【0】


 地下街の人間が簡単に壁を超えることはできない。いくら昨今の駐屯兵団がだらけきっているとは言え、各扉に設けられている関所ではやはりどうしても身元確認をされてしまうからだ。
 ゆえにその男もそれ≠思い出してすぐ行動に移すことはしなかった。男はいずれ自分が得ることになる地位を知っている。ならば壁を超えることができる地位を得た後で、堂々と目的地へ向かえばいい。
 黒々とした隈を目の下にこしらえた男は病的なまでにギラついた双眸でじっと一点を見つめる。一見するとそこには何もない。だが男の脳裏には三つの壁を越えた先にいるたった一人の最愛が確かに描かれていた。
「エレン……。今度こそ、お前をクソな運命から解き放ってやるからな」
 闇が凝(こご)ったような声で告げた男は、この地下世界で『地下街最強』と呼ばれている。いずれ『人類最強』とまで称されるようになる男の名を「リヴァイ」と言った。


【1】


 845年――。
 壁外から帰還した調査兵団に向けられる民衆の目は嘲笑と蔑みに満ちている。無駄死に。税金泥棒。そういった言葉が口々に彼らから漏れ、多くの仲間を失い自らもまた負傷した兵士達の傷を抉った。
 三つの壁に囲まれた人類生存圏の最南端、シガンシナ区。調査兵団の出発地でもあるここは、良くも悪くも一般人と調査兵団の距離が近い。シガンシナの大人達は内地で調査兵団を嘲弄する下手な貴族より悲惨な実情を知っていたし、逆に子供達は昼から酒を飲む駐屯兵団とは比較にならない勇ましさを持つ調査兵団に憧れの視線を向ける。
 今回の帰還でもそれは変わらない。
 成長してある程度世間を知った者は調査兵に負の感情を抱き、まだ幼い子供らは正の感情を抱く。
 シガンシナ区で生まれ育った少年、エレン・イェーガーも例に漏れず、後者の一人だった。
 それどころか壁外を自由に冒険することを夢見ているエレンは、他人よりも更に強い憧れを調査兵団に抱いていた。自分も大きくなったら調査兵になり、壁の外の世界を目にするのだと誓うような子供だ。
 家の手伝いである薪拾いを終えてその薪を背負ったまま調査兵団の帰還を出迎えたエレンは、あまり雰囲気の良くない群衆に紛れこむようにして彼らを眺める。母と同じ金色の大きな瞳はキラキラと輝いていた。
 しかしすぐ傍に立っていた男性が調査兵団を愚弄するのを聞き、憧れに満ちていた表情が一瞬にして憤怒に染まる。
「調査兵団を悪く言うな!」
「ッ、このクソガキ!」
 思わずその男の足を蹴りつけると、大きな手がエレンを掴まんと迫ってくる。背負っていた薪を掴まれたが、瞬時にそれを肩から落とし、身軽になったエレンは路地裏へと逃げ出した。報復し損ねた男が後を追ってくる。
 共に調査兵団の隊列を見に来ていた少女、ミカサの黒い瞳がその光景を追う。エレンは彼女に名を呼ばれたが、「先に帰ってろ!」と叫ぶだけだった。返答は聞かない。
 スピードも体力も大人の方がずっと上だが、子供であるエレンは小さな身体を活かしてどんどん狭い方へと逃げる。「待てコラァ!」とドスのきいた声を背中に受けながら、最終的に大人では決して入れないような建物と建物の隙間に身を滑り込ませ、なんとか撒くことができた。
 狭い場所から抜け出すと、ギリギリ大人二人が並んで歩けるくらいの道に出た。人通りがなく見覚えのない道だが、シガンシナ区であるならば家に帰れるだろうと楽観的な考えでエレンは一歩踏み出した。
 その直後。
「あ……」
 視界の端をよぎった深緑のマント。その背中に重ね翼が描かれていた気がして、エレンはとっさにそちらを振り向く。
「いない……?」
 だが視線を向けた先に人影はない。エレンは最初自分が向かおうとしていたのとは逆方向に足を踏み出し、見間違いかもしれない人影を追った。
 十メートルほど先に十字路がある。もしかしたら人影はそれを曲がったのかもしれない。タッタッタッと子供らしい軽い足音を立てながらエレンは徒歩から徐々に小走りへと変える。そして十字路に辿り着くと、
「いた!」
 また別の曲がり角に姿を消す深緑のマントの端を見つけて追いかける。
 それを数度繰り返すうちに、エレンは自分が全く知らない場所に潜り込んでいた。だが先程も思ったように、ここはシガンシナ区。壁に囲まれたこの地区は壁外へ向かう扉か内地へ向かう扉の二つしか設置されておらず、どんなにぐるぐる動き回っても知らずに区の外へ出るようなことは有り得ない。おかしな所へ迷い込むはずもなく、エレンは気にすることなく調査兵らしき人影を追う。
 しかし幾度目かの角を曲がった時、
「あれ?」
 エレンは完全に人影を見失ってしまった。
 これまでまるでエレンを誘うように≠ミらひらと揺れていたマントの端も見当たらない。足を止めたエレンはその場できょろきょろと周囲を見回す。
 そんなエレンの背後に音もなく誰かが現れる。
 自分の頭上に差した影に気付き、エレンが振り返ろうとした瞬間――。
「ッ……ぅう」
 背後から他者の腕が回り、口に何かを押し当てられる。布だ、と気付いた時にはそこに染み込ませていた揮発性の高い液体を吸い込んでしまっており、視界が一気に霞む。意識が朦朧とし、手足の力が抜けた。
「…………っ」
 小さな身体が地面の上にくずおれるより早く何者かがその身を受け止める。動きに合わせてひらりと揺れたのは深緑のマント。
 成人男性としては小柄だが、鍛え上げられた身体を制服の下に隠したその人物は、自らここまで誘い出し気絶させた子供を隈の浮いた双眸で愛おしそうに見やる。
「エレン」
 甘く、そして切なげに。その名を呼んだ人物はエレンの髪に唇を落として、鋭い目つきをふっと緩めた。
「今度こそ、お前を――」

* * *

「あたま、いってぇ……」
 頭の中でガンガンと大きな音が鳴っているような痛みにエレンは顔をしかめる。
 酔いどれ駐屯兵団が時折口にしているような二日酔いとはこんな状態なのだろうか。ならば今後は二日酔いで苦しんでいる大人にもう少し優しく接してやった方が良いかもしれないと思ったエレンだったが、自分がこんな痛みを覚える羽目になった経緯を思い出して一気に目が覚めた。
「ッ、ここは!」
 大きく見開かれた金眼に映り込むのは見知らぬ部屋。エレンが寝かされていたベッドの他には簡素な机と本棚、小さなクローゼットしかない殺風景な空間である。
 全く見覚えのない場所にザッと血の気が引いた。
 エレンは街中で調査兵団のマントらしきものを見かけ、それを追いかけていたはずだった。しかし背後から何者かに襲われ気絶し、記憶はそこで途切れている。だとすれば、この部屋は誘拐犯がエレンを閉じ込めるために用意したものなのか――。
 かつて強盗殺人犯と対峙した時のように、怒りと警戒がエレンの中で炎のように燃え上がる。気絶させる時に使われた薬が残っているのか、頭の痛みはまだとれないが、それを圧してベッドから抜け出した。
 まずは陽光が差し込む窓へ近付く。エレンの体格ならば容易に抜け出せるくらいの大きさだったが、地上へと視線をやれば確実に三階以上の高さがあったので、ここからの脱出は不可能だ。ならば、と今度は反対側の扉へ向かう。
 ノブに手を掛けると、扉は呆気なく開いた。鍵もかかっていなければ、鎖等で扉が動かないよう固定されているわけでもない。こちらを全く拘束する気がないその状況にエレンは首を傾げる。
 そっと扉を押して自分が通り抜けられるだけの隙間を開けると、エレンは気配を窺いながら外に出た。
 左右に広がるのは長い廊下。エレンがいた部屋と似たような造りの扉が等間隔に並んでいる。目に見える範囲に人影はなかったが、別の階や地上からは物音や人の声らしきものが聞こえた。
 ひょっとして自分はここに誘拐≠ウれてきたわけではないのだろうか。エレンの胸にそんな思いが去来する。
 そしてその答えを示すように、廊下の反対側にある窓から外を見下ろすと、視界には見慣れた制服姿の者達が映った。
「調査、兵団……?」
 薔薇でも一角獣でもなく、翼の紋章を背負う制服。それをまとった者達が中庭らしきそこを歩いていた。
 と、その時。エレンの耳に新たな音が飛び込んでくる。階段を上がってくる何者かの足音だ。そちらへ視線を向けると、ちょうど階段を上りきった人物がエレンを見つけて三白眼をほんの少しだけ見開いた。
「起きていたのか」
「え……」
「体調はどうだ? 気分が悪いとか、身体が痛いとか、そういうのは無いか?」
 近付いてきたその人物は視線を合わせるようにエレンの前で膝を折り、そっと頬に手を添えた。
「あ、の」
「ん?」
 戸惑うエレンにその人物は小首を傾げて先を促す。
「ここは……」
「ここはウォール・ローゼ内にある調査兵団の兵舎だ。昨日壁外調査から戻ったばかりで少しバタバタしているからうるさいとは思うが、どうか我慢してくれ」
「あ、はい」
 反射的にエレンは頷く。
「えっと、あなたは一体」
「俺はご覧の通り調査兵団の兵士だ。リヴァイと言う」
「リヴァイ、さん」
「そうだ。お前は?」
「エレン。エレン・イェーガー、です」
「エレンか」
 調査兵――リヴァイは名乗ったエレンを褒めるように、頬に添えていた手で頭をゆっくりと撫でた。
「リ、ヴァイ、さん。オレ、どうしてこんな所に?」
「壁外からシガンシナ区に戻ってきたら狭い路地でお前が倒れているのを見つけた。場所も気の失い方も不自然だったから用心してここに連れてきたんだ。どうしてあんな所にいたのか覚えているか?」
「あ、はい。調査兵団が外から帰ってきた時に、緑のマントが見えて、それを追いかけていたら後ろから知らないヤツが、こう」エレンは手で口を覆うような仕草を見せる。「何かを染み込ませた布で口を覆われたのは覚えています。でもそこから先は……」
「気絶して分からない、か」
「はい」
「服が乱れた様子はなかったから乱暴はされてねぇと思う。盗られたものはないか?」
「元々何も持ってなかったので大丈夫だと思います」
「そうか」
 答えたリヴァイはそれから「悪かったな」と告げた。
「本当なら近くの駐屯兵団の詰所に預ければ良かったんだが、まぁ、俺達は調査兵団だから。どうにも他兵団とは折り合いが悪くてな。お前を拾ったはいいが、シガンシナ区の外に連れて来ちまった」
「いえ、助けていただいただけで十分です。ありがとうございました」
「礼なら不要だ。だがもしくれるなら、お前を家に帰してからにしてくれ」
「はい!」
 少し目つきは悪いが、リヴァイは随分良い人であるらしい。隈の浮いた双眸をふっと緩めて笑う大人にエレンも笑みを返す。
「親御さんに使いの者を寄越そう。家の場所を教えてもらって構わないか?」
「はい」
「よし、じゃあひとまず部屋に戻るぞ。あと、エレンよ、お前まだ体調が万全じゃないんだろう?」
「あ……」
 エレンは極まりが悪そうに視線を逸らした。リヴァイは頭痛が続いていることを見破っていたようだ。
 促されるまま部屋に戻り、再びベッドの上の人となる。そのまま家のことを話して、聞き終えたリヴァイが使いの者を寄越すため一度部屋を辞そうとしたその時――

「緊急連絡! 緊急連絡! シガンシナ区の壁が巨人に破られました!!」

「は……?」
 エレンの目が最大まで見開かれる。
 部屋を出ようとしていたリヴァイは振り返らない。エレンに背中を向けたまま、「お前は部屋から出るなよ」と静かに言い放った。
「リヴァ」
「いいから。お前は絶対にここから出るな。拒否するならぶん殴って気絶させてやる。返事は?」
「………………」
「エレン、返事はどうした」
「いやだ」
 素足のままベッドから降りて、エレンはふらふらとリヴァイに近付く。
「母さんもミカサもアルミンも父さんもあそこにいるんだ」
 リヴァイのジャケットの袖を掴んだ。
「オレもいく」
「俺は同じことは二度言わんぞ」
 そう言ってリヴァイが振り返った直後、後頭部から首にかけて衝撃が走り、エレンは意識を失った。最後に申し訳なさそうに歪んだリヴァイの表情を目にして。

