「おはようございます、リヴァイさん!」
「お、おう……。おはよう」 双方とも目の下にうっすらと隈を作りながら朝を迎えた。 エレンは昨夜のことを無かったことにするつもり……かどうかは不明だが、兎にも角にもその件でギクシャクすることだけは避けるつもりのようだ。リヴァイもその方が有り難かったため、余計なことは言わずに挨拶を返す。 「今日はどうするんだ?」 フロントへの電話一つですぐに用意された朝食を部屋で摂りながらリヴァイはそう尋ねた。 夜はエレンの取引相手とディナーという予定が組まれているが、日中については未定のままだ。本当なら昨夜のうちに本日の日中の予定についてエレンから話があったのかもしれない。しかしリヴァイの取った何気ない行動によりそんな時間は得られなかった。 昨夜の自分の行動やそれに対するエレンの反応を思い出し、リヴァイの鼓動が跳ねる。ただしかろうじて表情には動揺を出さずに済み、己の表情筋の職務怠慢具合に感謝した。 あのままエレンが逃げなかったらどうなっていただろうか。赤い顔のエレンを前にしてリヴァイ自身はネクタイを外すだけで終われただろうか。 リヴァイの何を気に入って傍に置いているのか未だに分からないが、エレンは最初からこちらの反応に一喜一憂し、好意を隠そうともしない。だがその彼は常時余裕の笑みを浮かべていた。あの時までは。そして知らない世界に放り込まれたリヴァイの手を引くのがそれまでのエレンだったのに、あの瞬間からリヴァイはエレンを抱きしめてその背を撫でてやりたいと思うようになったのだ。 (いや、抱きしめるだけじゃ足りねぇ) きらきらとリヴァイを見つめる金色の目をもっと見ていたい。 柔らかそうなその髪に指を通して感触を楽しみ、いつも前髪で隠されている額を晒してくちづけたい。想像の中のエレンはそれだけで顔を真っ赤にし、大きな目を零れ落ちそうなくらい見開いた。 でもリヴァイはそれだけで止まれるような幼い子供でも、また逆に枯れているわけでもなく。 そこから更に淡く色づいた唇に触れ―― 「……さん、リヴァイさん」 朝日が差し込む明るい部屋で、正面に座るエレンがひらひらと手を振っていた。 「リヴァイさん聞いてます?」 「あ、ああ」 朝から不埒な妄想をしてしまった対象が予想外に顔を近付けていたので、リヴァイは声が裏返らないようにするのに必死だった。 こちらがネクタイを外そうとしただけで赤面したのに、自分から近付くのは平気なのかこのガキ……と内心毒づきつつも、その悪態をつく原因の半分以上は己がやましい妄想をした後ろめたさにあるので、何も言えない。 「大丈夫ですか? 具合が悪いなら今日は部屋で休んでいただいて……」 「いや、問題ない。少し考え事をしていただけだ」 「それなら良いんですが。もし何かあったら遠慮無く言ってくださいね」 「平気だ。心配すんな。そろそろ契約通りボディーガードらしいこともしなきゃなんねぇしな」 リヴァイの雇用契約では、仕事内容は秘書兼ボディーガードとなっている。前者はただの名目だけで実際の業務は無いとエレンから事前に言われているが、後者はそうでもない。つまるところ、身辺警護では全く期待されていないわけではない、ということだ。――と、解釈することにしている。でなければリヴァイはただのヒモになってしまうのだから。 「そうだろう?」 「そう、ですね」 答えるエレンは眉尻を下げ、どこか気まずそうだ。 「リヴァイさんの働きに期待しています」 「ああ。給料に見合うかどうかは分からんが、しっかり働かせてもらおう」 「頼もしいですね」 そう言って口元に弧を描くエレンに言い知れぬ違和感が付きまとう。何か隠している。リヴァイはそう直感するものの、追求することはなかった。それはエレンが今日の日中の予定を話し始めたからでもあるし、またリヴァイからエレンに対する信頼の証でもあったので。 「ご無沙汰しております、レイス卿」 「やあ、エレン。君と会えるのを楽しみにしていたよ」 「ありがとうございます」 ホテルから二十分程車を走らせたところにあるレストランにその人物はいた。正方形のテーブルにはそれぞれの辺に椅子が四つ配され、うち二つはすでに埋まっている。一方はエレンがレイス卿と呼んだ男性で――ちょうどエレンの父親くらいの年齢だろう――、もう一方は金髪に青い目の美しい女性だった。いや、女性の方はまだ少女と言っても良いかもしれない。 ウェイターに椅子を引かれてエレンもリヴァイも席に着く。エレンの正面にはレイス卿、リヴァイの正面には金髪の少女という配置だ。 食事相手二人の視線がちらりとリヴァイを一瞥した。リヴァイは一瞬、自分の服装や所作に何かミスがあったのかと思ったが、すぐにその視線の意味を理解する。 レイス卿は女性を伴ってこのレストランにやってきた。そして周囲を見渡せば、ほとんどの客は男女のセットである。しかしエレンが伴って現れたのは男であるリヴァイ――。ついて来てほしいと言ったのはエレンだが、彼は自分に見合った美しい女性ではなくリヴァイを連れてきてしまって大丈夫なのだろうか。 