この人も大変なんだな。
 エレン・イェーガーが最初に抱いた感想はそれだ。
 巨人化能力などという奇妙奇天烈厄介極まりない、しかし使い方によっては人類の希望になり得る力を身に宿してしまったエレンは、その特殊性ゆえに調査兵団特別作戦班――通称リヴァイ班の一員に加えられた。正しく説明するならば、エレンという特別な人間(かどうか定かではなくなりつつある)を監視するためにその班が結成されたのだが。
 元より調査兵団への配属を希望していたエレンが自身の配属兵科に不満を持つことはない。人類最強と謳われる兵士とその彼が選んだ精鋭達と共に戦えるという状況も喜ばしい。しかし心から自身の配属を喜ぶことはできなかった。原因は班の結成理由とそれに繋がる周囲の人々のエレンを見る目。今まで自分が狩るべきだと思っていた巨人と同じものであると、人々はエレンを見るのだ。そして化け物だと侮蔑する。
 悲しいし、悔しいし、恐ろしい。その感情は確かに存在している。エレンを苛んでいる。
 しかしもう一つ。エレンは「申し訳ない」という感情も持っていた。
 特別で、特殊で、調査兵団の希望になり得る可能性を持った少年、エレン・イェーガー。それを手元に留めて制御するためなら調査兵団は何でもするだろう。いや、する。そう断言できる理由をエレンは知っている。
「エレン……」
 耳元をくすぐるのは大人の色香を含んだ低い声。立って並んだ時には己より十センチも小柄なのに、ベッドに乗り上げたその人はいとも簡単にエレンを押し倒した。
 白いシャツの下に隠された肉体の凄さと彼が着痩せするタイプであることを知ったのは何日前のことだろうか? 肉刺が潰れて固くなった手のひらがエレンの頬を包み込み、目元をゆっくりと撫でていく。潔癖症だというのに、これから目の前の彼はもっとたくさん、もっと汚らしいところに触れるのだ。
「リヴァイ兵長」
 呼びかけに応えるようにエレンも囁く。見つめ合う青灰色の瞳に感情は浮かばない。ただそっと、顔の筋肉だけが淡い笑みを形作るだけ。
 ああ、なんて大変なんだろう。可哀想なんだろう。
 エレンは幾度となくそれを胸中で繰り返す。
 特別で、特殊で、調査兵団の希望になり得る可能性を持った少年、エレン・イェーガー。それを手元に留めて制御するためなら調査兵団は何でもする。それがたとえ『人類最強の兵士』の精神を犠牲にしたものであっても。
 憐れなことに、この男――リヴァイ兵士長様は不安定な巨人化能力しか持たない兵士の心を兵団に縛り付けるため、『恋人ごっこ』などという茶番を演じさせられているのだ。
 エレンは別にエルヴィン団長がリヴァイにこの件を命じている場面や、他の上官達が何かそれらしいことを話している場面に遭遇したわけではない。が、リヴァイの目を見ていれば簡単に分かる。こんなにも至近距離で見つめ合ったリヴァイの目はちっとも笑わず、熱に浮かされることもない。それどころか、普段の生活の中で少しばかり注視していれば、彼がエレンとの恋人ごっこを歓迎しているわけではないことなどすぐ判明する。
 ただ申し訳ないことに、エレンはこの『ごっこ遊び』が別に嫌ではなかった。リヴァイに恋をしているというわけではない。が、ぬくもりは確かに有り難いものだったのだ。
 エレンは周囲の人々から化け物と罵られ、距離を置かれている。それを全く気にしないなどと強がったりはしない。事実は事実だ。そんな中、リヴァイは仮初とは言えぬくもりと言葉を与えてくれる。しかも彼はエレンが昔から憧れていた兵士。だからこの関係を殊更嫌悪することはない。
 また更に理由を挙げるとすれば、兵団がエレンの心を手に入れたと思うことはエレンにとっても有益、というのがある。むしろこちらの方が本命かもしれない。
 兵団内で警戒されている場合、エレンはとても動きづらい。しかしエレンが完全にリヴァイに心酔し、兵団に忠誠を誓っていると思ったならば、その中でのエレンの自由度も増すだろう。そして巨人の駆逐にエレンを多用することにも繋がる。エレンは己の望みを、巨人の駆逐を、より確かにそして早く実現できるようになるのだ。
 だから『恋人ごっこ』に興じる。
 調査兵団が望んだことであり、エレンも望んだこと。唯一それを嫌だと思っているのは、エレンの相手をさせられるリヴァイだけ。
(可哀想な人だ)
 リヴァイの熱を感じながらエレンは思う。巨人を狩るための大切な男の身体に傷などつけぬよう、背中に回した手指一本一本にも細心の注意を払いながら。