* * *

 目を開けると辺りは真っ暗だった。
 殴ってでも、と言ったリヴァイは、実際には最小限の痛みでエレンの意識を刈り取ることにしたようだ。それに対する感謝はない。エレンは家族や友の元へ駆けつけたかったのだから。
 部屋にランプ等の照明は灯されておらず、窓から差し込む月光だけが物の輪郭を何とか浮かび上がらせている。
 そして、廊下に通じる扉の前に一人分の人影が佇んでいた。
「リヴァイ、さん……?」
「エレン」
 ギシリ、と小さな軋みと共にリヴァイがベッドの端へと腰かけた。窓から入る月明かり程度しか光がないため表情を伺うことはできない。しかし彼がまとう空気は果てしなく重かった。
 嫌な予感がする。
 じりじりと肌を焼くような焦燥を感じながら言葉を待つエレンにもたらされたのは、

「ウォール・マリアが陥落した」

「え」
 息が、止まった。
「お前の家族や友人の安否も不明だ。……すまない」
 リヴァイの手がエレンを抱き寄せ、小さな謝罪を零す。
 エレンの脳裏をよぎるのは家族や友の顔。故郷は巨人の侵攻を受け、彼ら全ての安否が不明。
「……」
 あくあく、と意味もなく口が開閉する。まるで酸素を求めて水面に口を出す魚のように。
 酸素が肺に入る代わりに、喉が詰まり、胸に熱湯でもたまっていくような熱さと圧迫感が湧きあがった。
 それからぶわりと視界が過剰な水分で霞む。

「――――――ッ!」

 まるで獣が咆哮するかのごとく。
 目の前の男にしがみつき、エレンは声を上げて泣いた。

* * *

 翌日、大泣きして目を腫らしたまま「マリアがどうなっているか見たい」と告げると、リヴァイは何も言わずエレンをトロスト区の壁上に連れて行ってくれた。
 ウォール・マリアと接するその壁の上で棒立ちになり、エレンは大地を見下ろす。
 つい昨日まで人類の土地だったそこを巨人が跋扈している。建物の壁や地面にぶちまけられた赤黒い血は一体誰のものか。
 壁上の大砲を撃つために使われた火薬のにおいが鼻を突いた。それに刺激されたのか、昨夜さんざん流した涙が再び両目から溢れ出す。
 ギリッ、と聞こえたのはエレン自身が歯を食いしばる音。拳には必要以上に力が入り、ぶるぶると震える。
 エレンは黄金の瞳で眼下の巨人達を睨みつけた。
「駆逐してやる……ッ!」
 小さな身体を巡るのは灼熱の怒り。
 あれらはエレンを壁の中に閉じ込め、エレンの大切な人を奪い、理不尽を押し付け、自由を阻む者。許されざる敵。排除すべき対象。
「巨人を、この世から……一匹残らず!!!!」


 ギラギラと双眸を輝かせ、エレンは誓う。
 少年の傍らに立つ男は、昔からずっと囚われ続けているその光を見てひっそりと恍惚に身を震わせた。


【2】


「エレンを調査兵団の兵士にする」
 ウォール・マリア陥落後、団長に就任したばかりのエルヴィン・スミスの元を訪れたリヴァイは、開ロ一番きっぱりとそう言った。
「ほう? てっきりあの子はお前が宝物のように仕舞い込むものだと思っていたが」
「はっ、あいつが大人しく俺の懐に入るタマかよ」
 マリア陥落直前にリヴァイが拾ってきた子供、エレン・イェーガー。エルヴィンはまだその姿を見かけただけで言葉を交わしたことはなかったが、どうやら子供は従順や大人しいといった言葉から程遠い人格であるらしい。
 ただしリヴァイはそれを厭うどころか歓迎しているように見受けられる。彼を調査兵団に招き入れる前からくっきりと刻まれていた目の下の隈と仏頂面は相変わらずだが、まとう空気に高揚の気配が混じっていた。
 エルヴィンの前に立つ不遜な男はきっとこれから人類の希望の一つになっていくはず。ならば多少の我侭も聞いてやるべきかと思い、エルヴィンは口を開いた。
「では再来年に訓練兵団へ入団させよう。それまではお前が養育することで構わないか、リヴァイ」
 エレンが訓練兵団へ入団する最低年齢に達するにはあと二年かかる。順当にそれを提示したエルヴィンだったが、
「いや」
 リヴァイは否定を返した。
「訓練兵団には入れない」
「なに?」
 エルヴィンは片方の眉を持ち上げる。
 どういう意図があるのか、と視線で問えば、リヴァイは凶悪な顔つきでニヤリと笑った。
「訓練兵団なんざ甘っちょろいんだよ」
 毎年多くの脱落者どころか死者まで出すほど厳しい訓練を指してリヴァイは言う。
「あれは、エレンは、意識の化け物だ。強い意志があいつの全てを司っている。ならば過酷な環境に置くほど、追いつめられるほど、あいつは成長を望み、その望みの通り力をつけ、障害を克服していくだろう。それがあいつの才能だ。伸ばしてやる以外の選択肢はあるか? ねぇだろ。稀有な才能は伸ばして然るべきだ。それがあいつの望みでもある。加えて、調査兵団の近くにいながらスタートまで更に二年もかかるなんてことをエレンが許容するわけがねぇ」
「だったらどうする? 訓練兵団に入るよりも早く、また厳しい訓練をどうやって彼に課す?」
 尋ねながらもエルヴィンはその答えを予想していた。
 まだ会ったばかりのリヴァイとエレンだが、ここまで言うのなら過ごした時間に関係なくその本質を悟っているのだろう。そして本質を理解したリヴァイはエレンの才能を伸ばす最善の策にも気付いている。
 果たして、リヴァイは己の意志を告げた。
「俺が鍛える。調査兵団へ入るのに訓練兵団を通過するのが必須ってわけじゃねぇんだろう? だったらあいつの全ては俺に任せろ」
「……」
 エルヴィンは執務机の上で指を組み替える。頭の中で、リヴァイの有用性やエレンの将来性、その他諸々が高速で駆け巡っていた。そしてすっと指を解く。
「いいだろう」
 その回答にリヴァイが再び口の端を持ち上げた。

* * *

「エレン、俺がお前を鍛えてやる。のんびりと二年も待って訓練兵団に入るよりよっぽど早く巨人を殺せるようになるはずだ。俺はそう思っている。お前はどうだ? もし望むなら、死ぬ気でついてこい」
 自室に戻ってきたリヴァイを出迎えると、この部屋の主は待っていたエレンに一息でそう提案してきた。
 命令でも強要でもなく、まだ十歳のエレンに選択肢を提示してくる。
「リヴァイさんの提案を拒絶した場合は?」
「お前が望むまま、とことん甘やかして育ててやるよ」
 真意を試すようにエレンが問うと、リヴァイはあっさりそう言った。完全にリヴァイはエレンの意志に任せるらしい。
 選べと言うリヴァイを前にしてエレンは拳を握る。身体の末端にまで満ちるのは巨人への怒りと自由への渇望だ。
 まだ小さな身体は甘ったるいだけの人生など望んでいない。
「エレン、どうする」
 重ねて静かに問われ、エレンは口を開く。
 最初から答えなど一つしかなかった。

「死ぬ気であなたについて行きます」

 男は青灰色の双眸を細める。そして、
「悪くない」
 満足そうに呟いた。


【3】


 リヴァイと共に地下街から出て調査兵団に入団した二人の男女のうち男の方――ファーラン・チャーチは、リヴァイとその腕の中でぐったりしている子供を見て顔をしかめた。
「やりすぎじゃないのか、それ……」
 リヴァイの腕の中にいるエレンは至る所が傷つき、血が滲んでいる。しかも只今絶賛気絶中だ。こんな小さな子供に一体何が、と普通の人間ならば血相を変えるだろう。エレンが自ら望んでリヴァイに師事していることを知るファーランですら頬の筋肉が引き攣った。
 一年前、ファーランは初めての壁外調査で突然の豪雨に遭い、視界不良の中、複数の巨人に襲われて死にかけた。共に地下街から出てきたイザベルと、彼女から少し遅れて駆け付けたリヴァイの助けもありこうして生きているが、しばらく動けないほどの大怪我だった。
 その時に負った傷と比較すればエレンの怪我など大したことではないかもしれないが、やはりまだ保護されるべき年齢の子供がボロボロになっているのは見ていて心が痛む。
 しかめられたファーランの顔を見上げたリヴァイはエレンに視線を落として口を開いた。
「加減はしている。殺すつもりは無いからな」
「これが、加減……?」
 まだ出来上がっていない身体を極限まで酷使して、傷を負って、気絶するまで訓練することが? 地下街に住む孤児達でさえもう少し身体に優しい生き方をしているはずだ。何より彼らは生きるために生きている。しかし今のエレンはまるで死に急いでいるように見えた。目的のためなら死すら厭わない姿勢。生きる力の全てを巨人の殲滅に傾ける姿は危うさが目立って仕方ない。
「もう少し優しくしてやったらどうだ?」
「それはできない相談だな」
 間髪入れずリヴァイは答えた。
「コイツは巨人を殺したいと望んだ。俺はその意志を尊重する。だが弱いままじゃ死ぬ。だったら強くしてやるしかないだろう? そのための訓練に甘さなんぞ欠片も要らん。単純な話だ」
「単純、か……」
「ああ。それが俺の望みであり、そしてエレン自身の望みだ」
 だからファーランにも誰にも異を唱えることは許されない。異を唱えたとしてもエレンは受け入れないし、リヴァイも取り合わない。
 地下街から一緒に地上まで出てきた仲だが、ここまでリヴァイに強い意志を持たせた者が今までいただろうか? 否、とファーランは胸中で自答する。
 きっとこの子供はリヴァイの特別なのだろう。そう考えるとリヴァイのある意味でとても献身的な態度に対し、容易く理解することができた。
「わかった。もう何も言わない」
 ファーランは肩を疎め、リヴァイの脇を通り過ぎる。
「でもまぁ、なんだ。リヴァイ、何かあったら言ってくれ。できることがあれば手伝うよ」
「感謝する」
 背中でその言葉を受けながらファーランは歩を進めた。

* * *

「コイツは巨人を殺したいと望んだ。俺はその意志を尊重する。だが弱いままじゃ死ぬ。だったら強くしてやるしかないだろう? そのための訓練に甘さなんぞ欠片も要らん。単純な話だ」
(ああ……)
 エレンはリヴァイとファーランの会話を夢うつつに聞いていた。
 リヴァイはエレンを理解してくれている。強すぎる意志に対して怯むことも忌避することも異端視することもなく、認め、受け入れ、エレンの望みを叶えるために最大限のものをもって応えてくれる。
 そう理解した瞬間、胸に湧いたのは歓喜だった。
 最初に言われた通り、リヴァイの指導はまさしく死ぬほど≠ツらいものだった。気を抜けば本当にこの命を失うだろう。だがそれこそエレンにとって必要なものである。
 巨人を恐れ、しかしその恐れを時と共に忘却し、仮初の安寧に浸るという愚行は、エレンにとって死よりもつらいことだ。
 この世に生を受けてなぜ自由を求めないのか。自ら不自由を享受するのか。エレンには家畜に成り下がった人間など理解できないし、理解したくもない。ただ己が望むまま、この世に生まれた瞬間から人間が持っているはずの『自由』を証明したい。感じたい。
 リヴァイはエレンにそのための最短距離を示してくれた。エレンを深く理解した上で。
 これを喜ばずして何を喜べと言うのか。
 凄惨な世界に見えた一条の光。リヴァイはまさにそれだ。
(リヴァイさん)
 痛みで声も出せない状態だったが、エレンは最大の感謝と共に心の中で告げる。
(あなたに出会えて良かった)

* * *

 傷ついたエレンの手当てを終えてベッドに寝かせる。
 そのベッドの端に腰かけ、リヴァイは小さく息を吐き出した。
 子供はリヴァイに抱えられたまま練兵場から部屋へ移動してくる間に一度ぼんやりと覚醒したらしかったが、今は深い眠りについている。身体を限界まで酷使する――時にはその限界すら超える――訓練に対し、休息を欲しているのだ。
 昏々と死んだように眠る子供の胸がかすかに上下しているのを確認して、リヴァイはもう一度息を吐く。
「エレン……」
 名を呼ぶ声は小さく、掠れていた。
 リヴァイはいつだってこの幼い命を失うことに震えている。恐怖している。だが腕の中に閉じ込めて守ろうとは思わなかった。そんなことをしてもこの命の輝きが穢されるだけだからだ。自由を求め、理不尽に逆らい、己の意志を貫く在り方こそ、リヴァイを惹きつけてやまぬエレンの輝きの根源。リヴァイが守り、尊び、そして今やよすが≠ノしているものだった。
 エレンの輝きを損なわせないために今のリヴァイは生きている。そうやって生きると決めた。そのためならエレンが死にかけることにも躊躇しない。
 ただ、やはり。少し、怖い。
 言葉通り死にもの狂いで実力を伸ばすエレンの姿に指導者として高揚する一方、綱渡りのような彼の生き方に冷や汗をかく。狂気的なまでに瞳をギラつかせるエレンが息を呑むほど美しいと感じる一方、いつこの手をすり抜けて行ってしまうのかと恐怖する。
「エレン」
 リヴァイは眠るエレンにそっと覆いかぶさり、その胸に頬をぴたりとくっつけた。子供が重さを感じるギリギリの接触をしながら、薄い皮膚と肋骨の向こうで確かに脈打つ心臓の存在を感じる。
「生きてる」
 ただそれだけのことが何よりも嬉しくてリヴァイは目を閉じた。
「ずっとお前を見てきた」
 とくり、とくりと、小さな胸は鼓動を刻む。
「ずっとお前を失ってきた」
 母の子守歌のように、それはリヴァイの心を落ち着かせる。
「でも、今度こそ離さない」
 再び目を開け、そっと身を起こす。
 ガーゼと包帯だらけの子供の額にくちづけて、リヴァイは神に祈る信徒のように囁いた。

