【ご注意】
ややグロテスクな表現が含まれます。
また、後味最悪です。救いはありません。











【0】(epilogue)


「ここに! 最後の巨人の消滅を宣言する!!」

 高らかな声。
 見届け人が放ったその宣言は広場に集まっていた民衆全ての耳に届き、一瞬の沈黙を挟んでどっと空気が爆発するように歓声が沸きあがった。
 民衆達よりも一メートルほど高い所にあるその処刑台には、たった今、首を斬られた青年――いや、まだ少年と言っても差し支えない幼さだ――と、その首を斬る役目を果たした彼の上官の姿がある。
 上官は自身と同じ紋章がついたジャケットが見る間に血で汚れていく様を無言で眺め続けている。重なり合った自由の象徴は赤黒く染まり、もう二度と羽ばたけない鳥を連想させた。
 わあわあと人々は歓喜の声を上げている。これで我々は自由だと。もう化け物に怯えて暮らす必要はないのだと。
 上官は自分の足元を見る。
 血まみれだった。
 上官は己が握り続けていた刃を見る。
 血まみれだった。
 上官は更に手や足や腹も見る。
 血まみれだった。
 上官は建物の陰に視線を向ける。
 見知った顔が絶望の色に染まり、泣き崩れていた。

 それでも民衆は喜んでいる。歓喜の声を上げ続けている。





【1】(after epilogue)


 それを最初に見つけた時、男はボロ布が塊になっているだけだと思った。薄暗い路地に転がっていた所為もあるだろう。もう少し視界が良く形がはっきり見えていれば、男はそれをただの死体と判断して放置していたはずだ。
 しかし何か分からないものだったので一応近寄ってみたところ、それはボロ布ではなく身体を丸めた人間であることが判明した。しかもまだ息がある。
「オイオイ、こりゃあ……」
 男は路上で身体を丸めている人物をしげしげと眺めて眉根を寄せる。
「なんで兵士サマがこんな所に血まみれで倒れてやがんだ?」
 それは、黄土色であるはずのジャケットをドス黒い赤に染め上げた兵士だった。
 年は男よりも少し下。まだ成人していないと思われる。髪の長さやぱっと見たところの骨格から判断するに性別は男だろう。
 何かの返り血なのか、それともすでに傷が塞がっているのか、出血が広がる様子はない。血だまりもなく、服や髪や顔についた血は固まりかけていた。
 その固まりかけた血が侵食した紋章は、薔薇でも一角獣でもなく重なり合った翼。
 どうやら男は、ここウォール・シーナでは滅多にお目にかかれない『厄介者』かつ『ムダ金使い』である『嫌われ者』、調査兵団の兵士であるらしい。
「となるとリンチか……? いや、それにしては腫れてもいねぇし綺麗な顔してやがるな」
 男が覗き込んだ兵士の顔は血まみれであるものの、殴られたり切られたりした痕跡はない。
 ふむ、と呟いて男は顎を指で撫でさすった。
 目の前に倒れているのはこの壁内世界の嫌われ者である調査兵団の兵士。大きな怪我は無く、治療の必要はなさそうだ。容姿は整っている方だろう。そして男はシーナに住みながらもいわゆるアンダーグラウンドな住人であり、金は十分に持っていたがあって困るものではなく、そしてちょっとばかり暇だった。
「その辺のクズ共に食い物にされるか輪姦(まわ)されるかよりは俺に拾われた方が良いだろう? まぁせいぜい良い暇潰しか旨い商品になってくれよ」
 返答がないのを承知の上で男は笑い、兵士のくせに薄い身体を抱き起してねぐらへと連れ帰った。


 血まみれのジャケットを確認したところ、拾った兵士の名前は「エレン」と言うらしい。死亡した際に顔が潰れていても誰だったか分かるよう、ジャケットには所属と名前が刺繍されているのだ。しかし生憎、ファミリーネームは血で汚れすぎて判別できなかった。
 と言っても、この兵士を人身売買か臓器売買の商品にするなら、名前など全く必要ないのだが。
 血を拭った兵士は、やはり綺麗な顔をしていた。これなら男色家の富豪に生きたまま売りつけるのもありだろう。男は同性を抱くなどまっぴらゴメンな性質だったが、こういうものを好む人間が世の中にはそれなりに存在することをよく知っている。
 さて、未だ気を失っている兵士は、起きた時にどんな反応を見せてくれるだろうか。
 男を命の恩人か何かだと思って愚かにも感謝の言葉を述べるだろうか。それとも即座に敵と判断して牙を剥いてくるだろうか。前者なら滑稽すぎて笑えるし、後者は後者で楽しめそうだ。
 ただ少し気になったのは、兵士の血を拭っている際に気付いた傷跡らしきものについて。兵士なら誰でも傷痕くらいあるだろう……と言ってしまえるような代物ではない。何故なら傷は、首をぐるりと一周する一本の線になっていたからだ。
 よく見なければ分からないくらいに薄いが、確かに兵士の首を切り落とすような形で痕がついている。しかも気味の悪いことに、兵士の襟足がちょうどその傷跡らしきものの位置でばっさり切られていた。
 首を切られても再びそれがくっ付いて生き続けられる人間がいるとは思えないが、もし存在するなら、この兵士のような傷跡がつくかもしれない。
 男は兵士が起きたらその辺の事情を聴いてやろうと決意する。
 果たして、一晩経ち朝になり。
 この家に一つしかないベッドまで貸してやった元血まみれ兵士は、男が眺めている前でゆっくりと目覚めた。
 薄い瞼の奥から現れたのは、黄金。それが窓から差し込む日の光を受けてきらきらと輝いている。
「……ッ」
 あまりの美しさに男は息を呑んだ。これなら売り物にした際に値段を多少上げても買い手がつくだろうと考える片隅で、そうすることを勿体無いと思えるくらいには美しい。
 この寝室はあまり日当たりのよくない男の家の中で唯一、午前中だけだが陽光が差し込む位置にある。午前中に目覚めたことも、場所がここだったことも、まるで運命であったかのように男には思えた。
 大きな金色の双眸がそっとまぶしさに眇められ、次いで傍にあった男の気配に気付き、こちらへと向けられる。意識がはっきりしていないのか、まだ幼さすら感じられる顔はどこかぼんやりとしていた。
 唇がゆるゆると開かれる。
「あ、んたは……」
 声はテノール。耳触りは悪くない。
「だれ、だ?」
 若い兵士が誰何する。
 男はふっと口の端を持ち上げて名乗った。
「俺はケニーだ。ケニー・アッカーマン。お前は?」
 ファーストネームは知っているが、ファミリーネームは分からない。こちらがフルネームを名乗ったのだから、相手も自然とそう名乗るだろうと思っていケニーは、しかし、
「オレは…………あ、れ? オレの名前、なんだっけ」
「はあ?」
 思わぬ兵士の返答に、ぽかんと口を開けて間抜けな声を出した。


