黒髪の男子生徒にリヴァイはニヤリと唇を歪ませて告げた。
「お前、今日から俺の恋人な」
「え……?」
 状況を飲み込めないのか、金色の双眸が困惑に揺れる。
 その数秒後、当人も馬面の友人もリヴァイを追いかけてきた生徒もその場に通りかかった別の生徒達も巻き込んで、阿鼻叫喚となったのは、リヴァイの人気を考えれば当然のことと言えた。

* * *

「はぁ……なるほど。オレを虫除けにするってことですか」
 綺麗な顔のくせに結構辛辣な物言いをするのはリヴァイがぶつかった一年生。名をエレン・イェーガーと言う。
 人気のない所ということでリヴァイに空き教室まで引き摺られてきたエレンはそこで事情説明を受け、同じ学校の生徒達を『虫』と称しつつも、
「わかりました。副会長の卒業まで、オレがあなたの偽物の恋人を演じさせていただきます」
 と、あっさり承諾してみせた。
 あまりにも物分かりの良い様子にリヴァイは拍子抜けする。が、そうは問屋が卸さなかった。
 エレンは人好きのする笑みを浮かべて更に告げる。
「それで、副会長はオレにどんな対価を支払ってくださるんですか?」
「は?」
「まさかタダとは言いませんよね? 男が好きってわけでもないのに無償で恋人役なんてやるはずないでしょ」
 眩しかったはずの笑顔がだんだん黒いものに見えてきた。副音声で「バカですかあんた」とまで聞こえてくる。
 はっと鼻で笑われてリヴァイのこめかみに血管が浮き出るが、いやいや待てと思い直す。変にリヴァイに媚びへつらう人間より、これくらいの方が面倒なことにならないはずだ。ビジネスライク、ギブアンドテイク。そんな人間であれば逆に信用しやすい。無償でリヴァイの恋人役をやろうと言ってくる人間がいれば、その真意を疑うべきだろう。
 リヴァイは怒りを治めて大きく息を吐き、エレンを見つめた。
「お前は何が欲しいんだ? 言ってみろ」
「そうですねぇ……」
 空き教室の机に腰かけて脚を組んだエレンは、ついとリヴァイから視線を外して窓の外を見る。しばらく黙考していた彼は再びリヴァイに視線を戻し、にこりと笑った。
「恋人役が必要なくなるまで、一日一個オレのお願いをきいてください。もちろん無理難題は言いません。副会長の力で実現可能な範囲に留めます」
「はあ?」
 無茶苦茶だとリヴァイは吐き捨てる。眉間には深い皺が刻まれた。
 しかしそんな交換条件では受け入れられないとリヴァイが断ろうとすると、
「いいんですか? 今更やっぱヤメタなんて言っても、あんたが公衆の面前でオレに告白したことに変わりはない。今まで男には興味ないと思われていた副会長様が再びフリーになってしかも男もイケると知った生徒達はどうするでしょうね? 今まで以上に告白の嵐になるのは間違いありません。あんた、卒業までそれを一人で捌くおつもりで?」
 そう言い切ったエレンの顔に可愛らしい後輩の面影など微塵も無い。
(最悪だ)
 リヴァイは胸中で毒づく。
 とんでもない野郎に引っかかってしまった。
 しかし今更後悔しても遅い。エレンの言う通り、もしここで彼の協力を取り付けられなければ、リヴァイは今まで以上に男共の告白を受ける羽目になるだろう。それが卒業まで続くのだ。考えただけで頭が痛い。
「さあ、どうします?」
 完全に勝者の笑みでエレンはリヴァイを眺めている。
 一日一個とはいえ願いを叶える『エレンの下僕』となるか、それとも面倒臭い告白を受け続ける羽目になるか。二つに一つ。
(……仕方ない)
 リヴァイはスマートフォンを取り出した。
 運が無かったのだと思おう。それに対価をしっかり求める方が無償で恋人役をやる人間よりも信用できると、自分は先程そう考えたではないか。
「契約成立、ですね」
 差し出されたスマートフォンの意味を正確に理解してエレンも同じく制服のポケットからスマートフォンを取り出した。恋人を演じるならば、連絡先の交換は当たり前だ。
 エレンは滑らかな指使いでスマートフォンを操作し、あっと言う間にアドレス交換を終えてしまう。
「はい、どうぞ。これからよろしくお願いしますね、リヴァイさん」
「ああ……」
 語尾にハートまでつきそうな声で答えたエレンにリヴァイはどっと疲れを覚えて肩を落とした。





【2】


 何事もはじめが肝心です、とエレンは言った。衝撃的なスタートを切ってこそ周囲に与える影響は大きく、リヴァイに告白しようと目論む輩の心を折ることができるのだと。
 そんなわけでまず恋人のフリとしてリヴァイ達が実行したのは、翌日一緒に登校するというもの。本当に『はじめ』である。
「リヴァイさん、電車通学でしたっけ? 最寄駅はどこですか」
「▲▲駅だが」
「あ、オレと同じですね。いつも何時の電車に乗ってます? オレ、リヴァイさんに合わせますから駅から一緒に行きましょう」
 エレンの家がどこにあるのかリヴァイは知らないが、どうやら意外と近所だったらしい。いつも使っている電車の発車時刻を教えると「はやいですねー」とエレンは笑う。確かに一般生徒より少々早いのだが、その顔を見る限り彼にとっても大した負担ではないようだ。
 そんなわけで、二人は一緒に登校することになった。
 面倒だと思いきや、リヴァイがいつも通りに家を出ると、大きな駅ではないためかホームに着いてすぐエレンがこちらを見つけて駆け寄ってくる。そのまま二人で同じ車両に乗り、大した会話もなくリヴァイは文庫本を開き、エレンはスマートフォンを弄っていた。エレンが「リヴァイさんはいつも通り過ごしてくれていいですよ」と言ったので、それを実行したらこうなってしまうのだ。
 ただし学校が近付いて同じ路線を使っている学生の姿が見え始めると、エレンはそっとリヴァイに近寄り、遠目にはまるで仲睦まじく登校しているかのように振る舞った。
 あまりにも切り替わりが劇的だったものだからリヴァイがふざけて「手でも繋ぐか?」と言ってみたものの、エレンは首を横に振る。
「リヴァイさんって潔癖症でしょう? オレらの学年でもすでに有名ですよ。無理しなくていいですから、そのまま突っ立っててください。オレが上手いことやります」
「そうか」
 ならいいや、とリヴァイは思う。確かにエレンの言う通りリヴァイには潔癖症の気があり、電車通学しているものの吊革や手すりに掴まることは決してない。鍛え上げられた下半身で見事なバランスを取り、転倒を防いでいる。
 リヴァイは無言で文庫の文字を追い、エレンはその文庫が己の陰で他人から見えなくなる場所に立ち、まるで二人が会話でもしているかのように誤認させる。
 その後、電車を降りてからもエレンは宣言通りに見事な恋人のフリを続け、同日の昼休みには学校中に二人の関係が知れ渡ることとなった。
 追い打ちとばかりにエレンは昼休みにもリヴァイの教室を訪れ、一緒に昼食をとろうと誘ってきた。クラスが驚愕に見舞われる中、リヴァイは頷き、自身がいつも昼飯を食べている生徒会室へ向かう。行き先にエレンの意見は反映されないし、そもそもエレンは何も言わない。行儀よくリヴァイの後ろに続いて、誰もいない生徒会室の前まで辿り着くと――
「じゃあオレ、別の場所で飯食ってくるので、リヴァイさんはここでゆっくりしてください。あ、今日の願い事はジュース一本で! 放課後に買ってくださいね〜」
 と言って、どこかへ去って行った。
「その程度の願いでいいのか……?」
 何を願われるのか警戒していたリヴァイは拍子抜けしつつ、椅子に座って母親が作った弁当の蓋を開ける。
「そう言えば……」
 母親の味を噛み締めながらリヴァイは去って行ったエレンの姿を思い出し、ぽつりと呟いた。
「あいつ、昼飯はコンビニで買ってんのか?」
 思い出すのはカサカサと音を立てていた白い小さなビニール袋。
 エレンの家では弁当を作らないのだろうか。
「ま、気にすることでもねぇな」

* * *

「リッヴァーイ! 聞いたよー。昨日、例の後輩ちゃんに自販機で奢ってあげてたんだってね! たとえジュース一本でもあなたが誰かに何か買ってあげるなんて貴重過ぎない!?」
「朝からうるせぇぞクソメガネ」
「しかも……ふっふっふ、ここから見てたよ。今日も後輩ちゃんと同伴出勤とはね……。あの堅物副会長も変わるもんだ」
「だからうるせぇっつってんだろ」
 リヴァイは眉間に深い皺を刻みながら呻く。
 エレンとの擬似交際二日目。本日も一緒に登校したリヴァイを教室――ではなく、先に寄った生徒会室でやかましく出迎えたのは、クラスメイトで腐れ縁そして生徒会会計係であるハンジ・ゾエだった。
 伸ばした髪を高い位置で無造作に結った彼は眼鏡の奥の瞳をきらりと光らせてリヴァイに近付く。
「あなたに恋人ができたって聞いた時は何の冗談かと思ったけど、なんだ、ちゃんと可愛がってんだねぇ」
「うるせえって何度言わせりゃ気が済むんだてめぇは」
 あと一回何か言ってきたら蹴るか殴るかしようと心に決めつつ、リヴァイはドスの利いた声を出した。しかし残念なことに一般人なら震え上がりそうなそれもハンジにはあまり効果が無い。
 苛立ち紛れに舌打ちをする。
「そもそも別に可愛がってるわけじゃねぇよ」
(つーか脅されてるわけだしな)
 一日一個エレンの願いを叶えるという条件を承諾しなければ、リヴァイには今まで以上の告白劇が待ち構えている。それを回避するためならばジュースの一本や二本、安いものだろう。無論、本日以降もそのように簡単な願い事で済むなどと気を抜くつもりは微塵もないが。
「はああああ? あれでぇ?」
 リヴァイの反論にハンジは声を裏返しながら異を唱えた。
 うるさいと告げる代わりにこちらが拳を振り上げるとさっと避けられる。しかしその口が閉まることはない。
「登校も一緒で」
(あいつが恋人のフリのために登校時間を合わせてるだけだ)
 ハンジの言にリヴァイは心の中だけで憮然として呟く。
「お昼も一緒で」
(実際には一緒に食ってねぇよ)
「放課後にはジュース買ってあげて」
(対価だからな)
「普段からそんなことしてる人間なら気にしないけど、あなただよ、あなた。あのリヴァイ・アッカーマンがやってるんだよ? それを可愛がっていると言わずして何と言えば? ねぇちょっと本人さん」
(フリだ、フリ。虫除けだ)
 そろそろ心の中で返すのも面倒臭くなるリヴァイだったが、彼をよく知るハンジですらこれなのだから他人はもっとリヴァイ・アッカーマンの恋人という存在に衝撃を受けていることだろうと推察する。
 期待通りの効果が出るかどうかはもうしばらく様子見の必要があるものの、手ごたえはあったとリヴァイは思った。
「うわーもう何だよ、そんな嬉しそうな顔しちゃって! はいはい可愛い恋人ができたようで良かったですねぇ男だけど!」
 エレンと契約した甲斐はあったようだとこっそり喜んだのが顔に出てしまった――とは到底思えないのだがハンジは何かを察したらしい――ため、眼鏡の会計係殿はやれやれと肩を竦める大仰なジェスチャーをとってから机の上に置きっぱなしにしていた書類に目を通し始めた。
 生徒会室はハンジが口を閉じただけで一瞬にして静かになる。リヴァイもまた適当な場所に鞄を置き、生徒会の仕事を片付けるべく席に着いた。
 グラウンドに面した窓からは運動部の朝練の声が聞こえてくる。また朝から図書室や教室で自習するため早めに登校してきた生徒達の話し声も。ここからでははっきり聞き取れないが、彼らの会話の中にリヴァイとエレンのことも話題の一つとして上っているのかもしれない。


 そんな生活が一週間続き、リヴァイ・アッカーマン副会長の恋人エレン・イェーガーという名が学校中に浸透すると、リヴァイに告白しようとする者はパタリといなくなった。
 エレンの恋人としての演技は非常に優秀で、リヴァイにもほとんど負担がかかっていない。懸念していた対価についてもジュースや学食の食券を奢れだとか、はたまた小テストが近いから勉強を見てくれだとか、そんな他愛ないものばかり。エレン本人は「オレはあの副会長をパシリにできて満足ですけどね」と腹の立つ笑顔でのたまったものの、客観的に見れば可愛らしい願いばかりだった。しかも学校が休みの日は向こうからコンタクトが無いため、願いを叶える必要もない。休み明けに休日分も合わせて願いを複数個叶えろとは言われなかったので、どうやら願い事は一日一個限定。貯蓄方式ではないらしい。
「こりゃ楽でいいな」
 昼休み。生徒会室に一人で籠って昼食を取りながら仕事をしていたリヴァイは、この一週間を振り返って満足そうに呟く。
「……ま、そもそも男が恋人だなんて有り得ないんだが」
 あくまでも自分達は恋人ではなく、ただ恋人のフリをしているだけの他人。その認識は変わらない。今までも、これからも。





【3】


 ここ一週間、エレンの朝は早い。
 普通に登校する場合より二時間ほど早く起床し、朝の支度を整える。朝食をとって準備ができたら家を出て駅へ。リヴァイが使っている駅とは学校を挟んで正反対の位置にあるのがエレンの本当の最寄駅であった。
 そこから電車に乗って学校前の駅を通り過ぎ、リヴァイが使っている駅まで向かう。電車に乗っている時間は合計で三十分程度だが、リヴァイは生徒会の仕事のため一般生徒より一時間早く登校する。それに合わせる格好となるので、エレンは結局、かなり早めに家を出なくてはならないのだった。
 家を出る前にエレンは必ず鏡で身だしなみをチェックする。規律に厳しいリヴァイから注意を受けないよう校則通りかつ清潔な状態であることを洗面所で確認すると「よし」と頷き、それでようやく玄関へ向かうのだ。今朝もしっかり制服姿に乱れがないのを確かめてから玄関へ。途中、リビングダイニングのテーブルの上にある写真立ての前で足を止めてエレンはふっと淡い笑みを浮かべた。
「行ってきます、母さん」
 その声は小さい。
 医者であり、急患のため本日未明まで病院に詰めていた父親が部屋で眠っているからだ。
 とは言っても、エレンが眠りを妨げるような物音を出したところで父親のグリシャが怒って起きてくることはないだろう。ここ何年もエレンは怒られることや褒められることも含めてグリシャとろくに会話をした記憶が無かった。
 エレンが幼い頃に他界した母のカルラは写真の中で優しげに微笑んでいる。その手前には父親が起きてきた時のためにエレンが用意した軽食。しかしながら食べてもらえる可能性は低い。おそらく今日もグリシャはエレンの作った飯を食べる暇もなく病院へ向かうことだろう。そして残された食事はエレンの夕飯となる。
 もうずっと続いてきた習慣だが、何も感じなくなるほど慣れることではない。エレンは眉尻を下げ、静かに家を出て行った。


