【1】


「一個中隊もの兵を囮に使って……! あんたには人間の心が無いんですか!?」
 ローゼ王国軍の一個中隊全滅と引き換えに敵国の一部領土を奪い取った戦争の後、その策を考えた青年に向かって一人の兵士が直談判にやって来た。肩の階級章を見ればその男が少尉であることは容易に判明する。
 本来、この辺り一帯は青年の許可が無ければ国王すら足を踏み入れることを躊躇うほどの場所である。つまり一介の少尉如きが青年の前で兵士らに取り押さえられていることすら有り得ないことだった。
 青年は金色の双眸で少尉を見下ろす。
 紺のシャツときっちり締められた淡い色のネクタイ、ストライプの黒いベストとスラックス、黒の編上げショートブーツという格好は青年の細身の体躯を際立たせていたが、袖を通さず肩に引っ掛けただけのコートは黒地に金糸で縁取りがなされ、威圧的かつ重厚な雰囲気を与えている。そこに凍り付くような金色の双眸が合わされば、睨まれずともただ見据えられただけで少尉の身体が恐怖におののいた。
「ここまで侵入した気概は認める」
 声変りを果たしてもまだ甘さの残るテノールが青年の唇を割って零れ落ちる。
「だが」
 青年は表情を一切変えることなく冷たい瞳のままことりと小首を傾げた。

「人間の心があれば戦争に勝てるのか?」

「え……」
 少尉の双眸が大きく見開かれた。
 おそらく彼は二百名近い兵士らの死に関して青年を責め、懺悔の言葉を引き出すところまでは行かずとも、兵士らの怒りや遣る瀬無さを理解させようとしていたのだろう。しかしそんなものは青年にとって何の意味もない。
「今この国に必要なのは勝利だ。それ以外の何がある? 勝利のためなら少しくらいの°]牲は当たり前だろう」
「なに、を……言って……」
「お前如きの理解は欲していない。……ミカサ、ジャン、連れて行け。処分はこいつの上司に任せる」
「「Yes, sir.」」
 少尉の両脇を固めていた兵士――この青年直属の親衛隊である白い制服の男女が、主人の命令に従って不届き者を引き摺ったまま歩き出す。引き摺られていく少尉は顔を青くしたまま何も言えない。自身のこれからの処遇に関してはすでに覚悟した上でここまでやって来たのだから今更慌てることもないが、青年の反応に彼は絶望して言葉を失ってしまったのだ。
 この冷たい目をした青年こそローゼの国軍を司る唯一の人。軍部が圧倒的な力を持つ中、実質的なこの国の支配者だった。





【2】


 エレン・イェーガー。現在の王を王位につけた人物だと噂されている。真偽のほどは定かではない。何故なら現王が即位したのは十年前――その時、エレンはまだ十五歳の少年だったのだから。
 現王の即位と同時に彼は軍部の中枢に配属され、数年後にはそこのトップに君臨していた。侵略戦争を繰り返すローゼ軍の中央司令部トップに立つということは、この国の実質的支配者になるということである。更に一つの事実として、現王はエレンの機嫌を損ねないよう慎重に慎重を重ねて振る舞っていた。ゆえに、人々は先述の噂を眉唾物だとして真っ向から否定することができない。
 エレンが軍を動かすとその戦は必ず勝利する。しかし時には恐ろしいほどの犠牲が支払われるため、彼をよく思わない者は一般市民の中にも軍の中にも存在していた。それでも反逆者が出ないのは、彼が一つの戦いで支払う犠牲が将来的に見て最小限に抑えられているからだ。もし彼がここでこれだけの犠牲を払わなければ、次の戦でもっと多くの人間が死んでいただろう……と言うように。また、それすら理解できない愚者はエレンの剣であり盾である親衛隊の面々――白い制服を着ているため、『白服』と呼ばれることがある――に排除されるので、彼に対する悪感情が表面化することはない。少なくともこの十年間はそうだ。
 エレン・イェーガーがいる限り、ローゼが負けることはない。ローゼの民は皆、そう思っている。
 そしてローゼ以外の国の人間は皆、こう思っていた。――エレン・イェーガーがいる限り、ローゼは侵略戦争を続けるだろう。いつ自分達が喰われてしまうのか、恐ろしくて仕方がない。エレン・イェーガーは自分達にとってまさに悪魔だ、と。


「本日よりローゼ王国軍中央司令部統括司令官付特別任務隊に着任いたしました、リヴァイ・アッカーマンであります」
「同じく、ハンジ・ゾエであります」
 エレン・イェーガー親衛隊――正式名称『ローゼ王国軍中央司令部統括司令官付特別任務隊』のメンバーは軍の階級に属さぬ特別な地位にあるため、名前の後に付けるべき階級はない。ローゼ王国軍中央司令部統括司令官ことエレン・イェーガーの命令があれば相手が二等兵だろうと将官クラスであろうと警告・捕縛・投獄・処刑まで行える権利と義務が与えられていた。
 今日付けで親衛隊に入隊したリヴァイとハンジは元々軍の一般兵だったのだが、先の戦闘で敵将の首を討ち取ったことから、今回、軍トップの傍に侍る地位にまで一気に引き上げられた。そこに将校の意見は必要なく、エレンの目に留まるか否か、これだけに左右される。
 またこのような抜擢のされ方はさして珍しいものではなかった。親衛隊の隊長を務めるミカサ・アルレルトはエレンの昔からの友人であり、エレンから半年ほど遅れて従軍し同じように階級を上げていった人間だが、副隊長のジャン・キルシュタインは軍曹として働いている時に突然親衛隊へ引き抜かれたという。
 なお、どちらも実力は現在の地位に見合ったものを持っていた。ミカサは圧倒的戦闘センスを持ち、ジャンは剣技に一日の長があり、更には指揮能力も高い。ジャンが長らく軍曹という地位で燻っていたのは、彼の元上官が自意識過剰で人を見る目がない能無しだったからだ。
 元の立場など関係なく、エレンに認められればそれだけで軍中枢のトップ集団に加わることができる。彼らは白い服をまとい、エレンただ一人に忠誠を誓うのだ。
 そんなわけで、リヴァイはエレンの親衛隊入りに関して何ら他とは変わらぬものだった。しかしミカサやジャンや他の親衛隊の面々と比較し、リヴァイは自分達二人と彼らの明らかな差異――制服を一瞥してこっそりと訝しむ。
 重厚な執務机を挟んで正面に座すエレンの服の色は黒。軍の中では彼にだけ許された色だ。その左右に侍るミカサとジャンは親衛隊の象徴とも言える白。だと言うのに、リヴァイとハンジの制服は青を基調としたものだったのだ。
「服の色が気になるか?」
「いえ……」
 リヴァイの僅かな感情の揺れに気付いたらしいエレンが平坦な声で囁くように告げる。それに対しリヴァイは首を横に振るが、全てを見透かすような目をしてエレンは疑問に答える。
「お前達は特別だからな」
「特別……と仰いますと」
「ただ純粋に強いってことだ」
 机の上で手を組んでエレンがリヴァイ達をひたと見据える。
「うちの隊で現状一位のミカサより強いだろう。特にリヴァイ、お前の方は。そしてハンジ、お前ほどリヴァイの動きに合わせられる者もいない。まるで長年の友か仲間のようにな。だからこそオレは最も効率のいい運用方法として、お前達をセットで扱うと決めた。今後、二人だけに特別任務を言い渡すこともあるだろう。ミカサとジャンに従う必要もない。謂わば、お前達はもう一つのオレ直属の戦闘部隊。服の色が違うのはそういう理由からだ」
「そうでしたか。それを聞いて安心いたしました」
「ほう? お前達は一体どんな想像をしていたんだ?」
「我々は元下級兵で、しかも純粋なこの国の民でもありません。ですので、何か差別的な意味でも含まれているのかと……」
「まさか」
 肩を竦め、エレンがほんの少しだけ口元に弧を描く。ようよう現れた表情は、吊り上がり気味の双眸と合わさって、まるで悪戯好きな猫のよう。
「むしろその逆だ。オレは実力があるヤツならいくらでも使う。だからこそ、お前達は今ここにいる。二人の活躍にも期待しているぞ」
「「はっ! ありがとうございます!」」
 リヴァイはハンジと共に改めて敬礼しながら内心でほくそ笑む。
 どうやらこの天才策士にも見抜けないことがあるらしい。好都合だ。何故なら自分達は――

(お前を殺すためローゼ軍に入ったんだからな)

 己を偽り、武勲を上げ、エレンの目に留まるためならば何でもした。それはかつてローゼに侵略された国の民としてこのまだ若い男に復讐するため。そして圧政から祖国を解放し、またこれ以上この青年の手により侵略される国を無くすため。エレンさえいなければ、ローゼが圧倒的力を持つことはないのだから。
 リヴァイとハンジはついにここまでやってきた。何十年かかっても絶対に成し遂げてやると誓ったものが思わぬ速度で近付いてきたことに、二人は密かに歓喜する。
 だがここで油断は禁物だ。気を引き締め、この青年の喉を切り裂く瞬間まで従順な狗であり続けなければならない。
「よろしく頼む、二人とも」
「「Yes, sir!!」」
 この国の敬礼――『心臓を捧げる』ことを意味する、右拳を左胸に当てる姿勢――をとって、リヴァイとハンジは偽りだらけの忠誠を誓った。





【3】


「こりゃあ俺らに死ねってことか?」
「あなたの目は節穴? そこにきちんと帰還せよと記載されているでしょう?」
 エレン・イェーガーからの指令を持ってきたのは親衛隊の隊長であるミカサ・アルレルト。何ページかの書類が束になった指令書を受け取って概要が記された一枚目に目を通したリヴァイは無茶な内容に顔をしかめるが、ミカサは無表情のくせにどこか小馬鹿にしたような声で淡々と言い返した。
 確かに彼女の言う通り、指令には帰還することまで含まれている。しかし、現在ローゼ側が不利な状況にある紛争地帯――なお、エレンの采配によるものではなくローゼのとある貴族が勝手に起こした領土侵犯によるものだ――にて、ハンジと二人だけでこちら側の兵の撤退を援護せよと言うのは、さすがに無謀すぎるだろう。
 有り得ないと首を緩やかに振るリヴァイへミカサは微かに片方の眉を跳ね上げた。
「あなた達がどこでどう動けばいいのかは全て二枚目以降に記載されている。あなた達は私達の主が命じた通りに動きなさい。それで全て上手くいく」
「は?」
 まるで出来の悪い生徒に教師がうんざりと説明をするかのごとく、白皙の美貌に苛立ちを交えてミカサは告げる。リヴァイは舌打ちをしかけるが、なんとかそれを抑えて渡された指令書のページをめくった。そして、驚きに目を瞠る。
「なんだこれは……」
 びっしりと並んだ文字と地図、それに各種データの一覧――ローゼの兵(正確にはとある貴族の私兵)が籠城している砦の内部の図面、周辺の地形、推測を交えた兵士らの状況、敵兵の情報、作戦決行日当日の天候まで。そしてそれらに基づいた兵士らを撤退させる事細かなルート及びリヴァイとハンジの帰還ルートについては場所だけでなく時刻まで決められていた。まるで小説や歌劇の台本のように、一連の流れが全て記載されている。
 本当にここにある通り物事が動くのならば、リヴァイ達は無事に帰還することができるだろう。
「まさか全ての人間が、いや、天候も何もかも、ここに記載されている通りに上手くいくのか? そんな馬鹿なことが……」
「馬鹿なこと?」
 リヴァイの台詞を遮るようにミカサが鋭く告げる。
「全ての事象はそこにある通りに進む。あなたが指示に従う限り道を外れることはない。この作戦は成功する。何故ならエレン・イェーガー司令官が考えたものだから。異論は認めない。それは厳然とした事実。だからもう一度だけ言おう。あなた達は私達の主が命じた通りに動きなさい。それで全て上手くいく」
 そしてミカサは「話は終わり」と言って背を向ける。リヴァイは白い制服に包まれたその背を見送った後、今度こそ舌打ちをした。
「クソッタレ」


「いいじゃん。ローゼの悪魔のお手並み拝見といこうじゃないか」
「失敗したら俺達は死ぬけどな」
「その時は何とかして生き延びるよ。そして完璧じゃないってことが証明された<Gレン・イェーガーの首を取ればいい」
 ブリーフィングルームにてハンジにエレンからの指令のことを話せば、彼女はにこにこと微笑んで――ただし眼鏡の奥の双眸は全く笑わずに――そう言い切った。
「いやー、しっかし。まさかエレン・イェーガーの指示がこんな事細かなものだったとはね! 当然、指示する相手によって指示方法も何もかも変えるんだろうけど。頭の悪いヤツにこんな指示書渡したって意味ないし。その辺もきちんと予想して全部決めてるんだろうねぇ。恐れ入るよ」
 指令書のページを捲りながらハンジはそう続けて肩を竦める。
「今回の命令、見事にこっちの力をぎりぎりまで使おうとしてきてる。たぶん過去のデータから推測したんだろうけど……下っ端だった私達の情報なんてほとんど無かっただろうに、それでも集めて整理して、出してきた結果はドンピシャだ。作戦の規模が小さいのは、念のための答え合わせをするつもりだからかな? 万が一こちらの実力を見誤っていた場合、修正が容易に済むように」
 まさにエレンの頭脳は神がかっている。否、その戦歴を考えれば『悪魔的』と称した方が適切か。
 だがそれでもまだここまで予想通りに物事が進むとは、リヴァイもハンジも信じられない。むしろ「そんなに上手くいってたまるか」という思いがある。だからこそ実際にその指示通り動いてみるしかないのだ。こちらの実力を正確に見越してギリギリのところで組み立てられた危険な計画に。
「はっ、やってやろうじゃねぇか」
「そうだね」
 指令の内容を頭に叩き込んだリヴァイ達は出発の準備を開始する。
 作戦の決行は明朝。本当にエレンの考え通りに物事が進むなら、日付が変わる頃にリヴァイ達は再びここへ戻って来ることができるのだろう。


 ――そして、翌々日未明。
「任務完了ご苦労だった。お前達には今日明日の二日間、休みを与える。ゆっくり休養すると良い」
 命令を遂行し無事帰還したリヴァイとハンジに向かって、命令した当の本人は笑み一つ見せずに告げる。おそらく彼にとって作戦が成功してリヴァイらが生きて帰ってくるのは当然のことだったのだろう。ゆえに、そこには歓喜も驚きもない。淡々と書類に承認のサインをするように事実を確認するだけだ。
 そしてエレンからの指令書に記載されていた事項の正確さを身をもって知ったリヴァイとハンジは、その素っ気ない態度の理由を正しく理解してしまったため最早何も言うことができない。
 いくら規模が小さいとは言え、あまりにも多くのことが――否、全てのことが――エレンの予想した通りに進んでいた。天候も人間心理も、途中発生した兵士らのちょっとした諍いすら、有象無象が紙に書かれていた通りに動き、リヴァイ達の道を開いた。あまりにも筋書き通りなそれにリヴァイ達は作戦中ぞっとしたし、今も背筋に怖気が走っている。
 まさか本当にこのひょろひょろした青年が神か悪魔だとでも言うのだろうか。そんな馬鹿げたことすら考えてしまうほど、今回の作戦はリヴァイ達に衝撃を与えたのだ。
「どうした? もう下がって良いぞ」
 言い知れぬ恐怖に身動きが取れなかった二人へエレンの金眼が向けられる。その声でようやく身体の硬直がとれたリヴァイ達は慌てて敬礼し、エレンの執務室を後にした。
 ぱたん、と静かに扉が閉じられ、中にはエレンと日付が変わってもまだその傍に控えていたミカサだけが残る。(なお、ジャンは現在仮眠中で、数時間後にミカサと入れ違いでエレンの警護に当たる予定である。)
「エレン」
「ん?」
 公の場ではエレンのことを「主」や「司令」と呼ぶミカサが、そっとそのファーストネームを口にした。応えるエレンの声もいつもより僅かに柔らかい。しかしミカサが次に放った言葉には相手をたしなめる気配があった。
「自分の身を危険にさらすようなことは控えて欲しい」
「……なんのことだ」
 そっけなくエレンは返す。
 ミカサはこちらと視線を合わせないエレンを黒曜の瞳で真っ直ぐに見つめ、その美しい顔を不安で歪める。
「あなたに何かあったら私は――」
「大丈夫だ。オレはオレの価値と使い方を知っている。お前のそれは杞憂だよ」
 執務机の下で脚を組み替え、閉じられたドアを見据えたままエレンはうっすらと笑みを浮かべた。
「大丈夫。オレはただ、あれが自分にとって必要なものかどうか見極めたいだけだから」





