「ペトラさん、すみません。味見していただいてもいいですか?」
「いいよ。…………うん、ちょっと薄味だけどあんまり塩は贅沢に使えないしね。これで完成じゃない?」
「わかりました。ありがとうございます」
 ペトラから小皿を受け取ってエレンは頭を下げ、それからスープの鍋を火から降ろした。自分達が拠点にしている古城は大きな調理場を備えているので、鍋でも何でも置き放題だ。
 切った野菜と申し訳程度の肉が入ったスープはごくごくシンプルなものであり、調味料の量さえ間違わなければ失敗などしない。また塩が貴重品の一つになっているこの世界でうっかり味が濃くなるような事態に陥るはずもなく、エレンが調理したスープに関してペトラがほんの僅かでも違和感や疑問を抱くことはなかった。
 だがエレンは火から降ろした鍋を適当な調理台の上に置いた後、スープを小皿に取って口を付け、
「……」
 ペトラには分からぬよう顔をしかめた。
 舌が感じるのは小皿に取ったことで適度な温度に冷まされた液体に関する『触覚』だけ。ペトラが評した通りに薄味かどうかは全く分からなかった。
(やっぱ味しねぇよな)
 胸中で呟くのもこの五年間ですっかり慣れたものである。
 スープの具の部分は掬わなかったので、口に含まれたあと喉へと流れ落ちたのは水分のみ。液体が唇に触れた瞬間から胃へと移るまでの間、エレンが感じられるのは熱い・冷たい、硬い・柔らかいといった『触覚』に分類されるものだけで、甘い・酸っぱい・苦い・しょっぱい等の『味覚』はその気配すら感じられなかった。
 原因は分かっている。
 五年前、目の前で巨人に母を食われたからだ。
 あの日以来、エレンの舌は食べ物の味を正しく認識することができなくなってしまった。
 エレンがこの異常事態を肉体的な要因――たとえば開拓地での貧しい食糧事情により栄養が十分に摂取できず、舌の機能が低下することがある――と考えず、精神的な要因によるものだと判断したのは、全てのものに関して味が分からないわけではなかったからだ。
 エレンの舌が唯一味を感じるもの……それは、巨人が口にするものと同じ、『人間』だった。
 無論、エレンは人間など食わない。現在のように巨人化できる兵士として監視がつく前は、自らに小さな傷を作り、そこから滲み出る血を舌で掬って満足していた。
 血液など決して美味いものではない。鉄臭さと塩気が合わさったあの何とも言えない味は、エレンの記憶の中にある『食事』から遠く離れたところにある。しかし人間の血肉だけしか味を感じられなくなると、もうそれに頼らざるを得なくなってしまうのだ。
 とは言っても今のエレンが無味の食事に不満を感じ、代わりに己の血で満足しようと思っても、それは許されていない。自傷が巨人化のトリガーであると判明しているため、エレンは徹底的に自傷を禁止されていた。おかげでトロスト区の一件からこちら、エレンはずっと『味覚』が機能していない。
 視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚。人間にはこれら五感と言われるものが備わっている。見て、聞いて、触って、嗅いで、味わう。
 先天的に、または後天的に一部を失う者は勿論この壁内世界にもそれなりにおり、彼らは不自由はあれど普通に生活を送れているだろう。しかし、元々持っていたそれらのうちどれか一つを急に欠いてしまうと、人間は精神的に不安定になることが多い。
 それは圧倒的に強い精神力を持つエレンでさえ同様だ。他人よりも程度は低いかもしれなかったが、その分を補って余りあるストレスがその身にかかっている。つまり、いきなり巨人化能力などというものに目覚め、四六時中監視がついている異様な状態に置かれているため、エレンの負担は相当なものだということ。
 こめかみから後頭部にかけてチリチリとした疼きが走る。更には、二の腕から指先にかけても。不快としか言い様のない感覚だが、間違って巨人化するリスクを考慮すれば、唇を噛むことすらできやしない。
「エレン、どうかした?」
 身体の動きを止めていたエレンを訝しんだペトラが声をかける。エレンは首を横に振って大丈夫ですと答え、班員分の器を揃えるために食器棚へ手を伸ばした。
 まさか彼女に「血の味を感じたいのでちょっとあなたの指先を切ってもらってもいいですか?」などと言うわけにもいくまい。そんな言葉を告げた途端、エレンは異常者の烙印を押され、せっかく打ち解け始めたリヴァイ班のメンバーからは蔑みと畏怖と嫌悪の視線を向けられるだろう。
 考えるだけで公に捧げたはずの心臓が痛む。
 巨人化能力が発現したエレンにとってリヴァイ班こそが仲間――エレンを孤独にしない人達、だ。それを失うならば、味覚の欠落くらい耐えてみせる。エレンはエレンのために耐えなければならないのだ。
 日に日に、刻一刻と、強くなり範囲も拡大していく疼きを無視して、エレンは食器棚から取り出した器にスープをよそい、配膳する。ペトラが作っていたジャガイモのサラダも受け取って、食堂のテーブルヘ運んだ。


