「あにきー、出かけんの?」
 ソファにだらしなく寝そべっていたイザベルが赤い髪をがしがしと乱暴に掻きながら身を起こす。その視線を受け、ドアノブを握っていたリヴァイは顔だけで振り返った。
「ああ、暇なんでぶらついてくる」
「んー。いってらっしゃーい」
 窓から見える空は真っ暗だが、この街は今からが本番だ。
 星の光を追いやるネオンがギラギラと輝きを増し始め、住民達の起床を促す。
 イザベルともう一人の同居人である青年より先に軽く朝食≠済ませたリヴァイは、腹ごなしに夜の帳が下りた街へと繰り出した。
 リヴァイ達がシェアして暮らしているのは築二十数年の三階建てアパートの二階、角部屋。建物の外につけられた階段には屋根など無く、また錆の浮いた金属製のそれは歩くたびにカンカンと大きな音がする。先日イザベルが踏み抜いた一段はまだ穴が開いたままで、おそらくこれからもずっと修理されることはないのだろう。
「よう、リヴァイじゃねーか。仕事か?」
「散歩だ」
 階段を降り切ると、道路の脇に座り込んでいる老人が声をかけてきた。白と黒が入り混じったもじゃもじゃの髭と小汚い格好は、見るからに彼が浮浪者であることを示している。対するリヴァイは焦げ茶色のスキニーパンツとモスグリーンのフード付きパーカーで、身なりは清潔感があった。
 全く異なる二人だが、しかしどちらもこの街の住人であることに変わりはなく、ゆえに双方ともこのろくでもない街のろくでもない人間に分類されるのだった。
 道の斜め向かいの電柱にもたれかかって客引きをしている娼婦も、建物の陰からスリの対象を探して目を光らせているストリート・チルドレンも同じ。彼らは皆、法に触れる仕事で日銭を稼ぎ、もしくは他から奪って腹を満たす。リヴァイも今日は財布の中身に余裕があるのでそうでもないが、普段は誰かから何かを巻き上げて己の欲を満たしていた。
「ねぇリヴァイ、あとで一発どう? あんたなら安くしとくわよ」
「顔も知らねぇ野郎と穴兄弟になる気はねぇよ」
「あら残念」
 すれ違った顔見知りのコール・ガールが肩を竦めて去って行く。ひらひらと振られる手と揺れるドレスはまるで蝶のようだった。
 表通りに出ると、ネオンの明るさに比例して客引きの女達も、それを買いに来た男達も、騒ぎに来た若者達も、数多く見られるようになる。
 そんな彼らの下卑た視線が特定の箇所にちらちらと向けられているのに気付き、リヴァイもまたそちらに意識をやる。そして眉を寄せた。
「ありゃ良いカモじゃねぇか」
 思わず呟いてしまったリヴァイの視線の先、路肩に一台の車が停まっている。車内のライトをつけており、中の様子が外から丸見えだった。カーナビとスマートフォンを交互に眺める若い運転手は整った顔立ちを難しそうにしかめており、誰が見ても道に迷っていると思うだろう。窓を閉じているので声は聞こえないが、時折毒づいているようにも見える。
 どんな理由かは知らないが、どこぞの坊ちゃんは不幸にもこんな街に迷い込んでしまった。周囲の雰囲気から察するに、あと五分もしないうちにあの青年は車から引きずり出されて身ぐるみ剥がれてしまうだろう。
 有名メーカーの高級車、着ているのも仕立ての良いブランド物のスーツ、ちらりと見えた腕時計はきっと値札にゼロがいくつも並ぶ類の物、そして見た目はひょろりとした優男。小柄な上に着痩せするリヴァイのように見た目と実力が反する人間も世の中にはいるが、あの青年がそうである可能性は低い。
 リヴァイは溜息を一つ吐いた。
 暇だから。自分の足が車に向かって歩く理由は、ただその一点のみ。
 リヴァイの姿を認めた住人達は、実力者の迷いない足取りに一人また一人とその場を退く。モーセの十戒ほどではないが、人垣を割ってリヴァイは運転席側のドアの窓ガラスを軽く叩いた。
 ウィーン、と小さな駆動音を立ててガラスが下がる。
「あ、はい」
 車中で金色の目がぱちりと瞬く。警戒心を微塵も感じさせない若者の様子にリヴァイは内心呆れながら、とんちんかんな場所を示すカーナビを指差して尋ねた。
「迷ったんだろ?」
「お恥ずかしながら」
「この辺は治安が悪すぎてナビに正確な地図が登録されてねぇからな」
「えっ、そうなんですか?」
 ぱちぱちと金色が数度瞬く。黒く長い睫毛に縁どられたアーモンド・アイはネオンの下品な光を受けて美しく輝いていた。
「お前なぁ……」
 呑気な青年の様子にリヴァイはますます呆れながら「で?」と相手に重ねて尋ねた。
「どこに行きたいんだ?」
「案内してくださるんですか?」
「これで、な。もちろん帰りのタクシー代は別途いただくが」
 そう言ってリヴァイは片手の指を四本立てる。暇潰しの人助けだが、タダでやるとは誰も言っていない。身ぐるみ剥がされるよりずっと安くて良心的だ。
「お願いします」