「エレン、少し見ない間にまた立派になったね。パートナーになりたいという女性は多いんじゃないかい?」 「今はまだ仕事に手一杯で、女性と交流する機会には恵まれませんよ」 「おやおや、勿体ない」 レイス卿はそう言いながら視線をリヴァイに向ける。 「こちらの方は? 君が同伴者を連れてくると聞いて、もしかして心に決めた女性がいるのかと少しドキドキしていたら、まさか男性を連れてくるなんてね」 そしてレイス卿はリヴァイに手を差し出した。 「私はロッド・レイス。君は?」 「……リヴァイと申します」 一応、エレンに視線を送って大丈夫なのか確認し、小さく頷かれたので、リヴァイはレイス卿の手を握り返す。労働を知らない貴族のような手だった。 「ほう、しっかりした手を持っているね。武道か何か嗜んでいるのかな」 「エレ……イェーガー様の身辺警護を任されております。本日はこのような席に私の同席までお許しくださり、ありがとうございました」 「なるほど。エレン君専属のBGというわけか。お気に入りが過ぎてこういう所にまで引っ張り出されるなんて、君も苦労が耐えないね」 ははは、となんとも軽い笑い声を上げ、レイス卿は次いで少女を紹介するように手を動かした。 「彼女は私の娘でヒストリアと言う。ヒストリア、エレン達にご挨拶を」 「はい」 促され、少女はすっと背筋を正す。 「ヒストリア・レイスと申します。エレン様のお噂はかねがね。とても素晴らしい方だと、父からいつも聞かされております」 そう言って浮かべられた微笑みは、ヒストリアの元々の容姿も相まってとても美しかったが、エレンのように内から輝くようなものは一切無かった。人形が命じられたとおりに浮かべる表情、といったところか。感情を伴わない実に空虚なそれに、エレンは動じることなく言葉を返す。 「初めまして、ヒストリア。オレはエレン・イェーガーと言います。そんな立派な人間ではありませんが、レイス卿には昔からお世話になっております」 「やはり君達二人は絵になるね」 言葉を交わす二人をレイス卿が満足そうな顔で眺めている。リヴァイのことは眼中にない。それは構わないのだが、この男がエレンとヒストリアを会わせた意味について考えたリヴァイは、当たり前すぎる答えに思わず顔をしかめそうになった。 どう考えてもこれは見合いだ。年頃の男と女をわざわざ引き合わせる理由なんてそれくらいしかない。 (しかし、だったら何故エレンは俺を連れてきたんだ) お見合いならば、エレンの方に同伴者は必要ないだろう。リヴァイをボディーガードという名目で連れ歩くにしても、「卿」と呼ばれる人間との食事会に同席させるのは異例すぎる。それはマナーがなっていない≠アとではないのか。 心配になってリヴァイはエレンを窺い見たが、その視線に気付いているはずの本人は何も反応を返さない。すなわち、問題無いということなのか。あまりエレンを凝視するわけにもいかず、リヴァイは丸一日使ってたたき込まれたテーブルマナーを駆使しながら、出される食事を処理していく。 きっととても素晴らしい料理なのだろうが、味を感じる余裕は無い。粗相をしないようにと気を張っているのも理由の一つだが、何よりもリヴァイの意識を料理から外し続けたのは、エレンとヒストリアの会話や二人の仲を殊更褒めるレイス卿の存在だった。 リヴァイを除く三人の会話の中で分かったのは、レイス卿は出身地である某国で爵位を持っていること――だからエレンは彼を「卿」と付けて呼んだのだ――、レイス卿もエレンと同じく仕事でこの国にやってきたこと、その職種を一言で表せば貿易商であること、エレンの会社とは時に競争相手となり時には重要な取引相手となること、それから……。 「エレン、私はね、君の会社と……いや、君個人ともっと強い繋がりを持ちたいと思っている」 デザートが出てくる直前、レイス卿は皿を下げて空いたスペースに指を組んだ両手を置き、真っ直ぐにエレンを見つめてそう言った。 ミネラルウォーターで唇を湿らせていたエレンはグラスを置き、「もっと強い繋がりですか」とオウム返しに尋ねた。金色の目が人形のようなヒストリアを一瞥する。 「君もそういう相手を得るのにちょうどいい年頃だろう」 「それで、今日のこの席というわけですね」 「親の欲目はあるだろうが、ヒストリアは良い子だよ」 そう告げるレイス卿がヒストリアに向ける視線は、しかしながら親が子を慈しむようなものではない。あれは物を見る目。ヒストリアはレイス卿の人形なのだ。 ヒストリアの様子とレイス卿の彼女を見る視線で確信できた。己の権力を増すために、この男は娘を生贄にしようとしている。 政略結婚、という文字がリヴァイの脳裏に浮かんだ。リヴァイは恋愛至上主義者ではないし――そもそも色恋沙汰に興味がないタイプだ――、今日初めて会ったヒストリアがどうなろうと知ったことではない。しかしその対象がエレンであるというただ一点が、リヴァイの眉間に深い皺を刻もうとする。 エレンが一目置くような相手の娘。それを突っぱねることは現実問題として可能なのか。 