 変化が訪れたのは、古城での隔離生活を送る中でリヴァイ班の先輩兵士四人がエレンを信じると言ってくれた後からだった。
 それまでエレンを人間ではなく巨人と認識し、表にはあまり出さないものの強く脅えて警戒していた彼らは、エレンの巨人化実験を経てその態度をがらりと変えた。気さくに接してくるエルド、何だかんだと口うるさくしつつもエレンのことをよく考えているオルオ、そんな彼をやや過激にたしなめつつエレンには姉のように接するペトラ、皆を温かく見守るグンタ。
 四人から化け物ではなく人間として見てもらえるようになり、それまでリヴァイだけに求めていた安寧を彼らからも受け取れるようになった。必然的にエレンがリヴァイと過ごす時間も密度も減っていく。
 上官らの望みはエレンが調査兵団にとって使い勝手の良い駒であること。ならばエレンの心を縛る存在が一つでも複数でも大きな差はないだろう。ましてやエルド達はリヴァイに心酔している。つまりエレンからリヴァイへの直接的な依存は軽くなっても、間接的な依存が増えて結果は変わらないというわけだ。加えて、エレンが四人と親交を深めるほどリヴァイにかかる負担がぐっと軽減されるので、かの上官本人にとっては「変化なし」どころかメリットがある。
 自身を取り巻く状況の変化を理解してエレンはほっとすることができた。エレンとて望んでリヴァイを苦しめたいわけではないのだから。
 しかしそんな心境とは裏腹に、エレンが四人と交流すればするほどリヴァイの不機嫌さは増していった。
 リヴァイが班員達の前で八つ当たりをすることはない。彼が苛立ちを露わにするのはエレンと二人きりになった時だ。
 最も顕著なのが褥での行為である。それまでひたすら甘やかすものだったのが、ややエレンに無理を強いるものになった。痛みを与えられるのではない。口に出すのを躊躇うような恥ずかしい台詞を言わされたり、自分から動くよう命じられたりするようになったのだ。それらに共通するのはエレンがリヴァイの支配下(制御下)にある≠ニいう証明をすること。
 リヴァイは何故そんなことをするようになったのだろうか。エレンの中で彼への依存度が軽くなればなるほど、それを否定するかのようにリヴァイはエレンをかき乱す。
 肉体にも精神にも負担がかかる『恋人ごっこ』という名の子守りを誰よりも厭っているのはリヴァイ本人であるはずなのに。
 エルド達四人を信用していないのか、それとも彼らが大切だからこそクソガキの負担を皆に背負わせまいとしているのか。
 一人きりの地下牢で、エレンはベッドに腰掛けたまま考える。リヴァイはまだ来ていない。だが昼間にペトラと和気藹々と話しているところを見られたので、おそらく今夜も色々と無理を言われるのだろう。最初の頃と異なり、青灰色の瞳にエレンにはまだ理解できない何らかの熱を宿しながら。
 あの目で見つめられると胸の奥がざわつく。その感覚を思い出したエレンは心臓の上に手のひらを当て、はてと小首を傾げた。
「なんだろうな、これ」
 リヴァイに起きた変化も、それに伴い自分が感じるざわつきも。