 相場の二倍は確実にある値段なのだが、迷うことなく青年は助手席側のドアのロックを外した。リヴァイは獲物を掻っ攫われた人々の恨めし気な視線を受けながら車に乗り込む。車内はふわりとかすかに上品な香水の匂いがした。
「シーナ大通りに出たいんですが……」
「なら向こうだな」
 リヴァイのナビに合わせて車が走り出す。最小限の揺れで済ませる運転技術にリヴァイは内心驚きながら、ほんの数十分のドライブが始まった。


「本当に助かります。ありがとうございました。オレ、エレンって言います」
 ハンドルを握りながら呑気な坊ちゃん――エレンはそう名乗った。
「リヴァイだ」
 別に隠すようなことでもないため、リヴァイも名乗り返す。
「リヴァイさんはあの辺に住んでいらっしゃるんですか?」
「ああ。家が近くでな。しかし、お前はなんであんな所で迷ってたんだ?」
 あそこは身なりの良い人間が来るようなエリアではない。自分達のような人間のたまり場だと、場違いな所に現れた青年を暗に非難すれば、エレンは前を見たまま苦笑を浮かべる。
「久々に尋ねた知人の家から帰る途中だったんですが、ちょっと気が向いて近道を通ろうと思いまして、それで……」
「阿呆か」
「返す言葉もありません」
 へにゃり、とエレンの眉尻が下がった。
「おい、次の信号を右だ」
「はい」
 指示に合わせてエレンが車の方向指示器を点灯させる。リヴァイはカチカチという小さな音を聞きながらエレンの横顔を眺め、改めて小奇麗な造りをしていると思った。
「リヴァイさんはどんなお仕事をされているんですか?」
 じっと横顔を見つめていたのがバレたわけでもないのだが、急に話を振られてリヴァイは居心地が悪くなる。「そう何でも初対面の人間に聞くんじゃねぇよ」と少し棘のある返しをしてしまった。
「あ、すみません。幼馴染にもよく言われるんです、デリカシーが無いって」
 そう言って目に見えて落ち込むものだから、リヴァイはバツの悪さより罪悪感を覚え始めてしまい、慌てて取り繕う。
「いや、まぁあれだ。用心棒的なもんだな。あの辺は治安も悪いし」
「ボディーガード(BG)ってことですか? 格好いい……!」
「……」
 そんな立派なものではないし、日々の半分は奪い取る側に回る。だがあえてそれを言うことでエレンのキラキラした瞳を曇らせるのは気が進まなかった。リヴァイはただ「他人より少しばかり喧嘩が強いだけだ」と答えるに留める。
「お前は何やってんだ?」
「オレですか? んー、色々やってますけど……」
 会社ごとに違いますからねぇ、とエレンはぼそりと付け足した。
「てめぇ、その口ぶりだと会社をいくつも持っているように聞こえるんだが」
「はい、持ってますよ。自分で作ったり他から買ったりしてたら、いつの間にかコングロマリット(複合企業)になってました。うち、イェーガーって言うんですけど、ご存知です?」
「…………マジでか」
「リヴァイさん?」
 イェーガーと言えば、全世界に関連会社を持つ超巨大複合企業だ。
 流通メインの会社から始まったイェーガーグループの現総帥にして、グループを飛躍的に発展させた鬼才エレン・イェーガー。その男が、今、リヴァイの隣で車を運転している。
「とりあえず運転手くらいつけとけよ」
「だって完全に私用だったんですもん」
 唇を尖らせても可愛くない、と言ってやりたいが、実際にはそこそこ可愛らしいと思ってしまったので、リヴァイは口をへの字にする。
 しかし、
「引きました?」
「いや、やっぱ阿呆だなとは思ったが」
 顔色を窺うようにぽろりと零れたエレンの問いかけに対し、リヴァイはそう即答する。そしてほっとした気配が隣から感じられ、己の返答が間違っていなかったことを知った。
「ほら、目の前に見えてるのがシーナ大通りだ」
「おお! いつの間にか見覚えのある景色になってました……! じゃあホテルはこっちですね」
 言って、エレンはハンドルを切る。この方向にあるのは五つ星を持つ超有名ホテルだ。きっとそこのスイートルームでも借りているんだろうというリヴァイの予想は、この十分後、見事に的中することとなる。


 老舗中の老舗、この国のホテルの中でも三本の指に入るシーナエンパイアホテルに到着すると、すぐに制服姿の男性が車を預かり、車庫へと運んで行った。エレンはそれを見送ることなく、リヴァイを促して中へ入る。
「お、おい。俺は帰るんだが」
「もしお急ぎでないようなら部屋に寄っていってください。お礼がしたいんです」
「金だけもらえりゃ、んな必要……」
 無い、と言い切ろうとしたものの、エントランスロビーに足を踏み入れたエレンに気付いた支配人らしき男が「お帰りなさいませ、イェーガー様」と笑顔で近付いて来たため、リヴァイは口を噤まざるを得なくなる。
 さすが金持ち。顔パスは当然らしい。