「レイス卿」 よく通る声が空気を震わせる。 「きっとヒストリアをパートナーとして迎えたなら、イェーガーグループはより一層発展していくでしょう」 「おお、そうか! では」 「しかし、お断りさせてください」 「……なに?」 「オレにはすでに心に決めた人がいますので」 その一言にレイス卿だけでなくリヴァイもぎょっと目を剥いた。裏切られたと思うのはリヴァイの一方的な感情であり、ただの我侭でしかない。しかし強くそう思ってしまう。 エレンがリヴァイを一瞥した。眉尻を下げたその表情は朝食の時に見た記憶がある。なぜ今その顔をするのか、理解できたのはこの直後だった。 「リヴァイさん以外にオレの隣を任せるつもりはありません」 (……ああ) これが突然の愛の告白などと思うような馬鹿な勘違いはしない。 (だからエレンはここに俺を同席させたのか) リヴァイが零した心の中の呟きは諦観を多分に含んでいる。 エレンは最初からこのディナーが見合いを兼ねていることに気付いていた。しかし恋人のいない(と思われる)エレンがレイス卿の申し出を断ることは難しい。ならば断れるような理由を用意してしまえばいいのだ。それが、少々ぶっ飛んでいるものの、リヴァイという存在だった。 男をパートナーにしたいと宣言した男の元に娘を嫁がせようと話を進めるのは、まず心情的に壁が高く、躊躇ってしまうだろう。しかもエレンは、本来なら単身か男女のペアで来るべき場所にリヴァイを同席させるという本気っぷり。実際にはそのフリ≠セとしても、相手がこの場ですぐにそれを見抜ける可能性は低い。 これもある種の身辺警護なのかもしれない。エレンが望まないことから身体を張って彼を守るのだから。 (おい、こら。ここでそんな情けない顔すんじゃねぇよ。相手に疑われちまうだろうが) その顔を見るだけで、エレンが決して悪意を持ってリヴァイを巻き込んだわけではないのだと理解できた。この件で電話してきた部下にでも諭されたか。ともかく言い訳はあとで存分に聞いてやろう。 エレンの言葉に僅かでも喜んでしまった自分と、その言葉があるからこそ本当の意味でリヴァイがエレンの隣に立つことはないと知らされて溜息を吐きそうな自分。それらに見て見ぬフリをして、リヴァイはこの場でエレンのために嘘のパートナーを演じきった。 デザートも終わり、別れの挨拶もそこそこにレイス親子が席を立つ。エレンとリヴァイもそれに合わせて椅子から腰を上げ、見送る側に回った。 「……では、エレン。またの機会に」 「ええ、レイス卿」 社交辞令にまみれた握手を交わしてレイス卿は出口を目指す。それに続くヒストリア。 その時、すれ違いざまにヒストリアがリヴァイを見た。 「演技のはずなのに、本当は演技じゃないんですね。……あなた達≠ヘ」 人形のようだった瞳が僅かに光を宿す。 面白がるような、羨むような。そんな瞳は、しかしすぐに逸らされ、父親の後に続いて去って行った。 女は怖い。 己を見透かされていたことを知り、リヴァイはしばらく唖然とヒストリアの背を見ていた。自分のことで頭がいっぱいで、彼女がわざわざ『達』とつけた意味には気付かぬまま。 「今夜はありがとうございました。明日、詳しくお話しますね」 「ああ、待っている」 そう言ってエレンとリヴァイは別々の寝室へ向かう。 夜も更けていたため、そして何より精神的に疲労していたため、ディナーの後は二人とも最低限の言葉しか交わさぬまま眠りについた。 しかし、翌朝。 「すみませんリヴァイさん! レイス卿から急に会いたいと連絡が来まして、今から行ってきます! お話はそのあとで必ず!」 「気を付けて行って来いよ」 「はい!」 朝食を摂る間も無く、バタバタと慌ただしくエレンが出て行く。あの急ぎっぷりは朝から電話がかかってきたと見ていい。昨夜とんでもない婚約の断り方をしてしまったため、多少の無理には付き合わねばならないのだろう。 そうして一人で豪華すぎる朝食を摂っていると、奥の部屋から小さな電子音が流れてきて、リヴァイは食事の手を止める。 「なんだ?」 エレンは外出中である。しかし彼の寝室から電話の着信らしき音。 本人がいない間にプライベートな空間へ足を踏み入れるのは躊躇われたが、いつまでも鳴り止まない着信音が気になってリヴァイは寝室へ向かった。 ベッドのサイドテーブルでエレンのスマートフォンが着信を告げ続けている。画面に表示されている名前はアルミン。エレンが仕事の電話の最中に何度か口にしていた名前だ。そして出会った日にエレンが酒を飲みながらアルミンという部下兼幼馴染について話していた気がするような、しないような。 アルミンからのコールは続いている。いつまで経っても切れないそれにリヴァイは嫌な予感を覚えた。エレンの態度から、アルミンという人物がこのようにしつこくコールするとは思えないのだ。 リヴァイはスマホを手に取る。親指でボタンをスライドさせて耳に当てた。 『エレン!? 今どこにいるんだい!』 「……すまない。