【1】


 リヴァイ・アッカーマンは小説家である。
 人間が化け物と戦うタイプのファンタジー小説で二十代の終わりに遅いデビューを果たし、以降はその物語の続きや、随筆、評論など様々なタイプの『物書き』に手を出している。それらが空前の大ヒットとまではいかずとも、それなりに好評を博しているため、リヴァイは物を書いて十分に生活することができた。
 そこそこ売れているリヴァイの本の中でも、一番の人気はデビュー作でもありシリーズ化され今も続いている『AOT』だ。リヴァイ・スミスのペンネームで世に送り出した物語は残酷で凄惨。しかし過酷な運命に立ち向かう人々の強い意志が感じられる。それが十年経った今でも読者の心を掴んで離さなかった。
 また『AOT』は昨今のライトノベルに分類される文庫サイズ&若者が好みそうなキャラクターの挿し絵のものではなく、ハードカバー&挿し絵に人間(個人が判別できるもの)が登場しないという様相を呈している。表紙と数少ない挿し絵は出版社が選んだ写真家の作品を加工して作ったものらしく、現実世界のどこかを切り取った絵であるはずなのに、どこでもない場所を写しているような印象を見る者に与えた。
 ヨーロッパ調だがどこの国なのかどこの文化なのか判断できない廃墟の写真。水なのか、血なのか、迷わせるような液体が壁に飛び散ったモノクロのワンシーン。奇妙な格好の剣を握った男の手。
 独特の雰囲気を持つそれらの写真をリヴァイはひっそりと気に入っている。この年で声を大にして主張するのはなんだか恥ずかしく思え、あまり他人に話したことはない。一応、自分の担当をしている出版社の人間に、自分が出す他の本でも(写真家の方がOKを出せば)彼または彼女の写真を使ってくれないかと伝えてあるが。
 十年もリヴァイの本に写真を提供してくれるその写真家の名前は担当者に尋ねずとも知っている。出版された本のカバーや最後のページにきちんと印刷されていた。「エレン」だ。ファミリーネームはない。これがリヴァイの代表作に色を添えてくれる写真家の名前だった。


「そう言えばね」
 喫茶店で担当者と次回作の打ち合わせをしていると、その担当――ハンジ・ゾエ女史が眼鏡の奥の目をきらりと光らせてこう言った。
「エレンが写真集を出すよ」
「……そう、か」
 紅茶のカップをソーサーに戻してリヴァイはぽつりと答える。だがハンジは白けるどころかますます口元を歪ませて笑った。
「発売は来月。しかし我が編集部にはすでに刷り上がったエレンの写真集が少量搬入されていてね」
「あの写真家はお前らのところの担当じゃなかったはずじゃ……」
「うん。でもあなたの本に使わせてもらってるっていう繋がりがある」
 ハンジはチェシャ猫のようにニヤニヤしながら「でね」と続ける。
「リヴァイ、欲しい?」
「は……」
「今なら『次回作のアイデアを得るため』って名目で一冊融通できるよ。一般の人より一ヶ月早くエレンの写真集をゲットするチャンスだ。どう?」
「…………」
 リヴァイはカップを持ち上げて再び紅茶を口に含む。この個人経営の喫茶店は紅茶が美味く種類も豊富でリヴァイのお気に入りの店なのだが、この時ばかりは香りも味も楽しめなかった。
 エレンの本が手に入る。
 発売日に購入しよう、いやこの店を出た後すぐに予約しよう。と、最初に思った。
 しかしハンジが続けた言葉が本当なら、ここで彼女に対し一言「頼む」と言うだけでエレンの本が一ヶ月も早く手に入る。
「リヴァイ?」
 こちらの心情を見透かした担当者はケーキをつつきながら笑っている。
「…………」
 リヴァイは観念した。それからこの一ヶ月間はハンジがどんなに汚い格好をしていても蹴るのだけはやめておこうと誓う。
「頼む」
「ああ、頼まれた!」