 初老の支配人はにこにこ笑顔でエレンを見やり、次いで隣に立つリヴァイの姿を認めてその顔をぴしりと凍り付かせた。
「あの、イェーガー様、そちらの方は……」
 言葉にしなかった部分は「見るからにゴロツキである男を伴って部屋に戻る気ですか?」といったところだろうか。先程道に迷っていたエレンが場違い野郎だったなら、今はリヴァイの方がそれだった。高級ホテルにおいて、リヴァイは明らかに浮いている。周囲を伺えば、支配人以外の従業員や客達まで訝しげにリヴァイを見ていた。
「おい、エレン。やっぱり俺はここで帰「オレの大事な恩人ですから、このまま部屋に戻ります」
「……はい。かしこまりました」
 自分の台詞を途中で遮られたのは気に入らないが、エレンに逆らえない支配人の顔を見てリヴァイは胸がすく思いがした。こちらに侮蔑の目を向けていた男がやり込められるのは面白い。
 気分が良くなったリヴァイはそのままエレンに促され、VIP用エレベーターに乗り込む。到着したのはホテルの最上階、ワンフロアぶち抜き、一日一組の客しか泊めないスイートルームだった。


「別世界だな」
 分かり切ったことだが、と内心で付け足しながらリヴァイはバルコニーへと続く大きなガラス戸から街を見下ろす。室内の灯りを受けて反射した自分の姿の向こう、眼下に広がる夜景は、連れて来られたのが女性なら一発でエレンに落ちたとしてもおかしくないほど美しい。
 自由にくつろいでくださいね、と言ったエレンはフロントに電話をかけている。どうやら軽い食事を注文しているらしい。らしい≠ニ表現してしまうのは、彼の口から発せられる料理名と思しき単語がリヴァイに全く馴染みのないものだったからだ。なぜ高い料理はああも長ったらしい名前であることが多いのか。
 話が済み、受話器を置いてエレンがリヴァイを振り返った。
「勝手に頼んでしまったんですが、食べられないものはありますか?」
「アレルギーの類は無いな。好き嫌いも特に。だが腹が空いてるわけじゃないから量はそんなに食べられねぇぞ」
「じゃあ口に合ったものだけ少し摘まんでください。アルコールも大丈夫ですか?」
「ああ、そっちは大好物だ」
 この男が頼んだなら、普段リヴァイが口にしている安酒など比較にならないものが出てくるに違いない。期待を込めてニッと口の端を持ち上げれば、逆にエレンが嬉しそうに満面の笑みを浮かべたので、リヴァイは目を瞠る。別に可愛いなどとは思っていない。断じてだ。
「どうかしました?」
「何でもない」
 少し素っ気なかったかもしれないがそう答え、リヴァイは部屋の応接セットのテーブルに置かれていた大皿からリンゴを掴んだ。大きなリンゴはツヤツヤと赤い皮を光らせていて、齧れば果汁が溢れ出す。「ジャパンのツガルから空輸してきたらしいですよ」とエレンから説明があったが、生憎リヴァイはリンゴの美味い産地など知らないし興味もない。分かるのは、これが今までの人生で食べたリンゴの中で一番美味かったという事実だけだ。
 大皿の中には他にも室内の照明をはじいて輝く果物が溢れている。オレンジ、グレープ、マスカット、ライチ、アプリコット、ストロベリー。
「イチゴはシャンパンと一緒に食べると美味しいですよ」
 ジャケットを脱ぎ、ネクタイを解きながらエレンは言った。リヴァイの視線が大皿に向いていることに目ざとく気付いたのだろう。そしてこの青年ならばきっとすでにシャンパンも注文しているに違いない。出会ってまだ一時間も経っていないが、リヴァイは早々にこの人物の人となりが分かってきたような気がしていた。
 エレンがあの高そうな腕時計を外す。テーブルへ無造作に置かれたそれをリヴァイが何気なく手に取ると、青年はこともあろうに目を輝かせて、
「それリヴァイさんに似合いそうですね。よろしければ差し上げますよ。あ、でもオレの中古なんて失礼ですよね。明日まで待っていただければ同じシリーズの新作をご用意できるんですが」
「冗談だろ」
「え? そんなつもりは……」
「遠慮しておく」
 半眼になってリヴァイは答える。
 金持ちの感覚が理解できない。たかが道案内した程度の人間にここまでするものだろうか。それともエレンがただ馬鹿なだけなのか。
 つい先程この青年の人となりが分かったような気がしたなどと考えたものだが、一瞬後にこのザマだ。
 リヴァイは腕時計をテーブルに戻し、食いかけのリンゴを齧る。視線だけで追っていたエレンはシャツのカフスを外して一度部屋の奥へと足を向け、それから思い出したようにくるりとリヴァイを振り返った。
「すみません、ちょっとシャワー浴びてきます。料理来ちゃったら先に食べておいてください」
「あ、ああ」
 気遣いができるようだが結局阿呆で、かなり我が道を行くタイプらしいエレンは、リヴァイの返答を聞くや否や、今度こそ奥に消えていった。あちらにバスルームがあるようだ。