エレンは今、外出中だ」 『っ、あなたは誰ですか』 「リヴァイと言う。エレンに期間限定で雇われている者だが」 『ああ、あなたがリヴァイさんでしたか。僕はアルミン・アルレルトと言います。エレンが世話になっています』 「いや」 『あの、突然すみません。エレンはそこにいないんですか』 「朝早くからレイス卿に呼び出されたと言って慌てて出て行ったぞ」 『……!』 電話の向こうでアルミンが息を呑んだ。 最初の台詞といい、ろくでもない気配がぷんぷんしている。 『警察……はマズい。大事にすればこっちにも面倒が降りかかってくる。ああ、でもエレンの身の安全には代えられないか』 「おい、どういうことだ」 急に聞こえてきた不穏な単語の連なりにリヴァイは地を這うような低い声を出す。すると電話の向こうで僅かな沈黙を挟み、 『おそらくエレンはロッド・レイスに誘拐されました』 「は? なんでそんなこと」 『犯行の理由は腹いせと警告、それからもしも≠ノ備えたってところでしょうか。今頃エレンはレイス卿に最後の説得≠受けているかもしれませんね』 エレンに娘との婚約を断られ、しかも比較対象がチビで目つきの悪い男。ロッド・レイスに逆らった≠ニいうだけでも腹立たしいのに、エレンのそれは十分屈辱に値すると判断したのだろう。そしてレイス家に従わなければどうなるのか、こうして示して見せたわけだ。また、もしエレンがリヴァイを捨てて別の会社や家の娘と婚約したならば、それはレイス家にとって自分らが得るべきだった益を他人に奪われたことだとレイス卿は認識する。それをあの男が見過ごすはずなどない。 アルミンの語るロッド・レイスの動機にリヴァイは口元をひくつかせた。 「おいおい、お前らはそんな人間とも付き合ってんのかよ」 『組織にも色々あるんですよ。清廉潔白なところなんて一握どころか一つまみくらいです。これは僕の個人的意見ですが、大企業と名のつく組織は多かれ少なかれどこも黒い部分を持っていると思いますよ。まぁレイス家は黒すぎたんで、エレンもそろそろ縁を切りたいとは言っていましたが』 電話の向こうで苦笑する気配。 ともあれ大体の事情は把握した。 『エレンは一度決めたことを曲げません。つまり昨夜婚約を断ったなら、自分の命が危険に晒されても絶対首を縦には振りません』 「それは……かなりヤバいってことか」 『非常に危機的状況です。ただ、企業としてトップの挿げ替えはいつでも可能なんです。会社とはそういう生き物ですから。しかし僕は……エレンを知る僕らは、彼を失いたくない』 それはリヴァイも同じだ。 「俺は何をすればいい」 どうせアルミンの手元にはリヴァイの詳細な情報があるはずだ。ただの勘だが、エレンの傍にいるとはつまりそういうことであるはず。 案の定、アルミンは特にリヴァイの素性や能力を問うことなく、僅かな逡巡の後に告げた。 『……あなたにできることを』 「はっ」 リヴァイは笑う。 それは、つまり。 「あいつを取り返して来ればいいんだな」 『今からそのスマホに必要な情報を送ります。確認してください』 「わかった」 『レイス家も表沙汰にはしたくないはずです。多少騒がしくしてもあちらが揉み消してくれるでしょう』 「そりゃ好都合だ」 ニッと口の端を持ち上げ、リヴァイはアルミンとの通話を終了する。そして送られてきたメールを確認しつつ、自分のスマートフォンでとある人物に連絡を取った。 数度のコール音の後、通話開始と共にリヴァイはその名を口にする。 「ファーラン、イザベルもそこにいるか? いるなら二人とも俺に手を貸してくれ」 「お断りします」 椅子に座り、背もたれの後ろで両手を縛られた格好のエレンは落ち着いた声音できっぱりと答えた。 正面に立っているのはロッド・レイス本人――ではなく、その部下。レイス卿の秘書的立場にあり、名前はメラーズだったと記憶している。 場所はエレンが呼び出されたレイス卿の宿泊しているホテルから移動したらしく、見覚えのない内装をしていた。豪華なのには変わりないが。 窓には遮光カーテンが引かれ、中から外を窺うことはできない。外から中に関しても同様で、まさかこんな豪華な一室で今まさに監禁が行われているなどと誰も思わないだろう。 (レイス卿がこの国にセーフハウスを持っているっていう情報は無かったけど……つい最近手に入れたのか、それとも意外と単純に近くのホテルだったりするのか?) 推測はしてみるが、外が見えなければ何とも言えない。移動の前に気絶させられたので、どのくらい時間が経ったのか分からないのが惜しい。 しかしながら今はあまり外に対して興味を払える状況でもなかった。エレンの出した答えが、目の前に立つ男の主人が最も望まぬ回答であることを知っていたので。 「どうしてもか」 「三度も同じ答えを告げる気はありませんよ、オレは」 「そうか……」 男から剣呑な気配が滲み出る。 彼の申し出は昨夜のレイス卿が直接言ってきたことと同じ。ヒストリアとエレンの婚約だ。娘を愛のない相手に嫁がせ、自身の権力を強めようとする行為。