【4】


 ローゼ王国の首都中心、そこには王城がそびえ立つ。だがかつて華美なだけだったその城は、現在、改修を繰り返され広大な敷地の半分ほどが軍の施設となっている。ローゼ王国軍中央司令部と呼ばれるその地は、王城由来の華やかさと軍としての威厳を併せ持つ独特な雰囲気に満ちていた。
 この国の国花である薔薇が咲き誇る中庭を貫く廊下。薔薇園にも見劣りせぬよう、精緻な彫刻が施された白亜の柱が両側に何本も立ち並び、天井を支えている。
 軍の司令部と王が住まう王城とを繋ぐそこを一組の男女が颯爽と歩いていた。
 庭は雪の季節を除き常に薔薇が咲き誇るよう、庭師によって調整されている。今も廊下からは真っ赤な薔薇を眺めることができ、風に乗って青年達にも香りが届く。私腹を肥やすことにしか興味のない暇な貴族連中ならば立ち止まって鼻をひくつかせたかもしれないが、生憎、青年は薔薇にも華美な装飾にも心動かされることなく、一瞥をくれることすらしない。また女の方はそんな青年にしか興味がなく、美しい顔(かんばせ)に薔薇を愛でようとする気配はなかった。
 軍部へ戻る青年――エレンの表情は、相変わらず何の感情も浮かべてはいない。それでも軍の中央司令部統括司令官として国王に定期報告を終えた彼は、どことなく面倒事を一つ片付けた後の開放感のようなものをまとっている。形だけの定期報告は無駄の一言につきるものだが、一応、統括司令官よりも国王の方が地位は上なので、王の権威を不用意に失墜させないためにもこういったことが必要だった。
「リヴァイとハンジの休みは今日までか。……さて、次はどうするかな」
「北の方が少し騒がしいとアルミンが言っていた」
「よし、じゃあまずはアルミンのところに行くか」
「わかった。ジャンに言ってスケジュールを調整させる」
 エレンの一歩後ろを歩いていたミカサが答える。その視線の先、軍司令部の入り口にジャンの姿が見えた。「出迎えご苦労」と言ってエレンが通り過ぎれば、後ろにジャンも従う。
 しばらく進んで、ミカサから指示されたジャンは自身の主のスケジュールを調整するため二人から離れた。エレンはミカサを連れてそのまま自分の執務室とは全く異なる方向へ足を向ける。
 中央司令部とは別の棟になっているその三階建ての建物の名はローゼ王国軍中央資料保管庫。軍関連の資料・情報はほぼ全てここに集められている。また正式名称を口にする者は少なく、単に『資料室』とも呼ばれている。しかしこの建物が有する最も価値の高いものは、紙の資料ではなく――
「やあ、エレン。ミカサが伝えてくれたんだね。ありがとう」
 そのかけ声と共に建物に入ったエレン達を出迎えたのは、金髪碧眼の柔和な顔立ちをした美青年。ミカサと似たような軍服に身を包んでいるが、白ではなく落ち着いた赤を基調としている。また裾は少し長めで、装飾も多く、型は似ていても戦うためのミカサの服装とは趣を異にしている。
 浮かべられたのは微笑。少女めいたその相貌には親愛の情が溢れていた。
「よう、アルミン」
 エレンが青年の名を呼ぶと、ますますその笑みが深まる。
 彼はアルミン・アルレルト。天才的な戦略を生み出すエレンに最適かつ十分な情報を提示するこの資料室の主にして、軍の情報収集部門を統括する者。そしてエレンを守護するミカサの血の繋がらない兄だった。


 アルミン・アルレルトとエレン・イェーガーは幼い頃からの友人である。アルミンは一人っ子で、同じく一人っ子だったエレンと兄弟のように育ってきた。
 華やかな仕事ではないため一般にはさほど有名ではないものの、アルレルト家は代々軍や王家に関する資料の保管や収集に携わってきた一族で、アルミンもまた軍の資料を統括する立場にある。
 ミカサがアルレルト家の養子になったのは十年前――彼女が十五歳の時だ。直前に後見となる大人を失っており、軍に入ってエレンを支えるための後ろ盾としてアルレルト家の力を借りることとなった。歴史の編纂にも関与するアルレルト家は、市井では有名でなくとも、国の中枢になるほど重要視される名前だったのである。
 膨大な資料の管理者にして自身の頭脳にも多くの知識を溜め込んでいるアルミンはまさに生ける辞書であり、また本人の知能も高い。諜報専門の人員を指揮する能力も他の追随を許さない。軍のトップとして多忙なエレンの代わりに必要な情報を収集・整理・提供するのがアルミンの仕事である。
 エレンはその立場故に情報の重要性を強く認識しており、軍属であるにもかかわらず戦えないアルミンを決して蔑ろにはしない。幼少期からの親友に向ける信頼と、大切な役割を担っている相手への敬意をエレンは常にアルミンに対して抱いており、だからこそアルミンもエレンには全力で応えるようにしている。
 そんなアルミンが北方の不穏な気配を察し、ミカサを通じてエレンに報告した。これだけで重要度も優先度も一気に跳ね上がる。
「今年も冷夏だって予想されているからね。暖かいうちに少しでも南へ領土を広げたいんじゃないかな。ひとまず、こちらがかつて奪い取ったシーナを取り返したいってところかな」
「シーナか……」
 エレンが呟きながらミカサを一瞥する。しかし隣に座る彼女の表情は変わらない。
 ローゼ王国が十年前に侵略した国、シーナ。エレンが公式的に指揮官としての初陣で勝利した国でもある。ローゼの北方に位置し、更に北に存在するセプテントゥリオーネス連合の一角をなしていた。
 最も南に位置していたシーナを奪われ食料の自給率が下がった北の連合はそれでも何とかやってきていたのだが、ここ数年続く冷夏には随分苦しい思いをしているらしい。またローゼに対する恨みもあるだろう。連合を形成する国一つ一つでは軍事力でローゼに敵わないものの、今回、連合として総力を結集し、こちらに矛を向けてくるつもりのようだ。
 アルミンは自身が各国に放っている諜報員から集めた情報を開示し、エレンがそれを使って正確な開戦時期を予想する。その際の戦力、弱点、果ては連合に加わる各国代表者らのスキャンダルとそれが公になった時の市井の反応まで。
 開戦前に収束させることもできるが、これを機に北側の国をまた一つか二つ支配下へ置いてしまった方が良い。無理に全ての国を下さずとも、連合の中でも南に位置する食料自給率が高い国を取り込めば、残った国は徐々に国力が落ちて自らローゼに下るしかなくなる。そう判断したエレンは着々と考えをまとめ、随時必要な情報をアルミンから引き出していった。
 国に関する重要なことをたった二人の――否、正確にはたった一人の人間が決めていく。しかも、詳細はまだ詰める必要があるが、大まかな進め方が決まったのは会話が始まってから僅か三時間後。その間、一杯の紅茶と甘い菓子による休憩を挟む以外はずっとアルミンは情報を提示し、エレンが考え続けた。
 そして、話が終わると――
「……エレンはエネルギー切れか」
「自室に運んでおく。アルミン、あなたも今日はもうゆっくり休んで」
「うん、ありがとう」
 ひそやかに会話をするアルミンとミカサ。二人の視線の先にはソファに腰かけたまま目を閉じ、人形のように動きを止めてしまったエレンの姿があった。
 特注の黒い軍服に包まれた痩身を眺め、アルミンは青い目を眇める。
 エレンは頭の回転が異常に速い。だからこそ凡人には到底及ばないレベルで物事を考えることができる。その思考が生み出す結果は、まるで神の御業か悪魔の所業にさえ見えるだろう。しかし、重ねて言うが、エレンは頭の回転が速いだけ≠ネのだ。他人よりも多くの情報を頭に叩き込み、それを高速で整理し、指示にする。
 頭を働かせるためにはエネルギーが必要である。エレンは凡人よりも多くの物事を考えるため、エネルギーも大量に消費する。よって、大きなことを考えると、時折、終了と同時にこうしてエネルギー切れを起こすことがあった。
 余談ではあるが、エレンは意外と甘いものを好む。これは頭の働きによって消費されたエネルギーを効率よく補給するためではないかとアルミンは考えている。
「あんまり人目に付くようなところは歩かないであげてね」
 容易くエレンを横抱きにしたミカサをソファに座ったまま見上げ、アルミンは苦笑を浮かべた。
「わかってる。エレンは嫌がるだろうし、私もこんなエレンを他人に見せたくないから」
 まるで母のように、姉のように、ミカサは優しい眼差しでエレンを見つめる。とっくに成人済みの男女ではあるが、眠ってしまったエレンはどこか幼げで、不思議と違和感は覚えない。
 エレンの呼び方が「主」や「司令」ではなく名前になっていることからも分かるように、今の彼女はオフモードなのだろう。主君を守る兵士ではなく、大切な人を慈しむ者として、ミカサはエレンを見つめていた。
「じゃあ後はよろしくね、ミカサ」
 アルミンがそう告げると、ミカサはゆっくりと頷いて静かに資料室を出て行った。





【5】


 エレン・イェーガーが指揮する戦いは絶対に勝つ。それは最早ローゼ国内に留まらず他国にとっても自明の理となっていた。しかしローゼは王政国家であり、勝利が確約されていたとしても軍部が勝手に戦争を起こすことはできない。形だけではあるが、王の承認を要する。
 したがってセプテントゥリオーネス連合との間で近々勃発するであろう戦に関しても、開戦前に軍の中央司令部統括司令官が王に謁見するという手順を踏むこととなった。
 十年前に即位した現王はエレンが軍人として公の場に出る一年前、ローゼと南方の国であるマリアの戦争において圧倒的勝利をおさめ、それによって王位についた人物である。だが実のところ、このマリアとの戦争において現王はほとんど指揮を執っていなかった。実際に軍を指揮したのはまだ十四歳の少年――エレン・イェーガー。エレンは未来の王の影として働き、新王の頭上に輝かしい王冠をもたらしたのだ。
 こうして、単に王家の血筋である数多の人間の中から一人の男が現在の王にまで上り詰めた決定打はマリアとの戦争だが、他国との戦争だけでなく国内においてもその知略を巡らせ、当時の王を排斥する下地を作り上げたのもまたエレンである。つまリエレンこそが現在の王を選んだと言っても過言ではない。
 中央司令部内のエレンの執務室が存在するエリアに王が容易く足を踏み入れようとしないのは、単にこの国で軍部が強い力を持っているからではなく、エレン本人に王が強く物を言えないからなのだ。王が統治する国家として、それらの事実を公にすることはないが。
 ローゼ王国軍中央司令部統括司令官が王に謁見するのも全てただのパフォーマンス。実質的な能力も立場もエレンの方が上。しかし国家の最重要機密事項とも言えるそれを知るのは――つまり噂が真実だと知っているのは――、当人達と、彼らに近いごく少数の人間のみ。聡い者は事実に気付いているかもしれなかったが、利口であるがゆえに口を噤んでいる。
 そうして成り立っているローゼだったのだが……。

「ではエレン・イェーガーに命ずる。この機にセプテントゥリオーネス連合を全て我が配下にせよ」

 エレンにとって王とはただ頷けばいいだけの人形であり、王本人もそれを承知していた。十一年前、王族の一人であった男を傀儡に仕立て上げようと決めた時は確かにそうだったのだ。しかしエレンが表舞台に立ち本格的にその手腕を振るい始めてから十年。王はローゼの圧倒的な力と安定した治世に浸り切り、徐々に腐敗を進めていたようだ。
 エレンもその気配は敏感に察していた。先日、貴族が勝手に争いごとを起こしたのもこの王の腐敗が影響している。ただしその程度ならまだ見過ごせた。しかしながらこの瞬間、王の腐敗具合はエレンが看過できるレベルではなくなったと確定されたのだ。
 自分が何故その地位にいられるのか、彼は忘れてしまっている。エレンが王に代わって軍を指揮したという事実は覚えていても、それを含めて全て自分のものだと勘違いをしてしまったのだ。だからエレンにこうして命令≠した。エレンの意志に対して形ばかりの承認をするだけで良かった人形が、欲を出してエレンに不要な領土奪取まで要請したのである。
「御意に」
 玉座の間と言う公の場において、エレンが返せるのはこの言葉のみ。黒い上衣が床につくのも構わず片膝を折り、胸に手を当てて頭を垂れる。その仮面のような顔の下でエレンが現王を見限ったことなど知る由もなく、王は満足そうに頷いた。「貴殿の活躍を期待している」と。
 それを聞いた後エレンは玉座の間を辞し、真っ直ぐに王城と軍の中央司令部を繋ぐ長い廊下へと向かう。本日のこの時間帯の護衛はジャン・キルシュタインだ。
 ジャンを伴ったままエレンは薔薇園を貫く廊下を歩む。
 真っ赤に咲き誇る国花を一瞥し、エレンは面倒くさそうに呟いた。

「次の王を選ばねぇと」

* * *

 休暇明け一日目。急用もなく午前中を鍛錬に当てていたリヴァイだったが、午後にエレンから呼び出しを受けた。
 中央司令部統括司令官の執務室を訪ねたのはリヴァイ一人。ハンジは一緒ではない。
「訓練中にすまない。だがなるべく早く『青』に教えておくべきことがあったんでな」
 重厚な黒檀の机の向こうでエレンがゆったりと椅子に背を預ける。
「『青』……俺とハンジに、ですか。しかしハンジをお呼びになっていないようですが」
「ああ。ハンジはいいんだ。あいつは今、調べもので忙しそうだったから」
 ひらひらと片手を振ってエレンが答える。
 親衛隊に入隊したことで閲覧できる資料がぐっと増えたハンジは、特別な任務が入っていないこの機を利用してエレンとその周辺に関して文献を漁っていたはずなのだが――
(どうやら別件で正式な調べものの依頼を受けたらしいな)
「そうでしたか」
 エレンが言う調べもの≠ェ何を意味しているのか気付くことなく、リヴァイは単純に流した。
 もしハンジと今すぐ連絡が取れたなら、彼女がエレンからの指示ではなく未だ自分達のための調べものをしていることも判明しただろう。しかしこの場に彼女との連絡手段はなく、彼女もリヴァイがエレンに呼び出されこうして会話していることを知らない。
 リヴァイの返答を聞き、エレンの双眸がごく僅かに笑みの形へと眇められた。その意味をリヴァイが悟ることもない。
「あとでお前から伝えておいてくれ」
「了解です」
 ハンジの同席を必要としないということは、簡単に伝えられる情報なのだろう。少なくとも、先日の命令書に記載されていた大量の詳細データのようなものではないはずだ。
 そう考えるリヴァイヘ、エレンは不意打ちのようにたった一言だけのメッセージを伝える。