「お前だけが俺の光だ」


【4】


「なぁファーラン。最近の兄貴、ちゃんと眠れてるみたいだな」
「あ? ああ……そういや隈がマシになってきたか」
 赤髪の少女、イザベル・マグノリア。
 銀髪の青年、ファーラン・チャーチ。
 二人はリヴァイと共に地下街を出て調査兵団の一員になった人間である。
 その経緯は省略するが、地下街の頃から行動を共にしてきたため、リヴァイとの付き合いは兵団の中で最も長い。しかしそんな彼らにもリヴァイに関して知らないことが多々あった。例えばリヴァイの不眠の原因だ。
 地下街にいた頃からリヴァイはあまりきちんと睡眠をとっていなかった。気を抜けば他者に何をされるか分からない地下街という場所で生きてきたからこそとも言えるが、同じ環境にいたファーランやイザベルと比べても格段に睡眠時間が少ない。加えて、寝るとしても身体を横たえることすらほとんどなく、椅子に座って数時間微睡むのが関の山。いつでも緊急時に対応できるその姿勢は、自分達が信用されていないからだとも思ったが、真相は定かではない。
 しかし調査兵団の一員となって約一年が経ち、ようやくリヴァイの目の下にくっきりと現れていた隈が薄くなってきた。住環境が改善されたからだろうか? それとも……。
「チビが来てから、か?」
 イザベルが顎に手を当てて呟く。
 なお、チビとはエレンのことである。
「時期的にはそうだが……」
 ファーランは思案顔をして続けた。
「でもリヴァイが他人の気配がある部屋で寝られると思うか?」
「俺達でさえ近寄るだけでアウトだったもんなぁ」
「だろ?」
「でも実際に兄貴の隈は消えてきてる」
 現在、リヴァイは兵舎内で個室を与えられていた。そこに移った後でさえ彼の目の下の隈は相変わらず黒々としたままだったのに、少し前――エレンが連れて来られその部屋で寝起きするようになってからリヴァイの不眠は解消されつつある。逆ならまだしも……と二人は考えるが、一向に答えは思いつかない。
「ちょっとチビに聞いてみるか」
「何をだ?」
 イザベルの提案に対し、ファーランが小首を傾げた。赤髪の少女は「そりゃもちろん」と告げながら、人差し指で青年の胸を突く。
「兄貴がちゃんと部屋で眠れてるのかってことに決まってるじゃん。兄貴本人には聞きにくいけど、チビならまだ聞けるだろ? 俺達がぐだぐだ悩んでても答えが見つからないなら、聞きやすい方の当事者に尋ねちまうのが一番だ」
「それはそうだが……」
 一体いつ、どのように話を切り出すつもりだ? と眉根を寄せるファーラン。
「エレンにはいつもリヴァイが付きっ切りで訓練してるじゃないか。それが終わればエレンは力尽きてるし。それに尋ね方も……」
「尋ね方ぁ? んなの直球で聞きゃぁいいじゃん。それに」
 イザベルがファーランの背後を指差した。
「兄貴は本日内地へ出張。そしてエレン・イェーガーは掃除道具担いでそこにいる」
「あ」
「え?」
 イザベルとファーランの二人の視線を受け、兵舎内の廊下を歩いていたエレンがぴたりと足を止める。数メートル先にいた男女の会話に自分の名前が出てきて驚いているようだった。
 少女が言った通り、まだ幼い少年はバケツを手に持ち、モップを肩に担いでいる。進行方向から察するに、これから水場へ向かうつもりなのだろう。
「オレに何か御用ですか?」
「そうそう! 御用アリだ」
 イザベルがエレンに近付き、その肩に手を置く。ファーランもまたエレンの方へ足を向けながら「今日はリヴァイが不在だから訓練は休みか。だから代わりに掃除してるんだな」と確認すれば、こくりとエレンの頭が縦に動いた。
「なぁチビ、ちょーっと聞いていいか?」
「? え、え?」
 ファーランはイザベルに迫られ頭上に疑問符を浮かべるエレンが少し可哀想に思えてきたものの、気になることは気になるので、赤髪の少女を止めはしない。二人をリヴァイの同郷であると認識しているエレンが邪険な態度を取ることはなく、押され気味に「えっと、オレに答えられることなら」と返した。
「サンキュー」
 一応礼を言ってからイザベルが早速本題を口にする。
「チビは兄貴の部屋で寝起きしてるじゃん? だったら見てると思うんだけど、兄貴、ちゃんと寝てる?」
「あ、はい。寝てますよ」
「椅子とかソファで?」
「そんな。ちゃんとベッドで寝てま……あ」
 ばっと慌ててエレンが口を手で覆う。少年が変なことを言ったとは思えなかったイザベルとファーランは、はてと揃って小首を傾げた。
 しかし赤い顔をするエレンを眺めていたファーランは、少年の台詞を頭の中で反芻し、「んん?」と声を上げる。
「どうかしたのかよ、ファーラン」
「いや……その、リヴァイはベッドで寝てるんだな」
「う、うん」
 一応頷くエレン。
 その反応にイザベルが目を丸くした。
「そりゃ珍しいや。兄貴、地下じゃいっつも座ったまま寝てたから」
 しどろもどろになるエレンとは対照的にイザベルは何の気無しに告げる。エレンはそのことに少し驚いたようだったが、すぐさま己の失言を思い出し顔を伏せた。
「エレンはちゃんとベッドで寝てるか? リヴァイに意地悪されてソファで無理やり眠ってたりしないよな?」
「し、してない! オレもちゃんとベッドで寝てる!」
 わざとリヴァイに疑いをかけるような言い方をすると、彼を好いているエレンはその潔白を証明するためすぐさま反論した。ただ、それがファーランの作戦だったことに言った後で気付いたエレンは、ますます顔を赤くしてしまう。
「おい、どうしたチビ」
 イザベルが心配そうに顔を覗き込む傍らでファーランは思わずこめかみを押さえた。
「……リヴァイの部屋にはベッドが一つしかない」
「あ」
 動きを止めるイザベル。
 リヴァイに限ってこんな小さな子にそういう意味で手を出すことは無いと信じているし、エレンの赤面もこの年になってまだ添い寝を必要としている≠アとを恥じているからだと分かっているが、それでもちょっとこんな事実は知りたくなかった。
 リヴァイが内地から帰ってきたらどんな顔をして会えばいいのだろう。
 彼の人の睡眠不足解消方法を探る前よりも大きな悩みを抱えて、二人は揃って「う〜ん」と唸り声を上げた。


 エレンを開放した後――
「でも結局、兄貴が寝られるようになった理由って何だ?」
「一、エレンを寝かしつけている間にうっかり自分も寝られるようになった。二、子供体温が睡眠導入にちょうどいい。もしくは……三、エレンが傍にいれば寂しくないから?」
「は?」
「安心毛布的な意味で」
「いやいや、それは絶対有り得ねぇだろ」
「だよな」
 尊敬するリヴァイがボロボロになった毛布を指でさりさり触っている光景を想像したイザベルは顔を青ざめ身体を震わせる。ファーランも同じものを想像してしまい、かぶりを振ってその妄想を振り払った。
 結局、疑間は解決しないまま。
 真相はリヴァイ本人しか知らない。

* * *

 それ≠思い出す前、リヴァイは周囲を警戒してろくに眠ることができなかった。
 しかしそれ≠思い出した後、傍らにあるべき体温がないという自覚ゆえにもっと眠ることができなくなった。
 周囲は皆、敵。皆、己とは違うもの。……いや、己だけが異質なのか。リヴァイはそう苦笑する。
 人であり、人でないもの。人ではないが、人であろうとしているもの。もしくは自ら人ではなくなったもの。どう表現すればいいのか分からないが、リヴァイは周囲と違うものだった。それは思い出す前からずっと。
 けれど思い出したリヴァイは知っている。
 己と同じ、人ではない少年のことを。
 敵を屠りたいと金色の目をギラギラさせていた化け物のことを。
 彼こそが、彼だけが、リヴァイと同じモノ。唯一、警戒を解いても良いと思えた存在。
「ん……リヴァイ、さん?」
「なんでもない。さぁ、寝ろ」
 リヴァイはこの部屋に一つしかない寝台に横たわっていた。そのすぐ傍には金色の目を半分以上瞼の奥に隠した小さな子供。
 自分が内地に出張している間、誰かに何かを言われたようだったが、リヴァイは疲れ切っているこの幼子を問答無用でベッドに突っ込んだ。するとリヴァイの添い寝を躊躇っていたエレンの瞼はたちまち下に降りてくる。
「リヴァ、イさん……おやすみ、なさい」
「ああ」
 自分達の身体に毛布を掛けながらリヴァイはこの世界に一人だけの同胞(かたはら)を抱きしめた。触れたところからじんわりと伝わる体温は、エレン以外の人間のものならば嫌悪しか抱けなかっただろう。しかしこの腕の中にいるのはリヴァイが求め続けたエレン・イェーガー本人。
 小さくて温かな身体を抱きながら、リヴァイの意識はすうっと薄れていく。手足の指の先端まで満たすのは、エレンと出会うまで欠片も縁のなかった大きな安堵と幸福だ。
「おやすみ、エレン」
 半分眠りに落ちた掠れかけの声で告げる。
 化け物は化け物の傍でだけゆっくりと眠ることができた。


【幕間 ある男の独白】


 初めて出会った金眼の化け物は自らの巨人化能力を上手く扱うことができず、暴走して俺に殺された。当然会話をする暇すら無かったから、最期にアイツが何を思っていたのかなんて知らない。だが、アイツのことだから、おそらく意識が途切れる寸前まで巨人の駆逐を願っていたのだろう。もしくは壁の外にあると信じていた自由のことを考えていたか。
 どちらにせよ、苦い思い出には違いない。


 次の出会いは、俺にとっては再会だが、相手にとっては最初の出会いとなった。正直なところ、奇跡としか言いようのないチャンスに胸が高鳴ったのを覚えている。今度こそ自由を掴みたいと望んだ。敵は壁の外にうじゃうじゃと蔓延っている巨人、及びアイツと同じ巨人化能力を有する人間達。『前回』と称すべき世界の記憶も活用して大きな悲劇が起こる前に手を打とうとした。しかし巨人化能力を有する人間を秘密裏に拘束しても、ヤツらの代わりが現れて、世界は俺が知る通りの歴史を刻み始めた。怒鳴り散らしたかったがそれを抑え、今度こそ下手なところでアイツを失わないよう努力することにした。巨人化能力の扱いが急速に上手くなっていったおかげで、アイツが暴走し俺が手を下すという最悪の事態は回避でき、それは幸いだったと言える。だが巨人の謎に迫るにつれ、壁の外だけではなく壁の内側にも敵がいることを知った。奮闘したが、俺達は同じ人類の手によって負けた。
 アイツに備わっていた能力を得るために王政府の豚がまだ十六にもなっていなかった身体を文字通り貪り食った後、俺の視界は真っ赤に染まり――。その後のことは覚えていない。


 敵は壁の内側にもいる。それを念頭に置いた上で俺は今度こそ外を目指した。だが負けた。アイツは食われた。
 壁の外へ出て、アイツが夢見ていた自由を掴むことはできなかった。


 その後も細かなところは変わりながらも、俺達が勝つことは無かった。ある時は人間に殺され、またある時は知性を持った巨人に殺され。それでも諦めることは無い。この困難を乗り越えた先にずっと掴みたかった自由がある。いつだったか、アイツが俺にこう言ってくれた。「一緒に海を見ましょう。海だけじゃない、炎の水も、氷の大地も、砂の雪原も、何でもいいです。オレと一緒に見に行きましょう」俺はその誘いに「ああ」と頷いた。その言葉があれば、いくらでもこの残酷な繰り返しに耐えられる。
 夢を語る金眼の化け物は、敵を見据える時とはまた異なる美しさがあると思った。


 何度も何度も繰り返し、俺達はついに勝利を掴んだ。腐りきっていた中央の首を挿げ替え、秘密を暴き、巨人の脅威を取り払った。やっと。やっとだ。やっと外へ行ける。アイツが望んだものを俺もその隣で見ることができる。世界は希望に満ちていた。馬鹿みたいに明るくて、馬鹿みたいに色が溢れていて、馬鹿みたいに愉快だった。だけどアイツは壁の外に出られなかった。民衆が、最後の巨人としてアイツの死を望んだからだ。民衆という名の腐った豚共は処刑を拒否する俺達を押しのけてアイツを嬲り殺しにした。アイツの死体は巨人のように消えることなく、惨い形で俺達の前に晒された。
 世界は色を失った。世界はもう、輝いてなどいなかった。