 と、言うのが昨日の話。
 ハンジは話をした翌日にリヴァイが住むアパートメントを訪ねてきた。
 リヴァイが住むアパートメントは1DKタイプで、男一人が暮らすには十分だと本人は思っている。風呂とトイレが別々になっているので更に文句はない。ハンジは「あなたの収入ならもっと広いところに住めると思うけどね」と苦言らしきものを呈すのだが、リヴァイには馬耳東風である。
「相変わらずお隣さんは不在?」
「ああ。……いや、三日前に一度帰ってきたようだった。次の日にまた出かけたがな」
「ふーん」
 リヴァイの隣人は少し変わっている。
 男の一人暮らしというのは推測できるのだが、顔すらまともに見たことがない。なぜなら隣人は不在であることがとても多いのだ。リヴァイがこの部屋に越してきたのは五年前なのだが、その時挨拶に伺おうと何度かチャレンジしたものの全て失敗に終わった。
「はい、これ。エレンの写真集ね。分かってるとは思うけど、手に入れたことを外では言わないこと。発売前だから」
「ああ」
「他に何か用はある?」
「いや。次回作の件は何か思いついたらこちらから連絡する」
「了解。待ってるよ」
 そう言ってハンジは早々に部屋を出ていく。彼女もあれはあれで忙しいらしい。編集部内では密かに次期編集長は彼女ではないかという噂が立っているのだが、その辺のことをリヴァイは知る由もない。
 ハンジが去って静けさを取り戻した部屋でリヴァイは早速写真集を開いた。
 ほとんどが初めて見るものだが、リヴァイの本に使われた写真もある。ただ、初めて見る写真の多くは本に使われているのと同じくどこの地域のものか判別が難しい。おそらくエレンはその地域を活動拠点にしているのだろう。ひょっとしたら意外とエレンはその辺りに住んでいるのかもしれない。つまりこの写真は彼の日常をそうとは知られぬよう切り取ったもの、というわけだ。
「……ってのは考え過ぎか」
 一つ思いついたことをこねくり回して一本の物語に仕上げるのが小説家の仕事であっても、さすがにこれはただの妄想だろう。だがその妄想を起点にしてリヴァイは次回作について思いを馳せた。
 日常。怪物もおらず、大した事件も起こらず、淡々と過ぎていく日々。だがリヴァイの日常にはほんの少しスパイスになり得る要素があった。――隣人のことだ。
 セキュリティがあまりしっかりしていないこのような築云十年のアパートメントに住んでいるのだから、隣人はきっと男だろう。しかし表札に出ているファミリーネーム以外は、ファーストネームも、顔も、年齢も、職業も、体格も、何も知らない。長期間家を空けていて、帰ってきたと思えばすぐにまた出ていく。不思議な隣人。
 この状況、ネタにならないだろうか。
 ただしありのままを書くだけではつまらない。その辺はフィクションを織り交ぜて読んだ人が心躍らせる物語に仕上げればいい。たとえば隣人の職業を勝手に決めて、そんな隣人が起こす事件に巻き込まれていく主人公の話だとか。
「……」
 リヴァイは写真集を丁寧な手つきで閉じると、それを本棚にしまってパソコンを立ち上げた。思い付いた時にすぐ書けるよう、愛用のノートパソコンは常時スリープ状態だ。すぐ使用可能になったそれに早速思い付いたネタを打ち込んでいく。
 パチパチパチパチッと高速タイピングで思い付く言葉を羅列し、それを整理し、あらすじを作っていく。量はそんなに多くない。あとでハンジにこの内容をメールで送信してチェックしてもらう必要があるからだ。彼女が担当としてOKを出したら、編集部の会議に出すためのより詳細なものを作る。ただしハンジに見せるレベルのものでなくとも思い付いたことはひとまず全てメモした。
 最後にファイルの上書き保存をしてリヴァイは「ふう」と息を吐く。時間が押していない限りすぐに送るようなことはしない。ハンジにメールするのは、一晩置き、改めて見直してからになる。そうすると今この瞬間では見えていなかったことが見えるようになったりするのだ。
「ひとまずこんなもんか」
 そう言ってリヴァイはパソコンを再びスリープモードにする。
 当然のように、その日も隣人は帰って来なかった。


 一晩置いた案を翌朝もう一度確かめ、少々修正を施してからハンジへ送信。まず十分後に受領の知らせが返信され、同日の昼過ぎには内容を確認しこの方向で進めて行こうという旨のメッセージが届いた。
 それを読んだリヴァイは、続いて編集部内での会議に出すための詳細なプロットを書き始めた。リヴァイが世話になっている出版社では、担当がOKを出したものより更に詳しく書かれたプロットを元に編集部全体として本にするか否かが決定される。
 リヴァイが会議に提出するプロットを書き終えるのに三日。見直しに一日。一旦ハンジに見せて彼女がチェックするのに半日。そこから彼女と対面して打ち合わせを行い、指摘を受けた部分の修正に一日。修正されたものをもう一度ハンジがチェックして、ようやくプロットは完成した。
 そして、編集部の会議が行われた日の午後五時。
 リヴァイがもう何年も愛用している折り畳み式の携帯電話にハンジから連絡が入り、
『おめでとう、リヴァイ! OKが出た』
「そうか。締め切りはいつ頃になる?」
『半年後ってところかな。まぁ一・二ヶ月くらいなら伸ばせるよ』
「わかった」
 リヴァイの次回作が決まった。
『挿絵を入れるかどうかはこれから決めるけど、表紙にはあなたの希望通りエレンの写真を使うって方向になってる。これからあっちの担当者に話しに行くよ。何が何でもOKもらってくるから』
「ああ、頼む」
 電話口にそう答えながらリヴァイは早くも本の完成が楽しみになってくる。『AOT』とは全く異なる世界観をあの写真家はどのように表現してくれるだろうか。
 ハンジとの通話を終え、リヴァイは早速パソコンに向かう。普段よりも執筆が捗りそうな気がした。