「……俺みたいなの部屋に放っておいたまま風呂かよ」
 ホテルのセキュリティを信頼しているのか、それとも単に抜けているだけなのか。普通に考えれば前者のはずなのに、どうにも後者の案も捨てられず、リヴァイは眉間に皺を寄せながらソファに深く座って足を組む。
 正面のローテーブルには大皿に乗ったフルーツ。その中のイチゴに目を留めて、リヴァイはぼそりと呟いた。
「とりあえずシャンパンが来たら先に飲んでおくか」
 エレンのおすすめ通り、真っ赤に熟れたイチゴを摘まみながら。


「……っ」
 高い酒を遠慮なく飲んでいるうちに酔って眠ってしまっていたようだ。リヴァイは目を開け、天井を睨む。もともと三白眼で鋭い目つきなのだが、今は殊更それが酷い。
 まだ夜は明けておらず、照明を落とした室内は薄暗い。身じろぐと、身体にかけられていた毛布がずり落ちた。
「エレンのやつか」
 飲んでいるうちにソファで眠ってしまったリヴァイを起こすことなく、部屋の主はご丁寧に毛布をかけていったらしい。
 シャワーから戻ってきたエレンと取り留めのない会話をしていた気がする。だがあまりにも用意された酒が美味くて、話半分にしか聞いていない。自分はあの街で仲間とルームシェアをして暮らしているとは教えたが、イザベルとファーランの名前までは出さなかったはず。一方、エレンの口からは彼の友人や部下の名前を聞いた気がするものの詳しくは覚えていない。
 ポケットからスマホを取り出すと、その同居人達それぞれからメールが届いていた。散歩に出かけたまま帰って来ないリヴァイを心配してのものだったので、二人に同じ文面を送り付ける。内容は「いいカモを見つけたからちょっと飲んでた」である。
 そのカモもといエレンはどこに行ったのだろうか。斜めの席に座っていたはずの青年の姿が見当たらない。
「…………ああ、そこにいたのか」
 顔を上げたリヴァイはぼそりと独りごちた。
 バルコニーにすらりとした体躯の人影が一つ。景色を見やすくすることを重視したため安全面では心もとなく思える柵――無論、実際には安全性もばっちりなのだろうが――に背を預け、エレンは首を軽く捻るようにして夜景を眺めている。手にしているグラスには彼が特に気に入っているブランデーが揺れていた。
 リヴァイはおもむろにソファから立ち上がり、バルコニーへと足を向ける。
「落ちるなよ」
「リヴァイさん……まだ寝ていても大丈夫ですよ」
「目が覚めたんだ」
 告げながら、リヴァイもまた夜景を眺めた。エレンが一度柵から背を離し、リヴァイと同じように腹側を外に向ける。
「ここに立つとちょっとだけ鳥の気分を味わえるような気がして。だからこの辺へ仕事に来た時には、いつもこの部屋を取るんです」
「確かにこれは一見の価値がある夜景だが……お前が金を出すのはそういう理由しかねぇのかよ」
「ええ、鳥の気分が少しでも味わえるなら、このスイートでも安宿でも、オレにとっては同じことです」
 まるで鳥にでもなり切るかのように両腕を広げてエレンは金色の目を空に向ける。
「鳥の真似事をすれば、少しは自由になった気がするから」
「……」
 それは現実のエレンが自由ではない、という意味なのか。
 おそらくそうなのだろう。リヴァイから見た彼は阿呆だが、これでも有名企業グループのトップに君臨する男だ。リヴァイには想像もつかない世界で生きている。そんな人間が自由であるはずなどない。目には見えずとも、その双肩には数多の社員の生活が重く圧し掛かっているのだ。
 自分のような人間がそれを「大変だな」の一言で済ませるわけにもいかず、リヴァイは沈黙を守る。
 柵に身体を預けたまま眺めたエレンの横顔は真っ直ぐに空を見ており、時折グラスを持ち上げてこくりと琥珀色の液体を嚥下した。そのたびに白い喉が小さく動き、同性のパーツだというのにどこか艶めかしさを感じさせる。
「お前は自由になりたいのか」
 下腹に生じかけた熱を誤魔化すようにリヴァイの口を突いて出た台詞は、エレンの立場を思えば実に安っぽいものだった。空を映していた金色の目がリヴァイの姿を捉える。
「今の立場を捨てるのかという意味でしたら、答えはノーです。時々物凄くはっちゃけたくなりますが、それでも今の道を選んだのはオレの意志ですから」
「そうか」
「でも」
 だいぶ溶けてしまった氷をグラスの中でカランと揺らし、エレンはリヴァイに微笑みかけた。
「あなたとのお喋りはここ最近類を見ないくらい楽しかったですよ」
「……そう、か」
「はい」
 柵から身を剥がし、エレンが部屋の中に戻る。脱ぎっぱなしにしていたジャケットの内ポケットから取り出したのは財布で、彼はそれを手にしてリヴァイの元に戻ってきた。
「今日はありがとうございました。こちらがお約束していた代金です」