それ自体を悪く言うつもりはないが、こちらとしては相手側に不足があるし、手段もよろしくない。 「理由を尋ねても?」 「ご自身の胸に手を当てて考えてください。あなた方とこれ以上繋がりを強くするのは我がグループにとってリスクが高すぎます」 拘束されているとは思えないほど躊躇いなく、威厳をもってエレンは答えた。 ここで負けるつもりはない。 戦え、とエレンは自身に命じる。 恭順は敗北だ。敗北は死だ。ある程度の毒は組織の運営を円滑にすることもあるが、多すぎる毒はその身を腐らせ、死に至らしめる。 「大切な取引相手の財政状況について当方が何も調査しないとお思いで? ヒストリアとの話もそれが関係しているんじゃないですか」 びくり、と正面に立つ男の肩が揺れた。エレンは容赦なく、まるでこちらの方が優位な立場であるかのように言葉を続ける。 「トップが政界に顔が利きすぎるのも厄介ですね。黒い噂が絶えないどころか、場合によっては異様に金がかかる」 「……そこまで知っているのか」 「勿論。あなたやあなたのご主人様は我が社のライバルであり、そして大切な取引相手様でもあるのですから」 僅かに首を傾けてエレンは微笑みを浮かべた。 演技を伴う頭脳戦は己より幼馴染の方が得意なのだが、エレンでもこれくらいは可能だ。そうでなければ大きな組織のトップなど務まらない。無論、その素地を作ってくれたのは幼馴染を始めとする優秀な周囲の人々であるけれども。 エレンは本来、直情径行な性格をしている。しかしそれを見事に覆い隠し、年齢に不相応な落ち着きと威厳を放って見せた。 だが相手も、たとえ財政の苦しさから今回の話をエレンに持ってくるような状況であっても、海千山千のつわものとその傍に侍る部下であることに違いはない。しかも――エレンもまさかとは思ったが――誘拐・監禁などという強硬手段にまで及ぶような輩だ。 案の定、メラーズが真実を言い当てられて動揺したのは僅かな間だけで、すぐに平静を取り戻すと、拘束されたエレンに一歩二歩とゆっくり近付いてきた。 「ならば分かってくれるだろう? 我が主人はどうしても君が欲しいんだ」 「やめてくださいよ。父親ほども年の離れた男性に、意味が違うとしても『欲しい』なんて思われたくないです」 「そんな台詞を君に言う権利があるのかね」 手を伸ばせばエレンに触れるかどうかという距離まで近付いたメラーズは、足を止めてじっと金色の目を見下ろす。 「ロッド様が驚いていらしたよ。君はそちら側≠フ嗜好なんだろう? しかも確か……リヴァイとか言う男、どこの馬の骨とも知れぬゴロツキじゃないか。同性で最下層の出身。そんな人間を侍らせる君の気が知れな――」 「黙れよ豚野郎」 「……ッ」 「てめぇにも勿論レイス卿にも、リヴァイさんをどうこう言う資格はない」 ギチ、と両手を拘束する縄と椅子を軋ませながらエレンはギラギラと輝く双眸で相手を睨み付けた。もし視線に物理的な力があったなら、メラーズの心臓はエレンの眼光に貫かれていただろう。それくらい怒りと殺意にまみれた目をしている。 メラーズの額や背中からはどっと汗が噴き出た。まさに蛇に睨まれた蛙だ。 「っ、私を睨んで何になる! 本当のことだろうが!」 ひるんでしまった事実に羞恥を覚えたメラーズは反射的に右手で拳を作ってエレンの頬を殴りつけた。直接的な暴力からは縁遠い人間が繰り出した拳だったが、それでも成人男性が放ったものだ。ガタンッと大きな音を立て、エレンは椅子ごと仰向けに倒れる。 「ツ!」 縛られた両手が椅子の下敷きになり、声なき呻き声をあげるエレン。更に追い打ちをかけるかのごとく、倒れた振動ですぐ傍にあった棚から花瓶が落下した。花と水がエレンに降りかかり、花瓶は割れて破片が飛び散る。 びしょ濡れになったエレンを見下ろし、続いてメラーズは足を振り上げて椅子やエレンの身体を容赦なく蹴り始めた。 「このクソガキが! 折角ロッド様が美しい娘を賜ってくださるというのに断るとは何事だ! 恥を知れ! しかも我が主の手は取れんと言うのにゴロツキなんぞ侍らしおって! ふざけるなおぞましい! 貴様はさっさとロッド様とレイス家に頭を垂れれば良いのだっ!」 ガッ、ガッ、と肩で息をしながらメラーズはエレンを蹴り付ける。拘束されたエレンは逃げるどころか防御することもできない。スーツは汚れ、髪は乱れ、肌が露出している顔などは腫れ上がって醜い痣ができた。更に蹴りつけられたことで僅かに身体が移動し、落ちていた花瓶の破片を下敷きにしてしまい、それで傷付いた手が痛みを訴える。 しばらく一方的な暴力と暴言を続けたメラーズだったが、彼は唐突にそれを止めた。まだ言い足りないしやり足りないといった風情であるものの、体力の限界である。 額に汗を浮かべて顔を真っ赤にしたメラーズは、「後でもう一度来る。その時に君が正しい答え≠出してくれることを願っているよ」と言って部屋から出て行った。 「……………………ああクソ、殺してやりてぇ」 しんと静まり返った部屋でエレンはぼそりと呟いた。 誰を、という部分は言うまでも無く。推して知るべし。 