 正解を得たのは四人がいなくなってしまった後だった。
 壁外調査で部下を失い、女型の巨人の捕獲には失敗し、エレンの子守りという負担をまた一人だけで負う羽目になったリヴァイ。四人を失った悲しみや後悔はエレンの中にも確固として存在しているが、それとはまた別に生き残った上官に哀切を感じてしまう。
(ああ、それに兵長はオレを助けるため怪我までしてしまった)
 ならば三重苦ではなく四重苦だ。
 可哀想なリヴァイ兵士長。だがここには慰める言葉もぬくもりもない。いるのはリヴァイ本人とエレンだけ。
 リヴァイは慰めを必要としているだろうか? 言い方は悪いが、この上官は部下の死を見慣れているはず。しかし死に慣れ過ぎて何も感じなくなってしまった男ではあるまい。人並みかそれ以上に情が厚い人間であることは、一ヶ月の共同生活の中で何となく感じ取れた。
 たとえば、エレンとの『恋人ごっこ』は厭っているが、エレン・イェーガーという部下を嫌っているわけではない……とか。でなければそういう行為でエレンに触れることはできないだろう。
 情が厚い人間であるはずの兵士長は椅子に座って静かに茶を飲んでいる。その横顔から彼の考えを正確に読み取ることは難しい。が、エレンの予想が正しいならば、今の彼は随分落ち込んでいる。
(人肌くらいは求めてるかもな)
 不要ならば、それはそれで構わない。
 エレンが調査兵団に所属できる最大でおそらく唯一の理由となっているリヴァイ。彼に与えられるものがあるなら与えようと思い立ち、エレンは椅子から腰を上げて相手に近付いた。
「兵長」
 呼びかければ、リヴァイの顔がこちらを見上げる。償い代わりに今夜くらいは手酷く抱かれてやってもいい。実際のところ、自覚はないがそう思う程度にはエレンも先輩らを亡くして参っていた。だが青灰色の瞳に宿った熱を目の当たりにし、エレンは直前まで抱いていた全ての感情を放り出してぎょっとする。
(嗚呼)
 それは今まで見てきたどの瞳よりひときわ強い感情が籠もった瞳だった。だからエレンも無意識に有り得ないと切り捨てていた可能性を認めざるを得ない。胸の奥がざわめく。
(情に厚いのも困りもんだな)
 そこに至る過程として、最初からそう≠ナありただ単に自覚していなかっただけなのか、エレンと接する中で絆されてしまったのか、それとも『恋人ごっこ』が辛くて自分で自分を騙してしまったのかは知らないけれど。
 結果として、
(この人はオレに恋をしてしまった)
 小さな呼び声一つで揺らぐほどに。
 瞼を下ろして寄りかかって来たリヴァイの頭を抱きかかえながらエレンはぼんやりと天井を見上げる。
 可哀想に。可哀想に。本当に、なんて、可哀想な人なのだろう。
 胸中で何度も繰り返しつつ、さらさらと黒髪を指で梳く。大の大人は甘えるようにたった十五歳の少年の胸に顔を押し付け、静かに肩を震わせた。
 縋る相手を得てしまった彼はこんなにも脆いのか。
 この男の本質は巷で騒がれている完全無欠の英雄でも、傍にいる部下達が笑いながら語ったゴロツキでもない。酷く弱くて、酷く臆病。まるで小さな子供のようなそれこそが、この『人類最強』の本質。
 エレンが四人の班員と仲良くすればするほどリヴァイが苛立ちを大きくしていたのは、『恋人ごっこ』を厭う一方でエレンを他人に取られたくないという幼子の如き我侭が働いたから。しかもその頃はまだリヴァイは己の感情に無自覚だった。
 しかし今、こうしてエレンに身体を預けているということは、自覚もしてしまったに違いない。
 可哀想に。
 可哀想に。
 憐れな男だ。
 エレンと一応まだ相互利用の関係だったはずの彼は、この瞬間からエレンに利用されるだけの側となった。リヴァイはエレンに物事を強制できないが、エレンは自分の目的のためにリヴァイを利用することができる。
 男の上半身を更に強く抱き寄せてぬくもりを与えながら、エレンはそっと目を閉じた。