「おはようございます、リヴァイさん」
「ああ」
 リヴァイを待たせることが無いようエレンは何本か早い電車でこの駅にやって来ているのだが、相手がそれに気付く様子はない。環状線を反時計回りに走る電車で登校するリヴァイに時計回りの電車でこの駅までやってくるところを見られるわけにはいかないので、エレンは特に慎重になっている。
 素っ気ない挨拶に笑みを崩すことなくエレンは電車に乗り込み、文庫本を開くリヴァイの隣で吊革にぶら下がった。リヴァイは潔癖症であるためあまり他人に触れたがらない。それを知っているエレンは電車が揺れてもぶつからないよう気を付けながら、途中で同じ車両に乗り込んできた制服姿の男子生徒を見つけると身体の位置を変えて彼らからリヴァイの本が見えないよう気を付けた。彼らには、リヴァイが文庫などではなくエレンに興味があるよう勘違いしてもらわなければならないのだから。
 電車を降りると駅から学校まで歩く。会話が無くともエレンがリヴァイの隣を歩き微笑んでいるだけで、他人は二人が仲良く登校しているものだと思ってくれた。
 校門をくぐり、校舎に入るところまでは一緒。そこから先は、リヴァイは生徒会室へ、エレンは図書室へ向かう。エレンはそこで適当な時間になるまで自習するのだ。教室でも自習は可能だが、そこだとリヴァイとの関係を聞きに来る生徒に煩わされる。反して静寂を求められる図書室なら、不躾な視線はあっても無闇矢鱈と話しかけられることはない。


 昼休み。他者に見せつけるためだけにリヴァイの教室へ赴き、昼食を一緒にとろうと誘う。リヴァイもこちらの意図は察しているので、すぐに弁当を持って教室から出てきた。
 恋人のフリを始めてから一週間経った今、教室内は驚愕する人間もいなくなり、リヴァイに思いを寄せつつ叶わないと知って悔し涙を呑む者や仲良さげに見える二人の様子に和んだり呆れたりしつつ眺める者等、それぞれの立場でリヴァイとエレンの背を目で追いかける。廊下でもそのような視線に晒されるが、生徒会室が近付くと人影はパタリと無くなった。この周辺は一般の生徒が不用意に立ち寄って良い場所ではないと知れ渡っているからだ。
 その一因でもあるリヴァイは生徒会の仕事をしつつ昼食をとっているらしいが、エレンが同席することはない。偽物の恋人と生徒会室の前で別れた後は立ち入り禁止とされている屋上へ向かい、単純な構造の鍵をピッキングで開けて外へ出た。
 皆がエレンはリヴァイと昼食を一緒にとっているのだと思い込むよう、昼休みの間、エレンは自分が一人でいるところを見られないようにしている。リヴァイの方に誰かがやって来た場合は、彼が上手いこと言っていることだろう。エレンは今日用事があったのだ、とか。集中したい仕事があったからエレンには遠慮してもらった、だとか。
 今日は天気も良く、エレンは転落防止用フェンスに背を預けて本日の昼食を膝の上に置いた。カサカサとビニール袋を漁って出てきたのはコンビニで買った調理パンと紙パックのジュース。弁当を作れないわけでは無かったが、朝が早いのでついつい自分の分は手抜きをしてこういうものになってしまう。
 それを手早く食べ終えたエレンは普段なら昼寝や携帯ゲームをするのだが、今日は少し違った。
「放課後かぁ。面倒臭ぇな……」
 ポケットに突っ込んでいた紙片を取り出す。そこにはエレンを呼び出す文言が綴られていた。ベタなことに、指定された場所は使用者の少ない第二体育館の裏だ。
 エレンは太陽に透かすようにして紙片を持ち上げて苦く笑う。
「まぁ『副会長の恋人』が呼び出しをすっぽかすわけにもいかねぇし、付き合ってやるか。……頼むから見えるところには傷をつけてくれるなよ」
 差出人の名前も何も書かれていないが、どういう人種かは見当がつく。エレンにリヴァイを独り占めされたと憤慨している副会長様のファンや恋人希望の野郎共だ。十中八九エレンに文句を言うため、場合によっては危害を加えるためのお呼び出しだろう。
 一人か二人……いや、三人までなら殴りかかって来ても対処できる自信はあるが、それより大人数だと無茶なことはできない。リヴァイにバレることにはならないよう、エレンは相手の賢さに賭けるしかなかった。


(漫画で見たことある。でもこれ、普通やってんのは女だよな)
 それとも女子校で一部の女子が男子のように振る舞うのと同じように、男子校でも一部の男子が女々しくなったりするのだろうか。
 と、ぼんやりエレンが考えている場所は第二体育館の裏。放課後になり、呼び出しに応じてここまでやって来たエレンを出迎えたのは、線の細い男子生徒が五人。その姿を見た瞬間、エレンは「リヴァイさんモテモテですね」と相手に聞こえないよう小さく呟いてしまった。
 五人の生徒はエレンを壁際に追いやって囲み込むと、口々に「お前は副会長に似合わない。今すぐ別れろ」といった旨の文句を吐き出し始めた。テンプレート過ぎて笑えてくるが、実際に笑ってしまうと面倒なのでエレンは俯いてひたすら我慢する。
 そんなエレンの態度が萎縮しているように見えたのだろう。五人は更に勢いを増し、そのうちの一人がエレンの胸倉を掴み上げた。
「黙ってないで何か言ったらどうだ?」
 名前すら知らない男子生徒がエレンに詰め寄る。しかし無理やり顔を上げさせたエレンの表情を見て、彼は小さく狼狽えた。
「な、なんだよその顔」
「うん? オレどんな顔してる?」
 そう問いながら小首を傾げたエレンの顔に、当然ながら五人に対する恐れなどない。それを真正面から見てしまった生徒が言葉に詰まってエレンを離してしまう。
「生意気な一年生め……ッ!」
 気を奮い立たせるように放たれたその一言で、エレンはようやく相手が上級生であることを知った。彼らの襟に学年を示す襟章はなく、制服は着崩されている。
(リヴァイさんが好きならまずは見た目をもっとちゃんとしろよな)
 そう思いながらぼんやりと眺めていたのが悪かったのか、上級生の一人が鞄からペットボトルを取り出す。何をされるのか分かったもののエレンが避けずにいると、案の定、男子生徒はキャップを外したペットボトルの中身をエレンに向かってぶちまけた。
 顔から胸までを甘い液体で濡らされたエレンは雫が入らないよう目を伏せる。
 素直にひっかぶったことで少しは向こうの溜飲も下がったらしく、その後、上級生らは何事か捨て台詞を残しながらようやく去って行った。
「チッ……汚ぇな。…………あ、これリヴァイさんの台詞っぽい」
 そんな呑気なことを呟くエレン。しかしこれでは生徒会の仕事が終わったリヴァイを迎えに行くことはできないだろう。エレンは尻ポケットに入れていて無事だったスマートフォンを取り出し、リヴァイに向けてメッセージを打った。
「今日のお願いは『ぼっちで帰れ』です、っと」


「用は済んだか?」
 汚れた顔を洗いに近くの水場へ行くと、そこにはクラスメイトで友人のジャン・キルシュタインが立っていた。憮然とした表情でエレンを見つめるところから察するに、彼はエレンがさっきまでどういう目に遭っていたのかある程度分かっているらしかった。
「用があったのはオレじゃなくてあちらさんだったけどな」
「そうかよ。ご苦労さん」
「おー」
 エレンは水を出してばしゃばしゃと顔を洗う。制服のシミ抜きは家に帰ってからだ。母親が早くに他界した所為でエレンの家事スキルは同世代よりも高い。
「タオル使え」
「さんきゅー」
 ジャンに差し出された未使用のタオルを有り難く拝借して顔を拭いたエレンは、ふう、と一息ついて悪友を見やった。
「洗って返す」
「いや、いい。どうせ家の洗濯機にぶち込むだけだ」
「じゃあ遠慮なく」
 ジャンはエレンからタオルを受け取ると、体育館裏の方を一瞥する。それからエレンに視線を戻すと、うんざりとした表情を隠すことなく半眼になった。
「らしくねぇな。大人しすぎるだろ。それともお前、マジであの目つきの悪い副会長が好きなのか」
「目つきの悪さはお前も負けてねぇだろうが……」
「うるせえよ。で?」
「別に惚れてるってわけじゃねぇよ。オレ、ホモじゃねぇし。まぁ尊敬はしてるけど」
「はあ? だったらなんでこんな面倒な目に遭っても付き合ってんだ?」
 ジャンとエレンの出会いは三年前、中学の頃にまで遡る。そこから今日まで何かと縁があり、悪友関係を持ち続けていた。そんなジャンが知るエレン・イェーガーならば、難癖付けられて大人しくしているはずがない。ゆえに心配しつつ今に至ったのだろうが、エレンの返答を聞いて彼は目を丸くしてしまった。
 そんなジャンの様子に苦笑を浮かべ、エレンはぽつりと説明を付け加える。
「あの人にはでっかい恩があるんだ」
「恩……?」
「そ。昔、腹空かせてたオレに晩飯を食わせてくれたんだよ」
「は? それで懐くとか、犬かよお前」
「そうかもな」
 本来ならここで「誰が犬だ!」と怒るところだ。しかしそんな反応が無かったことで、ジャンはエレンがこの件を誤魔化そうとしているのを察したらしい。
「ったく」
 ジャンは後頭部をがりがり掻くと、そのまま背を向ける。
 変なところで聡く、またお人好しな彼は、エレンの誤魔化しに乗ってくれることにしたようだ。
 エレンもまたこれ以上何かを言うような真似はせず、部室棟へと去っていく背中を黙って見送った。





【4】


 リヴァイ・アッカーマンはお節介焼きである。この学校内での自分の評価を自覚してからはあまり下手に手出ししないよう戒めているが、根本的に困っている人を放っておけない性質の持ち主だった。
 日々の小さなことは勿論だが、なまじっか他人より優れた身体能力を持っていることもあり、事故に遭った人間を救出したり、老人を襲って逃亡する引ったくりを捕まえたりと、なかなかに警察から感謝状をもらうレベルのことも行っていた。
 それゆえに自分がどんな状況で誰を助けたのかという記憶は普段あまり意識しない。一々思い出していてはキリがないからだ。
 ――これもまた、そんなリヴァイが記憶の彼方に追いやってしまった出来事の一つ。リヴァイにとってはいつものことであっても、助けられた当人の人生をガラリと変えた劇的な出会い。


 五年前のある秋のこと。
 学校の部活で遅くなったリヴァイは足早に家路へとついていた。秋のつるべ落としとはよく言ったもので、辺りはすっかり暗くなっている。
 腹も空いてきたことだし、さっさと帰って夕飯にありつきたいリヴァイは、家までのショートカットとして近所の公園を通り抜けることにした。
 まだ明るいうちは小さな子供達が元気よく遊んでいただろうその場所も人気が無くなり、今は乏しい街灯の光にぼんやりと照らされている。人攫いでも出そうだな、とは思うが、リヴァイ自身はそのような被害に遭うつもりなど微塵もない。どちらかと言うと、これまでの経験上、人攫いの現場に出くわして犯人を捕まえるパターンだ。
 別に被害に遭っている人間を探すわけでは無かったが、なんとなく周辺に気を配りつつリヴァイは公園内を進む。だがその視界の端に見逃すべきでないものが映ったような気がして足を止めた。
「……あ?」
 まだ十代前半だというのに、その年齢に似合わず眉間には深いシワが刻まれる。青灰色の鋭い双眸が見つけたのは、林の傍のベンチに腰かける小さな人影だった。
「ガキ……だよな」
 こんな時間にこんな場所で一人きりになっているのが最も相応しくない幼い少年が、ベンチに座ったままじっと前方の地面を見つめている。リヴァイが足音を立てて近付いても少年はこちらを一瞥すらしない。
 リヴァイは少年の前に立つと「おい」と声をかけた。
「クソガキ、こんな所で何してる」
「……………………」
「……チッ」
 返答は沈黙。まるでこちらのことなど気にしていない。
 しかしこんな子供に対して赤の他人なのだから放っておけば良いというわけにもいかず、リヴァイは相手と視線を合わせるようにその場でしゃがみこんだ。
「親はどうした」
「……………………」
「迷子か? 家が分かれば送ってやる。無理なら警察に連れて行ってやる」
「……………………」
「だんまりかよ」
 埒が明かず、リヴァイは苛立たしげに頭を掻く。
 しゃがんでいるため今のリヴァイはベンチに座る少年よりも視線が低い。そのおかげで少し見上げれば、少年の顔が良く見えた。
「……ただ事じゃねぇよな」
 近付いて、こうして顔を覗き見ることでようやく分かったのだが、少年の目は暗く淀み、子供らしい輝きが無い。この暗がりの中できちんと確認することはできないが、その姿は全体的に汚れており、リヴァイにある一つの可能性を抱かせた。
(虐待……ネグレクトか。一応怪我の確認をしておいた方が良いかもしれない)
 育児放棄や体罰の可能性を疑い、リヴァイは苛立たしげにまた舌打ちをする。意外と大きな音になったそれに子供が怯える様子はない。人形のように表情が欠如した顔を地面に向けているだけだ。
 リヴァイは少年から視線を逸らしてとある一方を見た。そちらにはリヴァイの自宅がある。公園を抜ければすぐのところに建っている我が家では、母親が温かな夕飯を用意して息子の帰りを待っているだろう。
(警察や児童相談所に届けるにしても、まずは温かいメシだな。あとフロ)
 潔癖症の血が疼き、少年を汚れたままにしておくのは妙に気持ちが悪い。必須事項に風呂を追加して、リヴァイはその場で立ち上がる。
「立て、クソガキ」
「……………………」
「そうか。じゃあ勝手に連れて行く。嫌なら暴れろ」
 一応宣言だけはして、リヴァイは少年の身体を抱き上げた。背中にリュック、右腕にジャージが入った袋をひっかけ、重さなど感じていないかのようにスタスタと歩き始めた。
 実際に重さを感じていないわけではなかったが、思った以上に少年の身体は軽く、リヴァイは三度目の舌打ちをしそうになる。しかしそれを何とか堪えて家へと急いだ。