ロッド・レイス本人ならばもっとスマートに事を運んだかもしれないが、彼に心酔していると思しき部下はレイス卿よりも粗暴で直接的な手段を好むようだ。否、好むと言うより、心酔が過ぎてそちらにしか思考がいかないのか。 そのレイス卿は一体何をしているのだろう。レイス家について調べたとは言ったが、やはり得体のしれない部分を持っている男なのだ、あの人物は――と、エレンは怒りを抑えて考える。 ひょっとしたらただ単に仕事でこの場を離れているだけかもしれなかったが。 (どちらにせよ、本人不在の時の方が何をするにしても都合は良いだろうな) 暴行を受けて痛む身体に顔をしかめながらエレンは拘束された手を動かす。 いつまでもここに囚われているつもりはない。幸いにもジャケットは脱がされておらず、その内ポケットに入っている物にメラーズが気付いた様子はなかった。これ≠使えば、しばらくレイス家に大人しくしていてもらうことは可能だろう。防水性なので花瓶の水も問題無いと思われる。だがそのためにはまずエレン自身がこれ≠持ち帰らなくてはならない。 (そろそろアルミンが気付いて何かやってくれてるかなぁ。あー……つうかリヴァイさんホテルでオレのこと待ってんのかな。ごめんなさいリヴァイさん!) もぞもぞと手を動かしているうちにエレンの右手がある物を掴んだ。それはメラーズに殴り倒された時、振動で棚から落下した花瓶の破片である。 映画の真似事だが、はてさて上手くできるかどうか。 エレンは花瓶の破片を拘束する縄に押し当て、細かく動かしていく。しばらくその動作を繰り返していると、ざり、と縄に切れ目の入る手ごたえがあった。 思わず心中でガッツポーズをするエレン。しかしそれ以上深く切れ目を入れる前に、エレンを監禁している部屋の扉がゆっくりと開いた。 現れたのはメラーズ――……ではなく。 「ヒストリア……?」 「こんにちは、エレン」 入室し、最小限の音を立てて扉を閉じたのは、昨夜顔を合わせたロッド・レイスの娘。ヒストリア・レイスだった。 「どうしてこんな所に」 予想外の人物の登場に対しエレンが素直にそう尋ねれば、ヒストリアは扉の傍からゆっくりこちらに近付きつつ口を開く。 「だってここは父の滞在先の一つだから。とは言っても、昨日、あなたと別れてから購入した建物なんだけどね」 「……まさかとは思いますがオレをこうするためだけに?」 「さあ? 父の考えは私には分からない。でも今の状況を見た感想としては、そうなんだろうって思う」 昨夜顔を合わせて食事をした男が後ろ手に拘束され、水を被って倒れている場面に遭遇しても、ヒストリアの青い目が揺らぐことはない。彼女は倒れたままのエレンの真横にまで辿り着くと、膝を折ってしゃがみ込んだ。 「ごめんね。メラーズは父の信奉者だから、父に逆らった人間には容赦がないの。しかもあなたのことを父から任されて張り切ってるみたいだから、余計に」 ヒストリアは水に濡れたエレンの前髪をそっと指で払いながら淡々と告げる。 「その言い方だとあなたはお父上があまりお好きでないように聞こえますが」 「ここには父もいないし、わざわざそういう口調で話してくれなくてもいいよ。私だってこういう話し方してるでしょう?」 「じゃあお言葉に甘えて。ヒストリアは父親が嫌いなのか?」 「どうでもいい。だって鳥が鳥籠を憎んだって仕方がないでしょう? どんなに憎んでも籠がひとりでに扉を開けて鳥を外へ押し出してくれるわけじゃない」 比喩的な表現を使っているが、彼女の境遇を想像することは容易い。彼女は人形であり、そして籠の鳥なのだ。自由への意志はあれど、それを貫けない少女。 「だからね」 ヒストリアは続けた。 「私はあなたが羨ましい」 「オレが?」 「あなただって色々なしがらみがあるはずなのに、私と同じ自由に飛べない籠の鳥なのに……それでも、すぐ傍にあの人がいるじゃない」 「……リヴァイさんのことを言ってんのか」 「うん」 こくりと金色の頭が縦に揺れる。 「私の大切な人は私の隣にいないから」 「会いに行かないのか?」 瞳に光のない少女はじっとエレンを見つめた。 きっと「無理だ」と答えるのだろうとエレンは思う。自分にここを抜け出す力は無いのだと。 自分で現状を打破する意思が無い少女にエレンが何かを言うつもりはない。そう思っているならそのままでいい。所詮、赤の他人なのだから。好きにしろ、と言ったところだ。 エレンは冷めた目で少女の瞳を見返す。 だがその時、ヒストリアは口元に弧を描き、淀んでいた青い瞳に僅かな光が灯った。 「? ヒストリ「ねぇエレン」 エレンの呼びかけを遮り、ヒストリアは小さく微笑んだ。 「あなたとは昨日初めて会ったけど、私はあなたが羨ましいと思った。でもね、同時に愚かだとも思った」 「え……」 くすくすと少女は笑う。 だがその笑みは可憐さや無邪気さだけのものではなく、一つまみ程度の嘲りが含まれていた。 「好きなのに、傍にいるのに、あなたはそれを相手に示していない。わざわざ好きだというフリばかりしている。勿体無い。