 簡潔にまとめると、ケニーが拾った兵士は記憶喪失だった。
 そんな馬鹿なと思った。しかし事実であるらしい。
 自分の名前も知人の顔や名前も、兵士もとい『エレン』は覚えていなかった。しかし重ね翼の紋章がついた血まみれの制服を見せると「ちょうさへいだん」と呟いたので、一般的な知識は残っているようだ。欠けたのは自分自身のことと人間関係にかかわる情報のみ。
 正直なところ、最初の考えから百八十度変わって、厄介な拾い物をしたと思った。しかしどうにも手放せない。あの金色を向けられると、「出て行け」と言うどころか、上手いこと騙して誰かに売りつけることすら躊躇ってしまうようになっていたのだ。
 なお、血まみれのジャケットはエレンに見せた後すぐに捨てた。どうにもこうにも使い物にならないからだ。代わりにケニーは己が着ていた衣服を一部エレンに貸し与えた。少し袖が余ったので笑ってやるとふくれっ面をしたので、更に笑いが込み上げてきたのはご愛嬌である。
 拗ねたエレンを宥めすかして聞いたところによると、彼には夢があり、それは壁の外の世界を探検することらしい。
 自分が何者であるのかすっかり忘れているくせに、己の夢は壁の外の世界を体験してまだ誰も見たことがないものを見ることだと語ったのだ。単に珍しいものを見たいだけではなく、それらを目にすることはエレンにとって自由の証明をすることと同じ。
 ――人は皆、生まれた時から自由だ。だから人間である己はその自由を証明したい。
 そう語るエレンをケニーは「やっぱり調査兵団は死にたがりの無謀者共の集まりか」と馬鹿でも見るような目で眺めていたが、彼の話が心の琴線に触れたのもまた事実だった。エレンが紡ぐ自由という言葉はその瞳と同じくらいにキラキラと輝きを放っている。都の地下街ほどではないにしろ、ここのような薄暗い場所に置いておくには勿体無いくらいの輝きだった。
 しかしケニーはせっかく拾った物をそう易々と捨てる気になれなかったし、エレンもまた己が誰か分からない状態で今のところ唯一の知人であるケニーから離れることに不安を抱いている。エレンの件は調査兵団に問い合わせてみればよかったのかもしれないが、生憎シーナのゴロツキであるケニーができるようなことではなかった。
 その結果、自然とエレンはケニーの元に身を寄せることになった。しかし養われるだけの人間に成り下がる気はないらしく、ある日、体調がすっかり回復したエレンは散歩から戻ってきてすぐケニーの肩をポンと叩いて、
「オレもそうだけどケニーも腕に自信あるよな? ってなわけでこの仕事しようぜ」
 にっこり笑顔でケニーの前に突き付けたのは、ある下級貴族が出した護衛募集の貼り紙。街中に貼り付けられていたものを無断で剥ぎ取ってきたらしい。
 こうして、エレンを拾ってから一週間もしないうちにケニーは無職のゴロツキから下級とはいえ貴族の護衛という職業に就く羽目になった。





【2】


 街中にはゴロツキが徒党を組んで作った窃盗団。少し街を離れれば元兵士などが寄り集まった野盗。壁内というこの限られた世界でもそういう人種は存在する。そしてそんなロクデナシ共から主人を守るのがケニー達に課せられた仕事だった。
 幸いにもと言うべきか、生憎と言うべきか。ケニーとエレンを雇った貴族に近々遠出する予定はない。よって野盗に襲われる心配はないだろう。ただしその貴族が住んでいる地域では最近窃盗団による被害がちらほらと報告されるようになっていた。今回の護衛募集もそれが原因だ。
 ゴロツキ歴の長いケニーの方はさておき、記憶が無くても身体の方が兵士としての所作を覚えているエレンはどうやら貴族から見ても信用に値する人間だと感じたらしく、元から貴族の屋敷にいる別の護衛と手合わせをして勝利した後は即決と言っても良いスピードで採用が決まった。しかし、だからと言ってすぐに屋内の警備を任されるような信頼を得られるはずもなく、今回の募集で集まった他のメンバーも含めてケニー達は屋敷の庭で警備する役割を与えられた。
 ローテーションを組んで昼も夜も一日中監視の目を光らせる。殺人も厭わぬ窃盗団の被害は街の一角から徐々にこちら側ヘと近付いてきており、緊張感は日々高まっていった。


「……今夜あたり来そうだな」
「そりゃお前の勘か?」
 間もなく自分達の見張りの番が回ってくるということで、ケニーとエレンは割り当てられた個室で装備の点検を行っていた。そんな中、ぼそりと呟いたケニーの声にエレンが顔を上げる。ケニーはそれに「ああ」と答えた。
「元々、例の窃盗団は純粋に金目の物を得るためにデカい屋敷を襲っていた。だが少し前からその様子が変わってきていたのはお前も気付いてるだろう?」
「わざと警備の強固な屋敷に侵入するようになってる」
「そうだ。あいつら、腕試しを始めやがった」
 ケッと吐き捨て、ケニーはくだらないものを見る目をして話を続ける。
「正直言って阿呆共の集まりだが、これまでの戦績を見るに腕だけは立つらしい。だから驕っていやがる。怖い物知らずで単純な思考しかしてねぇから、カモにする屋敷の選択も単純化し始めてるな。そんで、警備が強固になった貴族の屋敷であり、ヤツらが襲う順番を考えた時そのルートに存在するのが、ここだ」
「襲撃が今夜だっていう根拠は?」
「だからそれが勘だって言ってんだよ。しかしまぁ理由を挙げるとすりゃ、空気だな」
「空気?」
「ああ。ドブ臭ぇ殺気が漂ってきてやがる」
 そう言ってケニーは鼻の上に皺を寄せた。
 エレンには似合わない臭くて臭くてたまらないドブのにおい。それがここまで漂ってきていることにケニーは純粋な不快感を覚えたのだ。自分とてゴロツキでありドブ臭い世界で息をし続けてきた人間だという自覚はある。しかし自分は許容できてもエレンにケニー・アッカーマン以外のロクデナシが近付くことは許せそうになかった。
「ケニーの言うことが当たりなら……」
 そのエレンの声にはっとして、ケニーは思考の海から現実へと戻ってくる。
「オレ達の番は今夜零時まで。でもって窃盗団がよく現れるのは夜中の二時・三時頃だよな。どうする? 次の番のヤツらに警告しておくか?」
「してやりてぇとこだが根拠がない。どうせ俺の言葉じゃ信じねぇさ。どいつもこいつもお前みてぇにお人好しじゃねぇんだよ」
「それ遠回しにオレのこと単純だって言ってる?」
「遠回しにしたつもりはねぇんだが……まて、その笑顔は止せ」
 両手を前に出して静止のポーズをとりながらケニーはわざとらしい咳払いをした。
「ともあれゴロツキ上がりの俺の勘だけじゃ誰も動かねぇよ。今の時点で俺の勘が当たるのを知っているのは俺とお前だけだからな」
「そんなもんかな」
「そんなもんだろう。次の番のヤツらも勘が良けりゃそれとなく警戒するだろうよ。だからまぁ俺達は俺の勘が当たった時のために警戒ぐれぇはしておくさ」
「わかった」
 ケニーの言葉にエレンが頷く。
 ちょうど装備の点検も終わり、二人は立ち上がって部屋を出た。
 その夜、ケニーが予見した通り、屋敷は窃盗団の襲撃に遭うこととなる。