* * *

 ふと目が覚めると、辺りはまだ暗かった。腕の中にいる子供はすやすやと穏やかな寝息を立てている。今のところまだ俺より小さいその身体をしっかりと抱きこんで、額に唇を落とした。
「世界なんてどうでもいい。何をやっても外へ行けないことも嫌と言うほど思い知った。だったらあとはお前が最大限その意志を貫いて生きたいように生きられるようにする。それだけが唯一俺に残った望みだ。そのためなら何だってしてやる」
 金眼の化け物の巨人化能力が『世界の解放』に必要なことは重々承知している。だが、それがどうした。世界よりもコイツだ。コイツを殺す世界など滅びても構わない。人類は皆、巨人に食われてしまえばいい。自分達で殺し合い、滅亡してしまえばいい。コイツにはただ一人の人間として、巨人化能力という人に憎まれ恐れられ死を望まれる力など気にすることなく、ただあるがままに生きてほしい。きっと老衰などという穏やかな死は得られなくとも。いや、コイツならそんな緩い死に方なんぞ最初から考えもしていないかもしれないが。
「俺がお前を生かしてやる。もう絶対他人になんざ殺させねぇ」
 誓いを胸に、俺もまた目を閉じた。
 夜明けはまだ遠い。


【5】


 847年。エレンがリヴァイと出会ってから二年の歳月が流れた。
 つまり訓練兵団に入団できる年齢になったのだが、勿論そうするはずもない。エレンが正式に所属することになったのは、調査兵団である。
 実戦投入には幼すぎるという声もいくつか上がったが、その辺の新兵よりずっと使える人材を遊ばせておく余裕はないと答えれば、反対意見も力を失くした。ウォール・マリア陥落以前ならまだしも、現在の状況では穏健派など少数だ。
 使える者は子供でも使う。無論、使えない者を無理やり使うことはないが、リヴァイに鍛え上げられたエレンが使えない人間であるはずがなかった。


「ヒュウ! 人類最強が付きっ切りで育てた子はやっぱり違うねぇ」
 立体機動の訓練中、射出したアンカーを巻き取って移動しながらハンジ・ゾエは先行する小さな影を眺めて口笛を吹いた。
 群を抜く強さを持つ男が世間で『人類最強の兵士』などと呼ばれ始め、その実力に見合った地位として『兵士長』という特別な役職についたのは、ハンジが分隊長に昇格した後だ。しかし知名度も実力もあちらの方がずっと上である。
 そのことに対し嫉妬すら覚える余裕もないくらいに、男――リヴァイは強い。そして、ハンジに先行し巨人を模した大きな人形のうなじを削ぐ少年こそ、あのリヴァイが手塩にかけて育てた人材だった。
 エレン・イェーガー。
 まだ身体が成長しきっておらず体重も筋力も足りない彼は、それを技術で補っている。ワイヤーとガスを巧みに操り、通常よりも強い回転を身体にかけて、その勢いでハンジよりも深く巨人のうなじを削ぐのだ。
 師であるリヴァイにはまだ及ばないものの、よく似たスタイルだと言えるだろう。ただしとっくの昔に成長期を終えたリヴァイとは異なり、エレンはまだまだこれから身体が出来上がっていく。その変化を見越しているため、エレンの立体機動が完全なリヴァイの模倣になることはないと、以前リヴァイ本人が零していた。
 また、そんなリヴァイはエレンが十五歳で170センチくらいになると予想しているらしいのだが、何故そこまで細かに想定できるのかは今でも謎だ。
 ともあれ、今後変化があるにしても、現在のエレンは周囲の人間が評す通り、彼より最低でも三つ年上であるはずの新兵など比べ物にならないくらいに強い。先日、第101期訓練兵の配属兵科決定と時を同じくして正式に調査兵団への所属が決まったので、次の壁外調査には彼も参加する予定だ。
 まさにこれからがエレンにとっての本番。ハンジのような分隊長クラスからも期待され、エレンは好スタートを切ることができた……と、言い切るのはまだ早い。
 調査兵団への正式入団と同時にエレンはリヴァイの補佐官に任命された。元々兵士長という役職が階級の序列に属さない特別なものであるため、補佐官への任命<Cコールエレンの地位がいきなり高くなった≠アとではない。しかし『訓練兵団すら経験することなく調査兵団に入団し、あまつさえ役職を与えられたクソガキ』という認識でエレンを見る者は少なからず存在している。そのほとんどはエレンの実力を直接見たことがない兵士であり、また次の壁外調査で共に遠征に出る者達にも含まれていた。
「あーあ。リヴァイ達が調査兵団に来た時と一緒じゃないか」
 ズバッ! と巨人のうなじに見立てた布の塊を深く削いだ後、ハンジは過去を思い出して苦笑する。
 当時は三人のゴロツキが突然仲間になるとエルヴィンから言われ、しかもリヴァイ達の態度が決して友好的ではなかったため、壁外へ出た後でも彼らを気に食わないと態度に出す兵士がいた。その後、リヴァイの技術の高さを目にして考えを改める者が多数現れたのだが……。さて、エレンの場合はどうなることか。
 全員がエレンの実力を知らないという状況ではなく、特に高位役職者はその強さを認めている。その分、エレンのことを知らない兵士は「なぜ上官はあんな子供を信用しているのか」と通常より強く嫌悪感や嫉妬を抱くかもしれない。
「リヴァイが掌中の珠みたく、ほとんど皆に見せずに可愛がっているから、こんな心配事が出てくるんだよなぁ。合同演習にも積極的に参加させてやれば良かったのに。特に新兵なんかはまだエレンの名前すら聞いたことが無いんじゃないかな……」
 そう言っても後の祭り。
 エレン自身が壁外調査で皆に実力を見せつけるしか解決方法はない。
「どうか何事もありませんように」
 壁外調査で余計なこと≠考える者などいないと信じたいが――実際、リヴァイ達のことを嫌いつつも調査兵は誰一人として彼らを陥れようとは考えなかった――、どうなるか分からないのが人間だ。注意は払うが、何事も起きてくれるなと願いつつ、ハンジはエレンの後を追うように宙を駆けた。

* * *

 リヴァイの名が有名になりだした頃から、彼に憧れて調査兵団への配属を希望する訓練兵が現れるようになった。
 その現状――明け透けに言ってしまえば死亡率の高さ――故に常時人手不足である調査兵団にとっては、理由が何であれ配属希望者が増えることは喜ばしい。リヴァイに憧れて自身も彼のようになりたいと技術を磨いてきた者ならば尚更だ。
 今期の新兵、第101期訓練兵の中にもリヴァイを理由にして調査兵団に入ってきた者がいる。その中の一人である少年はウォール・マリア陥落の前年に訓練兵となり、当初は憲兵団か駐屯兵団に配属されることを望んでいた。しかし今年、第十位の成績を修めた彼は、リヴァイヘの憧れ故に憲兵団への切符を捨てて調査兵団を希望したのだ。
 名はルイ・ルノー。ウォール・ローゼ内でもシーナ寄りの街の出身である。中流家庭に生まれた彼はごくごく一般的な、否、むしろ平均よりも幾分才能に恵まれた少年だった。
 ルイを含む新兵は次の壁外調査に参加するため、現在、長距離索敵陣形を含む必要な知識と技術をその頭と身体に叩き込んでいる最中である。憧れの存在たるリヴァイと肩を並べて戦う日を夢見て、ルイはその闘志を高めていた。
 一通り長距離索敵陣形の説明を受けた本日、約三週間後に迫った壁外調査の配置図が参加予定者全員に配られた。先輩兵士によるとこれからまだ少し人員の増減や配置換えが起こることもあるが、初参加となる新兵の位置が変わることは滅多にないと言う。
 ルイやその同期達は荷馬車等がある中央部よりも少し外側に配されていた。一方、人類最強と名高いリヴァイと彼が今回率いることになる班は前寄りの最も外側の列。反対側には分隊長の班が配されている。きっとこの二つの班は索敵の他に奇行種や避けるのが難しい場所にいた通常の巨人の討伐を主に担うのだろう。
(カッケーなぁ)
 新兵の自分にはまだまだ手の届かない存在、リヴァイ兵士長。彼に憧れる気持ちはますます強くなる。
 そんなリヴァイの班員の中にルイはエレン・イェーガーという名前を見つけた。どんな人物なのか全く頭に浮かんでこない。ルイは人の顔と名前を比較的容易に覚えられる性質なので、おそらく自分はこの人物を目にしたことがないのだと判断する。リヴァイの班に入れるくらいなのだから、きっと立派な兵士なのだろう。
「ルイ、次は練兵場だ。行くぞ」
「あ、はい!」
 先輩に声を掛けられ、リヴァイ班のことで頭がいっぱいになっていたルイは慌てて椅子から立ち上がる。配置図を手にした新兵のそのような態度は毎年のことだからなのか、先輩兵士らは苦笑するだけで特に注意することはなかった。
 他の同期や先輩達とも合流してぞろぞろと練兵場へ向かう。だが講義が行われていたホールからそこへ向かう途中の廊下で、急に一部の兵士がざわめいた。
「おい、あれ」
「あ……っ」
 なんだ、とルイが問う前に誰かが興奮気味に告げる。
「リヴァイ兵長だ!」
(え!)
 ルイは声の主の視線の先を必死に辿る。そして見つけた。憧れの兵士の姿を。
 平均的な成人男性より小柄であるものの、凛としたその姿と威厳に満ちた空気はリヴァイをとても大きく立派な人物に見せる。ルイはその姿に見惚れた。やはりリヴァイ兵士長は格好良い。
 その時、共に練兵場へと移動していた先輩兵士の一人が「おっ」と声を上げる。
「珍しいな、エレンも来てるじゃねぇか」
「まぁそろそろ全体演習に参加させないとな。エレンの存在を知らなかったり知っていても軽視するヤツは少なからずこの兵団にだっているから、ハンジ分隊長あたりがそろそろ顔出しさせろって勧めたんじゃねぇか? 兵長だっていつまでもエレンを独り占めしてるわけにはいかないさ」
 苦笑しながら答えるのもベテランと言うべき先輩兵士だ。次の壁外調査ではどちらも班長に任命されている。
 二人の会話を耳にしてルイははっとした。エレンとはエレン・イェーガーのことだろうか。リヴァイの傍にいると言うのなら、その可能性が高い。そう考えたルイの視界に映ったのは、リヴァイの隣を歩くまだ十代前半と思しき一人の少年。
「は……?」
 ぽかんと口を開ける。
 あれが、あんな子供が、エレン・イェーガーなのか。実力者揃いであるはずのリヴァイ班の一員なのか。
「ようやくアイツも参戦か」
「リヴァイの秘蔵っ子の実力、楽しみだな」
「ああ」
 移動する足を止めることなく、先輩兵士らは言葉を交わす。彼らがエレンという少年に対して好意的な意見を述べる一方、ルイの中にはどす黒い感情が生まれていた。
 自分はリヴァイの視界に入ることすらできないのに、あんな子供がリヴァイの隣に並ぶ権利を得ている。なんたる理不尽。なんたる不公平。あんな子供より絶対に自分の方が強いはずなのにと、第十位で訓練兵団を卒業したルイは悔しさで唇を噛んだ。
(ふざけんなよ……!)
 あんな小さな子供より自分の方がリヴァイの隣に相応しいはず。その感情のままルイは離れた所にいるエレンを睨み付けた。視線に物理的効果があるなら串刺しにできただろう。しかし実際にはそんな力など無く、エレンは金色の瞳をリヴァイに向け、彼に何かを言われたのかふわりと微笑んだ。
「……ッ!」
「おい、ルイ。どうかしたか」
「い、いや。何でもねぇよ……」
 近くにいた同期に話しかけられ、ルイは咄嗟に如才ない笑みを浮かべる。そのまま集団は歩を進め、リヴァイ達の姿が見えなくなった。
 しかしルイの脳裏にはしっかりと焼き付いてしまっている。憧れのリヴァイ兵士長の姿ではなく、ルイが望むポジションに収まった黒髪金眼の少年の姿が。

* * *

 兵士らが練兵場に向かって姿を消した直後、エレンを伴って本部内を歩いていたリヴァイはふと足を止めた。
「リヴァイさん?」
 金色の大きな目がリヴァイを見上げる。出会った頃よりも随分背が伸びたが、まだリヴァイに及ばない少年は自然と上目遣いになった。
 形のいい頭をそっと撫で、リヴァイは口元に薄く笑みを刷く。
「いや、なんでもない。行くぞエレン」
「はい」
 止めていた足を再び動かし始めた。
 しかしリヴァイは最後にもう一度だけ兵士らが通っていた廊下を一瞥する。己の傍らに向けられた悪意の残滓を警戒するように。