本当に馬鹿だね」 痛烈な一言だった。 エレンは眉間に皺を寄せ、口元を引き結ぶ。的を射過ぎていてぐうの音も出ない。 彼女の言うとおり、エレンにとってリヴァイは特別だった。夜の歓楽街で一目見た時から。そして特別だからこそ、己を曝け出せない。 無様な反論をする代わりにエレンはヒストリアを見上げて告げる。 「女って怖いな」 「人の機微に聡いのが女って生き物らしいからね」 ふふふ、と少女は含み笑いを零す。つられるようにエレンも口の端を持ち上げた。 「でも私にも分からないことがあるよ。どうしてエレンはリヴァイさんが好きなフリをするの? 好きなら好きだって、本当の自分を出せばいいのに」 「本気はマズイよ」 「どうして?」 「リヴァイさんが傍にいてくれるのは一週間だけって、最初にこっちからお願いしたんだ。だからフリをやめて本気になったら、終わった後でオレ自身がつらくなる」 「そっか」 ヒストリアは何の感慨もなさそうに相槌を打ち、 「エレン。私、鳥籠《ここ》から出て行くことにする」 「……は?」 少女の宣言とそれまでの会話の内容が繋がらず、エレンは目を点にした。 一方、そんなエレンをヒストリアは、ふん、と鼻で笑う。 「期間限定とはいえ、あなたみたいな臆病者≠ナさえ大切な人が傍にいるのに、なんで私はあの人と離れ離れになっていなきゃいけないんだって、今、思った。大切な人が傍にいるあなたがどうしてわざわざ演技なんかしてるんだろうって、相当深刻な理由がるのかなって、だったら私もここを出て行けないのかなって、そう思ってたんだけど。でも違った。あなたが抱える理由はとてもくだらない。それで馬鹿らしくなったから、私は私のやりたいようにする。ありがとう、エレン。うじうじしてるあなたの馬鹿な話を聞いて決心がついた」 そもそも実はこの決心をするためにこの屋敷を訪れてあなたの話を聞きに来たんだけど、と付け足し、ヒストリアは彼女のマシンガントークにより目を点にしたままのエレンを見下ろして立ち上がる。 「私は鳥籠《ここ》から出て行く。ここを出て、会いたい人に会いに行くよ」 二本の足でしっかりと立ち上がった少女は『ロッド・レイスの人形』などではなかった。 先程彼女のことを胸中で『現状を打破する意思が無い少女』と嘲ったことをエレンは恥じる。とんでもない。ヒストリアは籠の鳥に甘んじる少女ではなかった。ひたむきに、したたかに、そこから羽ばたくタイミングを狙っていたのだ。 「ねぇエレン。私がここを出るついでに、あなたに手を貸してあげようか」 ヒストリアは人形でいることを止め、光が宿った青い双眸で真っ直ぐにエレンを見つめる。 「馬鹿なあなた達≠ェ、少しでも悔いのない選択ができるように」 エレンが椅子ごと身体を横に倒し、その背後でヒストリアが手首を縛っていた縄を解く。 彼女の言う『悔いのない選択』ができるかどうかは分からない。それができずとも、エレンはここを出なければならないのだから、考えるのは後回しにした。 ごそごそと背後で縄の結び目と格闘していたヒストリアがぼそりと呟く。 「なんだ、自分でちゃんと逃げようとしてたんだね」 おそらくエレンが花瓶の破片でつけた切れ目を見つけたのだろう。「余計なお世話だった?」と話しかけられたので、エレンは「いや」と答える。 「オレがさっさと逃げなかったことでお前が踏ん切りをつけるキッカケにはなったみたいだし、オレもちょっと考えることになりそうだから、こっちの方が良かったと思ってる」 「それならいいんだけど。……ああ、やっと解けた」 ヒストリアがそう言うのと同時、腕の戒めが解ける。ようやく得た解放感にエレンはほっと息をついた。 「立てる?」 「ああ」 下敷きにされていた腕や手は痛むし、破片によってついた傷には血が滲んでいるし、メラーズに蹴られた服の下が鈍痛を訴えているが、どれも大したことではない。立ち上がったエレンは手足をぐりぐりと動かし、四肢の具合を確かめた。 ヒストリアはそれを見て大丈夫そうだと判断したのだろう。「行こうか」と言ってさっさと扉へ向かう。確かに長居は無用だ。いつメラーズが戻って来るか分からない。 二人は極力音を立てないようにしながら部屋を出る。道案内はヒストリア任せだ。この建物があるのはレイス卿が滞在しているホテルから少し離れた所にある高級住宅地の一角だそうで、彼女は無駄に広くて面倒だとぼやいた。 「車があれば自分でホテルまで帰れる?」 「無謀な近道をしようとしなければ」 「ん? まぁそれならいいや」 この家が建っている住宅地にはエレンの知人が住んでいる。そしてエレンがその知人宅からシーナエンパイアホテルに戻る際、近道を通ろうとして迷ったのが先日のことだった。 その時出会った人物こそリヴァイだ。脳裏に浮かんだその姿にエレンの中で早く帰りたいという思いが募る。 だがレイス家の方もそう易々と帰してくれなさそうだ。 「待って、エレン」 「まさかオレ達のことがもうバレたのか?」 「いくらなんでもそれは早すぎると思うけど……」 曲がり角の手前で二人は足を止める。