男にとってその子供は化け物だった。
 ぎょろりとした大きな目をギラギラ光らせて巨人の排除を望み、どんな暴力を受けても己の意に沿わぬものには屈しない。もし無理に従わせようとすれば、子供はその者の喉を切り裂いてでも反抗するだろう。巨人化の能力など関係なく、子供はその根幹がすでに化け物であった。
 そして男もまた化け物である。
 最強などと言う耳触りの良い音で飾られてはいるが、それは化け物の別称に過ぎない。人類最強――つまり人類の枠から外れてしまったモノ。
 数多の仲間に囲まれながらも男は孤独だった。仲間は皆人間であり、そして男は化け物であったから。
 そんな男の前に現れた子供は何も知らずに男を孤独から救い上げる。男を英雄などと思っている子供は当の男からたった一人の同胞だと思われていることに気付きもしない。だがそれでいい。男は一方的に、ひそやかに、子供を傍に置き、慈しみ、己が心の孤独を埋めることにした。


case_01(夜明け前)


 リヴァイはその生い立ちゆえ、あまり『一般家庭で子供が親から受ける愛情』について詳しくない。そういった無償の愛に関しては、どこからともなく聞きかじった知識だけで形成されている。
 なので、十歳の時に親から引き離された子供が寝室となっている地下室で魘されていても、こういう対処方法が本当に正しいのかどうかは分からなかった。
 小さな呻き声が聞こえる地下に足を踏み入れ、なるべく音を立てないよう鉄格子の扉を開く。ベッドの上ではエレンが身体を丸め、悪夢のためか額に汗を浮かべていた。
 リヴァイは魘されているエレンにそっと近付き、汗で湿った顔を撫でる。そうして前髪を掻き上げて露わになった額に唇を落とした。触れるか触れないかの軽さで、ゆっくりと。
「エレン、大丈夫だ」
 何が大丈夫なのかリヴァイ本人にも分からない。この子供がどんな悪夢を見ているのか知らないからだ。しかしこれが魔法の言葉であることをこの古城に来てからの経験で学んだ。
「エレン、大丈夫。大丈夫だ」
 囁くように繰り返し、その合間に羽根のようなキスを贈る。額は汗で濡れていたが、嫌悪感は無い。湿った頬を撫で、耳の後ろを指でくすぐり、優しく優しく髪を梳いた。
 しばらくそれを繰り返しているとエレンの呼吸が落ち着いて、呻き声も止んでくる。子供が安らかな寝顔を取り戻したのを確認したリヴァイはもう一度だけその額にキスをしてそっと牢を出た。
 音に注意して施錠し、地上へ戻る。
 太陽はまだ顔を出していない。子供の安らかな眠りはもう少しだけ許されていた。


case_02(昼)


 午前中に掃除を終えて、現在、古城の中庭ではエレンが先輩兵士らと共に訓練に励んでいる。二日に一度の大掃除は昨日だったので、今日は訓練の時間を多くとることができた。
 リヴァイら班員の居住スペースから離れた城壁にアンカーを突き刺し、ぶら下がって庭へ視線を落としているエレン。その先には彼の動きをチェックするグンタとペトラがいる。
 城内を歩いていたリヴァイは窓からその光景を見かけ、足を止めた。先輩の指示を受けて新たにアンカーを放つエレンの姿を目に映す。
 訓練兵団の成績が優秀であることは知っていたが、やはり壁外調査から帰ってきた兵士らと比べればまだまだ拙いところが多々見受けられた。それでも筋は悪くない。またエレンは努力家だ。今日できないことがあっても、数日後にはきっとできているだろう。
「兵長」
 背後から名を呼ばれた。相手が近付いて来ているのは気配と足音で察していたので驚くことはない。リヴァイは窓から視線を剥がして己に呼びかけたエルドを振り返る。
「なんだ」
「先程、早馬で連絡が」
「わかった。部屋で聞く」
「はい」
 エルドと共にリヴァイに割り当てられた執務室へ向かう。その道すがら、リヴァイはぽつりと告げた。
「エレンが立体機動の訓練をしていたようだが」
「はい、グンタとペトラが見ています」
「ああ。さっき窓から見えた。それで――」
 エレンの動きを見て気になったことを二・三挙げていく。
 そして最後にリヴァイは、
「エレンにそれとなく伝えておいてやれ。俺の名前は出さなくていい。逆に萎縮しちまう」
「……わかりました」
 エルドの表情がほんの少し柔らかくなった。


case_03(夜)


