「エレンっ!!!!!!」
 ミカサが放ったナイフはリヴァイを突き飛ばすために伸ばされていたエレンの左腕を斬り飛ばしていた。床の上には指輪をはめたままの左腕がごろりと転がり、肘から先を失ったエレンは断面からぼたぼたと血を流しながら両膝をつく。
「あああああっはやくっ! 早く血を止めなきゃ……!」
 気が動転しているミカサはエレンの傍に座り込むだけで何もできない。そんな彼女を「どけ!」と思いきり押しのけてリヴァイはエレンの左腕に目隠しとして使われていた布をきつく巻きつける。傷口を心臓より高く上げさせてから背後に視線を向け、先程リヴァイの足を掴んだ馬面の少年に「おい」と声をかける。金髪の方はまだ気絶していたが、馬面の方は自分のした行為の結果を目の当たりにして目を大きく見開いていた。
「この女は使えそうにねぇ。てめぇ、もう動けるだろう? だったら今すぐ医療機関に連絡するなり何なりしてこい」
「っ!」
 弾かれたように馬面の少年が身を起こす。リヴァイに投げ飛ばされた衝撃で未だ身体は痛むだろうが、それを堪えて部屋を出て行った。
 そうしてようやくリヴァイは金色の双眸を見る。
「おい、クソガキ。てめぇ何のつもりだ」
 ミカサを味方、リヴァイを敵と完全に認識しているはずのエレンの暴挙に助けられたリヴァイ本人も戸惑いを隠せない。一方、問われた方のエレンは痛みと失血で額に大量の脂汗を浮かべ、こちらの言葉が届いているのかどうかすら定かではなかった。
 焦点を上手く定められずに揺れる金眼。リヴァイに押しのけられてもまた近くに駆け寄ってきたミカサが「エレン」とその名を呼ぶ。
「み、かさ……?」
 少女の声を認識したエレンが掠れた声で応える。やはり依存対象となった相手は特別なのか、と自分の声には反応しなかったエレンを見つめてリヴァイは無意識に顔をしかめる。だが――。
「みかさ、たのむから」
「なに、エレン」
「お願いだから」
 ミカサの存在を認識していても彼女の言葉を理解するには至っていないかのように、エレンはただ言葉を紡ぐ。
 その身体が傾いでリヴァイの胸にもたれかかった。
「エレ、」

「この人を、オレから奪わないでくれ」

 飛び散った血で汚れた頬をリヴァイの服に擦り付ける仕草は甘えているようにも、縋っているようにも見えた。
 エレンが放った言葉にミカサもリヴァイも瞠目する。
「何を……言って……」
 ミカサが唖然とした顔で呟いた。その心情はリヴァイにも理解できる。リヴァイに「ミカサを殺すな」と訴えるなら別に異常でも何でもなかっただろう。エレンはミカサに依存するようその心を書き換えられてしまっているのだから。しかし事実はそれと真逆で、エレンはミカサに「リヴァイを殺すな」と訴えたのだ。もうエレンにとってリヴァイは単なる憎しみの対象でしかないと言うのに。
 洗脳が解けたのか。しかしそれならば書き換えられる前にあったリヴァイへの依存も失っているべきではないのか。それもまた正常だったエレンの精神に組み込まれた異物だったのだから。
 それが違うと言うのなら……これが、エレンの本当の意志だと言うのなら。
 金色の双眸からは透明な液体が溢れ出し、頬に流れて血と共に床へ落ちていく。「だって」と、くしゃくしゃに歪めた顔でエレンは言った。
 この人は自国の敵で、父の仇で、殺したくてたまらない相手だけど。
「オレの兄さん、なんだ……!」
 涙に濡れた金色に憎しみ以外の感情が灯る。
 認めたくなどないのだろう。しかし認めざるを得ないのだろう。リヴァイはエレンの片翼なのだと。
 どくん、とリヴァイの胸がいつになく強い鼓動を刻んだ。途端に溢れ出したのは多すぎて身が竦むほどの高揚と多幸感。どうして今までそれに気付かずにいられたのかと疑問に思うほど、リヴァイは己の胸の中で溢れ返る感情に息を詰める。そして理解した。自分がエレンを殺せなかった理由に。
 エレンと同じなのだ。この少年はリヴァイを殺せない。何故ならリヴァイを唯一失えないものとして認識しているから。
 だからリヴァイもそう≠ネのだ。エレンを失えないものであると知っているから殺せなかった。
 いつの間にそこまで深く強く想うようになっていたのか。エレンを初めて見た時からか、それとも共に過ごしてきた時間の中でゆっくり育ててしまったのか。分からない。だが、事実は事実だ。
「エレン……」
 リヴァイは己の腕の中にいるエレンの目尻をそっと拭い、その名を呼ぶ。ゆっくりと金色の瞳がリヴァイの姿を捉えた。
「り、ヴぁ」
「エレン、俺が憎いか」
「……」
 こくりとエレンの頭が縦に動く。それに苦く笑ってリヴァイは続ける。
「俺を殺したいか」
 肯定。
「俺を恨んでいるか」
 肯定。
「俺を……」
 口を噤み、一呼吸おいてリヴァイは尋ねた。