 貴族に雇われたと言ってもケニー達は正規の護衛兵でないため、雇い主から武器などの提供は無い。使用するのは各自が用意した得物となる。
 長身の割に気配を殺し対象の背後から忍び寄ることを得意とするケニーは小型のナイフを、エレンは裏ルートで流れてきた半刃刀身に柄をつけた片刃の剣を装備して、にわかに慌ただしくなった屋敷の一角へと走った。双方の顔に眠気は無い。ケニーの勘を信じて待機していたのが功を奏し、巡回していた者を除く屋敷の護衛の誰よりも早く現場へと駆けつけた。
 暗闇で敵をはっきりと視認できなくとも、鼻につく鉄錆の匂いで何があったかは察せられる。エレンが顔をしかめる横でケニーもまた「容赦ねぇな」と窃盗団の行為に小さく舌打ちをした。
 建物の陰からそっと侵入者らの様子を窺うと、七つの人影を確認することができた。今夜は細い弓張り月で天然の明かりには期待できないが、貴族の屋敷なだけあって庭園にはガス灯が設けられている。その弱々しい光の下で浮かび上がった彼らの足元には、おそらくこの時間帯に巡回していた同僚の躯が転がっているのだろう。
「どうする? 他の皆を呼ぶか?」
「呼びはするが、その前に削れる分は削っておく。奇襲をかけるぞ」
 エレンの問いにケニーはそう答えた。
 敷地内で異常を発見した場合、離れた所にいる他の人間にも知らせるため、護衛役の人間は警笛を所持している。しかし見回りの者達は笛を吹く余裕すらなく殺された。つまり、それをなした窃盗団の実力はかなり高いということが分かる。だとすると、ここでケニー達が警笛を吹いた場合、他の護衛役が駆けつけるまでその実力者達と二対七で正面からぶつからなくてはならない。
 どうせ殺り合うなら背後から忍び寄って一人でも多く敵を減らし、その上で警笛を鳴らしてしまおうと考えたのだ。
 エレンもそれに賛同し、二人は気配を殺したまま移動を開始する。それぞれ別方向から襲撃するので、途中から二手に分かれた。タイミングの心配はしていない。エレンはケニーの戦い方やその際の考え方が何となく分かるらしく、うまい具合に合わせてくるのだ。まるで以心伝心のようで、ケニーはその事実に悪い気がしない。
 ……実のところ、これはエレンとケニーが運命的なまでに馬が合っているだとか、エレンの感受性が高いだとか、そういう理由からではない。エレンが記憶を失う前に慕っていた男の戦い方とケニーのそれが同じであったためにそんなことが可能であることを、ケニーは知る由もなかった。無論、エレン本人も。今のエレンは無意識にあの人≠フ動きと思考回路をケニーに重ねているだけだ。もしその事実を知ってしまったなら、ケニーは今と正反対の感情を抱く羽目になるだろう。
 閑話休題。
 そう時間をかけることなく、二人はちょうど窃盗団を挟み撃ちにする位置にまで辿り着いた。ケニーの位置からエレンの姿が見えるはずもなく、またエレン側も然りだが、不安はない。鞘からナイフを抜いて構える。きっとエレンも同じタイミングで柄に手をかけたことだろう。
 一呼吸、二呼吸、そして三度目に息を吸った瞬間、ケニーは己が身を潜めていた建物の陰から音もなく飛び出す。同時にエレンが茂みを割って派手に窃盗団へと斬りかかった。敵の目はエレンに引きつけられ、背後にいるケニーには気付かない。ケニーは一番近くにいた窃盗団の一人に近寄り、左手で口を塞いで喉をナイフで掻き切った。
 それが済むとすぐさま別のターゲットへと忍びより、同様に殺害する。エレンも一人目の腹を剣で真横に薙ぎ、別の人間が上段から振り下ろした長剣の一撃をバックステップで躱した。と同時に警笛を鳴らす。
 ここでようやく、周囲を見回した敵がケニーの存在に気付いた。殺された二人の仲間を目にして「てめぇ……っ!」と掴みかかってきた男の手をすれ違うようにして躱し、振り向きざまに隙だらけの脇腹へ蹴りを放つ。ケニーの長い脚が鞭のようにしなり、男を文字通り吹っ飛ばした。
 これで残りは三人……否、蹴りを受けた男が起き上がってきた。かなり頑丈な身体の持ち主らしい。よって、敵は残り四人。不意打ちで削れた人数が三というのは上等な部類だが、本番はここからだ。仲間が駆けつけるまで、そして屋敷の主人を含む非戦闘員が逃げるまで、二人だけで時間を稼がなくてはならない。もしくは自分達だけで残りも対処する必要がある。
 ケニーとエレンを取り囲むようにして窃盗団の四人が展開する。エレンと背中合わせの体勢でそれを油断なく見回したケニーは焦りの表情を浮かべることなく呟いた。
「銃がほしいな。ナイフじゃ距離が足りねぇ」
「連射性のあるやつじゃねぇと意味ないけどな」
「確かに。あればバンバン撃ってみてぇが」
「もしそんな物が作られたとしても口でバンバン言うのは止めとけよ」
「ちっ、つまんねぇ」
「言う方が寒いだろ」
「格好良いじゃねぇか」
「うわ。そのセンスはちょっとパス」
 威力があって優れた連射性を持つ銃などまだ開発されていない。それを知った上で冗談を言い合うケニー達の様子に窃盗団の四人が殺気立つ。今宵の不届き者達は、突然現れて三人の仲間を屠ったこの屋敷の護衛二人を警戒し、すぐに手を出すことを控えていたが、挑発とも取れる軽口の応酬を披露された所為で頭に血が上ってしまった一人がついに飛びかかってきた。
 均衡が崩れた。その一人の突撃を皮切りにケニー達は動きだし、窃盗団の残り三人も動かざるを得なくなる。リーチが短いナイフを得物とするケニーに向かってきたのが三人、彼らが襲っている間にエレンを足止めするため動いたのが一人。エレンの武器は元々対巨人用の刃――半刃刀身であるため、打ち合いや鍔迫り合いには向いていない。相手の剣を受けるのは最低限にして、エレンは回避メインでステップを踏む。
 一方、ケニーは最初に飛びかかってきた一人目を蹴りつけて後方へ吹っ飛ばし、その隙を狙って横から迫ってきた二人目にナイフを投げつけた。無理な体勢で放ったものを命中させる気はない。二人目が一瞬でも怯めば、それで十分。その僅かな時間だけで伸ばした脚を引き戻し、体勢を低くして地面を蹴る。そしてナイフが飛んできた所為で僅かに怯んだその二人目の足下を蹴りつけ、派手に転倒させた。相手が無様に倒れるのと同時にケニーは立ち上がり、仰向けに転んだ相手の腹を思い切り踏みつける。これで二人目の処理が完了だ。
 三人目は用心深く実力も先の二人よりあるのか、ケニーの間合いに入ってこなかった。視界の端ではエレンが回避メインで動いているのが見える。どうやら向こうの相手はかなり強いらしい。でなければ、そろそろエレンが相手の腕の一本でも斬り飛ばしていて良い頃だ。
 一緒に過ごしていて分かったことだが、エレンは巨人を相手にする調査兵団の兵士だった割に、人間へ剣の切っ先を向けることに全くと言って良いほど躊躇しない。と言うより、自分が敵と見做した対象を「ひと」だと認識していない節がある。ゴロツキでありアンダーグラウンドで過ごしてきたケニーから見てもなかなかイカレていてイカした性格だ。そして窃盗団などは真っ先にエレンの中で「害獣」認定される種類であり、今のエレンが攻撃を躊躇うはずもない。現に、急襲した際の一人目は綺麗に腹を掻っ捌かれている。
 残ったのは強敵が二人。七対二から二対二になったからといって油断はできない。
 さてどうする……と、膠着状態に陥ったその時、屋敷の方から大勢の人間の声が聞こえてきた。ようやく他の護衛達が駆けつけてきたのだ。
 これでは分が悪いと判断したのか、窃盗団の生き残り二人が一瞬にしてケニー達に背を向けた。深追いはしない。ケニーはエレンに駆け寄る。
「おい、無事か」
「ああ」
 エレンは腕や頬に薄い切り傷を作っていた。小綺麗な顔にできた傷を見てケニーは無意識に顔をしかめる。しかし次の瞬間、エレンの傷がシュウシュウと蒸気を上げながら塞がっていくのを目撃して目を丸くした。
「エレン、お前……」
「ん?」
「傷が」
 言いながらケニーはエレンの腕をとる。するとそちらの傷も二人の目の前で蒸気を上げながら治ってしまった。今度は二人して唖然とする。「なんだこれ……」とエレンが呟いた。どうやらエレンも知らなかったらしい。もしくは忘れた記憶の中にこの特殊すぎる身体のことも含まれていたのか。
「便利な身体だなぁオイ。まさか腕をぶった斬っても生えてくるわけじゃねぇよな?」
「さぁ……生えてくるかも」
「すげぇ」
「実験すんなよ?」
「しねぇよ。つか、なんで『実験』なんて単語が出てくるんだよ」
「いや、なんとなく」
 エレンがぼそりと答える。
 二人ともこの異常な回復力に驚きはしたが、同じように驚異的な生命力を持つ巨人と関連づけることはなかった。ここが巨人の脅威から最も遠いウォール・シーナであるがゆえに。その姿を見ることも足音を聞くこともない場所では、巨人など絵本の中の悪魔と同じレベルの存在なのだ。
 そうこうしているうちに松明を手にした護衛達がやってきた。ケニーとエレンは状況を説明し、その後、皆で周辺に放置したままの死体を運び始める。元々自分達は仲良しこよしのグループではなかったため、作業は淡々と行われた。