 食事を終えて片付け、身も清め終わった後。適当な時間にエレンは地下牢へと戻る。監視者たる兵士長のリヴァイはそれから少し遅れてやって来て、エレンの手に枷をつけ、出入り口の鍵を外からかけるのだが、今夜は少し様子が違った。
 味覚異常からの疼きが収まらず、自身の二の腕をエレンがさすっているのを見咎めたリヴァイは、ランプだけの薄暗い空間で青灰色の双眸をすっと細めた。
「どうした。寒いのか?」
「いえ、室温は問題ありません」
「しかし最近よく腕をさすっているようだな」
 そう言われ、エレンははたと目を見開く。
「異常があればすぐに俺かハンジヘ報告するよう言ってあったはずだが」
「っ、異常はありません。何も」
 こんなにも無味の状態が続いたのは初めてのことで抑えが利かなくなっていたようだ。そのことに気付き、エレンは顔を青褪めさせる。
 地下室を照らすのは光の弱いランプ一つであり、顔色の変化がリヴァイに知られることはないが、その代りにエレンが動揺した気配はしっかり伝わってしまった。チッと大きな舌打ちが一つ聞こえ、リヴァイがエレンに近寄ってくる。
「おい」
「は、はい!」
 不機嫌さを隠しもしない地を這うような低い呼びかけの声に、エレンの背筋がぴんと伸びる。
「エレンよ、何隠してやがる。正直に吐け。てめぇにはその義務がある」
「し、……しかし、巨人化に関することじゃありません。それで兵長やハンジさんのお手を煩わせるわけには」
 視線を逸らしながらエレンはしどろもどろにそう答える。だが、それに対する反応は先程のものよりもっと大きくなった舌打ち。びくり、とベッドに腰掛けていたエレンが肩を竦ませると、そのすぐ横のマットが沈んだ。リヴァイが片膝を乗せたのだ。
「関係の有無は俺が判断する。お前じゃねぇ。吐け。隠し事は反逆の意志ありと見做されるぞ」
「……ッ!」
 巨人化の力を欲している調査兵団がそう易々とエレンに『反逆の意志あり』のレッテルを貼るわけがないと解っているが、それでも鋭い眼光に至近距離から睨み付けられれば、心臓が縮みそうになる。
「へい、ちょ……」
 レッテルか。蔑視か。
 二択のように見えて、これは二択ではない。エレンは覚悟を決めるように一度目を閉じた。
 リヴァイに気付かれた時点でエレンに秘密を隠し通すという選択肢などあり得ないのだ。この眼光に睨まれて沈黙を続けることは不可能。
 エレンは控えめに深呼吸をした後、ゆっくりと目を開ける。
「兵長、先にこれだけは言わせてください。オレに反逆の意思はありません。オレの望みは兵長と初めて言葉を交わしたあの時と同じ、巨人をぶっ殺すことです。人間を傷つけるつもりは微塵も持っていません」
「ああ、分かっている。あの時のお前の目も言葉も本物だった。それは疑っちゃいねぇ」
「ありがとうございます」
 随分と近くにある青灰に向け、金眼を細める。それからもう一呼吸。
 味覚異常のことはミカサやアルミンにも告げていない。言えば二人ならきっと心配し、エレンの自傷を厭って自ら傷を作るだろうことは簡単に想像できたからだ。
 当時のエレンは自分のために大切な二人が傷を作ることを望まず、また更に自分が他人の血を口にすること≠とてつもなく恐ろしいものだと感じていた。他者を食べるのは巨人と同じに見えたのだ。そして、それは今も変わらない。
「オレが腕をさすってしまうのは、寒いとか痛いとか、そういう理由じゃありません。オレの身体から欠けてしまった機能を誤魔化すための行為です。こめかみとか、頭の後ろとか、腕とか、ずっと疼いていたから」
「機能が欠けただと?」
「はい。五年前、母が巨人に食われるのを見た瞬間からオレの『舌』は正常に機能しなくなりました。食べ物の味が全然分からないんです」
「だがお前も料理の当番は回ってくるだろう?」
「その時は一緒にいる人に味見を頼んでいました。今日の夕食もペトラさんに」
「なるほど。それで、舌が馬鹿になったから身体の調子がおかしいと? だったら五年前からずっとそうなっているはずだろう。お前のその分かりやすい異常行動について報告書には一切書かれていなかった」
 やっぱり調査兵団に所属するにあたって調書とか作られてるんだなぁと思いながら、エレンは「お察しの通りオレの異変はここ最近のものです」と答える。
「オレの舌は味を感じなくなりましたが、たった一つだけ感知できるものがあります。五年間ずっとそれのおかげで、なんとかマトモを装ってこられました」
「ほぅ……その口ぶりだと、お前の舌が味を感じられるたった一つとやらが問題なわけか」
「はい」
 こくりと頷き、エレンはとうとうそれを告げた。