「それでも俺を、愛しているか」

 血と涙にまみれた顔がくしゃりと歪む。
 エレンの表情はとても不本意そうだ。しかし震える唇からははっきりと「Ja.」の言葉が零れ落ちた。

* * *

「リヴァイは元気にしているだろうか」
「してるだろうね。兄弟仲良く、海が見える小さな家で」
 ここはとある国のとある軍本部のとある大佐の執務室。
 部屋の主である金髪碧眼の男性は部下であり同時に友人でもある眼鏡の女性とローテーブルを挟んで対面するソファにそれぞれ腰掛け、優雅に紅茶の香りを楽しんでいる。
 人払いは完璧にされており、彼らの会話を耳にする者はいない。後々この会話は男の部下であるミケという名の人物と、女の部下であるモブリットという人物の耳には本人達から知らされることになるかもしれないが、内容はその二人でストップだ。四人以外の誰かに伝わることは決してない。
 ――この国を裏切って出奔した軍人の『今』に関する話など。
「君のことだから、ひょっとしたら自分が持っている情報をあらかた上に開示して脱走者を連れ戻すんじゃないかと思っていたんだが」
「やだなぁ、それをやるならむしろあなたの方じゃない」
 女はおどけたように肩を竦めた。
「私はこれでも軍規より友情を大切にするタイプなんだ」
「おや? 俺≠燉F情は大切にするタイプだよ?」
「そうなんだ?」
「そうなんだ」
 言葉遊びのように言い合って二人はくすくすと笑う。
 つい先日、二人の話題に上っている人物が一人の部下と共に軍を脱走した。ただの兵士なら誰も騒がなかっただろうが、逃げたのは『人類最強』と名高い特別な兵士とその副官であったため、事態の収拾に少々手間がかかったことは否定できない。その手間をほぼ全て引き受けたこの部屋の二人は、しかし煩わされたことに対する怒りも何も持ってなどいなかった。
 優雅に紅茶を飲む二人の男女の胸中にあるのは友だった男とその部下が穏やかに暮らせるよう願う気持ちと、余程のことが無い限りもう会うことは無いだろうという僅かばかりの寂しさだけだ。それでも前者の方が圧倒的に大きいため、悲しいと愚痴るつもりはない。
 本来なら軍人として、幾許かの情報を持つ者として、二人は上層部に逃げた兵士の詳細を伝えるべきなのだろう。しかしそれをして何になる?と二人は考える。
 もし自分達が持つ情報を使って二人を連れ戻したとしても、きっと逃げ出した彼らは戦ってなどくれない。副官だった少年兵はこの国と敵対する国の出身であり、そこには大切な人間が住んでいる。一度はその人々に刃を振るうことを無理やり受け入れさせられたが、今はもうそれもできない。そして少年兵を副官にしていた兵士の方は、その少年兵の身も心も守りたいと考えるようになっていた。だから彼ももう敵国の兵に対して腰に下げた二本のサーベルを抜くことはできない。
「戦えない人間を引き戻しても悲劇しか生まないよ。私はそんなこと望んでない。もう十分働いてくれたし、少し早めに退役したっていいじゃない」
「ああ。物わかりの悪い上はそれを認めないが、だからこそ俺達くらいは手助けしてやらないとな」
 白磁のカップに口をつけ、男は美しい色をした紅茶を一口含む。紅茶好きだった件の友が残していった物の一つだが、かなり高級な一品らしい。
「なあ、ハンジ」
「なんだい、エルヴィン」
 紅茶をこくりと飲み込んで、男――エルヴィン・スミス大佐はハンジ・ゾエ中佐にこう提案した。
「我々も退役したら二人に会いに行こうか」
「そうだね。それがいい。その時は……イェーガー少尉の、いや、エレンの友達も誘ってみよう」
 未だこの国は戦時下で、敵はその『エレンの友人』がいる国だ。
 しかし夢物語だろうと何だろうと、二人は静かにそう決めた。

 ここはとある国のとある軍本部のとある大佐の執務室。
 そしてこれは、やがてこの男女二人が中心となり敵国と永久の停戦協定を結ぶことになる、まだ少し前の話。




good end







2014.04.05 pixivにて初出