 リヴァイが執筆し始めた次の本のタイトルは『隣人』に仮決定となった。正式なタイトルは未定だが、『仮』であっても固有名詞はついていた方が何かと都合がいいのだ。
 その『隣人』を執筆し始めてからわずか二日後の夕方。リヴァイの耳は階段を上る誰かの足音を捉えた。
 リヴァイが住んでいるアパートメントは三階建てで、屋内には螺旋階段が一つ、屋外に非常階段が一つあり、エレベーターは無いという造りをしている。一階は共有スペースで、二階と三階はワンフロアにつき部屋が四つあり、螺旋階段から伸びる短い廊下の両脇に二部屋ずつ並んでいた。螺旋階段の反対側にある廊下の突き当たりのドアを開けると、吹きさらしの非常階段が現れる。
 リヴァイの部屋は二階で、螺旋階段を上がって左側手前。隣人は左側奥となる。尚、現在残りの二つは空き部屋で、隣人が不在であることが多いため実質的にリヴァイ一人がこのフロアを使っているようなものだった。
 しかし耳に入ってきた足音はリヴァイがいる二階まで階段を上ると、そのままここのフロアを歩き始めた。
 隣人が帰って来たのだ。
 ふと思い立ちリヴァイは腰を上げる。それから、ちょうど買い物に行くところでしたとカモフラージュするための財布を掴んで、荒い動作にはならないよう気を付けつつも急いで部屋を出る。ドアを開け、左を見ると――
「あ」
 隣室の扉の前。肩掛け用の太いベルトがついた頑丈そうなケースを足下に置き、リュックサックを背負った男が大きな目をぱちりと瞬いてその一音を発した。髪は黒、瞳は金、年齢はリヴァイより少し若いくらい。三十代前半から半ばといったところだろう。
「どうも。ええっと……」
「アッカーマンだ」
「あ、お隣の! オレはイェーガーです。はじめまして、ですね」
「そうだな」
「アッカーマンさんが引っ越して来られたのは何年も前だって言うのに。すみません、こんな形でのご挨拶になってしまって」
「いや……」
 首を横に振り、リヴァイは尋ねた。
「家を空けていることの方が多いようだが?」
「はい。仕事の関係でどうしても外国に滞在することが多くなるんです」
「そうか。大変だな」
「でも楽しいですよ。やっぱり好きな仕事ですから」
「それなら良かった」
 隣人は外国に何日も滞在して行う仕事についているらしい。リヴァイの頭の中に情報が書き加えられる。
「あ、でもしばらくはこっちでの仕事になりそうです」
「ほぅ」
 イェーガーの言葉にリヴァイは頷く。
 奇妙な隣人がしばらく近くにいるというのは、主人公がその隣人に関わる機会が増えるということ。ますます物語が進みやすくなりそうだと思いながら、リヴァイは右手を差し出した。
「じゃあ隣同士、しばらく頼む」
「こちらこそ」
 リヴァイの手を握り返し、イェーガーは淡く微笑んだ。


【2】


 隣人が戻って来た翌日の朝。リヴァイが日課にしているジョギングから帰って来ると、ちょうど頭に三角巾を巻いて口元も同様に布で覆ったイェーガーが部屋の扉を開けたところだった。
「あ、おはようございます。アッカーマンさん」
「おはよう。何やってんだ?」
「ずっと家の掃除をサボっていたので埃っぽさが半端なくて。しばらくここで寝起きするなら掃除もしなきゃと」
「ああ」
 納得してリヴァイは頷く。
 長期間家を空けているイェーガーは、たとえ戻って来てもまたすぐに出て行ってしまう。掃除などろくにしていなかったに違いない。彼がいつからこのような生活をしているのか定かではないが、部屋の中はなかなかに愉快な状態になっているだろう。
(ネタになるか……?)
 イェーガーには失礼かもしれないがそう考え付いたリヴァイは、「なるべく静かに手早く終わらせるつもりですが、半日くらいドタバタしているかもしれません」と眉尻を下げるイェーガーに向かって口を開く。
「手伝うか?」
「えっ!」
 金色の目が丸く見開かれた。
「そんなっ、申し訳ないです!」
「構わん。俺の仕事は在宅だからな、時間は自由に使える」
「でも……」
「こういう時こそ隣人を頼ってくれればいい。まぁ見られたくない物は誰にでもあるだろうから、そういうことなら無理にとは言わんが」
「いえ、見られて困るような物はありません。元々あまり物を置いていないので」
 イェーガーは苦笑し、それからリヴァイより身長が高いくせにまるで上目使いでもするような雰囲気で――あくまで雰囲気であり、実際にははにかむ程度だ――「じゃあ」と言った。
「お願いしても良いですか?」
「ああ。すぐに準備してそちらにお邪魔する」
「はい。お待ちしています」
 そう言ったイェーガーは室内へ。ただし換気のために開けられたドアはそのままだ。
 リヴァイもジョギングでかいた汗を流して掃除用の服装に着替えるため自分の部屋に戻る。
 生来の潔癖症の所為で掃除にも強いこだわりがあるリヴァイの『指導』にイェーガーが泣きを見ることを、リヴァイもイェーガーもまだ知らない。


「掃除の基本は上から下へだ。棚の上の埃も取らずに掃除機をかけるヤツがあるか」
「え、そうなんですか!?」
「そもそも置いたものを移動せずに掃除機をかけるとは何事だ。きちんと持ち上げてその下も綺麗にしろ」
「すすすすすすみません」
 リヴァイが隣人の部屋を訪ねた時、家主はちょうど掃除機をかけているところだった。しかしすぐ傍の棚に視線を向けたリヴァイは、そこに積もった埃が全く取り除かれていないという状態に早速潔癖症の掃除好きを発動させた。
 目つきの悪さに加えて威圧感を放つリヴァイに対し、さほど年齢が変わらぬはずのイェーガーは思い切り萎縮してしまう。だが間違っていることや理不尽なことを言っているわけではないと理解しているのか、彼が反論したりリヴァイを部屋から追い出したりすることはなかった。
 むしろリヴァイの掃除スキルの高さを悟り、「次はどうすればいいですか?」と教えを乞うてくる。リヴァイもまた隣人を怖がらせたいわけではなく彼の部屋を綺麗にしたいだけなので、乞われるまま教え、己もまた全力で掃除に取り組んだ。