 今日初めて会った人間をいきなり風呂に突っ込むのはどうかと母親に言われ、リヴァイはまず少年の顔と手を蒸しタオルで綺麗に拭った。少年は大した抵抗もなくされるがままで、本当に人形でも相手にしているかのようだ。念のため少し服を捲って調べたところ、怪我らしい怪我は見当たらなかったので、その点でだけはほっと胸を撫で下ろした。だが少しとはいえ他人に服を捲られて何の抵抗もしないのは異常だ。
 それが済んだら事情を察した母親と共に食卓を囲む。父親は出張ばかりの多忙な人間であり、今日もまた世界のどこかを飛び回っているらしい。なお、自分が眠った頃に両親が無料のインターネットサービスを利用して甘い言葉を囁き合っているのは、息子として今後とも知らないフリをし続ける所存である。
 リヴァイと母親がテーブルを挟んで向かい合う形で席に着き、公園で拾った少年はリヴァイの左横に。育ち盛りの息子のためにいつも多めに用意されている夕飯は、新しく増えた少年にも慌てることなく供された。
 しかしアッカーマン家の二人が食事を始めても、少年はいっこうに手を付けない。かろうじてリヴァイが命じれば席に着いたが、そこから先は全く動かないのだ。
「食え。遠慮すんな」
 そう言ってみるものの、少年は相変わらずの沈黙。声はまだ聞けていない。
 息子の眉間の皺が深まるのを見て、それまで見守る側に徹していた母親が少年に声をかけた。
「あんた、どうしたんだい。どうして一人で公園なんかにいたのか、言ってごらん」
 おしとやかな見た目に反してリヴァイの母親はなかなかに快活な物言いをする。それに驚いたのか、はたまた別の何かが琴線に触れたのか――少年の母とリヴァイの母の喋り方が良く似ていたためだとリヴァイには思いもよらなかった――、この時初めて少年が反応らしい反応を見せた。
 少年はぴくりと肩を震わせ、ゆっくりとその視線をリヴァイの母親へ向ける。リヴァイが横で驚きを露わにする一方、母親は青灰色の双眸を笑みの形に細めて「ほら」と少年の言葉を促した。
「……ぁ、さ」
「ん?」
「お……かあさ、ん、が」
 輝きを失ったままの瞳で虚空を見つめて少年は告げる。
「しんじゃった」
 ある程度覚悟はしていたものの衝撃的な告白にリヴァイと母親は息を呑む。それでも年の功なのか、素早く復活した母親が「お父さんは?」と問いを重ねた。
「しごと……だと、おもう」
「お母さんが死んでからお父さんとお話した?」
 ふるふると首が横に振られる。
 確定だ。この少年はネグレクトに遭っている。母親を亡くし、その悲しみを埋める間もなく父親から育児放棄されたのだ。おそらくは父親の方も自分の妻の死に耐えられなかったのだろう。しかしそれで我が子を放置していい理由にはならない。
「ご飯はちゃんと食べてる?」
「いらない」
「どうして?」
「たべたく、ない」
 少年はゆるゆると目を閉じる。そのまま眠って起き上がってこないのではと思わせる気配があった。
「おかあさんと、おなじところ、いきたい」
「……ほぅ。そうか」
 少年が喋り出してからリヴァイが初めて声を発した。鈍い色の瞳がリヴァイに向けられる。リヴァイは視線が合っているのかすら怪しいその目を見返したまま、テーブルの隅にある果物が入った籠に右手を伸ばした。目的はリンゴでもオレンジでもなく、それらを食す時に用いられる果物ナイフ。
「じゃあ俺がその望みを叶えてやろう」
 直後、リヴァイがナイフのカバーを取り去って銀色の刃を少年に向けた。右手にナイフ、左手はカバーを捨てて少年の首筋を掴む。椅子から転げ落ちるようにして少年を床に押し倒すと、ダンッ! と大きな音を立ててその顔の真横にナイフを突き立てた。
 一連の流れを母親は静かに見守っている。シンと静まり返ったリビングダイニングで、「ひっ」と引きつる声がした。
「……なぁクソガキ。てめぇ死にたいんだろう? だったらなんでションベン垂らして泣いてやがんだ?」
 リヴァイが押さえ付けたままの子供はナイフに怯え、上も下も水浸しになっていた。両目からはぽろぽろと涙を流し、恐怖によって失禁してしまったためズボンの色は濃くなって尿がフローリングにまで染み出していた。
 リヴァイが身体を離しても床の上で身を縮めたまま、ひっくひっくと少年は肩を震わせ泣き続ける。リヴァイは知らないことだが、その涙は少年が母親の死後初めて流したものだった。
「起きろクソガキ。結局てめぇは死にたくねぇんだよ。それが分かったらグズグズやってねぇで出されたモンちゃんと食え。ナイフで刺されなくても、人間はモノを食わねぇだけで死ぬんだぞ」
 少年の肩の震えが徐々に収まってくる。引きつった泣き声も小さくなり、やがてリヴァイ達が見守る中、ゆっくりと身を起こした。
 涙に濡れた瞳は室内の照明を受けて輝き、それを見たリヴァイはようやく少年が自分達を認識したのだと感じた。
「メシ、食うよな?」
「……は、いッ」
 こくりと頭が縦に振られる。
 リヴァイはほんの少しだけ口角を上げた。
 そんな彼らを眺めながら、
「でもその前に、やっぱりお風呂入っておいで」
 と、失禁したままの少年を指して母親が告げるのは、この数秒後のこと。


 リヴァイと少年が揃って風呂から出てくると、夕食は温め直され、びしょびしょになった床も元に戻っていた。ナイフを突き刺した跡だけがここで起こったことを物語っている。
 匂いに刺激されて少年の腹が空腹を訴えると、母親が朗らかに笑って着席を促した。
 温かな身体と温かな食事。それを与えられた少年は茫洋とした瞳が嘘であったかのようにキラキラと目を輝かせ、小さな身体に出されたものは何でも詰め込んでいった。
 その後、少年本人から名前と住所を聞き出すと、意外に近所であることが判明した。一人であの公園にいたのだからそう遠くない場所だろうと予想はついていたが、ほんの三区画先だったのには驚かざるを得ない。
 今夜も少年の父親は帰って来ないとのことだったので、リヴァイ達は少年を家に泊め、翌日、自宅に送り届けることにした。


 一夜明け、少年の自宅前。
 立派な一軒家の表札には『イェーガー』と書かれている。そして少年の名は――
「エレン、本当に警察や児相に連絡しなくていいんだな?」
「はい。オレの周り、頼れるヤツがいっぱいいるから、もう大丈夫です」
「そうか。お前がそうだと言うなら、その選択を信じよう」
「リヴァイさん、ありがとうございました」
 ぺこりとお辞儀をする少年にリヴァイは「ああ」と短く答える。
 二人の関係はそれまで。
 リヴァイが踵を返すと、エレンはしばらくその背を見送っていたが、やがて家に入る。
 この後、リヴァイは父親が新しい家を買ってそちらに引っ越したため、二人が再会することはなかった。
 秋の一夜の出来事はリヴァイの記憶の奥底に埋もれ、しかしエレンの中では一生の宝物として輝き続けることとなる。





【5】


「エレンさんよぉ……。またですか」
「またですな」
 冗談めかして言葉を交わすのはジャンとエレン。いつかの時と同じく利用者の少ない第二体育館裏からさほど離れていない水場は本日も人気が無く、そこでエレンを待ち構えていたジャンは半眼のまま大げさに溜息を吐いた。
「呼び出しは通算何回目だ?」
「今日で九回目だな」
「副会長と付き合い始めてどれくらい経った?」
「二ヶ月」
「……うわ、週一ペースかよ」
 初めてエレンがジュースをぶっかけられたあの日から一応気にかけていたので、時折エレンが姿を消すのはジャンも知っていた。しかし予想以上に呼び出しの頻度が高く、顔が嫌悪に歪む。
 今のところ、エレンがこうして呼び出しを受けて無意味な罵詈雑言その他を受けているのを知るのは、当事者達を除けばジャンくらいだろう。
 原因であるリヴァイ・アッカーマンは欠片も気付いていない。それはエレンの努力と機転によるものだが、仲間内から気遣いが足りないと評される彼がここまで心を砕く理由に、ジャンは未だ納得できていなかった。
 恩があるとは聞いている。しかしそれは本当に理不尽な呼び出しや暴言をひたすら耐える理由足り得るのだろうか。それに今はまだこの程度で済んでいるが、この先事態が悪化したとしたら――。
「お前に何かあったらアルミンやミカサにオレが顔向けできなくなっちまうだろうが。気を付けろよ。つーか変なことまで我慢するんじゃねぇぞ」
 本心を隠してそう告げる。
 アルミンとミカサはエレンを大切に思っている人間の筆頭だ。しかしながら進路の都合上高校は別々である。彼らからエレンのことを頼むとジャンはよく言い含められていた。エレン自身もそれは知っているので、ジャン本人の心配を悟ることなく「わかってるよ」と不貞腐れ気味に答える。
(いや、コイツ分かってねぇな)
 ジャンはもう一度溜息を吐いた。
 エレンは昔からこうと決めたら中々意見を曲げない。むしろ全然曲げない。意地でも曲げない。そんな彼がリヴァイに悟られないよう――つまりリヴァイに変な気を使わせないよう――不都合は全て隠しきると決めた。ならばエレンがどうしても隠せないほどの事態になるまで、この大馬鹿者は全て身の内に抱えて我慢するのだろう。
(オレには何ができる?)
 考えを改めさせることができないのなら、一体自分はエレンを守るために何ができるのか。水道で顔や頭を洗い始めたエレンの背中を睨みつつジャンは考える。
 こうして未使用のタオルを準備して待っていてやることだけか? 意味もなく気を揉むことだけか?
(いっそのこと副会長に全部チクってやろうか)
 エレンの努力を水泡に帰すような案まで考える。だがそれを実行に移すのは最後の最後になるだろう。
(あー、くそっ)
 妙案は浮かばない。
 頭を掻きむしるジャンに、顔を洗い終わったエレンがタオルを要求しつつ「何やってんだ馬」と暴言を吐く。ジャンは「だれが馬だ!」と叫びつつその顔にタオルを投げつけ、ごしごしと拭き始めた悪友殿に舌打ちを一つ。
 これで顔は綺麗になったが、本日は中のシャツにまでジュースが染み込んでいる。ペットボトル一本程度じゃねぇだろうな、と僅かにエスカレートしつつある状況を察して苛立ちながら、ジャンは三度目の溜息を吐き出した。
「……とりあえずお前、運動部のシャワー室使えよ」
「オレ帰宅部だけど。運動部じゃねぇヤツが使ったら怒られるぞ」
「一緒に入ってやる。誰か来たらオレが使ってることにするから」
「ん。じゃあ頼む」
 エレン自身、ベタベタして相当気持ちが悪かったのだろう。ジャンは素直に提案を受け入れた彼と共に部室棟がある方へ足を向ける。シャワー室があるのは部室棟の一階だ。今の時間帯ならまだ生徒達は運動場や体育館で汗を流しており、部室棟には近寄らないはず。
「なぁジャン」
「んあ?」
「……部活、サボらせて悪かったな」
「お前が遠慮するとか気持ち悪い」
「殴るぞ」
「イテェよ。殴ってから言うな」
 ぼそぼそと喋りながら人のいない道を選んで進む。
 そのまま誰にも目撃されることなく辿り着いた二人は、カモフラージュのため一緒にシャワー室を使い、エレンはジャンが汗をかいた時用に置いてあった私服を借りて、ジャンはもう部活に出る気が無いので制服姿で、揃って部室棟から校門へ向かった。
 濡れた髪で部室棟を出た二人がとある生徒に目撃されていたなど、知る由もなく。

* * *

 帰宅部のエレン・イェーガーが他人と一緒に髪を濡らしたままシャワー室がある部室棟から出てきた。その事実だけで、ごく普通の友人関係である彼らの仲を誤解する者は残念ながら存在する。
 そのうっかり誤解してしまった生徒――エルド・ジンは、翌日の放課後、暗い表情で生徒会室に現れた。リヴァイの一学年下で生徒会の書記でもあるエルドは重い溜息を吐きながらパイプ椅子に腰を下ろす。
「どうしたエルド」
 室内にいたのは、クラスは違うが同じ学年で同じ役職のグンタ・シュルツ。今年最終学年であるリヴァイやハンジ、それに生徒会長は大学進学に関する説明会を受けているので、彼らがここに現れるのは一時間後だ。
「いや……気にするな」
「そんなあからさまな溜息を吐かれて気にしないほど俺は薄情じゃないぞ。ホラ、言え。聞いてやる」
 グンタは別の学校にいるエルドの恋人に関しての悩みだと思い――その件で何度か悩み相談会を開いた過去があるのだ――、気楽に告げる。エルドの方もまたグンタがそう思っていることを半ば予想した上で、彼の考えを裏切ることになる悩みをぼそりと呟いた。
「リヴァイ副会長の恋人のことで、ちょっと」
「……は?」
 グンタは予想外の話題に目を丸くする。
「エレン・イェーガーのことか?」
「ああ」
「彼がどうした」
 ただの一般生徒だったエレンは今やこの学校で「超」がつくほどの有名人だ。リヴァイが一目惚れして彼の方から告白したという話は瞬く間に学校中に広がり、当時はエルド達も随分驚いた。しかしリヴァイ本人の口から噂は事実であるとはっきり聞かされ、その堂々とした姿に「おめでとうございます」と声をかけたことは今も覚えている。
 尊敬する先輩が誰かを好きになり、しかもその想いを受け入れられたのを二人は素直に良いことだと思った。また副次効果でリヴァイに告白する人間が激減したのも喜ばしい。今なお彼を想う生徒は少なくないが、行動に移す者が減ってリヴァイが煩わされずに済むのなら、名前もよく知らぬ生徒達よりリヴァイの方がずっと大切なエルド達は今の事態を歓迎する。
 しかし――。
「エレンが副会長以外の男と、その……深い関係、に、なっている可能性がある」
「うん?」
 突拍子もない話にグンタが若干声を裏返らせながら首を捻った。どういうことだと問い詰められ、エルドは昨日の放課後、己が目撃したものについて語り始める。
 特に長い話ではない。ただ単に、帰宅部であるはずのエレンが別の誰かと一緒に髪を濡らしたままシャワー室がある部室棟から出てきた。それだけだ。どのくらいの時間、彼らが屋内にいたのか、またそれまでは何をしていたのか等は全く分かっていない。
 ごく一部の切り取られたシーンだけを目撃したエルドは、そこから推測される事態に顔色を悪くする。もしかして自分達が敬愛する副会長は恋人に裏切られているのでは、と。
「いや……だが、リヴァイ副会長が選んだ人だぞ?」
「俺も信じたい。でもなぁ」
 エルドは頭を抱える。
 昨日、エレンは制服ではなく他人から借りたと思しき私服を着ていた。自分の制服を着られなくなる事態とは一体何なのか。年頃の男子生徒としては「どんだけ激しい着衣プレイだよ」と妄想が飛躍してしまったのも仕方ないだろう。たとえ他校に彼女がいても、AVは大切な友達だ。
 沈んだ声で心情を吐露するエルドに合わせ、グンタも徐々に顔色を悪くしていく。
 赤の他人の恋人が浮気していようがいまいが全く構わないが、リヴァイに関することとなれば話は別だ。最終的には二人揃って暗い顔のまま膝を突き合わせるまでになってしまった。
 そんな彼らはすっかり忘れている。何やかんやと話しているうちに一時間が過ぎ、この部屋に渦中の人物がやって来ることを。
 ガラッと扉が開いて現れたのはリヴァイ・アッカーマン副会長。エルドとグンタは揃って息を呑み、青いままの顔をリヴァイに向けてしまう。
「? おい、どうかしたのか二人とも」
「あ、その……」
「えっと……」
 二人は視線を逸らして口ごもる。だがリヴァイに隠し事はできず、たった数十秒後には全て白状することになった。あなたの恋人が浮気しているかもしれません、と。