 一夜空け、ケニーとエレンは屋敷の主人――アレクシ・ルヴナ男爵の私室に呼び出された。ルヴナは豊かな食生活を示す大きな腹を撫でながらまず二人の功績を讃え、特別に報酬を与えると告げる。そしてもう一つ。これこそが呼び出した本当の目的であると前置きし、彼はすでに決定された事項を口にした。
「今日から君達はルヴナ家の正規の私兵だ。しっかり働いてくれたまえ」
「りょーかいだ」
「光栄です、マイロード」
 ケニーとエレンがそれぞれ了承の意を告げる。ルヴナはケニーのおざなりな返答に口元をひん曲げたが、直後、エレンの「マイロード」という呼称に気を良くしてにこやかな笑みを浮かべた。
 その陰で「正規扱いになって給料が上がるなら何でもいいや」と、ケニーとエレンの思考がシンクロしていたことなど、ルヴナは知る由もない。





【3】


 ケニーとエレンの活躍以降、この地区を騒がせていた窃盗団はすっかり鳴りを潜めている。七人中五人もの犯罪者を斬り伏せた実力者として、耳の早い者達の間ではすでに二人の名が囁かれるようになっているとかいないとか。ルヴナ男爵は鼻高々といった風情で、特に礼儀を弁え見目も悪くないエレンを傍に置きたがった。
 エレンは貴族の扱いが上手い。何故なのかは本人も記憶がないためよく分かっていないらしいのだが、心中で何を考えているのか悟らせることなく、貴族の好きそうな言葉をぽんぽんと吐いてみせるのだ。憲兵団ならまだしも、調査兵団の兵士が貴族との付き合い方を身につける必要性はないはずなのだが……。ひょっとしたらエレンは調査兵団の中でも特別な地位にある兵士で、その所為でこういう技能≠ェ必要だったのかもしれない。
 ともあれ、エレンとセット扱いになっているケニーもまた彼と同じく護衛としては良い待遇を受けながら平和な日々を謳歌していた。男爵が夜会に出かける時に――エレンが必ず連れて行かれるので――同行するのは面倒だったが、ゴロツキでその日暮らしをしていた頃と比べれば、生活水準は天と地ほどの差がある。安穏とした日々、というやつだった。
 しかしゴロツキとして培ってきた勘が完全に気を抜いてはならないと告げている。屋敷を襲った窃盗団のメンバーのうち、二人も取り逃してしまっているのだ。あの二人がこのまま消えていくとは考えられない。おそらくそう遠くないうちに何か仕掛けてくるはずだ。
 エレンにもそのことを伝えており、気を付けるという返答をもらっている。彼はやはりケニーの勘を信じてくれた。しかしそんな彼とは対照的に、ルヴナはケニーの言葉に耳を貸そうともしない。男爵がエレンを侍らせているのは窃盗団の復讐を警戒してではなく、ただ単にエレンを周囲の人間に見せびらかせたいだけ。最初から敬意も愛情も抱けない相手だが、雇い主であるその男の脳天気な思考に二人は改めて呆れ返るしかなかった。しかし、これがシーナの貴族の現状なのだろう。


 窃盗団の一件から一ヶ月ほど経過したある日の夜。ルヴナ男爵は同じ地区に別宅を持つ伯爵主催の夜会に出席していた。当然、ケニー達――メインは当然エレンだが――も同行している。
 今夜は王都周辺の貴族だけでなく、もっと北の方に居を構える地方貴族も顔を出しているらしい。夜会は人脈を作る場でもある。最近、窃盗団の件で名を知られるようになったルヴナは、そのネタを使いながらこのチャンスに人脈を広げようと言う心づもりでいるようだ。
 護衛と言うより単純に見せ物としてルヴナの斜め後ろに立たされているエレン。ケニーはその隣で空気になるべく気配を消している。夜会に出席するため用意された衣装は堅苦しく、整髪料で後ろに撫でつけられた髪も違和感が酷い。ジャケットは脱ぎ捨て、頭を思い切り掻き毟りたくなる。これに平気な顔で耐え、あまつさえ話しかけてきた他の貴族にそつなく対応しているエレンを見てしまい、ケニーはもう凄いという単語しか思い浮かばなかった。
 会場内はきらびやかで、着飾った人々も黒い腹を隠しながら楽しげに談笑している。ざっと見たところ、警備はそれほど厳重でもない。極悪非道な窃盗団が夜毎悪事を繰り返していた頃はもっと厳しい警備体制が敷かれていただろうが――そもそも夜会など開かなかったかもしれない――、今ではもうそれすら忘れてしまって、要所に立つ警備員の表情も暢気なものだ。
 それがとても気にかかる。
 夜会の話を聞かされた時から嫌な予感はしていたのだが、会場に到着してその思いはもっと強くなった。
 会場内が賑わいを増して夜が更けていくにつれケニーの様子が落ち着きのないものになっていくことにエレンが気付き、すっと双眸を細める。彼はこちらが何も言わずとも警戒心を強め、いつでも動けるよう身体に程良い緊張感を漲らせた。
 生演奏を披露している楽団が曲調を変え、出席者達が手を取ってダンスに興じ始める。だがケニーらの雇い主はダンスよりも他貴族との取引の方が忙しく、自然と人気のない隅の方へ移動していった。護衛役を務める二人もそれに続く。
 ルヴナと同じような考えの貴族達はひそひそと言葉を交わしながら互いの腹を探り合っている。雑談、縁談、大っぴらにできる方の商談、できない方の商談、男女の色恋沙汰、その他諸々。深い話になれば別室へ姿を消すだろうが、多くはまだ会場内で浅い話を交わすのみだ。
 ルヴナが移動してきたのは、会場内と分厚いカーテンで仕切られたバルコニーだった。新月のため空は星々だけが輝いており、庭に設置されたガス灯とカーテンの隙間から漏れる僅かな光だけがそこを照らしている。
 話し相手は北方から招かれたというまだ若い貴族の一人だ。当主が代替わりしたばかりであり、また王都から離れた所に住んでいることからも分かるように、家の地位はそれほど高くない。貴族とは言えど下の方に位置するルヴナには話しやすい種類の人間なのだろう。
 ケニーとエレンはそれぞれバルコニーの端に立って周囲を警戒する……つもりだったのだが、エレンがルヴナに呼ばれたため、ケニーのみ周囲への警戒をすることになった。ルヴナがエレンを紹介すると、貴族の青年は「彼が例の」だとか「そうですか」と言いながら、興味深そうに相槌を打つ。どうやら窃盗団の一件はシーナ北方にまですでに届いていたらしい。もしくは単に青年の耳が良いだけか、それともこの夜会で聞いたばかりなのかもしれないが。
 と、その時だった。先日からずっと警鐘を鳴らしていたケニーの勘が最高潮に嫌な予感というものを察知したのは。
「エレンッ!」
 名を呼んで注意を促しながらケニーはそちらを振り向くことなくジャケットの下に隠していたナイフを構える。直後、バルコニーの柵の向こう側――整然と植えられた木々の合間から黒い影が飛び出してくる。その影が手にしている白刃がガス灯の明かりを反射してキラリと光った。
「チッ」
 ギィン! と両刃の剣の一撃をナイフで受ける。その傍らを通り過ぎるもう一つの影。それは真っ直ぐにルヴナ達の方へ向かった。その頃にはエレンもナイフを構えている。いつも使っている片刃の剣は夜会に不釣り合いなサイズだとして所持が許可されていなかった。
 いつもよりリーチの短いそれでエレンは敵の一撃目を弾く。背後にはルヴナともう一人の貴族を庇っており、後退は不可能だ。
 ケニーは一刻も早くエレンの元へ駆けつけたかったが、自分の相手も手練れであり、容易にはいかない。しかも敵はケニー達に恨みを持った奴≠セった。ゆえに向こうのやる気は相当なものだ。
「はっ、こんな場所で復讐かよ。盗人め」
「……ッ!」
 相手の剣を持つ手に力がこもる。
 そう、この襲いかかってきた二人組は、一ヶ月前にケニー達が撃退した窃盗団の生き残りだったのだ。
 見覚えのある顔が憤怒に歪み、奥歯がぎしりと音を立てる。
「ああ、復讐だよ。てめぇらに殺された仲間の恨み、ここで晴らしてやる」
「だったらわざわざこんな所に来んなっつの。屋敷の方に来いよ」
「はあ? こっちの方がてめぇらの評判も地に落ちて一石二鳥だろうが」
「チッ、無駄に頭回しやがって」
 ケニーがそう毒づけば、襲撃犯はニヤリといやらしい笑みを浮かべた。
 確かに襲撃犯の言う通り、ケニーとエレンを殺すためだけに夜会の参加者が危険にさらされたとあっては、二人とその雇い主であるルヴナの評判は一気に悪化するだろう。これなら、襲撃犯がケニーらに負けたとしても一矢報いることができる。
「だったら」
 何度も剣とナイフを打ち鳴らす中、ケニーが不敵な笑みを浮かべた。
「このカーテンの外でてめぇらを伸しちまえば、その目論見もおじゃんってわけだな」
 全てこのバルコニーで収めてしまえばいい。そうすればルヴナの名につく傷は最小限で抑えられるし、ケニーとエレンも他者を危険にさらさずに済む。
 しかし、
「無駄だ」
 そう言って襲撃犯が腰のベルトに差していた大振りのナイフを引き抜き、正面のケニーではなく会場とここを仕切るカーテンに向かって投擲した。
「しまった――ッ」
 これでは会場内の人間にバルコニーの異常を気付かれる。ケニーは手を伸ばすが届くはずもない。の、だが。
「はい、ザンネンでした」
 投擲されたナイフを手のひらで受け止めながらエレンが笑った。その足下には心臓の真上にナイフを生やしたもう一人の襲撃犯が転がっている。
 エレンは巨人を狩る調査兵団の兵士だった割に、人間同士の格闘の技術も相当なものだった。そのおかげで、長い剣よりも短いナイフの方が意外と扱いやすかったのかもしれない。
「そんな……」
 まさかナイフを手のひらに突き刺す形で止められるとは思っていなかったのか、ケニーと戦っていた襲撃犯はその場で膝をついた。それを素早く昏倒させ、ケニーはエレンへ駆け寄る。
「バカが。なんつー受け方してんだよ」
「でもまぁほら、オレの身体なら治るみてぇだし」
「だからって」
 ケニーは舌打ちをしつつ止血をする。
 しかしその間に早くもエレンの異常な回復力が発揮されており、僅かな光で傷口から立ち上る蒸気を目視することができた。
「なんだそれは」
 ルヴナが気味悪そうにエレンを見る。その顔に、エレンに庇われていた恩や感謝の気持ちはない。「ああ、これは折角見つけた働き口がダメになりそうだ」と思いながら、ケニーは無言で手当を続けた。
 しかし雇い主がそんな反応を見せる一方で、
「傷が……」
 北方からやってきたという貴族は目を丸く見開いてそんなエレンを見つめていた。
 男は立ち上る蒸気とエレンを眺めたまま、小さく口の端を持ち上げる。
「すばらしい」
 ケニーの記憶が正しければ、その男の名はロッド・レイスといった。