「近々、我らローゼ王国軍はセプテントゥリオーネス連合と戦争を起こす」

「は……?」
 リヴァイの鋭い双眸が驚きに丸く見開かれた。
 セプテントゥリオーネス連合とはリヴァイの故郷であるシーナがローゼに侵略される前に所属していた集まりだ。ローゼは連合の南部にあったシーナを奪うだけでは飽きたらず、今度は連合そのものを支配しようとしているのか。
 驚きが過ぎ去った後にリヴァイを襲ったのは激しい怒りだった。それから、強い焦燥。
 もし連合がローゼに落とされてしまえば、エレンを暗殺して軍の力を衰退させ祖国を開放しても、シーナは地理的に敵(ローゼ)に囲まれたまま。そんな状況で順調な復興などできるはずがない。
(何年かかってもなんて言ってられねぇ。早く……早くこいつを殺さねぇと)
 殺気が漏れ出さないよう注意しながら、リヴァイは強くそう思った。
 一方、エレンは澄ました顔で椅子の背もたれから身体を離し、机に両肘をつく。机の手前で直立しているリヴァイを黄金の双眸で見上げ、
「目標は連合に属する全ての国家をローゼの配下とすること。お前達にも存分に働いてもらう予定だから、そのつもりでいるように。詳細は追って伝える」
 そのまま「以上だ」と告げ、早々にリヴァイの退室を促した。
 部屋に長居してはエレンヘの殺気が漏れ出てしまいそうだったためリヴァイはそれに逆らうことなく速やかに部屋を出る。その背をミカサとジャンの視線が追っていた。
 扉を閉じれば二人の視線からも解放され、リヴァイはまだ殺気を漏らさないよう自制しながら私室へと向かう。
 終ぞエレンの両側に控える白服の二人が口を開くことはなかった。しかしリヴァイが去ると、ジャンは少し呆れ気味にエレンを見やり、ミカサは鋭い目つきでリヴァイが立っていた場所を睨みつける。
 二人の言いたいことをエレンはよく分かっていた。ジャンはエレンに挑発しすぎだと注意したいのだろうし、ミカサはリヴァイ本人も気付けないごく微量な殺気を滲ませた男に怒りを抱いているのだ。しかしあえてそれに答えることは無く、エレンは「まぁ見てろよ」と己が采配に対する自信を露わにしてみせた。

* * *

「なんだこの国……。軍部が強いことは分かってたけど、もしこの状態のまま私達がエレン・イェーガーを殺したとしたら――」
 資料室の奥。
 ひっそりと数多の書籍のページをめくりながら調べものを続けていたハンジは、判明した事実にぞっとする。
 背中には冷たい汗が流れ、口元は悔しさに歪んでいた。
「――きっとこの国は腐り落ちる。シーナを巻き込んで。……こんなの、独立どころの話じゃないよ、リヴァイ」





【6】


 前王はまさに愚王と称すべき人間だった。
 決して悪人ではない。ただ、彼は一国を統治する者に必要な利口さを備えていなかったのだ。
 ただ血筋だけで即位した男は己の足元で何が起こっているのか全く気付かない。私腹を肥やすことに関して異常に頭の回る貴族や官僚達は愚かな王に博きながら腹の中では彼を愚弄し、互いに手を結び、時には騙し合い、民衆から行き過ぎた搾取を行う。王宮は汚職にまみれ、国は疲弊していた。
 そうやって国が廃れていく中、エレンはイェーガー医師の長男として誕生した。父のグリシャ・イェーガーは高名な医者であり、アルレルト侯爵家を始めとして多くの貴族や王族に重用されていた。
 グリシャを囲いたがる者は大勢いたものの、彼がひと所に専属医として身を落ち着かることはなく。たくさんの命を救いたいという信念に従ってグリシャは王族も貴族も一般市民も区別することなく手を差し伸べた。重い税を課せられ生活に苦しむ人々には当然のように無償での治療も行われた。
 誇るべき父。それを支える聡明な母。二人の間に生を受けたエレンは同じ年に生まれたアルレルト家の長男と親交を深めながら健やかに成長していった。
 しかしエレンが九歳の時、後の彼の人生を決定付ける大きな転機が訪れる。


「えっ……かあ、さ、ん……?」
 日中、父親の往診について行く形でアルレルト家を訪ねていたエレンは、帰宅した我が家の惨状に息を呑んだ。
 視界いっぱいに、昼間一緒に遊んだアルミンの青い目とは正反対の赤い世界が広がっている。背後から差し込む夕日に照らされ、床も壁も赤く染まっているが、それよりなお赤く暗い液体が部屋を侵食していた。
「か、ぁさん」
 玄関扉の前で立ち竦む父親の脇をすり抜け、エレンは床に横たわっている母親の身体に縋った。
 服と言わず肌と言わず、母カルラの全身は赤黒く染まっている。美しかったはずのブルネットもその色に濡れ、てらてらと不気味な艶を放っていた。
「母さん。ねぇ、母さん」
 触れた肌はエレンのような温かさを宿していない。それを理解してもなおエレンは母親の身体を揺らす。温かさと柔らかさ、その奥に凛とした力強さを秘めていたはずの身体は、幼子に揺すられるままゆらゆらぐにゃぐにゃと動くのみ。
「かあ、さん。かあさん。母さん母さん母さん……っ!」
 ぐっと力が籠って横たえられていた母親の身体が仰向けになる。その勢いに逆らえず、エレンは血まみれのまま死んでいる母の腹に倒れ込んだ。
「か、あ、さ……」
 玄関の扉を開けた時から感じていた鉄臭さが更に強くなる。
 おびただしい量の血液。力と温度を失った身体。それを目の前に突き付けられて、母親の状態を理解できないエレンではない。しかしそれでも縋るように金色の双眸が背後の父親を見上げた。
「ねぇ、父さん! 母さんを助け――――……父さん?」
 振り仰いだ先に佇むグリシャは妻と息子を見つめるのではなく、その向こうの壁をじっと見ていた。
 その顔は蒼白で、口元はわなわなと震えている。いつも穏やかな父親が今浮かべている表情こそ彼の中で怒りが最高点に達した時の顔だと、エレンは知らなかった。しかし知らぬまでもゾッと両腕が粟立つ。
 グリシャから目を離すことには言い知れぬ恐怖が付きまとったが、それでもエレンは父親が見ているものへ視線を向ける。
 白い壁紙が貼られた壁の上方、夕日の角度の所為で暗い影になっている部分。そこに赤黒い文字が書き殴られていた。

 下賤の輩には相応の死を

「は……?」
 これはエレンが後で知ることになるのだが、父親であるグリシャは元々貴族の出だった。しかし医者として励んでいる最中に下町の娘カルラと出会い、恋に落ちた。
 カルラと出会ったことで一般市民の現状に触れる機会を得たグリシャは、王族や貴族のためだけの医者としてではなく、貧しい人々にも手を差し伸べることとなる。しかしそれを気に食わないと思う貴族や王族は当然のように現れ、説得と言う名の嫌がらせは何年にも亘り幾度となく行われてきたらしい。
 そうして嫌がらせがエスカレートした結果が、これだった。
「エレン」
「ッ!」
 茫然と壁を見やっていたエレンの両肩に大きな手が触れた。エレンはびくりと身体を跳ねさせる。しかしそれすら許さないとでも言うように、グリシャの手に力が籠った。
「とう、さ、ん」
「エレン、この国は腐っているな」
 息子の耳元で父親は囁くように、嘆くように、脳を侵すように、正常な思考を狂わすように、告げる。
「私は医者だ。医者は頭がいいと言われているが、生憎私はこういう悪意に満ちた策謀に関して、てんで無知だった」
 グリシャはハハッと自嘲する。
「この国は腐っている。美しく清く尊いものがこうして無惨に奪われるなどあってはならないことだ。それなのに、無知な王と腐った貴族や官僚が、その真理を侵している。これは許されることではない。だが私には正しいことを押し通す知恵も力もない。――だから、なぁ、エレン」
 大人の男の身体に芽生えた悪意と憎悪を全て小さな子供の身体に移すように、グリシャの唇がそっとエレンの耳朶に触れる。

「お前が、復讐して(かえて)くれないか」

 直後、エレンが返答する間もなく、幼子の意識は暗闇に落ちた。
 次に目覚めた時、父親の姿はどこにもなく、いくつかの手術痕や投薬されたと思しき注射の痕、そして限界以上に働く頭脳だけがエレンに残されていた。
 一部の王侯貴族や官僚が姿を消し始めるのはこの数年後。そしてエレンが十五歳になった時、ローゼには新たな王が立った。エレン・イェーガーという操り手によって全身に操り糸を付けられたマリオネットの王が。

* * *

「その王も、もう使えなくなっちまったけどな」
 すっかり太陽が沈み、星が瞬く頃。
 あの日のように暗い赤をしたワインをグラスの中で回しながらエレンはぽつりと呟く。
 寝室であるここにはミカサやジャンですら滅多に入らない。たった一人の空間でエレンはワインを口に含み、こくりと飲み込む。
 ボトルが置かれた小さなテーブルの上にはいくつかの名前が書かれた紙が一枚。そのほとんどには打ち消し線が引かれ、ただ一名だけ丸で囲まれている。
 消されることなく残った一名の名は、リヴァイ・アッカーマン。
 それを眺めながらエレンは小さく息を吐き出した。
「だから、新しい王が必要だ」





【7】


 軍中央司令部の一角、内緒話にはもってこいの人が寄り付かない場所で落ち合ったリヴァイとハンジは、日中に互いが得た情報をそこで交換することとなった。壁に背を預けて誰かが近くを通ればすぐに気付けるよう警戒しながら、最小限の音量と口の動きでまずリヴァイがエレンから伝えられたことをハンジに告げる。
「ローゼが連合への侵略戦争を決めた。早くあの野郎を殺さねぇと手遅れになる」
「なっ……!」
 ハンジは眼鏡の奥の双眸を見開いて息を呑んだ。しかし彼女はリヴァイが予想していたような肯定ではなく、その顔に迷いを浮かばせる。
「おい、ハンジ?」
「……だめだ。今エレン・イェーガーを殺すことはできないんだよ、リヴァイ」
「あ?」
 眉間に深い皺を刻んでリヴァイがその一音を発すると、ハンジは「まぁ待って。その気持ちはよく分かる」と両手を前に突き出してリヴァイを制止しながら続けた。
「でもね、今日資料室に行って私は知ってしまったんだ」
「何をだ」
 唸るようにして告げたリヴァイの声は低い。相手を見据える双眸には剣呑な光すら宿っている。
 自分達はエレン・イェーガーを殺すためここまでやってきたというのに、今のハンジの台詞は一種の裏切りのように感じたのだ。そうでないことは、きっとこれから彼女が話すことによって証明される。そう頭では理解しているが、同じ志を持って歩んできた人間に「エレンを殺すな」と言われた衝撃は大きい。
 またあまり時間がないことへの焦燥もそこに加味されていた。ハンジは『今』エレンを殺すことはできないと言った。しかしそれなら『いつ』殺せるのか。早くしなければシーナの未来がない。それはハンジとて理解しているはずなのに、何故だめだと言うのか。
 苛立ちに任せて舌打ちをすると、ハンジは横目で不格好な苦笑いをしながら肩を竦めた。
「まず、私達の国(シーナ)と戦争する前からローゼが腐っていたことは知ってる?」
「こっちの国史はまぁ一応頭に入っている」
「うん。オーケイ。あなたも知っている通り、ローゼは元々小さな国だった。けれど周囲の国を侵略し、その民から搾取を繰り返して力をつけ、また新たな国を奪う……その繰り返しで大国になった。だから、かな。王侯貴族や王宮にいる官僚達のほとんどは国のための政治とかそういったものを一切考えちゃいない。ただ奪って自らの腹を脂肪まみれにすることしか頭にないんだ。だからこの国は貧富の差も激しい」
「……チッ」
 その搾取される側となった祖国を思い、リヴァイが再度舌打ちをする。今のところ十数年前までのように侵略された国の民が奴隷のような扱いを受けることはほぼ無くなったとは言え、決して連合の一角を成していた時と同じ生活は送れていない。
 その最悪の時代に冠を戴いていた男の話がハンジの口から出る。
「特に今から十年前まで君臨していた前王があまりにも愚か……何も見ようとしないし考えない人間だったから、その下にいる貴族や官僚がやりたい放題だった。それまでなんとか歴代の王が回してきた政治もここでついに二進も三進もいかなくなったんだ。同じローゼの民であっても一部の特権階級は市民を家畜同然に思っていたらしい」
「それがどうした。前王は排斥され、今の王になった。多少はまともになったかもしれねぇが、ローゼが腐っていることに変わりはない」
「でも、もし前王がずっと君臨していたなら、この国だけでなく私達の国や侵略された他の国はどうなっていたと思う?」
「……今よりもっと酷い状態になっていた、と俺に言わせたいんだろう? てめぇは」
「そうだね。あなたも一応認識しているようで良かった。ここで認識が違っていたら説明できなくなってしまう」
 ちっとも良くなさそうな疲れた顔つきでハンジは肩を竦めた。
「今の王が即位したことは、ある意味でローゼ自体とローゼに従わされている国にとって一応良いことだったんだ。それで、ここからが本題」
 ハンジが覚悟を決めるように一呼吸置く。
「巧妙に隠されていたけど、資料を照らし合わせていて分かったよ。十年前、前王を排斥し、現王を即位させた影の立役者がいた。そいつは自分が成した数多の功績をまだ王族の一人でしかなかった男のものとして発表させ、同時に前王派だった人間を次々に政治の中心から引き摺り下ろし、現王を擁護する貴族らを要職につけていったんだ。……そいつの名は」

「エレン・イェーガー。
 当時まだローティーンの少年だったエレン・イェーガーだ」

「は……?」
 リヴァイは聞き間違いかと思った。
 怨敵エレン・イェーガーの頭脳がずば抜けて優秀であることはすでに理解している。しかしまだ十代前半の子供が大国の王を自身の意志で即位させる? そんなことが可能であるはずがない。
 しかしハンジの横顔を見やると、彼女は「そんな顔すると思ってた。でも事実だよ」と返してくる。
「今の王はエレン・イェーガーが選んだ愧儡だ。腐ったこの国をギリギリのラインで実質的に保っているのはローゼ王国軍中央司令部統括司令官であるあの男。もし私達が今エレン・イェーガーを殺してしまえば、彼が抑えていた王侯貴族や官僚達が今以上に好き勝手し始める。そうなれば前王の最盛期と同じ、十数年前の悪夢の再来だ。ローゼはシーナも侵略した他の国も巻き込んで地獄と化すだろうね」
「……だからあいつを殺すなと?」
「だって代わりになる人間がいないんだ。あの知略に敵う人間をあなたは知っているの?」
「ふざけるな!」
 ダンッ、とリヴァイが握り締めた拳で壁面を殴りつけた。小さくひび割れたそこから剥離片がぽろぽろと落ちる。
「ちょ、リヴァイ! 声が大きい……!」
「だからってこのまま手をこまねいているわけにもいかねぇだろうが。連合が取られたら俺達の負けだ。たとえその後であいつの代わりが見つかったってもう遅ぇ。シーナは二度と再興しない。だったら――」
 今すぐエレンを殺し、抑止力を失ったローゼが腐り落ちる前に祖国を取り戻す。
 最早リヴァイにはそれしか考えられない。
 ハンジもリヴァイと同じ考えを抱かなかったわけではあるまい。しかしこれはあまりにも大きな賭けだった。エレンを殺して祖国の救済が間に合わなかった場合、待っているのは数多の人間の悲劇。十数年前と同じかそれ以上の地獄がこの地上に顕現することとなるだろう。
「あなたにはその覚悟がある?」
 ハンジは苦虫を噛み潰したような声と表情で尋ねる。
 それは自身に対する問いかけでもあった。ただしハンジ自身の回答は、おそらくノー。背負う責任が大きすぎる。
「……」
 リヴァイは答えなかった。答えられなかった。
 しばらく沈黙が続くと、ハンジは眼鏡の奥で固く目を瞑って細く息を吐き出した。
「今夜はこれで終わりにしよう。幸いにも、まだほんの少しだけ時間がある。一日か一週間か一ヶ月かは分からないけれど、とにかくその間に何か解決策を見出そうじゃないか」
 そして壁から身を離すとハンジは自室へ向かって歩き出す。その背を見送るリヴァイは眉間に深い皺を刻み、遣る瀬無さをぶつけるようにもう一度強く壁を殴りつけた。