* * *

「エレンのことは俺がきちんと話を付けるから、お前らは何もするな。エルド、お前が目撃したことは絶対に他言するなよ。分かったな」
「は、はい」
 頷く後輩達を見やってリヴァイは彼らに分からないよう嘆息する。
 エレンが浮気しているらしい。それは別に構わない。何せ自分達は本当の恋人ではないのだから。怒る必要も悲しむ必要もない。ただ、これまで恋人役として実に完璧な振る舞いをしてきたエレンにしては奇妙だなと思った。
 ……と言うのが、偽物の恋人を演じるリヴァイにおける正しい思考回路であったのだが、実際にはエルドの話を聞いて何故か胸がむかついている。腹を立てるのはお門違いだろうと理性的な己が脳内で囁いても、じわりとした熱と痛みが消える気配はなかった。
(何なんだこれは……)
 自問するも、答えは出ない。


 その日の業務を終えて下校する。時折一人で帰宅するよう指示してくるエレンだったが、本日は一緒に帰るつもりらしい。
「リヴァイさん、お疲れ様です」
 校門前で待っていたエレンはリヴァイの姿を認めると嬉しそうな表情を浮かべ、隣に並んで歩きだす。実にいつも通りだ。そこに違和感はなく、浮気している者のぎこちなさや挙動不審な態度は見られなかった。
(いや、そもそもこいつに特定の相手がいたとしてもそれは浮気にならないんだが)
 浮気と言う単語を胸中で呟いた途端、胸のむかつきが増した。思わず足を止めて眉間に皺を寄せると、隣を歩くエレンが「リヴァイさん?」とこちらの顔を覗き込んでくる。
「体調が優れないようでしたら家までお送りしますけど。もしくはご家族に連絡しますか?」
 リヴァイの体調を心配するエレンの表情は、恋人としてそう振る舞っているのではなく、本心からのものであるように見えた。眉根を寄せ、不安そうに揺れる金色の双眸が美しくて、リヴァイはうっかり見入ってしまう。
「あの……リヴァイ、さん?」
 目を合わせたまま黙り込むリヴァイにエレンがまた瞳を揺らす。
 今のエレンはリヴァイしか見ていない。それを自覚した途端、リヴァイの中から胸のむかつきが消え去った。
「リヴァ――」
「なんでもねぇよ。ほら、帰るぞ」
「あ、は、はい!」
 先に歩みを再開したリヴァイの後をエレンが慌てて追いかける。
 それを心地よく思う一方、エレンの行動をきっかけとする心理状態の変化にリヴァイは疑問を抱く。何故こうも自分は簡単に乱されるのか。
 エレンの浮気疑惑のことも含め、リヴァイはもう少しこの少年のことを知らなければならないのかもしれない。
(俺の方から動いてみるか)
 今までは全てエレンに任せきりで、リヴァイは恋人らしい行動を自ら取ろうとしなかった。だが疑問を解決するためには、こちらから動き、相手の反応を観察する必要がある。
 そうと決まれば、と早速リヴァイは隣に並んだエレンの手を掴んだ。
「え?」
「こっちの方がそれっぽいだろ」
「そっ、そうです、ね」
 リヴァイに手を握られて混乱するエレンは少し面白い。明日の朝もこうしようとリヴァイは簡単に決めてしまう。
 人前で堂々と手を繋ぎ登校した二人に周囲がどよめくことが、今この瞬間、確定した。


(あれ? リヴァイさん潔癖症じゃねぇの? オレに触って大丈夫なのか?)
 手袋越しでも何でもなく直に皮膚を触れ合わせるその行為にエレンが目を自黒させる。しかし疑問を口に出すことはなく、ゆえに嫌悪感を欠片も抱かずエレンに触れることができている現状をリヴァイが自覚することもなかった。





【6】


「最近リヴァイさんがすごく構ってくる。なんでだ」
 昼休み。エレンはいつもの定位置で空を見上げながらぼやいた。
 ここ最近リヴァイがおかしい。自ら進んで手を繋ぎ、また言葉を交わそうとする。こちらが何も要求していないのに勝手に飲み物を買ってきて「差し入れだ」と言ったり、『対価』として勉強を見てもらっている時には、問題が解けると頭を撫でてきたりするのだ。
 今日に至っては昼休みにリヴァイがわざわざ一年生のクラスにまでエレンを迎えに来た。「エレン、メシ行くぞ」と。その瞬間、クラスの数名からエレンに鋭い視線が突き刺さった。もしそれに物理的な効果があったなら、エレンは今頃串刺しになっていただろう。
「まぁ楽しそうだからいいんだけど……」
 これがリヴァイにとって負担になっているなら問題だが、よくよく観察してみると、どこか楽しそうなのだ。その一方で、リヴァイもまたエレンの反応を注視しているような気がする。余計なことに気付かれるのは厄介だが、エレンもボロを出すような真似はしない。
 ただ一つ問題なのは――。
「なんとお呼び出しが週一どころかほば三日に一回のペースになってきてますよ、ジャンさん」
 ここにはいない悪友に愚痴る。
 リヴァイが人前で接触するようになり、嫉妬する生徒が大幅に増加したのだ。元々エレンを呼び出していた集団は一度に現れる人数が増え、更に行動自体が悪化し始めている。ジャンには酷いことになる前に何とかしろと言われているが、リヴァイのことを思うとどうにも反抗できない。
 今日もまた放課後に呼び出しを受けているのでとても憂鬱だった。
「あと半年強の我慢なんだけどなぁ」
 そうすればリヴァイが卒業し、この関係は終わる。それまでなら耐えられるはずだと、エレンは己に言い聞かせるように「大丈夫」と呟いた。

* * *

 エレンを昼飯に誘うため一年生のクラスにまで行ったのに、結局別々に食事をとる羽目になったリヴァイは、自覚のないまま機嫌を急降下させてその日の授業を終えた。
 今日は生徒会の活動もなく、早く帰ることができる。それならばいっそエレンを誘って寄り道してやろうと考えていた。
 どこにいる? と所在を問うメッセージを送信して反応を待つが、数分経っても返事が無い。いつもなら瞬時に返されるのにおかしいとリヴァイは首を捻り、エレンの姿を求めてひとまず彼のクラスへ向かう。
 あの少年が普段どこで何をしているのか、リヴァイは全く知らなかった。彼の姿を探し始めてようやくリヴァイはその事実を自覚する。
 何故かそれに腹が立ち、リヴァイは一年生の教室へ向かいながら舌打ちをした。たまたま近くを通っていた生徒がビクリと肩を跳ねさせる。
 まだ生徒がかなり残っている廊下を歩けば、リヴァイの表情を見た者から順に慌てて端へ身を寄せた。飛び退いた、と表現してもいい。エレンが自分の知らない所で知らないことをしているという事実に対し、リヴァイは己が考えている以上に腹を立てていたのである。
 やがてエレンのクラスにまでやって来ると、リヴァイは廊下側の窓から身を乗り出して中を覗き込んだ。しかしそこに求めた姿はない。念のためスマートフォンを再度確認するも返信は未だ来ておらず、リヴァイはすぐ傍の席で帰宅の準備をしていた生徒に「おい」と声をかけた。
「ひゃ、ひゃい!」
 窓からいきなり不機嫌そうな副会長が顔を出したことですでに十分萎縮していた生徒は可哀想なくらい声を裏返らせて背筋を正す。
 あからさまなその反応にリヴァイは己がどんな顔をしているのか察し、咳払いをして気を静めた。だがその一方で、もしこの名も知らぬ生徒の立場にいるのがエレンだったなら、苛立ちを隠せていないリヴァイを前にしてもスマートに返答したはずだと考える。
(……あいつと他人を比べても意味ねぇだろうが)
 ちょっとしたことでエレンの方が優れていると結論を出したがるのはまるで自分の物を自慢する子供のように思えて、リヴァイはひっそりと自嘲した。
「あの、副会長……?」
 自分から呼びかけたと言うのに先を続けないリヴァイを訝って一年生が声をかける。
「誰かお探しですか?」
「ああ。エレンがどこにいるか知らないか」
 リヴァイが顔を出した目的を知り、男子生徒は教室内へ首を巡らせた。
「おーい! 誰かエレンがどこにいるか知らないかー?」
 教室全体へ向けた問いかけに対して生徒達はそれぞれ反応を見せる。首を傾げる者、虚空を見上げて記憶を浚う者、「部活に行ったヤツとか他のクラスにも聞いてみる?」と問い返す者、等々。皆、なかなか協力的なようだ。しかしながら昼休みに顔を出した時とは異なり、リヴァイがエレンに会いに来たことを知って嫉妬や怒りを抱く者の姿は見られなかった。ここにいるのはエレンに好意的な者達ばかりなのだ。
「……」
 小さな引っ掛かりを覚えてリヴァイは首を傾げる。何かがおかしい。
「おっ! ジャン、部活中に悪い。お前エレンがどこにいるか知らね?」
 先程ここにいない者にも聞いてみるかと言っていた生徒が電話越しにエレンの所在を確認していた。しかしその内容を聞く限りでは、電話の向こうの相手も知らないようである。
 結局、このクラスの誰もエレンがどこに行ったか知らず、窓際の生徒は「すみません」とリヴァイに頭を下げた。
「いや、いきなりすまなかった。もしエレンを見かけたら俺に連絡するよう言ってくれ」
「わかりました」
 リヴァイは一年生の教室を離れる。
 すでに部活に行った者や他のクラスの者も知らないということは、もしかしてエレンは人があまりいない所に向かったのかもしれない。シャワー室の件が頭をよぎったが、人気のない場所へ向かう理由について今は深く考えないことにした。


 何か所か人気のない場所を重点的に探して空振りし続けた後、リヴァイは第二体育館の近くへとやって来た。普段、生徒達は第一体育館を使用するため、ここに寄り付く人間は少ない。その更に裏側ともなれば、業者が雑草駆除のために年に一度か二度立ち入る程度である。
 そのはずだったのだが、複数の人間の話し声が聞こえてリヴァイははっとする。途切れ途切れに聞こえる声は集団が誰かをなじっているもののようで、思わず眉間に皺が寄った。多数で弱い者いじめとは実に気分が悪い。さて一体どんなヤツらかと近付くリヴァイだったが――
「おいっ! 何とか言えよイェーガー!」
 聞こえてきた声に息を呑む。それはリヴァイが探していた人物の名だったからだ。
 まさかそこにエレンがいると言うのか。しかも彼は今、複数の人間に囲まれ、責められていると? 思いもしなかった展開にリヴァイは足を止めてしまう。
「なぁお前、わかってんだろ? 自分がアッカーマン副会長に相応しくないんだって。なのになんで今もまだ堂々とあの人の隣に立ってられんの? 僕達散々忠告してやったよな? でもなんで止めねぇの? 馬鹿なの? それとも僕らのこと馬鹿にしてんの? さっさとあの人を解放してあげろよ。お前なんかあの人の隣に立っていい人間じゃねぇんだよ」
 ここの男子生徒らしき者の台詞と共にびしゃびしゃと水音がする。周囲のクスクスという不快な笑い声も共に起こり、何事かとリヴァイが様子を窺えば、エレンが頭からペットボトルのジュースをかけられていた。いつもピシッと糊のきいた綺麗な制服が見る間に着色料まみれの液体に汚されて色を変えていく。
 カチリ、とリヴァイの頭の中でピースが嵌る。
 エレンが時折リヴァイに一人で帰るよう促した理由、それからシャワー室のある部室棟から『誰か』もとい『おそらく運動部に所属する知人』と共に出てきた理由がいとも容易く導き出された。しかも遡れば結局リヴァイが原因ではないか。
 あの少年に本物の恋人がいるわけではなかったのだと知ってふっと胸の奥が軽くなる。と同時に、エレンに不愉快な難癖をつける生徒らに敵意にも似た腹立たしさを感じた。
 空になったペットボトルを男子生徒が脇に捨てる。ジュースをぶちまけられてもエレンに堪(こた)えた様子はない。怒りもせず、笑いもせず、ただ無表情でなるがままといった風情だ。そんな様子に自分達がナメられていると感じたのか、リーダー格らしき生徒が舌打ちをしてエレンに一歩近付く。
「イェーガー……お前マジでムカつくよ」
 拳を振り上げ、反対の手でエレンの胸倉を掴んだ。
 誰かがエレンに触れる――。その光景にリヴァイは全身の血が沸騰するような怒りを覚えた。
(あいつは俺のだぞ! 勝手に触るな!!)
 自分が一体何を思ったのか、それを理解する暇もなくリヴァイは飛び出そうとする。
 しかし、