 その数日後。
 本日は壁外調査に参加する兵士らの全体演習が行われる。エレンもリヴァイ率いる班の一員として演習に参加しており、今まであまり大勢の前に出てくることがなかった『兵長の秘蔵っ子』に周囲の注目が集まっていた。
 各自指定された配置につき、訓練開始の合図を待つ。ただし予定時刻まであと二十分ほどあった。
「おい、エレン」
 リヴァイは隣で騎乗しているエレンに視線を向けた。
「今のうちにもう一度装置のチェックをしておけ。整備項目には加わっていねぇようなベルトの金具もだ。装備の破損ごときで壁外調査前に怪我でもしたら大変だからな」
「わかりました」
 即答し、エレンは一旦馬を降りて装備の再チェックを始める。
 まだ幼いが、リヴァイに扱かれ一人前の兵士となったエレンは装備の点検も怠らない。しかしそれは三兵団と訓練兵団に共通の整備項目に関してのみだ。そしてリヴァイはかつて、今隣にいる子供とは記憶が繋がらない『エレン』の口から、整備項目にないベルトの金具の破損が原因で訓練兵団の初期に大変な思いをしたことがあると聞いていた。本来ならば壊れるはずのない部品であるものの、先日、本部内で不穏な気配を感じ取っていたリヴァイは念には念を入れてエレンに指示したのだ。
 果たして、エレンは「あ」と小さく声を上げる。
「どうした」
「ベルトの金具が破損していました。すみません、今から急いで取り替えてきます」
 走っていけば何とか演習の開始には間に合うだろう。しかし早速走り出そうとするエレンに、リヴァイは「待て」と声をかけた。
「俺も行く」
「え?」
 きょとんと丸くなる金色。リヴァイはそれに構わず、近くで事の次第を見守っていた班員に視線をやり、相手が頷いたのを確認すると馬を降りた。
「行くぞエレン」
「お、オレ一人でも行けます!」
「知っている。が、今回は俺を同行させろ」
「〜〜ッ! わかりました」
 リヴァイがわざわざエレンに付き添うのは金具を壊した犯人からの手出しを警戒してのことだ。しかしそれを説明していないため、エレンにとっては小さな子供扱いをされているように感じられて若干不満気味だ。しかしエレンは自身の意志を大きく妨げるものでない限りリヴァイを否定することはない。結局、二人揃って隊列を抜け出した。


 リヴァイが予備のセットを二人の自室の見つけやすいところに置いていた――それはこのような事態を警戒していたからに他ならない――ため、エレンは素早く装備を交換して、時間内に隊列へ戻ることができた。やがて演習がスタートし、通常の隊列での走行、それから長距離索敵陣形への変形、巨人が現れたと想定して煙弾による進行方向変更と指示の伝達方法の確認、その他諸々が行われる。最後に木々が生い茂るエリアで立体機動の訓練をして、再び騎乗、スタート地点に戻るという工程全てが終了した。
 特に大きな混乱も起こることなく全体演習を終えたリヴァイとエレンを含む班員は、まず馬の世話をし、それから訓練で汚れた自分達の身体を綺麗にして食堂へ向かう。特別訓練の関係でリヴァイとエレンは他の兵士と食事時間が滅多に重ならないのだが、今日ばかりは皆に誘われて賑やかな食堂へと顔を出した。
 やはりリヴァイが現れると出入り口付近から奥へ向けて徐々に驚きや憧れの気配が広がっていく。古株達はそうでもないのだが、彼らは代わりにリヴァイの後ろから現れた少年の姿を目にして頬を緩ませた。
「よう、エレン! お疲れ様!」
「はい! お疲れ様です!」
 顔見知りに声をかけられ、エレンはにこりと笑い、元気良く返事をする。実力は一人前だがまだあどけなさが抜けきらないその様子に場が更に和む。
「リヴァーイ、エレーン! こっちの席が空いてるよー!」
「リヴァイさ……っじゃなくて、兵長、行っても良いですか?」
「ああ」
 そんな中、先に食堂へ来ていたハンジに呼ばれ、リヴァイ達はぞろぞろとそちらへ向かった。途中、新兵らの傍を通ると、声をかけられることはないものの、憧憬の視線を受ける。
 しかしある一人の新兵がリヴァイではなくエレンだけをじっと見つめていた。先日と同じ嫌なその視線に気付き、リヴァイは本人に悟られぬよう視線の主を確認する。
 名前は知らなかったが、今期の新兵の一人だ。外見の特徴をしっかりと脳に留め、リヴァイは何を言うでもなくその傍を通り過ぎた。
 ハンジとその班員らと共に食事を囲み、特に不穏な気配を滲ませることなく時間は流れていく。しかし夕食を終えて食堂を去る際、リヴァイは何気ない様子で近くの兵に件の新兵について尋ねた。曰く、その新兵の名はルイ・ルノー。リヴァイに憧れて調査兵団を希望したタイプの人間であるらしい。
 リヴァイは新兵の名を教えてくれた兵士に礼を言い、エレンを伴って食堂を出る。しかしエレンだけを先に自室へ返し、リヴァイ本人は別の部屋へ足を向けた。


 翌日、壁外調査の隊列の配置換えが行われた。エレンはリヴァイの班から外されてちょうど反対側の班に加わり、ある新兵がリヴァイの班に加わったのだ。
 突然の抜擢に件の新兵――ルイ・ルノーは手放しで喜んだ。何せ憧れの兵士と並んで戦うことができるのだから。しかも後日、風の噂で、全体演習後にリヴァイが食堂でルイを見かけ、他の兵士にその名を尋ねていたという話を聞いた。ルイは、きっと自分の実力を見るか聞くかしてリヴァイが興味を持ってくれたのだと天にも昇るような気持ちになり、エレンに向けていた憎しみを呆気なく忘れ去ってしまう。
 そうしてエレンの周囲は平穏を取り戻し、壁外調査の当日を迎えた。

* * *

 巨大樹の森に辿り着き、各班が視界良好とは言いにくい中で巨人を屠る。初の壁外調査で、初めて巨人を間近に見たルイだったが、自分の近くにあの人類最強がいるという事実に支えられ、その心が恐怖で折れることはなかった。
 今も前方にリヴァイの背中が見えている。先程、彼の指示で他の班員は少し離れた所に移動しており、周囲に仲間の影は無い。憧れの兵士長と二人きりになれたような気がして、ルイは壁外だと言うのに幸福を感じていた。
 その時、突如としてリヴァイがターンバックをし、ルイに正面から向かってきた。ワイヤーを樹木に巻きつけ百八十度の方向転換をする高度な技術だ。それに感激するより前にルイはリヴァイから絶対零度の視線を受け、ぞっと背筋を凍らせる。
「っ、リヴァ――」
 それ以上は音にならない。風を切りながら白刃がきらめく。
 リヴァイがいつの間にか両手に装備していた半刃刀身でルイの首をいとも容易く胴から切り離したからだ。
 僅かな血飛沫すらかかることを厭うように、リヴァイはさっさとその場を離れた。ルイの死体を見やることも、声をかけることもなく。

* * *

「リヴァイ、お前は神にでもなったつもりか? 人の生き死にを決めるのは人間ではない」
 今回の壁外調査の死亡者リストを眺めていたエルヴィン・スミスは、己が呼び出した兵士を一瞥して溜息と共にそう吐き出した。
 リストに記載されている兵士の多くは今期の新兵である。そこには「ルイ・ルノー」という、リヴァイの要請で急遽配置替えを行った兵士の名もあった。
「てめぇこそいつの間に神だ何だと言うようになった。今更どこぞの宗教にでもハマったか?」
「茶化すな、リヴァイ」
「てめぇの方こそナメたこと言ってんじゃねぇぞ。俺が配置換えを申請した時、何も言わず承認したのはてめぇ自身だ、エルヴィン。申請の理由を聞かなかったってことは、エレンに何があって俺がどう考えたのか、あの時すでに知っていたからだろう?」
「……」
 エルヴィンは無言でリヴァイを睨んだ後、ふっと眉間の皺を解いて椅子の背に体重を預けた。
「ルイ・ルノーよりエレンの方がずっと優秀だからな」
 その返答を聞き、リヴァイが「やっぱりな」と口の端を吊り上げる。
 動機は違えど、今回のことはリヴァイもエルヴィンも件の新兵を不要と判断した結果だった。
「エルヴィン」
「なんだ?」
 先を促す視線を受け、リヴァイは告げる。
「まず訂正させてもらうが、人の生き死にを決めるのは神じゃねぇ。人間だ。だがな、あえて言おう。俺はエレンと出会う前からアイツを守ると決めていた。そのためなら神にでも何でもなってやるよ」
 エレンのためなら何でもできるという意味でリヴァイはわざとエルヴィンが口にした『神』という単語を使った。それを正確に悟ったエルヴィンもまた比喩的に返す。
「お前がなれるとしたら、それは精々デウス・エクス・マキナだろうがな」
「あ?」
「機械仕掛けの神、という意味だ。遠い昔、演劇の中に登場していた『役者が操作する機械仕掛けの偽神』のことさ」
「『偽神』とはえらい言われようだな」
「人間がなれるのはその程度ということだ」
 肩を竦め、エルヴィンは続ける。
「まぁ今回のことを罪に問うつもりは無い。ただ、やりすぎるなよ、と今の内に釘を刺したかった。やりすぎてお前の大事な子供に被害が及んでは本末転倒だぞ」
「了解した。エレンにとって不利益にならないよう上手くやる」
「それは了解したとは言えんと思うがな……」
 エルヴィンはそう呟きつつもこれ以上注意をするつもりは無いようで、リヴァイが背を向けても特に声をかけることはなかった。
 リヴァイが出て行き扉がぱたんと閉じて、団長の執務室には静寂が訪れる。
 無言のままエルヴィンが手に取ったのはペン。そうして死亡者のリストはいつも通りにエルヴィンのサインが書き足され、何の問題も発生することなく処理された。


【幕間 未来を誓う少年と夜】


 リヴァイさんの身長を抜いた頃からオレには一つ秘密ができた。
 調査兵団に保護されてからずっとオレはリヴァイさんの部屋でリヴァイさんと同じベッドに入って眠っている。成長期を迎えてから一度だけ別々のベッドで寝てはどうかと提案してみたが、部屋に二台もベッドを入れる余裕はないと言って、リヴァイさんがその案を受け入れることはなかった。
 当時のオレに別室をもらうっていう考えは全然無く、その理由はおそらく無意識のうちにリヴァイさんと離れ離れになるのを厭ったからだと思う。今はそれを自覚した上で、オレが一人部屋を乞うことはない。
 ただし妥協案なのか何なのか、リヴァイさんの部屋のベッドは少しだけ大きな物と入れ替えられた。おかげで小柄なリヴァイさんと細身のオレという組み合わせなら男二人でも無理なく眠りにつくことができる。
 だが何の心配も悩みもなく眠れていたのはオレがリヴァイさんの身長を抜くまで。
「……ッ」
 深夜、オレは痛みを感じて目を覚ます。
 まずは身動きせず、目が暗闇に慣れるのを待った。しばらくして月明かりを頼りに隣を見ると、絶対に離すまいとでも言うように、オレの腕が大きな手にしっかりと掴まれている。
 手の主はリヴァイさんに他ならない。しかし当のリヴァイさん本人は熟睡中だ。小さな声で「リヴァイさん」と呼んだ程度では目を開けてくれない。オレと出会う前は浅い眠りをほんの少し取る程度だったらしいが、今はその片鱗などどこにも見当たらなかった。
 力加減を考えられていない拘束は掴まれたところが痣になるほど強いものだったが、オレがそれを剥がすことはない。じっと息を潜めて様子を窺っていると、やがて小さな声が聞こえた。
「……ぇン」
 リヴァイさんの寝言だ。しかしオレは笑うこともなくそれに耳を澄ませる。
「ぇ、……レン」
 とっくの昔に成人した男がまるで小さな子供のように、そして何かに縋るように、寝ている所為で不明瞭な発音のまま呼んだ。
「エレン……ッ」
 オレの、名を。
 眠ったままリヴァイさんはひたすら「エレン」「エレン」とオレの名を呼び続ける。そして時々「すまない」と口にした。
 リヴァイさんがオレに対して何か謝らなければならないことをしただとか後ろめたいことがあるとは到底思えないが、オレを保護してくれたこの大人は何度も何度も苦しそうに謝罪の言葉を繰り返す。今夜はそうでもなさそうだが、比較的はっきり喋っている夜には「今度こそ俺が必ずお前に、自由を……」と聞き取れたこともあった。聞き間違いではないと思う。
 寝ている最中のことだから、リヴァイさんは全然それを覚えていない。きっと知りたいとも思わないだろうから――と言うか、知ってしまったら恥ずかしく感じるんじゃないだろうか――、オレがリヴァイさんに教えることもない。オレだけが知っているリヴァイさんの秘密だ。
「エレン……」
 リヴァイさんに名を呼ばれながらオレはきゅうと身体を縮める。胸が締め付けられるように切なく、そして愛おしさで溢れていた。
 たぶんオレはこの人に愛されている。起きている時だって大切にされていると十分感じられるけど、こうして寝ている時でさえオレのことを考えてくれているのだから、きっとオレにとってこの人がそうであるように、この人にとってもオレは特別な人間なのだろう。
 嬉しくて、けれどリヴァイさんが謝罪を口にするたびに切なくて、少し悲しくて。よく分からないまま「あなたの所為じゃない」って言いたくなる。オレは拘束された腕をそのままにしてそっとリヴァイさんに抱き着いた。触れたところから伝わる体温が僅かでも夢の中で苦しむこの人の心を救えればと思う。
 ふとリヴァイさんの顔を眺めると、その目尻から涙が一筋だけ伝っていた。きらきら輝くその軌跡を拭うように唇を寄せると、少しだけリヴァイさんの表情が緩んだような気がする。
「リヴァイさん」
 本人が起きないことは分かっているがオレは小さな声で名前を呼んだ。
 リヴァイさん、あなたが一体何に対して謝罪を繰り返したり、「今度こそ」って言葉を使ったりするのか分からないけれど、この想いだけはあなたに返すことができる。
「自由を得るのはオレだけじゃない。あなたもです。そのためならオレは何だってできる」
 もう与えられるだけの人間じゃない。オレはあなたに拾われ、あなたに鍛えられ、巨人を屠る一人の兵士となった。
 あなたがそうであるように、あなたに危機が迫った時はオレが手を伸ばします。その道を阻むものがあれば、全力で排除します。
「そしていつか一緒に外へ行くんです。炎の水や氷の大地や砂の雪原や海を見て、オレ達は自由なんだって証明するために」
 必ず、見に行きましょう。
 リヴァイさんの瞼に唇を落とし、オレは密やかにそう誓いを立てた。