 夜会の翌日、レイス家からルヴナの元に申し出があった。アレクシ・ルヴナの私兵であるエレン(とケニー)を譲ってほしい、と。またその対価として、人間二人を譲るにしては多すぎる金銭やその他美術品等を用意していた。
 ルヴナは自慢のためにエレンを連れ回していたが、さほど金眼の青年に執着していたわけではない。しかもあの夜に目撃したエレンの異常な回復力により、気味悪がっている始末だ。いつ辞めさせようか考えていたことだろう。よって、ルヴナはレイス家からの取引に二つ返事で応じた。結果、翌日には、エレンとケニーの身柄は二頭立ての立派な馬車でシーナ北方のレイス家へと運ばれることとなった。
 レイス家の屋敷に到着すると、まず健康診断を受けさせられた。身長、体重、視力、握力、病歴の問診、医師による触診、血液検査、その他諸々。ルヴナ家では全くされることのなかったそれらに目を白黒させながらも、屋敷で雇う人間の健康管理は雇い主の義務だと言い切られてしまい、ケニーとエレンは粛々と受け入れた。
 なお、ほとんどはその場で結果を言い渡されたが、血液検査のみ専門の人間が分析して後日結果が分かるとのことだった。しかしながら具体的に何を調べるのか二人とも知らない。そもそも、この世界の一般的な医学知識では「血液を抜き取って何が分かるのだ?」と疑問に思うレベルである。限られたごく一部の専門家は、そうではないということなのか。しかし、たとえ飛び抜けた医学知識を持つ専門家がこの世界に一つまみ程度存在していたとして、そんな貴重な人材を一介の貴族ごときが容易に従えられるはずもないのだが。
 ともあれ、ケニーとエレンは様々な検査を受けさせられ、全てにおいて「異常なし」の結果が出た。その翌日からはルヴナの屋敷と同じかそれよりも良い待遇で、貴族の私兵としての仕事をこなし始めた。





【幕間】


 分析を依頼された一人分の血液サンプル。試験管に入ったそれにラベルは貼られていない。一体誰のものなのか知ることなく、まだ若い男は決められた手順通りに仕事を開始した。
 この壁の中の世界には無いとされている科学技術。それを駆使し、男はこの血液が人間のものか、そうでないものかを判断する役目を負っている。依頼主からは「先生」と呼ばれるが、それは男を敬っての呼称ではない。何せ依頼主はこの壁内世界で真の頂点に君臨する人間なのだから。
 黙々と。淡々と。機械のように男は分析を続ける。
 そうして結果が出た瞬間、男はほんの少しだったが初めて表情を歪めた。
「かわいそうに……」
 結果は、陽性。
 普通の人間ならば出るはずのないもの。つまり、この血液の主は科学的見地により「化け物」と認定されてしまったわけだ。
 男が恐れの感情を表すことはなかった。歪んだその顔に出ていたのは哀れみ。ただ、男は化け物だと判明した誰かが迫害を受けることを憂いたわけではない。男はもっと酷いことになると予想していた。そして、そのもっと酷いことに自分も関わることを理解していた。
 男は依頼主への報告書にサインを記す。宛先はロッド・レイスという人物。そして新しく紙に綴られたその名は、「グリシャ・イェーガー」と読むことができた。





【4】


 レイス家に雇われてから半年の月日が流れた。先日、ロッド・レイスには第一子が誕生し、屋敷は今も歓喜に沸いている。誕生したのは女の子。ロッド・レイスが幼い時に決められた許嫁との間に生まれた子で、頭にはうっすらと黒い髪が生えていた。きっと母親に似て美しい黒髪の持ち主になるだろうと、周囲の人々は誉めそやした。
 ロッド・レイスはまだ二十代の始めという若さだが、高貴な血を継ぐ者として早く子をなすことを望まれている。よって此度の第一子誕生は決して早いものではなかった。今後もロッド・レイスは女との間に子をもうけていくだろう。その相手が正妻だとは限らないけれども。
 それはさておき、待望の第一子誕生は非常に目出度いことである。レイス家の私兵達も祝いの席に呼ばれたり、それが不可能でも酒や食い物が振る舞われたりした。ケニーとエレンはちょうど当主直々の依頼でレイス家の本宅を離れ王都に滞在していたのだが、二人の元にも毎夜肉を使った豪華な食事と、二日に一回葡萄酒が一瓶ずつ与えられ、それは一週間も続いた。
 その最後の夜のこと。今夜もまたケニーとエレンには一瓶ずつ葡萄酒が届けられた。祝いの最後を飾るためか、今宵の酒は色が深く香りも強い。人によって好みが分かれそうな一品だったが、二人にとってはこれもまた好ましいと判断できるもので、グラスに注いでどんどん消費していく。
 飲めない酒を出されても興ざめだが、癖の強い酒は上手い具合に二人の好みに合っていた。おそらく、それまでの六日間で酒を供する担当者がケニーとエレンの好みを察してくれたのだろう。たかが私兵にそこまで配慮するとは、レイス家の当主もお人好しと言うか、変わり者と言うか。しかし悪い気分ではない。
 二人はあっと言う間に瓶を空にして、そのまま心地よい眠りへと誘われていった。