【8】


「誰がシーナの民を襲っていいと言った?」
 冬の気配が近付く薄曇りの寒い日のことだった。
 二発の銃声が路地裏に響き、その後に淡々とした声が続く。
 少女に襲いかかっていた男達はどちらも頭から血を流して絶命していた。
 戦場となり荒れ果ててしまった首都の一角、その路地裏に引きずり込まれ暴行されそうになっていた少女は、コツリコツリと響く硬質な足音を耳にする。
 コツ、と立ち止まる音がしたのは少女の足元。「ゴミクズめ」と小さく罵るテノールと共に、少女に覆いかぶさっていたローゼ軍の兵士が黒いブーツで蹴り転がされた。同じ制服を着たもう一人の男は少女を背後から拘束していたため、覆いかぶさっていた方の兵士が退けば視界がひらける。
「大丈夫か?」
 表通りから差し込む光が少女を助けた人物の輪郭を照らし出す。
 逆光であっても整った顔立ちの少年であることが分かった。自分を襲っていた屈強な身体を持つ軍人とは異なり、身長ばかりが伸びて筋肉の成長が追い付いていないため華奢な印象が強い。猫のような吊り上った双眸は大きく、美しい金色をしている。少女めいた、とまではいかないが、十代半ばと思しき若さと整った顔立ちゆえ、どこか性の曖味な容姿をしていた。
 自分を助けてくれた人物であること、また襲っていた男とは全く異なるタイプであること。それにより、少女は差し出された手を掴むことができた。
 手を引っ張られ、二本の足で立ち上がる。腰が抜けかけていたが、金眼の少年が反対の手で支えてくれたため、無様に尻をつくことにはならなかった。
「ブラウスのボタン取れちまってるな。……ああ、血もついてる。オレの所為か。とりあえずこれやるから、嫌じゃなけりゃ着ておけよ」
 そう言って、少年が自身の黒いコートを脱いで少女の肩にかける。ついでにマフラーもぐるぐると巻き付けた。コートの肩口とマフラーの端に縫い付けられていたのは、ローゼ軍であることを示す蔓薔薇の紋章。
「あなたは」
 少女は自分とほぼ同じ目線の少年を見つめて白い息を吐く。
 ただ、初めから予感はしていた。少年が現れた時の台詞は少女を襲っていた兵士らに上の立場の者として$ァ裁を加える人間のものだったから。
 少女と見つめ合った少年は毛流れのよく分かる太めの眉を下げ、「ごめんな」と謝罪の言葉を口にした。
「お前の国を攻め落としたのはオレだ」
 その一言がただ単に、少年が属しているローゼ軍が少女のいたシーナを侵略したという意味ではなく、本当の意味で少年がシーナを征服したということであったと少女が知るのは、まだ少し先のこと。
「でも」
 少女の黒い瞳を真っ直ぐに見返して少年は告げる。
「それを後悔しているわけじゃない。オレの謝罪は、うちの兵がお前を襲ったことに関してだ」
 普通の人間ならばこんなことを言われて黙ってはいられなかっただろう。ふざけるなと少年を罵り、国や家族を返せと泣き叫んだだろう。
 しかし少女が一般の人間のような反応を示すことはなかった。
 少女の血筋はこのシーナにおいて少しばかり特別な位置付けにある。その血筋の者達は特筆した能力を持ち合わせており、それにより王佐や軍の指揮官など、代々重要なポストについてきたのだ。少女は傍系のため国の中枢に関わることはなく、また関わっている親戚との交流もほとんどない。ただ単に首都の端で生活していただけ。それでもこの戦争の発端について情報を得ることはできていた。
「わかっている」
 少女は静かに頷く。
「最初に手を出したのはシーナの方。あなたのローゼはそれに応戦しただけ。こちらから手を出さなければ、おそらくあなたの国はここまで徹底的にシーナを潰すことはなかった」
 だから謝罪を受ける対象は先程の暴行未遂に関してのみで十分だと、少女は告げた。
 そんな返答に少年の目が丸く見開かれる。しばらくして金色の双眸は目尻が下がり、ふわりと淡い笑みを浮かべた。美しいがどこか不器用な、少年らしさの滲む微笑を目にして、今度は少女が息を呑む。
「ありがとう」
 少年の唇を割って白い息と共に吐き出された感謝の言葉は柔らかく、意図せず少女の胸を温めた。ぐるぐるとまかれたマフラーに顔をうずめると、少しだけ赤く染まる頬が隠れて安堵する。
「ああ、そうだ。お前この後どうするか決まってるか。家族と合流する? だったらこっちでお前の親、探せるけど。オレは今から本部に戻るし、情報なら結構集まってると思うぜ」
 偶然居合わせただけの少女に、少年はもう少し世話を焼いてくれるつもりのようだった。しかし少女は首を横に振る。「どうして?」と尋ねるテノールに少女はぽつりと返した。
「父も母も殺された。だからもう誰かを探す必要はない」
「……家は」
「壊れた。だからこんな所をうろついていた。……どこに帰ればいいのか分からなかったから」
「……そっか」
 少年の手が伸び、そっと少女の黒髪に触れる。突然の接触に少女は小さく肩を跳ねさせたが、すぐに身体の強張りを解いた。
「じゃあさ」
 少女の髪を梳きながら少年が告げる。
「オレのところ、来るか?」
「え……?」
 少女がぱちぱちと瞬きを繰り返すと、少年は苦笑を浮かべた。
「オレも両親がいないんだ。片方は殺されて、もう片方は行方不明。小さい時に住んでた家ももう無い。だから一人ぼっち同士、家族にでもなってみる?」
 そうして少年は少女から一歩分だけ後ろに下がり、すっと手を伸ばす。少女は少年の顔と手を交互に見比べた。
 この手を取れば、少女はおそらくローゼの人間として少年の隣に立つこととなるだろう。また、たとえ手を取らずとも、ここ数年のローゼの動向を鑑みれば、昔のように奴隷同然の扱いを受けることはない。元シーナの民としていくらかの不便を感じながらでも生きていけるはずだ。
 少女は僅かに黙考した後、すっと息を吸った。

「私の名はミカサ・アッカーマン。今日からあなたの家族になる」

 黒髪黒目の少女、ミカサは差し出された手をしっかりと握る。新たな家族に己の名を名乗って。
 少年もまたその手を強く握り返した。

「オレはエレン・イェーガー。よろしく、ミカサ」

 ――こうして未だ幼い二人は出会った。
 ローゼの首都に帰還後、戸籍を新たに作成してミカサはローゼの民となった。だがエレンと同じ姓を名乗ることはなかった。
 エレンの立場を知ったミカサは、書類上で同じ姓を持つ者として寄り添うのではなく、本当の意味でエレンの隣に立つことを望んだのだ。ゆえにそのために必要なこと――力を持つ家の養子になって後ろ盾を得ることと、数ヶ月間の自主訓練を終えて軍属となること――をこなしていった。
 ミカサの新たな姓はアルレルト。築いた地位は、エレン・イェーガーを守護する最強の剣。

* * *

「エレン……」
 あの日エレンからもらったコートとマフラーは十年経った今も大事に保管している。自室のクローゼットからそれを取り出し、ローゼ王国軍中央司令部統括司令官付特別任務隊隊長のミカサ・アルレルトは、目を閉じて白皙の美貌をそっと伏せた。
 ミカサの大切な人は今、何か大きなことをなそうとしている。北の連合との戦争ではない。それを利用するかもしれないが、単なる戦争よりもっと複雑でこの国の中枢に近いものだろうという予感があった。
 特別な頭脳を持つエレンの考えをミカサが全て推察することはできない。しかしただ一つ、それでもミカサの中で確固として存在する事実がある。
「あなたがいないと私は生きていけない」
 十年前、全てを失ったミカサ・アッカーマン。
 自暴自棄になっていた少女に新たな命を吹き込んだのは、あの日ミカサの前に現れたエレンだった。だからこそ、そのエレンを失った時、今のミカサ・アルレルトは死ぬだろう。そしてミカサはもう新たな命を得るつもりなどなかった。
 たとえその思考の全てを理解してあげることができなくても、彼の傍を離れるつもりはない。
「私はあなたの家族。絶対、誰にも奪わせたりしない」
 ミカサは顔を上げて目を開く。
 視線の先には誰もいない。しかし彼女の黒い双眸はしっかりと『誰か』を見据え、軍人になることを決めた時からずっと抱き続けている思いを口にした。
「あなたは私が守る」





【9】


「解決策その一、オレの代わりを見つける。その二、オレを改心させる。その三、オレを殺してスピード勝負に出る。……まぁ、あいつらの頭にあるのはこの三つだろうな」
「それだけしか考え付かないように与える情報をこっちで決めているからね」
 ローゼ王国軍中央資料保管庫、通称『資料室』の建物の一角に設けられた情報収集部門統括者の執務室。その部屋の主である金髪碧眼の青年は、客であり友である黒髪の青年にそう返した。
 向かい合ってソファに腰かける二人の間にはローテーブルがあり、その上では紅茶が湯気を立ち昇らせている。茶請けはないが、黒髪の青年――エレン・イェーガーのカップにはすでに匙三杯分の砂糖が溶け込んでいた。
 対照的に、砂糖もミルクも加えていない紅茶を啜ったのは金髪の方、アルミン・アルレルト。膨大な情報を有する『資料室』の主はふっと口元を緩ませて微笑を浮かべる。
「ハンジ・ゾエには君が指示した資料にだけ目を通すよう誘導したから、『青』の二人はこの国の真実に最短距離で辿り着いた。普通だったらあの資料の山から必要な情報を抜き出して正答を得るのはほば無理だよ」
 エレンの指示によりリヴァイ・アッカーマンとハンジ・ゾエが任務で外出している間、アルミンの方では特定の資料の配置換えを行っていた。これにより、ハンジは知らないうちに閲覧する資料を選別されていたのだ。
 しかし決して嘘の知識を与えたわけではない。アルミンの言う通り、本来なら決して辿り着くことのない正解をその手に掴ませただけ。エレンがこの国で果たしている役目に気付かせ、次のステップに進むために。
 今、青い制服をまとう二人はエレンを殺害したくともできないというジレンマに陥っている。正確にいつかも分からない期限が刻々と迫る中、冷静な思考は手から零れ落ちる砂のように失われていっているだろう。
「そろそろこっちから第四の解決策を提示すべきだろうな。勿論オレが望む『正解』を、だけど」
「……ミカサはきっと大激怒するよ」
 自身の真意を『青』に知らせるため親友がこれから何をしようとしているのか。それを知っているアルミンは苦笑を浮かべて告げる。
 しかし止めることはない。たとえ自分の命を危険に晒しても、そのことで後々ミカサからキツイお叱りを受けることになっても、エレンが一度定めた目標を諦めることなどないと知っているからだ。
 理解ある親友の言葉を受けてエレンも肩を竦める。
 そうして「ああ、確実に怒るだろうな」と口元を歪ませた。

* * *

 セプテントゥリオーネス連合の動向とこの国の対応に関する報告のため、軍の統括司令官が国王に謁見してから十日。黒衣をまとう若き軍の指導者が再び玉座の間へと赴いた。
 エレン・イェーガーが王に謁見すること自体が軍内部で秘匿されることはない。ただし国家機密に関わる場合もあることから、会話の内容が一般に公開されることはほとんどなかった。
 親衛隊の面々とてそれは同じ。自分達の司令官が王にどんなことを報告しているのか、エレンの口から教えられない限り、もしくは実際に事が起こってからでないと、知ることはできなかった。
 しかし北の連合と戦争を起こすことはすでに確定している。その後で行われた謁見で何が話されているのか――。殊更鈍い者でない限り、すぐに察することができた。
(クソッ! 開戦日が決まったのか)
 表には出さずに済んだが、リヴァイは大きな焦りを抱く。残念ながら現状を打開する新たな案は何一つ浮かばなかった。
 現在、エレンは玉座の間で王に謁見中である。そこから中央司令部に戻ってくれば、おそらく一般兵への伝達に先んじて、親衛隊の面々にセプテントゥリオーネス連合との開戦について詳細が語られるだろう。
 あとは、他国からローゼの悪魔と呼ばれる男の望むがままに事が運ぶ。連合は滅ぼされ、シーナ再興の夢は潰えるのだ。
(それを指を咥えて見ていろと?)
 ハンジは開戦宣言以降、時間が許す限りずっと資料室に籠っている。しかし、エレンがこの国で果たしている役目に関して情報を得た時とは対照的に、現状を覆す妙案のヒントはなかなか見つからなかった。
 ここがタイムリミットなのかもしれない。
 あの悪魔的な作戦内容を知る者からすれば、エレンが各兵に指示を出した時点で連合との戦争は終わったようなものだ。よってエレンが命令を下す前に口を塞がなければ――
(俺達は負ける)
 リヴァイはギリッと奥歯を噛み締めた。
 持っていた書類がくしゃりと歪む。だが紙の束を握り潰す前にリヴァイはそれがエレンに提出せねばならない物であることを思い出した。
 大きく息を吐き出すことで手に込められた余分な力を抜き、出来上がっていた書類を持って司令官の執務室へ赴く。
 部屋の扉の前に辿り着くと、もう一度深呼吸をすることで苛立ちが滲み出る表情を取り繕い、重厚な木製の扉をノックした。
「リヴァイ・アッカーマンです。書類をお持ちしました」
「入って」
 応えは女の声――ミカサ・アルレルトのものだ。どうやら本日のエレンの護衛はジャン・キルシュタインが務めているらしい。
 そう考えつつリヴァイは「失礼します」と扉を開ける。部屋の主の机は当然のことながら空席だったが、手前側に設置された別の机にはエレンの代行として書類を捌くミカサと……
(あ?)
 リヴァイは内心で首を傾げる。
 エレンに付き添っていると思われたジャン・キルシュタインまでもが着席していたのだ。
 部屋の主の執務机から少し離れたところにある二つの机。その両方に人の姿がある。まさかエレンは今、一人で王城にいるのだろうか。そして誰も伴わず一人でこちらへ戻ってくるつもりなのだろうか。
 こんなことは初めてで、何故だと思う気持ちはある。しかしそれより強く、リヴァイは好都合だと感じた。
 リヴァイはミカサよりも強い。しかしもしエレンがミカサを伴っている状況でリヴァイが襲いかかったとしても、ミカサが時間を稼ぐことでエレンには逃げられてしまうだろう。それはミカサではなくジャンであった時も同じく。リヴァイを妨害できる時間の長さは違えども、誰かに護衛されていれば目標を取り逃す可能性がぐんと高くなる。
 しかしミカサやジャンといった障害がないならば、今のエレンを害することは容易い。
「どうかした? リヴァイ・アッカーマン」
「いえ。何でもありません。書類はこちらに置かせていただきます。……では、失礼します」
 手にしていた書類の束をエレンの机の端にある書類箱へと入れ、リヴァイは一礼して部屋を去る。扉を閉めてふっと息を吐き出した。僅かに俯いていた顔を上げた時、その双眸に宿っていたのは強い殺意。
「どうせこのまま待っていてもジリ貧だ。だったら悔いのない方を選ばせてもらう」
 それはまだ打開策を探しているハンジに向けてか、大きな賭けの対象にされたローゼとその敗戦国の人々に対してか、それともエレン・イェーガーに放たれたものか。
 本人すら自覚することなく、リヴァイは歩き出す。ローゼ王国軍中央司令部と王城を繋ぐ、薔薇園を貫く廊下へと。