【6】


 849年。エレンが一兵卒としてだけではなく、リヴァイの補佐役としても業務に慣れ始めた頃。
 調査兵団がトロスト区の訓練兵団を視察することになった。向かうのはリヴァイとその補佐官であるエレンの二人だ。
 リヴァイにとってはこれまでの繰り返しで初めての経験となる。この変化は早々にエレンを己の隣に置いたからだろう。
 視察を命じたのは団長であるエルヴィンで、その理由と言うのが、卒業を来年に控えた第104期訓練兵の多くがエレンと同い年の少年少女であるから、というものだ。それ以上の言葉は要らない。エルヴィンはその訓練兵らに同い年の『人類最強の兵士の補佐官』をお披露目して、調査兵団への興味を煽ろうという魂胆なのだ。
「それにひょっとしたら104期の中にエレンの知り合いがいるかもしれない」
 と腹の色が黒い団長は付け加えたが、彼がそのことを期待しているとは思えなかった。
 しかしながら、指示した男の思惑がどうであれ、リヴァイはエレンを伴ってトロスト区の訓練兵団を訪れる他ない。エレンが自身と同い年の兵士の卵に会えると聞き及んでこっそり楽しみにしていることを知ってしまえば尚のこと。
 そうしてつつがなく予定の日を迎え、リヴァイとエレンは訓練兵団を訪れた。


「ミカサ!? アルミン!?」
「「エレン!!!!」」
 見知った人物の成長した姿を目にして驚きの声を上げるエレン。それに呼応し、黒髪の少女と金髪の少年が駆け寄ってくる。
 シガンシナ区出身のミカサ・アッカーマンとアルミン・アルレルト。リヴァイの記憶にも強く残っている二人は、エレンと引き離された今回も必死にここまで生きてきたようだった。
 巨人の侵入によリマリアから追い出された人々の多くは開拓地へと送られ、厳しい生活を強いられる。そこから抜け出す手段の一つとして訓練兵団への入団を選ぶ若者は少なくない。訓練兵になっても脱落する者など多々いるが、この二人はそれぞれ突出した能力の持ち主であったためここまでやって来られたのだろう。たとえ傍に大切な少年の姿が無くとも。いや、むしろ消えたエレンを探すためだけに必死で生きてきたのかもしれない。
 と、涙を流して再会を喜ぶ三人を眺めながらリヴァイは思った。
 エレンがいないことできっとミカサにもアルミンにも苦しく辛い思いをさせただろう。しかしリヴァイの中に悔いはない。今、リヴァイが望むのはエレンの自由を奪うもの全てから少年を解き放つこと。人類の解放にエレンの巨人化能力が必須であったとしても関係ない。巨人だと忌み嫌われ、最後には助けたはずの民衆にすら死を望まれる運命などクソくらえだ。
 そのために多少の涙が流れようとも構わない。エレンをあんな最期から救うことができるなら、涙も、数多の民衆の血も、全てそのために捧げよう。
 しかし今はそんな暗い考えなど全て無表情の下に押し込め、リヴァイはそっとエレンに近付く。
「お前の友人か」
「はい! 家族のミカサ・アッカーマンと親友のアルミン・アルレルトです。――ミカサ、アルミン、知ってると思うけどこちらは調査兵団のリヴァイ兵士長。オレ、ずっとこの人の世話になってたんだ。調査兵団にも入れてもらって、今は兵長の補佐官までしてるんだぜ」
 エレンはリヴァイヘの返答の後、同郷の二人へと視線を戻してリヴァイと己について説明する。大事な少年の安否が確認でき喜んだ二人は、しかしエレンが危険度の最も高い兵団ですでに兵士として戦っていることを知り、ひゅっと息を呑んだ。が、エレンのきらきらと輝く目を見て言うことは無いと悟ったのだろう。ミカサとアルミンは揃ってリヴァイヘ向き直り、エレンの恩人として深々と礼をした。
「リヴァイ兵長、ありがとうございます」
「おかげで私達はエレンと再び出会うことができた」
「礼には及ばん。お前らが再会できて何よりだ」
 そう答えながらリヴァイが思ったのは、きっと来年この二人は調査兵団への入団を希望するだろうということだった。人を探すためなら憲兵団に属した方がいい。使える権力も探せる範囲も違うからだ。しかし今ここで二人は自分達が探していたエレンを見つけ、しかもエレン本人はすでに調査兵団にいることを知った。ならばもう道は一つしかない。
 きっとミカサもアルミンもエレンを守る強力な守護者となるだろう。何せリヴァイが今のようになる前からずっと、そしていつでも、二人は世界よりエレンに傾倒している。
 エルヴィンの思惑とは少し違うが、この瞬間、二人の実力者が調査兵団に加わることは確定した。
「可能なら俺達の案内役をやってくれ。お前らもエレンともっと話がしたいだろう?」
 アルミンとミカサに向かってリヴァイがそう提案すると、途端に二人の顔が喜色満面となる。揃って心臓に右拳を当て、
「はい! ではキース教官に窺ってきます!」
 アルミンがそう告げるや否や、教官の許可を得るために走り出した。
「……リヴァイさん」
 二人の背を見送ったエレンが傍らのリヴァイを見やる。「なんだ?」と尋ねれば、ほんの少し潤んだ金眼が笑みの形に細められた。
「ありがとうございます」
「ちょうど案内役が必要だったからな。俺もお前も訓練兵団には行っていなかったし」
 軽く肩を竦めてそう答えると、エレンははにかみながら言った。
「リヴァイさんは優しいです。つーか、オレに甘いです」
「俺自身は随分ときつい訓練をさせてきたように記憶しているが?」
「それだってオレに必要なことだったじゃないですか。ただ単に街で保護しただけの子供であるオレにあなたはたくさんのものを与えてくれる。本当に感謝しています」
「俺がしたいからしているだけだ」
「……ああもう」
 ほんのりと頬を染めながらエレンは独り言のように呟く。
「オレの心臓、リヴァイさんに捧げたいなぁ」
 兵士として公に捧げるのではなく、己を導いてくれたあなたに。
 エレンのその言葉を聞いてリヴァイは全身がしびれるほどの幸福を感じた。今すぐにでも抱きしめてやりたい。俺の心臓も身体も全てお前に捧げていると叫びたい。
 だが今はそれをぐっと我慢して、他人には聞かれないよう注意しながらそっと応えた。
「せめてお前の心臓はお前のためにとっておけ」
 何者にも縛られず、自由に生きるために。
 リヴァイのその台詞はますますエレンを感動させたらしい。「〜〜〜!」と声すら出せなくなった少年はぎゅっと金色の目を瞑った。閉じられた目尻がきらりと光る。それに気付かないふりをして、リヴァイは自分より高い位置にきてしまった頭をぽんぽんと優しく叩いた。

* * *

 教官から許可が下り、ミカサとアルミンがリヴァイとエレンの案内役を務めることになった。
 久しぶりに再会した家族や親友と過ごせる時間が増えたことをエレンは純粋に嬉しく思う。これもリヴァイのおかげだ。
 エレンは感謝の気持ちを新たにしながら、施設の説明や訓練兵の紹介を行うアルミンの声に耳を傾けていた。なお、ミカサはあまり喋らず、ずっとエレンにくっ付くようにして歩いている。
 道すがら、二人はエレンの母であるカルラ・イェーガーの近況について教えてくれた。彼女はアルミンらと共に開拓地で暮らしていたが、子供二人が訓練兵団へ入ると同時にハンネスの手助けを得ることができ、今はローゼ内の街で元気に暮らしているとのこと。
 シガンシナ区にあったイェーガー家は超大型巨人が破壊した壁の破片により全壊したものの、カルラに怪我はなかった。いつもならあの時間帯、カルラは家の中で夕食の準備をしているはずだったのだが、直前にエレンが行方不明になっていたためずっと周囲を探し回っていたそうだ。
 しかしながら、父であるグリシャは悲劇の前日に内地へ旅立ったまま今も連絡が取れない。旅先が旅先なだけに巨人に食われている可能性は低かったが、それを語るアルミンとミカサの表情は暗かった。
 それでも、母の安否だけでも確認できたエレンはほっと胸を撫で下ろす。父ならばきっと大丈夫だと二人を励まし、案内の続きを頼んだ。


「あそこにいるのがライナー・ブラウン、ベルトルト・フーバー、アニ・レオンハート。三人ともミカサに次いで今期の訓練兵団では五指に入る上位成績者です」
 兵士の卵らが屋外で対人格闘技の訓練をしている中、アルミンが紹介したのは随分がっしりとした体格の青年と、気弱そうな背の高い青年、それからエレンよりもずっと小柄で全体的に色素が薄い少女だった。
 上位成績者と言うのだからきっと強いのだろう。
(つーか)
 アルミンの説明で引っかかったところをエレンは思わず口にしてしまう。
「ミカサに次いで……?」
「そうだよ。ミカサの総合成績はここのトップだ」
「なっ!?」
 やはり聞き間違いではなかったのだとエレンは驚きに息を呑む。
「ちなみにアルミンは座学でトップ」
「それは納得できるけど」
 ミカサが告げた補足説明には落ち着いて返したエレンだが、まさか自分の家族である少女がそんなにもすごい人間だったとは……。と驚きが冷めない。しかしよくよく考えてみると、シガンシナ区にいた時からミカサはエレンより喧嘩が強い少女だった。と言うより、身体の使い方が常人よりはるかに優れていたので結果として喧嘩にも強かったと表現すべきか。
 そんな彼女が兵士としての道を歩み始めたなら、トップの成績というのも頷けるかもしれない。
「すげぇなミカサ」
「うん、頑張った。何としてでも上位成績者になってエレンを探さなきゃって思ったから。憲兵団を希望するには卒業時の成績が十位以内であることが必須」
「ってことはミカサは憲兵団に入るのか?」
「そのつもりだったけど、エレンを見つけられたからもういい。私はあなたと同じ調査兵団に入る」
 エレンの手を両手で包み込み胸の辺りまで持ち上げてミカサは告げる。だがエレンはそんな彼女の決意に対して反応に窮した。
 調査兵団に優秀な兵が増えることも、長らく離れ離れになっていた彼女と再び共に過ごせることも嬉しい。その一方で、自分の中でミカサが特別な人間の一人だからこそ、安全な憲兵団に行けるはずの彼女が最も危険な調査兵団に所属することを厭う心もある。
「エレン?」
 何も言わないエレンにミカサが不思議そうな顔をした。
「どうかした?」
「いや……」
 エレンは首を横に振る。こちらの思いがどうであれ、ミカサがエレン関係のことで一度こうと決めたなら、それを覆すのは非常に難しいのだ。
「なんでもない。お前がやりたいようにやれよ」
「うん」
「アルミンはどうするんだ?」
「僕も調査兵団を希望するよ。壁の外へ出て世界を探検するのは僕らの昔からの夢じゃないか、エレン」
「ああ、そうだな」
 体力面では心許ないが、アルミンの頭脳はきっと彼の生存と調査兵団全体の役に立つだろう。そしていつかの夢を叶えるのだと、エレンは力強く領く。
 その直後、ふと視線を逸らした時に訓練中であるはずの人物と目が合った。アルミンが紹介したライナーとかいう男だ。その近くにはベルトルトとアニもおり、どちらもエレン達を見ていた。
 彼らがこちらを見るのは別におかしなことではない。調査兵団の有名人であるリヴァイが視察に来ているのだから。現に他の訓練兵達もちらちらとリヴァイを気にしている。
 だがライナーと目が合った瞬間、エレンは脳裏に何かの映像らしきものが流れ、ふらりとよろめいた。
(っ! 今のは何だ)
「エレン、どうした」
 真っ先に気付いたリヴァイがその背を支える。ミカサとアルミンも心配そうな様子でエレンの顔を覗き込んできた。
「あ、えっと……」
 言葉に詰まりながらエレンは先程頭の中を駆け巡った映像を再生させようとする。
 自分がまだ直接目にしたはずのない超大型巨人の姿。しかも至近距離から見た映像。
 女性らしい身体のラインを持つ巨人。そいつがいるのは巨大樹の森と思しき場所だが、それを眺めるエレンの視線も巨人並みの高さがある。
 シガンシナ区の内地側の扉を破ったとされる鎧の巨人と取っ組み合いをしている光景。エレンの視点はその巨人と戦っている何者かのものだった。
 それから――

 カン! カン! カン! カン! カーン!