* * *

 調査兵団にとってエレンがリヴァイに籠絡された≠アとは良くても、リヴァイがエレンに籠絡された≠ニ外部に認識されれば、リヴァイが監視者として不適切だと判断されるので都合が悪い。したがって彼は『恋人ごっこ』を始めても他者にエレンとの仲を悟らせるような下手は打たなかった。
 恋心を芽生えさせた後もそれが変わることはない。そしてまた兵団から見たエレンは相変わらず兵士長の言うことをよく聞く部下であったから、リヴァイがエレンに本気で恋をしていたとしても、エレン本人からすればこれまでと全く変わらなかった。
(……あ、でも一応変化はあったのか)
 唯一の変化を思い出し、エレンは胸中で呟く。
 その身はソファに腰掛けており、膝の上に人間の頭部が乗っている。エレンの腹に顔を押し付けて腰に腕を回しているのはリヴァイ兵士長その人だ。
 場所は新たに編成されたリヴァイ班が移り住んだ拠点の一室。リヴァイに割り当てられた部屋であるため他のメンバーの目は無く、この部屋の主は存分に恋人との時間を満喫していた。
 戦況が目まぐるしく変化し、自分達の敵が巨人だけではなくなっても二人の関係は続いている。現在はさておき自覚した当初は慣れない様子でエレンに甘えていたところから察するに、彼がこのような姿を他人に晒すのは初めてのこと。イコール、おそらくだがこれがリヴァイの初恋だ。
 初めて恋をしたリヴァイは相手にどこまで自分を晒して良いのか分かっていないらしい。だからなのか、この弱くて脆い男はエレンが甘やかせば甘やかすほどそれに反応し、溺れていく。エレンも生憎恋やら愛やらの経験値は乏しい方なので何が正しいのかは知らないが、これはちょっと異常だと思う。
 しかし、不都合かと問われれば、そうでもなく。
 巨人の駆逐に害をなすわけではないため、エレンは現状を許容していた。むしろ一度甘やかし癖を付けてしまった手前、逆に突然それを止めてしまうとリヴァイが不安定になる可能性もある。
 今のエレンは自身を巨人駆逐のための必要な駒の一つであると認識している。だがリヴァイも同じく――もしくはそれ以上に――人類が自由を掴むためには必要な人材なのだ。ゆえに『人類最強』の機能を低下させることなどあってはならない。ましてやエレンが原因になることなど。
 ――そう、思っていたのに。