 精緻な彫刻が施された幾本もの白い柱によって支えられた廊下。風が吹くたびに赤い薔薇の花弁が舞い、その廊下を歩む人物のコートに触れた。黒いロングコートと真っ赤な花弁の組み合わせは艶やかであり、また毒々しくもある。
 王城側から中央司令部側へ風を切って颯爽と歩むのは軍の統括者――エレン・イェーガー。ピンと背筋を伸ばした姿は美しいが、決して急な襲撃に耐えられるような剛健さは備えていない。
 廊下のすぐ傍、薔薇の生け垣に潜んでいたリヴァイはエレンが己の前を通りがかった瞬間、その細腕を掴んで己の側へと引っ張り込む。薔薇の木々の下に身を隠すように、体勢を入れ替えてエレンを押し倒した。
「……上官の帰りがそんなに待ち遠しかったか? リヴァイ・アッカーマン」
 黄金の双眸がリヴァイを見上げ、感情の起伏が感じられない声で軽口を叩く。その首筋にナイフを突きつけられているというのに、叫ぶのは勿論のこと、目を瞠ることすらしない。
「部下に裏切られたってのに驚きもしねぇんだな」
「そりゃ勿論、最初から知っていたんだから驚くはずがない」
 エレンは答えながらリヴァイがまとっている青い制服の袖口を黒革に包まれた指でなぞった。
「は……?」
 気付いていたとはどういうことか。
 リヴァイが怪訝な顔をすると、エレンの口元に僅かな微笑が浮かぶ。
「実はな、この『青』は目印だ」
 黒革に包まれた指は未だリヴァイの制服の袖口をなぞっている。
「お前とハンジがシーナの人間だってことは最初から分かっていた。正確には、お前がシーナの人間で、だからお前の傍にいるハンジもきっと同じ国の人間なんだろうと推測したんだけどな。お前のファミリーネームはシーナ国内ですら有名じゃなかったみてぇだけど、本来、黒髪のアッカーマンってのは国の中枢にかかわる特別な一族なんだってな。個人的な知り合いに詳しいヤツがいたから、シーナの情報を漁らなくてもすぐに分かった。ともあれシーナの人間が強制でもないのにローゼの軍で働いていたから、ちょっと気になって調べさせてもらったよ。そしたらなんと、お前はオレを殺すために血を被って泥水を啜って軍で功績を挙げようとしてるじゃねぇか」
「……だから、面白がって俺をてめぇの傍に置いたのか」
 苛立ちが指先に伝わり、エレンの首筋に赤い珠が生まれる。ぷつりと僅かに切れた傷口から生まれた紅玉はやがて重力に負け、白い首筋を伝い落ちた。
 痛みがないわけではあるまい。それに何より命の危険を感じているはず。だと言うのに、エレンの微笑は消えなかった。
 彼は「面白がって? そんなまさか」と否定を口にする。
「オレには遊んでる暇なんかない。いつだって真剣だし、必要なことしかしていない」
 リヴァイはごくりと唾を飲み込んだ。
 口元は笑っているはずなのに、黄金の双眸に柔らかな気配はない。獣のように獰猛で、優位であるはずのリヴァイの方が雰囲気に呑まれそうになっている。
「なあ」
 細い指がナイフを握る手に触れた。
 同時に、口元に浮かんでいた微笑さえも消え去り、大きな金色の双眸に至近距離から見つめられる。
 じとりと背中に嫌な汗が流れた。リヴァイの喉はカラカラに乾き、エレンの言葉を待つことしかできない。
「オレを殺せばこの国がどうなるか、もう知ってるよな?」
 それはただの確認作業。
 リヴァイとハンジが何を調べてどんな結論に至ったのか、この男はすでに知っている。ひょっとしたら、調べたことさえこの男に誘導された可能性もある。その事実に気付いた途端、リヴァイの全身に寒気が走った。
 目の前のこれは人間などではない。悪魔。化け物。人知の及ばない異質な存在だ。
「怖いか?」
 それは何に対する問いかけなのだろう。
 人として、人ではないものに対峙したが故の恐怖か。それともエレンを殺すことで自分が背負うことになるであろうリスクに対してか。どちらにしても、恐ろしい、とリヴァイは素直に思った。
 しかしここで折れるわけにはいかない。リヴァイはナイフを握る手に改めて力を入れ、エレンから視線を逸らさず口を開く。
「今てめぇが死ねば、シーナも他の侵略された国の民も、元からローゼの民だった者達も、一部の特権階級から家畜か奴隷みてぇな扱いをされることになるだろうな」
 だから、どうすればいいのか分からない。
 しかし時間はなく、最早勝負に出るしかないのだ。
 リヴァイが強く睨み返すと、何故かエレンは再び口角を上げた。今度は心なしか金の双眸も少し笑んでいるように見える。
 睨まれて微笑み返すという奇妙な現象にリヴァイは隠すことなく顔をしかめた。それをきちんと目視しているというのにエレンの表情は変わらない。
「現状の理解、命の重さの認識、それを背負おうとする覚悟、どれも十分備わっているみたいだな」
「あ? 何を言って……」
「お前がもしシーナの民を想うなら、たった一つの解決策を教えてやろう」
「……なに?」
 きっとろくでもないことだ。
 そう理解していても、リヴァイはエレンが示す答えを聞かずにはいられない。溺れる者が藁をも掴むような必死さで、リヴァイは全神経を耳に集中させる。
 
「リヴァイ・アッカーマン、お前が次の王になればいい」

「……」
 返答はできなかった。と言うより、意味が分からなかった。
 ローゼの王は前王の嫡子の中から選ばれる。もし該当者がいない場合は他の王族の中から、貴族らの支援を最も多く受けた者が即位した。
 しかしながらリヴァイはシーナの人間であり、ローゼの王族の血など一滴も引いていない。そんな男が王になる?
 混乱するリヴァイヘ、エレンは畳み掛けるように続けた。
「頷け。是と答えろ。そうすれば、オレはお前を王にするため全力を尽くしてやる。血筋の方は心配するな。そんな記録はいくらでも書き換えられるし、オレの側にはそれを容易にこなせる人間がいる」
「なるほど」
 ようやくエレンの言いたいことを理解して、リヴァイは皮肉げに唇を歪めた。
「つまり俺に次の『傀儡の王』になれってことか」
 どういう理由かは知らないが、この男は今の王が気に食わなくなったらしい。だから次の王を立てると決め、その候補にリヴァイを選んだ。人質はシーナの民、といったところか。実に趣味が悪い。
「『次の王』の即位に先んじて、オレはこの国をもっと綺麗にするつもりだ。オレが裏で動かなくても王がある程度強くあれば、貴族が無駄な搾取をせず、官僚も汚職に手を染めないような、そんな国にする。お前がこの国を綺麗な状態で守ってくれるなら……王に必要な強さと聡明さを持ち続けていられる限りは、お前の意思を尊重しよう。無論、至らないと判断した場合は容赦なく口を出すし、最悪の場合、この首を斬らせてもらう」
 言って、エレンは手袋に覆われた指でリヴァイの首筋を撫でた。
 これは交渉のようであって交渉ではない。エレンの中ですでに決まっている事実をリヴァイに復唱させるためのもの。
 シーナの独立はできない。しかしリヴァイが王になると頷けば、エレンの手によってシーナを含む全ての侵略された国の民が救われる。
 リヴァイの手から離れたナイフが、とん、と小さな音を立てて地面に突き刺さった。見えてはいないはずだが、エレンの笑みが深まる。黄金の双眸が左右に咲き誇る薔薇を見やり、全て自分の思い通りになった勝者として小さな笑い声をあげた。
「まさに『under the rose(薔薇の下で)』 意味は『秘密に、内緒で』……こういう内緒話には持って来いの場所だろう?」
 リヴァイがこの場所でエレンを待ち伏せすることすら予想していた(あるいは仕組んでいた)と示すように、エレンはそう言いながら人差し指を立てて己の唇に当てた。
「皆には何も言うな。オレが全てやってやる。お前はただオレの言う通りに動いて北の連合を落とせ。その後、この国の玉座に座らせてやる」
 リヴァイを押し退け、エレンは立ち上がった。黒い上衣についた葉や花弁をそっと払い落とし、リヴァイが見てきた中で最も美しい艶笑を浮かべる。
「楽しみにしていろ」

* * *

 一月後、ローゼとセプテントゥリオーネス連合との大規模な戦争が始まった。エレンの親衛隊も戦いに駆り出され、その中で特にリヴァイが目覚ましい活躍をすることとなる。
 民衆には瞬く間にリヴァイ・アッカーマンの名が知れ渡った。同時に、その陰で現王を支持する王侯貴族や官僚らの一派が密やかに、そして次々に、闇へと消えていった。
 ローゼが連合を下した時には、現王の権威は地の底へと失墜し、彼を支持する者は誰一人としていなくなっていた。反して、ローゼに帰還したリヴァイにとある一つの噂がついて回ることとなる。
 ――連合との戦いで功績を挙げたリヴァイ・アッカーマンは、ローゼの王家の血を引いている。
 その噂が十分に広まった後、国から正式な発表がなされた。リヴァイ・アッカーマンが王家の血を引く人間であり、また今の王が退位して次の王には彼が即位する、と。
 リヴァイの活躍を知る民衆はそれを好意的に受け入れ、貴族や官僚らも気味が悪いほど素直にそれを認めた。
 こうして、ローゼに新しい王が誕生した。





【10】


「この度はおめでとうございます。新たなるローゼ王、リヴァイ・アッカーマン=ローゼ様」
 戴冠式の後、本日より自分のものとなる王の居室にリヴァイが戻って来ると、そこにはすでに黒衣の青年が待っていた。新王であるリヴァイが許可しなければ入れるはずのない部屋に誰の許可も求めず侵入を果たせたのは、部屋の警護も何もかも青年の息がかかった者達に任されているからだろう。
 慇懃無礼な口調で一礼した青年――エレン・イェーガーは、入室して扉を閉めた格好のまま苦虫を噛み潰したような顔をしているリヴァイに目を細めるだけの笑みを見せた。エレンの動作に合わせ、彼が羽織っている黒い上衣の裾が小さく揺れる。
 艶やかなその黒はリヴァイが今日丸一日付き合ってきたものと同じ。
「青の次は黒か。前王とは違う色だから、これが王の色ってわけでもねぇんだろ? だったらこの色にもまた何か別の意味があるのか?」
 リヴァイが現在身に着けているのはエレンの親衛隊もとい裏切り者の目印としての青い制服ではなく、黒を基調としたものに変化していた。
 銀のボタンをあしらった黒のベストと、同じ生地を使ったスラックス。中のシャツはエレンと対照的なワインレッド、首には白いクラバットが巻かれている。手袋は黒い革製で、美しい艶を放っていた。黒い靴はピカピカに磨き上げられており、一点の曇りもない。そして肩にかけられた黒いコートは一見エレンのものに似ているのだが、肩の部分に装飾が増やされ、金糸を使った模様も豪奢なものになっていた。
 リヴァイの問いかけにエレンが肩を竦める。
「そうだな。あえて言うなら『同志』ってところか」
「はあ? てめぇが気に入らなければ俺は首を切られるってんだから、なんとも上下関係のデカい同志だな」
「いやいや、そこまでは。オレは新しいローゼ王がきちんと機能している限り口出しするつもりはないと言ったはずだぜ」
 最初に部屋の中央に立ってリヴァイを迎えたエレンは、そう言いながらゆっくりと窓際へ移動する。リヴァイは目でそれを追いながら部屋の中へ進み、悪趣味とも言えるほど贅を尽くした赤い革張りのソファに腰を下ろした。出窓に腰掛けたエレンとの距離は数メートルほど。
 意図してかどうかは知らないが、エレンが脚を軽く交差させてその長さを強調する。
「そちらの要望通り名前にはアッカーマンの姓を残したが、これちょっと長いよな」
「アッカーマンが俺の本来の名前だ。そこにローゼがつくだけでも腹立たしいのに、そっちまで奪われてたまるか」
 リヴァイの出自を捏造し王に即位させるにあたって、その名にはローゼの名が付け加えられた。しかし本人が言った通りの理由で、本当のファミリーネームはミドルネームとして残されている。アッカーマンという姓がシーナで重要な役目を負っていたことを知る者は少なく、残したために不利益を被ることはない。ただ単に呼ぶ時の名前が長くなり、署名の際にもつらつらと書かねばならなくなるだけだ。
 そんな名前のように小さなことも含め、エレンは可能な限りリヴァイの要求を通す形で新たな王に即位させた。汚職に浸りきっていた官僚は全て排除し、リヴァイが今後進めていく政策に反対しそうな貴族達も何らかの形で権力を失っている。これまでとは全く違う特権階級の層の様子に、エレンがどれだけテコ入れをしたのか、リヴァイには想像もつかなかった。
 だがその一方で、リヴァイの即位に合わせてこうも劇的にローゼの上層を粛正することができたなら、どうして今までそれをせずにいたのか、という疑問が湧き出てくる。当然、リヴァイは真正面からエレンに尋ねていた。
 返ってきた答えは、「前の王じゃちょっとくらい綺麗にしたって、またすぐ汚れるじゃないか。だったら初めから手を抜くさ」という、何とも腹立たしいものだった。あまりに腹立たしくて、その後に続いた「本命が現れるまで無茶をするわけにはいかなかったしなぁ」という独白をリヴァイはうっかり聞き逃してしまったのだが。
 その時と同じように、自分こそが全ての長だと言わんばかりの不敵な表情で――リヴァイにこの国の裏側を見せてからエレンは無表情ではなく時折笑みに分類される表情を見せるようになった――「さて」と、この部屋に現れた目的を果たすため会話の内容を本題へと移す。
「お前が言っていたシーナを含む敗戦国への対応だが、議会の委員達にはすでに根回しが完了している。明日の午後開かれる会議で可決されるだろう。他に政策関係で要望はあるか?」
「いや、今のところは……。それに、てめぇの裏工作に頼ってばかりじゃ俺が存在する意味がねぇからな。なるべくてめぇの手は借りないつもりだ」
「ははっ、心強いお言葉だな」
 本当にそう感じているとは思えない軽い口調で、しかも芝居がかった仕草でぱちぱちと手を叩きながらエレンは言う。その反応にリヴァイは盛大な舌打ちでもって対応し、ますますエレンの笑みを深める羽目になった。
「そうやってどんどんオレが手を貸さなくても一人で立てるようになってくれよ。でなきゃお前を選んだ意味がない」
「いちいち癇に障る言い方をしやがる」
「事実だから仕方ないさ」
 ひょいと肩を竦め、エレンが窓際から離れる。用件は済ませたのでここを出て行くつもりなのだろう。その用件とやらがリヴァイへの報告だったのか、はたまたリヴァイをからかうことだったのか、また別の何かなのかはエレンにしか分からないのだが。
「必要な時以外俺の前に顔出すんじゃねぇよ胸糞わりぃ」
「ローゼ王がそうお命じになるのなら」
 優雅に腰を折って一礼し、エレンは続ける。
「あなた様の僕(しもべ)はこれにて退散いたしましょう」
 そう言って最後まで腹立たしい態度のままエレンはリヴァイの居室を去った。
 閉じた扉を睨み付けてリヴァイは舌打ちをする。
「クソッ!」

* * *

「クソッ!」
 どっと汗が噴き出す。中に着ている紺色のシャツがじわりと濡れていくのが分かった。
 王城から自分の私室へと戻ったエレンは中に入って荒々しく扉を閉めた途端、そう毒づいてくずおれた。激しい眩暈がして、ドアノブを握っていなければ床に倒れてしまっていただろう。耳鳴りが酷く、吐き気もする。荒々しい息に合わせてヒューヒューと喉が鳴った。
「……っ、フ、ザケンナ、よッ! 今までより、ほん、の、少し、無理しただけじゃ、ね、か……っ! 脆すぎ、んだ、ろう、が。クソ脳みそッ」
 まさか先程の会話から、自分がこれと決めた人間が『アタリ』であると確信して、気が抜けてしまったとでも言うのだろうか。
 エレンは役立たずな喉を震わせる代わりに胸中で自嘲し、細いストライプが入った黒のベストを片手でぐしゃりと握り締める。
 こうなった原因は理解している。そして、こうなることをあらかじめ予想した上で無理をすると決めたのはエレン自身だ。
 リヴァイの即位に合わせ、エレンは随分と無茶をした。普段からある程度働かせた後は十分な休憩を必要とするこの桁外れに回転速度の速い脳を、無理やり働かせて作り上げた結果が現在の奇跡のような状態である。
 限られた期間内での不要な人間の排斥、政策に関わる人員の調整、同時進行で北の連合との戦争における作戦立案と軍の指揮、民衆のリヴァイ英雄視の促進工作等々。アルミンを始めとする手助けは受けたが、どれもこれもエレンが主軸となって進めたものだ。
 これらは本来、決して一人の人間が抱え、しかも短期間で処理してしまえる量ではない。今回のような行為があまりにも身体に負荷をかけることだと知っていたからこそ、エレンはローゼという国を今まで腐ったままギリギリの状態で放置し、体力を温存していた。
(でも、まぁ……本命が現れたんだから、余力なんて残す必要はない)
 ゼエゼエと荒い息をつきながらエレンはドアノブを掴む手に力を入れてゆっくりと立ち上がった。両足は情けなくも小鹿のように震えている。
 今にも倒れそうな足取りでベッドに辿り着くと、スプリングのきいたマットの上にどさりと倒れ込んだ。
 人を呼ぶべきなのだろうが、意識が混濁し始めておりそれをする力すら残されていない。
(ああ、やべえ。目が開けてられねぇ)
 エレンは額にびっしりと汗を浮かべながら気絶するように瞼を下ろした。