死角になっている廊下の奥が何やら騒がしい。 ヒストリアは自分達のことがバレたからではないと言ったが、耳を澄ましていると「いたか?」「いや、こっちにはいない」というやり取りが聞こえてきた。 「チッ、ここを通ればすぐ車庫に出られるのに」 お嬢様らしくない舌打ちを披露するヒストリア。 「買ったばかりの屋敷なのによく知ってるな」 「あなたに会いに行く前に下見したから」 「抜かりねぇ」 「当然のことだよ」 そう言った直後、ヒストリアはそっと溜息を吐く。 「仕方ない。別の道を――」 「エレン・イェーガーが逃げたぞ! 探せ!」 「「ッ!」」 自分達が来た方向からそんな大声が聞こえて二人は肩を揺らした。幸運の女神はこちらに味方してくれないらしい。しかもその声を聞きつけて廊下の奥にいた男達――レイス卿が雇った警備員とのことだ――がこちら側に駆けてくる。 バタバタと近付く二人分の足音にエレンとヒストリアは来た道を引き返そうとするが、そちらも安全とは言えない。 「なぁヒストリア、オレの護身術がお前んとこの警備員に敵うと思うか?」 「どうかな。ただしこのまま突っ込むより私を人質に取ったフリをした方が成功率は高いと思う」 「じゃあその案で――」 やろう、とエレンが言い切る前に曲がり角から警備員の姿が見え、そのままこちらに曲がってくることなく真っ直ぐ吹っ飛んで廊下の反対側に消えてしまった。 「……は?」 吹っ飛んでいくのと同時に鈍い打撃音も聞こえた気がする。 しかも曲がり角で死角になっているところから別の警備員が漏らしたと思しき呻き声が聞こえた。そして呻き声が聞こえなくなった後、曲がり角からひょっこりと顔を覗かせたのは、赤い髪の少女。 少女はエレンを見ると、「黒髪、金色の猫目」と呟き、 「囚われのお姫様はっけーん!」 気絶した警備員の上に乗ったまま、びしっとエレンを指差して叫んだ。 「お姫様って……ヒストリアのことだよな?」 「どう見てもあの子が指差してるのはエレンだし、私は囚われてないよ」 現実を認めずエレンはヒストリアを見たが、彼女にばっさりと切って捨てられる。 赤い髪の少女はエレンを探しに来た人物であるようだ。しかしエレンは彼女に見覚えがない。 「君は一体……」 「おい、イザベル。あんまり大きな声出すなっつっただろうが」 「!」 聞こえてきた別の人間の声にエレンは息を呑んだ。 自分はこの声を知っている。湧き上がるのは歓喜と、どうして彼がこんな所にいるのかという困惑。 こつり、と足音がやけに大きく聞こえた。そしてイザベルと呼ばれた赤髪の少女に続いて現れたのは―― 「リヴァイ、さん」 「よう、エレン。随分男前になっちまったようだな? お前をそうした相手にお礼参りをしてやりたいところだが、まずはお前をここから逃がす方が先だ。歩けるか?」 「問題ありません」 「よし」 リヴァイは頷き、次いでヒストリアに視線を向ける。 「事情はよく分からんが、てめぇもここから出て行くのか?」 「当然です」 「ならついて来い。――ファーラン、イザベル、ずらかるぞ」 どうやら奥にまだ一人仲間がいたらしい。リヴァイの呼びかけに男の声で「了解!」と返事が聞こえた。エレン達が曲がり角から顔を出すと、銀髪の青年の姿があった。彼がファーランであるらしい。 「イザベルさん、と、ファーランさん? 二人はリヴァイさんの知り合いなんですか?」 「一緒に住んでいる友人だ」 車庫へと向かいながらリヴァイが端的に答えた。 「ああ、以前話してくださった」 名前は知らなかったが、リヴァイがルームシェアをしているという話は本人から聞いている。エレンは得心がいったと頷き、彼らと共に車庫まで走った。 ちなみに、最初に吹っ飛んだ警備員はリヴァイの蹴りによるものだったらしい。 一台の車に五人で乗り込み屋敷を出た。 しばらく走って屋敷から離れると、拝借したレイス家の車を乗り捨てて、アルミンがイェーガーグループの者を使って用意してくれた別の車に乗り込む。 だが乗り込んだのは四人だけ。ヒストリアは「ここまでで大丈夫」と言って乗車を拒否した。 「あとは自分の足で会いに行くよ」 「誰に?」 「勿論、私の大切な人に」 エレンの問いにヒストリアはそう答え、己のスマートフォンで誰かに連絡を取り始めた。 ならばエレン達にすることはない。四人が乗り込んだ車は静かに走り出す。それを見送るヒストリアは小さく手を振り、電話に出た相手に満面の笑みで語りかけた。 「ねぇユミル、今から私と逃避行なんてどう?」 車との距離が空き、それ以降の声は聞こえない。ただ少女の笑みが深まり、彼女の望む答えを得られたことはエレン達にもはっきりと分かった。 歓楽街の近くでイザベルとファーランを降ろし、リヴァイとエレンはホテルへ。その後、エレンがICレコーダーで録音していた音声はアルミンに送信され、レイス家の動きは鎮静化。当事者ら以外には誰にも知られることなく、今回の一件は終息を迎えた。 2014.04.23〜2014.05.10 Privatter(フォロワー限定公開)にて初出 |