 正午。一階にある大きな振り子時計が十二回鐘を鳴らすのを聞いて、リヴァイは掃除の手を止めた。念入りにし過ぎて部屋の掃除はまだ折り返し地点を過ぎたところだったが、だからこそエネルギー補給は必要だ。
「とりあえず昼にするか」
「あ、はい。いってらっしゃい」
「は?」
 まるでリヴァイだけが昼食を摂るようなイェーガーの口ぶりに思わずぽかんと口を開ける。
「お前はどうする気だ」
「オレはいいです。部屋がまだこの状態なので。まぁ今日中に掃除が終われば、その後で適当に食います」
 確かにイェーガーの部屋は食事をするのに適した空間ではない。
 だがそれならば――
「俺の部屋に来ればいいだろう」
「え」
 きょとん、と布に隠されていない金眼が見開かれる。それからリヴァイの言葉の意味を解し、イェーガーは慌てて顔の前で両手を振った。
「いえいえ、そんな! 掃除まで手伝ってもらってるのに!」
「たかがメシの一つや二つ気にするな。いいから新しい服に着替えてウチに来い。大したモンは出せんが、不味くはないはずだ」
 そう言ってリヴァイはイェーガーが反論する前に踵を返す。ちょっとくらい強引でないと、この男は本当に昼食を抜きかねない。
 他人を家に上げるのはあまり好きではないのだが、今はそれよりも何故か隣人の栄養摂取の方が気にかかった。イェーガーの身長はリヴァイよりも高いが、細身で少々頼りなく見える。小説家のくせに腹筋が綺麗に割れているリヴァイと比べれば、一般的な体型ですらひょろひょろに分類されてしまうかもしれなかったが。
 ともあれ、リヴァイが自分の部屋に戻り二人分のパスタを茹でているとイェーガーがきちんと着替えて訪ねてきたので、鍋の中で踊るスパゲティは無駄にならずに済んだ。
 パスタを茹でるのと同時に鍋の横のフライパンでは玉ねぎのみじん切りとひき肉を炒め、そこへ大量に作り置きしているトマトソース――これが意外と何にでも使える――を投入。ひと煮立ちさせたら塩コショウで味を調え、これで簡単ミートソースの出来上がりである。
 デザインが違うもののどちらも大きな皿を二枚用意し、そこへ茹で汁をきってオリーブオイルを絡めたパスタを山と盛る。上にミートソースをたっぷりかけてテーブルへ。塩気が足りない時用に粉チーズも添えた。
「おお……!」
 湯気を上げるミートスパゲティを前にしてイェーガーが子供のように目を輝かせる。大したものではないのだが、そんな反応をされると悪い気はしない。
「多めに作ってみたんだが、食えなかったら残してくれていい」
「はい。でもこれでちょうどいいと思います」
 言って、イェーガーはフォークを手に取り、早速食べ始めた。
 リヴァイも正面の席に腰掛けて食事を始める。
「うまい!」
「そりゃよかった」
「アッカーマンさん料理上手ですね」
「これくらい普通だろう」
「でもオレ、出先じゃ手の込んだモノあまり食わないので……」
「お前、普段は何食ってんだ」
 トマトソースはちょっとばかり時間をかけて作っているものの、今回の調理時間は本当に短い。手間もあまりかかっていない。そんな料理を過剰に賞賛されて、リヴァイは思わずネタ収集抜きでイェーガーの普段の食生活が気になってしまった。
「そうですねぇ」
 尋ねられたイェーガーは思い出すように虚空を見上げて、
「……蒸かした芋、とか」
「…………は?」
「も、もちろんそればっかじゃ栄養偏りますし! 他にも食べてますよ! でも、ここ十年くらい主食が芋になっていたような気がします……」
「おいおい」
 リヴァイの書いている本の世界じゃあるまいし。『AOT』では食事に蒸かした芋が出ることがある。世界全体としての主食は小麦なのだが、経済的理由により主人公達がよく口にする食べ物はどうしても小麦より安価で自分達でも作れる芋になってしまうのだ。
「なんでまた、そんな物を」
「仕事の都合ですかね。自主的にやってるだけで、全く強制ではないんですけど……イメージを掴むため、かな」
 ぼんやりと、後半は誰かに聞かせるためではなく独白のようにイェーガーは答えた。家を空ける頻度から一般的な仕事ではないと予想していたが、どうやら隣人の職業は妄想のし甲斐がありそうなものであるらしい。
 ここで直接イェーガーの職業を問うことはせず、リヴァイは今回の本のネタを膨らませるためにもあえて謎は謎のまま置いておくことにした。


「お、おわった〜〜〜」
 イェーガー宅の掃除が済んだのは夕日が半分ほど遠くのビル群の向こうに隠れた頃。気分転換も兼ねて二人はアパートメントの屋上に上がり、転落防止用フェンスに背を預けてその光景を眺めていた。
 へとへとです、という雰囲気を隠そうともしないイェーガーの声にリヴァイは苦笑を浮かべ、ポケットから煙草とライターを取り出す。普段からそんなに吸うわけではないのだが、やはり一仕事終えた後の一服は格別だ。紫煙を吐き出しながら横を見れば、金眼の男と目が合った。
「お前もどうだ?」
 箱を傾けて誘えば、相手は嬉しそうに「ありがとうございます」と言って一本抜き取っていく。やはり愛煙家か。掃除の最中、微かに感じた煙草の香りはリヴァイの気の所為ではなかったようだ。
「ん」
「あ、すいません」
 イェーガーが煙草を銜えるのを確認し、リヴァイはライターも差し出す。だが、
「あれ?」
 火がつかない。
 何度かカチカチとホイールを回してみるものの、小さな火花が散るだけで煙草に火をつけるには至らなかった。
「オイルが切れたか」
 リヴァイは呟き、次いで己が指に挟んでいる火の着いた煙草を見る。
「おい、すまんがこれで我慢してくれ」
 そう言って煙草を銜えると、意味を解したイェーガーもまた煙草を銜えてリヴァイに顔を近付けた。
 フェンスに背を預けたまま頬が触れ合うほど近く顔を寄せて、夕日に照らされた二人は知らず瞼をそっと伏せる。
 先端同士を触れ合せて息を吸えば、イェーガーの方に火が移り、すぐに赤い光が灯った。
 二人が顔を離す。
「あーーーーうまーーーーー」
 ぷはーと紫煙を吐いてイェーガーが満足そうに目を細める。その様子を横目に見ていたリヴァイは小さく噴き出した。
「くっ、おっさんだな」
「おっさんですよー。ってかアッカーマンさんっていくつなんですか? オレより上?」
「今年で四十だ」
「大台! オレは次、三十五です」
「四捨五入したら一緒だな」
「その感覚アバウト過ぎじゃありません? それにオレ誕生日が三月なんで、今なら四捨五入してもまだ三十ですよ。若い!」
「自分で言うなよ」
 くつくつと喉の奥で笑いながらリヴァイは煙草を揺らす。一日使って原稿は一ページも進んでいないが、これはこれで有意義な日だったと、イェーガーの夕日に照らされた横顔を眺めながら思った。