「……ッ」
「兵長!」
 見開かれた金色の双眸に映るのはエレンを庇って傷を負ったリヴァイの姿。
 小型のナイフを持つ黒ずくめのその男はきっと王政府に関する裏の仕事を任されている人間の一人なのだろう。腕は立つがリヴァイ一人ならきっと勝てたはず。しかし今、リヴァイはエレンを庇ってナイフで肌を切り裂かれた。ぱっと空中に散った血液がスローモーションで見える。
 重要な器官に傷を負ったわけではなく、また出血量も大したことはない。リヴァイのそれは軽傷だ。元々黒ずくめの男がエレンを殺すつもりではなかったことが幸いした。
 しかしエレンを庇ってリヴァイが不要な傷を負った≠ニいう事実がエレンにとてつもなく大きな衝撃を与える。
 今の一撃はリヴァイが庇う必要などなかったものだ。高い治癒能力が備わっているエレンは多少の傷など問題にならず、また相手に殺す気がないのなら尚のこと。リヴァイもそれには気付いていたはずだ。ならば彼の取る行動は、エレンが負傷するのを見逃して、代わりに敵を殲滅すること。
「なんで……」
 唖然と呟き、エレンは傍らの上官を見据える。その顔に浮かぶのは失望と後悔。何故と問いながらエレンはすでにリヴァイの愚行の理由に気付いていた。
 リヴァイはエレンを『駒』とも『部下』とも見られなくなっているのだ。『恋人』だから、『愛しい相手』だから、エレンを庇うために彼の身体は動いてしまった。
(それは駄目だろ)
 やけに真面目な声が頭の中に響く。
 今は軽傷だったが、これがもしリヴァイの兵士生命を絶つような大怪我に繋がるものだとしたら……。考えるだけでぞっとする。
 エレンはぶるりと身を震わせた。そんな様子には気付かず、リヴァイは敵へと向かっていく。エレンと敵の間に距離ができたことでリヴァイは本来の力で戦えるようになり、たったこれだけの変化で彼が優勢に転じたのは一目瞭然。
 やがて敵は分が悪いと判断したのか、リヴァイの猛攻を掻い潜って逃走した。「大丈夫か?」とエレンを振り返るリヴァイの表情には安堵が覗いている。自身が不要な傷を負うことよりエレンの負傷を気にかけた『恋人』の顔だった。
 これまでエレンはリヴァイとの『恋人ごっこ』に短所を見出したことはない。しかし今はっきりとその最低最悪の短所を知ってしまった。
 リヴァイはエレンを大切に思うあまり、己を蔑にする。判断能力は鈍って、自分自身の価値を見誤る。
 それを看過して良いのか。答えは当然「否」だ。
「エレン」
 名を呼びながらリヴァイは手を差し出す。今までのエレンならその手を取って、抱き寄せる相手の腕の力に逆らうことはなかった。しかし、
「いえ、お気遣いなく」
 首を横に振り、リヴァイの手も取らない。
 エレンは唖然とする上官の視線を受けながら服についた汚れを払ってさっさと歩きだす。
「おいっ、エレ……」
「早く行きましょう。皆が待っています」
 指を絡めることも唇を合わせることもなく、エレンは恋人としてではなく部下として振る舞った。リヴァイが動揺しているのは顔を見ずとも気配だけで察することができる。
 正しい判断を下せなくなるような本気は駄目だ。
 リヴァイの恋人役を止めるならばエレンの立場は危うくなるかもしれないが、この緊急事態の最中でそれが大きな問題になることはないだろう。だから多少のショックは与えてしまうだろうがさっさとその役を降り、リヴァイを正気に戻したい。人類に心臓を捧げた『兵士』に戻って欲しい。
 そう思いながらさくさくと歩を進めるエレンの背中に声がかけられた。
「……俺は何か間違いを犯したのか?」
「…………」
 なんて幼く、心細そうな声を出すのだろうと思う。
 足を止めて振り返れば、リヴァイは一瞬だけ嬉しそうにエレンを見た。だがこちらの表情に甘いものがないことを悟ると、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。未だ頬は乾いたままだが、ここでイエスと答えたならば泣いてしまうかもしれない。
(この人の泣き顔か……見たくはねぇな)
 誰でも尊敬している人間の泣き顔など見たくないだろう。エレンもそうだ。
 しかし同時に、一度盛大に泣かせてやるくらいはっきりとこちらの考えを告げて己の過ちを自覚させ、もっと『人類最強』という存在を大切にしてくれるならば安い買い物だとも思う。
「エレン、」
「リヴァイ兵長」
 相手の台詞を遮るようにエレンは口を開いた。
「あなたはオレの恋人である前に、人類に心臓を捧げた兵士です。ご自身の価値をお分かりですか? 先程のあれはそれに反していました。すぐに傷が治るオレと治らないあなた……どうすべきか簡単に答えは出ますよね?」
 告げながらエレンはリヴァイに近寄る。
 ちょうど言い切った時、エレンはリヴァイの正面に立っていた。
「っ、だが」
「『だが』も『しかし』もねぇんだよ」
 己より十センチも低い、しかし重さのある上官の胸倉を掴み上げる。正常≠ネリヴァイなら「なんのつもりだ」とすぐにエレンを地面へ放り投げていただろう。だが今の彼はそれができない。エレンにされるがまま、驚愕の表情で金色の双眸を見返している。
「戦えない『兵士長』はいらない」
「ッ!」
「常に正しい判断を下してください。団長やアルミンのようにとは言いませんが、あなたも何を選んで何を捨てるべきか考えてください。正しい選択が分からなくても、せめて絶対に違う選択肢だけは選ばないでください。先程のような愚行を見るのは二度とごめんです」
 エレンを庇ったことをはっきり愚行と言われ、リヴァイの表情が更に歪む。それでも言い返して来ないのはエレンの方が正しいと理解しているからだ。
「戦ってください、リヴァイ兵長。人類の自由を掴むために」
 そう言ってエレンはリヴァイから距離を取る。「上官に対し不適切な態度を取ったことはここでお詫びします」と腰を直角に折って頭を下げ、部下として℃モ罪することも忘れずに。
 ずっと頭を下げていると、リヴァイがゆっくりと動き出した。仲間達と合流するつもりなのだろう。エレンの脇を通り、黙してただひたすら足を動かす。
 エレンは頭を上げてその背中を見つめた。
 結果的に、リヴァイが何も言い返さずこちらの主張ばかり貫くことができたので、この会話だけならばエレンがリヴァイの恋人でなくなったことにはならないだろう。それならそれで構わないか、と思いながらエレンもまた歩き出した。要はリヴァイがきちんと『公に心臓を捧げた兵士』であり『人類最強』であればいいのだ。