「そこまでにしときませんか、先輩方。暴力沙汰を起こしたって学校にバレて困るのはそちらの方でしょう?」

 リヴァイがいたのとは反対側の方向から新たな人影が現れた。淡い色の髪を刈り上げた若干面長の男子生徒で、その手には今までのことを録画していたと思しきスマートフォンを持っている。
「……チッ、一年のくせに」
 圧倒的に自分達が不利であることを悟ったのか、エレンを囲んでいた生徒達が小さく悪態をつきながらこちらに歩いてくる。学年を示す襟章を着けていない者もいたが、着けている者を確認しただけでも一年生から三年生の姿が確認できた。
 リヴァイは身を隠してそれをやり過ごし、エレンともう一人の様子を窺う。堂々と出て行けばいいのに、どうしても出遅れたことが悔しくて素直に出て行けなかった。
「おい、エレン。大丈夫か」
「ジャン……」
 面長の男子生徒の名前はジャンと言うらしい。リヴァイはどこかで聞いたことがあるような名だと思ったが、それがエレンを探して彼の教室で耳にしたものであるところまでは思い出せなかった。
 ジャンは持っていたタオルをエレンの頭にかぶせる。そのまま遠慮なく雫が滴る髪を拭こうと手を伸ばすが、パチンとエレン本人によって弾かれた。
「お前なんで出てきたんだよ。いつもなら手出ししねぇくせに」
 唸るようにエレンが言う。ジャンは一歩引いて呆れたように肩を竦めた。
「そりゃてめぇが大事(おおごと)にしたくないっつったからだろ」
「だったら」
「手ぇ出されそうになってただろうが。あんなもん見過ごせるか」
 少しだけ不機嫌そうに口を曲げて返答するジャン。「気を付けろって言っただろ」と続ければ、しばらくしてエレンから「悪かった」と謝罪の言葉が送られた。
「またシャワー室使うか?」
「おう。頼む」
「じゃあとっとと行くぞ」
 ジャンがそう言って促すと、二人は揃って部室棟がある方へ――つまりリヴァイがいる方へ――足を向ける。咄嗟に身を隠したリヴァイの存在に気付いた様子はなく、その後も二人の会話は続く。
「そろそろちゃんと抵抗しろよ。いくら副会長に迷惑がかかるからって……。いっそあの人に護衛でもしてもらえ」
「できるわけねぇだろ。あなたの所為で一部の生徒からやっかみを受けています。だから守ってくださいって? ムリムリ」
 ぱたぱたと手を振るエレン。それから彼はふっと金の双眸を細めて優しげな……心から何かを慈しむような表情を浮かべて告げた。
「やっぱあの人に迷惑はかけらんねぇよ。リヴァイさんはオレの恩人なんだから」





【7】


 同性愛者でもないエレンがわざわざリヴァイの恋人役を務めていたのは、安っぽい『対価』のためではなく、リヴァイに恩があるからだった。
 その恩が何なのかすぐに思い出すことはできなかったが、リヴァイはようやく知った真実に自分が想像以上に打ちのめされていると気付き、愕然とする。
「ああ……なんだ。そういうことか」
 エレン達が去った後、ずるずるとその場に座り込んでリヴァイは呻く。
 あの少年がリヴァイヘの恩で動いていることがとてもショックだった。それはつまり、どう考えてもやはりエレンはリヴァイに恋情を抱いているわけではないからであり、更には仮にリヴァイがエレンへ告白をしてOKをもらえたとしても、それはきっと恩返しのため♂桙カてくれたに過ぎないから。そこに心は伴わない。
「ははっ」
 リヴァイは小さく自嘲した。
「……俺、あいつのことが好きだったんだな」
 いつからなのかは知らない。しかし気付いた時には心惹かれていた。エレンの一挙一動に感情が乱されるのもそのためだ。
 けれども相手はリヴァイに恋などしておらず、ただの恩返しで傍にいてくれるだけ。こんな滑稽なことが他にあるだろうか?
 ぐしゃりと前髪を握り潰し、「クソッ」と毒づく。
 自分は馬鹿だ。
 エレンがリヴァイのためにどれほど心を砕き、苦境に耐え、穏やかに笑ってくれていたのか、全く気付いていなかった。それどころか己の心さえ把握しきれておらず、声すらかけられないまま今もその背を見送っただけ。リヴァイ・アッカーマンの名が聞いて呆れる。これなら、今までリヴァイに告白してきた生徒達の方が人としてよっぽど優秀だと言えるだろう。
 エレンと出会ったきっかけでもある男子生徒のことを思い出す。彼は告白を断ったリヴァイに諦めず追い縋り、「今はボクのこと好きじゃなくても、必ず好きになってもらえるはずですから!」と言っていた。あれは自分の魅力に対する自信とは別に、リヴァイに好きになってもらえるよう努力すると言う意思の表れであったのかもしれない。だとしたら本当に尊敬に値する。見込みのない人間に対しそこまで言えるのは、並大抵のことではないだろう。リヴァイはエレンが恩だけで傍にいてくれていたのだと知って落ち込んでしまう程度なのに。
「………………」
 と、そこまで考えてリヴァイはふと顔を上げた。
 名前も忘れたあの生徒ですらリヴァイが振り向くことを諦めなかった。それに比べてリヴァイはエレンから『恋情』は向けられていなくても、恩があると感じてもらえる程度には『好意』を抱かれている。ならばリヴァイが諦める道理は無いのではないか。むしろあの生徒の場合と比べれば、勝算はかなり高いのではないだろうか。
 ゼロやマイナスからのスタートではない。ただ少しエレンからリヴァイに向けられた好意の種類を変えさせればいいのだ。
 当たって砕けるのは確かに怖いが、当たる前に自ら砕けてしまうなど言語道断。
 リヴァイは立ち上がり、尻に付いた汚れを払う。とその時、スマートフォンがメッセージの着信を告げた。リヴァイは端末をポケットから取り出して確認する。
 送信元はエレン。内容はリヴァイにエレンを待たず帰るよう告げるもの。理由は書かれていないが、十中八九制服が汚れたためだ。今頃エレンは部室棟に辿り着いてシャワー室にいるのかもしれない。あのジャンとか言う男と共に。そのままジャンと共に下校するのだろう。
「ッ」
 チリチリと焦げ付くような感覚。
 エレンヘの想いを自覚した途端、嫉妬心は容易くリヴァイの胸を焼く。
 しかもリヴァイはまだエレンとジャンの関係を知らない。ただの友人ならばそれでいいが、もしもっと親密な関係だったとしたら……。その時は怒りで目の前が真っ赤になるかもしれないし、逆に悲しくて何もする気が起こらなくなるかもしれない。どちらにせよ、エレンとジャンの関係がエレンとリヴァイの関係より親密である事態は歓迎し難かった。
 だんだんと彼らがシャワー室を出た後にどうするのか気になってくる。リヴァイはエレンからのメッセージをもう一度読み、それからスマートフォンをポケットに突っ込んだ。そして歩き始める。
 向かう先は校門ではない。エレンとジャンがどのような関係なのか見極めるため、リヴァイは部室棟へと向かった。


(俺はストーカーか)
 自分でツッコミを入れるリヴァイは現在、電車に揺られていた。同じ車両の少し離れた所にはエレンがいる。エレンはシャワーで汚れを落とし、借り物の私服に身を包んで、ジュースまみれの制服はビニール袋に入れて片手に持っていた。
 エレンがリヴァイに視線を向けることはない。何故なら彼はリヴァイが同じ車両に乗り込んでいるなど思いもよらないからだ。
 部室棟からここまで尾行してしまったリヴァイは自身の行動に呆れつつも、未だに止めることができない。それはこの電車がリヴァイ宅の最寄駅に向かっているから……ではなかった。
 驚いたことに、エレンが学校前の駅から乗り込んだのは、リヴァイが利用する駅とは反対側に向かう電車。ジャンと一緒に乗り込んだため二人で放課後にどこかへ行くのかと訝ったものの、件の馬面の少年は途中で下車し、エレンは未だ車両の中である。
(こっちに何の用があるんだ……?)
 エレンの家は反対方向のはず。それなのに汚れた制服という荷物を持ってまで向かう先とはどこなのか。
 リヴァイが考え込んでいる間に電車は再び駅に停車し、人の入れ替わりが発生する。その中にエレンの姿を見つけ、リヴァイは慌てて電車を降りた。
「ここは……」
 ホームの天井から吊るされている駅名はどことなく知っている気がする。いや、『知っている』ではなく『懐かしい』だろうか。
 答えが喉の途中に引っかかって出てこない感覚に首を傾げるリヴァイ。しかしエレンが改札へ向かったので、まずは彼を追いかけることに専念する。
 息をひそめてエレンの背中を追う。そのうちに、リヴァイは駅名を見た時と同様の感覚を抱くようになった。そして子供達が遊ぶ小さな公園が見えてくると――
(そうか)
 懐かしさの理由に思い当たる。ここはかつてリヴァイが住んでいた地域だ。父親が新しい家を買ったため同じ町の反対側に引っ越したが、五年前までリヴァイはここに住んでいた。この公園を斜めに突っ切れば、すぐ元我が家に辿り着くことだろう。
 リヴァイが懐かしさに浸っている間にもエレンは歩を進める。そうして彼が辿り着いたのは、一軒の大きな家。しかもリヴァイが住んでいた場所から三区画しか離れていない。表札に書かれていたのは『イェーガー』の文字。
「まさか」
 それを見てリヴァイは息を呑んだ。
 この家を知っている。この家の前まで来ることになった理由を覚えている。否、正確には『ようやく思い出した』だ。
「エレン・イェーガー……なんで気付かなかったんだ」
 鍵を開けてエレンが家に入った後、リヴァイは茫然と呟く。
 虚ろな目をした幼い子供。死んだ母の元へ行きたいと言ったその子にリヴァイが告げた言葉。記憶の奥底に眠っていたそれらが鮮やかに甦る。
 エレンの言っていた『恩』とはこれのことだったのだ。
「そうか……お前があのガキだったのか、エレン」
 リヴァイは口元に小さな弧を描いてそう告げると、静かにエレンの家の前から去る。見返りを求めてあの小さな子供に手を差し出したわけではないが、それでもやはり助けて良かったと心から思うことができた。





【8】


「エレン、メシ行くぞ」
 今日も今日とて生徒会副会長様は偽の恋人を教室まで迎えに来てそう言い放った。最初の頃は内心驚いていたエレンも、慣れればどうと言うことはない。むしろ来ることを想定していたので、昼食が入ったビニール袋を手にして相手を待たせることなくリヴァイの元へ行く。
 だが今日は少しばかり様子が違った。生徒会室の前に辿り着くと、リヴァイは扉に手を掛けるのではなく背後のエレンを振り返る。
「リヴァイさん?」
「エレンよ、お前いつもどこで食ってんだ?」
「屋上ですけど……あっ」
 うっかり立ち入り禁上の場所に立ち入っていることを告げてしまってエレンは顔を青くするが、リヴァイは怒るでも叱るでもなく「ほぅ、そんな所にいたのか」と感心するように言った。
「他人もいねぇだろうし、くつろげそうだな」
「あ、はい。そうですね。ゆっくりできると思います」
 まさかリヴァイとの交際を他者に疑われないようわざわざ姿を消していたなどと言うわけにもいかず、エレンは無難な答えを返す。するとリヴァイは一度頷き、
「よし、じゃあ今日はそこで食うぞ」
「は? え、ちょ、リヴァイさん!?」
 エレンの手を取り歩き出した。
 こちらが戸惑っているのに気付いているはずなのだが、リヴァイはどこか楽しそうな雰囲気すら滲ませてエレンの手を引く。彼は一体どうしたのだろうか。最近のリヴァイはとてもおかしい。
(でも、楽しそうだから良いのかな)
 恩人の仏頂面がこの状況を楽しんでいるように見えて、ただ彼に引き摺られるだけだったエレンもまた自らの意志で足を動かし始めた。


「お前やっぱりコンビニ飯だったか。明日から俺が二人分の弁当持ってきてやるから、お前はそれやめろ」
 二人揃って屋上の転落防止用フェンスに背を預けて昼食の包みを解くと、リヴァイはエレンの昼飯を見てそう命じる。
 エレンの昼飯はいつも通りコンビニで購入したパンや惣菜。一方、リヴァイの弁当は手作りで見た目も栄養バランスもボリュームも満点の逸品だった。
「え、や! い、いいですよ! リヴァイさんがそこまでする必要は無いです」
 エレンは慌てて顔の前で両手を振る。ただでさえリヴァイに恩のあるエレンが彼にこれ以上何かをしてもらって良いはずがない。むしろ逆にエレンがリヴァイの分の弁当まで用意すべきではないのか。潔癖症の彼が他人の作った弁当を口にするかどうかの問題はさておき。
「遠慮すんな」
 しかしながらリヴァイは譲らない。
 青灰色の双眸がひたとエレンを見据え、それから過去を懐かしむようにゆっくりと細められる。エレンがその変化に戸惑っていると、彼は手を伸ばしてエレンの頭をそっと撫でた。
「昔なんかメシどころか風呂に入れて一晩泊まらせてやっただろ」
「――ッ!」
 エレンは息を呑む。
「覚えてたんですか!?」
「まぁな。正確にはこの前、思い出したんだが……。すぐに気付けなくて悪かった」
 てっきり記憶の彼方へやってしまっているものだと思っていたのに。まさかリヴァイが五年前の出会いを覚えていた――正確には『思い出した』らしいが――とは思いもよらず、エレンは驚愕で目を丸くする。
「その後は、どうだ。元気にやってたか?」
「あっ、はい。父とは相変わらずあんまり話もできてませんが、友達とか近所の人の助けもあって元気にやれてます」
「そりゃ良かった」
 エレンの頭の上に乗せられたままの手がぽんぽんと優しく動く。それが嬉しいような、恥ずかしいような。胸にくすぐったさを感じてエレンは微かに肩を竦めた。
「リヴァイさんのおかげです。あの公園であなたが声をかけてくれたから今のオレがいるんです」
「大袈裟だな。母親が死んで悲しくても生きることを選んだのはお前自身だ。俺はその手助けをしたにすぎない」
「とても大事なことですよ。リヴァイさんにはどれだけ感謝してもし足りないし、返し切れないくらいの恩があります」
「……その恩返しの一環で俺の我侭を聞いてくれてんのか?」
 そう問われてエレンは幾許か逡巡した後、小さく頷いた。今まで恋人を演じる本当の理由についてリヴァイには秘密にしてきたが、五年前のことを思い出してしまったならもう認めるしかあるまい。
「願い事を叶えるなんていう交換条件を持ち出したのは、俺に昔のことを思い出させる必要が無いと思ったからか? これが恩返しだと知ったら俺がお前の行為に対して遠慮するからって」
「はい。それと、俺が嘘の恋人に抜擢された原因でもある『リヴァイさんを困らせる生徒』と同一視されたくなかったから……っていうのもありますね。もしあいつらと同じような人種だと思われたら、リヴァイさんはオレを傍に置いてくれないと思ったので」
「まぁ……あの時はそうだろうな。(今はむしろ恋愛感情を持ってくれていた方が良いんだが)」
「え? リヴァイさん、最後の方は何て……」
「何でもねぇよ」
 後半の台詞が良く聞こえなかったので聞き返すものの、リヴァイは首を横に振る。彼の態度には特に気負った様子もなかった。それなら良いかとエレンも思い、しつこく追及することはしない。
「あ! って言うか弁当です。オレはリヴァイさんに恩返ししなきゃいけない立場なんですから、これ以上負担をかけるわけにはいきません」
「だからそこは遠慮するなと言ってるだろうが。これまでお前に色々させちまってんだから、俺にも何かさせろ」
「でも」
 反論しようとするエレンにリヴァイがきっぱりと言った。