 ぽんと手渡された紙幣の合計金額はリヴァイが最初に言っていたものよりゼロが一つ多い。枚数は指を立てて示した通りだが、たとえタクシー代を含んでいたとしても多すぎる。
「おい……」
「足りませんでしたか?」
 小首を傾げて財布を開くエレンに「違う」と告げ、リヴァイは眉間に皺を寄せた。
「多すぎだ、馬鹿が」
「そうなんですか?」
「こんなにもらっちまったら、俺はあとどれだけてめぇに付き合わなきゃなんねぇと思う」
 リヴァイが紙幣三枚を抜き出してエレンに突き返すが、相手がそれを受け取る気配は無い。彼はしばらく黙した後、名案を思い付いたとばかりに金色の目を輝かせ、リヴァイの手にぽんと一枚のカードを置いた。プラスチック製で、磁気テープとICチップがついた黒いアレである。
「……何のつもりだ」
「言ったでしょう? あなたといる時間は楽しかった。だから今回だけと言わず、しばらくあなたを雇いたい。オレがここで仕事をしている間だけでいいんです。期間は一週間。嫌になったら途中で辞めてくださって構いません。給料はあなたが欲しいだけ、いくらでも。どうですか?」
 リヴァイに黒いカードを握らせて、エレンは淀みなくそう告げた。
「勿論、オレの隣にいても違和感が無いよう、またあなたが恥をかかないよう、マナーは身につけていただきますが」
 ルームサービスを頼んだ後、食事中のリヴァイの食べ方を思い出したエレンが苦笑する。エレン個人としては全く構わないのだが、彼の世界であの豪快かつ奔放な食べ方は褒められたものではない。詳細は割愛するが、とりあえずナイフとフォークの使い方は滅茶苦茶だったことをここに記しておく。
 一方、カードを握らされたリヴァイは手の中のそれとエレンの顔を交互に眺め、突然の展開に目を白黒させている。
「形式としては秘書兼ボディーガードといったところでしょうか。確かリヴァイさんは喧嘩が強いって仰ってましたよね。あ、秘書と名前はついていますがスケジュール管理等は必要ありません。ただオレの傍にいてくだされば」
 その間にもエレンはつらつらと仕事内容を口にする。雇われる側からしてみれば実に魅力的な労働条件だろう。魅力的過ぎて怪しくもあるが、雇い主がエレンという時点で、リヴァイの中では怪しさもほぼ無くなってしまうから不思議なものだ。
 はあ、とリヴァイは溜息を吐く。睨むように相手を見れば、淀みなく動いていた口がぴたりと止まった。
「エレン」
「はい」
「とりあえずクレジットカードは止せ。俺が持っていたらお前から盗んだと思われるだろうが。現金を寄越せ、現金を」
「! では契約成立ですね」
 きらきらと金眼を輝かせてエレンが声を弾ませる。
「一週間、よろしくお願いします!」

* * *

 働くにはまず身なりを整えるところから。
 出会いから二日目にして勤務一日目。ホテルの近くにある高級ブティック街で、リヴァイがそれらしく見えるような衣服を揃えることになった。
 だがエレンはこれから取引先に出かけなければならない。よってリヴァイはエレンから必要経費と言う名目で現金を渡され、朝から一人で買い物をすることになった。
 全く世話になったことのない地区だが、そこがどういう店の並ぶ場所かは知っている。一生縁など無いと思っていた場所に足を踏み入れるのは少しばかり緊張した。が、自分が好きにできる金がいくらでもあるというのは、正直に言って気分が高揚する。
 ズボンの後ろポケットにスマートフォンをねじ込み、エレンから渡された金はそのままパーカーの左右のポケットへ。普段からそんなに額が入っていない財布に受け取った紙幣の束は入りきらなかった。
 イザベル辺りなら飛び跳ねて興奮しただろうし、ファーランもさすがに平静ではいられまい。今はここにいない友人のことを思い出し、リヴァイは仏頂面やしかめっ面であることが多い顔に小さな笑みを浮かべた。
 エレン曰く、本来ならオーダーメイドのスーツを仕立てたいところなのだが、一週間という契約期限もあるため、その案は却下されている。既製品でリヴァイに合った物を数着購入するのが今回の目的だ。無論、リヴァイはこういう世界と無関係に生きてきたので、靴も鞄もネクタイもシャツもネクタイピンもカフスも下着も諸々の細かな物も全て、上から下まで一式揃える必要がある。
 その地区に足を踏み入れた瞬間、リヴァイは己が酷く浮いていることを自覚したが、こちらには金がある。ならば客としての資格は十分だろうと考え、ちらちらと向けられる視線を気にすることはなかった。
 ひとまず目についた紳士服の専門店に入る。
「いらっしゃいませ、グレイス紳士服店へようこそ」
 客の来店に店員はにこやかな表情で挨拶してきたが、リヴァイの姿を見ると弧を描いていた口元がぴくりと引き攣った。その時点ですでにリヴァイは店員の胸倉を掴んでやりたくなったが、揉め事を起こしてエレンの顔に泥を塗るのも忍びなく、ぐっと怒りをこらえる。