【3】


 隣人の出勤時間と帰宅時間はおそろしく不規則だ。
 共に部屋の掃除をしてからしばらく後、リヴァイが『隣人』を書き進めながら気づいたことである。物語の中では主人公が黒髪金眼の隣人の事情に巻き込まれててんやわんやしている真っ最中だ。
 現実世界の隣人は早朝に出て行って昼前に帰って来ることもあれば、夕方に出て深夜に帰って来ることもある。外泊はしてい無いようだが、イェーガーの謎はますます深まるばかり。頑丈そうなケースを肩からかけて出て行く姿や帰って来る姿を見かけるたびに、リヴァイの創作意欲が刺激された。
 そうやって無断でネタにしていたことを後ろめたいと感じていた……わけではないはずなのだが、ある夜、リヴァイはイェーガーを宅飲みに招いた。


「アッカーマンさんはー、何のお仕事をしてるんですかぁ?」
 酔いが回ったイェーガーはケラケラと笑いながら呂律の怪しくなった口調で尋ねる。まだ二人でワインボトルを一本しか空けていなかったのだが、予想以上に隣人はアルコールに弱かったらしい。もしくはすきっ腹に酒を入れてしまった所為か。
 一人自宅で酒を飲もうと思いツマミやら何やらを買い込んできたリヴァイと、仕事を終えたイェーガーの帰宅が重なったのは本当に偶然だった。「宅飲みですか?」と聞かれたので是と答え、ふと思い立ち「お前もどうだ」と誘ったのだ。
 大掃除の件で一気に親睦を深め、また時折夕飯用に惣菜を作って差し入れていたこともあってか、イェーガーは二つ返事でリヴァイの部屋へ入った。外出時にいつも持って行くあの頑丈そうなケースも一緒に。
「前に在宅だって言ってましたよねー」
「よく覚えているな」
「えらいですか?」
「小さなガキなら褒めてやっても構わんが、どこからどう見てもおっさんのお前を褒めるつもりは無い。むしろ首を傾げるな。しなを作るな。年を考えろ」
 眉間に皺を寄せて苦言を呈すリヴァイだが、イェーガーはそれすら面白いようで笑いを止める気配はない。
 リヴァイは溜息を吐いた。
 元々人付き合いを積極的にするタイプではなく、酔っ払いの相手もあまりしたことはない。むしろ記憶を探ってみるとゼロであるような気がする。
 目の前でへらへら笑っている彼の状態はまだ程度の軽いものなのだろうが、この時点ですでにリヴァイにとっては「酔っ払いは面倒くさい」と分類されるレベルだった。しかし、だからと言ってイェーガーを追い出すつもりにはならない。自分から誘ったのもあるが、それよりも――
(綺麗なもんだな)
 酒精でとろりと緩んだ金眼がリヴァイの前で機嫌良さそうに笑っている。それがとても綺麗に思えて、酔っ払いのちょっとした絡みなど気にならなくなってくるのだ。
「あっかーまんさん?」
「いや……ああ、俺の仕事だったか」
 金色の瞳に見惚れて黙りこくったリヴァイを不審に思い、イェーガーが名を呼ぶ。リヴァイは酔いから覚めるように数度瞬きをして、律儀に酔っ払いの問いに答えた。
「小説を書いている」
「え! アッカーマンさん、小説家なんですか! すげぇー! なんて名前で書いてるんですか?」
「教えん」
「ええーどうしてですかー?」
「恥ずかしいだろうが」
「えぇー」
 食っていくには困らない程度であるものの、大ベストセラー作家でもないのにわざわざ名を言うのははばかられる。他人はどうか知らないが、リヴァイ個人の心情はそれだ。
 だが眉尻を下げて本当に残念そうな顔をしている隣人を見ると、彼を宅飲みに誘った時と同じくついうっかり口を滑らせてしまった。
「……今書いている話が本になったら一冊進呈しよう」
「やった! 待ってます!」
 ぱっと表情を明るくして喜ばれると、嬉しいやら恥ずかしいやらでリヴァイはいたたまれなくなる。
 すると――
「じゃあオレもアッカーマンさんに一冊進呈しますねー」
「あ? お前も物書きなのか?」
 すごい偶然だなとびっくりしてリヴァイが目を丸くするものの、イェーガーはすぐさま首を横に振って否定の意を示す。
「いえいえ、オレは……」
 そう言ってイェーガーはいつも持ち歩いているケースを開けた。中から取り出したのは高そうな一眼レフ。
「ジャジャーン! これ! 写真家ってやつです!」
 カメラを掲げ、イェーガーがにこりと笑う。