「お前を大事にしたいんだ」

「………………卑怯ですよ、その言い方」
 恩人であり敬愛する対象たるリヴァイにそう言われてしまっては反論などできない。彼の望みを叶えることがエレンの望み――恩返しなのだから。しかも一瞬、心臓がドキンと高鳴って、エレンはそれを隠すように唇を尖らせる。
 その表情がリヴァイの笑いを誘ったらしく、彼はエレンの頭を撫でながらくつくつと肩を震わせた。笑いを止められないリヴァイを見ているとエレンもまた笑えてきて、終いには二人揃って声を上げる。
「分かりました。じゃあ大事にしてくださいね、リヴァイさん」
「ああ。思う存分大事にしてやる」





【9】


「リヴァイさんおはようございます!」
「おはよう、エレン」
 時計回りの電車から降りて逆側の電車を待っていたリヴァイに挨拶をすれば、文庫から顔を上げた相手が小さな笑みを浮かべて答える。これまでのように「ああ」と応じてくれるだけでも十分だったのに、今や名前を呼ぶだけでなく微笑みのオプション付きで、エレンの胸が小さく跳ねた。憧れの人の笑顔は朝から刺激が強すぎる。
 エレンの自宅が知られてしまったため、もう必要以上に早く来る必要はない。しかし恋人のフリは未だ継続中で、二人揃ってリヴァイ宅の最寄駅から登校する習慣は続いていた。
 リヴァイは無理しなくて良いと言ったのだが、こうして普通より早く登校するようになってから成績は上がり始めており、一石二鳥だと言ってエレンは彼の申し出を断っていた。
「リヴァイさん、弁当持ちます」
 大切な恩人が手にしている荷物に目を留めてエレンは言う。
 リヴァイが持つ手提げ袋の中には彼の母親が作ってくれた二人分の弁当が入っている。ここ最近アッカーマン母子の好意に甘える形で非常に美味な昼食にありつけているエレンだが、それでも自分にできることはしておきたい。
「すまん」
「いえいえ。今日は何が入ってるんでしょうね」
「昨日の晩から仕込んでたが……お前が食べるようになってから余計に手の込んだ料理になってきている気がする」
「うわぁ……嬉しいような申し訳ないような」
「とりあえず嬉しがっておけ」
 リヴァイの母親に二人分の弁当を頼む際、彼女にもエレンのことを話した。するとリヴァイの母親は五年前の一夜についてしっかり覚えていたらしく、まるで自分のことのように喜んで弁当の件も快諾してくれたのである。
「そういやおふくろが、今日は夕飯も食べに来いと言っていたぞ。今夜は来られるんだろう?」
「はい、大丈夫です。父は当直なので」
「いっそウチに泊まるか?」
「そこまでお世話になるわけには……」
「じゃあ気が向いたらでいい。泊まっていけ」
「ありがとうございます」
 エレンがぺこりと頭を下げたところでちょうど電車がやって来た。二人一緒に乗り込み、リヴァイは文庫を――……開かない。車両の中でも音量に気を付けつつ会話は続行される。場合によっては、その日の授業でエレンが当たるであろう問題についてリヴァイが解き方を教えたり、逆にリヴァイが生徒会の人間として一般の生徒であるエレンに意見を聞いたりするが、本日は主に夕食に関して他愛のないお喋りが続いた。
 肩が触れるほど近寄って話しているうちに同じ学校の生徒も乗車してきて、あっと言う間に到着してしまう。楽しい会話は校舎に入るまで続き、「じゃあ昼休みに行きますんで」「ああ」というやり取りによってようやく終わりを続けた。
 ちなみに、二人が別々の方向へ足を向けた後、
「まだ『良い人』止まりなんだよな……」
 と、残念そうにリヴァイが呟いたのをエレンは知る由もない。


「それ何だ?」
 エレンがポケットから取り出した紙片を見てリヴァイは首を傾げた。
 昼休み、立ち入り禁止の屋上でゆっくりとリヴァイ母作の弁当に舌鼓を打っていた時のことである。
「ペットボトル先輩からの呼び出しの手紙です」
「ペットボトル先輩?」
 誰だそれは、という意味を込めてオウム返しに問えば、エレンは紙片を指先で摘まんだままひらひらと降る。
「ちょくちょくオレを体育館裏に呼び出してジュースぶっかけてくる先輩のことです」
 リヴァイの恋人役であるエレンに嫉妬して呼び出しを行っては複数で囲んで文句をつけてくる人間がいるのだが、顔ぶれはいつでも大体同じである。メンバーに多少の増減はあるものの、必ず顔を出す者もおり、その一人かつリーダー格と思しき生徒を、エレンは呼び出し三回目辺りからひっそり『ペットボトル先輩』と呼称するようになっていた。
 理由は簡単。彼がまるでシメとでも言うように飲みかけのペットボトルを鞄から取り出し、その中身をエレンにぶっかけてくるから。
 ジャンにエレンを囲んでいる際の動画を撮られたためここしばらく大人しくしていたのだが、リヴァイがこうしてますますエレンを構うようになり、あちらもついに耐え切れなくなったのだろう。
「皆さん謹慎処分の危機に瀕してもオレに難癖付けたいらしいです。リヴァイさん愛されてますね」
「全然嬉しくねぇ」
 リヴァイは憮然とした表情で即答する。
 エレンはそんなリヴァイの態度を眺めながら、「まぁ面倒ではありますね」と苦笑した。
 そして、
「――反撃してもいいですか?」
 ギラリと金色の双眸を煌めかせて告げる。リヴァイが息を呑んだのが分かった。
 これまで些末な事で煩わせたくないからとこのような行為を受けていることに関してひた隠しにしていたが、先日リヴァイが五年前の出来事を思い出してくれたついでに全て明かしてしまったので、もう隠すも何もない。ただリヴァイが一言了解すれば、エレンはいつでも中学時代の自分――友人知人からは『死に急ぎ野郎』とまで言われた本領を発揮することができる。
 五年前、リヴァイに教えられた生きるということ、そして生きたいと思うこと。それらはエレンの中で精神的な主柱となっている。ゆえに、エレン・イェーガーが生きるのを邪魔すること、広義的にはエレン・イェーガーの心身どちらか片方もしくは両方を害そうとする者の存在を、エレンは決して許容しない。
 エレンの強い意志を抑制することができるのは、その原因を与えたリヴァイに関する事項だけだ。
 そんなエレンの心情を知ってか知らずか、リヴァイはギラギラ光る双眸を恐れるどころか興味深そうに見つめ返す。やがて彼は微かに口の端を持ち上げ、「面白そうだな」と賛同した。
「じゃあ……!」
「だが、ちょっと待て」
 逸る気持ちを抑えるようにリヴァイが口を挟む。
「お前もその紙を寄越したヤツらも知っている通り、この学校はかなりそういうこと≠ノ厳しい。バレたら謹慎、場合によっては退学処分だ。だからまだこの学校を去りたくねぇなら、お前も利口に動く必要がある」
「……つまり、単純に反撃するだけじゃだめってことですか」
「そうだ」
 リヴァイは頷く。
「何か妙案が……?」
「ああ。そこでだ、エレン」
「はい」
 素直に返答するエレンにリヴァイはふっと双眸を細め、言った。
「お前、もう一度だけペットボトルの中身をひっかぶるつもりはあるか?」

* * *

 その男子生徒はリヴァイ・アッカーマンが副会長に選任されたその日、挨拶のため体育館の舞台に上がった姿に一目で恋に落ちた。
 容姿も、その言葉使いも、仕草も、同い年であるはずの彼は全てにおいて秀でており、同性として強烈な憧れを抱いた。嫉妬などできようはずもない。そんなレベルではないのだ。その生徒にとって、リヴァイはどんな人間よりも輝いて見えた。
 一説に、男が男に惚れるのは、強い憧れによるものだと言うのがある。本来、女性を『抱く側』である男性が『抱かれる側』であっても良いと思えるほど相手を上位者と見做した時、性別を超えた『恋』が生じる。
 無論この説は同性を抱きたいと思う男には適用されないし、『抱かれる側』となることを望む全ての男に当てはまることでもない。お互いを同格と見做すが故に惹かれ合う者達もいるだろうし、逆の場合もあるだろう。しかしながら、その生徒には見事に合致した。
 彼はリヴァイ・アッカーマンに心を奪われ、抱かれたいと望んだ。しかし思いの丈をぶつけた結果は玉砕。リヴァイはその生徒を含め、誰も選ばない。その事実に、自分だけではないのだと男子生徒は己を慰めた。
 しかし諦めきれない恋を嘲笑するかのように『あいつ』は現れた。今年入学したエレン・イェーガー。あの下級生は男子生徒がリヴァイを想い続けた日々よりも圧倒的に短い期間で、どれだけ望んでも手に入らない地位を得たのだ。
 許せなかった。
 リヴァイが誰も選ばなかったからこそ自分の恋心を慰めることができていたのに、エレンはその慰めすら不可能にさせたのである。
 その後、男子生徒がとった行動は完全なエゴによるもの。第三者からは批難しかされないものだ。しかし男子生徒と同じ気持ちの人間は少なくなく、その者達と共にエレンを呼び出してはリヴァイと別れるよう迫った。
 望ましい結果は未だ得られず、それどころか二人の仲はますます深まっているようですらあったが。

* * *

 放課後の第二体育館裏。お決まりの場所に呼び出されたエレンは複数の生徒に取り囲まれ、体育館のコンクリート壁に追いやられていた。
 普段人が立ち入らず、死角にもなっているこの場所は、公にしづらい行為を行うのに適し過ぎた場所である。
 吐き出される文句はいつもの通り。主にリヴァイと早く別れろという彼らの要望と、お前のようなレベルの低い人間は副会長の恋人に相応しくないというエレンヘの暴言だ。後者に関して、エレンは見目も決して悪くなく成績も学年で五位以内に入るため全く見当違いの意見と言えたのだが、暴言を吐く彼らには事実など知ったことではなかった。
 先日、いじめの現場をジャンに盗撮されてしまったという経験から、エレンをなじる者達は事前に隠れている者が近くにいないか確認しており、そのおかげで今は何の躊躇いもなくエレンに酷い暴言を吐いたり、肩を突き飛ばしたりする。
 ただしエレンが反撃することはない。自分からは手を出さず、徐々にエスカレートしていく暴言や暴力にじっと黙って耐えていた。
(おー。ようやくペットボトル先輩のお出ましか)
 心の中だけで呟くエレンの目の前に現れたのは、今のところエレンいじめの皆勤賞である男子生徒。年上であること以外は名前も学年もクラスも知らないが、顔を見慣れ過ぎて妙な親近感すら湧いてきそう……な気がしなくも無かったりそうでも無かったり。ともあれ彼の登場で、エレンはそろそろ我慢も終わりそうだとほっと息を吐く。
 真正面から憎々しげにエレンを見る瞳。ああこの人はリヴァイさんのことが本当に好きなんだな、と思うが、同情はしない。彼はエレンに害をなし、またリヴァイに必要とされない人間だった。よって彼の恨みや嫉妬はエレンの関知するところではないのだ。
(今日は何だろうなぁ。炭酸? 紅茶? オレンジ? グレープ? リンゴ? それともコーヒーとか?)
 エレンには自分が頭からかぶるだろうペットボトルの中身を予想する余裕さえある。できればシミ抜きの簡単なものにしてほしいと考えつつ、その瞬間を待った。
 そして――
「ほんっと、てめぇは懲りねぇな」
 じゃばじゃばじゃばと頭の上からぶちまけられたのは白濁した飲み物。甘酸っぱい匂いが周囲に広がった。
 ロングセラー商品の一つであるそれを最後までかぶりきった後、エレンは小さく笑う。
「懲りないのはあんたの方だっつうの」
「はあ?」
 ぼそりと反論したエレンに男子生徒の眉が跳ね上がった。エレンは更に笑みを深める。
「オレを殴るのか? 殴ってみろよ。あんたの立場が余計に悪くなるだけだぜ」
 明らかな挑発だが、エレンが放ったそれは声が小さいため他の者にははっきり聞こえない。一番近くにいる男子生徒の耳にのみ届いた。
「てめぇ……」
 怒りを露わにしたその生徒がエレンの胸倉を掴み上げる。そしていつかの時のように殴りかかろうとしたが――