【11】


 新たなローゼ王の戴冠式が行われた日の深夜――。

 リヴァイ・アッカーマンの即位に先んじて、ハンジ・ゾエもまた立場を変えることとなった。
 新しい肩書きは情報収集部門統制官補佐役、つまリアルミンの補佐官である。服は青から赤へと変わり、情報収集と管理のスペシャリストとして、アルミンが手ずから鍛え上げることとなった。将来的にはリヴァイの側近の一人というポストにつける予定だが、今回の異動に合わせてアルミンがハンジにその説明をした際、大層怪訝そうな顔をされたことは記憶に新しい。
 なお、アルミンは己の後継を作るつもりでハンジに手ほどきをしているわけではない。アルミンの仕事はアルレルト家のものだ。他の者には任せられないし、そもそも後継云々の前にハンジはアルミンより年上である。
 アルミンがハンジに任せようとしているのは、先述の通り、王の側近。情報の提供および分析補佐役として自身もそれを現在進行形で担っているが、今後リヴァイを支える人間を増やせるならば増やしたいというのがアルミンの、ひいてはエレンの望みだった。
(二人にとっちゃ僕らがいきなり味方になると宣言したようなものだから、当然のように疑ってかかっている。でもエレンや僕に敵わないことと、この国における必要性を理解しているから、従わざるを得ない状況だ)
 指示通りに資料室で作業を行っているハンジの姿を一瞥し、アルミンは書類にサインする手を止めないままそう独白する。
「あれ、このファイルの収納場所は……」
 ふとハンジの独り言が耳に入ってきた。アルミンは彼女が手にしている資料を遠目に確認して口を開く。
「それなら二階のA書庫だね。入って一番右奥の上から三段目だ」
「!」
 ぎょっとした顔でハンジがアルミンを振り返る。彼女の言いたいことが手に取るように分かっていたアルミンは、甘めの整った顔立ちに微笑を浮かべて答えてやる。
「資料室のどこに何があるのか、アルレルト家の人間ならば把握しているのが当たり前だよ。必要ならもっと細かいところまで説明するけど。たとえば欲している情報がどの階のどの部屋のどの棚のどのタイトルのファイルの何ページ目にあるのか、とか」
「エレン・イェーガーの化け物具合も相当だけど、あなたも十分異常だ」
「……お褒めにあずかり光栄、と言っておこうか」
 一拍の間があったものの、驚愕と畏怖が入り混じった視線を向けられても堪えた様子など見せぬまま微笑を継続するアルミン。「大丈夫。ハンジにそこまで求めることはないから」と、わざと見当外れな答えを振れば、あちらも「それは良かったです」と不格好な笑みを返した。
「僕があなたに求めているのは、リヴァイ陛下の補佐として十分国を支えていける人材になってもらうこと。資料室の主になる必要はないよ」
「こちらの素性を知られているので正直に言いますけど、まったくもって信じられない言葉ですね。私にリヴァイの補佐? そりゃマトモな意味でやれるならやりますが、そうなるとシーナの人間にローゼの全てを任せることになる。そんな非常識なこと、あの悪魔とあなたが良しとするはずが――」
「ああ、そうそう。今のうちに訂正しておくけどね」
 ハンジの台詞を遮るようにアルミンが告げる。室内でも美しく輝く青い双眸がひたと冷たくハンジを見据えた。

「エレンは人間だ。悪魔でも化け物でもない」

「……」
 ハンジは息を呑む。
 背筋が凍りつくような声だった。
「ここまでエレンに近付けさせてもらったくせに、彼を人外扱いするな」
「っ、近付くも、何も……私達はエレン・イェーガーの真意を知らない」
「知らない? 違う。信じようとしないだけだろ」
 アルミンは机の上で手を組み、口元を隠して凍えるような瞳をハンジに向ける。
「リヴァイ・アッカーマンの即位を決めた時からエレンは本当のことしか語っていない。おまけに最近はちょっとした動作にさえ彼の心は表れてきている。お前達はそれを見ようとしていないだけ。耳を塞ぎ、目を閉じているくせに、開いた口でエレンを罵ることは許さないよ」
 ハンジ達がエレンやアルミンを信じられないのは理解している。しているのだが、見たものや聞いたものを何もかも信じようとしない人間からエレンを化け物や悪魔と称されるのは我慢ならなかった。
 エレンは人間だ。ただ単に望まぬ方法で頭の回転速度が常人から逸脱してしまっただけ。しかもエレンはその対価を支払わねばならない。脳が欲する休息を取らねばならないこと……ではない。対価はその欲求を満たさなかった場合に削られていく『もの』だ。
 それを思い出すだけでアルミンの中の感情的な部分が叫ぶ。彼がどれほどのものを犠牲にしてこの国に貢献しているのか知らないくせに! エレンの真意を知れる立場にあるはずの人間が彼を貶めていいはずがない! と。
 ただしその強い感情は、アルミンだけがエレンと共有している真実によるものだ。
 それはミカサでさえ知らない。アルミンとエレンだけが知っている真実。知れば、エレンを慕う者は激怒するか嘆き悲しむか。エレンを恐れる者は歓喜するか、それとも彼も人間だったようだと奇妙な得心をするか。
 こればかりはエレン本人の口から語られなければ意味がない。もしくは、エレンが語れない状況にならなければ、アルミンが口にすることはできないだろう。
(ああ……。そうだ、そうだよ。彼女はエレンの最後の秘密を知らないんだ)
 それを思い出したアルミンの中で、ようやく理性が感情を制御し始める。ハンジはエレンの真実を知らない。だから仕方がないのだ。
 急に落ち着きを取り戻したアルミンに対し、ハンジが怪訝そうな顔をする。しかしあの凍えるような声と瞳をすぐに忘れられるはずもなく、恐る恐る口を開いた。
「私とあなたのエレン・イェーガーに対するこの信頼の差は何? あなたはエレン・イェーガーの何を知っているの……?」
 尋ねるハンジに、アルミンは口を固く引き結ぶ。そして無言のまま口角を上げることで答えた。
 その直後――

「アルミンッ!」

 ノックもなしにバンッと突然開かれた扉。そこに血相を変えて立っていたのはミカサ・アルレルト。ただ事ではないと気付き「どうかしたの」と問うアルミンに、彼女は震える声で告げる。
「エレンが倒れた……!」





【12】


 そう言えば最近エレン・イェーガーの顔を見ないな、とリヴァイが思ったのは、新しい施策を本日最後の会議で可決させた後のことだった。
 即位してから早三ヶ月。エレンによって整えられていた議会はリヴァイにとって実にやりやすいもので、活発に意見が飛び交い、次々と国のためになる法が制定されている。
 報告事項をまとめた書類に混ぜて時折エレンから書面で意見がもたらされるが、それはリヴァイの考えを真っ向から否定するようなものではなく、アドバイザー的立場に留まっていた。しかもリヴァイが見落としていた部分を的確に指摘してくるので、エレンから書面が届くたびにリヴァイは苦虫を噛み潰したような表情になりながらもしっかり中身を読み込む羽目になる。
 文字でのやり取りは継続されていたのでこのところ意識していなかったものの、思い出してしまえば少々気にかかってくる。
 エレンと最後に顔を合わせたのは戴冠式の夜、必要時以外に顔を見せるなと言い放った時だ。それ以降、エレンはリヴァイの前に現れていない。また今はこうして三日と空けずに文面でのやり取りが行われているものの、実は戴冠式後から半月ほどはそれすら行われていなかった。
(なんだ……この気持ちの悪さは)
 自分の部屋に戻り、リヴァイは三ヶ月前にエレンが腰かけた出窓へ視線を向ける。リヴァイが座しているのはあの時と同じ派手なソファだが、見据えた先に厭味ったらしく長い足を強調していたエレンの姿はなかった。
 北の連合を完全に下したことで、現在、ローゼに戦争を仕掛けてこようとする無謀な国は存在しない。またローゼの方も自ら他国に戦争を仕掛けるつもりなどなく、更にはリヴァイが打ち出す政策により急速に安定し始めた国内では大きな争いが起こるはずもないため、軍の出番はほとんどなかった。無論、ここまでスムーズに事が進むのはエレンの地均しと裏工作によるところが大きいのだが。
 ともあれ軍の出番がなければ、エレンが表舞台に姿を見せることもない。リヴァイやその周囲でこそこそ動くだけとなるので、そのリヴァイの前に姿を現すどころか、エレンの存在感そのものが国内で急速に薄くなり始めていた。
 あの澄ました顔を見ずに済むのならその方がいい。エレンの存在を意識しても腹立たしいだけなので、彼の気配が薄れていくのは喜びこそすれ厭うことではなかった。
 だと言うのに、胸騒ぎが治まらない。
「姿が見えても見えなくても気に食わねぇヤツだな」
 ぼそりと呟き、リヴァイは出窓から視線を逸らす。
 治まらない胸騒ぎが、いわゆる『虫の知らせ』であったと知るのは、まだ少し先のこと。

* * *

「やっほー、リヴァイ。今日からまたよろしくぅ」
 軽い調子で告げながらリヴァイの執務室に入ってきたのは、赤い制服を身にまとった眼鏡の人物――ハンジ・ゾエ。リヴァイが王に祭り上げられることが決まった際、彼女の方にもエレンから話があったのだが、その後すぐ連合との戦争や即位の準備等で目の回る忙しさに見舞われ、まともに顔を合わせる機会すら得られなかった。
 が、リヴァイは青から赤へと変わった制服の意味を瞬時に悟り、「なるほど。てめぇがエレン・イェーガーの言っていた新しい側近ってやつか」と苦く笑う。
 先日、相変わらず顔を見せないエレンから文書で連絡があった。近々お前の側近を一人増やす、と。更にエレンの息がかかった連中が増えるのかとうんざりしたものだが――しかも全員優秀な人材だから腹立たしい――、今回ばかりは歓迎したい。ただしそれをハンジに悟らせるつもりはないが。
「お察しの通りってやつだね! あなたの側近になるために昨日までアルレルト卿に扱かれまくってきたんだよ。……まぁ、この配属もエレンの采配なんだけど」
 大仰な仕草でハンジが肩を竦める。
 リヴァイは彼女の言い草に「知っている」と答えようとして、しかし、ふと違和感を覚えた。
 先程ハンジが口にした二人の名前についてである。
 昨日までの上司だったアルミン・アルレルトは貴族でもあるため、アルレルト卿と呼ぶのは何らおかしなことではない。自分より能力の高い者に対する敬意が半分……いや、三割くらいだろうか。そして、慣れ慣れしくするつもりはないという意思の表れが残りの七割。
 一方、ハンジはもう一人のことをファーストネームで呼んだ。『エレン』と。
 リヴァイは今まで彼女がエレン・イェーガーを親しげにファーストネームで呼んだところなど見たことがない。いつだって自分達にとってエレンは敵であり、今もまた協力関係にあるとは言え、親しい間柄の相手ではないはずだ。
 訝るリヴァイは自然と沈黙することになり、言葉が返って来ないことに気付いたハンジが「おや?」と小首を傾げる。それから自身の台詞を反芻してみたらしく、それほど間を置かず眼鏡の奥の双眸が失敗したとでも言いたげに眇められた。
「言っておくけど、物や金で懐柔されたわけじゃないよ。その程度で揺らぐほど私の愛国心は軽くない。むしろその程度だったと軽視されているなら、私はあなたをこの場でひっぱたくつもりだ。ああ、それともグーが良い?」
 そう言いながらハンジは顔の前で握り拳を作る。
 彼女の言う通り、共に軍の底辺を這いずった経験を持つ者としてリヴァイはハンジがシーナを裏切ったとは考えたくないし、その意志を軽視するつもりもない。
 しかし彼女を信じるならば、エレン・イェーガーという人物が『ハンジが信じるに足る人物』であることを信じなくてはならなくなる。
「……顔を見ていない間に何があった」
 執務机を挟んでリヴァイはハンジを見据える。元から鋭い眼差しを更に鋭くし、相手の真意を探るように目を逸らさない。
 凡人ならばそれだけで失禁しそうな視線を受けながらハンジはいつもの瓢々とした雰囲気を崩さなかった。あまつさえ「おお怖い顔」とからかってくる。
「茶化すなクソメガネ」
「う―ん、その罵り方も久々に聞いたなぁ。ここのところずっと名前呼びか補佐官殿だったし」
 ハンジはひょいと肩を疎める。しかしその後リヴァイに向けた双眸にはからかいも笑みもなく、彼女が真剣に話そうとしていることを示していた。
「何もなかったとは言わない。アルレルト卿の下はあまりにも多くの情報が集まってくる。こちらが望むと望まざるとにかかわらず、ね。あなたと離れている間、私は多くのことを知ったよ。でも今ここでそれを語ることはできない。私の仕事は王であるあなたの補佐であり、あなたを混乱させたり、あまつさえ愚痴る相手にしたりすることではないからね」
 こうして疑問を抱かせてしまったのは私のミスだ、と続けて、ハンジは素直に謝罪の言葉を告げる。
「必要な情報ならば全て開示しよう。でも国のことを考えなきゃいけないあなたに無駄なことで思考を割かせるわけにはいかない。……さあ、雑談は終わりだ。国のため、民のため、あなたも私も仕事をしなくちゃ」
 そう言ってハンジは小脇に抱えていた書類をリヴァイに渡す。反射的に受け取ったリヴァイは、その表題を目にしてこれ以上ハンジが言うところの『無駄なこと』に思考を割いている暇はないと知った。少なくとも今はこちらの方が優先順位はずっと高い。
「はいはい、表紙めくってー。説明始めるよ。元連合の皆様についてだけどね――……」
 手には何もなくても書類の中身を全て覚えているのか、ハンジはすらすらと語りだす。リヴァイは今のことを脳内の片隅にメモするに留め、ハンジの説明に耳を傾けながら意識をそちらに集中させていった。