 謎の隣人の謎がまた一つ明かされてしまった。謎の隣人イェーガーは写真家である。家を空けていることが多いのも、撮影のため各地を飛び回っているから。とすれば、イェーガーの撮影対象はそこへ行かなければ出会えないもの――建築物、自然の景色、そう言った『人をモデルにしたものではないもの』なのだろう。
「本ってことは、写真集でも出すのか?」
 先日手に入れたお気に入りの写真家『エレン』の本を思い出しながらリヴァイは問う。
「あ、そっちは少し前に作っちゃって……もう発売してたっけ? あれ? まぁそっちじゃなくてですね、オレの写真を表紙に使ってくれるっていう小説の方です。アッカーマンさんの前で言っちゃうのも難ですけど、オレの大好きな小説家さんのお話なんです! だから是非あなたにも読んでいただきたくて!」
「そうか。そりゃ楽しみだ」
「へへー。オレも楽しみなんですよぉ。なんてったって、あの人の本に使ってもらえるって話を聞いて、オレ出先から飛んで帰ってきましたからね! 飛行機で十時間もかけて撮影しに行ってましたけど! とんぼ返り万歳!! 先生のためならどこへでも行きますよーーー!」
 好きな小説家を先生と呼びながらイェーガーは二本目のボトルに手を付ける。キンキンに冷えたスパークリングワインだが、彼の熱を冷ますにはきっと役者不足だろう。
 スクリューキャップを外したイェーガーは先にリヴァイの方へボトルの口を向ける。グラスに酒を注ぎながらもイェーガーの話は止まらない。
「もうね、先生の本はデビュー作から全部持ってます! というか光栄にもデビュー作の表紙と挿絵に写真を使っていただきまして! それまで小説なんてほとんど読まなかったんですけど、読んだら! すごくて! うっかり主食を芋にするくらいに! 本当に好きになりまして!」
「……何故そこで芋が出てくる」
「作中の人物が食べてるんですー」
「そうか」
「ちょっとでもその世界を感じられれば、オレの写真にも反映されるんじゃないかって」
 酔っ払いの語りは支離滅裂であることが常だが、ここで更に一つ謎の隣人の謎が明らかになった。芋が主食になっていたのは、関わっている作品のキャラクターが食べていたから。ひいては、その世界観を理解するため。
 熱心なことだ。目の前で同業を手放しで褒められるのは楽しいものではないものの、リヴァイはイェーガーの仕事への取り組みぶりに深く感心した。
(……ん? つーか、なんで俺はこいつが別の作家を褒めただけでイラッとしたんだ?)
 リヴァイはあまり同業との差に拘る性質ではないはずだった。しかしとろりと蕩けた金眼と惜しみない笑顔で他人が賞賛されることに幾許かの不愉快さを感じている。
「あっかーまんさーん! きいてますー?」
「ああ、聞いている。お前がどれだけその『先生』を好きかって話だよな」
「わー! そういう言い方されると恥ずかしいですね! オレ先生のこと好きですけど! 尊敬してますけど! あっ、でもひょっとすると恋しちゃってるかも!? きゃー」
「男がきゃーとか言うなよ気持ち悪い」
「そんなこと言わないでくださいよぅ。あ、もしかして他の人のことばかり好きだって言ってるから拗ねちゃいました? うふふ。オレ、アッカーマンさんも大好きですよー」
「……酔っ払いってのは本当に厄介だな」
「冷たくしないでくださいよー。でも大丈夫です! オレ、アッカーマンさんが優しくて格好いいってこと知ってますから! 掃除手伝ってくれたし、煙草吸ってる姿はスゲー格好良いし、ってか元々イケメンだし、あと晩御飯のおかず分けてくれたこともあったし、ゴミ捨て代わりに出してくれたこともあったし、今はこうして酒飲ませてくれるし」
 リヴァイの良いところとやらを指折り数えながらイェーガーはニシシと笑う。
「先生の次に好きです!」
「はいはい」
 二番目か、とリヴァイは心の中で呟いた。
 嬉しいような、悔しいような。いや悔しいってなんだよ、と自分でツッコミを入れる。
 リヴァイもイェーガーのことは嫌いではない。感情を表に出しやすい瞳は魅力的だし、素直に慕ってくる姿勢も好ましい。それにただ単純に、好意を向けられて嫌と思うはずがなかった。
「アッカーマンさん! もう一杯どうぞ!」
「いただこう。まぁ俺の酒だがな」
 イェーガーがボトルを傾けるのに合わせてリヴァイもグラスに残っていた酒を一気に煽り、注ぎ口へ持って行く。こちらの分が注ぎ終わったら、今度はリヴァイがイェーガーのグラスに酒を注ぐ。そうして取り留めのない話をしながら、二人は順調に酒のボトルを空けていった。