 この一件以降、リヴァイがエレンの負傷に過剰反応することは――少なくとも表向きには――なくなった。相変わらずエレンが他人と仲良くしているとその分二人きりの時に不機嫌な様子を見せ、またその度合いがますます強いものになっていたが、リヴァイは『兵士長』の役目を正しく全うしている。むしろ『恋人』に見捨てられないため、兵士長として正しくあろうとこれまで以上に意識しているほどだ。
 戦況は終盤を迎えていた。人類側の問題に何とか区切りをつけ、更にはマリアの壁に空いた穴も塞ぎ、エレン達はシガンシナ区にあるイェーガー家の地下室へと迫る。
 これで巨人の謎が解けるのだ。
 王政府が隠した『真実』も驚くべきことばかりであったが、まだ謎は全て解明されていない。地下室を暴いてようやく人類は自由へと歩みを進めることになるのだ。
 周囲の巨人も掃討し終え、調査兵団の主要メンバー達は地下室に隠された秘密にばかり意識を向けている。
 それを油断と他人は言うのだろう。
 まさに、そう。
 そして油断は命取りであることを、エレンは身をもって知る。
 まず最初に、視界の端に見知らぬ人影を捉えた。瓦礫の陰に隠れていたその人物は肩に筒のような物を担いでおり、銃口と言うには大きすぎる穴がこちらを向いている。
 それを危険なものだと理解したのは、同時に人影の存在を見つけていたリヴァイがエレンを突き飛ばそうとしたからだった。
 彼はまた『恋人』を守るため身を挺そうとしている。
 瞬時に察したエレンは、逆にリヴァイを押しやって、巨大すぎる銃口が向けられた射線の前に自ら踊り出る。