* * *

「ただの補佐ではなくシーナの仲間として、ちゃんとヒントは出してやった。あとは自分で『真実』を見つけろよ、リヴァイ」
 王への報告と少々の議論を終わらせたハンジは執務室を出て扉を閉じ、廊下を歩き出した。囁くような独り言が部屋の中の人物に聞こえることはない。
 あれ≠ノ関して、アルミンやエレン本人からは口止めされている。だがそれを律儀に守ってやるほどハンジは彼ら側の人間ではないつもりだ。ただ、リヴァイには真実を知る権利があると思った。否、『知る義務』だろうか。
 しかしながらハンジの口から全てを語ったとしても、リヴァイはそれを信じない。あれ≠ヘ全て自分の目と耳で見て聞いて理解すべきものだ。
 リヴァイの前でわざとエレンをファーストネームで呼び、そこから疑問を抱くよう誘導するというのは、ハンジの昨日までの上司の手腕と比較すれば実に幼稚な方法である。しかし効果は十分。リヴァイは自らハンジの失言に気付き、真実を知る手掛かりを得たと思い、そしてようやく己の目で見たものを信じることになる。他人の口から語られるのとは比較にならない衝撃が彼を襲うだろう。そうであってくれと願った。
 長くて無駄に幅のある廊下を歩いていたハンジは、窓の外に軍の中央司令部の建物を見つけて足を止める。
 威厳に満ちた建造物。この国の要。それを支えているのはあの線の細い青年ただ一人。
「エレン……」
 三ヶ月前に偶然知ることとなった彼の真実を思い出し、ハンジは目を伏せる。
 瞼の裏に投影されるのは、滝のような汗をかき、紙と見紛うばかりの真っ白な顔を苦痛に歪めていたエレンの姿。昏睡状態は半月ほど続いた。しかし目覚めた後、医者には絶対安静だと言われたにもかかわらず彼はすぐに仕事を始めてしまった。「新王は今が一番重要な時期だからこちらの不調を悟らせるわけにはいかない。顔を見せるなと言われていたからちょうど良かったかもな」と言って。
 どうせこの状態を知ってしまったのだからと、仕事の合間にエレンの口から彼の過去と真意を聞いたハンジは、最早その肩を支えること以外の手段など持ち得なかった。
 それと同時に、このことはリヴァイに知らせる必要などないと言われたが、ハンジ自身はリヴァイも知るべきだと思った。
「エレン、リヴァイはあなたの真実を知るべきだ。あなたがリヴァイを『同志』であり『自分の跡を継ぐ者』だと考えるならば尚のこと」
 あの建物にいる青年に今のハンジの言葉は届かない。しかしどうかこの思いよ届いてくれと、ハンジは願わざるを得なかった。





【13】


『話がしたいから顔を見せろ』

 という、メモの如き命令書を寄越した国王に、ベッドの上で書類を捌いていたエレンは呆れた表情を浮かべた。
「ハンジめ、リヴァイをけしかけやがったな」
 必要時以外顔を見せるなと言ったリヴァイがこの時期になってこんな文書を寄越した原因などそれしか考えられない。
 ――この状態をあの男に知られるわけにはいかないのに。そんな必要性など欠片もないと言うのに。
 そう思いつつエレンは嘆息し、次いで補佐のため傍らにいたミカサに正式な書類用の紙を一枚持ってこさせる。
 ベッドを横断する形で作られた机の中央に紙を置き、インク壺にペン先を付けてエレンはさらさらと文字を書き付けた。

* * *

『書類で済ませられないことか? もし雑談をご希望なら「そんな暇があるなら仕事しろ」と言わせていただく。こっちも暇じゃない』

 執務室の椅子に腰かけたまま、エレンからの返答にリヴァイは眉間の皺を殊更深く刻んだ。
 先日のハンジの態度が気にかかり、暇を見てちょっとしたメッセージを送ったものの、返ってきたのはこんな言葉。当然のように機嫌は急降下する。
 しかしながら怒りに任せて軍中央司令部のエレンの部屋へ怒鳴り込むわけにもいかなかった。前王のように遠慮があるから……ではなく、王という存在が軽々しく下の者の元へ出かけるということ自体がよろしくないのだ。ゆえに、わざわざエレンを呼び付けるという手法を取ったのだが、それは呆気なく却下された。
「あの野郎……」
 こっちもお前の顔なんざ見たくないんだよ、と吐き捨てて、リヴァイは紙をぐしゃぐしゃに丸めると部屋の隅の屑籠へ放り投げる。エレンからの返答は綺麗なアーチではなく鋭い直線軌道を描いて見事その中に納まった。
「だが、まぁ」
 綺麗に入ったゴミを眺めてほんの少しだけ機嫌を直したリヴァイは、来月末に控えている予定を思い出して、ふん、と鼻を鳴らす。
 現在、国を挙げて準備が進められているのはローゼの建国記念祝典だ。その日、王城では盛大なパーティーが催され、王侯貴族他各主要人物が出席することになっている。参加は自由とされているが、余程のことがない限り参加必須であるのは暗黙の了解というやつだ。
「あいつも出席しないわけにはいかねぇだろう」
 机の下で脚を組み替えて呟く。
 エレンがパーティーに参加すれば、リヴァイとも必然的に顔を合わせることとなる。その時に捕まえて、ハンジに何を吹き込んだのか問い質せばいい。
 祝典までまた少し間が空くことになってしまうが、今まで顔を合せなかった期間を考えれば、これくらいあって無いようなものだ。
 敵であったローゼの建国記念などリヴァイにとって目出度いはずがなく、ただひたすら「面倒臭い」の一言に尽きる。しかしエレンを捕まえるという目的ができると、何となくやる気が増すような気がした。

* * *

 ローゼの建国記念日は春真っ盛り。ちょうど一年の中で最も多くの薔薇が咲き始める頃だ。品種改良を重ねて真冬以外は花が絶えないよう工夫されている王城の薔薇園でも、初夏の前後――春の盛りから夏本番の少し前まで――がひときわ輝きを増す時期である。
 町の至る所に薔薇が飾られ、城内も「これでもか」と言わんばかりの花で溢れかえる。特にパーティーが催されるホールの飾り付けには香りで酔いそうなくらい大量の薔薇が使われていた。
 それだけではない。パーティーの出席者達も必ず薔薇を身に着けていた。簡単なものならば、男性が礼服のポケットにハンカチーフと共に一輪の薔薇を挿している。気合の入った場合だと、女のドレスの各所に生花がふんだんにあしらわれていた。髪飾りに薔薇を用いて花瓶のような有様になっている者までおり、そんな者達の挨拶を順に受ける立場であるリヴァイは内心げっそりしていた。無論、それを顔に出す真似などしないが。
 これも暗黙の了解の一つであるのだが、国王への挨拶は参加者達にとって必須事項となっている。つまリ――
「よう、統括司令官」
「ご機嫌麗しゅう、国王陛下」
 優雅に腰を折る青年、エレン・イェーガー。この男もまたリヴァイの前に姿を見せるということだ。
 軍人の正装は軍服である。式典用という動き易さよりも見た目が重視された型も存在するが、エレンが身にまとっていたのは普段通りのものだった。ただしいつも肩にかけるだけだった黒の上衣にきちんと袖を通し、胸に複数の勲章をぶら下げた姿は、中身の見目の良さも手伝って感嘆の吐息を零す者を続出させている。
 勲章の邪魔にならないよう、その胸には控えめなサイズの赤い薔薇が一輪だけ挿されていた。血が滴り落ちて形作ったようなレッド・ローズは青年の黒い軍服によく映え、小ぶりながらも妖しい美しさを持ち主に与えている。
(それは別に構わねぇんだが――……)
 エレンを眺めやり、リヴァイは内心で小首を傾げた。
(こいつ、もしかして痩せたか?)
 相変わらず見目麗しい男であるものの、記憶にある姿より身体の線が細くなっているような気がする。
 元々ひょろりとした青年ではあった。しかしそれでも軍属としてある程度身体は作られていたはずだ。だと言うのに、数ヵ月ぶりに再会した今、エレンからはまるで部屋に閉じ籠る文学青年か何かのような印象を受けた。
 気のせいかもしれない。姿を見たのは久しぶりだし、『青』をまとっていた時もエレンの体型を常時注視していたわけではないのだから。
 そんな思いと、更にエレンの後にまだ挨拶待ちの人間がいることに気付き、リヴァイは全員に返している定型句――ローゼ建国からまた一年経ったことへの祝いの言葉とパーティーを楽しんでくれという旨の一言――を告げ、エレンが己の前を辞すのを渋々と見送った。
 彼を捕まえるならパーティーの中盤になってからだ。その頃になれば参加者達の王への挨拶も一通り終了し、リヴァイは自由に動き回れるようになる。
(覚悟してろよ)
 心の中でリヴァイはエレンの背中にそう言葉を投げつけた。


 酒も入り、パーティーの参加者達はいつもより少し箍を外して楽しげに談笑している。中にはそろそろそういうこと≠フために用意されている別室や庭に設けられた東屋へ向かう者が現れる頃合である。いくら国を挙げての式典とは言え、酒が入ればどこでもこうなってしまうのが世の常だ。
 中庭の薔薇園に面した城の一番大きなホール。ここに収容できる人数は非常に多い。参加者の数が膨大であるため、そういう者達をわざわざ気にする人間はいなかった。また、自分達が注視されているとも思わない。それどころか、ホールの一段高くなった場所にいたはずの王の姿が消えたとしても騒ぎになど全くならなかった。「あら、陛下は?」「会場のどこかで楽しんでおられるのでは?」「そうですわね。なんたって今日は建国の祝典なんですもの」と警戒心も危機感も何もない呑気な会話が交わされるだけだ。怪しい者は城の敷地内に入る前に優秀な軍部によって全てチェックされるため、参加者達は皆ここが安全であると知っていた。
 会場から姿を消した者がただ単に休憩しているだけなのか、それとも休憩という名目でどこかに誰かを連れ込んでいるのか、はたまたそそくさと帰ってしまったのか――こうなってしまえば誰にも分からない。
「おい、もう帰る気か?」
 とは言え、注目しているならば話は別だ。
 リヴァイは暗い庭を突っ切って城から離れようとしていた背中に声をかける。青年が足を止め、金糸で縁取りがなされた黒い上衣の裾が彼の動きに合わせてひらりとはためいた。
 青年は一応立ち止まったものの振り返りもしない。その態度に舌打ちをして、リヴァイは花を咲かせた薔薇の木々の合間を抜け、エレンへと近付いて行った。そして手を伸ばし、相手の二の腕を掴んで無理やり振り返らせる。
「おい、何か言ったらどう――……」
 だ、という最後の一音を発する前に、リヴァイは暗がりですら分かるエレンの顔色の悪さにぎょっと目を剥いた。
 ホールの方から届く僅かな灯りに照らされた顔は青白く、額に汗を浮かべている。苦痛を我慢するように唇は固く引き結ばれ、それでも耐えられないのか、奥歯を噛み締めるギリッという音が聞こえた。また、眉間に寄せられた皺は深い。黄金の双眸がギロリとリヴァイを睨み付けた。
(しかも……なんだ、この細ぇ腕は)
 掴んでみてようやく分かった。エレンは確実に痩せている。しかも病的なまでに。
「お前、一体何が」

「どちら様ですか? 用が無いなら離していただきたい」

「は……?」
「あ?」
 顔色、腕の細さ。それに加えて三度目の衝撃がリヴァイを襲う。
 今、エレンは何と言ったのか。
 まるでリヴァイと初めて会ったような訝しげな目。それをリヴァイに向け、口に出した言葉は「どちら様ですか?」、そしてリヴァイには一度として使ったはずのない丁寧な口調。姿形はエレン・イェーガー以外の何者でもないのに、エレンとは全く異なる中身を持った人間のようだった。
 しかしリヴァイが青年に何があったのかと――もしくは「お前は何者だ」と――問いかける前に、エレンが突然膝を折ってくずおれた。
「お、おいっ」
「ッ……」
「なんだっ! 頭が痛むのか!?」
 リヴァイに捕らわれていない方の手で側頭部を強く押さえるエレン。あのいつも不敵そうだった男が苦しむ姿にリヴァイは動揺を隠せない。自身も片膝を折りつつ手を解放してやれば、両手で頭を抱えながら痛みに呻く金色の双眸と視線が絡まった。
「――……ぁ、リヴァ、イ……ア、ッカーマ、ン……?」
 痛みが治まって来たのか、エレンは両手を降ろす。そしてリヴァイに焦点を合わせた金眼が大きく見開かれた。
「オレ……今……」
 エレンはわなわなと唇を震わせる。信じられないとでも言いたげに視線を彷徨わせ、「そんな馬鹿な」と呟いた。
「うそ、だろ……? 記憶の混乱が……待てよ、待て待て。そんな、早すぎる。ポンコツにも程があるだろ?」
 金に輝く瞳は最早完全にリヴァイなど見ていなかった。意味不明な言葉を口走りながら寒さに凍える者のように己の身を両手で抱きしめる。その間、リヴァイが何度声をかけても気付くことはなく、エレンは現状を否定する言葉ばかり吐き出していた。
 しかし言葉に意味はないと悟ったリヴァイがその肩に手を置こうとした瞬間――
「さわるなっ!」
 バチン! と手を弾かれる。再びリヴァイを認識したエレンの表情は普段の澄まし顔など見る影もなく、絶望と恐怖に彩られていた。
「おい」
「オレに構うな」
 金色の目をギラギラと光らせてエレンはリヴァイを睨み付ける。まるで手負いの獣だ。
 エレンに一体何が起こっているのかリヴァイにはさっぱり分からなかった。明らかな体調不良と記憶の混乱……だろうか。エレンがぶつぶつと呟いていたことを思い出してみると、そういった単語が混じっていたような気がする。しかしリヴァイは瞬時に「この男が?」と自身の記憶を疑った。エレンは悪魔的と言って良いほど異常な頭脳を持つローゼの怪物である。そんな男が記憶障害など引き起こすものだろうか。
「いいか。今のは忘れろ。お前の役目には全く必要ないことだ」
 まだかなり苦しいらしく、エレンの呼気は荒い。言葉の合間に耳障りな呼吸音が入る。
 シャープすぎる頬のラインを汗が伝った。
「医者を呼ばなくていいのか」
「オレは『構うな』とも『忘れろ』とも言ったぞ。お前はさっさと中に戻れよ」
 あまりにも苦しそうな様子に仏心を出してみたが、エレンの返答はこちらの神経を逆撫でするものでしかない。しかしリヴァイが怒りを抱くにしては、今の彼はあまりにも弱々し過ぎた。
 未だ立つことすらままならないエレンに合わせて膝を折ったままだったリヴァイは己の視線よりも上に咲いている薔薇を一瞥して口を開く。
「『under the rose』だ」
「は……?」
「ここで起こったことは全て秘密になるんだろう? 秘密にするどころか事が終わったら全部忘れてやるから、今はとりあえずお前にとって∴齡ヤ必要なことを教えろ。……俺に、何をすればいいのか命令しろ」
 おそらくだが、この場においてエレンにとって必要なこと≠ニこの国にとって必要なこと≠ヘ一致していないのだろう。ゆえにエレンはリヴァイを拒んだ。あらゆる物事について考えを巡らせるこの男にとってプライドだとかそういう薄っぺらいものは考慮に値しないので、男が男に心配されるという事態を厭うているわけでは無い。
 一方、リヴァイはこの国――正確にはシーナ――にとって必要なことを行うべき立場にあった。しかしリヴァイはエレンのような頭脳の怪物ではなく、いくらいけ好かない相手であっても苦しんでいる姿を見せられては構わずにいられない性質の持ち主だ。そんな人間だからこそシーナを想い、他の国の民の面倒まで見るため愧儡の王になっている。
「……」
 金色の目がリヴァイをずっと睨み付けていた。
 聡明な男はそんなリヴァイの考えなどお見通しのようで、やがて溜息を一つ吐き出す。
 負けっぱなしだったリヴァイが初めてエレンに勝利した瞬間だった。
「オレの部屋に運んでくれ。あと、資料室のアルミンに連絡を。医者の手配も含めて全部あいつがやってくれる」
「わかった」
 リヴァイは頷くと、素早くエレンの身体を抱きかかえた。「げっ」という声が聞こえたが、横抱きにした相手の苦情など求めていない。むしろバランスを崩す前に早くこちらの首に腕を回せと視線で催促する。
「絶対他人に見られんなよ」
「善処する」
 エレンの腕が首に回ったのを確認すると、リヴァイは薔薇が咲き誇る中庭を突っ切って軍中央司令部を目指す。
 抱えた人一人分の体重は寒気がするほど軽かった。