「あー……その、今日はどのようなご用件で?」
 洒落たスーツ姿の店員は半笑いでそう尋ねた。リヴァイの頭からつま先まで何度も往復する視線は酷く不躾で、不愉快極まりない。
「スーツを一式揃えたいんだが」
「一式、でございますか」
「ああ」
 拳を握りしめて声を荒らげないようリヴァイは必死に自制する。だが、その我慢を呆気なく無駄にするように店員は言葉を放った。
「申し訳ありません、お客様」
 人を小馬鹿にした笑みを浮かべて男性店員は慇懃無礼に告げる。
「当店にはお客様のような方にお売りできる商品などございません」
「……はあ?」
 ドスのきいた低い声が出た。
 店員はびくりと肩を震わせたが、壁際の警報装置の近くに立っていた別の店員を一瞥し、余裕の表情を取り戻す。
「当店で取り扱っております商品は非常に質が良く、それゆえに相応のお値段となっておりまして。お客様には……お分かりいただけますよね?」
「金ならある」
 エレンから受け取った紙幣をポケットから掴み出して店員に見せつける。だが向けられる視線は更に侮蔑を含んだものになった。ゴロツキごときが金など持っているはずがない、きっとどこかから奪ってきた汚い金だと思ったのだろう。
「お客様」
 男性店員はリヴァイを見下しながらはっきりと告げた。
「お帰りください」


「リヴァイさん? もう帰ってたんですね。どんな服を買われたんですか?」
 正午前、エレンがホテルに戻ってきた。昼食はエレン自らテーブルマナーを教えながら取る予定になっている。
 だが応接セットのソファに行儀悪く腰掛けて窓の外を睨みつけていたリヴァイの様子にただならぬものを感じ、「リヴァイさん?」ともう一度名前を呼んだ。
「服は……」
「買ってねぇよ」
「え?」
 首を傾げるエレンを一瞥し、リヴァイは舌打ちをしながらパーカーから紙幣を乱暴に取り出した。ばさり、とローテーブルや床に紙幣が散乱する。
「服屋の店員が、俺みたいなゴロツキに売る服はねぇんだと」
 お前には買う資格が無いと侮辱を受けたことも、それを悔しがってこんな所で拗ねていることも、リヴァイは腹が立って仕方ない。
 エレンは散らばった紙幣を避けてリヴァイの前に回り込んだ。床に片膝をつき、自分よりずっとしっかりした手を取る。
 テーブルの上にあった大皿は二人とも外出している間にフルーツが新鮮なものに取り替えられ山盛りにされていたはずだが、リンゴ一つ分だけ隙間が空いていた。おそらく部屋に帰って来てからリヴァイが食べたのだろう。ならば今のリヴァイは我慢ができないほど空腹というわけではないはず。
 訝しげな青灰色の瞳を正面から受けて、エレンはにっこりと綺麗な笑みを浮かべた。
「お手数をおかけして申し訳ないのですが、オレと一緒に今から少し出かけませんか」


 二人が向かったのは午前中にリヴァイが侮辱を受けたグレイス紳士服店。
 エレンが入店するや否や、あの男性店員――どうやらオーナーだったらしい――が揉み手で近寄ってきた。
「いらっしゃいませ、イェーガー様!」
 エレンはここでも顔が利く。大歓迎を受けるエレンは貼り付けたような綺麗すぎる笑みで「こんにちは、グレイスさん」と返した。
「今日はどのような服をお求めで? ああ、先日イェーガー様にぴったりなネクタイピンが入荷しまして……」
 オーナーであるグレイス氏はすぐさま他の店員にその品を持ってくるよう視線で合図する。だがエレンは「いえ、結構です」とそれを制した。
「今日はオレの物を買いに来たわけじゃなくて、こちらの人に合う物を探しに来たんです」
「ああ、お連れ様の……おつれ、さま、の」
 前半は元気良く、後半は顔を青くして。グレイスはエレンの後ろにいて見えていなかったリヴァイの姿に目を留めてぎょっとする。
 その顔をにっこり笑顔のまま見据えてエレンはいけしゃあしゃあと告げた。
「オレのとても大切な人なんです。リヴァイさんにぴったりな物を見繕ってくれませんか? 支払いはいつも通りこれで」
 さりげなく財布から取り出されたのはブラックカード。金額不問を示すそれに、店員一同平伏しそうになりながら超特急でリヴァイのための服を揃え始めた。
 三十分後、リヴァイの服を上から下まで一式購入したエレンは、それらを宿泊中のホテルに送るようグレイスに命じた後、意気揚々と店を出た。店員全員によるお見送りつきで。
 横一列に並んだ店員らの中央、オーナーのグレイスに向けた金色の双眸には全く緩みが無い。
「今日はありがとう、グレイスさん」
「いえ、イェーガー様にはいつもご贔屓にしていただきまして……」
「しかしですね」
 エレンは相手の言葉を遮ってきっぱりと宣言した。
「午前中、リヴァイさんにしてくださったことがとても不快だったので、しばらくお会いすることはないと思います。今後、オレが一日でも早くこの店に来られるよう、あなたの誠意ある対応を期待します」