「で、どっちだ?」
「こっちの優男さんの方だとよ。そっちの野郎はしっかり縛っとけ。あと猿ぐつわも忘れんなよ。叫ばれたらうるせぇから」
「どうせ使わねぇんだろ? だったらさっさと殺しちまえばいいのに」
「それがどうやら、我らが王はそっちの男も引き続き使役するおつもりのようだ。まぁ腕は立つらしいからな」
「じゃあ変な気を起さねぇようにしとかねぇとな」
 知らない者達が発するその言葉と共に、ケニーは何かを思い切り強く噛まされた。これでは喋ることも舌を噛み切ることもできないだろう。徐々に鮮明さを取り戻し始めた感覚は、手足が拘束されていることも伝えてきた。芋虫状とでも言えばいいのか。手は後ろに回されてしっかりと縄で拘束されており、腕と胴体は縄でぐるぐる巻きに。脚も、足首のところでしっかりと縄が巻かれ、容易には解けそうにない。
 身体は横倒しになっており、右側が地面に接している。ソファやベッドはもとより、薄っぺらいカーペットの柔らかさすら感じられなかった。
 そんな感触と酷い頭痛を感じながらうっすらと目を開けると、複数の人間の足が見えた。視界が限られているため正確な人数は分からないが、どうやら全員男であるらしい。そして、そんな男達の向こう側に縄で拘束され転がされているエレンの姿が――。
「〜〜ッ!」
「あ、おい。ゴミの方が目を覚ましたぞ」
「気にすんな。その変に転がしておけ」
「はいはーい、じゃあちょっとゴメンよ」
 そう言って男の一人がケニーの腹につま先をめり込ませた。
「ッぐ、う!」
 うめき声は口に噛ませた布に全て吸い取られる。強烈な衝撃と共に蹴り転がされたケニーの身体は反対側を向くことになり、視界からエレンの姿が消える。そのことに何かとんでもない恐怖を感じてケニーは必死に身体の向きを変えようとするが、そのたびに男達は面白がって腹と言わず脚と言わず顔と言わず、容赦なく蹴ってきた。
「おい、やりすぎるなよ。王はまだその男が使えると判断されているんだ」
 リーダー格らしい男がそう告げて、ようやくケニーへの暴行が止む。その時のケニーの体勢は壁に背を預けたもので、少し遠くなってしまったが、エレンの姿を視界に収めることができた。
 エレンは相変わらず縄で縛られており、意識は戻っていないらしい。その更に向こう側には扉が見えた。窓はなく、そこが唯一の出入り口のようだ。と、ケニーが状況を把握している最中に扉が開いた。
「イェーガー先生の準備ができました。施術室にお連れしてください」
 扉の外にいる新たな人物がそう声をかける。
「対象の顔は布か何かで隠していただきますよう。先生が気に病まれてしまいますので」
「了解」
 そう言われたリーダー格の男はすぐに他の者へ指示をして、エレンの目は幅の広い布で覆われた。顔半分を隠してしまう程のものであり、人相など分かりようもない。
 エレンの顔を隠し終えると、男達は力の抜けた痩身を担ぎ上げて部屋を出る。施術室とやらに連れて行く気なのだ。
(おい、そいつをどうするつもりだ!)
 叫びたくとも声は出ず、痛めつけられたケニーの身体は弱々しいうめき声を上げるのみ。何もできないケニーをその場に残し、扉は無情にも閉じられた。





【幕間】


 クランケ(患者)を台の上にうつ伏せにして寝かせる。台には顔がはまる穴が空いていて、そこに頭の位置を合わせると共に幅広の目隠しを取り去った。続いて、肩、二の腕、手首、腰、脚の付け根、太股、脹脛、足首をそれぞれベルトでしっかりと固定し、身動きを取れなくする。本来なら首や背中にもベルトを巻いて固定すべきなのだろうが、これから行うことには邪魔になってしまうので、他の部分でしっかりと拘束するしかないのだ。
「どうか眠ったままでいてくれ……」
 何かあった時のため屈強な肉体を持つ男達が控える中、ただ一人線の細い若者が呟く。疲れたような容貌は男を実年齢以上に老けさせていた。まとっているのは白衣で、彼の傍らに用意されているのは肉を切るだけではなく骨をも切断する手術用の器具だった。
「先生、それではお願いします」
「ああ」
 白衣の人物は静かに頷き、眼鏡の奥で緑色の双眸を悲痛そうに歪めた。これから彼はとても残酷な行いに手を染める。
 手術用の器具とは別に空のアンプルが二本用意されていた。このたった二本のガラスの筒を満たすためだけに、一人の尊い命が犠牲となる。しかしそうすることで壁の中の平和は保たれるのだ。男は自分にそう言い聞かせる。
 まずはクランケの衣服をハサミで切って背部を露出させ、次いで頭髪をカミソリで剃り始めた。それが終われば、頭蓋を切り開くノコギリを握ることとなる。
 しょりしょりと床に散らばっていく黒い髪。彼はこの黒髪の主の名前すら知らないまま、これからその命と尊厳を奪う。