「!?」
「あ、この鐘の音は………」
 アルミンが答えを言う前に教官の声が場内に響く。
「そこまで! 全員整列せよ!!」
 対人格闘の訓練をしていた訓練兵らが一斉に動き出す。彼らは教官の正面に素早く集合し、敬礼の姿勢を取った。
 その光景を眺めていたエレンはふと気付く。
「あれ……? オレ、何を思い出したんだっけ?」
 その声はあまりにも小さく、最も近くにいたリヴァイにすら聞こえないものだった。
 エレンの脳裏をよぎった映像が何であったのか、また何故それらを『思い出した』と表現したのか。本人すら知ることはない。
(ま、いっか)
 結局、エレンの不調の原因は不明のまま本人が大丈夫だと言い張れば、アルミンらもしぶしぶ案内を再開させる。

 その後、エレンが今回のように何かを思い出す≠アとは一度として無かった。


【7】


 850年。
 ウォール・ローゼ南端トロスト区とウォール・マリアを隔てる壁が超大型巨人によって破壊された。
 何の前触れもなく突如として巨人が現れたことも、壁の唯一の弱点と言える扉を狙って攻撃されたことも、五年前のシガンシナ区と全く同じ。調査兵団は壁外調査として壁外へ出てしまっており、巨人を狩る玄人達が不在のため被害は急速に拡大していった。
 マリア内では巨人が近くの調査兵を無視して北上する様子を見せ、異変を察したエルヴィンが壁外調査の中止を宣言。すぐさまトロスト区へと引き返したものの、彼らが目にしたのはシガンシナの悲劇と同じ、トロスト区の内地側の扉が鎧の巨人によって破られていた光景だった。
 マリア側だけでなく内地側の扉にも技術班がこの五年の間に作成していた特殊な網――扉へ群がる巨人を網についた銛でひっかけ、ヤツらをそのまま肉の壁に仕立て上げるものだ――によって数多の巨人が内地へ侵入することは阻止できていたが、これもそう長く保つわけではない。


「少なくともエレンが生きている限り、アイツの代わりに巨人化できる人間が現れるってことは無いようだな」
 よって、巨人化した人間(エレン)の姿を目にして鎧の巨人による内地側の扉の破壊が見送られるという流れにはならなかったし、マリア側の扉も全く塞がれていない。かろうじて外側・内側の扉共に一時凌ぎは施されているが、明日の昼まで保つかどうか。
 ローゼまで戻ってきたリヴァイは周囲の巨人をあらかた削いだ後、ぽつりとそう呟く。リヴァイの攻撃の邪魔にならないよう他の班員は離れた所にいる別の巨人を担当しているため、その呟きを聞く者はいない。
 超大型巨人、鎧の巨人、女型の巨人は、それに変化できる人間を無力化しても代わりの者が現れることを確認していたが、未だ繰り返す世界の中でエレンに関する変化の有無は今回初めて確認することができた。やはり世界はエレンにあの能力が備わらないだけで簡単に破滅へと向かうらしい。
 構うものか、とリヴァイはもう何度目になるかも分からない言葉を零す。エレンを犠牲にすることでしか成り立たない世界なら、そんなものは要らない。あの少年に可能な限りの自由を与えるため、今のリヴァイは生きているのだ。
「兵長!」
 噂をすれば影、ではないが、リヴァイの思考を占めていた人物が担当の巨人の始末を終えてこちらへやって来た。屋根の上に降り立ち、金色の目をギラギラと輝かせながら蒸発しつつある巨人の血を拭う子供に大きな怪我はなさそうだ。
 外からでは解らぬ程度にリヴァイはほっと胸を撫で下ろす。本人のたゆまぬ努力とリヴァイの指導によりエレンは早くもその辺の兵士など比べ物にならない力を身に着けていたが、やはり特別な相手とあっては心配もしてしまうのだ。しかも今のエレンには驚異的な回復力がない。小さな切り傷でさえ完治するまでにそれなりの日数が必要であり、身体の一部を切断するような事態になれば、その部位は二度と再生しない。
「今のところ外からの巨人の流入は止まっていますが、それでもやっぱり多いですね……」
「もう限界か?」
「まさか」
 エレンは即答した。
 巨人への攻撃的な感情で瞳をギラつかせながら口の端を持ち上げる。
「いくらでも削いでやります。こんなところで負けていられません」
「それでいい。今、エルヴィンと駐屯兵団のドット・ピクシスが壁の穴を塞ぐ算段を付けている。それまで持ち堪えるぞ」
「はい!」
 エレンが答えた直後、二人が立っていた屋根に向かって新たな巨人が腕を伸ばしてきた。十メートル級の巨体が生み出す攻撃を二人は難なく躱し、エレンは下へ、リヴァイは横へと移動する。アンカーもガスも使わない。己の足だけで望む位置へ身体を躍らせた。
 エレンは落下するスピードを活かして十メートル級の左足の腱を深く快る。巨体は地響きと共に片膝をついた。
 動きを封じられた巨人のうなじを狙える位置にリヴァイがいる。屋根から跳んだ時点でリヴァイの身体はすでに回転を始めており、そのまま教本通りの場所をV字に削いだ。
 衝撃でのけぞった巨人がどうと地面に倒れ伏し、蒸気を上げて消滅していく。
 この間、二人に会話はない。出会ってからまだ五年。されど五年。阿吽の呼吸で巨人を一体削ぎ終えると、息つく暇もなく二人はアンカーを射出して空中へと飛び上がり、こちらに近付きつつある巨人の殲滅を再開させた。


 日が暮れ、巨人の動きが鈍くなり始めた。個体差はあるものの、一体また一体と徐々に活動を停止していく。
 巨人を狩るには絶好のチャンスと思われるかもしれないが、人間は左程夜目が利くわけでもなく、また暗くなってもある程度の時間なら動ける巨人がいるため、危険度は昼間と変わらない。
 加えて壁外調査から引き続き街に戻って巨人を削ぎ続けた調査兵らは酷く疲弊していた。先陣を切るようにしてトロスト区内の巨人やマリア側の壁に群がる個体を削ぎ続けたリヴァイとエレンもそれは同様で、身体は休息を強く訴えてくる。
 そろそろ退却した方がいいだろう。でなければ自分達が巨人に殺される側になってしまう。
 リヴァイがそう思ったのと時を同じくして、壁上から黄色の煙弾が上がった。撤退の合図だ。
 兵士らは一斉に最寄りの壁へ飛びつき、巨人の手が届く前に壁上へと到達する。リヴァイの傍には一人も欠けずに生き残った班員らが集まっていた。
「ご苦労。状況から察するに、どうやらまだエルヴィン達に名案は浮かんじゃいないらしい。今夜中に何も進展しねぇなら、俺達は明日も朝から巨人を狩ることになる。夜の間にしっかり身体を休めておけ。装備の点検も怠るな」
「「「「「はい!」」」」」
「よし、では解散」
 班員らは左胸に拳を当て敬礼の姿勢をとった後、リヴァイの前から去っていく。そのまま兵舎に戻る者、友人知人の安否を確かめに行く者等様々だが、彼らの行く先までリヴァイの感知するところではない。
 リヴァイは唯一その場に残ったエレンヘと視線を向けた。少年はリヴァイの視線に気付いているはずなのだが、右頬に西日を浴びながらずっと南方を睨むようにして眺め続けている。
 黄金の瞳が向けられた先にいるのは巨人。だがエレンが本当に見つめようとしているのは、きっとその先にあると信じてやまない自由だ。
 エレンの夢は壁の外の世界を見ること。それを目にすることでエレンは自分が自由であることを証明できる。故郷を奪われた憎しみで今は巨人の駆逐を最終目標としているような口ぶりだが、本来エレンが望むものはそれであり、生きる意味のようなものでもあった。
 だがエレンの巨人化能力が存在しない以上、この世界で巨人の駆逐を達成することはほぼ不可能だと思われる。つまリエレンの夢は叶わない。
(……これで本当に良かったのか?)
 真っ直ぐに南を見つめるエレンの横顔を眺めながらリヴァイの胸に訪れた疑問。それを意識した瞬間、表情には出さず胸の内だけで舌打ちをする。
(今の方がマシに決まっている)
 何故なら、たとえ勝利を掴んでもエレンは夢を叶えられずに死んでしまうのだから。
 ようやく外へ行けるのだと希望に胸を膨らませていたエレンが民衆から死ねと言われた時の顔。あれを思い出すだけでリヴァイは腸が煮えくり返りそうになる。それまでどんな不遇にも耐えてひたすら努力してきた分、外に出ることも許されず、ただひたすらに死を望まれ、首に刃を当てられた子供の絶望は如何程のものだっただろう。そんなものを味わわせるくらいなら、巨人化の能力も世界も要らない。必要であるはずがない。
 まるで自己暗示でもかけるようにリヴァイは胸中で何度もその考えを繰り返した。ほら、見てみろ。今のエレンは忌々しい力に悩まされているか? 周囲の人々の視線に傷ついているか? いないだろう? だから、これが正しい。

 ……………………本当に?

「エレンよ」
 迷いが生まれた瞬間、リヴァイは半ば無意識に問いを放っていた。
「もし人間一人よりも効率的に巨人を殺すことができ、あそこに見える大岩で壁の穴すら塞ぐことができる力があったとしたら、お前はそれを手に入れたいか。力を得たことで周囲から恐れられたとしても」
「どういうことですか?」
 エレンの双眸がリヴァイに向けられる。小首を傾げた少年の瞳は黄金に夕焼けの赤が映り込み、燃えるような輝きを放っていた。
 その輝きに魅入られながらリヴァイの口は言葉を紡ぎ続ける。
「たとえば巨人になれる力ってものがあったとしたら。つまり、お前が駆逐すると誓った巨人になっちまうんだ。力は強く、人にはできないことができる。だが、人類のために貢献しても最後には巨人だ怪物だと恐れられて殺される。それでもお前は力を手にしたいと望むか? この世界の壁を取り払ってやりたいと望めるか?」
「……」
 きっとエレンには何が何だか分からない問いだっただろう。いきなり『人間が巨人になったとしたら』という例を出されても、そういうものを考えたこともない人間が咄嵯に答えを出せるはずがない。
 しかし金の双眸が逸らされることはなく、リヴァイが黙してじっと待っていると、やがてゆっくりとエレンの唇が開いた。
「わかりません」
 エレンは少し困ったように笑ってそう言った。
 だが瞬き一つで淡い笑みは姿を消し、代わりにずっと前からリヴァイの心を捕らえて離さない輝きが溢れ出す。
「でも、望んでいても望んでいなくても、もしそんな力を持ってしまったならば、オレは力を隠すことなく使うでしょう。たとえ世界中から怯えられ、忌み嫌われても。ただし殺されるのだけはカンベンですね。その時は何としてでも逃げ切ってみせます。だってオレの夢は自由になることですから。壁の中に俺の欲するものはありません。誰も見たことの無いこの世界の景色を見ることが俺の望みです。――叶うならば、あなたも一緒に」
 夕焼けの所為だけでなく目元を朱に染めて、興奮気味にエレンはそう答えた。それから自分の主張が恥ずかしくなったのか、へにゃりと眉尻を下げると「先に戻ってますね」と言ってリヴァイの横を通り過ぎる。
 その背中すら見送れぬまま、リヴァイはじっとエレンが立っていた場所を眺めやった。
 エレンが出した答えは、実際に巨人だと罵られ、恐れられた経験がないから言えたことだろう。しかしあれこそ『エレン・イェーガー』が抱え続けてきた本心だというのもまた事実。
 気付いた瞬間、リヴァイは分からなくなる。何が正しかったのか。
 たった一度だけ経験した人類の勝利。何よりも屈辱的な、特別な子供の死。あの時、何をすれば良かったのか。どうすればエレンを救えたのか。
 リヴァイは俯き、ぐしゃりと前髪を掴んだ。
「……俺には、わからない」