「オレの舌が唯一味を感じられるもの。それは、人間の血肉です」

 ギシ、とベッドが小さく鳴った。リヴァイの動揺をその音から察知し、エレンは慌てて言葉を続ける。
「で、でも! オレは他人の血も肉も食ってませんよ。今まではずっと自分の指とか口の中とかを噛んでちょっとだけ出血させてたんです。全然美味くねぇし、オレだって好きで味わってたわけじゃありませんけど、これでもやってないと本当に狂いそうになるんです。メシは何食っても砂か綿でも噛んでるみてぇで。けど自傷するなって言われてからは一つもしてません。ずっと我慢しています」
 いつの間にか下へ下へと下がっていた視線は今やリヴァイの顔を逸れて相手のへその辺りヘと向けられている。今更かもしれないが距離が近いなと思った。いつでもその両手だけでエレンの首を絞め殺せる位置だ。
 それを自覚した途端、エレンの血液がザッと音を立てて下がった。
 リヴァイがエレンを敵だと判断した瞬間、この命は消されてしまう。
「本当です! 捧げた心臓に誓って、オレは味を感じるために他人を傷つけたことはありません! それを望んだこともありません! これからだってそうです! 今はちょっと腕とか頭とか疼いて触っちゃいますけど、それももう我慢します! だ、だってオレは人間ですから! 巨人なんかじゃありません! 人間の血を美味いと感じたこともないし、他人を食べたいと思ったことだって……!」
「エレンよ」
「ッ!」
 リヴァイに両方の肩を掴まれた。首に近いその場所に強者の手が来たことでエレンの言葉が止まる。
「り、リヴァ」
「落ち着け。そう怯えるな」
 だがエレンの緊張に反して、リヴァイの声は初めて聞く穏やかなものだった。
「信じてやるよ」
「え……?」
 視線を上げると青灰色の双眸はほんの少しだけ笑みの形に細められており、エレンは純粋にびっくりして金色の目を丸くする。
「エレン・イェーガー」
「は、はい」
「お前は巨人になれる兵士だが、巨人そのものじゃねぇ。あいつらは人間を見境なく食うが、お前は違う。母親の死に様を見て味を感じる機能がおかしくなっちまっただけの人間だ」
「は、い」
 リヴァイに受け入れられた。ただそれだけでエレンの胃や肺を押し潰そうとしていた鉛のような塊が消えていくのを感じる。
 血肉の味しか感じられないという事実に加え、巨人化の能力まで手に入れたエレンは己をたった一つの異物だと感じ、また周囲からもそう見られていると感じ続けていた。己は異物だ。己は孤独だ。
 壁の中を安全と信じ切って家畜のような安穏とした生活に溺れていた民衆と同じになってしまうのを心底嫌っていたエレンだが、それでもあの『世界にとって異物であり不要物だ』という扱いをされるのは、その精神に多大なる負荷をかけていた。
 その負荷をリヴァイの言葉が消していく。
「だが今後一切何の味も感じられないってのは良くねぇな……」
「へいちょう?」
 独り言のように呟かれた言葉を聞き、エレンは首を傾げた。
 青灰がエレンと視線を合わせる。
「現にお前は俺が気付けるような行動に出ちまってる。しかし自傷はさせられない」
「ですから、それはこれからオレが我慢を」
「できそうにねぇから対策が必要なんだよ」
 きっぱりとそう言ってから、リヴァイはふと良案を思い付いたように眉間の皺を薄くした。
「お前以外の血を使うか」
「! そ、それは! オレは巨人じゃないから他人の血も肉も要りません!!」
 咄嗟に反論するエレンヘリヴァイが苦笑を見せる。
「そうだ。さっきも言ったが、お前は巨人じゃねぇから見境なく人間に手を出したりしてねぇ。きちんと理性を持って、自分が頼らなきゃなんねぇ相手を知っているはずだ」
「頼らなきゃなんねぇ相手……?」
「ああ、そうだ」
 エレンの両肩を掴んでいた手が片方だけ離れ、それはしゅるりと僅かな衣擦れの音と共にリヴァイの首に巻かれていたクラバットを解く。
「え、あの。へいちょう?」
「お前は俺を頼るんだ。たった一人だけ……俺になら、お前は頼ってもいい」
 クラバットを取り去ると、リヴァイはボタンを上から二つ目まで外し、首筋をエレンの前に曝け出した。
「俺の血を分けてやる。ただし刃物傷は駄目だ。俺に自傷癖があるとか他人が俺の命を狙っているとか、そういう噂は立てたくねぇからな。だからここを思い切り噛め。ここなら普段、服の下に隠れているし、もし見られてもまさか血を出すためにつけられた傷だとは誰も思わないだろう」
 場所と傷の形から、情事の痕だと勘違いするはず。
 そう付け足してリヴァイは小さく口の端を持ち上げる。
「え、え、ええ!? 兵長、それは!」
 目の前に曝け出された大人の男の首筋にエレンは得も言われぬものを感じ取り、何故か顔が赤くなる。
「だめですだめです! 兵長に傷をつけるなんて! それだったらオレ死ぬ気で我慢しますから!」
「あ? 俺が良いって言ってんだから素直に甘えろよクソガキ。ほら、血が欲しいんだろう? お前のその厄介な疼きが収まる唯一の方法だ」
「……ッ」
 ごくりと喉が鳴る。
 エレンは人間の血が決して美味いものではないことを知っている。しかしずっと我慢していた味覚の復活に、頭を置き去りにして身体の方が早くも歓喜の声を上げていた。
「エレン」
「ひ!」
 耳のすぐ傍でリヴァイに名を呼ばれる。
「お前は頼って良いんだ」
「リ、ヴァ」
「お前は、俺になら@鰍チても良いんだぞ」
「へいちょう、に、なら?」
「ああ。お前は巨人じゃねぇから他人の血を啜るなんてできやしねぇ。だが俺はお前に関する全権を任されている。お前には俺がいる。お前には俺しかいない。分かるな? お前には俺だけだ」
「へいちょう、だけ……」
 欠けた五感を補うようにざわざわと全身が疼いていた。それをリヴァイなら鎮めてくれるのだ。
「エレン」
 肩を押さえていたもう一方の手も外れ、エレンを促すように後頭部へと添えられる。じゅわ、と口の中に唾液が溢れた。
「さあ、エレン」
 耳元でリヴァイが笑う。
 その声に操られるようにして、エレンは眼前の首筋へと顔を近付けた。
「へいちょう」