「い、イェーガーさま……」
「では、ごきげんよう」
 最後に満面の笑みを浮かべてエレンは店に背を向ける。エレン・イェーガーの不興を買ったという事実は、エレン個人の来店が今後どうなるかというだけの問題ではない。エレンの存在を知る多くのセレブ達がこの店に対する目を悪い方向に変えてしまうだろう。
「行きましょう、リヴァイさん」
 その声に従って踵を返したリヴァイは、膝をつくオーナーを一瞥してしみじみと金持ちの強さを思い知った。

* * *

「急で申し訳ないのですが、明日の取引先とのディナーにリヴァイさんも同席していただきたいんです」
 本当に申し訳なさそうに眉尻を下げたエレンがおずおずと言ってきた。
 雇用契約が結ばれて二日目の朝のことである。
 エレンに指摘を受けながらぎこちないテーブルマナーで朝食を取っていたリヴァイはパンを皿の上に置いて「構わないが……」と答えた。
 簡単に答えたものの、エレンの言葉は、つまり今日中に食事のマナーを完璧にしなければならないという義務の発生と同じ意味でもある。幸いにもリヴァイは呑み込みが早いので今日一日使えば付け焼刃のテーブルマナーでもそれなりになるだろう。しかしここで問題が一つ。
「おい、エレン。お前、今日はこの後から一日中外出予定じゃなかったか?」
 車で一緒に出掛けましょうね、と寝る前に言っていたのは昨夜のエレン本人だ。(補足すると、昨夜はエレンによるマナーのレッスンで遅くなったこともあり、リヴァイはこの部屋に泊まった。そして一々戻るのも面倒なため、契約中はずっとそうなる予定だ。)
 しかしつい先程、部下と思われる存在から電話がかかってきて、エレンはこうして情けない顔を晒している。
「はい。ですので、今日のレッスンは別の方にお願いしようと思ってます」
「別のヤツ……?」
 訝るリヴァイにエレンは「個人的な付き合いも長いので、信頼できる人です。ちょっと偏見の気があるのが珠に傷なんですが、昨夜の失礼な服屋のオーナーとは比べ物にならないくらいしっかりしていますよ」と苦く笑う。
「リヴァイさんならきっとあの人も認めざるを得ないと思います」
「で、そいつは誰なんだ」
 遠回しの表現ばかりするエレンにやや苛立ちを露わにしながら言えば、この若き雇い主はとんでもないことを告げた。
「ここのホテルの支配人さんですよ」
「はあ?」
「ですから、ここのホテルの支配人さんにオレの代わりをやってもらう予定です」
「本気か」
 リヴァイの眉間に深い皺が刻まれる。
 脳裏によみがえったのは、エレンの隣に立つリヴァイを凍り付いた表情で凝視する初老の男性の姿だった。


 支配人の名前はコールマンと言う。
 別に知りたくなどなかった。リヴァイにとってあの支配人は昨日自分を小馬鹿にした紳士服店のオーナーと同類であり、なるべく顔も見たくないと思っている人物なのだから。
 エレンは何故あのオーナーには冷たくしたくせに、支配人は別扱いなのだろうか。納得いかない。
 しかしここでボイコットしてしまえば、エレンが要請したディナーに出席できなくなる。いや、マナーがなっていないまま出席してもエレンなら笑って許してくれるだろうが、共に食事をする相手はリヴァイに最低の評価を下すだろう。そしてその評価はそのままエレンに対するものとなる。それはリヴァイの望むところではない。
 結果として、リヴァイは朝食を済ませて出かけたエレンを見送った後、指定された時間通りに部屋を訪れた支配人を渋い顔で招き入れることとなった。
 この広いスイートルームにはダイニングテーブルも設置されている。併設されているカウンターキッチンは一般家庭のそれよりもずっと立派で、冷蔵庫の中にある新鮮な食材と共に使用される時を今か今かと待ち構えていた。
 しかし残念ながら、白いテーブルクロスがかけられたダイニングテーブルの上に、そのキッチンで作られた料理が並ぶことはない。あるのは中身のない食器達。ひとまずフルコースのディナーをそつなく終えられるようになる、というのが現在リヴァイに課せられた目標である。
「時間は有限です。イェーガー様が戻られる前に完璧な紳士を作り上げてみせましょう」
 銀髪を後ろに撫でつけたコールマンが感情のこもらない薄青の目でリヴァイに告げる。そうして、支配人によるスパルタ・マナー研修≠ェ始まった。


 なんとかディナーに出席できる程度のマナーをものにしたと思えるようになったのは、本当の夕食の時間をとっくに過ぎた後だった。
 エレンはまだ出かけている。最終テストの代わりに実際の食事を口にすることになったリヴァイは、おかげで腹は満たされているものの、精神的な部分が枯渇状態だった。
 まぁこんなものですね、とコールマンが独りごちる。薄青の瞳がややぐったりした感のあるリヴァイを見据えた。