【5】


 意識のないエレンが連れ去られてからどれくらい経っただろうか。ようやくまともに身体が動かせるようになったケニーは己を拘束する縄を自力で解く。
 名も知らぬ男達にさんざん蹴りつけられたのは縄の所為でもあったが、それよりもまず、身体の動きが著しく鈍くなっていたのが原因だった。おそらくレイス家から与えられた酒には睡眠薬の他に身体の動きを麻痺させる薬も入っていたのだろう。それくらいしか身体の動きが鈍くなってしまった原因が思いつかない。つまり、これはレイス家もしくはそれに関係する者の手によるもの。
 首謀者ははっきりしないが、盛られた薬が今になってようやく抜けてきた。ケニーは立ち上がり、気配を探りながら部屋の外に出る。武器は全て奪われており、丸腰の状態だ。また、ここがどこだかも分からない。ただし空気の湿り具合や窓がないことから、地下ではないかと推測できた。
 あの男達の話を信じるなら、ケニーは今後も彼らの『王』に生かされ、使役されるらしい。つまり命の保証だけはあるということだ。しかしエレンは違う。わけの分からぬ『先生』とやらの所へ連れ去られてしまった。一体連れて行かれた先でどんな目に遭っているのか。その身を案じたケニーの背中を嫌な汗が流れる。
 心臓が妙に速く脈打っていた。まるで悪夢を見た時のように。
 いや、これが悪夢ならまだいい。しかしエレンの不在は現実なのだ。
 気配を殺して暗い通路を進んでいると、ふと空気の流れを感じた。ケニーは、くん、と匂いを嗅ぐ。流れてくる空気からかすかに感じられたのは、血と汚物のにおい。――人間が血を流し絶命した時のにおいだ。
「……」
 そうであってくれるな、と一瞬脳裏をよぎった予想を否定しながら、ケニーはにおいの元へ向かう。
 足音を忍ばせながら近付いていくと複数の人間の気配を感じた。今ケニーが歩いている通路の奥、そこに設けられた扉が開いたままになっており、室内の明かりが漏れている。人間の話し声らしきものは聞こえないが、カチャカチャと金属が打ち鳴らされるような音が響いていた。
 悪臭もそこから漂ってきているように思う。
 ケニーはそっと近付いて行った。心臓はどくどくと早鐘を打ち、喉はカラカラに乾いている。手に汗が滲み、胃から口にかけてすっぱいものが込み上げてくる気配がした。
 そして扉まで辿り着いたケニーは息を殺して中を窺う。
「……………………、ッ」
 最初、それが何なのか分からなかった。
 部屋の中には二人の男がいる。彼らはケニーをなぶった奴らと異なり、あまり体格が良くなく、格闘のセンスもなさそうに見えた。そんな彼らが行っているのは、部屋の中に設けられた台の周囲で何かの器具を片付けるという作業。しかし部屋の隅に人間一人なら余裕で包めてしまうくらい大きな麻布が置かれていたので、器具の片付けが終わったらその台の上にいる彼≠布で包んでどこかへ持ち去ってしまうのかもしれない。
 台の上でうつ伏せになってる彼≠ヘ、その体勢の所為で顔を確認することができない。また衣服は背中側からばっくりと切り裂かれ、布どころか背中の皮膚や肉まで背骨に沿うように切り開かれていた。しかし、その開かれた肉の中に本来あるべき白い骨は見えない。それどころか、背骨の先にあるはずの延髄、そして脳までもが、障害となる頭蓋骨を取り払われてごっそりと消失していた。
 完全に生命活動を停止している彼≠フ肉体は、その所為で筋肉も緩み、腸内や膀胱に溜まっていたものがそれぞれ体外へと出てしまっている。血の匂いと混ざり合い、酷い悪臭と化していた。部屋の片付けをしている男達が無言なのもこの臭いが原因なのかもしれない。
 じわじわと現状を理解しながらケニーは息を止める。
 台の上でうつ伏せになっている彼≠フ髪色は黒。切り裂かれた衣服にも見覚えがあった。兵士だった割には細い腰も、すらりと伸びた手足も、ケニーは一番近くで見てきた。
「……ああ」
 絞り出すように掠れた声が出た。
 その声によってケニーの存在に気付いた二人が振り返る。何者だと誰何される前にケニーの足は動きだしていた。
 医療用と思しき器具の中からメスを掴み、容赦なく一人目の喉を掻き切る。やはり戦闘の訓練は行っていないようで、防御も何もできずに相手は倒れた。次いで二人目。ケニーが出入り口の側に立っているため、二人目は部屋から出ることもできない。血をまとって光るメスと表情を失ったケニーを交互に見やり、恐怖で上手く動かない身体を壁にぴたりと押し付けている。股間の布地の色が変わって、失禁していることを示していた。それをからかうこともなく、ケニーは相手の目の前にゆっくりと歩み寄り、そのまま一人目と同じように喉を切り裂いた。
 どさりと倒れる二人目の男。それにもう見向きもせず、ケニーは脳と脊髄を奪われた彼=\―エレンの身体を見下ろす。
「なんだよ……何なんだよ、こりゃあ……」
 まるで出来の悪い標本のようだった。
 いかにも「必要な部分だけ抜き取りました」と言わんばかりの状態だが、どうして人間の中枢神経のみ抜き取られているのか分からない。そもそも何故エレンがこんな目に遭わなければならないのか。どうして。どうしてこんなにも惨いことになっているのか。
「ふざけんなよ……誰が……なんで、こんな……ッ」
 ケニーはエレンの亡骸から視線を逸らせぬままその場に膝をつく。二人の命を奪ったメスが手から滑り落ちてカランと音を立てた。
 頭痛がする。目眩も酷い。吐き気がして、今にも叫び出しそうだった。
 それでも人の死に慣れていたケニーは意識を手放すことなく、やがて再び立ち上がる。片付けの途中だった器具の中から骨を断つためのノコギリを見つけるとそれを手に取り、他にも殺傷できそうな物をいくつか見繕うと、ふらりと部屋を出た。
 ケニーは人の気配を求めて歩を進める。脳裏によみがえるのはエレンを拾ってから今日まで共に過ごしてきた日々の記憶。路地裏に倒れていたエレンを助けたのはケニーだったが、ケニーをただのゴロツキからここまで引き上げてくれたのはエレンだった。妙に息が合って、共にいるのが心地よくて。言葉にしたことはなかったが、おそらく自分達は「パートナー」だった。
 だと言うのに、今はごっそりと胸に穴が空いている。いつの間にかエレンが居座っていた場所だ。そして今、空洞になった場所を急速に浸食し始めているのはエレンが与えてくれた心地よさとは正反対のもの――悲痛、憤怒、憎悪。
「……、してやる」
 もうケニーは足音を忍ばせていない。不審者の接近に気付いた衛兵が廊下の先から姿を現した。ケニーは手に入れた刃物を構え、ニヤリと口元を歪ませる。
 現れた衛兵の顔には見覚えがあった。あれはレイスの屋敷を警護している人間の一人だ。娘の誕生により本宅を離れられないロッド・レイスの命を受け、彼の代理人と共に自分達と同じ馬車で王都にやってきた。その男がケニーの顔を見て剣を抜く。なるほど、どうやらエレンの死にはレイス家が直接関わっているらしい。
「殺してやる」
 エレンに手をかけた者も、目の前に現れた衛兵も、これからケニーが起こす凶行を止めようと駆り出されるであろう憲兵達も、勿論ロッド・レイスも。
 全員殺す。
「俺から大事なモンを奪ったんだ。当然、躾が必要だよなぁ?」
 ニイッと凶悪なまでに口元を吊り上げ、ケニーは一気に走り出した。


 目に入った人間は全て殺し、地上に出たケニーを囲んでいたのは憲兵団の兵士達。
 数多の兵士に囲まれてもなおケニーは敵の喉を掻き切り続けた。その体力が尽きるまで。
 彼が殺した憲兵の数は百名を越し、以後、稀代の殺人鬼として長く王都の住民を恐怖で震え上がらせることとなる。しかしその住民らがケニーの凶行の理由を知ることはなかった。





【幕間】


 グリシャ・イェーガーが一人の人間から取り出した脳と脊髄。それを精製し得られた溶液はガラスのアンプル二本分。一本をレイス家で生まれたばかりの黒髪の女児に投与し、もう一本は予備としてグリシャが保管している。
 これは世界の秘密に迫る鍵だ。
 なぜ人類は壁の中に閉じこもらざるを得なかったのか。なぜ巨人などという存在がいるのか。そういった謎の根源に位置するもの。そしてまた、力そのものでもある。
 グリシャが執刀した青年は自身の身体に秘められた力について詳しく知らなかったのだろう。おそらくは肉体の常軌を逸した回復力くらいしか認識していなかったと推測される。でなければのこのことロッド・レイスの元になど留まらなかったはずだ。
 青年の中枢神経から精製された溶液。それを投与された者は青年の身に宿っていた力を得る。そして、その力でもってこの壁の中の世界の秘密を守り、また秩序を守るのだろう。意思の操作・記憶の改竄という、褒められた手段ではないけれど。
 一人を殺し、多くを助ける。
 グリシャの行為は必要なことだった。
 しかし。
「……」
 どんなに理由を並べ立てても、この手で命を奪ったという事実が消え去ることはない。





【6】(prologue)


 顔をしかめたくなるような酷い頭痛を伴って意識が浮上する。頭だけでなく身体もそこらじゅうが痛い。怒りに身を任せ限界を超えて酷使された筋肉は当然のように異常をきたしているし、数多の憲兵団に包囲されて痛めつけられたのだから、痛くない方がおかしいのだが。
(痛いってことは生きてるってことだよな……)
 そう、ケニーは生きていた。
 百人以上の憲兵を殺害したにもかかわらず、その場で処刑されることなく、こうして治療を施されベッドの上で仰向けになっている。
(なんでだ)
 エレンは殺されてしまったのに。彼が一体何をしたというのだろう。
 地下で見た無惨な亡骸の姿を思い出し、ケニーは吐き気を覚えて胃の辺りに爪を立てた。じわり、と腹に巻かれていた包帯に血が滲む。生きている証だとでも言うように、脳天に突き刺さる痛みが走った。
「な、んで……」
 しわがれた声を出す。満身創痍の身体にとって声を出すことは血を吐くようにつらいことだったが、構わずケニーは喋り続けた。
「なんでだ。なんで俺は生きている」