「……………………………………完全に飲み過ぎた」
 イェーガーと酒盛りをしていたところ、彼の好きな人物の中でリヴァイが二番目だという話になり、それで少しイラッとして酒を飲むペースを上げてしまった。おかげで二人して撃沈だ。イェーガーは自分の部屋に帰ることなく、リヴァイもまたベッドに入ることなく、気絶するように眠りについて今に至る。
 カーテン越しに部屋へ差し込む光は明るく、角度も高い。時計を見ると十時半だった。
 幸いにも二日酔いにはなっていないが、ベッドに行かずテーブルに突っ伏していたので身体がバキバキに固まってしまっている。正面の席にイェーガーは座っておらず、視線を下げて床の上を見ると、彼が空になったボトルを抱えて気持ち良さそうに眠っているのが目に入った。
 写真家と言うことは、特に決まった出勤時間というのもないのだろう。しばらくこのまま寝かせてやるか、と寝起きでぼんやりした頭のままリヴァイは考える。
 そうして朝食でも作ろうと思い立ったリヴァイの視界にイェーガーの仕事道具が入り込んだ。一眼レフのデジタルカメラは頑丈そうなケースから出しっぱなしで、その上にぽんと置かれていた。商売道具の雑な扱いに笑ってしまいそうになりつつ、リヴァイはそちらへ近付く。
 手に取ってみるとカメラは意外と重かった。だが基本的な造りはポケットに収まる世間一般のデジカメと同じで、電源ボタンを押すと小さな駆動音と共に液晶画面が光る。画面の横のボタンを操作すれば、イェーガーが撮影した画像データが新しいものから順に表示された。
 ここ最近のデータは自分達が住んでいるアパートメントの近隣のものばかり。時間帯は多種多様に揃っているが、個人を捉えたものはほとんど無く、多くは風景や無機物が被写体になっていた。
「……」
 リヴァイはボタンを押す指を止める。
 こんな写真を自分は見たことが無かっただろうか。
 ある予感を覚えながらリヴァイはデータの閲覧を再開した。近隣の風景を撮影したものからガラリと変わり、異国の景色が現れ始める。
 どこまでも続く地平線。崩れた壁、個人を特定できない人間が写り込んだ一場面。走るための美しい身体を持った馬達。何かの巨大な影。赤茶けた大地。単色印刷することを想定しているのか、赤ではなく黒い液体を飛び散らせた壁や地面。特徴的な剣を構えた男の手。
 リヴァイは操作の手を止めた。カメラの電源を落とし、元の位置に戻す。
 自分はこの写真を知っていた。とても、よく、知っていた。何せこのカメラに記録されている画像はリヴァイが執筆した本や先日手に入れた写真集に載っていた写真そのものであったり、よく似た雰囲気であったりしたから。
 ふらり、と一歩よろめく。口元を手で覆う。叫びだしそうだ。心臓は早鐘を打ち、歓喜で胸が震えた。
「う、わ……」
 振り返れば、隣人が床の上で気持ち良さそうに眠っている。
 リヴァイは二日酔いを回避しただけでなく、彼と交わした昨晩の会話についてきちんと覚えていた。
「ははっ……ドキドキしすぎだろ、俺の心臓」
 リヴァイの好きな写真家が実はイェーガーで。
 イェーガーの好きな小説家が実はリヴァイで。
 先生と呼ぶほど慕っていて。
 仕事を受けるためにわざわざ遠い地から急いで帰国して。
 熱心で、真摯で。
 先生の次に隣人のリヴァイを好いてくれているらしくて。
 金色の瞳がとても綺麗で。
 笑うと、不本意にも、ちょっと、可愛いなんて思ってしまったりして。
 膝を折って手を伸ばし、そっと触れた髪はさらさらと気持ちが良くて。
 まじまじと眺めた顔はかなり整っていて。
 ネタにするため関わりを多く持とうとしたり注視していたりしたはずなのに、途中からそんな気が無くなっていたような。
 潔癖症を患っている割に、実は傍にいても全然不快じゃなくて。
 むしろ一緒にいたいなぁと現在進行形で思っていて。
 今も心臓がドキドキとうるさくてたまらない。
「……ッ」
 リヴァイは息を呑む。
 いつからだった? 自問してもこの感情の始まりは分からない。ただこの瞬間、リヴァイは己が恋をしていることを知った。


【4】


『はあ? 今から今度の本のプロットを練り直す? つーか書き換え? マジで? それ本気で言ってんのリヴァイ』
「ああ、本気だ。主人公と隣人の関係性を変える。締め切りは守ろう。むしろ予定より早く書き上げる」
『いやまぁあなたがそう言うなら私は上に話を通すけど……何かあったの?』
 昼まで寝ていたイェーガーを起こし、一緒に昼食をとった後、彼が帰って一人になった部屋でリヴァイは自分の担当であるハンジに電話をかけた。
 話の中身は、これから『隣人』の中身を大幅に変えたいというもの。こういうことは初めてでハンジはひどく驚いたが、了承してくれる気ではあるらしい。
 変更の理由を尋ねられたリヴァイは電話口で少し黙した後、相手が大笑いすることを承知で口を開いた。
「隣人に惚れた」
『……………………ん? それって今回のモデルにした、あの?』
「ああ。それで、そいつのためだけに本を書きたいと思う」
『…………………………………………………………くっ』
 リヴァイは携帯電話を耳から離す。その直後。
『うひゃはははははははははははははははははははっひーひーマジか! あなたが! そんな甘酸っぱいこと言っちゃう!? ってかやっちゃう!? ありえねー! うひゃー何その面白い事態! 明日は槍でも降んの? いっひっひっひっ! ッはぁー! くくっ、ふっ、オーケーオーケー! 俄然やる気が出てきたね! あなたの甘酸っぱーい一冊のために、このハンジさん、一肌脱いじゃうよ! 任せといて! 絶対に次の会議で全員に納得させるから!! 新しくプロット書いちゃってねー! それ持って即行で会議するから!!』
「……ああ」
 若干どころかかなり奇人の気がある担当者だが、実力はある。彼女が会議を通すと言うなら通すのだろう。
 リヴァイは電話を切り、昨夜の酒宴の後片づけも完璧に済ませた部屋を横切ってパソコンの元へ行く。
 愛用のノートパソコンは相も変わらずスリープ状態で、主人の指先一つですぐに使用可能となる。リヴァイはテキストの編集画面を開き、プロットを冒頭から書き出すのではなく、本の最後のページに記載する予定の主人公の台詞を一行綴った。それを保存してリヴァイは苦笑を浮かべる。
「おっさんのくせに……ほんと、甘酸っぱいったらありゃしねぇ」