「これは単なる感想ですが、あなたは予想以上に熱心な生徒でした。見かけによらず」
 驚きを隠すことも無くコールマンははっきりと告げた。だがそれならリヴァイの方こそこのマナー研修は意外なものだったと感じている。
「俺はあんたがここまで熱心に教えてくれるなんざ思ってもみなかったが」
「私のは大切なお客様から依頼された仕事ですから。手抜きなど有り得ません。しかし……」
 考え込むようにコールマンは白い手袋に包まれた右手で顎を撫でる。
「あなたはそうではないでしょう? 正直に言って、私の教え方はとても厳しかったはずです。毎年担当しているうちのホテルの新人研修ですら脱落者が出るくらいですから。しかしあなたはそれについてきた。あなたがそこまでするような人格者だとも、イェーガー様に従う義理があるとも思えません。なのに何故?」
「さあな」
 リヴァイはひょいと肩を竦めた。
 確かにリヴァイは、それが嫌だと思えばやめてしまって構わない立場にある。だが雇用契約を承諾した時のエレンの顔を思い出すと、どうしてもこの期待を裏切れなくなってしまうのだ。
 その説明をこの男にするつもりはない。だがもう一つ、後からできた理由だけは話してやってもいいだろうと思い、リヴァイは口を開いた。
「仕事だとしても、あんたは俺に対して真剣に向き合ってくれただろう? こんな俺に。だったらそれに真摯に返すのが人間ってもんだろうが」
 違うか? と問えば、コールマンの双眸が細められた。
「……ははっ」
 薄青の双眸を細めてコールマンは小さく笑う。職務に忠実な支配人の仮面の下から覗いたのは、きっと彼本来の顔だ。
「そうですね。あなたの仰る通りです」
 柔らかい表情でコールマンはそう答える。
「リヴァイ様、きっとイェーガー様はそんなあなただからこそ傍に置いていらっしゃるのでしょう」
 コールマンがリヴァイの名を呼んだのは――しかも「様」付けで――これが初めてだったのだが、双方それを指摘することなく、リヴァイは「そうかよ」と素っ気なく返し、コールマンの方も「ええ」と頷くだけだった。


「リヴァイさん、遅くなりました」
 エレンがホテルに戻って来たのは日付が変わる直前のこと。ニマニマとだらしなく緩んだその表情にリヴァイは「気持ち悪い」と隠すことなく言ってやった。
「コールマンさんから聞きましたよ」
「……あいつまだ働いてんのか」
「支配人ですからね。それはともかく! 今日はリヴァイさん、本当に頑張ってたってコールマンさんも褒めてました。ね? やっぱりオレが言った通りだったでしょう? あの人ならリヴァイさんを色眼鏡無しで見てくれるようになるって」
「ふん。だからってお前がそんなに喜ぶもんでもないだろう」
「嬉しいに決まってますよ。リヴァイさんを理解してくれる人が増えるんですから」
「チッ」
 気恥ずかしくなり、リヴァイはエレンから顔を背けた。この調子では「お前のために頑張ったんだ」などと一生教えられそうにない。教えてなるものか、と心の中で強く誓う。
(しかしまぁ、こいつのこの顔が見られるなら、やった甲斐はあったな)
 にこにこと本当に嬉しそうにしているエレンの顔を眺めるリヴァイの表情もまた、いつもより柔らかさが増している。それを自覚することなく、リヴァイは「いつまでヘラヘラしてんだ阿呆」と軽くエレンの頭を叩いた。
「早くシャワー済ませて来い。どうせ明日も忙しいんだろうが。さっさと寝ろ」
「はい。リヴァイさんも今日はお疲れでしょうから、早めに寝てくださいね」
「ああ」
 答えながら、リヴァイはエレンのネクタイに手を伸ばした。特に何かやましい意図があったわけではなく、さっさとこれを解いてバスルームに突っ込んでやろうという老婆心だ。
 しかしリヴァイの指がネクタイの結び目にかかって力を入れた瞬間、
「……っ、りヴぁ」
「あ? ……おい、なんて顔してやがる」
 正面にはぱっと朱を散らしたエレンの顔。真っ赤に染まった頬はリンゴよりも美味そうだ。
(って、何考えてやがる)
 リヴァイが自分の思考回路に戸惑っているうちに、エレンははっと息を呑んで一歩下がった。
「す、すすすみません。あははーなんか暑いですね! ぱぱっとシャワー済ませてきます!」
 その後は、まさに脱兎。
 空調が完璧になされている部屋で一人残されたリヴァイは、バスルームのドアが激しく閉まる音を聞きながら手で顔を押さえてしゃがみ込む。
「なんだよ……おい」
 頬が熱かった。
「抱きしめたい、なんて。あいつは男だろうが」
 リヴァイは真っ赤になって照れる顔と零れ落ちそうな金色の大きな瞳を思い出し、「クソッ」と毒づく。
 寝室が別々で良かった。今夜はきっと眠れそうにない。







2014.04.23〜2014.05.10 Privatter(フォロワー限定公開)にて初出