「それは君がまだ使える$l材だからだ」

「……あ?」
 応えがあった。
 どうやら痛みと悲しみの所為で他人の気配を察する機能すら落ちていたらしい。
 ケニーがゆっくりと声がした方に視線を向けると、そこにはケニーらの雇い主でありエレンを殺した諸悪の根源でもあるロッド・レイスが立っていた。
「ッ、キ、サマ……!」
「落ち着け。傷に障る」
 どの口でそれを言うのか。
 怒りと憎しみで奥歯をギリッと噛みしめながらケニーはロッド・レイスを睨みつける。人を殺してしまいそうなほど強い視線を受けた男は僅かにたじろいだものの、逃げることなく言葉を続ける。
「もう一度言おう。君が数多の憲兵を殺害してもなおこうして生きていられるのは、君が私にとって……いや、この世界にとってまだ使える人間であるからに他ならない」
「はっ……じゃあ、エレンが死んだのは、あいつが使えない人間だったからだって言うのか? あいつは俺と同じくらい強かっただろうが」
「そうだな。その通りだ。もし彼が普通の人間であったなら、私は彼を雇い続けただろう」
 ロッド・レイスの言い方には妙な引っかかりがあった。
 まるでエレンが普通の人間ではなかったとでも言いたげな発言である。
「あいつは……」
 ケニーは無意識に尋ねていた。
「エレンは何のために死んだんだ」
 問いを真正面から受けたロッド・レイスが目を眇める。そして言った。「君にも思うところがあるんじゃないのか?」と。
「……傷の治りが異様に早いことか? だがその程度で!」
「その程度で脳と脊髄を取り出したりはしないさ。それは私が彼の特殊性に気付いた理由でしかない。ケニー・アッカーマン君、彼はね、特別な力を持っていた。おそらく本人すら知らなかっただろうが。しかし本人に自覚があろうとなかろうと、その力はこの壁の中の世界を守るためにどうしても必要なものだった。だから私は彼の力をこのレイス家に取り込むため、必要な処置を行ったのだ」
「…………」
 わけが分からない。同時に、理解もしたくない。
 叶うことなら、ケニーは今すぐ両耳を塞いでしまいたかった。
 しかしその一方で聞かずにもいられない。ロッド・レイスはエレンの死の理由を知っている。あの理不尽な死に、エレンの死に、意味と価値を与えることができるのだ。
 死んだものは元に戻らない。ならばせめて、その死を正当化できるほどの理由があってもいいではないか。そうでなくてはエレンが何のために殺されたのか。
「教えろ……」
 ケニーは痛みに耐えるように硬く目を瞑る。
「どうしてエレンは殺された。お前はあいつから奪ったもので一体何をする気だ」
「最初に言っておく。これを聞いた君はきっと自ら望んで私に忠誠を誓うだろう。それが君の大切な人の死に意味を与え、その意味を永遠に守り抜くことになるだろうからな」
「良いからさっさと言えよ、クソ野郎」
「そうだな。まずこの世界の成り立ちから話そうか――」


 そうして、ロッド・レイスは人類の秘密を明かした。
 なぜ人類は壁の中に籠もっているのか。巨人の正体。壁が一体何で作られているのか。そして、不自然なほど安寧を保ってきた人類の、その維持方法。エレンが持っていた力と使い方。大規模な意識操作。


 全て聞き終えたケニーは両手で顔を覆い、小さな声で呟く。
「クソだな」
「だか君はそのクソな世界を維持する私に従うしかない。彼の死を無駄にしないためにはね」
「……」
 まったくもってロッド・レイスの言う通りだった。
 目の前の男の話が本当ならば、エレンが殺されたのは壁内世界を安定させるため。つまり壁内世界が安定し続ければ、エレンが死んだことにも意味がある。そうでなければエレンの死は無意味で無価値なものになってしまう。そして、壁内世界の安定に尽力するにはロッド・レイスに従うことが最も効率の良い方法だった。
「私の言った意味が分かったかな? 君は使える$l材だ。君にとって彼はとても……おそらく君の人生の中で一番大切な存在だった。その彼の死の意味を守るためなら、壁内世界の安定のためなら、君は何でもするだろう。君にとって彼の死が無意味になることより悪いことはないだろうから」
「……」
 ケニーは黙したまま答えない。
 けれどもロッド・レイスにとってはそれで十分な答えになったようだった。
 男はケニーに背を向けて部屋を出る。ただしドアノブを掴んだまま一度だけ振り返り、
「今は傷を癒すことに専念すればいい。身体が動くようになったら、君の大切な人の死の意味を守る方法と立場を与えよう」
 そう言って、ロッド・レイスは姿を消した。
 部屋に残っているのはケニーのみ。その拳は固く握られ、解かれることはない。
「本当にクソみてぇな世界だな、ここは」
 嘲弄するように告げる。
 それでもここから逃げ出す気にはなれなかった。





【7】(after prologue or before epilogue #1)


 リヴァイは幼い頃にケニーと出会い、戦う術を――正確に言えば人を殺す術を――叩き込まれた。
 切り裂きケニーと呼ばれた狂人がなぜ一人の子供を育てようとしたのか。一度だけ尋ねたことがある。その時、ケニーは酒に酔っていて、けれども思考の海に沈むように何の表情も浮かべてはいなかった。
 グラスの中の氷をカランと揺らして、狂人はぽつりと答える。

「この世界を守るためだ。俺が使えなくなっても、俺の育てたヤツが使える人間≠ナあればいい。そいつが使えなくなったら、そいつの育てたヤツが……。そして延々とあいつの死≠フ意味を守り続ける」

 それを聞いてリヴァイはすぐに冗談だと理解した。しかもとてつもなく性質の悪い冗談だ。
 数多の人間を殺したヤツが一体何を守るって?
 リヴァイは鼻で笑い、「酔っぱらいはさっさとクソして寝ろよ」と言ってその場を去る。真面目な顔をするから何事かと思えば、ろくでもない冗談が返ってきた。
 あまりにも馬鹿馬鹿しくて力が抜けた。リヴァイもまた寝てしまうことに決める。そうしてケニーの言葉に重要な意味を感じ取らなかったリヴァイは、この夜のことなどすぐに忘れてしまった。





【8】(after prologue or before epilogue #2)


 グリシャ・イェーガーは逃げ出した。己が重ねた罪の重さに耐えきれず。
 レイス家を出た彼の荷物には、破損しないよう厳重に保護されたガラスのアンプルが一本含まれている。それは、レイス家に残していくことで誰かが悪用するのを防ぐためであり、またこの先何かが起こった時に対処するためでもある。少なくとも、グリシャはアンプルを破壊せず持ち出したことに対してそう理由を付けていた。
 彼はまだこのアンプルの中身をいつ、どこで、誰に使うのか考えてもいない。自身が逃げ延びたウォール・マリアで金色の目をした一人の女性と出会うことすらまだ知らない彼には、考えられるはずもないことだった。
 しかしグリシャの行動によって、壁の中だけで完結し停滞していた世界はすでに動き始めている。
 人類の解放と秘密の暴露、そして数多の悲劇を内包し、物語は目を覚ます。





【9】(before epilogue)


 ケニー・アッカーマンは、巨人化能力と他者の意思を操る能力を備えた少年兵エレン・イェーガーの顔を見て、また初めて意志の強そうな少年の金色の瞳に見つめられて、心の中で「ああ」と呻いた。それは嘆きにも歓喜にも似ている。本人すらその二文字に込めた思いを正しく理解することはできない。
 ただ、ケニーはこの瞬間に理解する。
 かつて自分が出会った青年の正体を。大いなる時の流れの悪戯を。そして、この少年兵の末路を。

「よう、エレン」

 もう何年も使っていなかった呼びかけの声は自然と口を突いて出る。
 かつてケニーは大切な存在をそう呼んでいた。しかし今、その対象がケニーに笑顔を見せることはない。長い間棺桶の中で拘束されていた彼は警戒心を露わにした大きな瞳でこちらを見返すのみ。
 切なくて、悲しくて、憎らしくて、それから、胸が張り裂けそうなくらいに愛おしい。
 しかしぐるぐると胸中に渦巻く感情を一片たりとも悟らせることなく、ケニーは歪んだ笑みを浮かべた。






死せる君への







2014.09.13 pixivにて初出