 がぶり。






* * *

 ようやく感じられた味と収まった疼きに安堵したのか、エレンはリヴァイに抱えられたまま眠りに落ちた。その口元はリヴァイの血で赤く濡れている。
 今後、エレンはリヴァイを頼るだろう。
 リヴァイだけを頼るだろう。
 金色の美しい目を蕩かせてリヴァイの血を啜るその様を想像し、男の口元がくっと持ち上がる。
 リヴァイはエレンの身体を抱え直すと、親指で赤く濡れた唇を拭った。
「エレン……」
 この新兵のトラウマとそれに端を発する味覚異常には少しばかり驚いたが、リヴァイはすぐにこれを僥倖だと思った。
 人であろうとする子供が他人の血肉を求めるはずがなく、頼れるのは自分自身だけだった。しかしそんなエレンに唯一縋れる相手ができた。勿論、リヴァイのことである。
 エレンはこれから、リヴァイにだけなら頼ることができる。
 この美しく、異質で、孤高で、巨人など及びもしない至高の化け物が、リヴァイだけをその特別に据えるのだ。
 この高揚。この恍惚。笑うなと言う方が無理だろう。
 リヴァイはうっとりと両目を細め、眠り続けるエレンの頬を撫でた。
 あの地下牢で一目見て心奪われた存在が、今や己の腕の中。鳴呼、と漏れ出た呼気は想像以上に熱く、濡れている。
「これでもうお前は俺から離れられないな」






依存性ブラッド







2014.08.05 pixivにて初出