 迷いも悩みも解決されぬまま、それでも朝は容赦なくやってくる。
 調査兵団と駐屯兵団のトップは未だに名案を捻り出せず、リヴァイ達は消耗戦に突入した。
 トロスト区内の巨人は徐々に数を減らしているが、ローゼの壁に群がる巨人は刻一刻と数を増している。破られた扉を塞ぐ網が限界を超えた瞬間、地獄は再び始まるだろう。
 少しでも長く網を維持させるため、リヴァイとエレンは壁の外に群がる巨人を削ぐ役割に回った。ウォール・ローゼやその周辺の家々にアンカーを刺し、ガスを噴かせ、巨人のうなじを削ぎ続ける。しかし削いでも削いでも次々に巨人は南からやってきた。終わりなど見えない。どこにもない。
 リヴァイはまるで自動人形のように何も考えず巨人を屠る。しかしその耳にエレンの声が聞こえてきた瞬間、ただ巨人を削ぐだけだった身体が思考を再開させた。エレンは「はぁッ!」と気合のこもった声を上げながら、リヴァイに教え込まれた技術全てを駆使して、人類最強に次ぐ鮮やかさで巨人のうなじを削いでいる。その顔に肉体的な疲弊はあっても、精神的な疲れはない。彼の胸には外の世界を探検するという無限にも近いエネルギー源があるのだから。
(それを、俺は全て無駄にしようとしているのか?)
 エレンを守るつもりで、腐った運命から自由に羽ばたかせるつもりで。結局はリヴァイ自身が何よりもエレンの翼を無残に手折っていたのではないか。
 その考えを抱いた瞬間、リヴァイの足が止まる。視線の先で、地上に降り立ちそこから動こうとしないリヴァイを見つけたエレンが息を呑んだ。こちらに何か異常があったのかと、顔を真っ青にしながら跳んでくる。せめて一秒でも早く高い所に上がって安心させてやらねばならないのに、リヴァイはもう指一本すら動かせる気がしなかった。
 背後からは巨人が接近してくる気配。足音と振動は徐々に大きくなり、正面のエレンの目が見開かれる。
「リヴァイさん!」
 ザンッ! と必要以上にうなじを深く挟られた巨人がリヴァイのすぐ近くに倒れ伏す。正式な兵士になってから仕事中はリヴァイを「兵長」と呼ぶようにしていたエレンだったが、この時ばかりはそんなことに気を回す余裕が無かったようだ。
 それが少しおかしくてリヴァイは口の端を片方だけ持ち上げる。
「何やってんですか! ほらっ! 上、行きますよ!」
 ぐいっとリヴァイの身体を抱えてエレンが跳ぶ。心配です、とデカデカと顔に書かれたエレンを見て、リヴァイは「すまない」と口を開こうとした。
 しかし、
「ッ!」
 エレンがリヴァイの背後にいた何かを見て目を瞠る。そして迷わず抱きかかえていたリヴァイの身体を突き飛ばした。リヴァイは背中から家屋の屋根にぶつかり、そうして、
 ――この世の終わりと対面する。
「エレン……?」
 びしゃびしゃと。
 全身に降り注ぐ、生温くて、生臭くて、生々しい赤い色をした、雨。
「えれ、ん」
 ぼとりと空から落ちてきたのはまだ成長しきっていない少年の腕だ。
 リヴァイが見上げた先では、先程の巨人とはまた別の、どこかに隠れていたらしい奇行種と思しき個体が口の周りや歯を真っ赤に染めて何かを咥えていた。
「だ、じょぶ……です、か?」
 巨人の歯を身体に喰い込ませながら金色の目をした少年がリヴァイにそう語りかけている。
 千切れた腕が再び生えてくる気配はない。親指の付け根を噛んで今すぐその汚い場所から抜け出すような様子もない。普通の人間と同じように、その身体から命が急速に零れ落ちている。当然だ。今のエレンはただの人間なのだから。
「エレ――ッ!」

 ぐしゃ ばきばき ごくん

「ぁ……」

 リヴァイは両目を大きく見開く。

「あ、ああ」

 こんなにも頑張ったのに。こんなにも大切にしたのに。
 ただひたすらその子の幸せだけを願ったのに。

「あああ、あ、あああ、ああああああ」

 皮肉にも、これまでの繰り返しの中で最も早くエレンはリヴァイの前から消えてしまった。

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 喉から血が出んばかりにリヴァイは叫ぶ。天に向かって。
 何が、守る、だ。何が、解放してやる、だ。誰よりも何よりもリヴァイの所為でエレンは死んでしまった。神にすらなってやると豪語したくせに、結局のところ偽神にすら、機械仕掛けの神にすら、リヴァイはなれない。
 もう何をしていいのか分からなくなる。
 何をすればエレンは生きられるのだろう。あの輝かしい夢を叶えることができるのだろう。自由に羽ばたくことができるのだろう。
 どうすれば。どうしたら。
 禁書に記された『神』ならば、それを理解しているとでも言うのだろうか。
「ああ……」
 リヴァイは両手で顔を覆う。
 視界を塞ぎ、訪れた暗闇の中で。
 ぽきり、と。
 何かの折れる音がした。


【8】


 845年、シガンシナ区。
 まだ『人類最強の兵士』という呼称は世間一般に広まっておらず、ただ調査兵団内でのみ、群を抜いて強い兵士がいるという話に留まっている。その噂の兵士――リヴァイは、生来の鋭い双眸を暗く濁らせたまま外界と接する扉に向け馬を操っていた。
 周囲には同じ兵団に所属する兵士らが同じように騎乗し、隊列を組んで街中を進んでいる。近くには共に地下街から上がってきた赤髪の少女と銀髪の青年もいた。本来ならば入団後初の壁外調査中にリヴァイが怒りにまかせて自分勝手な行動を起こし、視界最悪な大雨の中で取り残された二人が巨人に囲まれ無残な死を遂げる運命にあったのだが、皮肉にも怒りを抱く気力さえ失ったリヴァイがずっと大人しくしていたことによって、無事に生き残っていたのだ。
 感情を昂らせることなど最早できはしない。胸には大きな穴が空き、もう何を目的にして生きればいいのか、今のリヴァイには全く分からなかった。
 人類の勝利を掴んでも、不遇に耐えて身を削り続けたあの子供は殺される。かと言ってその死の根本原因たる巨人化能力から遠ざけ、代わりの力となるよう本人が望むままリヴァイが持つ全ての技術を叩き込んだ『前回』では、これまでの経験の中で最も早く巨人に食い殺されてしまった。
 どうすればあの子供を救うことができる?
 そもそもリヴァイはあの子供を救うことができるのか?
 今のリヴァイはそんな疑間を抱えたまま、何もできず無気力に、そして周囲に望まれるまま巨人を狩り続けるだけだ。そうしているうちに運命の年、845年がやってきてしまった。
 いっそのことあの子に近付かない方が良いのだろうか、とも思う。自分を庇って巨人に食われた少年の姿を思い出し、リヴァイは元々青白い顔を更に青褪めさせた。
(ああ、最悪の気分だ)
 目深にかぶったままのフードが煩わしい。
 リヴァイの濁った瞳と視線が合うと兵士はことごとく怯えるため、それが鬱陶しくなって兵団に入ってからはずっと視線を遮るものを身に着けるようになっていた。が、今は慣れたはずのそれすら気分が悪くて仕方がない。
 もう周囲の視線など気にするものかと、リヴァイはフードを取り払った。その、直後。
「――さん!」
 ぴくり、とリヴァイが顔を上げる。まだ声変わりもしていない、けれどリヴァイが確かに聞いたことのある少年の声が耳に届いた。
 ウォール・マリアが破られておらず調査兵団は何の役にも立たない集団だと世間から厳しい目を向けられている昨今、それでも壁外調査出発時には隊列の左右に見物人の姿が数多く見られる。その雑踏に紛れて声の主の姿は見つけられない。そもそも本当に現実の声だったのかとリヴァイは迷う。
 しかし声はもう一度、そしてはっきりと聞こえた。

「……さんッ! リヴァイさん! リヴァイ兵長!!」

 息が、止まるかと思った。
 大きく見開かれたリヴァイの両目が声の主を見つける。それは茶色のカーディガンを身に着けた、どこにでもいそうな黒髪の少年。しかし黄金色の双眸に宿った意志は強く、他者を圧倒するほどの輝きを有していた。それが真っ直ぐにリヴァイを見つめている。
 リヴァイは「鳴呼」と声を漏らした。
 今、この兵団に『兵士長(兵長)』という役職を持つ者はいない。
 兵士長とは階級の序列に属さない例外的な役割であり、常に誰かが負っているものではない。リヴァイの名がもっと世間に広まってようやく『リヴァイ兵士長』という呼び名が誕生する。しかしあの幼い子供はまだ存在していない役職名をつけて、知名度の低い一兵卒の名を呼んだ。
 これの意味するところを理解できないはずがない。子供の方も、その幼い外見とは異なりもっと成熟した精神で考えた結果、わざと『兵長』という呼称を使ったのだろう。リヴァイの反応を、ひいてはリヴァイの記憶の有無を確かめるために。
 そして青灰と黄金の視線が交錯し、二人は同時に互いの記憶の有無を確信する。
「エレン」
「ッ、リヴァイさん!」
 リヴァイの口がその名を呼んだ瞬間、少年――エレンは怒鳴る民衆を押し退け、困惑する隊列をかき分け、リヴァイの元へ駆け寄ってきた。足を止めていたとは言え、背の高い馬の身体へ器用に乗り上げ、リヴァイの胸に顔を押し付ける。
「リヴァイさんリヴァイさんリヴァイさん……!」
「あっ、おいコラそこのチビガキ! 兄貴に何やってんだよ!」
 近くにいたイザベルが咄嵯に声を荒らげた。しかしエレンは、彼女とは対照的に両目を笑みの形に細めて柔らかな声を出す。
「イザベルさんもファーランさんもちゃんと生きてるんですね。良かった……。オレの記憶じゃ、いる時といない時があったから」
「お前……」
 リヴァイは目を丸くする。
「まさか全ての記憶があるのか?」
 イザベルとファーランが兵団にいるか否かは、その時によって異なる。それを知っているということは、少なくともエレンが両方のパターンの記憶を所持しているということだ。
 金色がリヴァイを見上げ、「はい」と簡潔に肯定した。
「本当に全部かどうかは分かりませんが、二人がいる世界もいない世界も、調査兵団が王政府に潰された世界も、人類が巨人に負けた世界も、勝った世界も……。そこで、オレが殺されたことも。リヴァイさんがオレを誘拐して°瑞l化能力を手に入れないよう計らって、兵団では補佐官として傍に置いてくださったことも。覚えていますよ」
「なんだ、俺がお前をシガンシナから連れ去ったってことに気付いていたのか」
「あの時は分かりませんでしたけど。でもこの世界で記憶を取り戻してよくよく考えてみたら、ああアレは兵長だったんだろうなって。それに今、本人が自供してくれたので、予想は確信になりました」
 それでもリヴァイに抱き着くことを止めはせず、むしろエレンはもっと強くぎゅうぎゅうと腕に力を込めた。
 リヴァイの馬が足を止めたことでその前後から隊列が乱れ始め、兵士らが何事かと二人の様子を窺っている。しかし何も知らない彼らがリヴァイとエレンの事情を悟ることはない。まるで異なる世界の人間が話す言葉を聞いているような気分だろう。
「リヴァイさん」
 そんな不躾な視線を気にすることなく、エレンは真っ直ぐにリヴァイだけを見つめた。
「あなたに出会えて良かったと、オレはどの世界でも思っています。あなたはいつだってオレの光で、導き手で、追いかけるべき背中だった。……でも、そろそろ追いかけるだけってのは止めようと思います」
 背中に回されていた小さな手がすっと持ち上がり、リヴァイの両頬を優しく包み込む。
「もう二度とあなたにこんな暗い目はさせません。途中退場も絶対にしません。一緒に戦いましょう。そして今度こそ夢を現実にするんです」
「こんど、こそ……?」
「はい!」
 震える声で呟くリヴァイにエレンが大きく頷く。
「今度こそ、オレはあなたと世界が見たい!!」
「……ッ」
 リヴァイの頬をほろりと一粒の輝きが滑り落ちた。
 それを皮切りに雫は次々と目から溢れ出し、エレンの指に触れ、まだ柔らかい手を濡らす。
 リヴァイは両手で小さな濡れた手を上から包み込み、泣き顔をさらしたままエレンと額を合わせた。まるで神に祈りを捧げる信徒のように、両目を閉じて誓いの言葉を口にする。
「ああ。見よう」
 頬も額も、そして心もあたたかい。
「俺と、お前と、それからお前のことが大好きなヤツらと。皆で、今度こそ世界を見に行こう」
 ついに完全停止してしまった隊列のど真ん中で、一人の大人と一人の子供がこれ以上ないと言わんばかりに幸せそうな笑みを浮かべた。






機械仕掛けの神すら遠く







2014.07.17〜2014.08.02 pixivにて初出