 新しく作ったプロットは無事に編集部の会議を通過し、リヴァイが物語を書き上げたのはそれから僅か一ヶ月後。一冊の本になり市場に出回るのはもう少し先だが、関係者の手に原稿のデータは届けられている。ここから更に誤字脱字の修正が入ったりページのレイアウトを考えた上で若干の変更があったりするのだが、リヴァイにとって今回はこの時期が一番の山場だった。
 本の内容に合わせて作られたあおり文には「リヴァイ・スミス初の恋愛小説!?」とつくらしい。「!?」をつけるとは何事か、と思ったが、十年もこの仕事を続けてきて初めて手を出した分野であることに違いは無かったので口を噤んだ。それにしても初の恋愛関連の本が自分自身の投影とは、改めて考えると恥ずかしくて仕方がない。しかし取り止めは無しだ。これはリヴァイの一世一代の『賭け』なのだから。
 初期の頃からガラリと変わった『隣人』の中身は、主人公の『俺』が不思議な隣人と交流を深めていく物語。主人公の職業は小説家で、隣人の職業は途中から写真家であることが明かされる。
 やがて主人公は隣人が自分の大好きな写真家本人であったことを知る。またそれよりも前に、隣人が実は主人公が名を変えて書いている小説のファンであることをそうとは知らず本人の口から聞いていた。互いの意外な繋がりを一方的に知った主人公は、とうとう自分の中に芽生えていた感情に気付く。
 気付いた場面で物語は終了だ。しかし主人公は本の最後のページでたった一文の独白を綴る。
 素直に。飾ることなく。ありったけの想いを込めて。


「俺は隣人が好きだ」

* * *

 仕事相手にもよるが、本と写真のイメージにズレが生じないよう、物語の全文は写真家の元にも送られている。自身の担当者からそれを受け取ったエレン・イェーガー(活動時の名前は「エレン」)は、大好きな作家の作品を手にほくほく笑顔で自宅に帰り、早速読み始めた。
 作家の名前はリヴァイ・スミス。おそらくペンネームであろう。だが人によっては本名だったり、一部だけ弄っていたりする場合もあるらしい。
 彼のデビューは十年前。そしてそのデビュー作にまだ若かったエレンの写真が使われた。それまであまり小説などと言う文字の集合体を手に取ったことはなかったのだが、仕事のために目を通したエレンは一瞬にしてその作品に魅了された。残酷な世界の中で生きる人々の意志の強さに胸を打たれ、また秘められた謎の存在に心躍らせる。単なる『面白い』とは別の次元の作品だと思った。
 そこからだ。エレンが特定の作家のものだけとは言え小説を集めるようになったのは。リヴァイ・スミスの作品は片っ端から購入し、大切に大切に読んだ。あとがきにちらりと見える人となりや、小説全体から滲み出る彼の考え方はことごとくエレンの琴線に触れ、今ではすっかり大ファンになっていた。いや、ファンと言うよりもこの感情は恋に近いかもしれない。顔も見えない、話したこともない、細々と仕事上の繋がりはあるが、実質的にはただ一方的に慕う相手。
 そんな相手から名指しで依頼された仕事だ。何よりも真剣に取り組み、そして完璧に仕上げたい。
 エレンはファンとしての興奮と仕事としての情熱を共に抱えてじっくりと物語を読む。
 物語が日常世界を舞台にしているのは最初に聞いていたので問題はない。だが読み進めるうちに、身に覚えのあるエピソードがいくつも飛び出し、「いやいやそんなまさか」と呟くものの心臓の鼓動は徐々に速くなっていく。
 チラチラと壁の向こうにいるはずの隣人に視線を送ったり、顔を赤くして「うう〜」と唸ったり、いい年したおっさんにはいささか似合わぬ態度を取りながらも最後まで読み終えたエレンは、最終ページの台詞を目にしてすっと立ち上がった。
「一番と二番が一番だった……。って言うか、今までそんな素振りちっとも見せなかったくせに!!!」
 今までで一番顔を真っ赤にしながらエレンは隣人の元へ駆けていく。その顔に怒りや嫌悪は無い。あるのは羞恥と戸惑いと、それから――。
 ドアベルを押して大声で叫ぶ。
「すみませんリヴァイ・アッカーマンさん! イェーガーです!!」
「よう、エレン・イェーガー」
 ドアが開き、家主に迎え入れられる。互いにフルネームは当てずっぽうだったのだが、どちらも見事に正解していた。
 招き入れられたエレンはそのままリヴァイに手を取られ、鋭いくせに甘ったるい目を向けられる。見せつけるように手のひらへキスを落とされてエレンは倒れそうになった。
 だが倒れるわけにはいかない。
「その顔を見るに、どうやら俺は賭けに勝ったらしいが……。さあ、エレン・イェーガー。俺からお前への告白はあの通りだ。お前の返事を聞かせてくれ」
 リヴァイが蠱惑的な笑みを浮かべる。
 そう、エレンはまだ倒れるわけにはいかない。

 とんでもない方法で告白しやがったこの男にイエスと答えてやらねばならないのだから。






四捨五入して四十路と三十路







2013.05.20 pixivにて初出

短いですが続編を追加し、更に他短編と合わせてオフ本になりました。
詳細はoffページをご覧くださいませ。