 どん、と最初に襲ったのは衝撃だった。

 音は遅れてついて来る。
 沈黙、周囲の悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、
「…………っっっっ!!!!!!!!!!!!!!」
 そして音にならない己の絶叫、激痛。
 叫びながら、エレンは自分を撃った人間を視界の端に捉える。その人物が肩に担いだ筒のような物の口からは大砲を撃った時と同じ煙が上がっていた。
 エレンの知らないその武器はかつてウォール・ローゼに住むとある技術者が作り上げた小型の大砲であったのだが、技術者本人は壁内の治安を秘密裏に守る者達によって技術を世に送り出すことなく死亡している。が、作られた物と技術は人類を統括する王政府に伝わっていた。
 改良を重ねられたそれは人間が生身で化け物を殺すための兵器となり、その化け物であるエレンに使われたというわけだ。
 エレンの左半身はほぼ吹っ飛んでいた。心臓すら跡形もない。巨人化能力の副産物である驚異的な治癒力が働いて傷口から湯気が上がっているが、それも間に合いそうになかった。
 しかしややもすると、頭が壊れそうなほどの痛みがあったはずなのだが、次第にそれは感じられなくなっていく。脳内麻薬が過剰に分泌されているのか、それとも死が近すぎて痛みを感じなくなっているだけなのか。
 兎にも角にも死が明確に近付いていることを理解しつつ、右手に触れたぬくもりを感じてエレンはそちらに意識を向ける。
 傍らに座り込んだリヴァイがいた。『人類最強』と呼ばれた男は泣きそうな顔をしながらも、まだ涙は流していない。意地でも泣かないつもりだろうか。結局、エレンが彼の泣き顔を見ることはなさそうだ。ボロボロと目の前で泣かれるより、その方がずっと良いと思う。
 だがやはり、年齢にも肩書きにも似合わない表情をしている男を見ていると、なんだか笑いが込み上げてきた。それを止めることなくエレンは顔に出す。
 綺麗に笑ってやろう。
 目の前の『恋人』だった人におもいっきり綺麗な笑顔を見せてやろう。
 周囲の目を気にする余裕もなく迷子の子供のような顔をしているのが『人類最強』なのだ。きっとこんなリヴァイの本質を知っているのはエレンしかいない。
 初恋だった恋人の死の足音を聞きながら絶望的な顔を晒すリヴァイ兵士長。
 常に生か死かを迫られる厳しい世界で走り続けてきたが、そんな中でもこの人と人恋しい時にぬくもりを分けられたのは、中々楽しくて、中々切ない経験だったとエレンは思った。
 そんなことを思っているうちにも命の期限は刻々と迫っている。
 視界の中央に据えたリヴァイの姿が黒く霞み始めていた。瞼が重く、開けていられない。狭くなる視界、けれど目の前の男の声だけは酷くはっきりと聞こえた。
「エレン……待っていろ」
(待つ……? あの世でですか?)
 もう声帯すら震えない。
「もしも、次の生って奴があれば……絶対にまた……」
(耳も聞こえないかも)
 彼の声が遠くなる。
 ただ手を握るぬくもりだけはわかって。
 この世で最後のぬくもりを感じながらエレンは笑って逝った。
 けれど、執着心のすぎる恋人に最後の一言が言えなかったのは心残りだったかもしれない。
 エレンの声なき唇は恋人に最後の言葉を囁いていた。
 曰く、
「いいえ、もうあなたの恋人なんて役回り、二度とごめんです」と。
 何を選んで何を捨てるべきか。
 人類にとって重要な位置にある人物の判断を狂わせる役目など二度としたくない。
 だがもっと簡単に言ってしまえば、

(目の前でこの人がオレを庇って傷付くなんて、もう絶対に見たくないんだ)

 ただ、それだけのことなのだが。






リヴァイさんはエレンさんに恋をすると死んでしまうかもしれない。だからエレンさんはリヴァイさんの恋人役がイヤなのです。







2014.04.11 pixivにて初出

暮崎さん作「エレンさんは何事もなく幼馴染3人でキャッキャウフフしていたい」の三次創作です。あのお話の過去(前世)でリヴァエレに何があったのか…!を本人にまったくご相談することなく妄想しました(三次創作自体のご許可は頂いております)。正直すまんかった。絶対違うなって思いながら書きました。なので暮崎さんの「解答」をいつまでもお待ちしております!(バッ
※文中(ラスト)、わざと元のお話に出てきた言い回しを使わせて頂いております。