「海をね、みたいんれす」
 少し目を離した隙に新兵が酔っぱらっていた。夕食を済ませ、各自就寝までの自由時間を過ごしていた時のことだ。
 執務室に籠もっていたリヴァイが喉の渇きを覚えて食堂に向かうと、本日、オルオと共に夕食の片付けを担当していたエレンが机に突っ伏していた。声をかけるとまだ意識はあったものの、子供が握っていたコップの中からはアルコール臭がした。おおかたオルオが去った後、誰かが持ち込んだ酒をエレンが誤って口にしてしまったのだろう。
 目元をほんのりと赤く染め、瞳をとろりと蕩かせて、エレンは正面の席に腰掛けたリヴァイへ笑いかける。
「海じゃなくても、壁の外にあるもの、なんでも。むかし、あるみんが教えてくれました。炎の水、氷の大地、砂の雪原、海。海っていうのは途方もなくでっかい塩水の水溜りらしいれすよ」
「……お前はそれが見たいのか」
「見たい、です。だってそれを見たヤツはこの世界で一番自由なんだってことでしょう?」
 エレンの本心がそこにあった。
 この化け物は壁の中の不自由を本能的に知っている。まだ壁の外に出たこともないくせに。壁の外の景色も空気も知らないくせに。それでも、知っていた。
 酔ったエレンは話し相手が誰なのか認識も曖昧なままキラキラと大きな目を輝かせて夢を語る。リヴァイが馬鹿にしないのもそれに一役買っているのだろう。
「エレン」
「はい?」
 こてん、とエレンが小首を傾げた。「なんですか?」と。
「炎の水、氷の大地、砂の雪原、海……だったか。それ、見られるといいな」
「はい!」
 へにゃり、と。子供は笑う。
「ぜったいに見てやります」
 きっとこの出来事は酒に酔った子供の記憶に残らない。それでもリヴァイの中に、今晩のことはずっと残っているだろう。


case_04(深夜)


 月が中天にかかる頃、リヴァイは足音に気を付けながら地下室を訪れた。施錠とエレンに枷を付けるため数時間前に一度訪れたそこはすでに明かりが落とされ、一人分の小さな寝息だけが聞こえている。
 その寝息の主は夜明け前と異なり魘されてはいないが、やはり気配を殺して近付くリヴァイに気付けない。リヴァイは牢の扉を開錠し、中に入った。
 ギリギリまで光を抑えたランタンでエレンの寝顔を確認する。夢を語る時はキラキラと、巨人の駆逐を誓う時はギラギラと輝く瞳は瞼の奥に隠されており、苛烈さを潜めた少年は年相応かそれより少し幼く見えた。
 上掛けから飛び出した腕を取り、リヴァイはそっと持ち上げる。何のケアもしない手はボロボロかと思いきや、巨人化能力の副作用でいつでもある程度の美しさが保たれていた。
 綺麗な形の爪が指先を彩っている。太陽の下で見たそれは淡いピンク色で、灯りを絞ったランタンの下では濃いオレンジ色をしていた。
 男で、兵士の手だが、まだ若い。エレンは幼い化け物だ。リヴァイの半分くらいしか生きていない。だが化け物であるリヴァイと唯一対等な位置に立ってくれる『奇跡』だった。
「エレン」
 リヴァイは持ち上げた手に顔を近付ける。エレンは起きない。安らかな寝息を立てている。
 その寝顔を一瞥した後、リヴァイは幼い化け物の指先にそっと唇を落とした。
「おやすみ」






おはよう、おやすみ、モンスター







2016.06.04 Privatter(穂高さん/全体公開)にて初出→2014.06.15 Pixivにも掲載

穂高さん主催のリヴァエレ文字書き当て企画に参加させて頂いた作品です。お題は『進撃の世界での日常の一コマ、古城が舞台のお話』(リヴァイ班の生死・時間軸・年齢操作等は自由)でした。