「そこまでにしろ、見苦しい」

 この集団の者達なら誰であっても動きを止めざるを得ない声が響いた。
 視線は一斉に声がした方へ向けられ、そして声の主を確認した者達は一様に顔面を青くさせる。
「ア、ッカーマン、副会長……」
「エレンから手を離せ、クズ共」
 この行為の原因、リヴァイがそこに立っていた。
 とは言っても、顔を青くして焦っているのはエレンを囲んでいた者達のみ。当のエレン本人は涼しい顔だ。そしてリヴァイがこの後言い放った台詞を聞いても、エレンは一切片の動揺すら見せなかった。
「違います! こ、これは!」
「黙れ。言い訳は聞かん」
 エレンの目の前にいた男子生徒が手の中のペットボトルを取り落としながら必死に言い募ろうとするも、リヴァイはそれをばっさりと切って捨てる。
「いえっ、本当に僕達は何も――」
「てめぇの首を絞める嘘は吐かないことだな。全て監視カメラに映っている」
「え……?」
 目を点にする生徒達に対して、リヴァイは己の背後――正確には体育館の屋根近くに隠すようにして設置しているカメラ――を視線で示した。
「あれが見えるな? ここは普段から人気のない……つまり考えようによっては物騒な場所だ。だからああいうものが仕掛けられている。お前らも防犯のためこの学校に監視カメラがあることは入学時に説明されただろう? その場所までは馬鹿丁寧に教えちゃいないがな。一応、知りたいヤツには教えるようにしているから、別に秘密ってもんでもない。そして」
 青灰色の双眸が生徒達を鋭く睨んだ。
「てめぇらがここでやってきたことも全部あのカメラに映っている。これ以上エレンに何かする気なら、てめぇら……どうなるか分かってるな」
 生徒達の顔は青を通り越して真っ白になっていた。
 自分達の『悪事』がしっかり映像データとして残ってしまっていること、そして何よりリヴァイ本人に知られてしまったことが、彼らの心を打ちのめしたのだ。
 エレンもそんな彼らの顔を見て、もう二度とこのような無駄な呼び出しが発生することはないだろうと思った。
「分かったら消えろ」
 リヴァイがそう言い放つと、エレンを囲んでいた生徒達は意気消沈した様子で去って行く。
 残ったのはリヴァイとエレンの二人。さっきまでの剣幕を静めてリヴァイはエレンに駆け寄った。
「エレン、すまない」
「いえ、上手くいって良かったです」
 エレンは首を横に振る。
 最初から最後までこれはリヴァイが考えた芝居だ。エレンの立場を悪くすることなくあの生徒達にこれ以上のちょっかいを止めさせるための。
 作戦は成功し、エレンの身の安全は確保された。
 リヴァイに手ずから雫を拭いてもらいながらエレンは礼を言う。
「ありがとうございました、リヴァイさん」
「元を辿れば俺が原因だからな」
 青灰色の双眸が優しく細められる。それをずっと眺めていたいとすら思ったエレンだったが、邪魔するように白濁した甘い液体が目に入りかける。慌てて目を瞑ると、リヴァイが少しかすれた声で「エレン」と呼んだ。
「……リヴァイ、さん?」
 名を呼び返した瞬間、垂れてきた雫を取り去ったのはリヴァイが手に持っているハンカチではなく、もっと柔らかくて温かいもの。ちゅう、と唇を押し当てて雫を吸い取ったのだと気付いたエレンは思わず目を開けた。
「リ、リリリ……!」
「俺は一昔前の電話の呼び鈴じゃねぇぞ」
「わかってます!」
 声を荒らげるエレンにリヴァイが破顔する。
 とんでもなく頬が熱い。
(もー! なんだよこれ!!)
 リヴァイがくつくつと肩を震わせて笑っているのを眺めながらエレンは熱い頬を隠すように両手で顔を押さえた。
(これじゃあ、まるでオレがリヴァイさんのこと……す、好き、みたいじゃねぇか!)
 彼への気持ちはそういう意味での『好き』ではなかったはずなのに。





【10】


 生徒会の活動の関係で昼休みになってもリヴァイが現れずエレンが教室に残っているのを見つけたジャンは、彼を誘って屋上へ向かった。エレンが立ち入り禁止のそこを頻繁に利用しているのは知っており、またエレンもジャンが知っていることを知っていたので、何の問題もない。そもそも屋上は入学後しばらくして二人で偶然一緒に見つけた場所だった。
 ジャンは母親が作った弁当を、エレンはリヴァイが持ってきたと言う弁当をそれぞれ開き、食事を始める。が、それが進む前にジャンは口を開いた。
「最近、例の呼び出しはどうなんだよ」
 エレンを放課後に呼び出すグループは決まっている。と言うより、リヴァイの圧倒的なファンの一人と他数名が取り仕切っている様子だったので、その人物達を抑えてしまえば厄介事は落ち着くはずだった。
 以前ジャンは彼らがエレンを囲んでいる状況をスマートフォンで撮影し、脅しの材料に使った。しかしそれだけではいつか効果が薄くなるかもしれないとも思っていた。
 そのはずなのだが、
「あ。それか。おう、もう二度と起こらねぇと思う」
 エレンはあっけらかんと答えた。
 どういうことだとジャンが視線で問えば、エレンはちょっと照れたように頬を掻いて「うー」やら「あー」やら無意味な音を発する。悪い状況ではないようだが気にならないわけもなく、ジャンが「なんだよ」と言葉を重ねてようやくエレンは明瞭な答えを告げた。
「恩人ってことがバレたついでにリヴァイさんに全部喋っちまって」
「は?」
「それで、実はこの前また呼び出されたんだけど、その時にリヴァイさんが出てきてくれたから、もうあいつらが何かしてくることは無いはず」
 金色の双眸がふいと視線を逸らす。どうにもこうにも恥じているらしい。
 リヴァイには隠し通すと宣言したくせに自分から喋ってしまったのが恥ずかしいのか、それともリヴァイが呼び出しに対処してくれた時に何かあったのか、その辺はエレンの胸のうちだ。説明されない限りジャンが知ることはない。
 ただしジャンはそれで良いと思う。
 どういう経緯で『恩人』の件がバレ、またエレンがリヴァイに呼び出しのことを喋ったのかは知らないが、本人がそうしたいと思ったのならそれで構わない。
 またリヴァイを好いているからこそ暴挙に出た一部の生徒達も、そのリヴァイ本人に脅されたか叱られたかして二度と馬鹿な真似をする気を失ったのであれば、もうこれ以上口出しする必要などないだろう。リヴァイを好きな生徒達にとってジャンはただの一般生徒だが、リヴァイは特別な人間だった。もしくはリヴァイがもっと厳しく彼らを戒める材料を手に入れていた。だからより強い効果があった。それだけの話だ。
「そっか。良かったな」
「おう」
 頷くエレンを見てジャンは食事を再開させる。エレンもまた同じく。
 手の込んだ弁当を一瞥してジャンは僅かに眉尻を下げた。わざわざ二人分の弁当を用意してくるくらいだから、偽物の恋人とはいえ相当大切にされているのだろうとは想像に容易い。特にここ最近は。
 エレンの様子を見ても満更ではないようだし、事態は急速に良い方向へ進んでいると感じた。これでもうジャンが気を揉む必要はないのだろう。
 と思いたいのだが。
(別の問題で胃を痛めることになりそうで怖ぇよ)
 そんな予感がする。
 エレン個人、ましてリヴァイの心情や周囲の状況に関してではない。ふと脳裏をよぎったのはエレンのことが大切でたまらないと公言してはばからない少女と、彼女と同い年の少年の顔。具体的に言えばミカサとアルミンだ。
 これは『もし』の話である。もしも今後、エレンがミカサとアルミン以外の誰かの手をしっかり握りしめて微笑むようなことがあったら……。しかもその時の表情が、今まで誰にも見せたことのない特別なものであったとしたら。
(オレ、あいつらに会ったら物理と精神で仕置きされるかもしれねぇ)
 ジャンは頭を抱える。
 リヴァイのことを語るエレンの目は恋する乙女のように輝き、またエレンを見るリヴァイの目には深い愛情が溢れていたから。
 だがそんな『もし』を想像しつつも、ジャンの気持ちはどこか軽い。
(……ま、こいつが選んだことならそれでいいか)

* * *

「ドップラー効果の問題はこの公式に当てはめて……こう。あとはこの数式を解けば答えが出る。高校の物理なんざ公式覚えてなんぼだからな。理系の大学に進めばその公式の出し方ってやつも事細かに学べるが、今はとりあえず式を覚えることに集中しとけ」
「はーい」
 放課後、生徒会室の一角で勉強会が開かれていた。
 講師はリヴァイ、生徒はエレンである。
 エレンは間延びした返事をしつつもしっかりとペンを動かし、正確に数式を解いていく。
「答え出ました」
「ちゃんと単位まで書け」
「こう……ですか?」
「ああ。正解だ」
 隣に座るリヴァイがエレンの頭をわしわしと撫でる。まるでペットの犬のような扱いだが、元々他人に触りたがらないリヴァイに触れられているだけで特別な気分になれてしまうため、エレンがへそを曲げることはない。むしろ嬉しくて、ただし素直に喜びを露わにするのは何となく恥ずかしくて、口元をムズムズさせる。
 そんなエレンの表情を見てリヴァイはふっと微笑を浮かべた。青灰色の双眸がかなりの至近距離で穏やかに細められ、それをばっちり視認したエレンはじわりと頬に熱が集まるのを感じる。
「りっ、リヴァイさん! ちょっと暑くないですか!?」
「そうか?」
「そうですそうです! オレ、そこの自販機で冷たいもの買ってきます! リヴァイさんは待っててくださいね!」
「おう」
 熱くなった頬を隠すようにエレンはガタガタと立ち上がり、足早に生徒会室を出る。廊下を走ると怒られるため早歩きで自販機がある中庭へ向かいながら、激しく動く心臓が口から飛び出してしまいそうだと顔の下半分を手で覆った。
(微笑み一つで赤面とか何だよ! これはっ、恋なんかじゃねぇだろ!?)

* * *

「なんだアレ、くっそかわいい」
 エレンが出て行った生徒会室でリヴァイは一人、ぼそりと呟く。
 その目元はほんのりと赤く染まり、ここ最近エレンがよく見せるようになった何とも言えない表情を思い出して小さく悶える。
 エレンに恋愛的な意味で好きになってもらうため何かと手を尽くしているが、自分の方がますますエレンに惚れているような気がして、リヴァイは渋面を作った。が、エレンの一挙一動が魅力的過ぎてやはり顔がにやけてくる。
「クソが……いいからさっさと俺のところまで落ちて来い、エレン」

* * *

 生徒会のリヴァイ・アッカーマン副会長に憧れたりそれ以上の感情を抱いたりする者はこの学校にたくさんいるが、決して全員がそうであるわけではない。
 とある二年生の男子生徒もその類で、別段リヴァイを好ましいと思ったことはなかった。むしろ傲慢不遜な態度――だとその男子生徒は思っている――に腹立たしさを感じるほどだ。
 そんな生徒会副会長に少し前から恋人ができた。お相手は一年生のエレン・イェーガー。帰宅部で委員会にも入っていない彼は特に目立つわけでもなかったが、リヴァイの恋人になったというその事実だけで校内ではあっと言う間に有名人となってしまった。あまり興味が無かった男子生徒の耳にもその情報が入ってくるほどに。
 さて、その二年の男子生徒は陸上部に所属している。三年の先輩達は過日の試合をもって引退となり、今は彼らの学年が部を取り仕切る役目を負っていた。彼も陸上部では副部長を任され、それなりに充実した日々を過ごしている。
 放課後の練習に励みつつも、今はその休憩時間。スポーツドリンクを買おうと中庭の自販機に向かっていた。が、その場所が見えてきた時点で先客がいることに気付く。
「あれは……」
 噂話に興味のない男子生徒ですら知っている有名人、エレン・イェーガーがそこにいた。
 ほんのりと赤い顔で彼が手にしているのは缶ジュースが二本。他人に見られていると気付いていないのか、手にしたジュースに視線を落としたエレンはふわりと愛おしそうに笑みを浮かべた。
「――ッ」
 ただ笑顔を目撃しただけだ。しかしたったそれだけで男子生徒の胸の奥がザワつく。
 去って行くエレンの背を見送って彼の姿が校舎の中に消えた後も男子生徒はその場に立ち尽していた。
「……欲しい」
 想いはぽろりと口を突いて出る。
 あの笑顔を正面から見てみたい。
 あんなに素敵なものを持っている副会長が羨ましい。否、妬ましい。
 だから。
「どうやったら奪えるかな」





【11】


「よっ! イェーガー、これから帰りか?」
「あ、はい。ただちょっと図書室に寄ってから帰ろうかと」
 一学年上の先輩に話しかけられ、エレンは足を止めてそう答える。
 最近よく話すようになった彼は陸上部の副部長であり、普通なら関わることなど無かった人種だ。共通するのは中庭にある自販機をよく利用することだけ。
 ある時、エレンはこの先輩が中庭で飲み物を買った直後に同じ自販機を使おうとした。するとつり銭が残っているのを見つけ、慌てて先輩を呼び止めたのだ。これがきっかけで彼は何かとエレンを気にかけるようになり、こうして気軽な挨拶は日常的なものとなった。
 なお、陸上部はジャンが所属している部活である。そのため、色々と世話になっている――あまり認めたくはないが――ジャンの評価を変なところで下げないよう、この先輩の前でエレンは比較的大人しく振る舞うようにしていた。ジャン本人が知れば「余計なお世話だ」と言いそうだが。
「勤勉だなぁ」
 実のところリヴァイの生徒会の仕事が終わるまで時間潰しをするためだけに図書室へ向かっていたエレンは、そんな先輩の反応に気まずくなって頬を掻く。無論、手持無沙汰なのもどうかと思うのでテキストとノートは開くつもりだが、彼の想像しているような真面目な理由で図書室を使うわけではない。
 自分より頭一つ分背の高い相手に意図せず上目遣いになりながら、不真面目な理由で図書室を利用することに対してへらりと表情を崩すと、二年生の先輩は一瞬だけ息を詰めたような気がした。しかし瞬き一つの間にその気配は消え失せ、エレンは見間違いだったかと心の中で呟く。
「それじゃあ、オレはこれで。先輩は部活ですよね? 頑張ってください」
「あ、ああ。……そうだ、イェーガー。近々ちょっと時間をもらえないか」
「はい?」
「いつでもいい。放課後、少し俺に時間をくれ」
「は、あ……。構いませんけど」
 頭に疑問符を浮かべながらエレンは続ける。
「早い方が良いですか? それなら、明日にでも」
「分かった。じゃあ明日の放課後、第二体育館の裏で待っている」
「……」
「イェーガー?」
「いえ、何でもありません。分かりました。では、明日」
 嫌な記憶しかない場所を指定されて思わず渋面を作りかけたが、気合でそれを回避し、エレンは先輩の前を辞した。
 あの先輩がリヴァイのファンらしいところを見せたことはないので、以前のようにリヴァイとの関係に難癖をつけられる事態にはならないはず。しかし人気のない場所に呼び出されることそのものに忌避感を覚えてしまう。
 明日もまたリヴァイは生徒会の仕事――しかも役員は出席必須の重要な会議らしい――があり、彼を待つ間ならばと約束を承知したが、早くも気が重くなった。
 その感情をリヴァイと合流した後も引き摺ってしまい、結果、異変に気付いた彼が鋭い目つきを更に鋭くして問い詰めてくることを、今のエレンはまだ知らない。無論、明日のことを心配したリヴァイが会議など放り出してしまいたいと駄々をこね、エレンがそれをちょっと嬉しく思いながら宥めることも。