【14】


「そうですか。一時的とはいえ、エレンはあなたの名前を忘れたんですね」
 エレンを本人が望む通り軍施設内の本人の部屋に運び込んだ後、アルミン・アルレルトに連絡を取ると、彼はすぐさま各所へ連絡を取り、あっと言う間に事を済ませてしまった。
 十五年近くアルレルト家専属だという医師が帰った後、部屋に残っていたのはリヴァイとアルミン、そしてミカサ、ジャン、ハンジの五人と眠ったままのエレン・イェーガー。リヴァイはハンジの姿を認めた時に彼女がエレンの体調について既知であったことを知った。
 一段落つき、エレンがここに運び込まれるまでの経緯をリヴァイが話し終えると、アルミンは先程の台詞を呟いた。中性的な顔には沈鬱な表情が浮かび、エレンの様態について全く情報を持っていないリヴァイにさえ事の重大さを伝えてくる。
「リヴァイ陛下」
 その沈んだ表情のままアルミンがリヴァイを見、次いで畏まって頭を垂れた。
「今後は我々が陛下を全力でお支え致します」
「何を……言っている……」
 視線を上げない金髪を唖然とした表情で眺めながらリヴァイは途切れ途切れに声を出す。
 臣下であるアルミンらが国王であるリヴァイを支えるのはある種当然のことだ。しかしアルミンがたった今告げた台詞はそういう意味ではない。彼の言葉が意味しているのは、これまでリヴァイを支えてきた彼≠フ代わりに、これからは自分達が彼≠フ分まで働くという表明――。つまり、彼≠アとエレンがリヴァイの元から去るということ以外の何ものでもない。
 リヴァイは隣室へ視線を向ける。扉一枚隔てたそこでエレンは青白い顔のまま眠っているはずだった。
「あいつはそこまで悪いのか……?」
「……」
 沈黙は肯定。認めたくない現実を認めざるを得ないのだとアルミンは空気だけで語っていた。
 エレンをここへ運び込んだ際、立派な黒いコートを取り去った時の華奢な肩をリヴァイはまだしっかりと覚えている。身長はリヴァイの方が低いのだが、どうしてもエレンの方が全体的に小さく見えてしまった。
 こんな細い身体の双肩に大国の全てが圧し掛かっていたのだと考えるだけで胸がざわつく。リヴァイがローゼの王になったことでその一部を背負うことはできているのかもしれなかったが――愧儡の王という名目だったが、その実、エレンは助言ばかりでリヴァイの意見が国を動かし始めているのだからそう思うことは許されるだろう――、彼が負ってきたものの大きさを改めて考えるとリヴァイは声も出せなかった。
 それでも重い口を開いてリヴァイは問わねばならない。
「教えろ、アルミン・アルレルト」
 強い口調で、これは王の命令である、と言外に含ませる。
 はっとしたように青い目がリヴァイを見た。
(あいつは俺に忘れろと言った。必要のないことだと言った。だが――)
 知らねばならないとリヴァイは思う。自分はエレン・イェーガーについてあまりにも知らなさ過ぎた。
「エレン・イェーガーについて、全てを」

* * *

 目を覚ましたエレンは、ベッドの傍らに椅子を置いてそこに座ったまま己に視線を向けている人物に気付き、小さなうめき声を上げて顔を腕で隠した。
「アルミンのヤツか……」
「ああ、全て聞かせてもらった」
 エレンが目覚めるまでずっと傍にいたリヴァイはうめき声の延長にあるような声を聞き取ってそう答える。
 嘆息したエレンはもぞもぞと身を起こした。リヴァイが手伝おうと伸ばした手は「いらねぇ」の一言で振り払われる。自力で上半身をヘッドボードとクッションで支えたエレンは水差しを取り、一口含んで口内を潤した。
「政務はどうした、国王。オレに構ってる暇があるなら仕事しろ。馬車馬のように働け」
 相変わらず青白い顔のまま、それでも金色の双眸をギラリとさせてリヴァイを睨み付ける。
「それで、俺が出て行ったらお前もまた仕事を始めるのか?」
 部屋の隅に追いやられていた特殊な形の机を一瞥してリヴァイが鼻を鳴らす。机の形状はどう考えてもエレンがベッドから出られずとも仕事ができるよう設計されたものだった。顔を合わせていなかったこの数ヶ月間、エレンはずっとベッドの上の住人として苦痛に耐えながら仕事をこなしていたのかもしれない。そんな人間が祝典に出席するためどれだけ無理をしたのか……。考えた途端、リヴァイの眉間に皺が寄る。
 その直後。

「あんたは優しいな」

「は?」
 突然放たれた台詞にリヴァイはぽかんと口を開けた。こちらの呼び方が変わっただとか、口調や声音が柔らかくなっているだとか、そんなことにも驚いたが、何よりもギラついていた瞳が苦笑に歪んでいることに意識を奪われる。
「あんたは優しい。シーナの国と民を想い、オレを殺そうとするくらいに。……聡明さと、気概と、その優しさが『王』には必要だった。だからオレはあんたを選んだ」
 でも、とエレンはリヴァイの理解を置いてけぼりにして続ける。
「その優しさはオレに向けられちゃいけないものだ。リヴァイ・アッカーマン=ローゼはこの国とローゼが取り込んだ他の国々にその全てを傾けなきゃいけない。そしてオレはそこに含まれない」
「てめぇもローゼの民だろうが」
「オレはローゼの民じゃなくて、ローゼの悪魔≠セろう?」
 色々言い返したい中で何とかリヴァイが口を挟んだものの、エレンは自身についたあだ名の一つを用いてそれをばっさりと切って捨てる。
「化け物に慈悲は要らない」
「てめぇの親友とやらは、てめぇを人間だとしつこく主張していたぞ」
「アルミンはオレ贔屓だから」
 ほんのりと微笑むその表情は本物なのだろう。しょうがないヤツだと呆れるように、親友の気持ちが嬉しくて仕方ないと言うように。
 エレンとアルミンの確かな繋がりを感じながら、リヴァイは赤い服をまとった彼から聞いた話を思い出す。
「そのローゼの悪魔とやらだが……お前、自分から戦争を仕掛けたことはなかったんだってな」
 対外的にはローゼがいきなり侵略戦争を仕掛けたように見える戦いは何度もあった。しかしそれを含めた全てが、実は他国の方がローゼに敵意を持ち、先に戦争を仕掛けようとしていたのだ。エレンはそれをいち早く察知し、攻められる前に攻めただけ。自国の民を守るために。最小限の被害で済むように。
 そう、悪魔と呼ばれた男は馬鹿みたいに優しいヤツだった。
 特別性の脳に多大な負荷をかけ、自身の寿命を削って、エレンは世界にその身を捧げた。
「どうしてそこまでローゼに……他人に、尽くす? 母親の復讐だけなら、お前の目的はもう果たされてるんじゃねぇのか」
 リヴァイは尋ねる。
 しかしその直後、エレンの顔を見てぞっとした。
 これまで見てきた仕事中の青年の『無表情』が真の無表情ではなかったのだと気付くほど、全てが抜け落ちた容貌がそこにある。金色の目は澄んでいるとも濁っているとも言い難く、ただつるりと外界を反射していた。
「……だって」
 唇が動き、紡がれたのは感情を含めた『声』ではなくただの『音』。
「こんな生き方しか、オレは知らない。それしかできない。ああ、そうだよ。復讐は果たした。じゃあ後は何をすれば良かったんだ? 死ぬこと? でもオレは死にたくない。だって生きてるから。生きてると、考えてしまう。このクサレ脳みそが全部考えちまうんだよ。復讐を果たしたままじゃこの国は結局荒廃するって。そしたらオレもオレの周りにいるヤツらも全員巻き添えだ。国を死なせない方法が必要だった。オレの頭はその答えを出すことができた。だったら、なぁ、やるしかないだろう?」
 完全な無表情のままであるにもかかわらず、エレンは幼子のようにこてんと小首を傾げる。彼がまとう空気はどこか泣き出す直前のガキのようだとリヴァイは思った。
 その歪で矛盾に満ちた光景は、父親によって与えられたエレン・イェーガーという人間の後天的な歪みを如実に表している。
「なあ、知ってるか?」
 ふいに、顔をしかめるリヴァイとは対照的にエレンは空っぽな笑みを浮かべた。ただし表情ができあがっても無表情の時とリヴァイが受けるイメージは何ら変わらない。
 そんなリヴァイに構うことなく、エレンは勝手に続ける。
「人は生まれながらに自由なんだぜ」
「あ?」
 いきなり何を言い出すのか、とリヴァイは訝しんだ。
 頭が良いからこそ凡人には話が飛んだように感じるのか、それとも脳が壊れ始めているからこそ本当に話が飛んでしまうのか、それはもう判断できない。
「オレの頭が随分前に考えて出した答えだ。人は生まれた時から自由。これぞ真理だな」
 納得を示すようにうんうんと頭を縦に動かし、相変わらず空っぽで気味の悪い笑みのままエレンは言った。
「でもオレは化け物だから……自由じゃ、ない。こういう生き方しかできない」
 少なくともその台詞は笑顔と名のつく表情で言うべきものではないはず。
 性能が良すぎる頭が導き出したという答えにリヴァイはとうとう舌打ちをした。しかしそれを目にしたエレンは不機嫌になるどころかますます口の端を持ち上げる。
 ただしその笑みは親友を想った時に浮かべたものとは異なり、狂気と嘲りに満ちていた。
「他人事だなんて思うなよ、ローゼ王。あんたも人じゃない≠だからな。あんたは『王』、この国を動かすための部品だ。オレが整えた国をオレがいなくなった後も継続させるために用意した大事な駒。オレの後継であり、同志」
 痩せ細った腕が伸ばされる。黒い革手袋に包まれていない指先がそっとリヴァイの頬に触れた。
「だからあんたにも自由はない。民を想い、国を想い、あんたは最後までオレの駒であり続ける」
「……そうかよ」
 答えつつ、リヴァイは己の頬に触れていた手を力強く掴む。
「だが王になると決めたのは俺の意志だ」
 金色の目が見開かれた。
 歪な笑みが消える。
 手が離れようとして僅かに動いたが、リヴァイはそれを許さない。もっと強く握り締めると、相手に言い聞かせるためゆっくり区切りながら言葉を放つ。
「俺は、てめぇに言われて、王になった。でもそれは、俺が、俺の持っている自由を行使して、決めたことだ。たとえ選択肢が限られていたとしても、どれを選ぶかは俺の自由だっただろう?」
「あんた、の、自由……?」
「てめぇもそうじゃねぇのかよ。そのデキすぎた頭で考えて、自分の力をこの国のために使うと自分で決めた≠じゃねぇのか。だったらそれはてめぇがてめぇの自由を行使して決めたってことだろ」
「ぁぅ……オレ……」
「お前は自由だ」
 リヴァイは断言する。
「俺もお前も……人間、だからな」
 エレンの指先がぴくりと動いた。それは逃げるための動作ではなく、リヴァイの頬や手の感触を確かめるための動き。力を緩めてエレンの好きにさせると、細い指がするりとリヴァイの指に絡んでくる。色や艶を感じさせない幼子が縋るような動作だった。
「オレは自由だった?」
「そうだ」
「オレは自由に生きていい?」
「ああ。つうか自分がしたい通りに生きてきたんじゃねぇのか? ……期限が目に見えて短い分、他のヤツらより一生懸命に」
「……っ」
 ぽろり、と。
 リヴァイが見ている前で片方の金眼から透明な雫が一つだけ零れ落ちた。エレンの瞳が輝きを取り戻す。
「すげぇ理論。目からウロコだ」
「お前、賢いくせに馬鹿だったんだな」
 リヴァイが苦笑するのと同時にエレンの目からは次々と涙が溢れ出した。
 大の男が泣く姿をからかうつもりなどリヴァイにはない。ただ黙って椅子から腰を上げ、自らエレンに近付く。そして形の良い頭を優しく己の胸に抱き寄せた。


 散々泣いた後、エレンは両目を真っ赤に腫らしていたが、すっきりとした顔になっていた。
「そっか。オレ、自由だったんだな。そんなことも分からずに十五年も過ごしちまった」
 勿体無い、とエレンは己の過去を悔やむ。
 しかし暗い表情にはならなかった。
「じゃあもし生まれ変わったら、そん時はもっとちゃんと自分が自由だってこと意識しなくちゃな」
 心から生まれ変わりなど信じているのかどうかはさておき、エレンは告げる。
 しかしそう言った直後、ぷつりと糸を切ったマリオネットのようにエレンの身体が力を失くした。リヴァイは慌てて抱き留めるが、青年の身体は指先ひとつ動かない。だらりと伸びた腕も、閉じられた瞼も、膨らまない肺も、鼓動を刻まない心臓も。
「……………………………………エレン?」
 初めて呼んだファーストネームは本人に届くことなく空中に霧散した。





【15】


 エレン・イェーガーの死後、軍内部でも他の部分でも大きな混乱は起こらなかった。それはエレンが己の死期を悟り、もしもの時に万事滞りなく進むよう手配していたために他ならない。
 軍のトップの葬儀ということで、彼の棺桶の傍にはジャン・キルシュタインとアルミン・アルレルトの姿があった。ミカサはいない。
 何故なら彼女は――
『心中した恋人は来世で双子の兄妹になるらしい。私は彼と恋人ではなかったけれど、今から後を追えば、次は今よりもっと近い関係に生まれるかもしれない。次こそもっと近くで守れるかもしれない。……だから私は先に逝く』
 そう言って何の躊躇いも見せず自ら命を絶ったからだ。
 戦死や病死、寿命等でなく自殺した者に対して、ローゼ軍は国葬を行わない。よってミカサ・アルレルトはアルレルト家によって密やかに墓が作られるにとどまった。
 ローゼは基本的に土葬である。しかしエレンはその地位ゆえ、すぐに土の下に眠ることにはならない。防腐処理と死化粧が施され、しばらくは国民が彼に花を手向けられるよう場が設けられることが決まっていた。


 昼間に国葬を終えた日の夜。月が中天にかかる頃、リヴァイは一人、エレンの柩の前に立っていた。
 柩が置かれているのは王城の敷地内にある施設の一つで、明日からの一般市民の参列用にセッティングされた建物内。数段高くなった所に柩があり、その手前に献花台が用意されている。リヴァイはその献花台を回り込み、柩に手を触れられる場所まで近付いていた。
 大きな天窓から入り込む月光と一晩中灯されている足元の蝋燭により、この時間帯でもエレンの様子をはっきりと視認することができる。
 少し大きめの柩に寝かされた彼の周りには、柩を大きくせざるを得なかった要因――たくさんの薔薇が敷き詰められていた。
 その数、九九八本。
 全て城の薔薇園でリヴァイが手ずから摘み、エレンに贈ったものだ。
 リヴァイは薔薇の棘で傷ついた指先をエレンが眠る柩のガラス面に押し当てる。

「一本なら、一目惚れ。
 三本なら、告白。
 十一本なら、最愛。
 五十本なら、恒久。
 九九本なら、永久の愛。
 百本なら、年老いても共に。
 百八本なら、結婚してください。
 三六五本なら、毎日恋しくてたまらない。
 九九九本なら、何度生まれ変わってもまたあなたを愛します。だが――」

 リヴァイはこつりとガラス面を指先で叩いた。
「俺は別にお前を愛してるわけじゃない。ただお前が言った通り来世なんてものがあるとしたら、その時はお前がちゃんと自由に生きてるのかどうか確認してやりてぇんだよ」
 ゆえに、その意志の証明として九九九から『愛』の分の一を欠いた九九八本の薔薇を捧げる。
「しばしの別れだ。……また会おう、エレン・イェーガー」















 運命は巡る。
 そして二つの魂は再び出逢う。


 その地の名はローゼ。壁に囲まれた世界。
 金の目をした少年は自由の証明を渇望し、鋭い目つきの小柄な男は少年のその意志を良しとした。
 化け物と蔑まれる少年。英雄と讃えられる男。
 出逢うべくして出逢った二人なのだとは、本人達ですら知らない。だが確かにここからまた始まるのだ。捧げられた薔薇が意味する通り、何度でも、何度でも。






レガリア







2014.10.08〜2014.10.22 pixivにて初出