 翌日の放課後、エレンは陸上部の先輩との約束通り第二体育館の裏にやって来た。すでに相手は到着しており、エレンは定型句として「お待たせしました」と告げる。
「先輩、部活はいいんですか?」
 本日もジャンが一足先に部室へ向かったのを教室で見送ったことから、陸上部の活動が休みでないのは判明している。エレンがそう尋ねると、二年の先輩は躊躇いなく「ああ、いいんだ」と答えた。
「もっと大事な用件があるから」
 その真剣な……と言うより少しこちらに迫ってくるような強い物言いにエレンは若千たじろぐ。
 チラリと周囲を一瞥したところ他の人間の姿は見られず、多数でエレンを囲むつもりはないことが分かった。ただし相手はエレンよりも体格が良い。何かあった時、気を抜いていては上手く対処できないだろう。
 そう静かに気を引き締めるエレンだったが、相手の目を見てギクリとする。
(なんつー目で見てくるんだよ)
 じわり、と背骨を這い上がってくるような重い熱が二年の男子生徒の両目に宿っていた。つい先日までのエレンを厭う者達が向けてきたものとは異なる。今エレンに向けられている目は、リヴァイのファンがリヴァイ本人を見たり彼について語ったりする時に見せるそれによく似ていた。
「せん、ぱい……あの、用件って……?」
 耐性の無いその雰囲気に一歩後退しながらエレンは尋ねた。しかし後ずさった分、相手が一歩近付いてくる。
「イェーガー」
「ッ」
 瞳と同じく熱っぽい呼び方に寒気が走った。まだ強い嫌悪は感じずに済んでいたが、まさかという思いがあり、平静を保つことが難しい。リヴァイならまだしも、自分が同性から焦がれられる対象になるなど思ってもみなかった。
 相手は二歩三歩と距離を詰め、とうとうエレンに手が届く範囲にまで近付く。そして真っ直ぐに見つめながら口を開いた。
「エレン・イェーガー、お前が好きだ」
「おれ、は……もう、恋人、が、いますので」
 一つ年上の先輩を見上げながらエレンは首を横に振る。しかしそれで引き下がるような相手ではなかった。
「知っている。有名だからな。でも俺はお前を自分のものにしたい」
 オレは物じゃねぇぞ、という台詞が思わず口から飛び出しそうになったが、エレンは寸でのところでそれを抑え、代わりに「すみません。お断りします」と丁寧に告げる。
 相手の顔が不快そうに歪んだ。
「あんなヤツのどこがいいんだよ」
(っ、てめぇにあの人の何が分かる!)
 ひくり、と口元を引きつらせながらエレンは内心で叫ぶ。元々好きでも嫌いでもない相手だったが、今この瞬間、エレンの中の天秤は確実に嫌悪する側へと傾いた。
 あの人は、リヴァイ・アッカーマンは、素晴らしい人だ。エレンの人生を変えてくれた人だ。今のエレンを作ってくれた人だ。その人を貶す人間はエレンの敵。キッと睨み付けると相手は一瞬怯んだが、「その目も良いな」と言って余裕の表情を浮かべる。
「俺ならお前をもっと幸せにしてやる。だから俺を選べ」
「何の根拠があってリヴァイさんよりあんたの方が良いなんて言ってやがる」
「根拠? 事実だろ。俺といる時のお前、雰囲気が柔らかいし、よく笑ってるじゃないか」
「はっ、馬鹿じゃねぇの」
 この男の前でエレンが見せた『エレン・イェーガー』は偽物だ。ただ単に友人の先輩として丁寧に接していただけ。それをどう考えればこんな勘違いになってしまうのか。本当に馬鹿らしい、とエレンは吐き捨てる。
 ただし今までとは違って敬いが無い物言いをしても、相手は退くつもりなど無いようだった。エレンはますます刺々しい雰囲気を出していく。
 しかし次に放たれた問いかけを聞き、その刺々しさは霧散してしまった。
「へぇ? そういう返事をするわけか。だったら、なぁイェーガー、気持ちの他にもう一つ教えてくれ。お前、あの副会長にはもう抱かれたのか?」
「は……?」
 頭上に疑問符が浮かぶ。が、次の瞬間、問われた内容を理解してエレンの顔は真っ赤に染まった。
「て、て、てめぇ何言ってッ!」
 リヴァイがエレンを抱く。その想像にエレンは瞬間湯沸かし器のごとく熱を上げ、差恥で両目を潤ませた。
 初心なその反応に解答を得た男子生徒は、「まだなのか」と嬉しそうに呟く。
「俺さ、お前に一目惚れしたんだ。すっげぇ欲しいと思った。でもお前、あの野郎が好きなんだよな。だったら」
「ッ……は、なせよ」
 赤い顔を隠すように腕を上げたエレン。その腕を掴み、二年の男子生徒はねっとりと熱の籠もった瞳でエレンに言った。
「身体だけでも俺にくれないか? まだ誰にも奪われていない、お前の身体を」
「は? ふざけ、……ッ」
 相手の力が想像以上に強い。掴まれた腕を振り払おうとしたエレンだったが、逆に両手を取られ、壁に押し付けられる。
「ああ……イェーガー」
「ひっ」
 首筋に鼻先が押し当てられ、ふんふんと犬のように匂いをかがれる。思わず漏れた小さな悲鳴に相手が笑う気配がして、屈辱的な状況にエレンは唇を噛んだ。
 しかも股には脚を差し込まれており、相手を蹴り上げることさえ難しい。
「や、めろ……っ」
「イェーガー……ああ、エレン、エレンエレンエレン」
「くそっ、どこ触って……ッ」
 両手の拘束は外れそうにない。必死に抵抗する分、手首を戒める力が強くなった。
 男子生徒は左右の手を壁に押し付けたまま制服に包まれたエレンの胸元に顔を押し当ててくる。獣のようなその様は、今にも口で制服のボタンを引き千切る勢いだ。
「おい、くそっ、この変態野郎!」
「なんだろうなこの匂い。お前、いい匂いするなぁ」
「気色わりぃ!」
「口汚いお前もぞくぞくする」
 胸元から顔を上げて男子生徒は恍惚とした表情を浮かべる。彼は再びエレンの首筋に鼻先を押し当て、今度はべろりとエレンの皮膚を舐めた。
「――ッ!」
 嫌悪感で吐きそうだ。首筋から耳殻、耳の後ろを順に舐め上げられ、エレンは込み上げる嘔吐感に顔を歪めた。
「てめぇいい加減に――」

「いい加減にしろよ、クズが」

 エレンの台詞に重なる形で第三者の声が発せられる。と同時に、エレンを拘束していた肉体が更に強い力で引き剥がされた。
「ぐッ」
「なぁ、クズ。てめぇ誰に許しを得て俺の大事なヤツに触ってんだ? ああ?」
 地面に転がされて呻く男子生徒を踏みつけ、地を這うような低い声でそう言ったのは、
「リヴァイ、さん……?」
「大丈夫かエレン」
「あ、は、はい」
 リヴァイ・アッカーマン、その人。
 エレンを心配して会議が終わってすぐ生徒会室から走って来たのか、少し息が荒く、肩は上下に揺れている。しかし――もしくはそれ故に――気迫は十分で、鋭い双眸に抑えきれない怒りを湛えながらリヴァイはエレンを襲っていた生徒を睨み付けた。
「エレンにとんでもねぇことしてくれやがったな。教員に……いや、理事会に報告して吊し上げてやるよ。だがその前に――……俺が、てめぇを、殺してやろうか」
 それは威嚇や脅しのために発せられたものではなく、リヴァイの本心が漏れ出た呟きだった。
 彼の息が荒く、また肩が震えているのは、何も走ってきたことだけが理由ではない。ここに監視カメラがあるのをよく分かっているリヴァイは、大切な人が穢されかけたことへの激しい怒りを抑え込もうと理性を総動員している。身体の震えはそのためだ。もし他者の目がない場所であったなら、本当にこの場で足元の男子生徒を殴り殺してしまいそうだった。
「リ、ヴァイ、さん……」
 その事実をリヴァイがまとう雰囲気から察し、エレンは恐る恐る名を呼ぶ。エレンの声に不安が混じっているのを敏感に察したリヴァイは舌打ちをして「ああ、大丈夫だ」と相変わらず唸り声のような低い声で答えた。
 青灰色の双眸が踏みつけたままの男子生徒を射抜く。圧倒的強者の怒り――否、殺意≠ノ晒された生徒は萎縮し、地面に転がされたまま小さな悲鳴を上げた。
「おい、クソ野郎」
「っ」
 最早まともな受け答えすら恐怖に身が竦んでできないらしい。
 リヴァイは男子生徒を押さえ込んでいた足を退けて続ける。
「今回の処分については追って通知する。だが……」
 リヴァイは腰を折り、相手の息が詰まるくらい強く男子生徒の胸倉を掴み上げた。
「俺の大切なヤツに手を出したんだ、二度とまともな顔して外を歩けるとは思うなよ」


 二年の男子生徒が死にそうな顔でこの場から去り、エレンはようようリヴァイと目を合わせた。
「リヴァイさん、ありがとうござ――」
「エレンッ!」
「わっ」
 台詞を最後まで言い切るより早く、リヴァイに痛いほど強く抱しめられる。
「すまない。もう少し早く駆けつけていれば」
「だ、大丈夫ですよ。ちょっと舐められただけですし」
「それがダメだと言ってるんだ」
 リヴァイは未だエレンの腰に腕を回したまま少しだけ身を離し、男子生徒の舌が這った場所を忌々しそうに睨み付けた。
「とりあえずその場所だけでも洗うぞ。あと今日はうちに来い。俺が手ずから全身洗ってやる」
 冗談で言っているような声ではない。
 相手の本気度合いを感じ取ってエレンは慌てる。
「いやいや、リヴァイさん! そこまでしてくれなくていいですから! ほら、偽物の恋人の世話なんて――」
「偽物だろうが何だろうが、俺は他人がお前に触ったのが我慢ならねぇんだよ」
「!」
 まるでリヴァイが独占欲でも持っているかのようなその答えにエレンは大きく目を見開く。
「な、んで……」
「なんで、だ? 理由なんか一つしかねぇだろ」
 鋭い、しかし熱の籠もった視線に射抜かれて、エレンの胸がドキリと高鳴る。同じような視線はあの男子生徒にも向けられたが、それに対するエレンの反応は正反対だ。あの目も手もエレンには気持ち悪いものでしかなかったが、今こうして与えられるリヴァイの視線も、そっと頬を撫でる手の存在も、全てが胸を高鳴らせる原因にしかならない。
 恩人だからという理由だけでは説明できないほどの感情の昂りがエレンを襲う。
「リヴァイ、さん」
「エレン」
 リヴァイの親指がすっとエレンの下唇をなぞった。
 そして告げる。

「俺はお前が好きだ」

「……ッ」
 真剣なその顔にエレンは息さえまともにできない。
 対するリヴァイは淡い微笑を浮かべ――
「恩の有無なんざ気にするな。嫌だったら逃げてくれ」
 近付いてきた唇をエレンが避けることはなかった。
 そっと目を伏せ、柔らかな感触を受け止める。
(ああ、認める。認めるしかねぇだろ。……オレのこの気持ちは『恋』だ)
 ――エレン・イェーガーはリヴァイ・アッカーマンに恋をしている。

* * *

 その日、ジャン・キルシュタインは気付いた。
 教室に現れたエレンの雰囲気が違う。本当に微かなものだったが、浮足立っているのだ。さすがに同い年の男に対して『周囲に花が咲いているような』という表現を使うことは避けたいので、そう言い表すこととする。
 席に着いた彼の元へ足を運び、ジャンはニヤリと笑う。
「どうしたよ、エレン。なんか良いことでもあったのか」
「あー、いや何でも」
「何でもって顔かよ、それが」
「……まぁお前にもちょっと世話になったし言っとくべきかな」
 エレンがごにょごにょと独りごちた。何事かとジャンが器用に片方の眉を持ち上げると、エレンは席を立ち、「ちょっといいか?」と外へ出ることを促した。どうやらここでは話し辛いことらしい。ジャンは素直に応じる。
 廊下へ出て、玄関とは反対の方向へ。角を曲がり他の生徒達の姿が見えなくなったところで二人は足を止めた。
「で? どうしたんだ」
 別段改まるでもなくごく自然な姿勢でジャンはエレンの言葉を促す。すると悪友殿は僅かな逡巡を見せた後、意を決したのかキッと睨み付けるような視線を向けてきた。
「あのな」
「おう」
 エレンの表情を見てジャンは「あ、まさか」と心の中で呟く。嫌な予感がした。いや、良いことのはずなのだが、ジャン個人にとっては良いのも悪いのも半々の事態がここで明かされる気がする。
 エレンの緊張につられるようにジャンはゴクリと息を呑み、続きを待った。
 そして――

「リヴァイさんと本物の恋人になった」

 ああ、やっぱり。と、ジャンは思う。
 元々エレンにとってリヴァイは特別な人間だった。それに加え、リヴァイの方も何か転機があったらしく、ここ最近本気でエレンを慈しんでいたように見えた。だから遅かれ早かれこうなる可能性についてジャンも一応考えてはいたのだ。
 念のため「脅しとか勘違いとかじゃなく、本気でお前が望んだ結果だよな?」と確認すれば、「当然だろ」と即座に返ってくる。
 ならば、これでいい。
 脳内で他校にいる黒髪の少女が拳を握り、金髪の少年がニコリと黒い笑みを浮かべる。近日中に、エレン本人の与り知らぬところでジャンはとんだとばっちりを受ける羽目になるだろう。
 ただし嬉しそうなエレンを見ていて今の状況をひっくり返してやろうなどとは欠片も思わない。
(だから『これ』でチャラにしてやるよ)
 心の中でそう呟いた後、ジャンは憮然とした表情で告げる。
「おい、エレン。てめぇいいから今日は黙ってオレに学食奢れ」
「はあ? ヤだよフザケンナ」
 しかしながら『親の心子知らず』ならぬ『ジャンの心エレン知らず』。エレンの即答により、今この瞬間、第X次馬面VS死に急ぎ野郎の戦いが勃発した。








2014.11.26〜2014.12.07 pixivにて初出